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・Sr.阿部のバンコク通信 ㊶頭と心と身体が丸ごと一体になったタイ人の信仰
灰の式を受け四旬節が始まりました。平日にもかかわらず、今年も多 勢の信徒と共にミサに与り、回心の機会をいただいたこと、うれしく思いました。
この日は早朝に修道院を出、最寄りの教会でミサに与り、各自の使徒職の場へ。
「大斉日に限って空腹を感じるわね」「今朝のミサ信徒が多かった わよ」。夕の食卓での話題は、その日の出来事。確かに教会の折々の典 礼行事、大祝日、各教会の保護の聖人の記念日と、その準備の共同の 赦しの秘跡… 聖堂はいっぱい、いつも羨ましさを感じます。
種々の祭り事を面倒がらないで準備し、お祝いするタイ人の習わし 。暑くて枯れやすい切花を惜しげもなく祭壇に飾り、祝祭日には、信徒が 馳せ参じ、相応しい雰囲気作りを楽しげに準備するのです。
年に1度の保護の聖人の祝日には、近隣の教会にポスターを貼り、ご招 待。聖堂は満員。テントを貼った屋外にも座席が用意され、赦しの 秘跡を受けられるように、何人もの司祭があちこちに待機し、大きなスク リーンでミサに与かり、その後、全員に昼食を振る舞うのです。
果物、アイスクリーム、デザートの屋台まで、 大歓迎の教会祭です。親しくなったミャンマーの青年、倹約生活 をしていたので、教会のお祝いに誘い、ミサ後、一緒に充分なご馳走を 頂いた思い出もあります。信仰厚い青年でした。
毎月13日夕、ファチマの聖母教会で、ミサとローソク行列があり、 時々友人と参加。式後に振舞われる雑炊はすこぶる美味。枝の主日の前日には、手造りの棕梠の葉を用意します、細長い棕櫚の葉で芸術作品を作り、お喋りしながら信徒間の交わり…。
こちらの教会の生活、習わしに親しみ、理屈っぽい自分の信仰が、柔ら かく単純になったな、とほくそ笑んでいます。
頭と心と身体が丸ご と一体になった感性が息づく信仰、そこに教会共同体づくりの秘密 があるように思います。
(四旬節に入りしゅろの枝が生けられたバンコクのセントルイス病院の小聖堂)
(阿部羊子=あべ・ようこ=バンコク在住、聖パウロ女子修道会会員)
・Sr.阿部のバンコク通信 ㊵”洗礼者ヨハネ”はラーメン屋さん
タイに住んでいて実感する事のひとつに、人々の中に息づいている「 超自然界への感性」があります。物質文明の陰で薄らぎがちな見えな い世界を意識する「感知力」です。
30万余の修行に励む仏僧、早朝裸足で巷を歩き、人々が跪座して 捧げる奉納物を受けながら祈る僧侶、経済成長の波に浸蝕されない で営まれている。悪霊に非常な恐れを抱き、 お布施や善行に寛大で…偽善なしでさり気なく、 貧しい人も、裕福な人も、それ相応に励むのです。
カトリック界も同様、赦しや聖体の秘跡に親しみ、祝福や聖水を大 事にし、死者生者のためのミサ依頼、喜捨に励み、聖像に触れて祈 り、見えない恵の世界に開かれた素朴な信仰心を感じます。
ラーメン店を営むメタさん、見事なタイミングで臨終の人々を訪問 し、見ず知らずの人にも、宗派にかかわらず、イエス様の思 いで寄り添い、天国への花道に導いているのです。 よく書院に立ち寄り、『これから臨終者の見舞いに行きます、 シスター、お祈りお願いします』と頼まれます。
ある日、彼は、遠方の末期ガンの臨終者を訪ね、司祭を呼んだ。彼女はマリアの名で 洗礼を受け、聖体と病者の塗油の秘跡を受けて、2日後に亡くなった、と話してくれました。
死に臨む人に赦しと安らぎ、信仰と希望を灯して、天国に旅立つのを見送る メタさん。すでに200余の人を洗礼の恵みに導いたと言います。彼の霊名は洗礼者ヨハネ、まさに現代社会の高層ビルの谷間、チャオ プラヤー川の辺りで、見えない神の国、恵みの架け橋として生きる 洗礼者です。
「見えない神の次元を現実に生きる、凄いお呼びがかかった人生」-タイの人々の中で改めて使命を噛みしめています。
(阿部羊子=あべ・ようこ=バンコク在住、聖パウロ女子修道会会員)
(写真は「メタさんの連絡を受けた司祭が、臨終の床にある女性に洗礼を授けた」)
・Sr.阿部のバンコク通信 ㊴ケータイにはない、郵便、ポストの心のぬくもり大切に
郵便ポスト、私の親しい街のマスコットです。(上は新型、下は旧型)
読者の皆さま、新年おめでとうございます。
ケータイを駆使して益々大幅な年末年始の挨拶、閃光さながらの関わり に驚くこの頃ですが…、手紙をしたためて投函する時の気持ち 、ポストに届く手紙、駆け巡る思いや開封時のぬくもりはやはり格 別です。人を殊更に感じるのです。
私は郵便を重宝大いに利用しています。タイに来て26年、郵便事 情を観察して来ました。確実さは抜群、日本も顔負けする程です。 一例ですが、友人が制服布地やシングルマザー縫製所からの仕入れ が届かないと。
調べた結果、日本側のミス。 タイ側と確信していた本人が驚き、『ごめんなさい、失礼しました』 と。裁判を起こし、損害全額
と再送の弁償してもらったとの事。 私は事態に立合い、書類を日本に送り事情を知りました。 その他にも、『着かない、届かない』事は知る限り無し。 どこの田舎、僻地から投函しても確実に配達される、感動です。
ケータイと睨めっこしている人を『首曲がり族』と呼ぶの、と台湾の親 しい友が。『ぼく、今度生まれたら、ケータイになりたい、ママといつも 一緒にいられて必ず探してくれるから』。人を放っておいて携帯に 没頭する姿、悲しいですね。
珍しい新しいものが大好きなタイ人、ケータイへのはまりぶりはまさに驚 異。この大人の玩具必需品、時に恨めしく感じ、自戒する昨今。遊 ばれずに駆使する閃きを聖霊WiFi に念じています。
そして、人の温もりを直に伝える関わり、至近距離での面と向かっ ての出会い、葉書の一枚も、臆せず怠らず励む年にしたいです。新しい年、主への信望愛の翼で、令和の空高く翔く年でありますよ う念願しております。
(阿部羊子=あべ・ようこ=バンコク在住、聖パウロ女子修道会会員)
・Sr.阿部のバンコク通信 ㊳バンコクの教皇-亜熱帯ならではの熱いミサに身も心も焼けた!
タイ国の首都バンコクの上空に、11月19日夕~23日朝に掛け て、大輪の花火が見事に打ち上げられ続け、人々の心を魅了しまし た。フランシスコ教皇様がカトリック教会設立350周年を祝うタ イ国を訪問、ドンムアン空軍飛行場に到着、歓迎と出会いの大祭典 によるものでした。
ベトナムから4000人、中国から1000の信徒、司祭の参 加者他、近郊のアジア諸国から多勢の参加者。海外の司教53人と タイ国の枢機卿、司教15 人、屋外国際競技場、隣の競技場は4面大型スクリーンでの参加者 で満場… 午後6時からのミサ、夜空に賛美と感謝が響き荘厳圧巻。亜熱帯な らではの熱い厚い感謝の祭儀、身も心も熱く焼けました。
国王陛下、首相政府関係者、仏教界僧侶、宗教界代表者とそれぞれ親身 な出会い、YouTube で見聞きし、中でも教皇様の言動を把握賛同した首相の挨拶賛辞に は感嘆、うれしくなりました。若者との集い、神学生司祭修道者との出会いもありました。
来泰決定が発表されたのは2ヶ月前、短い強行な準備期間で、カト リック司教協議会からバンコク教区、広報部…各関係機関へ、 教会が軸になって国と政府機関にも交渉、手抜かりない細部に至る 準備、動員力。タイ国のカトリックの”極小からし種”の威力を見せた 出来事でした。
全教区、バンコクの各教会の割当人数を遥かに超える応募者。残念 組には教会が「大型画面で実況中継をお弁当付きで」とか、送迎時に「飛 行場近隣の教会の信徒がひと目会えるように」とか、ヴァチカン大使館 泊のパパ様が隣のカトリック総合病院訪問の折、「中庭を巡り、大勢 の人が会えるよ
うに」とか、精一杯の配慮工夫がされました。
日本から友人司祭が、あの熱狂が「一過性の打ち上げ花火」にならない ように… と。タイと日本の上空に打ち上げられた特大曼荼羅、愛と命、真理 と平和の福音の発信が、人々に受信→発信し続けられること信じ、祈 っています。
パパ様、この度は日本への途中バンコクへ寄り道して下さり、有り難 うございました。
(阿部羊子=
あべ・ようこ=バンコク在住、聖パウロ女子修道会会員)
・Sr.阿部のバンコク通信㉗来年は、タイのカトリック教会正式承認から350年
「シャム国」として知られるタイ王国(1939年改称、 現在はラマ10世が国王)は、仏教を国教とし、国民の94% が信奉する仏教国です。他の宗教の活動が制限を受けた時期もありましたが、現在は、 信教の自由が保障され、宣教も容認されていて、今では30万余人の信心深いカトリック信徒に恵まれています。
カトリックの信仰は、16世紀のアユタヤ王朝の時代にポルトガル船が国交を求めて入港したのが始まり(詳細な記録はありません)、 とされています。その後、ドミニコ会、フランシスコ会、 パリ外国宣教会、イエズス会の宣教師が、次々とタイ国を訪れました。
宣教師の間で、 仏教文化信仰に不寛容尊敬を欠く姿勢を持つ者があり、制裁を受けたりすることもあって、 暫くは沈滞の時期もありました。教皇庁は事態を問題視し、慎重に検討を続けたあと、「 寛容こそが大事な宣教姿勢」と現地の宣教師たちも認識するに至り、ナライ王時代の1669年に、教皇正座から正式にタイ国のカトリック教会が承認されました。そして特に教育、福祉部門に貢献しながら、 カトリックの信仰がタイ国に根ざす形で発展し、現在に至っています。
来年は教皇正座からタイ国のカトリック教会が承認されて350周年。記念の年を前に、全国の教会では、年間の感謝と決意の祈りが用意され、幟が掲げられ、日々の祈りが捧げられるなど、聖職者、信徒こぞって準備を進めています。
タイの人々の信仰心は、単純素朴で感性豊か。 一緒に祈り感謝の祭儀に与っていると、「 頭でっかちで理屈っぽい信仰」が、「柔らかく優しい、 素直な信仰心」に変えられていくのを感じます。 私の理屈の座ではなく、心身に、主が語られるのを実感し、 信仰宣言と宣教の意義を新たにする毎日です。
(阿部羊子=あべ・ようこ=バンコク在住、聖パウロ女子修道会会員)
・Sr 阿部のバンコク通信㉔ひとまとめに”外国人扱い”しないタイ社会の良さ
タイ社会のおいて私たちは「外国人」ではなく日本人。台湾人、韓国人 、中国人、ベトナム人、カンボジア人、ミャンマー人、パキスタン 人…それぞれの国民で、「外国人」ではありません。「ファラン」 =外国人はフランス人の意ですが、西欧、北中南米諸国の国名が分 からない時、一般的に指してファランと言います。
でも、こうした呼び方は別にして、タイ社会が、国外の人をひとまとめに”外国人扱い”しないことは嬉しい限りです 。近隣諸国が陸続き、人とモノの流れの分岐点であり合流点でアクセスが良く、 あらゆる国から千客万来。異なった文化と民族を受け入れるどほど に、心の領域と視野も広がります。異文化の受容に柔軟で、大らか なタイ社会はたしかに居心地がいい。
各自の信仰についても同様。仏教国であっても其々に信奉する信仰 を持っていて、仏教、カトリック、プロテスタント、イスラム、 ヒンズー、シーク他、むしろ信仰を持って生きる事は人間の当然の 在り様と受け止められていている社会、タイ駐在の日本人カトリック信者の皆さんも、信仰を表明して、伸び伸びと生活しておられます。
ここタイには、アジア諸国の人々が共存する社会があり、活気に 満ちた「協力、共生」を感じます。アジア通貨危機でタイ経済が低迷し、現地での商売に見切りをつける外資企 業が相次いだ時期に、日本企業はタイに留まり、この国の経済と国民の生活を支え続けました。「困った時こそ、共に乗り切る仲間になってくれる日本が、本領を発揮するのです」と、現地の会社役員を務めるカトリックの友人が語ってくれました。
汗だく埃だらけになって共に働き、創造する喜び達成感を味わう醍 醐味を、国境、利害関係の有無を越えて体験している人々がいる。本当に嬉しく思います。
人間社会の凄みと成熟は、多民族の共生から実現される、と思いま す。難民問題が大きく世界中の話題になっている今日この頃、「人が植え、整備された人工林よりも、雑木林は、確かに強い」-そういう人間社会を期待する気持ちを、改めて強くしている私です。
(阿部羊子=あべ・ようこ=バンコク在住、聖パウロ女子修道会会員)
・Sr 阿部のバンコク通信㉓人目を気にせず・・でも「われ関せず」ではないタイ人の暮らし
ある夕刻、 書院勤務を終えていつものように渋滞の中を帰途に着きました。
タイでの生活で、感心する事は多々あります。不便を改善せず、 苦にせず、文句を言わず、面倒がらずやる、延々と待つ。 日本人の感覚では一つ一つが苦情の対象。
また、それぞれのやる事なす事に干渉しない。 無関心と言えば語弊があるが、自分の衣食住を悠々と、 人の目を気にせず思うままに営む。清々して、 自分を出して生きられる環境、日本から来た人々が「『 監視カメラから解放』された体験をしている」と言う、 正にその通り。
かと思えば、誰かが倒れれば必ず走り寄る、 困った人への素早く、優しい配慮。 タイの人々の「われ関せず」ではない気持ちに胸が熱くなります。
その日も、 バスを降り大通りから修道院のある路地に差し掛かると、 ちょっとした人だかり。 近づいて見ると、足首に怪我をしたおじさんを囲んで、 どくどく流れる傷口を何とか処置しようと駆け寄ったところ。
「何の役にも立てそうもない」と、通り過ぎようとした私。その日に限ってタオルを持っていたのを思い出し、彼の 傷口にタオルをしっかり当てて、病院に辿り着くまでの応急手当。 後は近所の人に任せて修道院へ帰り、 カバンを置いて急いで夕飯の仕度。 夕食時の話題の一つになりました。
思い出すと、今でもうれしい気持ちになります。
(阿部羊子=あべ・ようこ=バンコク在住、聖パウロ女子修道会会員)
・Sr 阿部のバンコク通信㉒タイ在住の末期がんの老婦人が詩画集に笑顔!
バンコクの 女子パウロ会はドンムアン空港の東、サパンマイ地区、 大通りにはBigC 百貨店、大きな市場、商店街が並ぶ便利な生活圏にあります。 交通網はバスですが、数年前からスカイトレイン(“ 空中”を走る電車)の延長工事で渋滞改修の為の酷い渋滞…もう暫くの辛抱。
私達の使命はメディアを通して人々に福音をもたらす事。 タイ語の出版は、書籍45点、視聴覚CD、 DVD、 VCDが合わせて25点程になり、 人々の心に福音を届けながら着実に歩み続けています。 教会外の人々を含めた対象を常に考慮し、 タイの人々の好みに合った、 ピリッと効いた甘みのある味付けで出版しています。
セントルイス カトリックの総合病院内にパウロ書院があり、 小さな宣教の拠点になっています。タイ語、英語、信心用具、 聖像など、タイ社会の要望に叶う奉仕に努め、 日本語の書籍コーナーも設けています。
在タイの日本企業は多く、在留 登録している日本人だけでも4万人近いと思います。 これはと思う書籍を選び、機会あるごとに紹介し、役立てています。 一冊の本との出会いがもたらす恵みを考え、 祈り込めて待機しています。
先日も、大学の日本語科教授のお母さん( 85歳で末期がんの痛みに耐えておられる)に「何か良い本がないか」と教授の親友が書院へ。日本語が解らないので、 家で編集の仕事をしていた私に連絡があり、LINE- Videoで本の紹介、 星野さんの詩画集と晴作久神父の説教集を選び贈物。後日、 娘教授のメンセージを添えた感謝と喜びの知らせがありました。 子供のような喜びの笑顔で、 本を抱いて読んでいるお母さんの写真も添えてありました。 癒しと喜びをもたらした書物、暫くして更に3冊、 その後日本に帰ってホスピスに入る事に決めたので、 最後のプレゼントにと来院。
魂に届く福音の良薬は、苦味なく喜びと癒しをもたらす。 バンコクの片隅で、 今日も人々と福音との喜びの出会を祈りつつ励んでいます。
(阿部羊子=あべ・ようこ=バンコク在住、聖パウロ女子修道会会員)
・Sr.岡のマリアの風 ㉚神学校の授業が終わり…ローマ、ポーランドへ
今年度、神学校の授業が終わり、毎年のように、感謝・反省・祈り…という気持ちです。
わたしなりに全力を傾けるので、ホッとして、感謝。同時に、自分の(いろいろな意味での)足りなさが見えて来るので、反省。さらに、短い間とはいえ、関わってきた神学生たち(すでに司祭になっている方々も含め)のために、祈る。
何を祈るかというと…主よ、あなたの望みが行われますように!… そして、すべての司祭を、主の母マリアの、母のご保護に委ねて…
7月4日から18日までの2週間、ローマ出張と、ポーランドの共同体訪問です。ローマでは、アジアとオセアニアのマリアン・アカデミー(MAAO)の責任者、デニス神父との話し合い。教皇庁立国際マリアン・アカデミー(PAMI)長官、神学院での先輩、ステファノ神父に相談ごと。そして、わたしの博士論文担当教授だったサルバトーレ・ペレッラ神父を母校に訪問…。
ポーランドの、わたしたちの修道会の共同体(ストラホチナという小さな村にある)のシスターたちは、今、黙想会や巡礼に訪れる人々への奉仕で忙しい時期とか。でも、どんなに疲れていても、シスターたちは、マリア論の話を聞きたがる。わたしの方も、まさに「イエス・キリスト中心」を、日々の生活の中で生きている-祈り・奉仕…-シスターたちに、学ぶことが多くあります。
どのような「旅」になるのか…
祈りは、いつも同じです
…主よ、あなたの望みが行われますように!… …聖母よ、わたしの中で「みことば」が実現するよう、助け、守ってください!…
*海外出張前・・定期健診
健康診断で、骨が弱いと言われた。「あなたの年齢に対して、骨は、20歳くらい年を取っていますよ(!)。転んだら骨を折るかもしれないから気を付けてください。今から、薬を定期的に飲むことをお勧めします」…。
ということで、生まれて初めて「定期通院」を始めた。約一か月に一回、薬をもらうために、お医者さんのところに行く。優しいH先生は、「一か月、どうでしたか?何かあったら、何でも言ってくださいね」と言ってくださる。
「あの~、骨とは全く関係ないのですが…」「いいですよ、何でも言ってください」…そこで、わたしは、H先生に、お腹をこわしたとか、風邪を引いたとか、海外出張の後、時差ボケで眠れないとか、ほんとうに骨とは全く関係ないことを「報告」する。H先生は「薬を出しましょうか?市販の薬よりも安いですよ」、と丁寧に処方してくださる。
ということで、わたしは今、一か月に一回、健康チェックをしていただいている。自分ではよく見えないことも、お医者さんのH先生には見えるみたいだ。何度も行くうちに、わたしの体の傾向、癖(?)なども分かるのだろう。
この前、風邪を引いたときは(そのくらいでは普通、病院には行かないが)、たまたま「定期通院」の時だったので、それを言ったら、「どんな症状ですか?咳が出ますか?のどが痛いですか?…」と、わたしの状態に合った薬を処方してくださった(それも、毎食後、四錠!あまり薬を飲まないわたしにとっては、何だか病人になった気分)。さすがに、病院の薬(?)。効き目は早かった。
***
月一回の、体のチェックが、こんなに大切だとは思わなかった。もっと目に見えない「心」のチェックは、もっと大切だな、と思った。放っておけば、どんどん流される。奉献生活者といえども、ぼ~っとしていたら、この世のロジックに簡単に振り回される。
だから、祈り、なんだ。だから、奉献生活者は、日に数回、特に、朝、昼、晩、聖堂に、イエスの前に集まって、共同で、祈る。
「共同の祈り」が始まる、少なくとも五分前には聖堂に行って、心を整えなさい、と言われる。バタバタと聖堂に入って、すぐ、共同の祈り、ではなく、仕事を後ろに残して、聖堂に行って、自分の席に座り、十字架の印をゆっくりとする。「主よ、あなたはわたしに、今、何をお望みですか?」「聖母マリア、わたしが、どんな逆境にあっても、あなたのように、ひたすら主の望みだけを求めていけるよう、助けてください」と、ゆっくりと祈る。
朝、昼、晩、心の「チェック」をする。一日の終わりに、心のチェックをする。毎月一回、心のチェックをする。…
教皇フランシスコは、「識別」について話すとき、先ず、主の前で、主のみことばに照らして、自分自身の心を見つめたら、今度は、周りにいる「知恵ある人」と対話、相談しなさい、と言う。知恵ある人とは、聖霊に導かれて、霊の識別をする賜物をいただいている人のことで、若くても、そのような人はいる、とパパは言う。体のチェックを、お医者さんにしてもらうように、心のチェックを、先ず、主の前で、そして、知恵ある人にしてもらう。
その時、大切なのは、(体のばあいも、心のばあいも)嘘をつかない、率直であることだろう。良く見せようとしたり、言い訳を先に並べたりすると、だんだん、嘘になってくる。言葉で表現するのが恥ずかしいことであればあるほど、聖霊に祈りながら、率直に、そして安心して、心を開く。
「知恵ある人」といっても(魔法使いではないので)、わたしが心を開かなければ、何がそこにあるのかは見えないだろう。わたしも、わたしを助けてくれる人も、みな、主の霊の協力者だ-と、わたしはイメージする。
「すべてのものを一つに集める」キリストの霊。キリストの「集める」は、無理やりに、ではなく、自らをすべて差し出し、降り尽くした方の「集める」だ。
わたしの、月一回の、心の「チェック」は、そのキリストの心との「ぶれ」を認めることから始まるのだろう。だから、謙虚、柔和、忍耐、率直…
***
結局、海外出張前になっても、咳が止まらなかったので、またH先生のところに行った。「(出張が2週間なので)、念のため、2週間分、お薬出しておきましょうね。あとは、何かありますか?」と、いつものように優しい。「出張すると、時々、お腹をこわす…ことがある…」と言ったら、「分かりました、お腹の薬も2週間、処方しましょうね」。
***
こんなことで、よかったのだろうか、主よ、わたしはあなたの望みだけを求めているでしょうか、と祈っていたら、誰かから、ポン、と、言葉が来る。メールが来る。わたしの祈りについては、知らないはずなのに、あたかも、その答えのように。
***
神は、時に、ピリ辛で、時に優しさで、足りないばかりのわたしを、忍耐深く、あたたかく、導いてくださる。日々の何気ない出来事の中に、祈り求めていることの答えを見つける。
ご自分の民と、共に歩いてくださる神。本当に、十字架の傷をもって、傍らにいてくださる主キリスト。見えなくなったときに、いつでも、そっと、キリストに導いてくださる、聖母マリア。神との対話の中で、わたしを支えてくださる、たくさんの聖人、兄弟姉妹たち。
***
海外出張前と言っても、考えてみれば、わたしたち奉献生活者は、文字通り「着の身着のまま」で出かけられるはず。マリアの、エリザベト訪問のように。軽やかに、率直に、喜んで…。いつのまにか、あれも、これも…と、「旅慣れ」してしまったな~、と反省。
大切なものが見えなくならないように、単純に、素朴に生きたい。「あなたのことばが、わたしのことばとなるように!」アーメン。
*二週間の出張の前に…今朝の独り言…
いつくしみ深い父である神は…ご自分の「幸い」を共有するために…被造界を造り、人間を造った… 父である神は、ご自分が造ったものが、一つでも滅びることは、「幸い」に入らないことは、望まない…
「分からんちゃん」の人間(わたしたち)は、父である神の心はいざ知らず…「滅び」に向かう道にばかり行きたがる… でも、父である神は、ほんとうに、真に、「すべての人の救い」を望んでいる… その、父の「思い」「心」を、ほんとうに、真に実現したのが、「子」である神、イエス・キリスト…「時が満ちた」ときに… 父が「子」に託した「思い」は、さらに、「悪い奴を滅ぼす」ことではなく、「悪い奴のためにも、すべてを、いのちまでも差し出す」ということだった…
受肉から始まる、「神の降下-ケノーシス-」…どんなに、何度も考えても、思いめぐらしても、想像しても、祈っても…やっぱり「すごい」… 「神の降下」は、受肉で終わらない。それは、「過越-受難・死・復活-」にまで行く。
そう、「復活」でさえも、「降下」だ。東方教会の「復活イコン」は、「陰府降り」と呼ばれる。まさに、闇の中で救い主・メシアを待っていた、アダムとエバから始まるすべ
ての人たちのところにまで降っていく、メシア・キリストの姿だ。
キリストが「王」であるという真理は、十字架の「苦しむしもべ」の中に輝き出る。神の「力」「権力」は、滅ぼす力ではなく、救う力、まさに、「愛の力」だ。しかも、わけ隔てのない、「出来の悪い子らこそいつくしむ」父の愛の力だ。だから、「すべての人の」救い。
その、父である神の心、子である神の心は、十字架上のメシアの最後のいのちの息吹-聖霊-を渡された「教会」に受け継がれていく。
十字架のもとで、「すべての人」の母となる使命を受けた、「生まれつつある教会」の「原型」、イエスの母マリアを通して、キリストの「思い」は、単なる概念でも、象徴で
もなく、具体的に、リアルに、受け継がれていく。
「すべての人」の母となるよう呼ばれた、旧約の神の民、イスラエルの民。そのイスラエルの娘、マリア。キリストによって、実際に、ほんとうに、あがなわれた「すべての人」の母となるよう呼ばれた、キリストの民、教会。その「原型」、「初穂」であるマリア。マリアを通して、天地創造の「原型のペア-アダムとエバ-」から始まる、壮大な「契約」のプロジェクトが、引き継がれていく。最終目的、「天のエルサレム」、「完成、成就のペア-キリストと教会(神の民)-」に至るまで。
***
何を朝っぱらから、大きなことを考えているのか、と言われそうだけれど…。でも、これこそ、わたしたちが「共同体」で、今、わたしがいる、「この」共同体で、丸ごと、誰も欠けることなく、天の国に行くこと-神の永遠のいのちを共有すること-を、「真剣に」「本当に」心から望まなければならない理由だと、思う。
「わたしは天国に入りたい」「わたしは救われたい」「あの人も、救われて欲しい」「でも、あの人は、知らない」「あの人と一緒に、天国に行きたくはない」… そんなこと、口に出してはいなくても、時に、そう思っているかのように行動しているわたしたち。
「あんなことをする人は、神の救いに入らなくていい」「あんな恩知らず、滅んで自業自得だ」と、一瞬でも神が思ったなら、わたしたち誰一人として、神の国に入れなかった
だろう。悪魔の誘惑に負けて、ぼろぼろになったわたしたちを見捨てたなら、「神の降下」は、なかっただろう。神は、「降下」する必要など、なかっただろう。
「共同体」は、わたしの共同体は、みんなが聖人みたいだから救われるのではない。「わたし」も含めて、みんな、「欠けている」。その欠けているわたしたちが丸ごと、天の国に、神のいのちに、入る。わたしは、それを、本当に望んでいるだろうか?
***
先日、共同の祈りの先唱者(当番)が、祈りを間違えた(というより、その日にするはずではなかった祈りを始めた)。みんな、ちょっと、「あれっ?」と思った。新しく就任
した院長シスターは、助けを求めるように、きょろきょろ。オルガン当番だったわたしと、目が合う。
暗黙のうちに、「でも…いいよね。せっかく、祈りを始めたんだし、姉妹たちも、最初はちょっと心もとなげに、でも、だんだん声を大きくして祈り出したし…」。 …というわけで、結構長い祈りだったが、姉妹一同、最後まで「祈り上げた」。
祈りが全部終わった後で、先唱当番のシスターにちょっと教えてあげる。彼女も、祈り始めたものの、みなが小さい声だったので、「なんで~、もっと大きな声出してよ」と思
ってた、「えっ?わたしが間違えたのか」と。そして、二人で大笑い。共同体って、そういうものではないか、と思った。
間違いを指摘することも出来るけど、まあ、みんな、「欠けた者同士」だし、祈ってわるいってことではないし、一緒に付き合って、祈りましょう…そして、声を合わせて祈っ
ているうちに、間違えたなどということは忘れて、一緒に主に心を向けている…という感じ。
主は、そんな「欠けた者同士」で受け入れ合っている共同体の祈りを、ほほえんで受け入れてくれたのではないか…(実際、それは、「イエスのみ心の連祷」だったし…)
***
明日の朝から、二週間の海外出張。
この地上の「信仰の旅」を共に歩んでいる、「共同体」の存在がなつかしくなるだろう(いつも、そうだから)。でも今回、半分は、ポーランドの自分たちの共同体だから、二
週間ずっと、何か少し「緊張」している必要はない。感謝。
「遺言」ではないけれど、長期出張の前は、やはり、ちょっと立ち止まって、共同体の姉妹たちに「ありがとう」と言いたい。二週間後に帰ってきたら、「また、よろしくお願
いします」、と…「欠けた者」同士、それでも、いっしょに天の国に向かって、また歩いて生きましょう!…主よ、あなたの望みが、行われますように!母マリアよ、わたしたちの、よろよろの信仰の歩みを支えてください。教会が、キリストが集めるすべての人々の救いの「場」となりますように!
アーメン
(岡立子=おか・りつこ=けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)
・Sr 阿部のバンコク通信㉑ドリアン…天国の味!
亜熱帯地方の果物、見たことのない珍しい色、形、味。タイに来て以来、 創造主の傑作を味わい感嘆しています。
人生初めて出会い味わった果物、例を挙げると、 ドラゴンフルーツ、マンゴスチン、ジャックフルーツ、ドリアン、 ローズアップル、グワバ、グゥアヤバノ、ランプターン、チコ、 ノイナー、カスタードアップル、サントール、アボカド、 パッションフルーツ、スターフルーツ、ライチ、パパイヤ、 タマリンド、ロンコン…
女王はドリアンです。「匂いは地獄で。味は天国」と言われ、 乗物他持ち込み禁止区域が多い。棘で覆われずっしりと重く、 落たてきたら頭蓋骨を破壊しかねない。
タイに来て間もない頃、 広報担当の故ピンピサン司教様の教区に招かれ、 東北タイのウドンタニに姉妹たちと初の列車旅行。 ベトナム戦争時に発展し、 米軍が戦闘地域の至近距離に待機していた基地のあった街。今は基地は撤去され、健康で平和な街並です。
司教館での会食の折、ドリアンが出され、早速、味わいました。「え? 天国の味?」。独特の匂いと食感、食べてムカーッと熱くなり、 吐き出しそうになりました。
「神さま、この何処が天国の味ですか?私は 今からここで生活し、働くのです」。再度食べてみたものの、やはり分かりません。 「このどこが美味しい天国の味か、教えて下さい」と 内心祈りながら、3度目の挑戦…「美味しい!」。感動しました。
私の感覚に無かった美味の世界でした。クリーミーな味わい、 地獄の匂いどころか魅力的な香り。ドリアンが 嫌いでずっと避けていた在タイ30余年の人に、 そんな体験を話したら、「シスター、良かったですね。 美味しさがすぐ分かって…。避けていた長い過去を、私は悔いています、残念!」という応え。
知らないものを「嫌い」という感覚で受け止めてはならない-自分の視野の外にある世界を意識すること-肝に銘じる体験でした。 主の創造された大自然の中で自分を解放し、 これからも「人生の大損失」を免れて生きて行きたいと思います。
(阿部羊子=あべ・ようこ=バンコク在住、聖パウロ女子修道会会員)
・Sr 阿部のバンコク通信 ⑳新札が流通開始―表は新国王だが、裏は故プーミポン前国王
先日銀行で両替、受け取ったお札は新国王ワチラロンコーン( ラマ10世)陛下の新札でした。慣れ親しんだお顔が入れ替わり、 遂にお札も、と思いました。
タイの紙幣バーツには、20、50、100、500、1000、 とあり、コインは25、50サタン(100サタン=1バーツ)1、 2、5、10バーツ。1円が0.29バーツです。 コインはまだ見かけないですが、新札は、20バーツから500バーツまではそれぞれ表は新国王、 裏は歴代ラマ国王陛下が1世から8世まで2人づつ印刷されています。
最高額の1000バーツ札ではどうかと、表は当然、新国王。裏を返すと…プーミポン国王(ラマ9世)陛下の肖像! 国民の気持ちを大事にした名案、 これには感嘆してしまいました。パウロ書院で、早速新札でお釣りを。皆が「あっ」と反応、 裏を見てほっとした、という感じでした。
国民に敬愛されたプーミポン国王を見送って後、 街中は正装した新国王のお写真に取り替えられています。 静かに音も立てずに、徐々に、惜しまれながら…。 人々は黙々と、事態を受け止めて平常心で生活しているようです。 国民が国王を見守り、タイ国を安泰に収める責務を果たせるよう、 無言の示唆を与え続けることでしょう。
時に、怒涛のように流転する人の営みに揉まれながら、 天地の創造主を仰ぎ、『Laudato sì 』と賛美しながら今日の営みを捧げています。 (阿部羊子=あべ・ようこ=バンコク在住、聖パウロ女子修道会会員)
・Sr 阿部のバンコク通信 ⑲タイ北部山岳民の村で「命をいただく」を実感
今年も大阪教区、赤波江神父様の企画で、青年達一行を同伴し、 タイ北部山岳民の村で10日ほど過ごしました。 人間に本来秘められている感性、 躍動する命が参加した皆の中に息づいているのを見て、 心底嬉しく思いました。大自然の中、 素朴で純な村の人々に抱かれ、心身ともに全開して生き生きです。
(カレンの山でカレー作ってみんなにご馳走しました。)
1人ずつ夫々の家族に迎えられ、寝食を共にし、農作業、 家畜の世話を手伝い、子供達と思いっきり遊び、 山や川で無邪気に楽しみました。皆んなの目が輝き、 ほっぺが嬉しくて綻びっぱなし。毎日与る感謝の祭儀ミサは圧巻。 日本、カレン、タイ語のチャンポン、 響き渡る祈りと聖歌は腸にしみる味わい。
国境も言葉の壁も超えて、 同じ信仰で結ばれる体験は村人にも、日本の参加者にも、まさにカトリッ クを実感する機会、凄いことだと思いました。 家畜、果物、農作物、生花などで生計を立て、 至極健康的な栽培をしています。 日本の胡瓜や南瓜も見事に育っていて、思わず胡瓜をなま齧り。
この村は、週一豚を買い、自分達で締めて捌き、 皆で分担するとの事。ある日、300kg の巨体豚を絞める、というので皆で手伝いました。 見事な捌き。 何も無駄にせず手際のよい作業には固唾を飲みました。 捌きたてに醤油を付けて炙るステーキの美味しさ、「命をいただく」を名実共に体験。私は終始、巨大豚の頭の近くに立ち、嬉しそうに瞑っている目に見入り、感慨無量。
聖木、金曜日の典礼に与り、 イエスが聖体と十字架で人類への愛を告白、命を差し出す、 感無量です。主の命の秘儀に、私をも与らせて下さい、アーメン。 読者の皆さん、ご復活おめでとうございます。
(阿部羊子=あべ・ようこ=バンコク在住、聖パウロ女子修道会会員)
・Sr 阿部のバンコク通信 ⑱各国大使館と赤十字共催のバザーに女子パウロ会も参加!
在タイ各国大使館(大使夫人)と赤十字共催の、51 回目のチャリティバザーが、 バンコク都心のサヤムパラゴン百貨店で開催されました。 2月24-25日、5階の催物会場の全域を使い、 54ヵ国が国旗を掲げ自国特産品を陳列して盛大に行われました。 入口にはお買い物貸し出しバックが、 本当に多勢の人々で賑わい世界村を感じさせる出来事でした。
聖座の秘書官神父様に招かれ、 女子パウロ会も一般市民に向けて展示、宣教の好機を得ました。 前日ヴァティカンの車に付いて搬入、ヴァティカンは6ブース( 内4はカトリック関係の施設等の出展)、 初出場の女子パウロ会は教皇庁の出展する聖品の隣、 同じブースの一部に、 バチカンの旗を掲げ等身大のスイス衛兵をバックに並びました。 隣のブースはブルーノ神父様(ミラノ宣教会) が山岳民の村人と栽培するブルーノ珈琲、 美味しい珈琲の香り漂わせて、 観想会シスター作のクッキーと並べて販売。
24日8時半、開催に先立ちシリントン姫様ご臨席の開幕式。 各国代表は会場口に整列して挨拶に立ち、私たちは展示場で待機。 暫くすると多勢の従者に従われシリントン姫様が、 丁寧に各国の展示場を廻リ始められました。 私は2冊の本を選び胸に抱いて待機。 女子パウロ会の前に差し掛かるお妃様に、 説明しながら差し出しました。
選んだ2冊は『この子を残して』と『風の交響曲』のタイ語出版。 本がお好きな方で、ご自身でもお書きになる方、 直々に受け取って頂いただけでも幸せ、 読んで下さったらと願っています。 タイに来てからずっと願っていた恵みのひとつが叶いました。 Deo Gratias!