三輪先生の国際関係論⑩「軍事史」の無い日本の大学教育と「失敗の本質」論の流行

 

 大学の教養科目の中に「歴史」は含まれているだろうが、「軍事史」は無いのが普通だろう。日本の場合のことである。しかし私の限られた経験から言うと、アメリカでは当たり前のように思われる。ひょっとすると、大学院に限られたことかもしれないが。

 いずれにしろ、独断のきらいがあるのを承知で、あえて言えば、「失敗の本質」とか、先の戦争に敗北を喫したその原因究明から歴史的教訓を学び取り、現代社会に活かそうとする一つの流行現象の由来の一因は、大学の学部レベルで、普通の事のように「軍事史」が提供されていない為ではないか、と思考するのだが、どうだろう。

 学界には、日本軍事史学会が、でんとして存在している。日本学術会議のメンバーでもあるだろう。かって私が日本カナダ学会の会長を務めていた時、なにかの機会に日本カナダ学会が日本学術会議のメンバーから外れてしまっていることに気付き、登録の復活手続きをしたことがある。

 記憶をたどれば、上智大学の教員として駆け出しの頃、日本国際政治学会の年次大会で知り合ったばかりの三宅正樹さんから、日本軍事史学会の『軍事史学』に論文を寄稿するよう依頼され、「シベリア出兵」時の日米の利害の衝突について書いたことがあった。(ロシアではこれを「ロシア革命干渉戦争」と呼んでいるのだが。)

 しかし、上智大学の史学科に独立した学科目としての「軍事史」はなかった。誰もそれを不満としたり不思議とする様子はなかったようである。当時、私は外国語学部英語学科の専任教員であったから、史学科の事情に通じていたわけではないが。

 そんなわけで、真珠湾攻撃で始まった戦争に、日本が敗北した根本原因から歴史的教訓を得ようとする、出版界や言論界の一種の流行は、起こるべくして起こったとはいえ、なにか戦後日本に独特な「知的怠慢」のように思われるのである。

(三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所所長)

 

 

 三輪先生の国際関係論⑨ 地政学の今昔

 

 ドイツから地政学が日本の学界に流入したのは、まだヒトラーの現状打破が日常現象になる前のことであった。つまり侵略の御用学問視されるような状況下ではなかった。しかし日本の学者はそれを真剣に対応すべき学問の名に値するものとは捉えていなかったといえる。せいぜい床屋談義レベルの世間知に過ぎないと捉えていた節がある。その中で新しいものに知的刺激を敏感に感じる京都大学の教授がいた。東京では東大よりも、慶大の教授が速やかに反応した。

 ヒトラーが政権を掌握する頃には、京大では、ドイツ地政学の現状打破の侵略的傾向と一線を画すために、「皇道の地政学」などと天皇の徳治の学術的提言を目指すものとの位置づけがされた。

 そこに現実政治に満州事変という国際的に日本を孤立化させてしまう難題が関東軍の独走によって惹起した。その独走が満洲帝国の創設という暴走になった時、お鉢は東京帝国大学の教授に回ってきた。学術的弁明がきたいされたのである。

 政治学の教授、蝋山政道は、ドイツからたどり着いたばかりだった頃、地政学を胡散臭くかんじていたのだが、国際連盟で批判にさらされ、ついに脱退してしまった日本の救済に使ってみたらどうだろうと考えた。5カ年計画等で、日本の国防に脅威となりつつあるソ連に対処するのに、満州国という存在が肯定的に説明されなければならなかった。地政学の援用がそれを可能にするものと思われたのである。蝋山教授がどんな提言に達したものか、私は詳らかにしない。

 ただ判っている事は、太平洋戦争に敗れた日本で、占領軍に日本通の学者として意見を具申していたカナダ人外交官E.H.Normanは戦争協力をした学者の追放リストをつくるべく東京大学を調べたりしていた。

 そんな占領軍の動向に反応協力したのでもあろうか、プレスコードで、「大東亜共栄圏」「大東亜戦争」「八紘一宇」「英霊」のような、軍国主義や戦争を煽った言葉の使用を禁じたとき、東大教授で、「地政学」も止めようと提案した者があった。その結果、戦時中には旧制の高等学校のカリキュラムにまで正式に組み込まれていた「地政学」は、日本の高等教育の場から追放されてしまったのである。

 それは日本に限った事ではなく、本家本元のドイツではもっと徹底して抹殺されてしまったようである。私の講義を聞いていたドイツ語系スイス人の学生は、ハンブルクに行って、市内の図書館でハウスホーハーの地政学研究所のことを訊ねると、若い司書は「地政学」という言葉すら聞いたこともなく、「それってなんですか」と言ったそうである。

 日本の国会図書館の場合、占領軍が「地政学」を含み、軍国主義を煽った書籍類を「秘かに、パルプ化するべし」と極秘に通達してきた時、一応、従った振りはした。確かにカードファイルは除去され、閲覧する事は出来なかったが、占領が終結し、そして何年かたったころ、カードの撤去はそのままにしながら、蔵書を逐一記載した重厚な書籍として復活させた。

  その間に、私自身はアメリカはワシントンのジョージタウン大学に留学していた。学部の授業でも、地政学は政治学とか、国際関係論とか、近現代史のなかで触れられていた。平和を志向した日本は、地政学を侵略の学問として追放してしまったのである。その後プリンストン大学の大学院で学んだ時には、アメリカでは歴史科目の中に「軍事史」が含まれるのが当たり前、と知った。ヨーロッパ諸国でも、そうらしい。しかし日本では、軍事史を独立した科目として教えている大学はあったとしても、稀だろう。

 そんな次第で、欧米諸国とは異なった道をたどった日本の地政学は、ここへ来て、忽然と花形学問になったかに見える。

  それに関連して思い出すことがある。日本国際政治学会から派生したように、日本平和学会が発足していたが、何回目かの年次大会の折、理事会の若い学者に、大会の報告に平和が敗れて戦争になっていく過程を取り上げるものが無いのを訝って意見したことがある。戦争の原因を追究する研究を、平和構築の智恵の創出のためにしなければならないと、強く感じたからである。

 中東の歴史は紛争の歴史であり、三大一神教が誕生した地域である。聖書学者によると、旧約が出来た頃と、現代と、憎しみ、相互不信と報復、そして報復に対する報復、という紛争の連鎖は二千年前と変わりがない。彼らはこれを「原罪」のためとするのだろうか。日本人なら人間存在の「業」と言うのだろうか。

(三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所所長)

 三輪先生の国際関係論 ⑧イラク―歴史に学んだ楽観主義の失敗

 「失敗は成功の母」というが、近頃は「失敗に学べ」とよく聞く。『文芸春秋』6月号の目玉も「朝鮮危機・太平洋戦争の失敗に学べ」である。朝鮮問題を離れて、単に「太平洋戦争に学べ」というのであれば、教訓というか選択肢は二つある。「戦争は馬鹿馬鹿しい、戦争はするな」、「今度するなら勝ち戦をしろ」である。

 つまり歴史の教訓はポジティブに学ぶか、ネガティブに学ぶか、二通りある。その上、歴史的事実を正確に認識した上での判断か、不正確な認識の下での決断かで、結果は月とスッポンだろう。二代目ブッシュ大統領はサダム・フセイン討伐に向かった時、米軍の日本占領統治の成果を誤って認識していた。

 わずか数年の占領統治でアメリカ文明の金科玉条である民主主義と自由主義を受け入れ、非キリスト教圏ではじめて日本で起ったアメリカ文明化を、一時も例外的とか特殊例である、とか考えたようすが無い。単純に、アメリカ文明の絶対的優位性ゆえに、普遍的適用性があるもの、と一点の疑いも抱かなかったようである。

 日本の軍国主義を倒したように、サダムの独裁を倒しさえすれば、アメリカ軍の占領統治の下で、日本で起ったと同じことが起り、イラクに、政治的には民主主義が、経済活動では自由主義が確立するはずだ、と信じていたとしか思えない。

 実際、ブッシュ自身ではなかったが、ニューヨークタイムズだったか英字新聞に、日本で起こったことが、イラクでも必ず起こる筈だ、とする見通しを、政治評論家かなにかが書いていた。多くのアメリカ人は同意見だったのだろう。そうしてブッシュ大統領の決断に賛同し、サダム・フセイン追放の戦争を支持したのだろう。

 だが日本のようには行かなかった。どこがどう違っていたのか。

 太平洋戦争にいたるまでの一年か半年の間、日本の思想界は「近代の超克」論で湧いていた。そしてその「近代」とは、日本の「アメリカニゼイション」の謂いであった。つまり日本はあまりにもハリウッド映画に代表されるアメリカの軽佻浮薄な物質文明に毒されている、というのであった。

 軍国主義の直接の敵であった。しかし、太平洋戦争の結果は、日本の敗北、であった。物質だけに負けたわけではない、日本に「大和魂」あれば、アメリカにはピューリタン以来の「ヤンキー魂」があり、アメリカ大陸を東海岸地域から西へ西へと進んだ「開拓者魂」があったのである。それを「天命」と考える強固な精神があったのである。

 占領軍総司令官マッカーサー元帥は、占領開始に当り、個々の将兵の胸にしっかりと刻み込まれる訓辞をした。「ここに偉大な使命がある。諸子の天命は戦いに敗れ、信ずるものを失った日本国民にアメリカ文明の誉れを伝達する事である・・・」

 日本国民にしてみれば、占領軍は軍国主義を追い払い、大正時代に栄えた豊な日常的なアメリカ文明への回帰であった。そこにたくまずして、占領政策への自発的、積極的協力者、いわゆるコラボレイショニストを排出することになったのである。言い換えれば、戦前にアメリカ文明化した日本社会があって、占領政策はその土壌の上に、花開き、いくつかの恒久的な実を結んだのである。

 イラクではサダムの銅像は巨大な台座から引き摺り降ろされた。それは世界に向けてサダムの独裁体制の終焉を告げる、ドラマチックなニュース映像にはなったが、日本で起ったような文明の変革を示すものとはならなかったのである。

(2017.6・3記)(三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所所長)

 三輪先生の国際関係論 ⑦子供のチャンバラ合戦で「マチオコシ」

     何処の街か知らない、子供のチャンバラ合戦で「マチオコシ」だという。ビニールの風船式の「刀」で運動会かなにかのように雄叫びをあげてたたかっていた。朝食のテーブルに着こうとした一瞬のテレビ画面であった。しかし私には深刻な想いを湧き立たせた。「平和」はこうして「崩れ」ていくのだと。

 太平洋戦争、当時は「大東亜戦争」が正式名称だったのだが、開戦と相前後して、学界には日本拓殖学会(日本植民学会といったかもしれない)、日本地政学会が生まれた。戦後日本国際政治学会へと発展的に解散再編された。政府の御用学会風な成り立ちは解消したと言ってよい。このメジャーな学界の異母兄弟のように日本平和学会が発足したのは、かなり後の事だったのではなかろうか。

   この学会そのものの大会ではなかったと思う。一部会かなにかの小規模な集会でのことだったと記憶する。場所は東京の三光町の聖心女子学院の講堂であったか、女性会員U氏が演壇からこう訴えた。「人間の闘争本能を駆り立てるスポーツは止めましょう。」平和の精神を醸成するのには、サッカーのようなスポーツは邪魔になるというのだ。

    そう、占領軍は復讐心をあおる「仇討もの」として恒例の歌舞伎の出し物「忠臣蔵」の興行を禁じたと。いや「禁じた」のではなく忖度した結果だったかもしれない。学校教育の中の、武道は廃止された。これも忖度であったか。はっきりしていることは、当時中学3年生だった柔道部員の私にも、いわゆる「終戦初段」と言う賤称で知られる免許が弘道館から正式に伝達されたのである。正式の免許状が私の手元に残っている。

 それから幾星霜、現政権の安倍晋三総理は、憲法改正の日程を、2020年には発効させるべく進めていると聞く。核心にある平和条項に、自衛隊を正規軍と位置づける文言を書き込むそうである。

   相呼応する如くに、肉体相打つ子供のチャンバラ戦でマチオコシを盛り上げようとしている自治体のニュースがテレビから朝の食卓にながれてくるのである。

(2017.5.30記)

(三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所所長)

 三輪先生の国際関係論⑥修道院の机上の髑髏と米兵が集めた日本兵の頭骨

 フィレンツェを巡る丘の一つフィエソーレに、ジョージタウン大学の海外施設のひとつがある。その丘にはカトリックの男子修道会、確かフランシスコ会だったとおもうが、がある。もう六十年も昔の事だ、私にはその修道会を訪れた記憶がある。白いスウタン姿の修道院長ともお話した。4年にわたるジョウジタウン大学での留学を終え、カレッジと大学院でそれぞれ学士と修士の学位を授与されて、帰国の途上であった。カミューも1930年代の事だったか、この修道院を訪れている。修道士の個室の机上に髑髏を認め、草花が咲き競い蜜蜂が乱舞する中庭で霊感に打たれたかのように、自分もカトリックの信仰に改修してもよいような気分になっていたと告白している。髑髏に対峙し人生を見極める生活に憧れたのである。

 日本の修道者で、髑髏に対峙するということが日常的にある場合を私は知らない。死という生きとし生けるものの宿命は承知していても、それを髑髏という象徴の助けを借りて絶えず意識し続けるということを私は日本人の生活習慣として、身辺で目撃したことが無い。これは確かに異文化であり、キリスト教に特異なことと思われる。

 ワシントン市内であったか、郊外であったか、確か海軍病院であったことだと記憶する。病院の倉庫というか、物置というか、あるとき、幾つか髑髏が転がっているのが見つかった。その由来は病院に収容されたとき、傷病兵が私物としてもっていたものである。私はそれを日本兵の物と、その新聞記事を読んだ時に勝手に考えていた。ヴェトコンの物だったかも知れなかったのに。というのは私には、日米戦争の最大の激戦地硫黄島で、戦後、遺骨収集に携わっていた、和智恒蔵元海軍大佐の話を知っていたからである。火山島の地熱のこもった地下壕などに累々と横たわる白骨化した遺体で、まともに頭骨の付いた遺体が少なかったというのであった。米兵が、敵の将兵の頭骨を戦闘の記念に持ち去るという習性があることを承知していたからである。

 和智大佐は、戦後の何十年だったか、アメリカに向けて、そうして持ち去った髑髏の返還をねがった。2年連続してアピールした後で、その結果を『中央公論』だったか『文芸春秋』に寄稿していた。最初の年に2個が帰ってきただけで、後はなしのつぶてであったと記憶する。

 アメリカで赤く塗られたりしてローソク立てに細工されていた髑髏などについての新聞記事は、続けてこう書いていた。「もし日本で誰かが押入れを整理していたら奥から米兵のものと思しき髑髏が出てきたのなら、この日本兵のものと交換しようじゃないか」と。

 私には日本人にそんな収集癖があるとは思えないのだが、どうだろう。(2017.5.4記)

(三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所所長)

 三輪先生の国際関係論 ⑤歴史散策‐2

    前回のこのコラムで取り上げたアイリス・チャンのことは、歴史学に素人の失策と微笑みで迎えてもいいのだが、次に取り上げるのはプロの問題なので、伊達や疎かにするわけにはいかない。アメリカの有名校、アイヴィー・リーグ中でも歴史学の訓練では特に優れていると、其処の大学院で博士号を取得した私の知人、同僚、弟子達から聞き及んでいる、誇らかな評価を聞かされていたものだから、こんな話を知った時には呆気にとられてしまった。二つある。

    先ず一つはこうである。ナチ政権下のドイツの軍需産業とヒトラーとの関係を扱った博士論文である。新たに発見された一次資料をフルに活用した新解釈であった。付かず離れず、適当にサボタージュしたりした様子がこと細かく描き出されていた。審査は通過し、面接試験のディフェンスにも成功して、学位は授与され大学出版局から、立派な書物として世に問われた。

 途端にこの論文の一大長所であった「新発見の資料」と称されたものが、実はフェイクであって、実在していないことが、学外の評者によって指摘されたのである。そこで大学当局は、この学生が就職先にするであろうアメリカ全国の大学宛に、彼の履歴書の博士号の記載はこれこれしかじかであるから、ご承知置きください、と書面で案内してまわったと、雑誌かなにかで読んだ記憶がある。

   さてもう一つはこれほどまでに罪深くは無いが、論文の根拠が脆弱に過ぎる、という批判は真摯に受け止めねばならぬものであった。この批判を私はフィリピンで聞いた。マニラの国立大学史学部アゴンシーヨ(Teodoro A. Agoncillo)教授から聞かされた。上に掲げた贋作の史料による博士論文を受理し、審査し、口述試験も通過させて学位を授与してしまったあの有名大学が、今度の場合フィリピン人の対米観を分析総合し叙述した論文に学位を授与したことへの批判である。方法論的に出発点で既に欠陥があるというのである。

    その批判が、フィリピン広しといえども、いまだタガログ語でフィリピン史を書き、講義する人が彼を除けば皆無といえた時代のアゴンシーヨ教授の口をついて出たものであったことの意義は重い。分析に使われたマスメディアの記事は、在マニラアメリカ大使館が、日々地元新聞から切り取り、貼り付けていたスクラップ帳に限られていた、というのであった。

   本来ならば、マニラの図書館のみならず、地方都市の学校なども含めて、世論が表出している記録類をもチェックすることが求められて当然だろう。第一新聞全体のなかにそのスクラップ記事を位置づける事によって、その記事が発する「歴史」的意味が初めてクリティカルに読み取れるというものだろう。

    私がプリンストン大学院のアメリカ史のゼミで体験した事のうちには、地方史をテーマにしていた学生に担当教授が、小さな教会のブレティン類も見落とさないように、と指導していた。同様のことは当然、フィリピン人の対アメリカ観研究にも応用されていい筈だろう。

   以上二つの例は、アメリカの有名大学の場合であるが、博士論文審査の過程で。日本語の間違いのような欠陥が見逃されて、書籍として出版されてしまっている例は、私が関知しているものでも日本の有名大学の例がある。これら日本国内で起こった問題については、また機会があったら取り上げることにしよう。

(2017・4・20

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 三輪先生の国際関係論 ④嘘かまことか、歴史はどうとでも書ける?

 

  クリストファー・コロンブスがアメリカ大陸発見の航海に旅立ったのは1492年の事だった。その500周年の1992年アメリカ史は書き換えられた。ヨーロッパ文明中心主義の世界観に変更が迫られたのである。この機会に学生達から異議申し立てがあった。「つまりだ、歴史なんて、どうとでも書ける、ということだ」と。

  大学でアメリカ史を専攻する学生が激減した。政治学専攻に鞍替えした。理論化、数式化で科学性が際立って見えたのである。

  プリンストン大学で私が習ったインテレクチュアル・ヒストリー専攻のエリック・ゴールドマン教授は、ジョンソン大統領のホワイトハウスに日参するようになって、休講が重なり、折角集った学生達を落胆させ、結局そのゼミは解散してしまった。しかし彼はその一度か二度のセッションで、消えがたい印象を残した。「史料は行間を読め、歴史学は芸術(art)だ」といったのだった。

  その頃の仲間の呼びかけで、短いエッセーを集めた学生のための教材が編纂された。今手元に捜しても見つからないので、書名や編集者が誰だったか確かめようが無いが、とにかく「歴史」はどうとでも書けるというようなものではなく、少なくとも人文科学(humanities)としてしっかり学問(discipline)として成り立つものだと訴えたのである。

  その後もアメリカは歴史学の危機に直面し続けていたのだろう。手元にTelling the Truth about History(歴史について真実を語ろう)(1994)とかHistory in Crisis? (歴史学の危機?)(1999)とか、1990年代に出版された学術書が散見する。

  思い起こすままに、心に残った歴史学に関わる事柄を取り上げて見よう。

  それは素晴らしいと感動した歴史の叙述と言うより、読む端からこれはおかしい、何が根拠か示せと言いたくなる様なものとか、史料を使っておきながらそこに書いてない全く逆の物語を仕立ててしまっている場合さえある。

  先ず「歴史認識」から行こうか.そう「南京虐殺」からいこう。

  アイリス・チャンの『レイプ・オヴ・ナンキン』(Iris Chang, The Rape of Nanking)(1997)である。アメリカのメジャーな出版社から出版され、たちまち大ベストセラーになった。週刊誌『タイム』が絶賛していた。ワシントンの日本大使館からは大使自身による、「正史と認めるわけにはいかない」という意味の声明があったと記憶する。私も『タイム』の賞賛振りを苦々しく思ったものである。日本では当然賛否両論があって、良書を手がけている出版社から翻訳版が刷り上ってしまっていたのではなかったか。批判の声の方が声高になったためだろう、店頭に並ぶ事はなかったと記憶する。

  議論は数値に集中していた。アイリス・チャンは中国政府が主張する「30万人」説をとっていたのだ。事件が起った1937年当時、ニューヨーク・タイムズの特派員が「7万人}とし、現地に居合わせたドイツ人ビジネスマンが帰国してヒトラーに問われて答えた数が、それと同じ「7万人」であった。

  何れにしろ、この処女作で、アイリス・チャンのアメリカにおけるドキュメンタリー作家としての位置は確立した如くであった。それから数年、第二作が出版された。それは彼女の祖父の物語を中心にしていた。中国から移民としてアメリカにはいり種々の職域でアメリカの発展に貢献してきたにも拘らず、犬猫以下に扱われた男の苦労話である。

  この新著The Chinese in America (2003)はどのょうに迎えられたか。『タイム』の扱いは『レイプ・オヴ・ナンキン』の真逆であった。当時の中国についての記述が「めちゃくちゃだ」というのだ。アメリカの事情についても同様。「もっとしっかり歴史を学んでから出直せ」と厳しく批判した。この厳しい批評に耐えられなかったのでもあろうか、翌年聞こえてきたのは「彼女が自殺してしまった」というニュースであった。享年三十有六、生命を賭けるほどに、真剣勝負で臨んだのだと思えば、ひときわ哀れを催す。

  アイリス・チャンのことは、「歴史学に素人の失策」と微笑みで迎えてもいいことかもしれない。今月はひとまずこれで終わりにしよう。

  来月は、伊達や疎かにするわけにはいかないアメリカの有名校でおこった博士論文をめぐる問題をとりあげるつもりである。(2017・3・25記)

(三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所所長)

三輪先生の国際関係論 ③戦火と人間

三輪公忠        戦火と人間       2017・2・20

   「歴史認識」は相変わらず日本の国際環境に重要な位置を占めている。国際法規違反の真珠湾奇襲攻撃で始まった対米戦争は”Remember Pearl Harbor”の対日「殲滅戦争」を呼び起こし、東京を焼きつくし、日本の都市という都市の壊滅をもたらした。日本政府が降伏の意思表示を1日遅れたばっかりに富山市は焼け野原とされた翌日1945年8月15日戦後を迎えた。

 戦時中のアメリカメディアは「ジャップ」(日本人の蔑称)をロイド眼鏡に燕尾服、シルクハットをかぶった姿に描いた。真珠湾攻撃が始まってしまっている事も知らずに米国務長官に、日本政府が「宣戦布告を意味する」文書と位置づけていた公文書を手交するために訪れた野村、来栖両大使の日米和平への外交努力を茶番劇と嘲笑ったものだろう。

日本人は戦時中いつもこんな風にあしらわれたのだろうか。そんなことはない。アメリカ人にある巧まざる人間性の発露を体験した日本兵もいた。大岡昇平(1909-1988)はこう記している。

  「担架は釣り上げられた。舷側を越すと、一人の水兵がいきなり私を抱き上げ、舳を回って船艙蓋の上に横たえた。この水兵の行為はひどく私を驚かせた。・・・私は偶々抑留された比島人に密に食料、莨等を与えるくらい奉仕はしたが、必要があっても彼等の汚れた体に触れる気にはならなかったであろう。私の下半身は四十日着のみ着のままの軍袴で・・・。こうした積極的な好意と思いやりは明らかに勝者の寛容以上のものである。」(1948年「捉まるまで」として『文学界』に発表,1952年『俘虜記』に収録。)

 また米空母の艦長が体当りして戦死した特攻機の日本兵士を、国旗にくるんで米軍の戦死者と同じ栄誉礼で水葬に付したという逸話を読んだ記憶がある。感動したが、はっきりしなくて困惑していたのも事実だ。遺体をくるんだ「国旗」が星条旗だったのか日章旗だったのかということである。日章旗だとすると、それは何処にあったのだろう。特攻死した兵士が、襷がけにでもしていたものだったのだろうか。いずれにしろ美談である。

 戦争末期、小笠原群島の父島は本土防衛の最先端基地であり、通信施設があった。James Bradley, Flyboys (New York: 2003)はこの重要な基地を空爆中、高射砲弾が命中した米爆撃機の乗組員の運命を辿ったドキュメンタリーがある。海上で潜水艦に救助されたのは後の米大統領ジョージ・W・H・ブッシュ氏であった。残りの8名は日本軍の捕虜となり、裁判も無く、処刑された。

 処刑される兵士は先ず死後の自分が埋められる穴を掘らされた。出来上がると足をその穴の中に垂らして穴の縁に座り目隠しをされる。斬首をする日本兵の他に、観客として日本軍兵士が集められる。しかし、集められた日本兵はこれから怒る残忍な光景に耐えられず、ほとんど皆、日本刀が振り上げられた瞬間までには、処刑現場から消え去っていた。

 著者は硫黄島攻略の英雄の1人、あのスリバチ山の天辺で、星条旗を押し立てた6人の兵士の1人を父としていた。彼はハリウッド映画にもなった『父たちの星条旗』の著者でもある。そのブラッドレ-の著述は、「猿」的日本人像には終わっていない。捕虜を処刑する日本人の野蛮さだけを追及し、それに対してアメリカ人がどれだけ正義の人士であったかを語ったりしない。太平洋戦争の前史として、ペリーの黒船を砲艦外交のはしりとして、その野蛮さを叙述するばかりでなく、その半世紀後スペインから奪い取ったフィリピンで植民地支配の一手として

 「10歳以上は一人残らず殺していまえ」とニューヨークの新聞が論説したと書いている。イラストに選ばれた写真には、例えば東京大空襲で油脂爆弾のためにマル焦げになって転がっている一般市民の姿がある。彼我の人命に対する無残な行為をバランスさせているのである。言い換えれば、戦争というものの狂気を告発しているのである。こういう語り口の積み重ねの先に、 昨年の現役のアメリカ大統領オバマ氏の広島訪問が実ったのではないか。

 日本の総理が南京を訪れるのは何時の事か。

(みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所所長)

 三輪先生の国際関係論②ソ連崩壊の予兆を私は市井の人の生活にみた

  11キリスト教伝来1000年記念の翌年、1988年秋、私はモスクワにいた。上智大学の国際関係研究所とソ連科学アカデミー世界経済国際関係研究所の所員交流第一弾であった。発端は日本が支配していた「満州国」の経済発展について学びたいとして来日していたあちらの所員からの提案に応じたものであった。

 モスクワの北方70キロにロシア正教のメッカであるザゴールスクという古都がある。由緒ある修道院ではイコンを制作中の修道士や、年ふりて内部が献灯の煤で黒ずんだ教会堂では祈りを捧げている老人達を見た。外では秋晴れの青空の下、結婚式を挙げたばかりの美しく装い幸せに口元を綻ばせた若い男女に遭遇した。

 しかし、グラスノスチ、ペレストロイカ進行中のモスクワとレニングラード(その頃改名してサンクト・ペトルブルグになっていたかもしれない)の市中では、いろいろのことが私には「反革命」の兆しを感じさせた。

 ソ連科学アカデミーのこの研究所では二つ講演を行ったのだが、レジュメのコピーをお願いしても、おいそれとはいかず、セロテープをくださいと言うと、研究所内を家探しした後で、3センチむしったら、それでお終いと言うしろものしかもらえなかった。予算が欠乏して満足に掃除人を雇うことが叶わないのかトイレにペイパーが無いばかりか、便器内には大便がそのままのこっていたりしていた。

 同行していた妻の報告するところによると、ベッドメイキングに来たメイドの言うのには、洗面台に置いてあった私のレイザーを譲ってくれないかと言うのだという。「明日は夫の誕生日なのだが、それをプレゼントしたい。ソ連製はお粗末で、全くと言いたいほど用をなさない」とのことだった。

 街に出ると、立派な身なりの紳士が、正面からずうっと私に歩み寄ってくる。私の顔を見ているのではない、私が首からぶら提げている、ごく当たり前のキャノンのカメラを食い入るように見つめている。キリスト教伝来1000年で、欧米のキリスト教会関係者や一般市民の観光客が大勢街にあふれていた。私のカメラはソ連と外の世界の消費者文化の落差を示していたのだ。私はソ連は間もなく崩壊すると感じた。

 帰国して、研究所で、所員会議の折に、昼食をとりながら、ソ連は「反革命」の前夜です、と報告した。仲間の所員の反応は「『反革命』?どういう。そんなもの起こるわけないでしょう」というものだった。「独裁体制は内部から崩壊することは無い」と言うのが政治畑の通念でしたし、歴史的にもナチドイツは米英ソの猛攻があって初めて潰えたのだったから。

 私が確信するに至った「ソ連崩壊」の予兆は、ここには記していない、もっと沢山の庶民の、また特権階級の、日常生活の場面に覆いようもなくあったのだから。私が「ソ連崩壊を予言した」事実は私の講演記録として、たまたま防衛大学校が初めて刊行し始めた『防衛学研究』第1号(1989年)に掲載されている。

 私はこの事実を私個人の自慢話としてではなくてアンリ・ピレンヌのいう「歴史家は生きているもを見る」の事例として挙げたい。私はそれをハーバード大学のジョセフ・ナイ教授が、上智大学で国際関係論専攻の大学院生を前にしていった言葉と共にここに示したい。ナイ教授はソ連が実際に崩壊した時、彼の国際政治学はソ連崩壊を予見できなかったことを認めたのであった。それに対し会場からは一学生の質問が飛んできた。「いったいこれから国政政治学はどうなるのですか」と。それに対してナイ教授は真摯に「それがわからないのです」と頭を垂れるのみだったのである。

 それから何年かして彼は「ソフトパワー」論で再出発したのであった。

 (三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所所長)

 三輪先生の国際関係論① 北方領土問題

 「もし無ければ、造りますよ」とアメリカ人の国際政治学者が言った。ソ連に占領され、彼らの領土に編入されてしまった択捉、国後と歯舞、色丹の四島、いわゆる「北方領土」のことである。

 もう何十年も前、私がまだ上智大学の国際関係研究所を中心に研究活動をしていたころ。場所はアメリカ、ジョージア州アトランタ市における国際・国際政治学会の一部会でのことだった。

 まだ冷戦の最中の事で、ソヴィエトが北方領土を返還してもいいようなシグナルを出していると思われていた時の事だったろう。もし返還され、「問題」がなくなれば、アメリカは沖縄の基地を追い出されるだろうという「イフ」のコンテクストにおける応酬。ソヴィエトが北方領土を返還し「問題」が消滅すれば、日本の世論によって米軍は沖縄から撤兵を強いられるだろう、との論理であった。

 「もし無ければ造りますよ」そんな因果関係の「北方領土問題」であってみれば、アメリカ政府の協力なくして容易に解決がつく問題ではないことが初めて理解できる、というものだろう。

 この問題には、さらにもっと深刻な米ソ間の暗黙の了解事項があった。終戦の年1945年12月のモスクワにおける米英ソ3国の外相による会議におけるやりとりである。ソ連は「ヤルタ会談などを根拠に北方領土を占領編入する」と主張した。これに対しアメリカは「戦時中にどんな約束があったにしろ、領土問題の最終決着は平和条約締結のときに決まるものだ」と反論し、「アメリカは、旧国際連盟委任統治領として日本が支配していたミクロネシア諸島を、戦後は自国の戦略信託統治領とするつもりだ」と言明したのである。

 この時、ソ連は了解したのだ。戦後の国際連合の安全保障理事会で、アメリカが「戦略信託統治領」案を提示した時に反対しなければ、「ソ連の北方領土併合は容認される」と。

 普通の信託統治領は、軍事目的に利用されてはならない規定になっていた。それを「戦略」と特殊化することで、アメリカは自国の海軍の要求を満たすことができるのみか、間もなく具体化したように「水爆実験」に供することができるのであった。

 ミクロネシアの島嶼国は、アメリカと自由連合のもとで独立して、今日に至っている。アメリカの原子力艦などの立ち寄りを妨げない憲法のもとで。       (2016・12・28)

 

(三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所長)