三輪先生の国際関係論②ソ連崩壊の予兆を私は市井の人の生活にみた

  11キリスト教伝来1000年記念の翌年、1988年秋、私はモスクワにいた。上智大学の国際関係研究所とソ連科学アカデミー世界経済国際関係研究所の所員交流第一弾であった。発端は日本が支配していた「満州国」の経済発展について学びたいとして来日していたあちらの所員からの提案に応じたものであった。

 モスクワの北方70キロにロシア正教のメッカであるザゴールスクという古都がある。由緒ある修道院ではイコンを制作中の修道士や、年ふりて内部が献灯の煤で黒ずんだ教会堂では祈りを捧げている老人達を見た。外では秋晴れの青空の下、結婚式を挙げたばかりの美しく装い幸せに口元を綻ばせた若い男女に遭遇した。

 しかし、グラスノスチ、ペレストロイカ進行中のモスクワとレニングラード(その頃改名してサンクト・ペトルブルグになっていたかもしれない)の市中では、いろいろのことが私には「反革命」の兆しを感じさせた。

 ソ連科学アカデミーのこの研究所では二つ講演を行ったのだが、レジュメのコピーをお願いしても、おいそれとはいかず、セロテープをくださいと言うと、研究所内を家探しした後で、3センチむしったら、それでお終いと言うしろものしかもらえなかった。予算が欠乏して満足に掃除人を雇うことが叶わないのかトイレにペイパーが無いばかりか、便器内には大便がそのままのこっていたりしていた。

 同行していた妻の報告するところによると、ベッドメイキングに来たメイドの言うのには、洗面台に置いてあった私のレイザーを譲ってくれないかと言うのだという。「明日は夫の誕生日なのだが、それをプレゼントしたい。ソ連製はお粗末で、全くと言いたいほど用をなさない」とのことだった。

 街に出ると、立派な身なりの紳士が、正面からずうっと私に歩み寄ってくる。私の顔を見ているのではない、私が首からぶら提げている、ごく当たり前のキャノンのカメラを食い入るように見つめている。キリスト教伝来1000年で、欧米のキリスト教会関係者や一般市民の観光客が大勢街にあふれていた。私のカメラはソ連と外の世界の消費者文化の落差を示していたのだ。私はソ連は間もなく崩壊すると感じた。

 帰国して、研究所で、所員会議の折に、昼食をとりながら、ソ連は「反革命」の前夜です、と報告した。仲間の所員の反応は「『反革命』?どういう。そんなもの起こるわけないでしょう」というものだった。「独裁体制は内部から崩壊することは無い」と言うのが政治畑の通念でしたし、歴史的にもナチドイツは米英ソの猛攻があって初めて潰えたのだったから。

 私が確信するに至った「ソ連崩壊」の予兆は、ここには記していない、もっと沢山の庶民の、また特権階級の、日常生活の場面に覆いようもなくあったのだから。私が「ソ連崩壊を予言した」事実は私の講演記録として、たまたま防衛大学校が初めて刊行し始めた『防衛学研究』第1号(1989年)に掲載されている。

 私はこの事実を私個人の自慢話としてではなくてアンリ・ピレンヌのいう「歴史家は生きているもを見る」の事例として挙げたい。私はそれをハーバード大学のジョセフ・ナイ教授が、上智大学で国際関係論専攻の大学院生を前にしていった言葉と共にここに示したい。ナイ教授はソ連が実際に崩壊した時、彼の国際政治学はソ連崩壊を予見できなかったことを認めたのであった。それに対し会場からは一学生の質問が飛んできた。「いったいこれから国政政治学はどうなるのですか」と。それに対してナイ教授は真摯に「それがわからないのです」と頭を垂れるのみだったのである。

 それから何年かして彼は「ソフトパワー」論で再出発したのであった。

 (三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所所長)

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