・8月21日からダブリンで世界家庭大会「家庭の福音:世界のための喜び」

(2018.8.15 「カトリック・あい」)

 バチカン発表によると、8月21日から26日にかけて、アイルランドの首都ダブリンで、カトリック教会の「世界家庭大会」が開かれる。

 聖ヨハネ・パウロ2世教皇が1994年に始められてから9回目となる今回のテーマは「家庭の福音:世界のための喜び」。教皇フランシスコが家庭をめぐる2つのシノドス(全世界代表司教会議)をもとに発表された使徒的勧告「愛の喜び」への信徒たちの理解を深め、分かち合う機会とすることを目指している。

 教皇フランシスコは25日から2日間、ダブリンを訪問、大会に参加され、大会の頂点となる「家庭の祝祭」(25日)と「閉会ミサ」(26日)を主宰される。

 この一方で、現地からの報道によると、同国から米国、チリ、オーストラリアなどに広がり、次々と新事実が出て泥沼状態の聖職者による児童性的虐待と高位聖職者による隠ぺいのスキャンダルを背景に、アイルランドの新聞、テレビなどのメディアが、前アイルランド大統領のマリー・マカレーズ女史が明らかにしたこのスキャンダルに絡むバチカン高位聖職者による同国政府に対する不当な圧力について大きく報じている。

 スキャンダルの早期終息、徹底した再発防止、そして教会と聖職者の信頼回復に腐心している教皇の、ダブリンでの言動に教会関係者だけでなく国民の多くが注目しているようだ。

2018年8月15日

・あらためて確認する教会の死刑への姿勢・・ただし「教義」ではない(菊地大司教の日記)

 報道されているように、教皇様の裁可を経て、教理省は昨日、カテキズム2267番の記述を変更すると発表し、同時に教理省長官の名で全世界の司教あての文書を公表しました。

 カテキズム2267番は、十戒の第五戒である『殺してはならない』を、具体的にどのように生きるのかの教えの流れの中にあり、国家の刑罰としての死刑を取り扱っています。一般の報道では、「教会が姿勢を転換して死刑廃止に舵を切った」というトーンですが、教会は急に今回舵を切ったわけではありません。

これまでの教会の理解については、わたし自身が以前に書いた『司教の日記』2015年3月6日の記事を参照ください

すべての命には尊厳があり、神の似姿として創造されたとキリスト者は信じているのですから、すべての命はその始まりから終わりまで尊厳ある存在として守られ尊重されなくてはなりません。

しかし現実の世界には様々な事由があり、例えば正当防衛の枠組みで攻撃してくる者の命を奪うことは許されるのか、と言う議論の文脈の中で、教会は国家という共同体を守る手段がほかにない場合、正当防衛として死刑は認められるとしてきました。

これに関してヨハネパウロ2世が回勅「いのちの福音」において命の尊厳を優先的課題としてかたり命の文化を成立させようと呼びかける中で、死刑の問題に触れられました。そこにはこう指摘されています。

「他の方法では社会を守ることができない場合を除いては、犯罪者を死刑に処する極端な手段に訴えるべきではありません」(56)

その後、歴代の教皇は様々な場で死刑の廃止を訴え、教皇庁も国際的な場で、死刑廃止に向けての努力に賛意を表明してきました。

ですから今回のカテキズムの改訂は、そういった流れをさらに明確にしたものですので、教皇フランシスコの個人的おもいではなく、教会の教えの理解の進展と言うことになります。

なお、カテキズムは、教義そのものではありません。しばしば『カテキズムに違反している』などという言説を耳にしますが、カテキズムとはそのような性質の存在ではありません。1992年に現在のカテキズムが発表されたときのヨハネパウロ2世の使徒憲章や、97年にラテン語版ができたときの使徒的書簡にも、「カトリック教理の概説書」とか「教会の信仰とカトリック教理の解説」と記されているように、カテケージス(教会の教えを伝えること)を行うための参考書です。

従ってヨハネパウロ2世が記されたように、カテキズムは「一方では伝統的で、・・・同時に、内容は、現代の疑問に答えるため、しばしば『新しい』形で説明されています」。それは「新しい状況や、過去にはまだ提起されていなかった諸問題を、信仰の光に照らして解明する助け」だからです。

すなわち、教会の教義が変更されたわけではなく、21世紀の今を生きる信仰の光に照らして、教会の教えを理解する手引きが明確に示されたと言うことであります。

 (2018.8.4記)

(菊地功=きくち・いさお=東京大司教 )(「司教の日記」より転載)

2018年8月11日

・チリ司教協議会が性的虐待問題に具体策―教皇、早期実施指示

(2018.8.8 「カトリック・あい」)7日付けのVaticanNewsなどが伝えたところによると、聖職者による児童性的虐待とその組織的ともいえる隠ぺい問題で大揺れのチリで、司教協議会が3日まで特別総会を開き、具体的な対応策を決議。教皇フランシスコは5付けで同協議会あてに短い書簡を送り、特別総会の決議に従って具体的な対応を急ぐよう、強く促された。

 チリ司教協議会は、特別総会閉会後に決議について声明を発表し、「司牧者としての自分たちの義務をおろそかにし、司祭や修道者によって犯された重大な罪と不正の犠牲者に、耳を傾け、彼らを信じ、寄り添い、ケアをすることができなかった」こと、また「性的搾取や権力の乱用の犠牲者の苦しみを前に、迅速に対応できないことがしばしばあった」ことを謙虚に反省し、「何よりもまず犠牲者らに赦しを乞う」と謝罪を表明。

 さらに「自分たちの過ちと怠慢が人々の苦しみと疑念を生み、教会の交わりを損ね、回心と希望を妨げたこと」を反省し、「真理と、正義、犠牲者への償いのために努力する」とともに、罪を犯した者が処罰から逃れることができないように①法的な時効の研究②未成年虐待問題との闘いのためのガイドライン策定③警察当局との完全な協力④未成年虐待を犯した聖職者の名を刑法・教会法における判決結果と合わせて公表⑤虐待の犠牲者たちへの直接的ケアと再発防止策の強化-などを約束している。

 チリ司教協議会の発表によると、教皇は書簡で、決議の内容を注意深く読み、その考察と識別の作業と、未成年虐待問題に取り組むための決断に心を打たれた、としたうえで、「このような現実的かつ具体的な対策は、問題に対処する動きを全面的に助けるでしょう」と婉曲的な表現で、具体的かつ厳正な対応を急ぐように求めた。

 チリのカトリック教会は、聖職者による児童の性的虐待を長期間にわたって事実上見過ごし、隠ぺいした問題で、教会内外から厳しく責任を追及されている。司教団は、ようやく4月に会議を開いて具体的な検討を始め、5月中旬には教皇からバチカンに召喚されて、具体的報告を求められるとともに、司教全員が辞表を教皇に提出。教皇は、これまでにこの問題の中心となって来た司教二名の辞表を受理し、事実上更迭処分にしている。

 

2018年8月8日

・「死刑は許容しがたい」-教皇フランシスコが「教会のカテキズム」を改定(CRUX)

(2018.8.2 Crux Rome Bureau Chief  Inés San Martín)
ローマ発―「カトリック教会のカテキズム」では、死刑は今後、いかなる状況においても承認することが出来ない、との判断になる―教皇庁が2日、発表したところによると、教皇フランシスコは、ヨハネ・パウロ2世教皇の下で1992年12月に公布された現在の「カトリック教会のカテキズム」の概論を次のように変更することを承認した。

 「カトリック教会のカテキズム」では今後、死刑に関する表現を「死刑は許容しがたい。なぜなら、それが人の inviolability (不可侵性)と dignity (尊厳)を攻撃するものだからです」とし、さらに教会は「世界的な死刑廃止のために決意をもって取り組みます」とする。

  ヨハネ・パウロ2世が公布した現在のカテキズムでは、死刑に関して「教会の伝統的な教えによれば、違反者の身元や責任が完全に確認された場合、それが不当な侵犯者から効果的に人命を守ることが可能な唯一の道であるならば、死刑を科すことも排除されていません」(2267項)とする一方、襲撃者から人を守るのに、犯罪者を死に至らしめないような手段が十分に確保されている場合、当局はその手段に限定すべきことも規定され、「その様な手段は、共通善の具体的な状況に一層よく合致するからであり、人間の尊厳に一層かなうからです」と極力、抑制すべきこと強調している。

 カテキズムの個別箇所追加・変更は、これまでにもヨハネ・パウロ2世が1995年に出した回勅「Evangelium vitaeいのちの福音」をもとに1997年に行われた例があり、現在のカテキズムには当初の表現にさらに、「死刑執行が絶対に必要とされる事例は、『皆無ではないにしても、非常にまれなことになりました』」という表現が追加されている。

 2日のバチカン広報発表のラダリア教理省長官の声明では「教皇フランシスコはカテキズム2267項の変更を承認した」としている。

 声明によれば、変更後の、2267項では「公正な裁判にもとずいて、司法当局が死刑を採用することは、これまで長い間、しかるべき犯罪の重大さに鑑みて適切であり、受け入れられるもの、共通善を守る最終的な手段と考えられてきました」が、今日では「極めて重大な犯罪がなされた後でも、人の尊厳が失われていない、という認識が高まっています。加えて、国家による刑事制裁の重要性についての新たな理解が生まれています」。そして「市民の保護を確実なものとし、犯罪を救済する可能性を決定的に奪わないような、犯罪者を拘禁する効果的な体制が近年、開発されています」との認識を示している。

 このような理由から、「福音の光の中で」、教会はこれまでの慣行は許容しがたい、と教えている。

 カテキズム2267項の変更と合わせて、世界の司教たちに宛てたラダリア長官の書簡が明らかにされたが、長官はその中で、カテキズムの発表から25周年を迎えたこの機会に、死刑に関する教えを「この点に関する教理の進展をよりよく反映するように改める」のが教皇フランシスコの意向である、と説明している。

 今回の変更に先立って、教皇は死刑について「人の尊厳をひどく傷つける」ものであり、「非人間的なやり方」と述べ、「福音に反するものです。なぜなら、それは、創造者の目には常に聖なるものである人間の命を抹殺する自発的な決定であり、究極において、神のみが真の審判者であり、保証人であるからです」としていた。

 ラダリア長官によれば、カテキズムのこの改定は「教導権による従来の教えと相反しない教理の進展」を示すもの、であり、従来の死刑に関するカテキズムの表現は、刑事制裁に異なる理解があった社会的な状況の中で理解できるものであり、それは「犯罪者が再犯を侵さないことを保証することが従来よりも難しくなっていた状況の下で作られた」とした。

 そうした状況からのこれまでの進展について、長官は、現教皇の先立つ二人の教皇について言及し、ヨハネ・パウロ2世の回勅「Evangelium vitaeいのちの福音」が教理の進展に重要な役割を果たした、として、その回勅の中でヨハネ・パウロ2世は「死刑が社会において『正当な防衛』とみなされている時でさえも、反対の声の高まりがあった」ことを含め、命の新たな文化への希望のしるしを挙げていたことを指摘。回勅は死刑の問題についての考え方の変化の口火を切った、死刑が正当化されるケースは、現実には「実際的なものとして存在しない」としていた、と長官は語った。

 長官は、ヨハネ・パウロ2世のこのような死刑廃止に関する認識は、「死刑を制限するあらゆる努力の必要性に、社会の指導者たちが注意を向けるように」と呼びかけたベネディクト16世に引き継がれた」とし、声明の最後を、新しい規定によって、「一人ひとりの命の尊厳を認識し、政府当局との敬意を持った対話の中で、死刑がまだ適用されている地域で死刑を制限する条件の策定を進める」努力が強まることを期待する、と締めくくっている。

(2018.8.3 バチカン放送=日本語=)

 教皇フランシスコは、『カトリック教会のカテキズム』中の、死刑について言及する部分、n.2267の変更を承認。これにより、同箇所は、「教会は福音の光に照らし、『人間の不可侵性と尊厳を侵害することから、死刑は許容しがたいもの』と教えている」と書き換えられた。

 教皇庁教理省長官、ルイス・ラダリア枢機卿は、8月1日付で文書を発表し、教皇フランシスコが2018年5月11日、同枢機卿への接見の席で、『カトリック教会のカテキズム』のn.2267の新たな内容を認可すると共に、それを各言語に訳し、同カテキズムのすべての版において、挿入するよう命じた野を受けて、教理省は8月1日付で「死刑をめぐる、『カトリック教会のカテキズム』n.2267の新しい内容に関しての司教への書簡」を公布。同項の変更の経緯と、前任の教皇たちの死刑をめぐる教え、そして、教皇フランシスコによるその継続性に触れている。

*教皇、『カテキズム』中の死刑に関する項目改訂を承認(2018.8.3付け カトリック中央協議会)

 バチカン公式サイトの8月2日の発表によりますと、教皇フランシスコは、『カトリック教会のカテキズム』中の、死刑に関する2267項の変更を承認しました。改訂された同項は、「国家が科す刑罰の意義に関して、新たな理解が現れてきて」おり、「死刑は認められません」と述べています。

 またこれに関し教皇庁教理省長官のルイス・フランシスコ・ラダリア・フェレール枢機卿から全世界の司教たちに宛てた書簡も発表されています。この中で同枢機卿は、「この教えは実際、懲罰への理解が変化してきた社会背景の中で、行政当局が共通善を保護するという一義的な責任の光に照らし、説明しうるもの」と述べています。

2267項の改訂版の暫定訳は、以下の通りです(正式な訳文は、後日発表されます)。2267 合法的な行政機関が、公正な裁判に従い死刑を用いることは長年、特定の重大犯罪に対する適切な対応であり、たとえ極端ではあっても、共通善を守るための手段として受け入れられると考えられてきました。しかしながら、今日、たとえ非常に重大な罪を犯したあとであっても人間の尊厳は失われないという意識がますます高まっています。加えて、国家が科す刑罰の意義に関して、新たな理解が現れてきています。最後に、より効果的な拘留システムが発展してきており、それによって市民の安全を適正に確保することができますが、同時に、犯罪者から罪を償う可能性を決定的に奪うことはありません。
これらの結果として教会は福音の光に照らして次のように教えます。「死刑は認められません。それは人間の不可侵性と尊厳への攻撃だからです」【1】。さらに教会は全世界での死刑廃止のために決然と働きます。

注1.教皇フランシスコ、「教皇庁新福音化推進評議会の会議参加者へのあいさつ、2017年10月11日」(オッセルバトーレ・ロマーノ2017年10月13日号)

また、同項目のこれまでの文章は以下の通りです。

2267 教会の伝統的な教えによれば、違反者の身元や責任が完全に確認された場合、それが不当な侵犯者から効果的に人命を守ることが可能な唯一の道であるならば、死刑を科すことも排除されていません。
攻撃する者に対して血を流さずにすむ手段で人命を十分に守ることができ、また公共の秩序と人々の安全を守ることができるのであれば、公権の発動はそのような手段に制限されるべきです。そのような手段は、公共善の具体的な状況にいっそうよく合致するからであり、人間の尊厳にいっそうかなうからです。
実際、今日では、国家が犯罪を効果的に防ぎ、償いの機会を罪びとから決定的に取り上げることなしに罪びとにそれ以上罪を犯させないようにすることが可能になってきたので、死刑執行が絶対に必要とされる事例は「皆無ではないにしても、非常にまれなことになりました」。

⇒「カトリック・あい」評論=(2018.8.10改定)

 「死刑廃止」を教会の教えとして明確にすることは評価できる。だが、それと同時に、死刑に代わる、多発する残虐な犯罪を抑止する手立てについても、可能な限り言及する必要があるのではないだろうか。

 実際に、世界中で、テロ、内戦はもとより、一般人の間でも、殺人を含む残虐な犯罪が後を絶たず、むしろ増加する傾向にある。だが、今回の改定前のカテキズムにも「今日では、国家が犯罪を効果的に防ぎ、償いの機会を罪びとから決定的に取り上げることなしに、罪びとにそれ以上、罪を犯させないようにすることが可能になって来た」と書かれており、今回の改定でも、同じ表現が盛り込まれ、「死刑廃止」推進の根拠とされている。だが、本当にこのような認識を、確信をもって世界の皆が受け入れるだろうか。とくに、現実の社会の中で、犯罪の凶悪化に恐れを感じ、苦しみ、被害に遭った人々にとって、「国家が犯罪を効果的に防ぎ・・罪びとにそれ以上、罪を犯させないようにすることが可能になって来た」というような認識をもつことが出来るとは、とても思われない。

 実際、米国では銃の乱射による大量殺人が繰り返し起きているし、アジア、アフリカの国々でも、テロの犠牲になる人々が後を絶たない。日本でも、保険金狙いなどの計画殺人、高速道路や駅などでの衝動的な殺人、あるいは自分の子供など弱者をやすやすと手にかける残虐な犯罪が、むしろ増えているようだ。その一方で、カトリック国のフィリピンのように、2006年にアロヨ大統領の下で死刑を廃止したものの、ドゥテルテ現大統領が国内に氾濫する麻薬の撲滅作戦の一環として、裁判抜きの麻薬犯罪者処刑を続け、それに対して教会は何ら効果的な手が打てないでいる、という「死刑廃止」はるか以前の状態の国もある。

 こうした現状を見る時、死刑廃止のみを叫ぶのは、このような傾向を加速しかねず、きれいごととしか見られない恐れもあるのではないか。実際に、日本では20歳の成人に達していない者の殺人など残虐な犯罪にもほとんどが少年法に保護されて厳罰に処されず、成人の場合も殺人が一人の場合は死刑を宣告されることはまずない。しかも、日本には、他国のような終身刑や累積刑がなく、死刑でない場合の最高刑は「無期懲役」であり、10年かそこいらで刑を終えて出所してしまうケースが多い。現に、そうしたことを事前に知っていて「どうせ殺しても、まだ『少年』だから厳しく罰せられることはない」などと、たかをくくって犯行に及ぶ例も少なくないと聞く。

 このような現状を放置したままで、ただ「死刑廃止」を叫ぶなら、それはすでに多くの人々から批判のある「加害者の人権を優先し、被害者・親族の人権が事実上なおざりにされる状況」を加速し、残虐な犯罪を加速する環境を作ってしまうことを懸念せざるを得ない。

 日本の教会も、単にきれいごとの「死刑廃止」を叫ぶのでなく、具体的に、現在の犯罪の残虐化、非人間化を防ぐ、死刑に代わる手立て-例えば、終身刑、累積刑など罪を一生かかって刑務所内で償わせることや抜本的な更生プログラムの開発など―もあわせて提起し、その方向で刑法、刑事訴訟法を改正するような運動を考えるべきではないか。

*バチカン広報が2日に発表した「カトリック教会のカテキズム」2267項の改定内容の英語公式訳の全文は以下の通り。

[New revision of number 2267 of the Catechism of the Catholic Church on the death penalty – Rescriptum “ex Audentia SS.mi”, 02.08.2018]

  The Supreme Pontiff Francis, in the audience granted on 11 May 2018 to the undersigned Prefect of the Congregation for the Doctrine of the Faith, has approved the following new draft of no. 2267 of the Catechism of the Catholic Church, arranging for it to be translated into various languages and inserted in all the editions of the aforementioned Catechism.

The death penalty

2267.  Recourse to the death penalty on the part of legitimate authority, following a fair trial, was long considered an appropriate response to the gravity of certain crimes and an acceptable, albeit extreme, means of safeguarding the common good.Today, however, there is an increasing awareness that the dignity of the person is not lost even after the commission of very serious crimes. In addition, a new understanding has emerged of the significance of penal sanctions imposed by the state. Lastly, more effective systems of detention have been developed, which ensure the due protection of citizens but, at the same time, do not definitively deprive the guilty of the possibility of redemption.Consequently, the Church teaches, in the light of the Gospel, that “the death penalty is inadmissible because it is an attack on the inviolability and dignity of the person”,[1] and she works with determination for its abolition worldwide.

*上記の改定について、教理省から全世界の司教あての書簡の英語訳全文は以下の通り。

[Letter to the Bishops regarding the new revision of number 2267 of the Catechism of the Catholic Church on the death penalty]

1. The Holy Father Pope Francis, in his Discourse on the occasion of the twenty-fifth anniversary of the publication of the Apostolic Constitution Fidei depositum, by which John Paul II promulgated the Catechism of the Catholic Church, asked that the teaching on the death penalty be reformulated so as to better reflect the development of the doctrine on this point that has taken place in recent times.[1] This development centers principally on the clearer awareness of the Church for the respect due to every human life. Along this line, John Paul II affirmed: “Not even a murderer loses his personal dignity, and God himself pledges to guarantee this.”[2]

2. It is in the same light that one should understand the attitude towards the death penalty that is expressed ever more widely in the teaching of pastors and in the sensibility of the people of God. If, in fact, the political and social situation of the past made the death penalty an acceptable means for the protection of the common good, today the increasing understanding that the dignity of a person is not lost even after committing the most serious crimes, the deepened understanding of the significance of penal sanctions applied by the State, and the development of more efficacious detention systems that guarantee the due protection of citizens have given rise to a new awareness that recognizes the inadmissibility of the death penalty and, therefore, calling for its abolition.

3. In this development, the teaching of the Encyclical Letter Evangelium vitæ of John Paul II is of great importance. The Holy Father enumerated among the signs of hope for a new culture of life “a growing public opposition to the death penalty, even when such a penalty is seen as a kind of ‘legitimate defense’ on the part of society. Modern society in fact has the means of effectively suppressing crime by rendering criminals harmless without definitively denying them the chance to reform.”[3] The teaching of Evangelium vitæ was then included in the editio typica of the Catechism of the Catholic Church. In it, the death penalty is not presented as a proportionate penalty for the gravity of the crime, but it can be justified if it is “the only practicable way to defend the lives of human beings effectively against the aggressor,” even if in reality “cases of absolute necessity for suppression of the offender today are very rare, if not practically non-existent” (n. 2267).

4. John Paul II also intervened on other occasions against the death penalty, appealing both to respect for the dignity of the person as well as to the means that today’s society possesses to defend itself from criminals. Thus, in the Christmas Message of 1998, he wished “the world the consensus concerning the need for urgent and adequate measures … to end the death penalty.”[4] The following month in the United States, he repeated, “A sign of hope is the increasing recognition that the dignity of human life must never be taken away, even in the case of someone who has done great evil. Modern society has the means of protecting itself, without definitively denying criminals the chance to reform. I renew the appeal I made most recently at Christmas for a consensus to end the death penalty, which is both cruel and unnecessary.”[5]

5. The motivation to be committed to the abolition of the death penalty was continued with the subsequent Pontiffs. Benedict XVI recalled “the attention of society’s leaders to the need to make every effort to eliminate the death penalty.”[6] He later wished a group of the faithful that “your deliberations will encourage the political and legislative initiatives being promoted in a growing number of countries to eliminate the death penalty and to continue the substantive progress made in conforming penal law both to the human dignity of prisoners and the effective maintenance of public order.”[7]

6. In this same prospective, Pope Francis has reaffirmed that “today capital punishment is unacceptable, however serious the condemned’s crime may have been.”[8] The death penalty, regardless of the means of execution, “entails cruel, inhumane, and degrading treatment.”[9] Furthermore, it is to be rejected “due to the defective selectivity of the criminal justice system and in the face of the possibility of judicial error.”[10] It is in this light that Pope Francis has asked for a revision of the formulation of the Catechism of the Catholic Church on the death penalty in a manner that affirms that “no matter how serious the crime that has been committed, the death penalty is inadmissible because it is an attack on the inviolability and the dignity of the person.”[11]

7. The new revision of number 2267 of the Catechism of the Catholic Church, approved by Pope Francis, situates itself in continuity with the preceding Magisterium while bringing forth a coherent development of Catholic doctrine.[12] The new text, following the footsteps of the teaching of John Paul II in Evangelium vitæ, affirms that ending the life of a criminal as punishment for a crime is inadmissible because it attacks the dignity of the person, a dignity that is not lost even after having committed the most serious crimes. This conclusion is reached taking into account the new understanding of penal sanctions applied by the modern State, which should be oriented above all to the rehabilitation and social reintegration of the criminal. Finally, given that modern society possesses more efficient detention systems, the death penalty becomes unnecessary as protection for the life of innocent people. Certainly, it remains the duty of public authorities to defend the life of citizens, as has always been taught by the Magisterium and is confirmed by the Catechism of the Catholic Church in numbers 2265 and 2266.

8. All of this shows that the new formulation of number 2267 of the Catechism expresses an authentic development of doctrine that is not in contradiction with the prior teachings of the Magisterium. These teachings, in fact, can be explained in the light of the primary responsibility of the public authority to protect the common good in a social context in which the penal sanctions were understood differently, and had developed in an environment in which it was more difficult to guarantee that the criminal could not repeat his crime.

9. The new revision affirms that the understanding of the inadmissibility of the death penalty grew “in the light of the Gospel.”[13] The Gospel, in fact, helps to understand better the order of creation that the Son of God assumed, purified, and brought to fulfillment. It also invites us to the mercy and patience of the Lord that gives to each person the time to convert oneself.

10. The new formulation of number 2267 of the Catechism of the Catholic Church desires to give energy to a movement towards a decisive commitment to favor a mentality that recognizes the dignity of every human life and, in respectful dialogue with civil authorities, to encourage the creation of conditions that allow for the elimination of the death penalty where it is still in effect.

The Sovereign Pontiff Francis, in the Audience granted to the undersigned Secretary of the Congregation for the Doctrine of the Faith on 28 June 2018, has approved the present Letter, adopted in the Ordinary Session of this Congregation on 13 June 2018, and ordered its publication.

Rome, from the Office of the Congregation for the Doctrine of the Faith, 1 August 2018, Memorial of Saint Alphonsus Liguori.

Luis F. Card. Ladaria, S.I.  Prefect     X Giacomo Morandi Titular Archbishop of Cerveteri Secretary

2018年8月3日

・欧米の侍者の若者たち約7万人が、ローマへ巡礼

ローマに巡礼した侍者の少年少女たち、2018年7月30日、ローマのサンタ・マリア・イン・アラチェリ教会前で

  (2018.7.31 バチカン放送)7月30日から8月3日まで、国際侍者協会(Coetus Internationalis Ministrantium,  CIM)主催のローマ巡礼が行われ、ミサで侍者として奉仕するヨーロッパの少年少女たち、およそ7万人が、巡礼のためローマを訪れている。

 侍者は、ミサの際、祭壇での儀式に参列し、司祭と助祭の傍らで、祭儀の進行に常に注意を払いながら、各要所で必要とされる助けを行う役割を持ち、祭壇奉仕者ともいわれる。

 今年、第12回を迎えたCIMのローマ巡礼は、「平和を尋ね求め、追い求めよ」(詩編35,15b)をテーマに、ドイツ司教協議会・青少年司牧委員会に率いられた約5万人をはじめ、東西のヨーロッパ諸国および米国など、19か国から、合わせておよそ7万人の侍者の少年少女らが参加して行われた。

 巡礼期間中、参加者らは、司教らと共に、ローマのおよそ300ヵ所で、ミサや赦しの秘跡に与り、祈りの集いや信仰の分かち合い、見学や遠足など、多くのプログラムを体験。行事の頂点として、7月31日夕方から、バチカンの聖ペトロ広場で、教皇フランシスコとの集いが開催される。

 ドイツ司教協議会・青少年司牧委員会議長のステファン・オスター司教は、この巡礼が、若者たちが信仰のアイデンティティーを深め、互いの一致を強めると共に、世界の若者との出会いを通して、侍者の任務の普遍性に気付く機会になることを期待した。

 今回のCIMの巡礼のために「Go Rome」というアプリケーションソフトが作られた。これによって、参加者らは巡礼中の日程を同時進行で追い、意見や感想を交換したり、今年10月に行われる若者をテーマにしたシノドスに向け、教皇に質問を送ることもできるという。

2018年8月1日

・教皇、米枢機卿に続いて豪大司教の“地位はく奪”-性的虐待問題に断固とした姿勢

 

(2018.7.31「カトリック・あい」)聖職者による幼児・少年への性的虐待とその隠蔽が欧米など世界の教会を揺るがし続けているが、教皇フランシスコはこれに関連して、7月28日の米ワシントンの名誉大司教、セオドア・マカリック枢機卿に続き、30日に、元オーストラリア司教協議会会長でアデレード教区長のフィリップ・ウイルソン大司教の辞表を受理した。両国の教会にいまだに強い影響力を持つ高位聖職者の事実上の”地位をはく奪”は、長引く聖職者虐待問題の収拾に対する教皇の強い決意の表れとみられる。

 Vatican Newsの30日の報道によると、教皇によるウイルソン大司教からの辞表の受理は、大司教がオーストラリアの裁判所から1970年代にある司祭が侍者の少年二人に性的虐待を行ったことを知りながらこれを隠ぺいしたとして有罪とされたのを受けたもの。

 定年まで8年を残している大司教は6月3日に1年の実刑を言い渡されていたが、これ以前の公判中の5月にアデレード大司教区での司牧責任者は降りたものの、容疑を否認し続け、大司教の地位を返上することを拒否。有罪判決が出た場合には、これを不服として控訴する意向を示し、控訴が退けられた場合に限って、地位を返上するとしていた。

 これに対して、同国の教会内外から強い批判の声が広がり、マルコム・ターンブル首相はじめ多くの政治家、さらに全豪司祭会議も、教皇に対して、大司教を解任するよう異例の要請を行っていた。

 今回の教皇によるウイルソン大司教の辞表受理について、全豪司教協議会会長のマーク・クラリッジ大司教が声明を発表し、「今回の教皇の措置は、性的虐待を受け、今も苦しむ人々にとって、いくらかの慰めになるかもしれない。だが、犠牲者が耐えている痛みは終わりません」と語った。

 またこれより前、28日付けのVatican Newsは、教皇フランシスコが28日、米ワシントンの名誉大司教、セオドア・マカリック枢機卿の枢機卿団からの退任を受理した、と報じていた。同日、マカリック枢機卿から辞表が提出されたのを受けたもの。同日のバチカン広報局の発表によると、これと併せて、教皇は、彼をすべての公務から外した。

*「カトリック・あい」解説*

 なお、25日付けのCruxによれば、同じ米国のボストン大司教で、聖職者による性的虐待問題への対応を教皇から任されているショーン・オマリー枢機卿は、マカリック枢機卿に対して最近、性的虐待の訴えが出されたのを受けて、毅然とした対応を訴えていた。

 マカリック枢機卿については、先月、ニューヨーク大司教区が調査委員会が、彼がニューヨーク大司教区で若い司祭として働いていた当時、侍者の少年に性的いたずらをしたと信頼できる訴えが出ていると判断したことを発表し、ニューヨークタイムス、ワシントンポスト両有力紙も、彼が何十年にもわたって複数の性的虐待を繰り返していた、との記事を掲載。これに対して、オマリー枢機卿は24日の声明で、これらの新たな案件の判断は「速やかに、断固として」行わねばならない、と言明していた。

2018年7月31日

・バチカンが韓国人神父を外交官に任命(CJC)

【2018.7.20 CJC】韓国の聯合ニュースが報じるところでは、韓国天主教(カトリック)大田教区所属のファン・インジェ神父が、バチカン(ローマ教皇庁)国務省からルワンダの大使館への人事発令を受けたことが、7月20日までに分かった。

 ファン氏は、バチカンの『外交官学校大学院』を卒業、外交官として第一歩を踏み出すことになった。ファン氏の外交官任用により、韓国カトリック教会出身のバチカン外交官は駐タイ・カンボジア・ミャンマー教皇庁大使として在職中の張仁南(チャン・インナム)大司教に続き2人目となる。

2018年7月25日

・19世紀の伊の青年信徒が列聖へ-10月に伊独西の6人と共に聖人に

教皇フランシスコの主宰による、列聖に関する枢機卿会議

(2018.7.19 バチカン放送)教皇フランシスコが19日招集された枢機卿会議で、19世紀のイタリアの青年信徒、福者ヌンツィオ・スルプリツィオの列聖が決まった。今年10月14日、すでに決まっている6人と共に列聖される。

 他の6人は、教皇パウロ6世(1897-1978)、エルサルバドルの殉教者オスカル・アルノルフォ・ロメロ・ガルダメス大司教(1917-1980)、イタリアの教区司祭で女子修道会創立者のフランチェスコ・スピネッリ神父(1853-1913)、同じくイタリアの教区司祭、ヴィンチェンツォ・ロマーノ神父(1751-1831)ドイツ出身の修道会創立者マリア・カテリナ・カスパー修道女(1820-1898)、スペイン出身で宣教女会を創立したナザリア・イニャチア・ディ・サンタ・テレザ・ディ・ジェズ修道女(1889-1943)。

 今回新たに列聖が決まったヌンツィオ・スルプリツィオは、貧困と、過酷な生活、重い病苦を背負いながらも、純粋で力強い信仰に支えられた生涯を送った。19世紀初頭、イタリア中部アブルッツォ地方の寒村に生まれ、父は靴職人、母は糸を紡いで生計を立てていたが、3歳で父を失い、5歳で母を失った。

 引き取った母方の祖母も3年後に亡くなり、母方の叔父に引き取られたが、叔父は幼い甥を労働力としか見なさず、教育も、十分な食事も、防寒に必要な衣服も与えなかった。鍛冶場で一日中働かせ、運ぶ手段も道具もないままに、厳しい気候の中、大人でも重い物を持たせ、山道を歩いて遠距離に届けさせた。

 ヌンツィオの慰めは、教会に入って、聖櫃の前で祈り、イエスと共にいることだけだったが、苛酷な環境の中で、ヌンツィオの片足は壊疽を患い、14歳の時、ラクィラの病院に入院。十分な治療もさらないまま、家に戻され、再び叔父から労働を強いられた。だが、ナポリで軍役に就いていた父方の叔父が、ヌンツィオの噂を聞いてナポリに呼び寄せ、「貧しい人々の父」と呼ばれていた信仰篤いヴォーキンガー大佐との出会いによって、彼はナポリの病院で治療を受けることになった。

 入院中、ヌンツィオは、病者たちの使徒となり、患者たちを見舞い、信仰に満ちた言葉で彼らを励まし、自らの苦しみを捧げる価値を教えた。子どもたちに公教要理を教え、大人たちを信仰生活へと導いた。奉献生活を志していた彼は、第二の父となった大尉の家に引き取られてからも、祈りや、ミサ、黙想を通し、一日をくまなく神に捧げ、修道者のような生活をおくった。一時小康状態を得たものの、病状は急激に悪化。自らの苦しみを神に捧げたヌンツィオ・スルプリツィオは、1836年、19歳の若さで帰天。彼の聖性に対する人々の声は、すぐに広まった。

 教皇ピオ9世は1859年、ヌンツィオ・スルプリツィオの英雄的徳を認め、尊者として宣言。教皇パウロ6世は第2バチカン公会議中の1963年、彼を福者として宣言し、青少年と、若い労働者たちの模範とされた。

(「カトリック・あい」編集)

 

2018年7月20日

・教皇が「若者シノドス」の”教皇代理”にミャンマーなど欧米以外から4人任命

(2018.7.14 Vatican News)

 「若者」をテーマにした世界代表司教会議(シノドス)第15回通常総会が10月3日から28日にかけてバチカンで引かれるが、教皇フランシスコは14日、同会議のpresidents-delegate として、ミャンマーのボー枢機卿など4人の枢機卿を任命した。

 Presidents-delegateは、シノドスの主宰者である教皇の代理として、総会を取り仕切る役割を与えられ、シノドスの作業を指導し、会議を効果的に進めるために、必要があれば特定の参加者に特別の任務を与える責任を持つ。また、会議がまとめる文書に署名をする。複数のpresidents-delegateがいる場合は、全員がシノドスの最終文書に署名をすることになっている。

 任命された4人の枢機卿は、ルイス・ラファエル・サコ、カルデア典礼バビロニア総大司教(イラク)、デシレ・ツァラハザナ、トゥアマシナ大司教(マダガスカル)、チャールズ・マウン・ボー枢機卿(ミャンマー)、ジョン・リバット、ポートモレスビー大司教(パプアニューギニア)。

 ⇒Presidents-delegateは、日本語に訳せば、「シノドスにおける教皇代理・総会議長」とするのが、実態に近いかもしれない。それだけ、今回シノドスの成否に重要な役割を果たすことになるわけだ。また選ばれた4人のうち、イラクとマダガスカルの2人は前月、枢機卿に任命されたばかり。また4人ともに欧米以外の出身で、中東、アフリカ、東南アジア、太平洋島しょ国から1人ずつ選ばれているのが注目される(「カトリック・あい」南條俊二・翻訳も)

2018年7月15日

・教皇、鹿児島教区の郡山司教の引退受理、後任は中野裕明師に

 教皇フランシスコは7日、鹿児島教区のパウロ郡山健次郎司教の引退届けを受理し、後任には、同教区司祭の、フランシスコ・ザビエル中野裕明神父を鹿児島教区司教に任命しました。叙階式の日程などは追って発表されます。

2018年7月10日