♰「皆へのもてなしの心を学ぼう」-キリスト教一致祈祷週間の終わりに

ローマの城壁外の聖パウロ大聖堂で行われたエキュメニカルな夕べの祈り 2020年1月25日ローマの城壁外の聖パウロ大聖堂で行われたエキュメニカルな夕べの祈り 2020年1月25日  (ANSA)

(2020.1.26 バチカン放送)

 18日に始まった全世界の「第53回キリスト教一致祈祷週間」が「聖パウロの回心」を祝う25日、最終日を迎え、教皇フランシスコは同日午後、ローマの城壁外の聖パウロ大聖堂で、教会一致の夕べの祈りをとり行われた。

 この集いには、正教会のエキュメニカル総主教府使節や、英国国教会カンタベリー大主教のローマ代理、教皇庁キリスト教一致推進評議会議長クルト・コッホ枢機卿などが出席。教皇とともに、使徒聖パウロの墓前で、そしてイタリアのテルモリからもたらされた聖パウロの弟子・聖テモテの聖遺物の前で祈りを捧げた。

 今年の「キリスト教一致祈祷週間」のテーマは、「人々は大変親切にしてくれた」(使徒言行録28章2節参照)。教皇は、集いでの説教で、使徒言行録に記された使徒パウロたちの船が暴風で難破し、打ち上げられたマルタ島で住民から温かいもてなしを受けた出来事を振り返られ、「使徒言行録のこのエピソードは、私たちキリスト者の、神が望まれる一致への旅路でもあります」と話された。

 そして「パウロの遭難の体験は、最も傷つきやすく弱い立場にある人々が、最も大切な救いのメッセージをもたらすことができることを物語っています」として、「世界の各地で疎外や迫害を受けているキリスト者たちの存在」を想起された。また、「神は一緒に航海するすべての者を自分に任せてくださった「」と、パウロが天使のお告げを人々に説明しているように、「神にとって何より大切なことは、すべての人々の救いです」と強調された。

 教皇は、マルタの人々のまれに見る親切、特に雨と寒さをしのげるように、と島の住民が焚いてくれた火は、「人間的な温かさのシンボルです」と語られ、最後に、「このキリスト教一致祈祷週間を機会に、私たちも、キリスト者同士はもとより、異なる宗教の信者たちに対しても、もてなしの心を学びましょう」と呼びかけ、受容の精神をキリスト者の共同体と家庭の伝統として示された。

2020年1月27日

♰「霊的な一致と対話は、キリスト者が『共にいること』の意味を深めるーフィンランドのルーテル教会使節団と

教皇フランシスコ、フィンランドのルーテル教会のエキュメニカル使節団と 2020年1月17日教皇フランシスコ、フィンランドのルーテル教会のエキュメニカル使節団と 2020年1月17日  (Vatican Media)

 教皇フランシスコは、1月17日、フィンランドのルーテル教会のエキュメニカル使節団とお会いになった。使節団は、18日から始まる「キリスト教一致祈祷週間」と、フィンランドの使徒、聖ヘンリック(ウプサラ司教・殉教者=英国生まれ、生年不詳、1156年にフィンランドで没)の祝日(1月20日)を記念してバチカンを訪れた。

 使節団への挨拶で、教皇は「先の日曜日に記念した『キリストの洗礼』の祝日は、私たちの洗礼を思い起こさせるもの」とされ、「自分自身の洗礼に対する感謝の念において、すべてのキリスト者は一致しています」と話された。また「キリスト者たちは、キリストの神秘体の肢体として一致し、互いの重みを支え合い、福音を証しするという共通の使命を負っているのです」と強調された。

 さらに、今年の「キリスト教一致祈祷週間」のテーマ、「人々は大変親切にしてくれた」(使徒言行録28章2節参照)を取り上げ、「人をもてなし、受容することも、日々の共通の信仰の証しです」と指摘。「人をもてなす者は、貧しくなるのではなく、より豊かになります… 与える者は、与えられるのです」とも話された。

 また、「私たちキリスト者は、人類のメッセンジャーです。人となられた神のあわれみを受ける者として共に歩んでいます」としたうえで、「キリスト者の共同体とは、単に隣り合い、並んでいることではなく、より深い意味で『共にいること』でありたい」と願われ、「霊的なエキュメニズムと対話は、この『共にいること』の意味を深めるためのもの… 『共にいること』の促進と発展が、フィンランドに実りをもたらしますように」と祈られた。

(編集「カトリック・あい」)

 

2020年1月19日

・今年のキリスト教一致祈祷週間の心は「移民・難民の人々へのいたわり」(VN)

Migrants at a reception center in MaltaMigrants at a reception center in Malta 

 

 

 

 

2020年1月18日

・第三主日の26日は教皇が定めた「神のみことばの主日」の初の日

 (2020.1.18 カトリック・あい)

 教皇が昨年秋、自発教令で年間第3主日を「神のみことばの主日」とされたが、1月26日はその初の記念日となる。 教皇フランシスコは昨年9月30日、自発教令「Aperuit illis(彼らに開いた)」を公布し、典礼暦の年間第3主日を「神のみことばの主日」と定められた。

 この主日について教皇は「典礼年間の中でも、ユダヤ教との絆を強めると同時に、キリスト者の一致を祈るよう招く時期に位置しています… 聖書はその言葉に耳を傾ける者に、真の堅固な一致に到達するための道を指し示すことから、教会一致を祈る時期に『神のみことばの主日』を祝うことには「エキュメニカルな意義があります」と説明され、「教会共同体が、『神のみことばの主日』を祭日としてふさわしく過ごす方法を見つけ、ミサの中で聖書を聖なるものとして祝うことで、みことばが持つ価値を会衆にはっきりと示すことが重要です」と強調された。

 なお、教令が公布された9月30日は、4大ラテン教父の一人で、「ブルガタ訳」と呼ばれるラテン語訳聖書の翻訳者として知られる聖ヒエロニモ司祭教会博士(347年頃-420年)を記念する日に当たる。聖ヒエロニモは2020年に帰天1600年を迎えるが、その記念日に自発教令を発表された教皇は、「聖書を知らぬことは、キリストを知らぬこと」という同聖人の言葉を引用しつつ、「御言葉に捧げた日曜日が、神の民に聖書に対する宗教的で熱心な親しみを育む」ことを願われた。

 自発教令のタイトル「Aperuit illis(彼らに開いた)」は、復活後のイエスが弟子たちに現れ、昇天の前に、「聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いた」というルカ福音書の記述(24章45節)から採られている。

【教皇フランシスコ自発教令『アペルイト・イッリス』(Aperuit illis「彼らに開いた」の意)の全文】(Sr.岡立子による試訳)】
1.「イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、言われた」(ルカ福音書24 章45節)。これは、復活の主によって成し遂げられた、昇天前の最後のジェスチャーの一つです。

 主は弟子たちが共に集まっているところに現れ、彼らと共にパンを裂き、彼らの心(精神、頭脳)を聖書の理解へと開きました。おびえ、失望していた彼らに、過越の神秘の意味を明らかにしました:つまり、御父の永遠の計画に従って、イエスは、罪人の回心と赦しを差し出すために、苦しみ、死者の中から復活しなければなりませんでした(ルカ福音書24章46- 47節参照);そして、この救いの「神秘」の証人となる力を与えるであだろう聖霊を約束します。

 復活の主、信じる者たちの共同体、聖書の関係は、私たちのアイデンティティーにとって、非常にに重要です。私たちを導く主がいなければ、聖書の深みを理解することは不可能です。しかしまた、その反対も真実です:聖書がなければ、イエスの使命(ミッション)の出来事と、世における教会の出来事は、不可解なままです。

 正当にも、聖ヒエロニモは書くことができました:「聖書を知らないことは、イエスを知らないことである」(In Is.,Prologo: PL 24,17)。

2.慈しみの特別聖年の終わりに、私は「神のみことばに完全に捧げられた主日」を考えることを願いました。

 「主とその民との間の対話から生まれ出る、くみ尽くすことのできない豊かさを理解するために」(使徒的書簡『あわれみあるかたと、あわれな女』Misericordia et misera 7項)。典礼暦の一つの主日を、特別に、神のみことばに捧げることは、何よりも先ず、教会、そして私たちにも、ご自分のみことばの宝庫を開ける復活の主のジェスチャーを追体験させることを可能にします-私たちが、世において、この汲み尽くせない豊かさを告げる者となることが出来るように-。

 それに関する聖エフレムの教えが思い起こされます:「主よ、誰が、あなたの言葉の中の、たった一つの言葉のすべての豊かさを理解することが出来るでしょうか。私たちが理解出来るものよりも、見逃されるものの方が、はるかに多いのです。

 私たちはまさに、泉から水を飲む、のどの渇いた者のようです。あなたの言葉は、多くの異なる側面を差し出します。それを研究する人々の観点が多くあるように。主は、ご自分の言葉を、多彩な美しさで色づけました。それを極める人々が、彼らが望むものを観想することが出来るように。主は、ご自分の言葉の中に、すべての宝を隠しました。私たち一人ひとりが、観想しているものの中に、豊かさを見つけるように」(Commenti sul Diatessaron, 1,18)。

 ですから、私はこの書簡をもって、神の民の側から届いた、全教会が目的において一致して、「神のみことばの主日」を共に祝うことができるようにという、多くの要求に答えようと思います。キリスト共同体が、その日々の存在における神のみことばの偉大な価値に集中する時を経験するのは、すでに共通の実践になっています。

 さまざまな地方教会において、聖書が、これまで以上に、信徒たちにアクセスしやすくなるように、豊かなイニシアティブがあります-こうして、信徒たちが、このように大きな賜物に感謝し、毎日それを生きることに献身し、一貫性をもってそれを証しするように-。

 第二バチカン公会議は『啓示憲章』(Dei Verbum)をもって、神のみことばの再発見に大きな弾みを与えました。つねに黙想し、生きるに値するこれらのページから、聖書の性質(本質)naturaが明確な方法で浮かび上がります:世代から世代へと継承されること(第二章)、その神的インスピレーション(第三章)-それは旧約と新約聖書を包括します(第四、五章)-、その、教会の生活における重要性(第六章)。

 この教えを促進するため、ベネディクト十六世は、2008年、「教会の生活と使命(ミッション)における神のみことば」というテーマで、司教会議(シノドス)を招集し、その後、わたしたちの共同体にとって不可欠の教えを形成する、使徒的勧告『主のことば』Verbum Dominiを公布しました1。この文書の中で、特別な方法で、神のみことばの遂行的(すいこうてき)特徴(il carattere performativo)ー特に、典礼的行為において、その固有な秘跡的特徴が浮かび上がる時に-が深められました。

 したがって、私たちの民の生活の中で、この、主がご自分の花嫁に、決して疲れることなく向ける生ける神のみことば-愛と信仰の証しにおいて成長するために-との決定的な関係が欠けることがないようにすべきです。

3.ゆえに、年間第三主日が、神のみことばを祝い、黙想し、広めることに捧げられることを制定します。この「神のみことばの主日」は、このようにして、年間の中の適切な時-私たちが、ユダヤ人との絆を強め、キリスト者の一致のために祈るよう招かれている時-に置かれます。

 それは単なる偶然ではありません:「神のみことばの主日」を祝うことは、エキュメニカルな価値を表しています。なぜなら、聖書は、耳を傾ける者たちに、真の一致、堅固
な一致に達するために辿るべき道を示すからです。

 各共同体は、この「主日」を、祭日として生きるための方法を見出すようにしてください。ですから、聖体祭儀において、聖なる書を祝聖する(intronizzare()ことは大切でしょう-このようにして、会衆に、神のみことばがもっている規範的価値(il valore normativo)を明白にするために-。この主日に、特別な方法で、その宣言を明らかにすること、また、主のみことばに与えられる奉仕を強調するために説教を適応させることは有益でしょう。

 司教たちは、この主日に、朗読奉仕者(Lettorato)の儀式を執り行うこと、または、同じような職務を委託することができます-典礼における神のみことばの宣言の重要性を呼び起こすために-。実際、何人かの信徒たちを、適切な準備をもって、みことばの真の告知者となるよう準備することに、あらゆる努力を惜しまないことは本質的です-侍者や、聖体奉仕者のために、すでに一般的に起きているように-。

 同じ尺度で、教区司祭たちは、聖書、またはその一つの書を、全会衆に届けるための形を見出すことが出来るでしょう-日々の生活の中で、継続的に、朗読、聖書を深めること、聖書とともに祈ることの大切さを浮き立たせるために-「霊的読書(レクチオ・ディビナlectio divina)」への特別な言及とともに-。

4.イスラエルの民の、バビロン捕囚後の母国への帰還は、律法の書の朗読によって、意味深い方法で印されました。聖書は私たちに、ネヘミヤ記の中で、その時の感動的な描写を差し出しています。民はエルサレムの水の門の前の広場に集まり、律法の書に耳を傾けました。この民は、追放によって離散されていましたが、今、聖書の周りに、あたかも「一人の人(un solo uomo)」のように集まりました(ネヘミヤ記8章 1節)。

 聖なる書の朗読に、民は「耳を傾け」ました(同3節)-この言葉の中に、経験した出来事の意味を見出す(回復する)ことが出来ると知りながら-。これらの言葉の宣言への反応は、感動と涙でした:「[レビ人たちが]神の律法の書を読み、それを訳し、説明したので、1 Cfr AAS 102 (2010), 692-787. 2 「こうして、みことばの秘跡的性格を、聖別されたパンとぶどう酒の形態のもとでのキリストの現実の現存との類比によって理解することができます。私たちは、祭壇に近づき、聖体の会食にあずかることにより、本当にキリストの体と血にあずかります。典礼において神の言葉が朗読されることにより、キリストご自身が私たちとともにいて、私たちに語りかけ、ご自分の言葉に耳を傾けることを望んでおられることを私たちに悟らせてくれます(『主のことば』56項)。

民は朗読された事を理解した。総督ネヘミヤと、祭司であり律法学者であるエズラと、民に説明したレビ人たちは、民全体に向かって言った、『今日は、あなたたちの神、主にささげられた聖なる日である。嘆いたり、泣いたりしてはならない』。律法の言葉を聞いて、民はみな泣いていたからである。[…]『悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力である』」(ネヘミヤ記8章8-10節)。

 これらの言葉は、偉大な教えを含んでいます。聖書は、ただ、何人かの財産でも、ましてや、少数の特権的な人々のための全集でもありません。それは、何よりも先ず、このみ言葉を聞き、み言葉の中に自らを認める(自分自身を認識する)ために招集された民に属しています。

 しばしば、聖なる書を独占しようとする傾向が起こります-それを、いくつかのサークル、または、選抜されたグループに追いやりながら-。そうであってはなりません。聖書は、主の民の書です。民は、それを聞くことにおいて、離散や分裂から一致へと通過します。神のみことばは、信徒たちを一つにし(結び付け)、一つの民とします。

5.聞くことから生まれる、この一致において、牧者たちは、第一に、聖書を説明し、すべての人が理解できるようにする、大きな責任をもっています。

 聖書は民の書なので、み言葉の奉仕者となる召命をもっている人々は、それを自分の共同体にアクセス可能にする必要を、強く感じるべきです。

 説教は、特に、まったく特有な役割を帯びています。なぜなら「秘跡的ともいえる性格(un carattere quasi sacramentale)」をもっているからです(使徒的勧告『福音の喜び』142)。聞いている人に適した簡単な言語で、神の言葉の深みに入らせることは、司祭に、「善の実践へと励ますために主が用いたイメージの美しさ」(同)を発見させることを可能にします。これは、見逃すべきではなく、司牧的機会です!

 実際、私たちの信徒たちの多くにとって、これは、神のみ言葉の美しさを捉え、彼らの日常生活に関連しているのを見るための唯一の機会です。ですから、説教の準備のために適切な時間を捧げることが必要です。聖なる朗読への解釈は、即興的には出来ません。

 私たち説教者たちには、学者ぶった説教、または無関係な話しで、過度に広げない務めが求められます。私たちが、聖なる書について黙想し、祈るために留まるとき、聞いている人の心に届くよう、心から語ることが出来ます-把握され実を結ぶ、本質を表現することによって-。

 聖書に時間と祈りをささげることに、決して疲れないようにしましょう。それが、「人間の言葉としてではなく、神の言葉として」受け入れられるために(テサロニケの信徒への手紙一2章13節)。

 カテキスタもまた、信仰において成長することを助けるための彼らの任務のために、聖書との親しさと勉強を通して、自分自身を刷新する緊急性を感じることは良いことです-それは、彼らの言葉を聞く人々と神のみことばとの間の、真の対話を促進することが出来ます-。

6.家の中に閉じこもっていた使徒たちの所に行き、彼らを聖書の知識に開く(ルカ福音書24章 44- 45節参照)前に、復活の主は、エルサレムからエマオへ行く道を歩いている、二人の弟子に現れます(同13-35節参照)。

 福音記者ルカの話は、それが復活と同じ日、つまり日曜日であると記しています。これらの二人の弟子たちは、最近のイエスの受難と死の出来事について話し合っています。彼らの歩みは、イエスの悲劇的な最後への悲しみと失望で印されています。

 彼らはイエスの中に、解放をもたらすメシアを期待していましたが、今、十字架刑のスキャンダルを前にしています。復活の主ご自身が、節度をもって近づいてきて、弟子たちと共に歩き始めました。しかし、彼らはイエスであることに気付きませんでした(同16節参照)。道を歩きながら、主は彼らに問いかけました。彼らに、ご自分の受難と死の意味が分かっていないことを悟らせながら。彼らを「物わかりが悪く、心の鈍い者たち」(同25節)と呼び、「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたってご自分について書かれていることを、二人に説明された」(27節)。

 キリストは、最初の聖書解釈者です!旧約聖書が、キリストが実現するだろうことを先取りしていただけでなく、キリストご自分が、その「みことば」に忠実であることを望みました-キリストのうちに完成を見出す、唯一の救いの歴史を明らかにするために-。

7.このように、聖書は聖なる書であるので、キリストについて語り、キリストを、栄光に入るために苦しみを通過しなければならなかった方として告げます(26節参照)。一部だけでなく、聖書全体がキリストについて語っています。

 彼の死と復活は、聖書がなければ解読することは出来ません。そのため、最も古代の信仰宣言は、キリストが「聖書に書いてあったとおりに私たちの罪のために死んでくださり、葬られ、聖書に書いてあったとおりに三日目に復活し、ケファに現れ、次いで十二人に現れた」(コリントの信徒への手紙一15章 3- 5節)と強調しています。

 聖書は、キリストのことを語っているので、キリストの死と復活が神話ではなく、歴史に属していること、また、彼の弟子たちの信仰の中心にあると信じることを可能にします。聖書と、信じる者たちの信仰との間には深い絆があります。信仰は聞くことから来て、聞くことはキリストの言葉に中心を据えているので(ローマの信徒への手紙10章17節参
照)、そこから、信じる者たちが、典礼の行為においても、祈りや個人的黙想においても、主のみ言葉に耳を傾けることを確保しなければならない、という緊急性と重要性が生じます。

8.復活の主の、エマオの弟子たちとの「旅」は、夕食で結ばれます。謎の旅人は、二人が彼に向けた執拗な要求を受け入れました:「一緒にお泊りください。そろそろ夕刻になりますし、日もすでに傾いています」(ルカ福音書24章29節)。イエスは、食卓に座り、パンを取り、賛美をささげて(祝福を唱えて)、それを裂いて、彼らに渡しました。この瞬間、彼らの目は開かれ、彼らはイエスであることに気付きました(同31節参照)。

 この場面から、私たちは、聖書と聖体祭儀(Eucaristia)の関係が、どんなに切り離せないものであるかを理解します。第二バチカン公会議は教えています:「教会は、主の御からだそのものと同じように聖書をつねにあがめ敬ってきた。なぜなら、教会は何よりもまず聖なる典礼において、たえずキリストのからだと同時に神のことばの食卓から命のパンを受け取り、信者たちに差し出してきたからである」(『啓示憲章』21項)。

 聖書と、聖体祭儀に、絶え間なくあずかることは、属している人同士が、互いに認め合うことを可能にします。私たちは、キリスト者として、歴史の中を歩む唯一の民です-私たちのただ中にいる、私たちに語りかけ、私たちを養う主の現存に強められて-。聖書に捧げられた日が、「一年に一回(una volta all’anno)」ではなく、一年全体のための機会(una volta per tutto l’anno)となるように。

 なぜなら、私たちは、聖書と、信じる者たちの共同体の中で、絶え間なく「み言葉」と「パン」を裂く復活の主と、親しく親密になる、緊急な必要をもっているからです。そのため、私たちは、聖書との持続的な親密さの中に入る必要があります。そうでなければ、心は冷たくなり、目は閉じたままになります-私たちがそうである、無数の無知(盲目)の形によって打たれて(colpiti come siamo da innumerevoli forme di cecità)-。

 聖書と諸秘跡は、互いに切り離せません。秘跡が、「み言葉」によって導入され、照らされるとき、それらは歩みの目的として現れます-その中で、キリストご自身が、ご自分の救いのわざに気づくよう、頭(知性)と心を開きます-。このコンテクスト(文脈)において、黙示録から来る教えを忘れないことが必要です。そこでは、主が、戸口に立って叩いていることと教えます。もし誰かが、キリストの声を聞いて戸を開くなら、キリストは、共に食事をするためにそこに入ります。

 キリスト・イエスは、聖書を通して私たちの戸を叩いています。もし、私たちが耳を傾けて、頭と心の戸を開くなら、その時、キリストは私たちの生活(人生)の中に入り、私
たちと共に留まります。

9.テモテへの第二の手紙の中で-それは、何らかの方法で、パウロの霊的遺言を形成しています-、聖パウロは、彼の忠実な協力者に、絶え間なく聖書に親しむよう勧告しています。

 使徒は、「聖書はすべて、神の霊感によるもので、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするために有益」であると確信してます。この、パウロのテモテへの勧告は、公会議の『啓示憲章』が、聖書の霊感についての偉大なテーマを取り扱った土台を形成しています-その土台から、特に、聖書の救済的目的(la finalità salvifica)、霊的側面l(a dimensione spirituale)、受肉の原理)(il principio dell’incarnazione)が浮かび上がります-。

 特に、パウロのテモテへの勧告を呼び起こしながら、『啓示憲章』は強調します:「聖書は、神がわれわれの救いのために聖なる書として書き留められることを欲した真理を堅固に忠実に誤りなく教えるものである」(11項)。聖書は、キリストにおける信仰による救いを考慮して教えているので(テモテへの手紙二3章15節参照)、そこに含まれている諸真理は、私たちの救いに役立ちます。聖書は、歴史書の全集でも記録でもなく、全面的に、人間の総体的救い(la salvezza integrale della persona)に向けられています。

 聖書に含まれているさまざまな書の、否定できない歴史的ルーツ(根源)は、この原初の目的を忘れさせるものであってはなりません:私たちの救い。すべては、聖書の本質自身の中に刻み込まれている、この目的に向けられています。聖書は、救いの歴史として成り立っています。その中で、神は語り、行動します-すべての人々に会いに行くために、彼らを悪から、死から救うために-。

 そのような救済的目的に達するために、聖書は、聖霊の働きのもとに、人間のやり方で書かれた人間の(人々の)言葉を、神の「み言葉」に変容させます(『啓示憲章』12参照)。聖書における聖霊の役割は本質的です。聖霊の働きなしには、原理主義的な解釈を容易にしながら、書かれたテキストだけの中に閉じこめられる、警戒すべき危険があります。

 そこから離れる必要があります。聖なるテキストがもっている、インスピレーションを受けた、ダイナミック(動的)、霊的な性格を裏切らないように。使徒が思い起こしているように、「『文字』は人を殺し、『霊』は人を生かす」(コリントの信徒への手紙二3章6節)。ゆえに、聖霊は聖書を、神の生けるみ言葉―ご自分の聖なる民の信仰の中に経験され、継承された―に変えます。

10.聖霊の業は、単に聖書の形成に関するだけではなく、神のみことばを聞くことに身を置く人々の中にも働きます。公会議教父たちの断言は重要です。彼らによると、聖書は「それが書かれたのと同一の霊において読まれかつ解釈されなければならない」(『啓示憲章』12項)。イエス・キリストと共に、神の啓示は、その成就、充満に達しました。

 しかし、聖霊はその業を継続します。実際、聖霊の業を、神の霊感を受けた聖書の性格と、そのさまざまな著者にだけ限定するのは少なすぎるでしょう。ゆえに、ご自分の独自のインスピレーションの形を実現し続ける聖霊の業に、信頼することが必要です―教会が聖書を教えるとき、教導職が聖書を公的に解釈するとき(同、10項)、また、一人一人の信者が、それを、自分の霊的規範(la propria norma spirituale)とする時に―。

 この意味で、私たちはイエスが言った言葉を理解することができます―ご自分のたとえ話の意味を把握したと認めた弟子たちに―:「天の国について学んだ学者はみな、新しいものと古いものを、自分の倉から取り出す、一家の主人に似ている」(マタイ福音書13章 52節)

11.最後に、『啓示憲章』は明確にしています:「かつて永遠なる父のみ言葉が人間の弱さをまとった肉を受け取って人間と同じようなものになったのと同様に、神の言葉は人間の言語で表現されて人間の言葉と同じようにされた」(13項)。それは、神のみことばの受肉が、神のみ言葉と、人間の言語との間の関係に、形と意味を与えた―その歴史的、文化的状態とともに―、と言うようなものです。

 「伝統」-それもまた神のみ言葉です(9項参照)―が形を取ったのは、この出来事においてです。聖書と「伝統」を分離する危険が、しばしばあります―それらが一緒に「啓示」の唯一の源泉であることを理解せずに―。

 前者の、書かれた性格は、完全に生ける言葉であるということを何も奪いません(Il carattere scritto della prima nulla toglie al suo essere pienamente parola viva);世代から世代にわたって絶え間なくそれを継承している、教会の生ける伝統も、「信仰の最高の基準」(21項)として、あの聖なる書を所有しています。

 また、書かれたテキストとなる前に、聖書は口伝で継承され、それを自分たちの歴史、他の多くの民のただ中でのアイデンティティーの原則として認識した民の信仰によって、生き生きと保たれてきました。ゆえに、聖書的信仰は、本にではなく、生けるみ言葉に土台を据えています。

12.聖書は、それをもって書かれたのと同じ霊において読まれる時、常に新しく残ります。旧約聖書は、決して、かつてあった古いことではなく、新約聖書の一部です-なぜなら、それにインスピレーションを与えた唯一の霊によって、すべてが変えられるからです-。

 聖なる書全体は、一つの預言的役割をもっています:それは、将来に関するのではなく、この「み言葉」で養われている人の「今日」に関するものです。イエスご自身、ご自分の任務の始めに明言しています:「この聖書の言葉は、あなた方が耳にしたこの日[今日]、成就した」(ルカ福音書4 章21節)。日々、神のみことばに養われている人は、自分が出会う人々と同時代であるイエスのようになります;過去への不毛なノスタルジー(郷愁)に陥ることも、将来への肉体のない(具体的ではない)ユートピアに陥ることもありません。

 聖書は、その預言的な業を、先ずそれを聞いている人に対して行います。聖書は甘美さと苦さです。預言者エゼキエルが、主から、巻物の書を食べるように招かれたときの言葉が思い起こされます:「それはわたしの口に、蜜のように甘かった」(同3章 3節)。福音作者ヨハネも、パトモスの島で、巻物を食べる、エゼキエルと同じ経験をしますが、さらに詳細を加えます:「口には蜜のように甘かったが、食べてしまうと腹には苦かった」(10章10節)。

 神のみ言葉の甘美さは、私たちの人生において出会う人々を、それに参与させるように私たちを急き立てます―それが含んでいる希望の確信を表すために(ペトロの手紙一3章 15-16節参照)―。他方、苦さは、しばしば私たちにとって、一貫性をもってそれを生きることがどんなに難しいかを実証することから、また、人生に意味を与えるために有効ではないと見なされ、それが拒否されることを体験することから来ます。

 ですから、決して「神のみ言葉」に慣れてしまわないこと、私たちの神との関係、兄弟たちとの関係を、深く見出し、それを生きるために、み言葉で養われることが必要です。

13.聖書から来るさらなる挑戦は、愛の業(la carità)に関することです。神のみ言葉は、ご自分の子らに愛の業において生きるよう求める、御父の慈しみ深い愛を、絶え間なく呼び起こします。

 イエスの生涯は、この神の愛の、完全で満ち溢れる表現でした。イエスは何もご自分の為に取って置かず、ご自身を、制限なく、すべての人々に差し出しました。貧しいラザロのたとえ話の中に、私たちは貴重な示唆を見出します。ラザロと金持ちが死んだ時、金持ちは、貧しい人がアブラハムの懐にいるのを見て、自分の兄弟たちに彼を遣わし、彼らに、隣人への愛に生きるよう忠告するようよう頼みます―彼らが同じ苦悩を味わうことがないように―。

 アブラハムの答えは辛辣です:「彼らにはモーセと預言者たちがいる、彼らの言うことを聞けばよい」(ルカ福音書16章29節)。慈しみを実践するために、聖書に耳を傾けること:これは私たちの人生の前に置かれた、大きな挑戦(課題)です。神のみ言葉は、私たちを、窒息させ、不毛に導く個人主義から脱出させるために、私たちの目を開くことが出来ます。分かち合いと連帯の道を開け放って。

14.イエスと弟子たちの関係の中で、最も意味深いエピソードの一つは「主の変容」の物語です。

 イエスは、ペトロ、ヤコブ、ヨハネと共に、祈るために山に上ります。福音作者たちは、イエスの顔と衣が輝き、二人の人がイエスと話していたことを思い出させます:モーセとエリヤ、彼らはそれぞれ、律法と預言者、つまり聖書を擬人化しています。このビジョン(幻)へのペトロの反応は、喜ばしい驚きに満ちています:「先生、私たちがここにいるのは、素晴らしいことです。三つの仮の庵を造りましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、一つはエリヤのために」(ルカ福音書9章33節)。その時、雲がその影で彼らを包み、弟子たちは恐れます。

 主の変容は、捕囚からの帰還の後、エズラとネヘミヤが民に聖なる書を読み聞かせた、幕屋祭を思い起こします。同時にそれは、受難のスキャンダルへの準備において、イエスの栄光、主の現存の象徴である弟子たちを覆った雲からも呼び起こされる、神の栄光を先取りします。

 この、主の変容は、聖書の変容に似ています―それは、信じる者たちの生活を養うとき、自身を超越します。『主のことば』が思い起こしているように:「聖書のさまざまな意味の間の関係を再発見するうえで、文字から霊への移行を捉えることが不可欠です。この移行は自動的でも自然なものでもありません。むしろ私たちは文字を乗り越える必要があります」。

 神のみ言葉の受容の歩みにおいて、主から告げられたことが成就すると信じたので、幸いと認められた(ルカ福音書1章45節参照)主の母が、私たちに寄り添います。マリアの幸い(beatitudine)は、イエスが、貧しい人、苦しむ人、柔和な人、平和をもたらす人、迫害されている人々に向かって発した、すべての幸いに先立ちます。なぜなら、それは、他のどんな幸いにも必要な条件だからです。

 貧しい人は、貧しいから幸いなのではありません。その人は、マリアのように、神のみ言葉が成就することを信じる時、幸いになります。そのことを、偉大な弟子であり、聖書の先生、聖アウグスチヌスが思い起こしています:「群衆の中の誰かが、熱意にかられて叫びました:『あなたを宿した胎は、何と幸いなことでしょう』。そしてイエスは言います:『むしろ幸いなのは、神の言葉を聞き、それを守る人々である』。こう言うかのように:あなたが幸いと呼ぶ、私の母も、まさに、神の言葉を守ったから幸いなのです。

 彼女の中に、み言葉が肉(人)となり、私たちの間に住んだからではなく、神のみ言葉そのもの―それを通して彼女は造られ、そして彼女の中で肉(人)となった―を守ったから幸いなのです」(『ヨハネの福音について』10章3節)。

 み言葉ことばに捧げられた主日が、神の民の中で、聖書との、熱心で敬虔な親しさを育てることが出来ますように。すでに、古代において、聖書の作者が教えていたように:「その言葉はあなたのすぐ近くにあり、あなたの口に、あなたの心にあるので、あなたはそれを行うことができる」(申命記30章14節)。

ローマ、ラテラノ大聖堂にて、2019年9月30日 聖ヒエロニモ帰天1600周年の始まりに フランシスコ

(聖書の引用の日本語

は原則として「聖書協会 共同訳」とし、ジャン間の編集を加えてあります「カトリック・あい」)

2020年1月18日

・前教皇が「沈黙の約束」を破ったことで制御不能な事態に(LaCroix)

(2020.1.16 LaCroix Robert Mickens)

  バチカン発- このような事態は予想されていなかった。だが、事態は悪化している可能性があり、さらに悪化する可能性もある。

 だが今、前教皇、ベネディクト16世は、司祭独身制を強く擁護する本の共著者であると明示したことを巡る見苦しい論叢の真っただ中に、自分がいることを知った。そして、この共著書は、教皇フランシスコに既婚者の司祭叙階について検討さえもさせない試みのように、疑われている。

 この本の発案者であり、ベネディクトと共に共著者となったのは、バチカン完了を長く勤め、現在は典礼秘跡省の長官であるロベール・サラ枢機卿。教皇フランシスコの改革路線に反対するカトリック保守派のヒーローの1人だ。

 問題の本「From the Depths of Our Hearts」は、既にフランス語版が出ており、英語版も間もなく出版される。保守的なフランスの日刊紙「ル・フィガロ」は、この本の抜粋とサラ枢機卿のインタビューを12日付けの紙面に掲載し、教会関係者の間に大きな動揺を引き起こした。

*教皇フランシスコへの”警告”?

 特に出版のタイミングが問題だった。つまり、教皇フランシスコが、昨年秋のアマゾン地域シノドスでの議論をもとにした司教たちの提案を受ける形で、数週間後にも、文書を発表するとされている、その時期を狙ったような本の出し方だ。

 司教たちの提案の主眼は既婚男性の司祭叙階を条件付きで承認することにあり、この時期の出版には、教皇が文書でこの提案を認めるのを思いとどまらせようとする狙いがある、と受け止められたのである。

 この本についての報道があって48時間以内に、ベネディクトの個人秘書、ゲオルク・ゲンスヴァイン大司教はこの件について発言し、前教皇は共著者となることに同意したことが絶対になく、本の表紙から自分の名前を削除するよう要求した、と言明した。「自分はサラ枢機卿に随想文を渡しただけで、他には何も書いていない、本の表紙(の原稿)も見なかった、とベネディクトは言っておられます」。

 ソーシャルメディアのCatholic関係者に議論の場を提供するページでは、今回起きたことをめぐる様々な憶測、そして激しい闘争が巻き起こった。-サラ枢機卿がベネディクトを利用したのか?共著者に仕立て上げたのか? それとも、秘書のゲンスヴァイン大司教が、ベネディクトを共著者にすることを認めたのか?今回の事でベネディクトや他の人たちが不満を表明したので、大司教は否定声明を出したのか?

*ただの誤解なのか?

 真相はまだ明らかではない。大司教は「ベネディクトは自分の名前を本に入れることに決して同意しませんでした」と言うが、サラ枢機卿はベネディクトが署名したいくつかのタイプ印刷の手紙をすでに作成しており、そのことはベネディクトが実際に同意していたことを示している。

 サラ枢機卿は、すくなくとも今は、大司教の言明に従い、ベネディクトの名は再版の段階で外す、と述べたが、ベネディクトがこの本の寄稿者であり、本の中身が変わることは無い、と念を押している。そして、ゲンスヴァイン大司教は「それは、誤解の問題です。サラ枢機卿の誠実さに疑問を投げかけるものではありません」と説明した。にもかかわらず、サラ枢機卿への疑惑は無くならない。彼を熱烈に支持していた保守派の人々の中には、ベネディクトを利用しようとした、として彼を非難する者もいる。

 他の人々は「すべてがゲンスヴァインのせいだ」と言い、自分たちの計画が台無しにされたとして、彼を犠牲にした。

*誤った主張より問題なのは…

 本の実際の内容について言えば、ベネディクトのこの本への寄与は別にして、それ以外は、司祭職と独身制の関係に関するカトリックの教義をひどく誤って伝える内容になっている。歴史的な事実も無視している。さらに言えば、独身司祭職の終末を迎える危機にあるという、ごまかしを主張していることだ。

 実際のところ、独身制の廃止を提案する者はこれまでに一人もいない。既婚者の司祭叙階を、教会の歴史の初めのころのように、全教会で再開するよう求める意見があるだけだ。

 この本の中でなされた不当な主張は、実際にはあまり重要ではない。本当の問題は、前の教皇が、普遍教会を統治する自分の後継者の自由を妨げようと努めている(あるいは引き込まれている)ところにある。

 

*だれが責任を負うべきか

 非難すべきことは多い。

 ゲンスヴァイン大司教は確かに責任の一端を負わねばならない。 63歳のこのドイツ人高位聖職者は、ベネディクト16世の個人秘書を、彼が教皇に選ばれる2年前から務めている。ベネディクトは、教皇辞任を発表するわずか2か月前に、ゲンスヴァインを教皇公邸管理部室長にし、司教に任命した。新教皇フランシスコは、彼をそのポストに留任させ、しかも、彼はベネディクトの個人秘書も従来通り勤め続けている。

 男性2人と聖別された一般信徒の女性4人が現在、ベネディクトが住むバチカン庭園にある複数階の建物に共に住み込んでいる。ベネディクトは、引退後7年近く、ほとんど毎日、訪問者をこの自宅に迎えている。彼の秘書は”門番”で、誰がベネディクトに会うことができ、誰が会えないかを決める。

 過去数年間、ベネディクトは歳を重ねるごとに弱ってきたため、「保護者および介護者」としての大司教の役割はより重要になってきた。今月初めにドイツのバイエルンのテレビで放映されたドキュメンタリーは、ベネディクトの衰弱が進んでいることを示していた。

 そのようなわけで、サラ枢機卿に独身制に関する彼の考えを公けにする許可を与えるために、ベネディクトが書いた(あるいは筆記させた)手紙の署名は、ほとんど判読できない。このことは、少なくとも、誰か(つまりベネディクトの秘書)が、この本の出版計画について、サラ枢機卿と交渉する責任を負った可能性があることを示唆しているのだ。

 

*新保守派、サラ枢機卿が反フランシスコを煽る

 ロベール・サラ枢機卿がバチカンで働き始めたのは2001年。当時の教皇ヨハネ・パウロ2世が彼を福音宣教省の長官に任命してからだ。彼は、その22年前、34歳の時に、故郷のギニア、コナクリ教区の教区長、司教に選ばれていた。福音宣教省長官時代の彼は「物静かな、祈りの人」をして知られていたが、保守主義者として頭角を現したのは、ベネディクト16世が彼を開発援助促進評議会の議長にした時からだ。

 フランシスコが教皇に選出された後、彼の司牧面での改革、とくに離婚して再婚した信徒の扱いに対する方針に異議を唱える枢機卿集団の一員となり、教皇に対する完全な信頼の欠如を示す小論や著作を欠き始めた。だから、教皇が彼を2014年に、典礼秘跡省の長官に任命した時には、驚きの声が上がった。

 以前に伝えられたように、教皇がこのポストに最初に考えたのは、教皇儀典長のピエロ・マリーニ大司教だったが、ベネディクトに近い人々(おそらく、ベネディクトの要請を受けた人々)は、フランシスコにそのような人事をしないよう強く求め、カトリックの保守派との抗争を引き起こす、と警告した。

 それを受ける形で、教皇はサラ枢機卿を典礼秘跡省の長官に任命したのだが、それ以来、教皇は、聖木曜日に(注:それまでは男性だけと限られていたのを改め)女性の足を洗うなどの典礼改革を進めるために、抵抗するサラ枢機卿を手なずけねばならなかった。教皇はまた、第二バチカン公会議をもとにした典礼改革のさらなる改革(すなわち破滅)をもとめる保守派の主張を、枢機卿が公に支持したことで、彼を叱責せねばならなかった。

 サラ枢機卿は、この新しい本で論争を巻き起こしたことで、ゲンスヴァイン大司教と同程度に有罪だ。2人の男は政治的に保守主義者であり、教会的には新保守主義者であり、欧州の右翼政治家、社交界の名士たち、後退行動の人々と結束している。いずれも、これらの人々と集団がベネディクト16世を教皇フランシスの対抗勢力とし見なし、ベネディクトを唯一の正当な教皇と主張することさえあるのを、十分に認識している。この新しい本の出版のように、彼らの公開キャンペーンに、引退教皇の支持を得ることによって、教皇フランシスコへの反対する動きを煽ろうとしているのだ。

*最も責任が重いのは…だが、自分自身も守れない

 だが、この最新の混乱に最も責任があるのは、ベネディクトに他ならない。

 2013年に教皇職を放棄した時、彼はローマの司教としての権利と義務も失った。彼は大胆かつ向こう見ずな動きをし、歴代の教皇が約600年間したことのないことをした。だが、彼と彼の助言者たちの小さな集団は、この新しい状況に対処する精密な計画を立てるために、(全く、でないとすれば)広く相談することをしなかった。引退教皇のための確立された儀典書はなかったし、今だにない。ベネディクトと彼の人々は,急いでその埋め合わせをしたように思われる。

 しかし、自分が教皇の権力をまだ持っている、あるいは(注:フランシスコと)共有していることを示唆しないよう、細心の注意を払わねばならない、ということをはっきりと直観していたようだ。だから、自分から進んで沈黙を固守することを約束し、今後は「世界から隠された存在になる」と言ったのだ。

 だが、彼が沈黙の約束を破るまで、6か月しか要さなかった。ヨゼフ・ラッツィンガー時代の初期の作品の1つを批判した学者と哲学的、神学的な議論を始めた時、そのやりとりを公開する許可を与えた。そして、それ以来、彼は多くの集団(多くは保守主義者だ)に、彼らを支持する手紙を書いた。彼らは、ラッツインガー時代の著作と思想を、しばしば歪んだ方法で、教皇フランシスとの戦いに使った。

 ベネディクトは、これらの声との関係を公けに断つことで、そうした戦いを止めることができたただろう。しかも、沈黙を破ることが正当化されたのは一度だけだ。

 そして今、彼は衰弱し、もはや自分自身を守ることができない。そして、彼を守る義務がある人たちは、彼の声、つまり沈黙を保たなければならない声を利用して、教会の未来を形成しつつある前向きな議論を圧倒しようと、愚かで無責任な試みを続けている。

 しかし、結局のところ、これは彼らの過ちではない。彼らは、ベネディクト16世が自らの沈黙の約束を破った時に始まったことを、続けているだけなのだ。私たちが今目撃しているのは、約束の破綻がもたらした制御不能な結果だ。 そして、物事がそのまま続いた場合、非常に有害で不可逆的な事態になる可能性がある、ということだ。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

(注:LA CROIX internationalは、1883年に創刊された世界的に権威のある独立系のカトリック日刊紙LA CROIXのオンライン版。急激に変化する世界と教会の動きを適切な報道と解説で追い続けていることに定評があります。「カトリック・あい」は翻訳・転載の許可を得て、逐次、掲載していきます。原文はhttps://international.la-croix.comでご覧になれます。

LA CROIX international is the premier online Catholic daily providing unique quality content about topics that matter in the world such as politics, society, religion, culture, education and ethics. for post-Vatican II Catholics and those who are passionate about how the living Christian tradition engages, shapes and makes sense of the burning issues of the day in our rapidly changing world. Inspired by the reforming vision of the Second Vatican Council, LCI offers news, commentary and analysis on the Church in the World and the world of the Church. LA CROIX is Europe’s pre-eminent Catholic daily providing quality journalism on world events, politics, science, culture, technology, economy and much more. La CROIX which first appeared as a daily newspaper in 1883 is a highly respected and world leading, independent Catholic daily.

 

2020年1月18日

(解説)教皇の生前退任は稀、それがルールを定めるを難しくしている(Crux)

(2020.1.17 Crux  Charles Collins)

 ツイッターとマスコミで表沙汰になって一週間、「名誉教皇」の立場が地位が脚光を浴びている。

 前教皇のベネディクト16世の”協力”-と言っておこう-を得た典礼秘跡省長官のロベール・サラ枢機卿による「司祭の独身制の重要性」を主張する著作は、現在の教皇フランシスコが検討中の課題に意見をはさむ前教皇の適性に関して様々な問題を提起することになった。

 教会法学者を含む幾人かの論者は、多くのカノニストを含む数人のコメンテーターは、教皇の引退に関係するルールを明確にするよう主張している。これは、ベネディクトが著者として名を連ねているだけでなく、名称を、本名のジョセフ・ラッツィンガーではなく、「教皇」というタイトル付きで「ベネディクト16世」としていることによる。また彼は、教皇が着用する白を着続けており、バチカンの敷地内に住居を構え続けていることも、以前から問題にする声がある。

 こうした彼の判断に対しては、批判する意見も、擁護する意見もあるが、いずれにしても、教皇の引退に関わるルールを教会法で明確に定める必要がある、という点ではコンセンサスが出来つつある。

 だが、「難事件は悪法を作る」という諺が思い浮かぶ。

 ベネディクトはほぼ600年ぶりに生前に引退した教皇だ。1415年にグレゴリオ7世が教皇の座を放棄することで西欧の分裂を終わらせた。1294年の聖セレスティン5世以来のことだった。言い換えれば、それは「ブラックスワン」、つまり非常に珍しいが、後から見れば、誰もが準備ができていると考える重要な出来事だったのだ。

 ベネディクトが引退を決めた時、引退後のことについても、どうするか選ばねばならなかった。選択肢の中には、神学的な瞑想の生活もあったが、実際に選んだのは、実利的な理由によるものだった。バチカン庭園に住むことは、おそらく最も実利的だった。それは物理的な身の安全を保障するだけではなく、職務に熱心な検察官からの召喚状など、外部の干渉から守ることにもなる…。

 「白」を着続けているのは?ー他に着るものを持っていなかったからだ、という。それでは、「ベネディクト」という名前と「名誉教皇」というタイトルを保持し続けているのは?教皇としての最後の一般謁見で、ベネディクトは、自分は教皇であり、常に「聖ペテロの囲い」の中にとどまるだろう、と述べた。このことは、自分は、もはやペトロの“the” successor(後継者)ではないが、常にペトロの”a”successorだ、ということを自認したことになる。

 このことから、ジョン・ロナルド・ロウエル・トールキンの有名な著作、指輪物語(The Lord of The Rings)』を連想せざるを得なくなる(注:人間ホビットエルフドワーフオークトロルなどが住む架空の世界である「中つ国(Middle-earth)」を舞台とし、主人公のホビット族であるフロドを含む9人の旅の仲間が、冒険と闇の勢力との戦いを繰り広げる。諸悪の根源・冥王サウロンを完全に滅ぼすため、全てを統べる「一つの指輪」を破壊するための冒険と友情が描かれる。)。

 いったん、パワーのある「一つの指輪」を手に入れると、それがサムワイズのように短い間のことでも、常に「指輪の持参人」となるのだ。 (人によっては、別の古い格言を思い出すかもしれない-All analogies limp, and some of them craw)。 そのとおり。多くの方法で、ベネディクトと彼の顧問たちは2013年に、それを即座にやってのけたのだ。

 カトリック教会は、前教皇をどのように扱ったらいいのか、あまり考えていなかった。簡単な対処法はなかった。教皇は「枢機卿」に戻ることができるのか? 教皇は「スーパー枢機卿」ではない。教皇に選ばれた時点で枢機卿団から去る。実際問題として、退任を表明した教皇が、教皇選挙に参加したいと思うだろうか? ベネディクトはそうは思わず、自分の後継者を枢機卿たちが選んでいる間、教皇の夏の別荘であるローマ郊外のカステルガンドルフォに身を隠していた。

 彼は、教会のことについて、絶対に語るべきではないのか? つまるところ、ベネディクトは、自分は「世界から隠される」ことになるだろう、と述べた。しかし、この計画をもみ消したのは、フランシスコだった。

 2014年に、教皇フランシスコはイタリアの新聞Corriere della Seraにこう語ったー自分はベネディクトと話し、「彼が人々と会うのを好むなら、表に出て、教会生活に参加する方が良いだろう」と判断した、と。そして、ベネディクトを自分の祖父母と比べ、「知恵と助言で家族を元気づける。老人ホームで一生を終える値しない人」と語った。もちろん、意見を異にする引退教皇は、異なる課題をもたらすかもしれない。深刻なスキャンダルのために将来の教皇が退任せざるを得ないとしたら、祖父の愛情が欠けている、ということになるかも知れない。

 「名誉教皇」についての解釈を公式化するには、別のややこしい問題がある。カトリック教会においては、教皇が唯一の立法者だ。元教皇をどう扱うかを詳細に定める法律があったとしても、退任を考えている教皇は、自分の都合のいいように法律を調整することができる。

 このことは、ベネディクトが引退生活をおくるかどうかについて法律上の問題はない、と言っているわけではない。人々が「”ある”前の教皇」について話す場合、それは「特定の“前”の教皇」のことを意味している。フランシスコが、家族の中での「祖父」の役割にことよせて、ベネディクトと別の話(注:引退教皇となったベネディクトの身の振り方についての話)をしたとしても、驚くことはないだろう。

 だが、教皇が生前にその座を降りることが、おそらく今後100年以上、あるいは(注:ベネディクトの教皇引退がそうであったように)600年もないとすれば、「名誉教皇」の役割についてどのような公式の手順を定めるべきかに時間と労力を費やすのは、いかがなものだろうか。

 92歳の男が本の1章を書いたことを理由に、時間と労力を費やし過ぎだ、と思う人もいるかもしれない。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

・・Cruxは、カトリック専門のニュース、分析、評論を網羅する米国のインターネット・メディアです。 2014年9月に米国の主要日刊紙の一つである「ボストン・グローブ」 (欧米を中心にした聖職者による幼児性的虐待事件摘発のきっかけとなった世界的なスクープで有名。映画化され、日本でも昨年、全国上映された)の報道活動の一環として創刊されました。現在は、米国に本拠を置くカトリック団体とパートナーシップを組み、多くのカトリック関係団体、機関、個人の支援を受けて、バチカンを含め,どこからも干渉を受けない、独立系カトリック・メディアとして世界的に高い評価を受けています。「カトリック・あい」は、カトリック専門の非営利メディアとして、Cruxが発信するニュース、分析、評論の日本語への翻訳、転載について了解を得て、掲載しています。

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2020年1月18日

・教皇フランシスコがバチカン国務省次官に初の女性任命(VaticanNews)

 教皇フランシスコが15日、バチカン国務省の対外関係部門担当次官に、同省職員のDr.フランチェスカ・ディ・ジョバンニ女史を任命した。

 女史は1953年、イタリア・パレルモ生まれ。法学博士で、バチカン国務省に27年間勤務している。公証人としての実務を経験した後、International Centre of the Work of Mary(フォコラーレ運動)で法律分野の仕事をし、1993年に国務省に入り、対外関係部門に勤務し、多国間問題、特に移民・難民、国際人道法、コミュニケーション、国際私法、女性の地位、知的財産権、観光などを担当してきた。

 女史の次官任命で、国務省の対外関係部門を担当する次官は2人になる。現在の対外関係部門のミロスロー・ワコウスキ次官は、今回の人事により、主として二国間外交を担当することになる。

 Vatican News and L’Osservatore Romano のiDr.ジョバンニとの一問一答は以下の通り。(以下英文)

Q:Were you surprised by the appointment as under-secretary?

A:Yes, absolutely! For several years now we have been thinking about the need for an under-secretary for the multilateral sector: a delicate and demanding sector that needs special attention, because it has its own procedures, in some ways different from those of the bilateral sphere. But I sincerely never would have thought the Holy Father would have entrusted this role to me.It is a new role and I will try to do my best to live up to the Holy Father’s trust, but I hope not to do it alone: I would like to count on the harmony that has characterized our working group so far.

Q:What exactly is the “multilateral sector”?

A:Simply speaking, you can say that it deals with relations between inter-governmental organisations at the international level and includes the network of multilateral treaties, which are important because they embody the political will of States with regard to the various issues concerning the international common good: this includes development, the environment, the protection of victims of conflicts, the situation of women, and so on.

Q:What does your work consist of?

A:I will continue to deal with what I have been following up to now in the Section for Relations with States, although in this new role, I shall be responsible for coordinating the work in this area.

Q:You are the first woman to hold a position at this level in the Secretariat of State…

A:Yes, actually, it’s the first time a woman has had a managerial position in the Secretariat of State. The Holy Father has made an unprecedented decision, certainly, which, beyond myself personally, represents an indication of an attention towards women. But the responsibility is connected to the job, rather than to the fact of being a woman.

Q:In your opinion, what can the specific contribution be of a woman in this field?

A:I cannot fail to recall the words of the Holy Father in his homily on 1 January, in which he presented — we could say — a “tribute” to the role of women, saying that “women are givers and mediators of peace and should be fully included in decision-making processes. Because when women can share their gifts, the world finds itself more united, more peaceful”.

 I would like to be able to contribute to the realization of the Holy Father’s vision, with my other colleagues who work in this area of the Secretariat of State, but also with other women — and there are many of them — who are working to build fraternity in this international dimension too. It is important to emphasize the Pope’s attention to the multilateral sector, questioned today by some, but which has a fundamental function in the international community.

 A woman may have certain aptitudes for finding commonalities, healing relationships with unity at heart. I hope that my being a woman might reflect itself positively in this task, even if they are gifts that I certainly find in my male colleagues as well.

Q:In his recent address to the Diplomatic Corps, the Pope spoke about the multilateral system, calling for its reform…

A:In the international community, the Holy See also has the mission of ensuring that the interdependence between people and nations be developed in a moral and ethical dimension, as well as in the other dimensions and various aspects that relations are acquiring in today’s world. One must never tire of encouraging dialogue at all levels, always seeking diplomatic solutions.

 For example, in his recent speech to the Diplomatic Corps, the Pope recalled, among other things, the many positive results of the United Nations, which celebrates its 75th anniversary this year. We want to continue seeing the UN as a necessary means for achieving the common good, even if this does not exempt us from asking for changes or reforms where deemed necessary.

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

 

2020年1月15日

・前教皇が巻き起こした「聖職者独身制」騒ぎが「名誉教皇の役割」巡る論争に発展(Crux)

New celibacy kerfuffle sparks debate over role of pope emeritus

In this Sept. 28, 2014 file photo, Pope Francis, right, hugs Pope Benedict XVI prior to the start of a meeting with elderly faithful in St. Peter’s Square at the Vatican. (Credit: AP Photo/Gregorio Borgia, File.)

 ローマ-教皇ベネディクト16世は2013年に教皇職を退いた際、彼は「自分は世界から隠れる」とし、「神は自分に『山へ登り』、祈りと瞑想に専念するようお命じになっている」と語っていた。

 だが、12日付けの日刊紙Le Figaroに、彼がバチカン典礼秘跡省長官のロベール・サラ枢機卿と共著の形で出版予定の本の抄録が掲載されるに及んで、「隠れる」という言葉が彼の辞書にないことが明らかになった。

 この本は「From the Depths of Our Hearts: Priesthood, Celibacy and the Crisis of the Catholic Church,(心の奥底から:司祭職、独身制、カトリック教会の危機)」というタイトルで、15日に出版される。内容は、二人の著者の、司祭の独身制擁護の強い姿勢で貫かれており、教皇フランシスコが昨年秋のアマゾン地域シノドスの議論を受けて、限られた条件の下で既婚者の司祭叙階を認めることの是非についての提案の中身を検討しているタイミングでの出版となる。

 この本が出版前から大きな反響を呼んでいるのは、ベネディクト16世が、後継者である教皇フランシスコが、既婚者の司祭叙階の認否という重要な決断について熟考を重ねている最中に、それを否定する意見を出したからだけでなく、著者名として、「名誉教皇」という立場に触れず、教皇の名称である「ベネディクト16世」を使っているからだ。

 カトリック教会内部の関係者たちは、このことにすぐさま反応し、「”名誉教皇”の役割を明確にする必要がある」とSNSに書き込み、「ベネディクトが沈黙を破った」という多くの書き込みが流れている。

 12日に流れたツイッターへの書き込みで、 Catholic University of Americaで教会法を教えているカート・マーテンス教授は「本が出るのを待っている」としつつ、教皇はフランシスコただ一人であり、ローマ司教もフランシスコただ一人であることを思い起こす必要性を強調し、「教皇フランシスコだけに、ローマ司教の執務室を持つ権力があるのです」と述べた。さらに、「この本の表紙に大きな間違いがある。この本は『ベネディクト16世』による本ではありません。(教皇を退任した)名誉職の人物によって書かれた本であり、表紙にそのことを明示すべきでした。『ヨゼフ・ラッツインガ―』(教皇になる前の本名)として出版するのが適切だった」と強調。「前教皇は、公の場で、何も語るべきではありません。教皇の執務室にいた時にはそれができましたが、今は、彼の後継者が統治しており、彼とその側近たちは、もはや統治をしていないのです」と語り、「教会法273条は聖職者(助祭、司祭、司教、そしてヨゼフ・ラッツィンガーも含む)に特別な義務を課している。それは、教皇に対して敬意と従順を示す、という義務です」と指摘した。

 同じように、米国の司祭、信徒のネットワーク「Faith in Public Life」のプログラム・ディレクター、ジョン・ゲーリングも、「教皇が一人でも十分に複雑。(注:前教皇の振る舞いは)めちゃくちゃだ」と批判。「ベネディクト16世に対する敬意をもって、『世界から隠れた存在』になる彼の約束を果たす時が来た、と申し上げたい」と述べた。

 バチカンの内部に詳しいイタリア人ジャーナリスト、サルバトーレ・チェルヌツィオ氏もツイッターでの論評に参加し、こう語っている。「ベネディクト16世は、2013年の教皇退任前の正午の祈りで『残りの人生を祈りに捧げる』と言っていたが、それから7年経って、インタビューを受け、書簡を出し、長文のエッセイを書き、新刊書を出版した… 『名誉教皇が、現教皇が検討中の問題について公けに批判するのは適当なことがどうか』に関して意見を述べるのは、とても破壊的な意味を持つ」。

 教皇の伝記作家でフランシスコの熱烈な支持者、オースティン・イヴェレイ氏は、Cruxの取材に対し、「後継者が与えられた課題について重要な決定をしようとしている時に、引退した教皇が介入するのは、まったく分別をわきまえない行為だと思う」と言う。そして、ベネディクトが発言するのは自由だが、「今の時点でこのようなやり方をするのは、教皇フランシスコに政治的圧力をかけ、その権威を弱体化させる狙いがあるように見える… 私の見方では、フランシスコは、既婚の助祭を司祭に叙階するという提案を支持するのを渋っているようだが、彼が今、この提案を却下すれば、その判断は自主的なものではなく、ベネディクトの影響を受けてなされた、と見なされるでしょう」と述べた。

 また彼は、ベネディクトが司祭の独身制について意見を述べることで、教皇フランシスコに反対する人々の「高度にコントロールされた作戦」に「操られている」、との見方を示した。「ベネディクトは頭脳明晰ですが、心身が弱り、(注:立場をわきまえて)自分を抑えることができなくなっている」とし、情報通が「92歳のベネディクトは”耳打ちする”以上のことはできず、一回に30分以上目を覚ましていることが難しくなっている」と彼に話したことを明らかにした。

 さらに、ベネディクトは昨年10月、新任の枢機卿たちの訪問を受けた際、忠誠心を持つことの必要性を強調したが、イヴェレイ氏は「『忠誠心を持て』と言うほかには、ほとんど何も語りませんでした。にもかかわらず、本人自身は、完全に(注:現教皇への)忠誠心に反する行為をした。それが、彼が(注:教皇フランシスコに反対する勢力に)利用された、と私が言う理由です… 仮に教皇フランシスコが辞任するとすると、辞任前に手を付ける最後の改革は、『名誉教皇制度の改革』となるでしょう」。「ベネディクト自身は、明らかに何か違うものを望んでいました… 最初は、教皇退任後に『バイエルンに戻りたい』と思っていたが、『バチカンに留まる必要がある』と(注:支持者たちに)言われたのです。ベネディクトは数多くの優れた資質を持っていましたが、確信を持って『何かをせよ』と言われると受け入れてしまう『弱さ』があります」とも指摘した。

 このような意見と反対の意見もある。教皇フランシスコをかねてから批判しているイタリアのベテラン・ジャーナリスト、サンドロ・マジステル氏はCruxに対し、「ベネディクトは列を乱しているのではなく、義務から外れているのです… 『名誉教皇』の肩書は「再考」されるものではない。歴史に先例のない、新しく考えられたものです。ラッツインガーは事実をもって、それを作り出しているのです。現教皇が検討中の問題に介入することを忍耐するかどうかは、その問題の質と重大さによる。そしてこの問題(注:既婚司祭の是非に関する問題)は、沈黙を破る義務を彼に追わせるものなのです」と反論した。

 今回出版される本でベネディクトが述べていることが適切か否かの議論は、今後しばらく続く可能性が高いが、おそらく最大の問題は、1月12日に「G1」ニュースサイトで、ブラジル人記者のフィリペ・ドミンゲス氏が述べている「これまで以上に忘れられているのは、『名誉教皇』が教会において実際に果たす役割に、我々が何を疑問に思っているか、ということ」だろう。彼は述べているー「教会法でその役割をはっきりさせる必要がある。今、それが緊急の課題です」。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

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2020年1月15日

・教皇の2020年1月から2月の公式行事

(20201.8 バチカン放送)

 教皇フランシスコの1月から2月にかけての公式行事が、教皇儀典室から発表された。

 それによると、教皇は「聖パウロの回心」の祝日である1月25日(土)、「キリスト教一致祈祷週間」の最終日にあたり、ローマの城壁外の聖パウロ大聖堂でエキュメニカルな祈りの集いをとり行われる。

 続く1月26日(日)、教皇は「神のみことばの主日」を機会に、バチカンの聖ペトロ大聖堂でミサをとり行われる。昨年9月、教皇フランシスコは、「ブルガタ訳」と呼ばれるラテン語訳聖書の翻訳者、聖ヒエロニモ司祭教会博士(347頃-420)の帰天1600年を念頭に、自発教令「アペルイト・イッリス」を公布、典礼暦の「年間第3主日」に「神のみことばの主日」を制定された。

 2月に入り、1日(土)夕方、教皇は聖ペトロ大聖堂で「主の奉献」の祝日のミサを捧げ、「第24回世界奉献生活者の日」を記念される。23日(日)には、教皇はイタリア南部バーリを訪問。イタリア司教協議会主催の「地中海、平和の前線」をテーマとする考察と祈りの集会に参加、ミサを司式される。

2020年1月9日

・教皇、ソダノ枢機卿の主席引退願を受理、主席枢機卿を5年の任期制に改定

教皇フランシスコとアンジェロ・ソダノ枢機卿 2019年12月21日教皇フランシスコとアンジェロ・ソダノ枢機卿 2019年12月21日  (Vatican Media)

 教皇フランシスコは21日、アンジェロ・ソダノ枢機卿の高齢を理由とした枢機卿会主席からの引退願いを受諾されると共に、主席枢機卿の任を5年制とする自発教令を発表された。

 元バチカン国務長官、ソダノ枢機卿は92歳。15年にわたった枢機卿会主席からの引退は、同日行われた教皇とバチカンの高位聖職者との降誕祭前の集いの際に発表され、教皇は、ソダノ枢機卿の2005年からの長い主席枢機卿としての奉仕に、心からの感謝を述べられた。

 新たな教令により、主席枢機卿の任期は、当面、延長の余地を残す5年。5年の任期を終え、同役から引退した枢機卿には、名誉主席枢機卿のタイトルが与えられる。また、主席枢機卿の選出は、従来どおり、教会法352条2項に従い、枢機卿の位階の一つである「司教枢機卿」のタイトルを持つメンバー間で行われる。

(編集「カトリック・あい」)

2019年12月22日