【聖金曜日】イエスは「私のもとに来なさい。『私はある』だから」と言われるー主の受難と死の記念の儀式でカンタラメッサ枢機卿の説教

(2024.3.29 バチカン放送)

 29日、カトリック教会の典礼は「聖金曜日」を迎え、イエス・キリストの十字架上の死を記念。同日午後、教皇フランシスコは、バチカンの聖ペトロ大聖堂で、主の受難と死を記念する儀式を行われた。

 儀式の始めにあたり、教皇は祭壇前で長い沈黙の祈りを捧げられた。ことばの典礼では、「イザヤ書」(52章13節-53章12節)、「ヘブライ人への手紙」(4章14-16節; 5章7-9節)が信徒によってイタリア語とスペイン語で朗読され、「ヨハネ福音書」のイエスの受難と死(18章1-19節,42節)が3人の助祭によってラテン語で朗唱された。

 この後、教皇付説教師ラニエーレ・カンタラメッサ枢機卿の説教が行われた。

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 説教で、カンタラメッサ枢機卿は、「あなたがたは、人の子を上げたときに初めて、『私はある』ということ…が分かるだろう」(ヨハネ福音書8章28節)という、イエスがご自分の反対者らに言われた言葉に注目した。

 枢機卿は、「『私はある』という表現は、『出エジプト記』(3章14節)などで、神がご自身のことを『私はある』と呼びながら、その神性を現されたことを思い出させるもの」とする一方で、「人の子を『上げたとき』、つまり『十字架につけたとき』に神性が現れるということは、私たちの神に対する概念を覆す返すものです」と語った。

 イエスは、人間が神に対して抱く考えを完成させるためでなく、その考えを覆し、神の真の御顔を表すために来られた。このことをいち早く理解した聖パウロが「私たちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシャ人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです」(コリントの信徒への手紙1・1章23-24節)と記したとおりだ、と指摘。

 そして、「神は万能です。だとすれば、その『万能』とはどういうものなのでしょうか」と問いつつ、「御父はその真の顔を、弟子たちの前にひざまずいて彼らの足を洗う御子、十字架上の完全な無力さにもかかわらず愛し赦し続ける御子の中に表されたのです」と述べ、 「神の真の万能とは、カルワリオでの完全な無力さです。力とは、それを表すのはやさしいが、消すためには多くを要します。ご自分を隠し、『ご自分を無にする』(フィリピの信徒への手紙2章7節)無限の力です。神は、私たちの力への欲望を前に、意志的な無力を示されたのです」と説いた。

 枢機卿はまた、「いつも力を誇示したい私たちに、特にこの世の権力者たちに、このことは、何を教えているのでしょうか」と問いかけ、「奉仕することなど思いもつかず、ただ権力のための権力を考えている人たちがいます。それはイエスが『民の上に権力を振るう者が恩人と呼ばれている』(ルカ福音書22章25節)と指摘した者たちです。だが、イエスは、『私のもとに来なさい。なぜなら【私はある】、私は神である。私はあなたがたの万能に対する考えを捨てたが、私は万能-愛の万能-を持っている』と、十字架の上から私たちに呼びかけておられるのです」と語った。

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 説教後、聖金曜日の盛式共同祈願が唱えられた。「十字架の崇敬」では、助祭が十字架を手に大聖堂後方から入場し、祭壇に向かって歩を進めながら、三度立ち止まり、十字架を高く顕示。「世の救い主、キリストがつけられた木の十字架を見よ」という招きに、会衆は十字架を見つめ、ひざまずいて崇敬を表した。十字架を迎えた教皇フランシスコは十字架上のイエス像に接吻され、その後、枢機卿や司教、信徒代表による崇敬が続いた。

 最後に、教皇は再び十字架を受け取り会衆に示され、聖体拝領式を経て、人々は沈黙のうちに解散した。

(編集「カトリック・あい」=聖書の引用は、「聖書協会・共同訳」を使用)

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2024年3月30日