・「世界青年の日」リスボン大会は2023年8月1-6日に(VN)

2019年1月に行われた「世界青年の日・パナマ大会」2019年1月に行われた「世界青年の日・パナマ大会」  (Vatican Media)

 「世界青年の日」は、カトリックの若者の祭典。数年毎(現在は3年毎)に開催地を変えて行われる世界大会と、毎年記念される教区レベルのものがあり、教区レベルの「世界青年の日」は、昨年から、従来の「受難の主日」から「王であるキリスト」の祭日に変更されている。

 世界レベルで行われるWYDリスボン大会は、当初2022年の開催を予定していたが、新型コロナウイルスの影響を受けて、2023年に延期された。

 リスボン総大司教マヌエル・ジョゼ・マカリオ・ド・ナシメント・クレメンテ枢機卿は同日、メッセージを発表し、WYDリスボン大会の開催日発表が「10月4日のアッシジの聖フランシスコの日に行われたこと」を強調したうえで、「大会開催までのこれからの22カ月が、若者たちにとって福音宣教のための有意義な期間となるように」と願った。

2021年10月17日

・ヨハネ・パウロ1世教皇の列福に必要な奇跡認定

ヨハネ・パウロ1世ヨハネ・パウロ1世 

(2021.10.13 バチカン放送)

 教皇フランシスコは13日、ヨハネ・パウロ1世教皇(在位 1978年8月26日-1978年9月28日)の列福に必要とされる奇跡を認める教令の発布を承認された。これにより、同教皇の列福は、教皇フランシスコによる列福式の日付の決定を待つまでとなった。

 奇跡として認定されたのは、瀕死の状態にあった少女が同教皇の取り次ぎで回復した、というもの。2011年に、アルゼンチン・ブエノスアイレスに住んでいた11歳の少女が、重い病気にかかり、死が迫っていると診断された。ところが、地元の小教区の主任司祭が、少女の母親や集中治療室担当の医療スタッフと共にヨハネ・パウロ1世に取り次ぎを祈ったところ、少女は回復した。

 ヨハネ・パウロ1世(アルビーノ・ルチアーニ)は1912年10月17日、イタリア北部フォルノ・ディ・カナーレ(現在のカナーレ・ダゴルド)に生まれた。1935年司祭叙階。1958年、ヴィットリオ・ヴェネト司教。1962年から1965年の全会期を通し、第二バチカン公会議に参加。1969年、ベネチア総大司教。1973年、枢機卿に任命された。パウロ6世逝去後のコンクラーベで、1978年8月26日、第263代ローマ教皇に選出された。

 (注:「カトリック・あい」=同教皇は、第二バチカン公会議の精神を受け継ぎ、教会改革に積極的で、また温和な性格から「微笑みの教皇」と多くの信徒から慕われ、活躍が期待されたが、実力を発揮する間もなく、教皇就任後わずか44日で突然、亡くなられた。その死因や死に至った経過、バチカンの対応について、現在に至るまで納得のいく説明がなされていない。)

 同日、ヨハネ・パウロ1世の列福の件のほかに、尊者・神のしもめマリア・ベレニス・ドゥケ・ヘンカー修道女(1898-1993コロンビア)の列福に必要な奇跡、および神のしもべピエトロ・オルティス・デ・サラテ神父(1622-1683アルゼンチン)の殉教が認められた。また、ディエゴ・ヘルナンデス・ゴンサレス神父(1915-1976スペイン)、ジュゼッペ・スポレティーニ神父(1870-1951イタリア)、イエスのマドレーヌ修道女(フランス1989-イタリア1989)、エリザベッタ・マルティネス修道女(1905-1991イタリア)の、4人の神のしもべ・しもめの英雄的徳が認められた。イエスのマドレーヌ修道女(イエスの小さい姉妹マドレーヌ)は、「イエスの小さい姉妹の友愛会」の創立者。同会は日本でも活動している。

(編集「カトリック・あい」)

2021年10月14日

・11月のCOP26を前にバチカンで世界の諸宗教指導者が集まり、共同アピールを採択

諸宗教指導者の集い「信仰と科学、COP26に向けて」 2021年10月4日 バチカン・祝福の間諸宗教指導者の集い「信仰と科学、COP26に向けて」10月4日 バチカン・祝福の間  (Vatican Media)

(2021.10.4 バチカン放送)

 英グラスゴーで11月に開かれる「国連気候変動枠組み条約第26回締約国会議」(COP26)を前に、バチカンで4日、諸宗教リーダーの集いが行われた。

 「信仰と科学、COP26に向けて」と名付けられたこの集いは、COP26グラスゴー会議の議長国である英国とパートナー国であるイタリアの駐バチカン大使館の提案に、教皇庁が協力する形で開かれたもので、グラスゴー会議に向けたアピールを採択、シャルマCOP26議長とイタリア外相に提出された。

 共同アピールでは、二酸化炭素実質排出量ゼロへのできる限り早い達成と、地球全体の平均気温上昇を産業革命以前に比べて1・5度までに抑えるという目標への努力を世界に訴えている。そして、最も豊かな国々や最も大きな責任を負う国々に対し、率先的な役割を引き受け、国内の気候変動対策を強化すると共に、最も弱い立場にある国々が気候変動に対応できるよう財政支援を行うことを強く求めている。

 また、各国政府に対し、クリーンエネルギーへの移行、持続可能な土地利用、環境に配慮した食料システム、責任ある金融に向け、自らの目標を高く持ち、国際協力を強化するよう促している。宗教指導者としては、教育に力を入れ、それぞれが所属する宗教の信者たちを感化し、環境問題について公の場で発言するなど、気候問題に対しより多くの行動に努めることなどを約束した。

 この集いには、教皇フランシスコ、アル=アズハル・モスクのグランド・イマーム、アフマド・アル・タイーブ師、正教会のエキュメニカル総主教バルトロメオス1世をはじめとする世界の諸宗教の指導者およそ40名と外交関係者や科学者が参加した。

 集いでは、COP26グラスゴー会議に向けた共同アピールが紹介され、諸宗教指導者らによる署名が行われた。続いて、教皇はじめ、各参加者から宗教者としての立場で、人類と環境の問題をめぐる発言が行われ、最後に、オリーブの苗の鉢に、参加者らの手により土が入れられた。このオリーブは、記念としてバチカン庭園に植樹される。

(編集「カトリック・あい」)

2021年10月5日

(解説)2019年のサミット以後、聖職者の未成年性的虐待問題に教会はどのように取り組んできたか

Pope Francis addresses the 2019 Meeting on the Protection of Minors in the ChurchPope Francis addresses the 2019 Meeting on the Protection of Minors in the Church 

 2019年2月、教皇フランシスコは、聖職者による未成年者の性的虐待の問題に取り組むために、教会の未成年者の保護に関する会議のために、世界のすべての司教協議会の会長をバチカンに招待した。

 中央および東ヨーロッパの地域に焦点を当てた同様の会議が9月19日から22日までワルシャワで開催される。

 以下の論考で、前バチカン報道官のフェデリコ・ロンバルディ師(イエズス会士)がこの会議を、これまでの教会の旅の文脈に置いて語る。

・・Father Federico Lombardi, SJ・・

 教会は、今日の世界に存在する課題に立ち向かわなければなりません。最も基本的なのは、イエス・キリストなる神への信仰と宣言であり、すべての壮大な文化的および人類学的変化が存在します。

 しかし、教会の生活とその福音宣教の使命に大きな影響を与える特定の課題もあります。過去数十年間に出現した最も重大な課題の1つは、聖職者による未成年者の性的虐待です。これは教会の信頼性を損ない、したがって、教会の権威と福音を信頼できるように宣言する能力を損ないました。それは、制度としての教会、そして教会全体の共同体全体に矛盾と不誠実さの影を落としました。これは確かに非常に深刻です。

 未成年者の性的虐待(最も深刻なこと)から始めて、時間と経験を重ねることで、さまざまな側面を含むように視野を広げることを学びました。したがって、今日、私たちはしばしば「脆弱な」人が苦しんでいる虐待について話します。そして、教皇フランシスコがしばしば述べているように、持続する虐待は性的だけでなく、権力と良心の虐待でもあることを私たちは知っています。

 さらに、虐待の問題は、そのさまざまな兆候において、私たちが住んでいる国やさまざまな大陸の人間社会における一般的な問題であることを覚えておく必要があります。それはカトリック教会だけの問題ではありません。むしろ、この問題を客観的かつ全体として研究する人々は、それが劇的に広まっているさまざまな地域、場所、および機関があることに気づきました。

 同時に、すでに述べたように、教会の信頼性と不変が危機に瀕しているので、教会が問題を具体的に見るのは正しいことです。教会は常に性的行動と人間の尊重に関する教えを主張してきました。したがって、これが教会だけに存在する問題ではないことを知っていても、それについて絶対に真剣に考え、教会生活の文脈や主の福音の宣言にひどい影響を与えることを理解する必要があります。

 特に、尊厳を重んじる人々の関係の深さと真実が危機に瀕しています。クリスチャンとして、そしてカトリック教徒として、私たちは神の像である人の尊厳の優位性を認識することに誇りを持っています。ですから、人の虐待、尊敬の欠如、他人を物と見なす、苦しみに注意を払わないなどは、私たちの信仰と世界のビジョンに特定の根本的な何かが欠けていることの兆候です。

 教会の刑法の最新の改革では、純粋に形式的に見えるかもしれない側面がありますが、その代わりにこの観点から非常に重要です。性的虐待の犯罪は、「人間の生命、尊厳および自由に対する」犯罪の見出しの下に挿入されました。それらは「聖職者にふさわしくない」と考えられる「スキャンダラスな」行動や行為ではありません。むしろ、人の尊厳が中心であり、私たちが神の像であるために尊重されなければならないという教会の理解に重点が置かれています。これは絶対に基本です。改心が起こっており、私たちが一人一人の個人にもっと真剣に耳を傾け、尊重し始めているという事実は、教会の改宗と浄化に向けた私たちの時代の旅の最も重要なステップの1つです。その信頼を取り戻すために。

 悲劇的な出来事の歴史全体と未成年者の性的虐待に関する教会の対応を経ることなく、簡単にするために、2019年2月の会議から始めることができます。それは世界的な瞬間として教皇によって召集され、教会全体(奉献された男性と女性の研究所の代表者も参加した全世界司教協議会会長会議のメンバーによって代表される)が集まり、気づき、継続することに専念しました。更新の道をより効果的に受け入れるために。

 まず第一に、未成年者やその他の人の性的虐待に関連する問題を認識し、その問題に対する責任を受け入れるようになります。深く思いやりのある聞き取りと理解の重要性。これは、結果、苦しみ、起こったことと起こっていることの深刻さに参加するための開放性につながります。耳を傾け、思いやりは、採用する必要がある信念を形成するための出発点を形成します。そしてもちろん、他人を傷つけた犯罪に対しては正義を行う必要があります。もう1つの側面は、そのような犯罪が二度と犯されないように、または少なくともますますまれになり、この悲劇的な現実を制御できるようにするための予防の側面です。これは、教会のコミュニティ内で働くすべての人の形成、具体的には、問題に対処するための参照点として機能できる有能な人々の形成を意味します。つまり、問題に直面する際の認識と責任は一緒になります。

 もう1つの非常に重要で重要なポイントは、問題を隠蔽または隠蔽する文化を覆すための説明責任です。この危機の悲劇的な側面の1つは、深刻な状況を表面化し、一般の人々の意識を高めたことです(時には人々は何が起こっているのかを知っていましたが)–未成年者の性的虐待に対処する方法困惑したり、家族や関係機関の名誉を守るためなどに、体系的になり、しばしば「自然」と解釈され、影に隠れたり、カーペットの下に流されたりします。問題を隠すこの傾向は、指導的役割を担っている人々によってさえ、行われたことに責任を持つ傾向に置き換える必要があります。

 虐待を隠蔽するこの傾向は、あらゆるレベルで非常に広範であり、責任のある立場にある人々(コミュニティの上司、司教など)によって行われるとさらに深刻になりました。したがって、物事を明らかにし、すべての人が自分の行動に責任を持つことを確認することは、私たちが透明性、責任、正義に向かって進んでいることを確認する方法です。これは、プロセスで絶対に必要なもう1つのステップです。

 会議中に多く議論された3番目のポイントは、最初の2つの結果である透明性でした。これは、犯罪が犯されていたこと、そして今も犯されていることを認め、犯罪について話し、犯罪に焦点を当てることを意味するだけではありません。確かに、事実の真実に直面することは不可欠です。しかし、透明性とは、それに応じて何が行われているのか、教会がそのすべての症状において直面し、問題に対処するための手順、それが取っている措置、それらに関する評決が何であるかを知り、知らせることも意味します有罪者など。このようにして、教会と市民の両方のコミュニティは、犯された過ちや犯罪だけでなく、コミュニティがこの問題に対応するために意識的に取り組んでいる旅にも気づきます。

*2019年の会議以降に取られた重要な措置

 しかし、2019年の会議が共通の出発点であると想定された場合、その後、その会議中に特定されたすべての主要なタスクを実行した教皇と教会の指導者によって多くの措置が講じられたことを認識する必要があります。彼らは何ですか?

 まず、すでに3月末までに、教皇フランシスコはバチカンと聖座に関連する新しい法律とガイドラインを公布する使徒的勧告を発行しました。これにより、未成年者の虐待を超えて「脆弱な人物」を含むように視野が広がりました。その後、2019年5月9日、彼は教会全体にとって非常に重要な新しい法律である「あなたは世界の光です」という自発教令を公布しました。この法律では、教皇はすべての教区に事務所を組織することを法制化しました。未成年者の性的虐待に対応して、報告を受け取り、正規の手続きを開始すること。

 さらに、彼はまた、そのような虐待に気付いたすべての司祭と宗教者はそれを報告する義務があることを確立しました。教皇はまた、そのような虐待を報告するように平信徒のメンバーに招待を広げました。現在、すべての司祭と宗教的な男性と女性は、彼らが気づいている未成年者の性的虐待に関する事件を報告することを良心的に義務付けられています。この義務は、最も深刻な未成年者だけでなく、他の脆弱な人や暴力の使用を含む他の虐待にも適用されます。もう一度、信徒のメンバーもそうするように招待されています。虐待を報告するためには、報告を受けるために設立された事務所を公表しなければなりません。

 これは最も決定的な措置の1つです。もちろん、これらすべてが実装されているかどうかを確認する必要があります。しかし、法律はすでに教会全体に適用されています。それは教皇がとった絶対的に基本的な措置であり、おそらくこの問題に関して過去20年間で最も重要でした。さらに、同じ法律は、最高レベルの上司、奉献生活の会の上司、司教、枢機卿の報告を含むプロセスを制定しました。未成年者の性的虐待で告発された人々だけでなく、 「それを隠す」。したがって、責任と説明責任に向けた具体的な措置が根本的に実施されました。

 このように、私たちは、教会の非常に信頼性に影響を与える、巨大で困難で苦痛な問題の前にいます。これは真実ですが、何も行われていない、または何も行われていない、あるいはほとんど何も行われていないということはまったく真実ではありません。それどころか、普遍的な教会が直面し、問題に直面していること、それを正しく扱うための規範、手順、法律を確立するために必要な措置を講じていることは、躊躇なく言うことができます。

*次のステップ:規範から実践へ

 もちろん、これはすべてが完了したことを意味するわけではありません。なぜなら、私たちが知っているように、規範を確立したりフレームワークを作成したりすることと、それを強制することによって状況を変えることはまったく別のことだからです。未成年者と脆弱な人々の保護に関するワルシャワでの中央および東ヨーロッパでの9月の教会会議は、実際、この方向に進んでいます。歴史的および文化的観点から特定の共通点を有するすべての地理的および教会的地域は、それらがどこにあるかを反映し、地方レベルで普遍的な教会のガイドラインを効果的に実施するために具体的に何をする必要があるかを特定する必要があります。

 これは他の地理的地域でも行われています。たとえば、ラテンアメリカ向けの大規模な会議が約1年前にメキシコで開催されました。パンデミックは他の多くの計画を中断させ、遅れを引き起こしました。ただし、会議はさまざまな大陸で計画されているか、すでに開催されており、中央および東ヨーロッパを構成する国で計画されているものと同様の会議です。これらの地域集会は、地理的、文化的、教会的地域に特に適用される普遍的な教会の共通の旅の必要なステップでもあります。

 具体的な経験を積むことに加えて、一般的および規範的なレベルで多くのことが行われてきました。いくつかの分野ではより多くのことが行われ、他の分野ではより少ないことが行われています。問題に立ち向かうための具体的かつ効果的な方法についての知識と洞察を広めるために、会議が必要です。私たちは旅を続けており、旅を続けます。しかし、迅速かつ不確実性なく移動する必要がある道路は、現在、実質的かつ十分に描写されています。この道は、苦しみを癒し、正義を適用し、将来の虐待を防ぎ、教会のコミュニティ内で、そして世界のために教会の使命において信頼と信頼を回復するためにとられなければなりません。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2021年9月21日

・教皇、12日から4日間、ハンガリーとスロバキアに霊的巡礼へ

(2021.9.9 バチカン放送)

 12日からの教皇フランシスコのハンガリー、スロバキア訪問を前に、バチカンのマッテオ・ブルーニ広報局長が9日、報道関係者に概要を説明した。

 それによると、教皇は、第34回目の海外司牧訪問(イタリアは除く)として12日から15日にかけて、両国を訪問。ハンガリーの首都ブダペスト訪問は「聖体に光栄を帰するための巡礼で、特に霊的な性格」を持ち、スロバキア訪問は「かつての全体主義に傷ついた人々を抱擁すると共に、未来に眼差しを向けた旅」と説明した。

 ブルーニ局長は、教皇は今回、欧州の奥深くへと巡礼することで「欧州全体に共通する関心のあるテーマに触れることになるでしょう」とし、その霊的な旅は、ブダペストでの聖体の礼拝から始まり、スロバキアの保護者である「悲しみの聖母」の前での祈りによって締めくくられる、と述べた。

 教皇は日曜日の12日にブダペストを訪れ、5日から開かれている第52回国際聖体大会の閉会ミサを司式されるが、「スタティオ・オルビス」と呼ばれるこのミサは、「全世界のキリスト者の精神的な集い」として捧げられる。

 スロバキア訪問については、聖ヨハネ・パウロ2世教皇は1990年、1995年、2003年と3回同国を訪れており、教皇フランシスコの訪問はこれらに続くものとなる、とし、「聖ヨハネ・パウロ2世は訪問で、ナチズムの恐怖と共産独裁政権の過ちと苦しみから立ち上がり始めた社会の構築に参加するよう、キリスト者に呼びかけたが、教皇フランシスコは、社会は変わったが、今も迫害の傷を抱える人々と出会い、若者たちと共に未来の福音宣教を見つめることになる」と説明。

 また、ハンガリーとスロバキアの両国訪問の重要な行事として、教皇は、諸キリスト教会とのエキュメニカルな集いを持ち、さらにナチスによる迫害の犠牲となったユダヤ人の共同体との出会いも予定している。

 教皇は、さる7月に結腸の手術をしたばかりだが、ブルーニ局長は「両国訪問中も特別な健康上の制限はなく、通常の配慮に留まり、従来の訪問と同様、医師1名と看護師数名が同行する予定だ」と説明した。

 スロバキアでの行事の参加者に対しては当初、「ワクチンパスポート」が条件とされていたが、その条件が撤廃されたことについて、局長は「現地当局の決定によるもの。必要な対策を講じたうえでの判断だと思う」と語った。

(編集「カトリック・あい」)

2021年9月11日

・シノドス準備文書の公式英語訳全文+全4章日本語試訳完了

(2021.9.14 カトリック・あい)

 バチカンのシノドス事務局が7日発表した、シノドスの準備文書の公式英語訳と日本語試訳の全文は以下の通り。

【Synod 2023 Preparatory Document ”For a Synodal Church: Communion, Participation, and Mission”】

シノドス2023 準備文書 「共に歩む教会のために:交わり、参加、ミッション」(表題はバチカン放送仮訳)

 

【目次】

第1章「The Call to Journey Together(共にする旅への呼びかけ)」

第2章「Constitutively Synodal Church(常に共に歩む教会)」

第3章「 Listening to the Scriptures:Jesus, the Crowd, the Apostles(聖書-イエス、群衆、使徒たち-に耳を傾ける)」

第4章「Synodality in Action:Pathways for Consulting the People of God(シノダリティ=共働性=の実践ー神の民に”相談”するプロセス)」

 

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【本文】

1.The Church of God is convoked in Synod. The path entitled “For a Synodal Church: Communion, Participation, and Mission” will solemnly open on the 9th – 10th of October2021 in Rome and on the following 17th of October in each particular Church.

One fundamental stage will be the celebration of the XVI Ordinary General Assembly of the Synod of Bishops, in October 2023,[1] which will be followed by the implementation phase that will again involve the particular Churches (cf. EC, arts. 19-21). With this convocation, Pope Francis invites the entire Church to reflect on a theme that is decisive for its life and mission: “It is precisely this path of synodality which God expects of the Church of the third millennium.”[2]

This journey, which follows in the wake of the Church’s “renewal” proposed by the Second Vatican Council, is both a gift and a task: by journeying together and reflecting together on the journey that has been made, the Church will be able to learn through Her experience which processes can help Her to live communion, to achieve participation, to open Herself to mission. Our “journeying together” is, in fact, what most effectively enacts and manifests the nature of the Church as the pilgrim and missionary People of God.

1. 神の教会はシノドスに呼ばれている。「共に歩む教会のために:交わり、参加、ミッション」と題された歩みの道は、2021年10月9日から10日までローマで、それに続く10月17日にそれぞれの教区の教会で厳粛に開始される。基本は、2023年10月の司教会議の第16回通常総会の挙行にあり[1]、それに先立つ、世界の教区などの準備がされる。この一連の歩みで、全教会が自身の活動と宣教の使命にとって決定的な重要性をもつテーマを深く考えるように勧めておられる。

 今回の旅は、第二バチカン公会議が提起した教会「更新」を継承するものであり、賜物であり、なすべき課題でもあるー共に旅をし、これまでの旅を共に振り返ることで、教会は自己の経験を通して学ぶことができるだろう。そのような手順を踏むことが、教会が「交わり」を生きたものとし、「参加」を実践し、(宣教の)使命に積極的に取り組むのを助けることを可能にする。私たちが「共に旅する」ことは、まさに、巡礼者、宣教する神の民としての教会の性質を最も効果的な実践、証しである。

2.A basic question prompts and guides us: How does this “journeying together,” which takes place today on different levels (from the local level to the universal one), allow the Church to proclaim the Gospel in accordance with the mission entrusted to Her; and what steps does the Spirit invite us to take in order to grow as a synodal Church?

Addressing this question together requires listening to the Holy Spirit, who like the wind “blows where it wills; you can hear the sound it makes, but you do not know where it comes from or where it goes” (Jn 3:8), remaining open to the surprises that the Spirit will certainly prepare for us along the way. Thus, a dynamism is activated that allows us to begin to reap some of the fruits of a synodal conversion, which will progressively mature. These are objectives of great importance for the quality of ecclesial life and for accomplishing the mission of evangelization, in which we all participate by virtue of our Baptism and Confirmation.

Here, we will indicate the main objectives, which decline synodality as the form, the style, and the structure of the Church:

  • recalling how the Spirit has guided the Church’s journey through history and, today, calls us to be, together, witnesses of God’s love;
  • living a participative and inclusive ecclesial process that offers everyone—especially those who for various reasons find themselves on the margins—the opportunity to express themselves and to be heard in order to contribute to the edification of the People of God;
  • recognizing and appreciating the wealth and the variety of the gifts and charisms that the Spirit liberally bestows for the good of the community and the benefit of the entire human family;exploring participatory ways of exercising responsibility in the proclamation of the Gospel and in the effort to build a more beautiful and habitable world;
  • examining how responsibility and power are lived in the Church as well as the structures by which they are managed, bringing to light and trying to convert prejudices and distorted practices that are not rooted in the Gospel;
  • accrediting the Christian community as a credible subject and reliable partner in paths of social dialogue, healing, reconciliation, inclusion and participation, the reconstruction of democracy, the promotion of fraternity and social friendship;
  • regenerating relationships among members of Christian communities as well as between communities and other social groups, e.g., communities of believers of other denominations and religions, civil society organizations, popular movements, etc.;
  • fostering the appreciation and appropriation of the fruits of recent synodal experiences on the universal, regional, national, and local levels.

2.基本的な問いが、私たちを促し、導く。これからさまざまなレベル(小教区、司教区レベルから全世界レベルまで)で行われるこの「共にする旅」で、教会は託された使命に従って、どのように福音を宣べ伝えることができるのか?教会、そしてシノドスとして成長するために、聖霊は私たちに、どのような段階を踏むことを勧めるのか?

 この問いに共に取り組むには、思いのままに吹く風を好まれる聖霊の声を聴く必要がある。「あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない」(ヨハネ福音書3章8節)。だから、聖霊が私たちの歩む道を用意してくださる驚きに心をいつも開いておく必要があるのだ。そうすることで、シノドス的な回心のいくつかの果実を収穫し始める動きが起き、次第に充実したものとなる。このことは、教会生活の質を高め、福音宣教の使命を果たすために、極めて重要な基本となるー受洗と堅信のおかげで、私たちは皆、それに加わる。

 以下に、教会の形態、様式、そして仕組みとして、シノダリティ(共働性)を推進する主要な方策を挙げる。

・歴史を通して、そして今日、聖霊がどのように教会の旅を導いて来たのか、私たちが共に神の愛の証人となるよう求めているのかを、思い起こす。

・神の民の啓もうに役立つために、すべての人、特にさまざまな理由で自分自身を隅に追いやられる人が自分の意見を述べ、聴いてもらえるような、参加型で包括的な教会の歩みを実践する。

・聖霊が、共同体と全人間家族全体のために寛大にくださる賜物と力の持つ豊かさと多様性を認識し、感謝する。

・福音を広く宣言し、より美しく住みやすい世界を構築するための努力において責任を果たす参加型の方策を探求する。

・教会における責任と権力の行使の実態と、その管理の仕組みを調べ、光を当て、福音に根ざさない偏見と歪んだ慣行の変更に努める。

・キリスト教共同体を、社会的対話、癒し、和解、包摂と参加、民主主義の再構築、友愛と社会的友情を促進するために、信じることのできる主体、頼りにできるパートナーとして認められるようにする。

・キリスト教共同体のメンバー間、および共同体と他の社会的集団、たとえばキリスト教の他宗派、他宗教の信徒の共同体、市民組織、多くの人が参加する活動体などとの関係を再建する。

・世界レベル、大陸など地域レベル、国レベル、そして地方レベルで、最近行われたシノドスの成果について評価し、活用を進める。

3.This Preparatory Document is at the service of the synodal journey, especially as a tool to facilitate the first phase of listening to and consulting the People of God in the particular Churches (October 2021 – April 2022), in the hope of helping to set in motion the ideas, energy, and creativity of all those who will take part in the journey, and to make it easier to share the fruits of their efforts.

With this aim:

1) it begins by outlining some prominent characteristics of the contemporary context;

2) it synthetically illustrates the fundamental theological references for a correct understanding and practice of synodality;

3) it offers some biblical thoughts that can nourish meditation and prayerful reflection along the way;

4) it illustrates some perspectives from which to reread the experiences of lived synodality;

5) it shows some ways of articulating this work of rereading in prayer and sharing. To concretely accompany the organization of the work, a methodological Handbook, annexed to this Preparatory Document and available on the dedicated hosting website, is proposed[3].

The site offers some resources for deepening the theme of synodality, as a support to this Preparatory Document; among these, we would like to highlight two that are mentioned several times below: the Address at the Ceremony Commemorating the 50th Anniversary of the Institution of the Synod of Bishops, given by Pope Francis on the 17th of October 2015, and the document Synodality in the Life and Mission of the Church, prepared by the International Theological Commission and published in 2018.

3.この準備文書は、”synodal journey(シノドスの旅)”に役立てるー特に特定教会(注:世界の小教区から司教区、地域教区群を指す)において神の民に耳を傾け、話を聞く「第一段階(2021年10月から2022年4月)」を促進する手立てとして、”旅”に参加するすべての人々が着想、活力、創造性を働かせ、努力の成果を共有するのを容易にするのを助けることを目的とする。

 この目的を念頭に置いて準備文書は:

1)現代の文脈のいくつかの顕著な特徴を概説することから始める。

2)シノダリティ(共働性)についての正しい理解と実践のための基本的な神学的な論及を総合的に示す。

3)道の途中での瞑想と祈りに役立ついくつかの聖書の見方を提供する。

4)生きたシノダリティ(共働性)の経験を”読み返す”ためのいくつかの視点を示す。

5)祈りと分かち合いの中で”読み返す”というこの作業を有機的に結び付けるいくつかの方法を示す。具体的な方法は、この準備文書に添付され、専用のウエブサイトから入手できるハンドブックが用意されている。

 このサイトは、この準備文書を補完するために、シノダリティ(共働性)というテーマを深く理解するいくつかの材料を提供する。その中には、2015年10月17日に教皇フランシスコによるシノドス設立50周年記念式典での演説と、国際神学委員会によって作成され、2018年に発行された 文書「Synodality in the Life and Mission of the Church」が含まれる。

 

第1章 The Call to Journey Together(共にする旅への呼びかけ)

4.The synodal journey unfolds within a historical context marked by epochal changes in society and by a crucial transition in the life of the Church, which cannot be ignored: it is within the folds of the complexity of this context, in its tensions and contradictions, that we are called to “scrutinize the signs of the times and interpret them in the light of the Gospel” (GS, no. 4). Some elements of the global scenario most closely connected to the theme of the Synod are outlined here; but the picture will need to be enriched and completed at the local level.

4.シノドスの旅は、社会の時代を画する変化と、無視することのできない教会生活の極めて重大な変遷によって特徴づけられる、歴史的文脈の中で進められるーそれは、文脈の複雑さのひだの内に、緊張と矛盾の中で、私たちは「時のしるしを注意深く調べ、福音に照らしてそれらを解釈する」ように求められている。シノドスのテーマに最も密接に関連する、地球的なシナリオのいくつかの要素の”輪郭”がここで示されるが、”絵”は、(注:少教区から司教区、地域の司教区群の)地方レベルで豊かに肉付けし、完成させる必要がある。

 

5.A global tragedy such as the COVID-19 pandemic “momentarily revived the sense that we are a global community, all in the same boat, where one person’s problems are the problems of all. Once more we realized that no one is saved alone; we can only be saved together” (FT, no. 32). At the same time, the pandemic has also made the already existing inequalities and inequities explode: humanity seems increasingly shaken by processes of massification and fragmentation; the tragic condition faced by migrants in all regions of the world shows how high and strong the barriers dividing the single human family still are.

The Encyclicals Laudato si’and Fratelli Tutti document the depth of the fault lines that run through humanity, and we can refer to these analyses to start listening to the cry of the poor and of the earth and to recognize the seeds of hope and of the future that the Spirit continues to sow even in our time: “The Creator does not abandon us; he never forsakes his loving plan or repents of having created us. Humanity still has the ability to work together in building our common home” (LS, no. 13).

5.新型コロナウイルスの大感染の世界的な悲劇は、「私たちが地球的な共同体の一員であり、全員が同じボートに乗っている、そこでは一人の問題が全員の問題となる、という感覚を一瞬、復活させた。一人だけが救われるのでなく、皆が一緒に救われるのだ、ということに改めて気づかせた」(回勅「Fratelli tutti」32項)。

 同時に、この大感染は、既にある不平等と不公正を”爆発”させたー人類は(社会の)”大衆化”と”断片化”が進むことでますます動揺させられているように見える。世界のあらゆる地域で難民・移民が直面している悲劇的な状況は、一つであるはずの人間家族を引き裂く障壁が、未だにどれほど高く、強固であるか、を見せつけている。

 「 Laudato si’(ラウダート・シ)」と「Fratelli Tutti (兄弟の皆さん)」の二つの回勅は、人類の間を走る断層線の深さを証拠をもって示している。 貧しい人々と地球の叫びに耳を傾け始め、希望の種、聖霊が私たちの時代においてさえも蒔き続けておられる未来の種を知るために、この二つの回勅の分析を参考にすることができるー『創造主は、決して私たちをお見捨てになりません。神は、決してご自身の愛される計画を放棄したり、私たちをお作りになったことを後悔したりなさいません。人類はまだ、皆が共に暮らす家を建設するために一緒に働く能力をもっています」(回勅「ラウダート・シ」13項)。

 

6.This situation, which, despite great differences, unites the entire human family, challenges the Church’s ability to accompany individuals and communities to reread experiences of mourning and suffering that have unmasked many false certainties, and to cultivate hope and faith in the goodness of the Creator and his creation.

However, we cannot hide from the fact that the Church herself must face the lack of faith and the corruption even within herself. In particular, we cannot forget the suffering experienced by minors and vulnerable people “due to sexual abuse, the abuse of power and the abuse of conscience perpetrated by a significant number of clerics and consecrated persons.”[4]

We are continually challenged “as the People of God to take on the pain of our brothers and sisters wounded in their flesh and in their spirit.”[5] For too long the cry of the victims has been a cry that the Church has not been able to hear sufficiently. These are deep wounds that are difficult to heal, for which forgiveness can never be asked for enough and which constitute obstacles, sometimes imposing ones, to advancing in the direction of “journeying together.[5oseforms of exercising authority on which the different types of abuse (power, economic, conscience, sexual) are grafted.

It is impossible to think of “a conversion of our activity as a Church that does not include the active participation of all the members of God’s People:”[6] together let us ask the Lord for “the grace of conversion and the interior anointing needed to express before these crimes of abuse our compunction and our resolve courageously to combat them.”[7]

6.現在のこのような状況は、人間家族を、大きな相違があるにもかかわらず、全体として結びつけ、教会の能力ー多くの誤った確信の仮面を剥ぎ取る、悲しみと苦しみの経験を味わい直すよう、一人ひとり、そして様々な共同体と歩みを共にする能力、創造主と被造物への希望と信頼を培う能力ーを試している。

 そればかりではない。私たちは、信仰心の欠如、内部においてさえも起きている腐敗に教会自身が向き合わねばならない、という事実から逃げることはできない。特に、相当数の聖職者や修道者による性的虐待、権力の乱用、精神的な暴力によって、未成年者や傷つきやすい人々が受けた苦しみを忘れてはならない[4]。

 私たちは、「神の民として、心身を傷つけられた兄弟姉妹の痛みを引き受ける」ように絶えず求められている。あまりにも長い間、犠牲者の叫びは、教会が十分に聴く能力のない叫びであり続けた。彼らの負った深い傷は、癒すことが難しい。(注:加害者から)決して、十分な謝罪がされることはなく、「共に旅する」ことへの障害となっている。

 全教会が、過去から受け継いだ「聖職者主義」、(地位を背景とした)権力、経済的、精神的、性的など、さまざまな種類の乱用、虐待が一体化した教会権威の行使、が染みついた”文化”の重みに対処するよう求められている。「神の民のすべてのメンバーの積極的な参加を欠いた教会として、私たちの活動の回心」を考えることは不可能だ[6]。共に主に「回心の恵みと心の塗油」を願おう。これらの乱用・虐待の犯罪を前にして、私たちの悔恨と、そうした犯罪と戦うための勇気ある決意を表明するために、それが必要とされている」[7]。

 

7.In spite of our infidelities, the Spirit continues to act in history and to show his life-giving power. It is precisely in the furrows dug by the sufferings of every kind endured by the human family and by the People of God that new languages of faith and new paths are flourishing, : capable not only of interpreting events from a theological point of view but also of finding in trials the reasons for refounding the path of Christian and ecclesial life. It is a reason for great hope that more than a few Churches have already begun more or less structured meetings and consultation processes with the People of God.

Where they have been marked by a synodal style, the sense of Church has flourished and the participation of all has given new impetus to ecclesial life. The desire of young people to be protagonists within the Church and the request for a greater appreciation of women and spaces for participation in the mission of the Church, already signaled by the Synodal Assemblies of 2018 and 2019, are also confirmed. The recent institution of the lay ministry of Catechist and the opening of access to those of Lector and Acolyte to women also move in this direction.

 

7.私たちの不信仰にもかかわらず、聖霊は歴史の中で活動し、命を吹き込む力を示し続けている。人間家族が、神の民が耐えてきたあらゆる種類の苦しみによって掘られた轍(わだち)の中で、信仰についての新たな言語と新たな道がまさに頭角を現しているー神学的観点からの事象を解釈するだけでなく、試練の中でキリスト教徒と教会生活の道を再建する理由を見つけることができる。少なからぬ教会がすでに多かれ少なかれ制度化された集会と神の民との協議プロセスを始めていることは、大きな希望の根拠になっている。

 シノドス的な様式によって特徴づけられているところでは、教会の意識が活性化し、すべての人々が参加することで教会生活に新たな刺激が与られている。教会で主役を演じたいという若者たちの願望と、教会の活動に女性の参加を広げることへの要求は、2018年と2019年のシノドスで既に指摘され、確認されている。(教皇の自発教令による)一般信徒を対象とする「信徒カテキスタ」制度の導入と女性に対してLector (読師)and Acolyte (侍祭)の道を開いたことも、その方向に沿った動きである。

 

8.We cannot ignore the variety of conditions in which Christian communities live in the different regions of the world. Alongside countries where the Church welcomes the majority of the population and represents a cultural reference point for the whole of society, there are others where Catholics are a minority; in some of these countries, Catholics, together with other Christians, experience forms of persecution, including some very violent ones, and not infrequently martyrdom.

If, on the one hand, a secularized mentality tends to expel religion from the public space, on the other hand, religious fundamentalism, without respect for the liberties of others, feeds forms of intolerance and violence that are also reflected in the Christian community and in its relations with society. Christians not infrequently adopt the same attitudes, even fomenting divisions and opposition, including within the Church.

It is equally necessary to consider the reverberation, within the Church and in its relations with society, of the fractures caused by reasons of ethnicity, race, caste, or other forms of social stratification or cultural and structural violence, which run through the latter. These situations have a profound impact on the meaning of the expression “journeying together” and on the concrete possibilities of doing so.

8.キリスト教共同体が世界の様々な地域で、様々な状況の中で活動していることを考えに入れる必要がある。カトリック教徒がその国、地域の人口の大多数を占め、教会が社会の文化的基準となるような国がある一方で、カトリック教徒が少数派の国もある。そうした国の中には、カトリック教徒が他のキリスト教徒などと共に、暴力行為を含む迫害に遭い、命を落とすことが少なくない。

 一方で、世俗化されたメンタリティーが公共の場から宗教を追い出す傾向があるとすれば、他方では、宗教的な原理主義が、他者の自由を尊重せず、キリスト教共同体に、社会との関係に影響を及ぼす不寛容と暴力を育てている。キリスト教徒は、頻繁に同じような態度をとる。教会の中を含めて、分裂と反対を助長することさえある。

 同じように必要なのは、教会の中、そして社会との関係の中で、民族、人種、排他的階級、その他の形の社会階層または文化的および構造的暴力を根拠に引き起こされた分裂の残響を考慮することだ。これらの状況は、「共に旅する」という表現の意味、そうすることの具体的な可能性、に大きな影響を与える。

 

9.Within this context, synodality represents the main road for the Church, called to renew herself under the action of the Spirit and by listening to the Word. The ability to imagine a different future for the Church and her institutions, in keeping with the mission she has received, depends largely on the decision to initiate processes of listening, dialogue, and community discernment, in which each and every person can participate and contribute. At the same time, the decision to “journey together” is a prophetic sign for the human family, which needs a shared project capable of pursuing the good of all.

A Church capable of communion and fraternity, of participation and subsidiarity, in fidelity to what she proclaims, will be able to stand beside the poor and the least and lend them her own voice. In order to “journey together,” we need to let ourselves be educated by the Spirit to a truly synodal mentality, entering with courage and freedom of heart into a conversion process that is indispensable for the “continual reformation of which [the Church] always has need, in so far as she is a human institution” (UR, no. 6; cf. EG, no. 26).

9.この文脈の中で、シノダリティ(共働性)は教会の主たる道であり、聖霊の働きの下で、御言葉を聴くことによって、教会自身を新にするよう求められている。教会とその制度にとっての異なる未来を心に描く能力は、宣教の使命を踏まえて皆が参加し、貢献する形で聴き、対話し、集団識別する取り組みを始める決断に大きく依存している。同時に、「共に旅をする」決断は、人間家族にとって預言的なしるしーすべての人にとっての善を追求することを可能にする共通のプロジェクトーを必要とするしるしだ。

 自身の宣言への忠誠の下で、交わりと友愛、参加と補完が可能な教会は、貧しく、蔑まれた人たちの側に立ち、自身の声を、その人たちに貸すことができるだろう。 「共に旅する」ために、私たちは、真のシノダリティのメンタリティーに向けて、聖霊によって教育され、教会が人間的な制度である限り、勇気と心の自由をもって、「常に(教会が)必要としている継続的な改革」に不可欠な回心のプロセスに入る必要がある」。

(冒頭から第1章は「かとりっく・あい」南條俊二試訳)

 

 

第2章「Constitutively Synodal Church(常に共に歩む教会)」

10.“It is precisely this path of synodality which God expects of the Church of the third millennium. What the Lord is asking of us is already in some sense present in the very word ‘synod’,”[8] which is “is an ancient and venerable word in the Tradition of the Church, whose meaning draws on the deepest themes of Revelation.”[9] It is “the Lord Jesus who presents Himself as ‘the way, the truth, and the life’ (Jn14:6),” and “Christians, His followers, were originally called ‘followers of the Way’ (cf. Acts 9:2; 19,9.23; 22,4; 24,14.22).”[10]

Synodality, in this perspective, is much more than the celebration of ecclesial meetings and Bishops’ assemblies, or a matter of simple internal administration within the Church; it is “the specific modus vivendi et operandi of the Church, the People of God, which reveals and gives substance to her being as communion when all her members journey together, gather in assembly and take an active part in her evangelizing mission.”[11]

Thus are intertwined the main axes of a synodal Church that the title of the Synod proposes: communion, participation, and mission. In this chapter, we will briefly illustrate some fundamental theological references on which this perspective is based.

10.「第三の千年紀の教会に神が期待されるのは、まさにこのsynodality(共働性)の道である。神が求めておられるものが、ある意味でまさに『シノドス』という言葉そのものにすでに示されている」[8]。『シノドス』は「教会の伝承のなかで古くから見られる重要な言葉で、その意味は、神の啓示の最も深いテーマに依る」[9]。「主イエスが、ご自身を『この道であり、真理であり、命である』(ヨハネ福音書14章6節)と紹介」され、「キリスト教徒、イエスに従う者は、元来『道に従う者』(使徒言行録9章2節、19章9節・23節、22章4節、24章14節・22節参照)と呼ばれた」[10]。

 この観点から、synodality(共働性)は、教会の集会や司教の会合の実施、あるいは教会内での簡単な運営といったものをはるかに上回る意味がある。即ち、それは、教会である神の民に特有の生き方と方法であり、教会に属するすべての人々が共に旅をし、集会に集い、福音を告げ知らせるという使命に積極的に関わるとき、教会に交わりとしての実体を明らかに示すものである」[11]。

 このように、シノドスの表題が提起する「交わり・参加・ミッション」という共に歩む教会の主要な軸は互いに絡み合っている。本章では、この視点に基づく幾つかの基本的な神学的な参考資料を簡潔に解説する。

11.In the first millennium, “journeying together”—that is, practicing synodality—was the ordinary way in which the Church, understood as “People united in the unity of the Father and of the Son and of the Holy Spirit,”[12] acted. To those who were creating divisions in the ecclesial body, the Church Fathers opposed the communion of the Churches scattered throughout the world, described by St. Augustine as “concordissima fidei conspiratio,”[13] that is, the agreement in faith of all the Baptized. Here are the roots of the broad development of a synodal praxis at all levels of the Church’s life—local, provincial, and universal—that reached its highest manifestation in the Ecumenical Council.

Within this ecclesial horizon, inspired by the principle of the participation of all in the life of the Church, St. John Chrysostom was able to say that “Church and Synod are synonymous.”[14] Even in the second millennium, when the Church emphasized more strongly the hierarchical function, this way of proceeding did not ceaseif, alongside the celebration of ecumenical councils, and that of diocesan and provincial synods is well attested, when it came to defining dogmatic truths, the Popes wished to consult the Bishops in order to know the faith of the whole Church, by appealing to the authority of the sensus fidei of the entire People of God, which is “infallible ‘in credendo’” (EG, no. 119).

11.第一の千年紀では、「共に旅をすること」、すなわちsynodality 共働性の実践―は普通のことだった。教会は「父と子と聖霊の三位一体の下に結ばれていた人々」[12]という理解のもとに行動したのである。教会に分裂をもたらしている人々に、教父たちは、教会の集合体を世界中でばらばらにするものとして反対したー聖アウグスチヌスが「concordissimafidei conspiratio」 [13]ー「すべての洗礼を受けた人々は信仰において一つだ」と言明したように。教会生活のあらゆるレベル、小教区・教区レベル、地域レベル、世界レベルで、そしてバチカン公会議において頂点に達したシノドスの実践を、幅広く進展させるルーツがここにある。

 このような教会の地平の中で、聖ヨハネ・クリソストムは「すべての人の教会生活への参加」という原則に突き動かされ、「『教会』と『シノドス』は同義語だ」と言うことができた[14]。第二の千年紀に、教会が聖職者位階制を一段と強化した時も、その流れが止まることはなかったー仮に、公会議と並行して、教区レベルや地域レベルの教会会議が開かれたと確言されても、教義上の真理-信条の不可謬ーを規定する必要が出て来た時に、歴代の教皇たちは、全教会の信仰を知るために、神の全ての民の sensus fidei(sense of the faithful=神に忠実な人々の感覚、神聖なる常識)の権威に訴えて、司教たちの意見を聴くことを望んだ。( EG,no.119)

12.The Second Vatican Council is anchored in this dynamic of Tradition. It emphasizes that “God, however, does not make men holy and save them merely as individuals, without bond or link between one another. Rather has it pleased Him to bring men together as one people, a people which acknowledges Him in truth and serves Him in holiness.” (LG, no. 9).

The members of the People of God are united by Baptism, and “if by the will of Christ some are made teachers, pastors and dispensers of mysteries on behalf of others, yet all share a true equality with regard to the dignity and to the activity common to all the Faithful for the building up of the Body of Christ” (LG, no. 32). Therefore, all the Baptized, participants in Christ’s priestly, prophetic, and kingly functions by “exercising the variety and ordered richness of their charisms, their vocations and their ministries,”[15] are active subjects of evangelization, both individually and as the entire People of God.

12.第二バチカン公会議は、この伝統の力を基礎にしている。「しかし、神は、人々に互いの絆や繋がりがなければ、個人として人々を聖とし、救うことをされない。それよりも、人々を一つの民ー真に神を認識し、神に仕える民ーにまとめることを、神はお喜びになる」[LG no.9]と強調している。

 神の民の成員は洗礼によって結ばれ、「キリストのみ心により、他者のために、ある者は教師に、司牧者に、そして教えの玄義を広く伝える者とされ、しかも、キリストの体を作りあげるという信仰を持つ全ての人に共通の尊厳と活動において、皆が平等なのです」(LG no.32 )。それゆえ、洗礼を受け、キリストの聖職の、預言的な、王たる働きに加わる者たちは、「神から授けられた力や才能、召命、司祭職など多様で秩序立てられた豊かさを実践することによって」[15]、個人としても、神の民総体としても、宣教の能動的な神に仕える者となる。

13.The Council emphasized how, by virtue of the anointing of the Holy Spirit received in Baptism, the totality of the Faithful “cannot err in matters of belief. They manifest this special property by means of the whole Peoples’ supernatural discernment in matters of faith when ‘from the Bishops down to the last of the lay Faithful’ they show universal agreement in matters of faith and morals” (LG, no. 12). It is the Spirit who guides the faithful “to all truth” (Jn16:13).

Through action of the Spirit, “this tradition which comes from the Apostles develops in the Church” so that the People of God may grow “in the understanding of the realities and the words which have been handed down. This happens through the contemplation and study made by believers, who treasure these things in their hearts (cf. Lk 2:19, 51) through a penetrating understanding of the spiritual realities which they experience, and through the preaching of those who have received through Episcopal succession the sure gift of truth” (DV, no. 8).

In fact, this People, gathered together by its Pastors, adheres to the sacred deposit of the Word of God entrusted to the Church, perseveres constantly in the teaching of the Apostles, in fraternal communion, in the breaking of bread, and in prayer, “so that holding to, practicing, and professing the heritage of the faith, it becomes on the part of the Bishops and Faithful a single common effort” (DV, no. 10).

13.第二バチカン公会議は、洗礼の時に受けた聖霊の塗油のおかげで、キリスト教徒全体がどのようにして「信仰に関して間違いを犯さないのか」を強調している。「『司教たちから一般信徒の最後の一人に至るまで』全員が信仰と倫理に関して合意するとき、信仰に関する民全体の超自然的な識別によって、彼らは、この特別な持ち物を明示する」(LG,no.12)。

 信徒たちを「あらゆる真理」(ヨハネ福音書16章13節)に導くのは聖霊である。聖霊の働きを通して、「使徒たちから始まるこの伝統は、語り継がれてきた真実と御言葉についての理解を、神の民が増していけるように、使徒たちに始まる伝統が教会の中で発展させる。このことは、そうしたものを心の中に大切に留めておく(ルカ福音書2章19、51節)信徒たちの観想と学びを通してー自ら経験する霊的な真理についての洞察力ある理解を通して、使徒継承の真理の賜物を受けた人たちの説教を通してーなされる(DV, no. 8).。

 事実、司牧者によって集められた民は、教会に委ねられた神の聖なる御言葉の数々に忠実であり、使徒たちの教え、兄弟的な交わり、パンを裂くこと、そして祈りを、絶えず、屈することなく保ち続けるー「信仰の伝統を固く守り、実践し、明確に宣べることで、それが、司教たちと信徒たちの側の一つの共通の努力となるように(DV no.10)」。

 

14.The Pastors, established by God as “authentic guardians, interpreters and witnesses of the faith of the whole Church,”[16] should not be afraid to listen to the Flock entrusted to them. The consultation of the People of God does not imply the assumption within the Church of the dynamics of democracy based on the principle of majority, because there is, at the basis of participation in every synodal process, a shared passion for the common mission of evangelization and not the representation of conflicting interests. In other words, this is an ecclesial process that can only take place “at the heart of a hierarchically structured community.” [17]

It is in the fruitful bond between the sensus fideiof the People of God and the magisterial function of the Pastors that the unanimous consensus of the whole Church in the same faith is realized. Every synodal process, in which the Bishops are called to discern what the Spirit is saying to the Church, not by themselves but by listening to the People of God, who “shares also in Christ’s prophetic office” , is an evident form of that “journeying together” which makes the Church grow.

St. Benedict emphasizes how “the Lord often reveals the most prudent course to be followed”[18] to those who do not occupy important positions in the community (in that case, the youngest); thus, the Bishops should take care to reach out to everyone, so that, in the orderly unfolding of the synodal journey, what the apostle Paul recommends to the communities may be realized: “Do not quench the Spirit. Do not despise prophetic utterances. Test everything; retain what is good” (1 Thess 5:19-21).

14. 司牧者たちー「全教会の信仰の真の守護者、解説者、そして証人」(16)として神によって立てられた者たちーは、自身に託された”羊の群れ”に耳を傾けることを恐れてはならない。神の民との話し合いは、教会において、多数決の原則を基礎に置く民主主義の力学を前提とすることを意味しない。なぜなら、synodal(共働性)プロセスへの参加の根底に、福音宣教という共通の使命へ共に抱く熱意はあるが、相反する関心の表明はないからだ。これは、換言すれば、「位階的な構造をもつ共同体の核心」17)においてのみなされる教会のプロセスなのである。

   同じ信仰において教会全体の全員一致の合意が実現するのは、神の民の sensus fidei(信仰の理解、能力)と司牧者たちの権威をもった働きの間の実り多い絆においてである。いずれのsynodal(共働性)プロセスーそのプロセスで、司教たちは、自分自身ではなく、「キリストの預言的職務を共有する」(LG, no. 12)神の民に耳を傾けることによって、聖霊が何を教会に語られているかを識別するように求められているーは、教会を成長させる「共に旅をする」ことの明白な形である。

 聖ベネディクトは、共同体で重要な地位を占めていない人々(この場合、最も若い者たち)に対して「主がどれほど頻繁に、取るべき最も賢明な道を明示しておられるか」を強調している。シノドスの旅が整然と進む中で、使徒パウロが共同体に求めたことー「霊の火を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません。すべてを吟味し、良いものを大切にしなさい」(テサロニケの信徒への手紙1・5 章19-21節)ーが実現されるように、司教たちは、誰とでも心を通わすように気を付けねばならない。

 

15.The meaning of the journey to which we are all called is above all that of discovering the face and form of a synodal Church, in which “everyone has something to learn. The faithful people, the college of bishops, the Bishop of Rome: all listening to each other, and all listening to the Holy Spirit, the ‘Spirit of truth’ (Jn14:17), in order to know what He ‘says to the Churches’ ”[19] The Bishop of Rome, as the principle and foundation of the Church’s unity, asks all the Bishops and all the particular Churches, in which and from which the one and only Catholic Church exists (cf. LG, no. 23), to enter with confidence and courage into the path of synodality.

In this “journeying together,” we ask the Spirit to help us discover how communion, which brings together in unity the variety of gifts, charisms, and ministries, is for the mission: a synodal Church is a Church “going forth,” a missionary Church “whose doors are open” (EG, no. 46). This includes the call to deepen relationships with other Churches and Christian communities, with which we are united by the one Baptism. The perspective of “journeying together,” then, is even broader, and embraces all humankind, whose “joys and hopes, griefs and anxieties” we share (GS, no. 1). A synodal Church is a prophetic sign, above all for a community of nations incapable of proposing a shared project, through which to pursue the good of all: practicing synodality is today for the Church the most evident way to be “the universal sacrament of salvation” (LG, no. 48), “a sign and instrument of intimate union with God and of the unity of the whole human race” (LG, no. 1).

15.私たちが招かれている旅の意味は、なによりもシノドス的教会の顔と形を発見する旅であること、そこでは「誰にも学ぶべきことがある。信徒たち、司教団、ローマの司教(教皇)、誰もが互いに耳を傾け、『真理の霊』(ヨハネ福音書14章17節)である聖霊に耳を傾ける、聖霊が『諸教会に語る』(Rev 2:7)ことを知るために」(19)。ローマ司教は、教会一致の原理、基礎として、すべての司教、世界のすべての教区教会ーそこに、そこから一つの、唯一のカトリック教会が存在する(LG,no.23参照)ーに対して、勇気と自信をもってsynodality(共働性)の道を歩むように求められている。

 この「共に歩む旅」において、私たちは、交わりー様々な恵み、賜物、宗教的活動を一致のうちにもたらすものーが、宣教の使命のために、どうあるべきか、を知ることができるよう、聖霊に助けを求める必要がある。シノドス的教会は、「前進する」教会であり、「扉が開かれている」宣教する教会(EGno.46 )だ。旅には、一つの洗礼によって結ばれている他宗派の教会、キリスト教共同体と関係を深めることも含まれている。そうすることで、「共に旅する」ことの前途は、さらに広がり、全人類を、その「喜び、希望、悲しみ、不安」を共有し、包み込むのだ(GS no.1 )。シノドス的教会は、預言的なしるしである、何よりも、すべての善を追求する共通の取り組みを提案することのできない国々の共同体のためにーsynodality(共働性)の実践は今日、教会にとって、「普遍的な救いの秘跡」(LG no.48) 、「しるし、神との緊密な結びつきと全人類の一致の手段」となる最も明確な道だ。

(以上、第2章は「カトリック・あい」田中典子試訳)

 

第3章「 Listening to the Scriptures:Jesus, the Crowd, the Apostles(聖書-イエス、群衆、使徒たち-に耳を傾ける)」

16.The Spirit of God, who illuminates and vivifies this “journeying together” of the Churches, is the same Spirit who works in the mission of Jesus, promised to the Apostles and to the generations of disciples who hear God’s Word and put it into practice. The Spirit, according to the Lord’s promise, does not limit himself to confirming the continuity of the Gospel of Jesus, but will illuminate the ever-new depths of his Revelation and inspire the decisions necessary to sustain the Church’s journey (cf. Jn14:25–26; 15:26–27; 16:12–15).It is, therefore, appropriate that our journey of building a synodal Church be inspired by two “images” from Scripture.

One emerges in the representation of the “community scene” that constantly accompanies the journey of evangelization; the other refers to the experience of the Spirit in which Peter and the early community recognize the risk of placing unjustified limits on faith sharing. The synodal experience of journeying together, following the Lord and in obedience to the Spirit, will be able to receive decisive inspiration from meditation on these two traits of revelation.

16. この、教会の「共に歩む旅」を照らし、活気づける神の聖霊は、イエスのミッションの中で働き、神のみ言葉を聴きそれを実践する使徒たちと、何世代にもわたるその弟子たちに約束をした聖霊と同じ聖霊です。主の約束によると、この聖霊は、イエスの福音の継続を確証するだけでなく、聖書の常に時代に沿った新たな深みを照らし、教会の旅を支えてゆくために必要な決断へと導いてくれるのです(ヨハネ福音書14章25-26節、15章26-27節、16章12-15節)。それゆえ、共に歩む教会を構築する私たちの旅は、聖書からの2つのイメージによって触発される、と言っていい。

 一つは、福音宣教の旅に常に付随する「共同体の場面」に代表される形で出てくるイメージ。もう一つは、ペトロと初期の共同体が信仰を分かち合うにあたって、不当に境界を設ける危険を認識した時の、聖霊の働きを経験するイメージです。主の後を聖霊に従って共に旅するシノドス的経験をする時、聖書のこれら二つの特徴を瞑想することで、明確な聖霊の啓示受け取ることができるだろう。

Jesusu,the Crowd, the Apostles

17.An original scene appears, in its fundamental structure, as the constant of the way in which Jesus reveals himself throughout the Gospel, as he announces the coming of the Kingdom of God. Essentially, three actors (plus one) are involved. The first, of course, is Jesus, the absolute protagonist who takes the initiative, sowing the words and signs of the coming of the Kingdom without “showing partiality” (cf. Acts10:34).

In various ways, Jesus pays special attention to those who are “separated” from God and those “abandoned” by the community (the sinners and the poor, in gospel language). Through his words and actions, he offers liberation from evil and conversion to hope, in the name of God the Father and in the power of the Holy Spirit. Even in the diversity of the Lord’s calls, their receptive responses, the common trait is that faith always emerges as a valuing of people: their plea is heard, their difficulty is helped, their availability is appreciated, their dignity is confirmed by God’s gaze and restored to the community’s recognition.

イエス、群衆、使徒たち

17. 聖書の基本的構造の中で、本来の場面は、イエスが福音書全体を通じてご自分を明らかにされるとき、また、イエスが神の王国の到来を告げられる時、一定の形で現れます。本質的に、3人の登場人物(プラス一人)が関わる。

 1番目の登場人物は、言うまでもなく、イエスだ。「誰にも平等に」王国の到来の言葉と印の種をまき、主導権を取る絶対的な指導者である(使徒言行録10章34節)。

 様々な方法で、イエスは「神から引き離され、社会から『見捨てられた』人々(福音書の言葉で、罪人たちや、貧しい人々)に特別に目を配られる。彼の言葉や行動の全体を通じて、父なる神の名と聖霊の力によって、悪からの解放と希望への回心を勧める。主の呼びかけ、それを受け入れる答えは、様々な形をとるが 、共通の特徴は 、人々に価値を置くものとして信仰が常に現れるということだ。すなわち、彼らの嘆願は聴き入れられ、苦難は救われ、有用性は正当に評価され、尊厳は神の目によって確認され、共同体に再び認められるのだ。

 

18.In fact, the work of evangelization and the message of salvation would not be comprehensible without Jesus’ constant openness to the widest possible audience, which the Gospels refer to as the crowd, that is, all the people who follow him along the path, and at times even pursue him in the hope of a sign and a word of salvation: this is the second actor on the scene of Revelation. The proclamation of the Gospel is not addressed only to an enlightened or chosen few. Jesus’ interlocutor is the “people” of ordinary life, the “everyone” of the human condition, whom he puts directly in contact with God’s gift and the call to salvation.

In a way that surprises and sometimes scandalizes the witnesses, Jesus accepts as interlocutors all those who emerge from the crowd: he listens to the impassioned remonstrances of the Canaanite woman (cf. Mt15:21–28), who cannot accept being excluded from the blessing he brings; he allows himself to dialogue with the Samaritan woman (cf. Jn 4:1–42), despite her condition as a socially and religiously compromised woman; he solicits the free and grateful act of faith of the man born blind (cf. Jn 9), whom official religion had dismissed as outside the perimeter of grace.

18. 実際、福音伝道の働きと救いのメッセージは、福音書に「群衆」と記されている出来る限り多くの聴衆、すなわち、イエスの歩みに付き従い、時には救いのしるしや言葉を求めてイエスを追い求めるすべての人々に、イエスが不断に心を開くことがなかったら、理解されることはなかっただろう。この「群衆」が、聖書の場面の2番目の登場人物である。

 福音の宣言は、少数の、啓発された、選ばれた人々だけに、なされたのではない。イエスの対話の相手は、普通の生活をしている「人々」であり、人間である「すべての人々」なのだ。その普通の、すべての人々が、直接神の賜物と救いの呼びかけに接することができるようにされたのである。

 目撃者たちを驚かせ、時には憤慨させたりしながら、イエスは、「群衆」の中の、これらの人々を皆、対話の相手として受け入れる。イエスは、ご自分のもたらす恩恵から除外されることを受け入れられず、感情を高ぶらせて抗議するカナンの女の言うことを聞き入れる(マタイ福音書15章21‐28節)。また、サマリアの女を、社会的にも宗教的にも不名誉な立場にあるにもかかわらず対話の相手にする(ヨハネ福音書4章1-42節)。ユダヤ教の恩恵から排除されている生まれつきの目に見えない人に、自由で感謝に満ちた信仰の行いをするよう求める(同9章)。

19.Some follow Jesus more explicitly, experiencing the fidelity of discipleship, while others are invited to return to their ordinary lives: yet all testify to the power of the faith that has saved them (cf. Mt15:28).

Among those who follow Jesus, the figure of the apostles, whom he himself calls from the beginning, having given them the task of mediating authoritatively the crowd’s relationship with Revelation and with the coming of God’s Kingdom, clearly becomes prominent.

The third actor’s entrance on the scene occurs not thanks to a cure or a conversion, but because it coincides with Jesus’ call. The election of the apostles is not the privilege of an exclusive position of power and separation but the grace of an inclusive ministry of blessing and fellowship. Thanks to the gift of the Spirit of the Risen Lord, they are to guard the place of Jesus, without replacing him: not to put filters on his presence, but to make it easy to encounter him.

19.弟子としての忠誠を果たしながら、さらに明確にイエスに従う者もいれば、招かれても、また元の生活に戻る者もいる。だが、すべての者が自分たちを救った信仰の力を証言している(マタイ福音書15章28節)。

 イエスに従う者の中に、「使徒たち」の姿がある。イエスご自身から最初に呼ばれ、神の啓示や神の王国の到来と群衆の関係を権威をもって仲介する仕事を与えられた彼らは、はっきりと卓越した存在となる。

 3番目の登場人物は、治癒や回心のためにではなく、イエスの呼び掛けと一体になるために登場する。使徒たちの選出は、権力と識別の独占的な特権ではなく、祝福と仲間意識という包括的な職務の恩恵である。復活した主の聖霊の賜物によって、彼らは、イエスにとって代わるのではなく、イエスの場を守る。イエスの現存にフィルターをかけるのではなく、イエスと容易に出会うことができるようにするために。

 

20.Jesus, the crowd in its diversity, the apostles: this is the imagery and the mystery that must be constantly contemplated and explored in depth so that the Church may increasingly become what she is. None of the three actors can leave the scene. If Jesus is absent, and someone else takes his place, the Church then becomes a contract between the apostles and the crowd and whose dialogue will end up following the plot of the political game.

Without the apostles, authorized by Jesus and instructed by the Spirit, the relationship with the evangelical truth is broken, and the crowd, whether it accepts or rejects Jesus, remains exposed to a myth or an ideology about him. Without the crowd, the apostles’ relationship with Jesus becomes corrupted into a sectarian and self-referential form of religion, and evangelization, which emanates from the direct self-revelation that God addresses personally to all, offering His salvation, loses its light.

20. 「イエス」「様々な群衆」「使徒たち」ーこれが、教会が次第に今ある姿になるために常に熟考され深く探求されねばならない「心象と玄義」だ。これらの登場人物のうち、誰一人として退場することはできない。

 「イエス」がおられず、誰かが彼の代わりをするなら、教会は「使徒たち」と「群衆」の間の契約となり、その対話は政治的駆け引きの筋書きを追うだけに終わってしまうだろう。

 イエスに公認され聖霊に導かれた「使徒たち」がいなかったら、福音の真実との関係は壊され、イエスを受け入れようが拒絶しようが、群衆はイエスについての神話か観念にさらされたままとなる。

 「群衆」がいなかったなら、使徒たちのイエスとの関係は、宗派に分かれ、自分自身で自分を作り出す宗教となり果ててしまい、神が、救い主を下さり、すべての人個々に語りかけてくださる、という直接的な自己啓示から生じた福音伝道は光を失ってしまう。

21.Then, there is the “extra” actor, the antagonist, who brings to the scene the diabolical separation of the other three. Faced with the perturbing prospect of the cross, there are disciples who leave and mood-changing crowds. The insidiousness that divides—and, thus, thwarts a common path—manifests itself indifferently in the forms of religious rigor, of moral injunction that presents itself as more demanding than that of Jesus, and of the seduction of a worldly political wisdom that claims to be more effective than a discernment of spirits.

In order to escape the deceptions of the “fourth actor,” continuous conversion is necessary. Emblematic in this regard is the episode of the centurion Cornelius (cf. Acts10), the antecedent of that “Council” of Jerusalem (cf. Acts 15) which constitutes a crucial reference point for a synodal Church.

21. そして、”特別な役者”が登場するー「イエス」「様々な群衆」「使徒たち」を悪魔的に分離させる、ひどい状況をもたらす敵対者だ。イエスが十字架に掛けられることに動揺し、離れてしまう「使徒たち」や、移り気な「群衆」がいる。人を分裂させ、共通の道を歩むのを妨げる狡猾さが、イエスがなさるよりも苛酷な要求と、霊の識別よりもはるかに効果的だとする世俗的な政治的知恵への誘惑となる、宗教的厳格さと道徳的差し止め命令の形をとり、無関心を装って立ち現れる。

 この”第4の登場人物”の欺瞞から逃れるためには、不断の回心が必要である。この点で象徴的なのは、百人隊長のコルネリウスの話 (使徒言行録10章)であり、 シノドス的教会にとって参照すべき重要なポイントとなるのは、前触れとしての「エルサレム使徒会議」(使徒言行録15章)である。

A Double Dynamic of Conversion:Peter and Cornelius(Act 10)

22.The episode narrates, first of all, the conversion of Cornelius, who even receives a sort of annunciation. Cornelius is a pagan, presumably Roman, a centurion (a low-ranking officer) in the army of occupation, who practices a profession based on violence and abuse. Yet, he is dedicated to prayer and almsgiving, that is, he cultivates a relationship with God and cares for his neighbor.

It is precisely in his home that the angel surprisingly enters, calls him by name, and exhorts him to send—the verb of mission! —his servants to Jaffa to call—the verb of vocation! —Peter. The narrative then becomes that of the conversion of the latter, who, on that same day, received a vision in which a voice ordered him to kill and eat animals, some of which were unclean.

His response is decisive: “By no means, Lord” (Acts10:14). He recognizes that it is the Lord who is speaking to him, but he emphatically refuses, because that order demolishes precepts of the Torah that are inalienable for his religious identity, and which express a way of understanding election as a difference that entails separation and exclusion from other peoples.

ペトロとコルネリウスの思い切った回心

22. この挿話は、まず第一にコルネリウスの改宗を物語る。彼は一種のお告げを受ける。彼は、異教徒、おそらくローマ人で、占領軍の百人隊長(下級将校)で、やっていることは暴力や虐待を基本にしたものだったが、熱心に祈りと施しをし、神との関係を築き、隣人を大切にしていた。

 驚いたことに、天使が入って来たのは、まさに彼の家だったー彼を名前で呼び、ヤッファヘ、ペトロを呼び(召命)に、召し使いに遣わす(派遣)ように強く勧めた。

 物語はペトロの回心へと展開の回心へと展開する。その同じ日、ペトロは幻を見て、動物たちを屠って食べるように、と命じる声を聞く。清くない動物もあったので、「主よ、とんでもないことです」と断固として否定する(使徒言行録10章10-⒕参照)。彼に話しかけたのが主だ、と分かったが、断固として断る。なぜなら、それは、自分の宗教的立場から譲歩できない、律法の教えを覆す命令であり、他の人々からの別離、排除を伴う差異として、選ばれたことを理解する道の表明なのだ。

(以上、第3章の22節まで「カトリック・あい」岡山康子試訳)

 

23.The apostle remains deeply disturbed and, while he is wondering about the meaning of what has happened, men sent by Cornelius arrive and the Spirit indicates to him that they are his envoys. Peter responds to them with words that recall those of Jesus in the Garden: “I am the one you are looking for” (Acts10:21).

This is a true and proper conversion, the painful and immensely fruitful passage of leaving one’s own cultural and religious categories: Peter accepts to eat with pagans the food he had always considered forbidden, recognizing it as an instrument of life and communion with God and with others. It is in the encounter with people, welcoming them, journeying with them, and entering their homes, that he realizes the meaning of his vision: no human being is unworthy in the eyes of God, and the difference established by election does not imply exclusive preference but service and witnessing of a universal breadth.

23. 使徒が相当に戸惑ったまま、起こったことの意味を考え込んでいるうちに、百人隊長のコルネリウスから派遣された人々が到着し、聖霊は彼らが彼の使者であることを示された。ペトロは、庭でのイエスの御言葉を思い出すような言葉で彼らに応える―「あなたがたが探しているのは、この私です」(使徒言行録10章21節)。

 これが真の正しい回心であり、自分自身の文化的、宗教的な区別を離れる、という、痛みを伴いながらも計り知れない実りのある通過点であるーペトロは、それを神や他者との生活と交わりの道具として認め、ずっと「禁じられている」と思っていた「食べ物を異教徒と一緒に食べること」を受け入れます。人々と出会い、彼らを喜んで受け入れ、彼らと共に旅をし、彼らの家に入ることによって、自分に与えられた幻の意味を悟るのです―神の目にふさわしくない人間は一人もおらず、召されることによって確立された違いは、排他的な選好を意味するのではなく、普遍的な範囲での奉仕と証しを意味するということなのだ。

24.Both Cornelius and Peter involve other people in their journey of conversion, making them companions in their journey. The apostolic action accomplishes God’s will by creating community, breaking down barriers, and promoting encounters. The word plays a central role in the encounter between the two protagonists. Cornelius begins by sharing his experience. Peter listens to him and then speaks, reporting in turn what has happened to him and testifying to the closeness of the Lord, who goes out to meet people individually to free them from what makes them prisoners of evil and mortifies humanity (cf. Acts10:38).

This form of communicating is similar to the one Peter will adopt in Jerusalem when the circumcised believers criticize him, accusing him of having broken the traditional norms, on which all their attention seems to be focused, while disregarding the outpouring of the Spirit: “You entered the house of uncircumcised men and ate with them!” (Acts 11:3). At that moment of conflict, Peter reports what happened to him and his reactions of bewilderment, incomprehension, and resistance. Precisely this will help his interlocutors, initially aggressive and refractory, to listen and accept what has happened. Scripture will help to interpret the meaning, just as it also will at the “Council” of Jerusalem, in a process of discernment that consists of listening together to the Spirit.

24.コルネリウスもペトロも、自分の回心の旅に他の人々を巻き込み、旅の仲間にしている。使徒的活動は、共同体を作り、障壁を壊し、出会いを促進することによって、神の御旨を成し遂げる。この二人の主人公の出会いには、言葉が中心的な役割を果たしている。コルネリウスは、自分の経験を共有することで始めた。ペトロは、相手に耳を傾け、それから話し、自分に起こったことを伝え、主の親密さを証言する―主は、人々を悪の虜にするもの、人間性を損なうもの、から解放するために、それぞれに会いに行かれる(使徒言行録10章38節参照)。

 このような意思疎通の図り方は、ペトロがエルサレムでとったやり方と似ているーその時、ペトロは、割礼を受けた信者たちから、聖霊の注ぎを無視しつつ、すべての注意が集中されている見える伝統的な規範を破った、と非難されたー「あなたは割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事をした」(使徒言行録11章3節)と。そこでペトロは、自分に起きたこと、そのことに当惑したこと、理解することができなかったこと、そして、受け入れることを拒んだこと、などを順序正しく説明した(使徒言行録11章4節以降参照)。

 まさに、このようなやり方こそ、頑固で攻撃的だった相手が耳を傾け、起きたことを受け入れられるようにするのだ。聖書は、その意味の解釈を助けるーエルサレム使徒会議(「カトリック・あい」注:紀元49年頃にエルサレムで開催された初代教会最大の宣教指導者たちの会議。パウロの第1次伝道旅行によって誕生したキリスト教徒と、ユダヤ人キリスト教徒との間の問題について激しい論争を経て、律法の厳守から異邦人キリスト教徒を解放して、信仰によってのみ救われることが確認された)でそうであったように、聖霊に共に耳を傾けることから始まる識別のプロセスにおいて。

(以上、第3章23,24項、「カトリック・あい」ガブリエル・タン試訳)

 

第4章「Synodality in Action:Pathways for Consulting the People of God(シノダリティ=共働性=の実践ー神の民に”相談”するプロセス)」

25.Enlightened by the Word and grounded in Tradition, the synodal path is rooted in the concrete life of the People of God. In fact, it presents a peculiarity that is also an extraordinary resource: its object—synodality—is also its method. In other words, it constitutes a sort of construction site or pilot experience that makes it possible to immediately begin reaping the fruits of the dynamic that progressive synodal conversion introduces into the Christian community.

On the other hand, it can only refer to the experiences of synodality lived, at different levels and with different degrees of intensity: valuable elements for discernment on the direction in which to continue to move are offered by their strengths and achievements, and also by their limitations and difficulties. Of course, here, reference is made to the experiences activated by the present synodal journey, but also to all those in which forms of “journeying together” are already being experienced in ordinary life, even if the term synodality is not known or used.

25. 御言葉に啓発され、伝統に根ざしたシノドスの道は、神の民の具体的な生活に根ざしています。実際、これは、その目的であるシノダリティがまたその方法でもあるという、類い稀な資質でもある特異性を示しています。言い換えれば、それは、ある種の建設現場または試験的な体験のような構成であり、進行性あるシノドスの変化がキリスト教共同体にもたらす、行動的な成果をすぐに収穫し始めることを可能にする。

 一方で、それは異なったレベルで、異なった程度の熱意で生きてきたシノダリティの経験を参照することしかできない―引き続き進むべき方向を見極めるための価値ある要素が、それらの強みと実績によって、またそれらの限界と困難によってもたらされるからだ。もちろん、ここでは、現在のシノドスの旅によって活性化された経験に言及されているが、シノダリティという言葉が知られていなかったり、使われていなかったりしても、「共に旅をする」という形態が日常生活ですでに経験されているすべてのものについても言及されている。

The Fundamental Question

26. The fundamental question that guides this consultation of the People of God, as mentioned at the beginning, is the following:A synodal Church, in announcing the Gospel, “journeys together”: How is this “journeying together” happening today in your particular Church? What steps does the Spirit invite us to take in order to grow in our “journeying together”?

In order to respond, you are invited to:

a) ask yourselves what experiences in your particular Church the fundamental question calls to mind;

b) reread these experiences in greater depth: What joys did they provoke? What difficulties and obstacles have they encountered? What wounds have they brought to light? What insights have they elicited?

c) gather the fruits to share: Where, in these experiences, does the voice of the Spirit resound? What is he asking of us? What are the points to be confirmed, the prospects for change, the steps to be taken? Where do we register a consensus? What paths are opening up for our particular Church?

根本的な問いかけ

26.  冒頭で述べたように、この「神の民に助言を求める」ことを導く基本的な問いかけは、次のようなものだー  福音を告げるシノドスの教会は、「共に旅をします」。この「共に旅をする」ことは、今日、あなた方の教会では、どのように行われているだろうか。私たちが「共に旅をする」ことで成長するために、聖霊はどのような歩みをするように私たちを招いてくださるのだろうか。

 これに応えるために、次のようなことが求められる。

a)この根本的な問いかけが、あなた方の教会においてどのような経験を思い起こさせるかを考えてみてください。

b)これらの経験をより深く振り返ってみよう。どのような喜びをもたらしたのか。どのような困難や障害に遭ったのか?どんな傷が明るみに出たのか。どのような洞察が得られたのか?

c)成果を分かち合おう。これらの経験の中で、聖霊の御声はどこで響かれているか?聖霊は私たちに何を求められているのか? 確認すべき点、変化の見通し、歩むべき道は何か? 私たちがどこで意見の一致を認めるべきか。私たちの特定の教会にはどのような道が開かれているのか?

 

Different Articulations of Synodality

27. In the prayer, reflection, and sharing prompted by the fundamental question, it is opportune tokeep in mind three levels on which synodality is articulated as a “constitutive dimension of the
Church.”[20]

• the level of the style with which the Church ordinarily lives and works, which expresses its nature as the People of God that journeys together and gathers in assembly summoned by the Lord
Jesus in the power of the Holy Spirit to proclaim the Gospel. This style is realized through “the community listening to the Word and celebrating the Eucharist, the brotherhood of communion and the co-responsibility and participation of the whole People of God in its life and mission, on all levels and distinguishing between various ministries and roles;”[21]

• the level of ecclesial structures and processes, determined also from the theological and canonical point of view, in which the synodal nature of the Church is expressed in an institutional
way at the local, regional, and universal levels;

• the level of synodal processes and events in which the Church is convoked by the competent authority, according to specific procedures determined by the ecclesiastical discipline.

Although distinct from a logical point of view, these three levels refer one to the other and must be held together in a coherent way, otherwise a counter-testimony is transmitted, and the Church’s credibility is undermined. In fact, if it is not embodied in structures and processes, the style of synodality easily degrades from the level of intentions and desires to that of rhetoric, while processes and events, if they are not animated by an adequate style, turn out to be empty formalities.

 

シノダリティの異なる表現

27.  その根本的な問いかけによって促される祈り、熟考、分かち合いにおいて、シノダリティが 「教会の構成的次元」として明確に表現されている3つのレベルを念頭に置くことが適切だろう[20]。

・主イエスに召され、聖霊の力をもって共に旅をし、集会に集まり、福音を宣べ伝える神の民としての教会の本性を表現する、教会が普段からの生き方と活動する様式のレベル。この様式は、「あらゆる階層において、御言葉に耳を傾け、御聖体、交わりの同胞愛、そのいのちと使命における神の民全体の共同責任と参加を祝い、様々な務めと役割を区別する共同体」[21] によって実現される。

・神学的、教会法的な観点からも決められている教会の構造や諸過程のレベル。ここにおいて、教会のシノドスの性質が地方、地域、そして普遍的な範囲で制度的に表現されている。

・教会の規範によって決められている特定の手続きに従って、教会が権限のある当局によって招集されるシノドスの過程と行事のレベル。論理的な観点からは区別されたもののようだが、これらの3つのレベルは相互に関連しており、首尾一貫してまとめられなければならない。そうでなければ、反証が伝わり、教会の信頼性が損なわれてしまう。実際、それが諸構造や過程に具体化されてなければ、シノダリティの様式は、容易に意志や願いのレベルから美辞麗句のレベルへと低下し、諸過程や行事が適切な様式によって活発化されていなければ、空虚な形式的なものになってしまうのだ。

28. Furthermore, in re-reading experiences, it is necessary to keep in mind that “journeying together” can be understood from two different perspectives, which are strongly interconnected. The
first perspective looks at the internal life of the particular Churches, at the relationships between their constituent parts (first and foremost between the Faithful and their Pastors, also through the participatory bodies envisaged by the canonical discipline, including the diocesan synod) and the communities into which they are divided (especially parishes).

It then considers the relationships between the Bishops and with the Bishop of Rome, also through the intermediate bodies of synodality (Synods of Bishops of the Patriarchal and Major Archdiocesan Churches, Councils of Hierarchs and Assemblies of Hierarchs of the Churches sui iuris, and Episcopal Conferences, with their national, international, and continental expressions).

It then extends to the ways in which each particular Church integrates within itself the contribution of the various forms of monastic, religious, and consecrated life, of lay associations and
movements, of ecclesial and ecclesiastical institutions of various kinds (schools, hospitals, universities, foundations, charitable and assistance organizations, etc.). Finally, this perspective
also embraces relationships and common initiatives with the brothers and sisters of other Christian denominations, with whom we share the gift of the same Baptism.

28. さらに、経験を振り返ってみる際には、「共に旅をする」ことは、相互に強く結びついている2つの異なる視点から理解できることを念頭に置く必要がある。第一の視点は、教区の教会の内部生活を、教会を構成する各部分(何よりもまず信徒と彼らの司牧者たちの間、また教区のシノドスを含む教会法の規律によって構想されている参加体を通じて)と、教会が分割されている共同体(特に小教区)との関係を見ることだ。

 次に、司教団とローマ司教との間の関係を考察しますが、これもまた、シノダリティの中間体ー教会の主要総大司教と大司教の司教団、教会の独立評議会と集会、そして、国のレベル、国家間のレベル、そして各大陸レベルの司教協議会を通したものだ。

 それから、それぞれの教区の教会が、様々な形態の修道者・修道会・奉献的生活、信徒団体や活動、様々な類いの教会関連機関(学校、病院、大学、財団、慈善や援助団体など)の貢献を、その中に統合する方法にまで及ぶ。最後に、この視点は、同じ洗礼の賜物を共有している他のキリスト教宗派の兄弟姉妹との関係や共通の取り組みも包含する。

29. The second perspective considers how the People of God journeys together with the entire human family. Thus, our gaze will focus on the state of relations, dialogue, and possible common
initiatives with believers of other religions, with people who are distant from the faith, as well as with specific social environments and groups, with their institutions (the world of politics, culture,
economics, finance, labor, trade unions, and business associations, non-governmental and civil society organizations, popular movements, minorities of various kinds, the poor and the excluded,
etc.).

29. 第二の視点は、神の民がどのようにして全人類という家族と共に旅をするかを考えることだ。このように、私たちの視線は、他の宗教の信者、信仰から離れた人々、特定の社会環境や集団、それらの機関(政治、文化、経済、金融、労働、労働組合、企業団体、民間組織、市民社会組織、大衆活動、様々な少数派、貧困層や疎外された人々など)との関係、対話、共通の取り組みの可能性の状況に焦点を当てる。

(以上,第4章29項まで「カトリック・あい」ガブリエル・タン試訳)

Ten Thematic Nuclei to be Explored

30.In order to help highlight the experiences and contribute in a richer way to the consultation, we indicate below ten thematic nuclei that articulate different facets of “lived synodality.” They should be adapted to the different local contexts and, from time to time, integrated, explained, simplified, and deepened, with particular attention paid to those who have more difficulty in participating and responding: the Handbookthat accompanies this Preparatory Document offers tools, itineraries, and suggestions so that the different groups of questions can concretely inspire moments of prayer, formation, reflection, and exchange.

①THE JOURNEYING COMPANIONS

 In the Church and in society, we are side by side on the same road. In your local Church, who are the ones “journeying together”? When we say: “our Church,” who is part of it? Who is asking us to journey together? Who are the road companions, including those outside the ecclesial perimeter? What persons or groups are left on the margins, expressly or in fact?

② LISTENING

 Listening is the first step, but it requires having an open mind and heart, without prejudices. To whom does our particular Church “need to listen to”? How are the Laity, especially young people and women, listened to? How do we integrate the contribution of Consecrated Men and Women? What space is there for the voice of minorities, the discarded, and the excluded? Do we identify prejudices and stereotypes that hinder our listening? How do we listen to the social and cultural context in which we live?

③SPEAKING OUT

 All are invited to speak with courage and parrhesia, that is, integrating freedom, truth, and charity. How do we promote a free and authentic style of communication within the community and its organizations, without duplicity and opportunism? And in relation to the society of which we are a part? When and how do we manage to say what is important to us? How does the relationship with the media system (not only Catholic media) work? Who speaks on behalf of the Christian community, and how are they chosen?

④CELEBRATING

 “Journeying together” is only possible if it is based on communal listening to the Word and the celebration of the Eucharist. How do prayer and liturgical celebration inspire and direct our “journeying together”? How do they inspire the most important decisions? How do we promote the active participation of all the Faithful in the liturgy and the exercise of the sanctifying function? What space is given to the exercise of the ministries of the reader and acolyte?

⑤CO-RESPONSIBLE IN THE MISSION

 Synodality is at the service of the Church’s mission, in which all her members are called to participate. Since we are all missionary disciples, how is each Baptized person called to be a protagonist in the mission? How does the community support its members committed to service in society (social and political commitment, in scientific research and teaching, in the promotion of social justice, in the protection of human rights, and in caring for the Common home, etc.)? How do you help them to live out these commitments in a logic of mission? How is discernment about mission-related choices made, and who participates in it? How are the different traditions that constitute the patrimony of many Churches, especially the Oriental ones, integrated and adapted, with respect to the synodal style, in view of an effective Christian witness? How does collaboration work in territories where different sui iuris Churches are present?

⑥ DIALOGUE IN CHURCH AND SOCIETY

 Dialogue is a path of perseverance that also includes silences and sufferings, but which is capable of gathering the experience of persons and peoples. What are the places and modes of dialogue within our particular Church? How are divergences of vision, the conflicts, the difficulties addressed? How do we promote collaboration with neighboring Dioceses, with and among religious communities in the area, with and among lay associations and movements, etc.? What experiences of dialogue and shared commitment do we have with believers of other religions and with non-believers? How does the Church dialogue with and learn from other sectors of society: the world of politics, economics, culture, civil society, the poor…?

⑦WITH THE OTHER CHRISTIAN DENOMINATIONS

 The dialogue between Christians of different confessions, united by one Baptism, has a special place in the synodal journey. What relations do we have with the brothers and sisters of other Christian denominations? What areas do they concern? What fruits have we drawn from this “journeying together”? What are the difficulties?

⑧AUTHORITY AND PARTICIPATION

 A synodal Church is a participatory and co-responsible Church. How do we identify the goals to be pursued, the way to achieve them, and the steps to be taken? How is authority exercised within our particular Church? What are the practices of teamwork and co-responsibility? How are lay ministries and the assumption of responsibility by the Faithful promoted? How do synodal bodies function at the level of the particular Church? Are they a fruitful experience?

⑨DISCERNING AND DECIDING

 In a synodal style, decisions are made through discernment, based on a consensus that flows from the common obedience to the Spirit. By what procedures and methods do we discern together and make decisions? How can they be improved? How do we promote participation in decision-making within hierarchically structured communities? How do we articulate the consultative phase with the deliberative one, the process of decision-making with the moment of decision-taking? How and with what tools do we promote transparency and accountability?

⑩FORMING OURSELVES IN SYNODALITY

 The spirituality of journeying together is called to become an educational principle for the formation of the human person and of the Christian, of the families, and of the communities. How do we form people, especially those who hold roles of responsibility within the Christian community, to make them more capable of “journeying together,” listening to one another and engaging in dialogue? What formation do we offer for discernment and the exercise of authority? What tools help us to read the dynamics of the culture in which we are immersed and their impact on our style of Church

 

 

追求すべき10のポイント

30.経験を活かし、”相談”に、より豊かな方法で貢献するのを助けるために、「生きたシノダリティ」のさまざまな側面を明確に表現する、”旅”の核を以下に示す。 これらをもとに、さまざまな地域の状況に合わせて調整し、必要に応じて取りまとめ、説明し、簡素化、あるいは深化すること、また、参加と対応が困難な人に注意を払う必要がある。この準備文書に付属するハンドブックには、ツールや”旅程”、いくつかの提案が記載されており、さまざまな質問群が、祈り、意見形成、熟考、交換の動きを具体的に刺激する助けとなる。

The Journeying Companions(旅の仲間たち):教会と社会において、私たちは同じ道に並んでいる。 あなたの教会で「共に旅をしている」のは誰か? 「私たちの教会」を構成しているのは誰か? 誰が、共に旅することを私たちに求めているのか? 教会の外にいる人を含め、道を歩む仲間は誰か? 明示的に、あるいは実際に、どのような人あるいはグループが、歩みから取り残されているのか?

Listening(耳を傾ける):耳を傾けることは最初のステップ。偏見を捨て、心を開く必要がある。 私たちの教会は、誰に「耳を傾ける必要がある」のか? 一般の信徒、特に若者や女性はどのように耳を傾けられているのか? 教会に身を捧げる男女の貢献をどのように取り入れるのか? 少数派と見なされ、捨てられ、排除された人々の声を聴く、どのような場があるか? 聴くことを妨げる偏見や固定観念にはどのようなものがあるか? 私たちが生活している社会的、文化的な状況にどのように耳を傾けているか?

Speaking Out(勇気を持って語る):すべての人が勇気とparrhesiaを持って語るーつまり自由に、真実を、慈しみをもって語る慈善を統合して語るように勧められている。二枚舌や日和見主義的でなく、共同体社会とその組織内で自由で本物の意思疎通を図る形を促進するにはどうすればよいのか? そして、私たちが参加している社会との関係で、 いつ、どのように私たちにとって重要なことを言うことができるのか? メディア(カトリックメディアだけでなく)との関係はどのように働いているか? キリスト教共同体を代表して誰が話しているのか?そして彼らはどのようにして選ばれているのか?

Celebrating(祝福する):「共に旅する」ことは、皆で共に御言葉を聴き、聖体を祝うことに基づく場合にのみ可能だ。 祈りと典礼は、どのように私たちの「共なる旅」を力づけ、導くのか? どのようにして最も重要な決定を力づけるのか? 典礼と聖別にすべての信徒が与るようにするには、どのようにしたらいいのか? (注:ミサ典礼における)朗読者と侍者の役割にはどのような場が与えられているのか?

Co-responsible in the Mission(使命を果たすことへの共同の責任):シノダリティは、教会の使命への奉仕において、教会のすべてのメンバーが参加するよう求めている。 私たちが皆、宣教する(注:イエスの)弟子であるゆえに、洗礼を受けたそれぞれが、どうして宣教の主役と呼ばれるのか?教会共同体は、社会における奉仕(社会的および政治的活動、科学的研究と教育、社会正義の促進、人権の保護、”共通の家”へのいたわり、など)に取り組む仲間をどのように支援しているのか? 彼らが使命を果たすために、これらに取り組むのをどのように助けるのか? 宣教の使命に関連する選択の際、識別はどのように働き、誰がそれに加わるのか? 多くの教会、特に東洋の教会の”遺産”を構成するさまざまな伝統は、キリストの教えを効果的に証しする観点から、シノドスの様式にどのように取り込まれ、適合されているのか?さまざまなsui iuris(行為能力者)である教会が存在する領域で、協力はいかになされるのか?

Dialogue in Church and Society(教会の中、そして社会の中での対話):対話は、沈黙と苦痛を伴う忍耐の道だが、個々の人と人々の経験を集めることができる。 私たちの小教区、司教区での対話の場と仕方は何か? 見解の相違、対立、困難にどのように対処しているか? 近隣の教区との協力、地域の信仰共同体との協力、信徒の団体や運動との協力をどのように促進するのか。 他宗教の信徒や宗派に属していない人たちとの対話と共同の取り組みについてどのような経験があるか? 教会は、政治、経済、文化、市民社会、貧しい人たちなど、教会外の分野、人たちとどのように対話し、そこから学ぶのか?

With the Other Christian Denominations(キリスト教の他宗派との関係):一つの洗礼によって結ばれ、異なる信仰告白のキリスト教徒の間の対話は、シノドスの旅の中で特別な場所を持っている。 キリスト教の他宗派の兄弟姉妹と、どのような関係をもっているのか? 彼らはどの分野に関心があるのか? 「共に旅する」ことで、私たちはどのような実を結んだろうか? 何が困難なのか?

Authority and Participation(権威と参加): シノドス的教会は、参加型の、共同責任をもつ教会だ。 追求すべき目標、達成する方法、そして取るべき手順をどのように定めているのか? 小教区、司教区で、権威はどのように行使されているのか? チームワークと共同責任の実践はどのようなものか? 一般信徒の役割と責任はどのように強められているのか?  シノドスの主体は教区レベルでどのように機能しているのか?多くの実りを経験しているか?

Discerning and Deciding(識別し、決定する):シノドスの様式では、決定は、聖霊に対する一致した従順から生まれる総意に基き、識別を通して行われる。私たちは(注:小教区、司教区で)どのような手順と方法で共に識別し、決定を下すのか?どのようにすれば改善されるのか?階層的に構造化された共同体における意思決定への参加をどのように促進するのか?consultative(相談)の段階とdeliberative(決定のための協議)の段階ーつまり、process of decision-making (決定に至る一連の行為)と、 moment of decision-taking(決定を下す時期)を、どのようにつなげるのか?どのようにして、どのような手段をもって、透明性と説明責任を促進するのか?

Forming Ourselves in Synodality(シノダリティの中で私たち自身を形成する): 共に旅する霊性は、人間、キリスト教徒、家族、そして諸共同体の形成のための教育原理となるよう求められている。私たちはどのように人々、特にキリスト教共同体で責任ある役割を担う人々を形成し、彼らが「共に旅をし」、お互いに耳を傾け、対話できるようにするのか?識別と権威の行使のためにどのような形成を提案できるのか?私たちが没頭させられている文化の大きな動きと、それが私たちの教会のあり方に与える影響を読み取るのに役立つ手立ては何か?

 

To Contribute to the Consultation

31.The purpose of the first phase of the synodal journey is to foster a broad consultation process in order to gather the wealth of the experiences of lived synodality, in its different articulations and facets, involving the Pastors and the Faithful of the particular Churches at all the different levels, through the most appropriate means according to the specific local realities:the consultation, coordinated by the Bishop, is addressed “to the Priests, Deacons and lay Faithful of their Churches, both individually and in associations, without overlooking the valuable contribution that consecrated men and women can offer” (EC, no. 7).

The contribution of the participatory bodies of the particular Churches is specifically requested, especially that of the Presbyteral Council and the Pastoral Council, from which “a synodal Church [can truly] begin to take shape”.[22] Equally valuable will be the contribution of other ecclesial entities to which the Preparatory Document will be sent, as well as that of those who wish to send their own contribution directly.

Finally, it will be of fundamental importance that the voice of the poor and excluded also find a place, not only that of those who have some role or responsibility within the particular Churches.

32.The synthesis that each particular Church will elaborate at the end of this work of listening and discernment will constitute its contribution to the journey of the universal Church. To make the subsequent phases of the journey easier and more sustainable, it is important to condense the fruits of prayer and reflection into a maximum of ten pages. If necessary to contextualize and explain them better, other texts can be attached to support or integrate them.

We recall that the purpose of the Synod, and therefore of this consultation, is not to produce documents, but “to plant dreams, draw forth prophecies and visions, allow hope to flourish, inspire trust, bind up wounds, weave together relationships, awaken a dawn of hope, learn from one another and create a bright resourcefulness that will enlighten minds, warm hearts, give strength to our hands.”[23]

”相談”に貢献する

31.シノドスの旅の第一段階の目的は、個々の地域の現状に対応する最も適切な仕方を通して、異なる全てのレベルで(小教区から司教区に至る)それぞれの教会の司牧者と信徒を巻き込む、様々な意見と様相の中で、生きたシノダリティ(共働性)の経験の豊かさを集合するために、幅広い”相談”のプロセスを進めることにあるー”相談”は司教によってコーディネートされ、「それぞれの教会の司祭たち、助祭たち、そして一般信徒たちに対して、個別に、集まりで、神に身を捧げた男女が提供できる価値ある貢献を見落とすことなく、なされる(EC, no. 7)」。

 それぞれの教会の参加団体の貢献が特に求められる。中でも Presbyteral Council と Pastoral Councilの貢献は必要であり、それによって、「真のシノドスが形成を始める」こととなる。同様に価値のあるのは、他の教会の活動体の貢献であり、準備文書は、貢献を希望する活動体も含めて送付されている。

 そして、根本的に重要のは、それぞれの教会で一定の役割や責任を持っている人たちだけでなく、貧しい人たち、社会から排除された人たちが声をあげられるようにすることだ。

32.この”聞き取り”と”識別”の作業をもとにした、それぞれの教会によるとりまとめは、”journey of the universal Church(世界の教会全体の旅)”に向けた貢献となる。旅の第二段階をより容易で、持続可能なものとするために、祈りと熟考の成果を最大10ページにまとめることが重要だ。より適切に文脈化して説明する必要がある場合は、本文を補完する資料を添付することができる。

 シノドスの目的、したがってこの”相談”の目的は、”文書”を作成することではなく、「夢を植え付け、預言とビジョンを引き出し、希望を高め、信頼を醸成し、傷をふさぎ、関係を作り上げ、希望を目覚めさせること、互いに学ぶこと、そして、啓発し、心をなごませ、力を強めること」にあるのだ。

(第4章30項から32項まで「カトリック・あい」南條俊二試訳)

(以上)

2021年9月7日

*「まず、神の民に耳を傾ける」ーバチカンの事務局が”シノドスの旅”の準備文書を発表

File photo from the 2019 Synod of BishopsFile photo from the 2019 Synod of Bishops  (Vatican Media)TOWARDS THE SYNOD

 

*シノダリティ(共働性)への具体的な提案

 この問いに対する答えとして、準備文書は、いくつかの具体的な提案をしている。まず第一に、「すべての人、特にさまざまな理由で自分自身を社会の片隅に追いやる人たちに、自分について語り、それを聞いてもらえる機会ーを提供する、参加型の包括的な教会のプロセス」を実践すること、そして、「全人間家族のために、聖霊がふんだんにくださる賜物と特別な能力の豊かさと多様さ」を認識し、感謝することを勧めている。

 さらに、「教会において責任と権力が、それらが管理されている仕組みも含めて、どのように果たされているのか。福音に根ざさない偏見や歪んだ慣習をに光を当て、改めようとしているのか」吟味するように求めている。

 また準備文書は、キリスト教共同体が、社会的な対話、癒し、和解、一体性と参加、民主主義の再建、兄弟愛と社会的な友情の促進などの面で、信頼できる主体、頼ることのできるパートナーとして認められるには、どうしたらいいかについても、考えるように促している。

 そして、「既存の不平等と不公正を”爆発”させた新型コロナウイルスの世界的大感染の”世界的悲劇”で始まった、”新時代を画する”社会変化」で特徴づけられる歴史的文脈」の中で、このような具体的な歩みがなされることになるだろう、と指摘。

 さらに、教会自身も「信仰の欠如と教会内部で起きている腐敗と向き合あわねばならない」事態の中で、シノドス・プロセスが行われることを認め、「聖職者による性的虐待、物理的、精神的な虐待を受けた未成年者や傷つきやすい人々の、苦しみを忘れてはならない」と強調。「(教会は)まさに、あらゆる類いの苦しみで掘られた”溝”の中にある」としたうえで、「キリスト教徒と教会生活の道」を刷新するために、「信仰の新たな言語」と「新たな道」が盛んになること、最近開かれたシノドスによって求められたように、一般信徒、とくに女性と若者たちの参加と正当な評価が改めて認識されるために十分なが提供される機会が必要、としている。

 

 

*シノダリティの三つのレベル

 また、準備文書は、シノダリティ(共働性)について3つのレベルを説明しているー「教会が日常的に生活し、働くスタイルのレベル」「教会の仕組みとプロセスのレベル」、そして「正当な権威によって招集された教会のシノドスのプロセスとイベントのレベル」だ。シノダリティについての3つのレベルの関連は異なるが、「首尾一貫した形で捉えられる必要がある。そうしないと、反証が出され、教会の信頼性が損なわれる」。

 この経験の評価においては、信徒、司牧者、小教区、そして共同体の関係について、個々の教会だけでなく、司教たち(司教たちの間、として教皇との関係)についても、考慮に入れなければならない。また、多様な形態の修道生活と奉献生活、さまざまな協会や運動組織、学校、病院、大学、財団、慈善団体などのさまざまな機関全体についても考える必要があり、さらに他宗教や信仰から離れた人々、政治、文化、金融、労働、労働組合、少数者などさまざまな外部の人や組織、団体との関係、として、共同の取り組みについても考えることが重要だ、としている。

The stages of the synodal journey

*「生きたシノダリティ(共働性)」へ10の提案

 最後に、準備文書は、「生きたシノダリティ」実現へ次の10のポイントを示し、シノドスの旅を最初の段階からより豊かなものとするために、これらを徹底的に追求する必要がある、としている。

*The Journeying Companions(旅の仲間たち):つまり、私たちが「自分の教会」と定義するもの、そして「仲間たち」を、特に、社会で軽視されている人たち、教会の境界を越えている人たちについて、深く考えること。

*Listening(耳を傾ける):若者たち、女性たち、聖職に身を捧げる男女、そして社会から捨てられたり排除されたりする人々たち(注:の声、声にならない声)に、耳を傾ける。

*Speaking Out(勇気を持って語る):「二枚舌や日和見主義的な振る舞いのない、自由で真正な意思疎通の仕方」が教会のコミュニティの中で、その制度で、積極的になされているのか、主体的に考える。

*Celebrating(祝福する):私たちが「共に歩む」ことを、祈りと典礼がどのように促進し、導くのか、そして信徒たちの積極的な参加をどのように実現していくか、について考慮する。

Co-responsible in the Mission(使命を果たすことへの共同の責任):社会正義、人権の推進、私たちの「共通の家」の保護などの仕事に携わる仲間を教会共同体がどのように支援するか、について真剣に考える。

Dialogue in Church and Society(教会の中、そして社会の中での対話):教区群の中において、近隣教区、修道会や活動体、様々な組織体、信徒でない人々、貧しい人々との、対話の場と手段について再考する。

*With the Other Christian Denominations(キリスト教の他宗派との関係):自分がキリスト教徒だと認めている兄弟姉妹との関係はどうなのか?その関係には、どの分野が含まれているのか、そしてそのような関係がもたらした成果と課題は何か?

*Authority and Participation(権威と参加):自分たちの教区で権威がどのように行使されているのか?共同作業の経験があるとすれば何か?一般信徒の参加はどのように進められているのか?

*Discerning and Deciding(識別し、決定する):(教区や小教区などで)決定を下す際に、どのような手順と方法がとられているのか?政策決定の過程は、意思決定とどのようにつながっているのか?透明性を確保し、説明責任を果たすための手段は整備されているか?

Forming Ourselves in Synodality(シノダリティの中で私たち自身を形成する):要は、キリスト教共同体において責任ある立場にある人々が、今よりももっと人々の声を聴き、対話することができるよう助けるために、”陣形”をよく見ることだ。

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 なお、シノドス事務局は、各教区に、対話と熟考の成果を文書にまとめるにあたっては、最大で10ページにとどめ、必要なら別に補足資料を添付するように求めている。そして、目標は「文書を作成することではなく、夢、予言、希望を植えること」と強調している。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2021年9月7日

・10月の”シノドスの旅”開始に向けた具体的な指針、バチカン事務局が7日に発表へ

(2021.9.4 カトリック・あい)

 2023年10月に予定する世界代表司教会議(シノドス)第16回通常総会に向けた”シノドスの旅”が来月、10月から始まるが、バチカンのシノドス事務局(事務局長・マリオ・グレック枢機卿)が”旅”に備えた準備書面とVademecum(便覧)をまとめ、7日午前11時半(日本時間7日午後6時半)に発表する。

 バチカン広報が3日発表したもので、「For a synodal Church: communion, participation and mission(仮訳・シノドス性ある教会のために:交わり、参加、ミッション)」をテーマとする今総会に向けた”シノドスの旅”の第一段階となる世界の小教区から始まる教区レベルの取り組みの指針とすることを目的としている。

 これを受けて、日本を含む世界の教区で”シノドスの旅”の具体的な取り組みが始まることになるが、新型コロナの世界的感染が終息の気配を見せず、新種の変異ウイルスが次々と登場して、人の移動や対面の会議が制約される中で、どのように対応するか、様々な工夫、努力を求められることになりそうだ。

 グレック事務局長らによる記者会見の模様は原語イタリア語でVatican News の Youtube Channel( https://www.youtube.com/c/VaticanNews.)で動画配信される予定。

 「シノドス」の本来の意味はギリシャ語の「共に歩む」だが、カトリック教会では、全世界の司教代表による集まりの意味で使われている。世界の教会が抱える課題についての理解を深め、対応を議論し、教皇に助言することを役割としている。

 だが今回は、教会と世界を大きく揺るがすさまざまな問題が起きる中で、世界の全ての信徒が参加して問題を共有し、課題に取り組む、文字通り「共に歩む」教会を目指すことを、強く希望される教皇フランシスコの強い意向で、世界の小教区から始まって教区レベル、各国レベル、地域レベルと歩みを進め、最終的に2023年10月のシノドス総会に至る”シノドスの旅”というこれまでにない形をとることになった。

2021年9月4日

・バチカン人間開発省ナンバー・ツーにシスター・スメリッリ任命

(2021.8.26 バチカン放送)

 教皇フランシスコは26日、教皇庁人間開発省の暫定次官に、シスター・アレッサンドラ・スメリッリ(サレジアン・シスターズ)を任命された。

 人間開発省前次官ブルーノ・マリ・ドゥフェ師と、同省前次官補アウグスト・ザンピーニ神父の、所属教区への帰還に伴うもの。シスター・スメリッリは、今年3月に同省副次官に就任したばかり。

 教皇はこの人事に合わせて、新型ウイルス感染対策委員会の管理メンバーとして、人間開発省のピーター・タークソン長官、シスター・スメリッリ暫定次官、および難民移民局のファビオ・バッジョ副局長を指名された。

 シスター・スメリッリは1974生まれ、イタリア出身。政治経済学・統計学を専門とし、ローマやミラノの大学で教鞭をとり、2021年3月から人間開発省副次官および新型ウイルス感染対策委員会経済タスクフォース・コーディネーター。

2021年8月27日

・「バチカンが、アフガン難民のための”人道回廊”開設へと交渉」と伊紙(CRUX)

(2021.8.24 Crux  Rome Bureau Chief  Inés San Martín)

 ローマ–イタリアの日刊紙IlTempoが報じたところによると、バチカンが、アフガニスタンから何千人もの人々が国外に脱出できるように”人道回廊”を開く交渉を、トルコのエルドアン大統領を仲介役にしてタリバンと行っている。

 同紙によると「交渉のチャンネルは、バチカン、東方典礼カトリック教会、エルドアン大統領の三者が関与して開設が試みられ、専用のチャンネルが開かれた。ただし、バチカンからは今のところ、否定も肯定もしていない」という。

 バチカンはイスラム教世界のほとんどの国と良好な関係を持っているが、国民の99%がイスラム教徒のアフガニスタンとは外交関係を持っていない。そうした中で、教皇は15日の聖母被昇天の正午の祈りで、米軍のアフガン撤退を契機にしたタリバンの攻勢の中で対話による国民の安全確保に言及していた。

 IlTempoの記事は、イタリアやバチカンの外交の舞台裏に詳しいジャーナリスト、ルイージ・ビシニャーニによる投稿の形で掲載されたもので、イタリアの政府、議会関係者から得た情報を基にしており、「バチカンはEU(欧州連合)やNATO(北大西洋条約機構)などよりも、タリバンとの”人道的廊”解説に関する交渉に優れており、バチカンの国務省と東方教会省が、エルドアン大統領を仲介者に、タリバンとの交渉のチャンネルを開くことができた」としている。

 世界のカトリック信徒による社会奉仕組織Community of Sant’Egidio(本部ローマ)は先週初め、イタリアのプロテスタント教会、福音教会連盟とともに、アフガニスタンを脱出する必要のある人々を支援する”人道回廊”の開設を求める声明を発表。

 「アフガニスタンの何千人もの男性、女性、子供たちは、民主主義、表現の自由、研究の価値を信じただけで命の危険にさらされている」と訴え、これまで6年以上にわたる、レバノンからの難民のためのイタリア政府による”人道回廊”開設に協力してきた実績をもとに、「アフガニスタン難民のために、政府、地方自治体、そして市民団体などと協力する用意が出来ている」と積極協力の姿勢を強調している。

(翻訳/編集「カトリック・あい」南條俊二)

・・Cruxは、カトリック専門のニュース、分析、評論を網羅する米国のインターネット・メディアです。 2014年9月に米国の主要日刊紙の一つである「ボストン・グローブ」 (欧米を中心にした聖職者による幼児性的虐待事件摘発のきっかけとなった世界的なスクープで有名。映画化され、日本でも昨年、全国上映された)の報道活動の一環として創刊されました。現在は、米国に本拠を置くカトリック団体とパートナーシップを組み、多くのカトリック関係団体、機関、個人の支援を受けて、バチカンを含め,どこからも干渉を受けない、独立系カトリック・メディアとして世界的に高い評価を受けています。「カトリック・あい」は、カトリック専門の非営利メディアとして、Cruxが発信するニュース、分析、評論の日本語への翻訳、転載について了解を得て、掲載しています。

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2021年8月25日