( 2021.4.25 カトリック・あい)
4月25日、58回目の「世界召命祈願の日」を迎えて、教皇フランシスコが 「聖ヨセフ・召命の夢」という副題を付けたメッセージを発表された。
親愛なる兄弟姉妹の皆さん 聖ヨセフを普遍教会の保護者とする宣言150周年に当たる昨年の12月8日に、聖ヨセフにささげられた特別年が始まりました(「内赦院教令(2020年12月8日)」参照)。また私は、「この偉大な聖人への愛を深め」るようにと、使徒的書簡『父の心で』を著しました。
ヨセフは、実に偉大でありながらも、「私たちそれぞれの人間的境遇に極めて近い」人物でもあります。このかたは、何か圧倒的なことをなしたわけではなく、特別なカリスマがあったわけでもなく、はた目には重要な存在には見えませんでした。有名でもなく、目立ちもしませんでしたので、福音書はヨセフの言葉を一言も記していません。それでも、そのありふれた生涯をもって、ヨセフは、神の目には特別なことを、成し遂げたのです。
神は心をご覧になり(サムエル記上16章7節参照)、聖ヨセフに、日常生活の中で命を与え生み出すことのできる、父の心をお認めになられました。召命とは、日々、命を生み出そう、再生させようとするものです。主は、父の心を、母の心を、育てたいと願っておられます。それは、開かれた心、自らを駆り立てる心、惜しみなく与える心、不安を慰める思いやりの心、希望を捨てない強い心です。
これこそが、司祭職、そして奉献生活に必要なもの、とりわけ、新型コロナウイルスの世界的大感染によって助長された脆弱性と苦しみーが顕著な今日にこそ、必要とされるものです。コロナ大感染は将来を、そして人生の意味すらも不確実にし、不安を生んでいるのです。聖ヨセフは、身近な聖人として、そのかたらしい温和さをもって、私たちに会いに来てくださいます。そうしてまた、その力強い証しによって、進むべき道を示してくれるのです。
聖ヨセフは、私たちの召命にとって鍵となる三つの言葉を示唆しています。第一の言葉は「夢」です。誰もが、人生において、自己実現のために夢を見ます。そして、成功やお金や道楽といった、私たちを満たすことのない、はかない目標ではなく、立派な志、高い理想を抱くのは正しいことです。
実際、人生の夢を一言で、と問うなら、その答えは容易に想像できます。「愛」です。愛は命の神秘を明らかにすることで、人生に意味を与えるのです。
確かに、「命」、与えられることによって初めて得られるものであり、完全に明け渡すことによってのみ、真に自らのものとなるのです。聖ヨセフは、これについて多くを私たちに語っています。神から与えられた夢によって、ヨセフは自らの存在を贈り物としたからです。
福音書は四つの夢を語っています(マタイ福音書1章20節、2章13、19、22節参照)。それらは神からの呼びかけですが、受け入れるのは困難なものでした。それぞれの夢の後、ヨセフは自分の予定を変更して危険を冒し、神の神秘の計画を支えるために、自らの計画を犠牲にしなければなりませんでした。神に完全に信頼していたのです。
ですが、「ヨセフがそれほどまで信頼を寄せた一夜の夢は、いったいどんなものだったのか」と疑問に思うかもしれません。古代には夜見る夢は重視されてはいましたが、実生活の現実に比べれば、小さなことです。それでも、聖ヨセフは、ためらうことなく、夢に導かれることを選びました。なぜでしょう。このかたの心は神へと方向づけられていて、既に神に向かう素地があったからです。その研ぎ澄まされた「内なる耳」が神の声を聞き分けるには、わずかな合図で十分でした。
それはまた、私たちを呼ぶ声にも当てはまります。神は、私たちの自由を力づくでねじ伏せるように、華々しくご自身を現すことを好まれません。神はご自分の計画を穏やかに知らせてくださり、衝撃的な光景をもって困惑させるよりも、私たちの内面に沿って語りかけ、親しく近づき、私たちの考えや気持ちを通して語りかけてくださるのです。ですから神は、聖ヨセフになさったように、私たちにも立派で驚くべき目標を提案してくださいます。
夢は、ヨセフを想像もしなかったような冒険へと導きました。最初の夢によって、自身の婚約は揺らぎましたが、ヨセフはメシアの父親へと変えられました。二つ目の夢で、エジプトに逃げねばならなくなりましたが、家族の命は救われました。三番目の夢は故郷への帰還を告げ、四つ目の夢は、その計画を再度変更させナザレへと、イエスが神の国を告げ知らせ始める地へと向かわせました。
こうした紆余曲折の中、神のみ旨に従う勇気が勝ったのです。召命においても同じことが起こります。神の呼びかけはつねに、出掛けて行きなさい、一生懸命になりなさい、さらに遠くへ行きなさい、と駆り立てます。リスクのない信仰はありません。自身の計画や安泰を捨て、信頼のうちに神の恵みに身を委ねることによってのみ、本当の意味で、神に「はい」と答えられるのです。そして一つ一つの「はい」が実を結ぶのです。その「はい」は、より立派な計画に従うものだからです。
私たちはその計画の一端を垣間見るだけですが、芸術家である神はそれに精通しておられ、それを推し進め、そうして、一人ひとりの命は欠くことのできない傑作となるのです。その意味で聖ヨセフは、神の計画を受け入れる模範像となっています。実に、その像は能動的受諾で、このかたは決して諦めたり、くじけたりせず、「受身に甘んじる人ではありません。勇敢で強い主人公です」(使徒的書簡『父の心で』4)。
ヨセフの助けによって、すべての人が、とくに、識別の最中にある若者たちが、神が自分たちのために描いておられる夢を実現していけますように。私たちをいつも驚かせ、決して落胆させない主に「はい」と答える、勇気ある意欲をヨセフが鼓舞してくださいますように。
聖ヨセフの道と、召命の道を示す第二のことばは「奉仕」です。福音書からも明らかなように、ヨセフは決して自分のためにではなく、全面的に他者のために生きました。神の聖なる民はヨセフを「浄配」と呼び、自らのもとには何も留め置くことなく愛を注ぐその能力を明かしました。所有欲から愛を解放することで、ヨセフはよりいっそう実りの多い奉仕を受け入れました。
このかたの愛の籠ったいたわりは、後世にまで及び、面倒見のよい保護者というところから、教会の守護者となりました。またよい臨終の擁護者でもあり、人生における献身の意義を体現した人でした。そして、その奉仕と犠牲は、より大きな愛に支えられていたからこそ、可能だったのです。
「真の召命はどれも、単なる犠牲ではなく、その成熟である自己贈与から生まれます。司祭職や奉献生活においても、こうした種類の成熟が求められています。召命は、それが結婚生活であれ、独身生活であれ、貞潔生活であれ、犠牲の論理だけにとどまり、自己贈与という成熟にまで至らないならば、愛の美と喜びのしるしとなる代わりに、不幸、悲しみ、わだかまりの表れになる恐れがあります」(同7)。
聖ヨセフにとって、「奉仕」という自己贈与の具体的表現は、高邁な理想であるだけでなく、日常生活を量る物差しとなっていました。ヨセフは、イエスが生まれる場所を苦労して見つけて整え、ヘロデの怒りからイエスを守るために、最善を尽くしてエジプトへの慌ただしい旅を準備し、迷子になったイエスを捜すためにエルサレムに急いで引き返し、異国にいたときも含め、自らの労働の実りをもって家族を支えました。
つまりこのかたは、人生が思いどおりにならなくてもくじけない人の姿勢をもって、仕えるために生きる人の心構えをもって、さまざまな状況に順応していったのです。この精神で、ヨセフは人生で数々の、しばしば予期せぬ旅をしました。住民登録のためのナザレからベツレヘムへの旅、エジプトへ、そしてまたナザレへと戻る旅、そして毎年のエルサレムへの旅を、そのつどの新たな状況に対応するための、よい心づもりをもって、起きていることに不平を言わず、事態を切り抜けるために、ひと肌脱ぐ気構えで乗り越えたのです。それは、地上の御子に向けて御父が差し伸ばした手であった、とも言えます。だからこそヨセフは、ご自分の子らのために差し出す御父の勤勉な手となるようにとの招きである、すべての召し出しにとって、確実に模範となるのです。
ですから、私は、イエスと教会の守護者である聖ヨセフを、召命の守護者と考えるのが好きです。実際、奉仕への意欲から、ヨセフの保護への思いは生まれています。「ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り」(マタイ福音書2章14節)と福音書は伝え、家族のためのその迅速さと献身を示しています。
ヨセフは、うまくいかないことをあれこれ考えることに時間を費やすことで、自分にゆだねられている人をないがしろにすることのないようにしました。こうした気配りのある、面倒見のよい世話は、召命が果たされているしるしであり、それは神の愛に触れられた人生の証しなのです。己の野望に頑迷に固執せず、過去を引きずり思考停止することなく、主が教会を通して託されたものに専心するとき、私たちは、なんとすばらしいキリスト者の生き方の模範となることでしょう。このように、神は私たちにご自分の霊を、その創造性を注いでくださいます。そうして、ヨセフにおいてなさったように、驚くべき業をなさるのです。
神からの呼びかけー私たちの最高の夢を実現させてくれるものーと、私たちの応答ー寛大な奉仕と行き届いた、いたわりとして具体化されるものーに加え、第三のものがあります。それは、聖ヨセフの生涯とキリスト者の召命を貫き、日常生活を漠とはしないものー忠実です。
ヨセフは「正しい人」(マタイ福音書1章19節)で、日々の労働を黙々と続け、神とその計画に粘り強く従うかたです。とくに困難なときには、「あらゆることを考え」(20節参照)ています。熟慮し、熟考し、焦りにとらわれず、性急に結論を出す誘惑に負けず、衝動に流されず、近視眼的な生き方をしません。何事にも根気強く励みます。最高の選びに忠実であり続けることによってのみ、人生は築かれると知っているのです。
これは、質素な大工という仕事をするのに必要な、淡々とこつこつ続ける勤勉さに通じるものです(マタイ福音書13章55節参照)。この勤勉さは、当時ニュースになるものではありませんでしたが、何世紀にもわたり、すべての父親、すべての労働者、そしてすべてのキリスト者の日常生活に霊感を与えてきたのです。召命は、人生と同様、日々の忠実さによってのみ、成熟するからです。
こうした忠実は、どのように養われるのでしょう。神の忠実さの光に照らすことで養われるのです。聖ヨセフが夢で聞いた最初の言葉は「恐れるな」という呼びかけでした。神はご自分の約束に忠実でおられる、だから「ダビデの子ヨセフ、恐れるな」(マタイ福音書1章20節)と言われるのです。恐れるなーこれは主が、あなたに、愛する姉妹に、あなたに、愛する兄弟に、呼びかけておられる言葉です。
あなたが、不安や迷いがありながらも、「主に人生を捧げたい」という願いを先延ばしにはできない、と感じたときに、神がかける言葉です。あなたがどこにいようと、試練や無理解の中にあったとしてもー、神のみ旨を行おうと日々奮闘しているとき、神が何度も語ってくださる言葉です。召し出しの歩みの中で、最初の愛に立ち帰るときに、再び見い出す言葉です。聖ヨセフのように、日々の忠実さをもって、人生をかけて神に「はい」と答える人たちに、決まり文句として、寄り添う言葉です。
この忠実こそ、喜びの秘訣です。ナザレの家には「澄んだ喜び」があったと、典礼で賛歌は歌います。これは、素朴な、日常の澄んだ喜びであり、忠実に神と隣人のそばにいるという大事なことを守る人が味わう喜びでした。もし、これと同じ素朴で晴れ晴れとした、地味であっても希望に満ちた雰囲気が、神学校、修道院、小教区の教会に浸透したなら、どんなにか素晴らしいことでしょう。
これが、はかない喜びでしかない刹那的な選択と感情が際立つ時代にあって、自分に託された兄弟姉妹の中におられる神に、それ自体が証しとなる忠実さをもって仕えるため、神を自分の人生の「夢」のすべて、とした兄弟姉妹である皆さんに、私が願う喜びです。召し出しの保護者である聖ヨセフが、父の心をもって、共に歩んでくださいますように。
ローマ、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂にて 2021年3月19日、聖ヨセフの祭日 フランシスコ
(カトリック中央協議会の翻訳文をもとに、「カトリック・あい」が編集)
教皇フランシスコ 2021年度の「アースデイ」にメッセージ (© Servizio Fotografico Vaticano)
(2021.4.22 バチカン放送)
教皇フランシスコは22日、同日の地球環境について考え、行動する日「アースデイ2021」に寄せて、二つのビデオ・メッセージを出された。
一つは、同日始まった米政府主催の「気候変動サミット」へのメッセージで、教皇はこの中で、参加者らに挨拶を述べるとともに、会議の豊かな実りを祈られた。
教皇は、このサミットが、グラスゴーで開かれる気候変動枠組条約締約国会議(COP26)に向けた準備となることはもとより、「私たちに託された『自然』という贈り物を守るための責任をいっそう明確にするための歩みとなるように」と願われた。
さらに、「私たちの関心は、環境を汚染することなく純粋に保全すること」とされ、「自然をいたわることで、私たちもまた自然からのいたわりを受けることができます」と訴えられた。
同時に発表された「アースデイ2021」に向けたメッセージでは、「自然を守ることは、神が創造した生物の多様性を大切にすること」と語られ、生物多様性と人間との相互関係により関心を持つように促された。
そして、「自然破壊を食い止めるのは容易ではありませんが、まだ間に合います。今こそ、この問題に、一人ではなく共に取り組む時です」と世界の人々に呼びかけられた。現在起きている新型コロナウイルスの世界的大感染にも言及され、大感染が私たちの相互依存関係を改めて印象付けることになった、とされ、「環境保全と、ウイルスの世界的大感染への対応、という二つの急務の重大課題に、皆が一体となって努力する必要」を強調された。
(編集「カトリック・あい」)
Pope Francis during Regina Coeli (Vatican Media)
(2021.4.18 Vatican News Linda Bordoni)
教皇フランシスコは復活節第三主日、18日正午の祈りの説教で、「キリスト教徒のあり方は、教義や道徳的な理想を第一にするのではなく、イエスと生身の関係を持つこと」とされた。
この日、イタリア政府が新型コロナ対策としての規制を緩和したのを受け、教皇は、およそ一か月ぶりにサンピエトロ広場に集まった人々に話しかけられ、この日のミサで読まれたルカ福音書の、復活されたイエスが弟子たちの集まりの中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた箇所(24章36-42節)を考察された。
【イエスの言葉を聞いて恐れおののき、「霊を見ているのだ」と思った弟子たちに、イエスは彼らにご自分の手と足の傷を見せ、さらに、食べ物を求め、驚いている彼らの目の前で、差し出された焼いた魚を食べられた。】
教皇は、この福音書の箇所の特徴は、弟子たちが「見て」、「触れて」、そしてイエスが「食べる」という極めて具体的な三つの動詞にある、とされ、「これらは三つの動詞は、すべて私たちの個々人の生活と共同体の生活を反映し、「生きておられるイエスとの真の出会いに喜びをもたらすことのできる」振る舞いを言い表しています」と説かれた。
*見るー無関心を克服する最初の一歩
イエスは弟子たちに、「私の手と足を見なさい」と言われるが、これは「単に見るのではなく、それ以上のことー意図をもって、意志をもってすることを意味しています」と教皇は指摘され、「ですから、これは『愛』の動詞の一つ。母と父は自分の子どもを(愛情をもって)見つめます。そのようにして、恋人たちも互いに見合い、よい医者も患者を注意深く診ます…『見る』ことは、他者への無関心を克服する最初の一歩となるのです」と述べられた。
*触れるー親密さ、関わり合い、人生を共にすること
さらに教皇は「『触れる』ことも『愛』の動詞です。愛は、親密さ、関わり合い、人生の共にすることを求めています」とされ、「イエスは、弟子たちにご自分の体に触れさせ、ご自分が霊ではないことを確認させ、それによって、弟子たちや私たち兄弟姉妹とご自身の関係が、『距離を置いた』まま、見つめるままではないことを、彼らと私たちにお示しになるのです」。
そして、ルカ福音書の「善いサマリア人」のたとえ(10章30ー37節参照)ーサマリア人は、瀕死の状態で道端に倒れている男の人を、単に見るだけで済まさず、近寄って、傷にオリーブ油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱したーを取り上げ、「イエスとの関係でも同じです。イエスを愛することは、イエスと、生身の、触れて感じることのできる交わりに入ることを意味するのです」と強調された。
*食べるー生きるために必要な栄養
3番目の動詞、「食べる」について、教皇は「最も自然な渇望-生きるために自分自身に養分を与える必要ーにおいて、私たちの人間性を明確に表しています」とされ、「 私たちが家族や友人と一緒に食事をするとき、それは、愛、交わり、祝福を表わすことにもなります」 と振り返られた。
そして、「四つの福音書に、皆と集まって食事をするのがお好きなイエスがどれほど頻繁に描かれていることでしょう!復活された方としてさえも、弟子たちとそうなさいます。そこにおいて、聖餐は、キリスト教徒の共同体の象徴的なしるしとなるのです」と説かれた。
*イエスとの生身の関係
説教の最後に、教皇は、このルカ福音書の箇所が「イエスは『霊』ではなく、『生きておられる方』だということを、私たちに語っています」と念を押され、次のように締めくくられた。
「 キリスト教徒に何よりも必要なのは、教義や道徳的理想を持つことではなく、イエスー復活した主ーとの生身の関係です。私たちはイエスを見、イエスに触れ、イエスによって養われ、イエスの愛によって変容し、他者を兄弟姉妹として見、触れ、そして養うのです」。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
教皇フランシスコ「人々に根差した政治」テーマの国際会議にメッセージ
(2021.4.15 バチカン放送)
教皇フランシスコは15日、 ロンドンの「神学と共同体社会のためのセンター」が主催する「人々に根差した政治」をテーマにした国際会議にビデオメッセージをおくられた。
会議では、特に市民運動やそれを支える民間団体の活動を「見る」「識別する」「行動する」の三つの視点から捉え、意見交換が行われた。
メッセージで教皇は、「土地・家・仕事」をめぐる闘いで人々に寄り添う市民運動を進めている関係者たちに挨拶をおくり、「特に現在の、新型コロナウイルスの世界的大感染を原因とする貧困と失業問題は、皆さんの事業と証しを切迫した形で求めている」と話された。
そして、この会議は、現代の「populism(大衆迎合主義)」の蔓延に対する答えが「個人主義にではなく、人々の生活に根差した、兄弟愛の政治」にあることを示している、と指摘。
「すべての人に『尊厳のある生活』と『美徳と新たな連帯を育む生活』を保証するメカニズムを生む政治を『popularism』と呼びたい。それは人々の為はもとより、人々と共にある、奉仕としての政治です」と強調され、「populism」は、意識的、あるいは無意識的に、すべてを人々のためと言いながらも、彼らが不在になる傾向があり、その結果、populism的ビジョンでは、人々が自分自身の運命を担う主役ではなく、一つのイデオロギーの負債者になってしまう、と指摘された。
教皇は昨年秋に発表された新回勅「Fratelli Tutti(兄弟の皆さん)の第5章で「より良い政治」とは、「共通善に奉仕し、市民の重要さを認識し、対話に臨むことで、愛(カリタス)をより貴重な形で表すことにある」とし、これを「popularism」と規定、それは「people(人々)」ではなく自らのために彼らを惹きつけて利用する「populism」と一線を画するもの、と強調しており、このメッセージは新回勅を基にされたものだ。
そして、教会の果たすべき役割に関して、「教会にとって、人々の精神的価値と文化から社会正義の推進を切り離すことは、不可能」とされ、それは、「キリスト教共同体で、これらの価値は、『希望を失い、道に迷う人々』を探し求めるイエス・キリストとの出会いから生まれるからです」と語られた。
教皇は、市民運動を見守りつつ働く司牧者たちに対して、時には「政治的すぎる」と言われ、またある時には「宗教を押し付ける」と言われる難しい立場に理解を示され、「民の司牧者、宗教的司牧者は、勇気をもって、民の前を、中を、後ろを歩くべきです… 前を歩くのは、人々に道を示すため、中を歩くのは、人々に耳を傾けるため、後ろを歩くのは、遅れた人たちを助けるためなのです」と励まされた。
(編集「カトリック・あい」)
Pope Francis at the General Audience of April 14, 2021. (Vatican Media)
(2021.4.14 Vatican News Robin Gomes)
教皇フランシスコは14日、水曜恒例の一般謁見で「祈りについて」をテーマにした講話を続けられ、「祈りは教会の本質に属し、祈りなしに教会は福音宣教の使命と他者への奉仕を果たすことはできない」とされた。
講話の中で、教皇はまず、教会がいかに素晴らしい”祈りの学校”であるか、を語られ、「子供の時、祖父母と両親の膝の上で、初めて祈りを学び、福音に触発された助言をもらいます。その後、典礼と共同の祈りで特徴づけられる教区とキリスト教共同体での生活などでの祈りの証人や教師との出会いを通して、信仰と祈りの経験が深められます」と説かれた。
*祈ることを学ぶ限り、信仰は成長する
そして、「信仰の衣は、糊付けされておらず、私たちと共に洗練されていきます… それは堅く固まっておらず、危機と復活の瞬間を通してさえ、成長していきます」とされ、「危機はあなたを成長させ、危機の瞬間なしで成長はできません」と指摘された。
さらに「信仰の呼吸は、祈りです。祈ることを学ぶ限り、信仰は成長します。私たちは、人生のいくつかの瞬間の後、信仰がなければそれを成し遂げることができなかったこと、そして自分の強さが祈りであったことに、気づきます。私たちは、個人的な祈りだけでなく、自分が求めた兄弟姉妹と共同体の祈りも、自分に寄り添い、支えてくれたことに気づくのです」と語られた。
*祈りに捧げられた共同体の力
こうしたことが、祈りに捧げられた共同体や集団が教会の活動に大きく貢献する理由でもある、とされた教皇は、「修道院、女子修道院、そして人里離れた僧院は、しばしば、熱心な祈りが共有され、兄弟の交わりが日々構築される”霊的な光の中心””小さなオアシス”となります… 教会の基礎構造だけでなく、社会自体の基礎構造にとっても不可欠な部位となります」と述べ、これと関連する形で、欧州文明や他の文明の誕生と成長の中での修道院の役割を思い起こされ、 「共同体における祈りと働きは、世界を動かし続けるエンジンです」と語られた。
そして、「教会におけるあらゆることは、祈りから始まり、あらゆることは祈りのおかげで成長するのです」と強調された。
また、教皇は、「教会において改革と変化がなされる一方で、組織とメディアの面で多大な努力が払われているが、祈りが時として欠けることがある」と指摘。 「祈りは、聖霊に扉を開くもの、私たちが前に進むように刺激するもの。祈りの無い教会の変化は、『教会の変化』ではなく、『集団の変化』です。敵は、教会と戦うことを望むとき、まず第一に、その源を枯渇ー祈りをさせないように、しようとし、他のことをさせようとします」と述べ、「祈りを無くした教会は、抜け殻のようになり、活動のベアリングを失い、暖かさと愛の源を持っていないことに気づきます」と警告された。
*祈りは信仰のランプを灯す油
教皇は、男女の修道者も人生に問題を抱えており、しばしば反発を受けることがある、と指摘したうえで、 「そうした時にも、彼ら、彼女らの強みは『祈り』。祈りによって、ランプを灯す油のように、信仰の炎を養います。そうして、お金や権力、メディアなどではなく、祈りを武器として、信仰と希望を持って歩み続けるのです」とされた。
*福音宣教と奉仕
また教皇は「ルカ福音書の中で、イエスはいつも私たちを反省させる目の覚めるような問いを投げかけます」とし、「例えば、『人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見い出すだろうか?』(18章8節)と。あるいは、イエスが見つけるのは、“信仰起業家”の集団のように、よく組織された、慈善活動と多くのことをしている組織体だけでしょうか?」と問いかけ、「イエスが絶えず祈り、落胆してはならない(18章1-8節参照)と注意なさっているのは、そうならならいためです… 信仰のランプは、この地上に祈りの油がある限り、いつも灯っているでしょう」と語られた。
最後に教皇は、「私たちの祈りの人生、貧しく、弱く、罪深い人生を確実に前進させるのは、祈りです。だから、キリスト教徒は、自分たちが祈るか否か、どのように祈るかを、自問する必要がある」とされ、 「オウムのように、それとも、心から祈るのか?教会の一部であることを感じて、そのために祈るのか? それとも自分の必要に応じて、自分の思いを祈りにして少しばかり祈るのかーそのような祈りは、異教の祈りであり、キリスト教の祈りではありません」と言われた。
そして、教会の本質的な任務は、「信仰のランプと祈りの油」を世代から世代へと伝えつつ、祈り、そして祈り方を教えること、とされた教皇は、「信仰のランプの光がなければ、福音宣教は不可能であり、私たちは兄弟姉妹のそばに来て奉仕することはできないでしょう… そうした理由から、霊的交わりの家、学校としての教会は、祈りの家、学校のなです」と強調して、講話を締めくくられた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
(2021.4.8 カトリック・あい)
世界主要国の財務相、中央銀行総裁が参加するIMF(国際通貨基金)・世界銀行の春の一連の会合が7日から9日にかけて開かれているが、教皇フランシスコは8日、参加者にあてた書簡をピーター・タークソン人間開発省長官を通じて送られた。
その中で教皇は、新型コロナウイルスの大感染が世界の政治、経済、社会、環境にもたらした危機に対して、一連の会合が普遍的な善の促進を目指し、受容的で持続可能な新しい解決を生み出す復興モデル創出に寄与することを願われた。
そして、コロナ禍からの「復興」が「ごく一部の人が世界の半分の豊かさを所有している、不平等で持続不可能な経済・社会生活に戻ること」であってはならない、と訴え、「現在の危機から脱し、より人間的で連帯に満ちた世界を築くには、貧しい人の声に耳を傾け、未来の構築においてすべての人を考慮する、新しく創造的な形の社会・政治・経済的参与が必要です」と強調。
さらに、全地球的な連帯精神のもとに、とくに最貧国など脆弱な国々に対する債務削減やワクチン接種など医療支援、教育や雇用確保などの援助を訴え、「もう一つの債務問題」として、「環境に対する債務」についても、先進国や新興国が再生不能エネルギー消費を制限するだけでなく、貧しい国々の持続可能な発展プログラムの支援、環境問題対応のためのコスト負担等に寄与できるような、創造的な体制の考案・構築を呼びかけた。
・・・・・・・・・・・・・
世界の財務相、中央銀行総裁が参加する一連の会議は、7日に主要20か国による会合が開かれ、新型コロナウイルス危機への対応に関連して、財政が悪化する途上国の債務返済を猶予する期限を今年末までさらに半年間延長することで合意。途上国が新型コロナ対応を拡充させるためにIMF=国際通貨基金が資金を引き出せる枠をさらに6500億ドル拡大することに賛成することで一致した。
また8日の国際通貨基金(IMF)加盟の財務相らによる会合後の声明では、新型コロナウイルスの影響で 財政が悪化する途上国の支援で、特別引き出し権(SDR)を使った支援策などで「危機からの持続的回復に向けたIMFの取り組みを歓迎する」と表明。 世界経済の現状について「予想よりも早く危機から回復しつつある」とする一方で、ワクチンの普及が国ごとにばらついていることを問題視し「長引く傷痕をもたらし、貧困や不平等を悪化させる可能性がある」と警鐘を鳴らしている。
教皇フランシスコ 2021年4月7日の一般謁見 (Vatican Media 2021.4.7 バチカン放送)
(2021.4.7 バチカン放送)
教皇フランシスコ7日、水曜恒例の一般謁見をバチカン宮殿からビデオ中継で行われ、この中で聖週間中休止されていた「祈りについて」の講話を再開された。
今回は、特に「聖人たちとの交わりの中の祈り」について考察され、まず、「私たちが祈る時、決して一人で祈っているわけではありません。私たちは『自分に先立つ、あるいは自分の後に続く、滔々たる祈りの大河』の中にいるのです」と語られた。
そして、「私たちが祈るたびに、知っている聖人、知らない聖人たちが、人間生活の先輩、兄弟姉妹として、私たちと共に祈り、私たちの祈りを取り次いでくださる」とされ、「教会には、孤独な喪や忘れられた涙は存在しません… 古い教会に、聖堂を囲むように庭に人々の墓があったように、あらゆるミサに先人たちの群れも何らかの形で参加しています」と説かれた。
さらに、「聖人たちはここに、私たちの近くに、います…。彼らの存在は教会において『多くの証人の雲のように』(ヘブライ人への手紙12章1節)なって、私たちを常に囲み、唯一の主であり、神と人間の仲介者である、イエス・キリストから、私たちが離れることがないように、様々な方法で働きかけているのです」と述べ、「聖人たちは、神を直観し、神をたたえ、この世に残る人々のことをたえず配慮しています…。聖人たちの執り成しというのは、神の計画をお手伝いするための、もっとも崇高な行為です。私たちは、聖人たちが自分や全世界のための執り成しをしてくださるように、と祈ることができ、またそう祈らなければなりません」(「カトリック教会のカテキズム」 2683)と強調された。
そのうえで、教皇は、「キリストにおいて新たな命へと移った人々と地上の巡礼を続ける人々の間に存在する神秘的な絆」を指摘され、「亡くなった愛する人々は、天から私たちを見守り、私たちのために祈り、私たちもまた彼らと共に祈ります」とされ、「互いに祈りを交換したり、他者のために祈りを捧げるなど、こうした祈りの絆は、既に私たちの地上の生活から始まっているのです… 誰かのために祈る最良の方法は、神に、これらの人々のことを話すことであり、他者のために祈ることは、他者を愛し具体的に寄り添うための一番の方法です」と述べられた。
また、「不安な時代に立ち向かう最良の方法は、兄弟たち、特に聖人たちに、私たちのために祈ってください、と願うことです… 聖母や聖人の名にちなむ洗礼名は飾りではなく、意味を持っている。聖人たちは、私たちの必要のために、快く神に取り次いでくれるでしょう」と話された。
最後に教皇は、「私たちの人生で、試練が最悪を極めることなく、私たちがまだ忍耐や信頼を保っているなら、それは私たちの手柄ではなく、おそらく、多くの天上と地上の聖人たちの取り次ぎのお陰かもしれません」と語り、「聖人は地上にもいますが、ただ本人も、私たちも、それを知りません」とされ、私たちと共に生き働く「身近な聖人」、「日常の中の隠れた聖人」たちの存在を示された。
(編集「カトリック・あい」)
Pope Francis in the Apostolic LIbrary, from where he recited the Regina Coeli (Vatican Media)
(2021.4.5 Vatican News staff writer)
教皇フランシスコは復活祭明けの5日月曜日、バチカン図書室からインターネットを通して全世界の信徒と共に「レジナ・チェリ(天の元后)」 の祈りを唱えられ、説教で「復活されたキリストと出会う中で、私たちは心の平和を見つけます」と語られた。
「レジナ・チェリ(天の元后)」 の祈りと先導した教皇はまず、この日が「天使たちの月曜日」としても知られ、それは、「復活された後でイエスの墓を訪れた女性たちが天使と出会う場面を、私たちに思い起こさせます」と指摘。
その時、天使は彼女たちに「十字架につけられたイエスを探しているのだろうが、あの方はここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ」(マタイ福音書28章5-6節)と語ったが、教皇は「この『復活なさった』という表現は、人間の理解力を超えています」とされた。
そして、「天使だけが、『イエスは復活なさった』と言うことができました。ちょうど、天使だけが聖母マリアに『あなたは子を身ごもり… その子は天のいと高き御子を呼ばれるだろう』と語ることができたように、です」と語られた。
*主の介在
また教皇は、福音史家マタイが「週の初めの日の明け方に…大きな地震が起こった。主の天使が天から下って…石を転がして、その上に座った」(マタイ福音書28章1-2節)と記していることを取り上げて、「『悪と死の勝利の印』とされていた大きな石が足元に置かれ、主の天使の足台となったのです」と説かれた。
さらに、「イエスの敵と迫害者の計画と防御はすべて無駄だった…墓の前の石の上に座っている天使のイメージは、『悪に対する神の勝利』『この世の君主に対するキリストの勝利』『暗闇に対する光』の具体的で目に見える顕現です」と強調。「イエスの墓は、物理的な現象によって開かれたのではなく、主の介在によって開かれました。そして、天使の姿は、稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった(28章3節)。このような表現は、新しい時代の担い手である神ご自身の介在を象徴しています」と語られた。
*墓の前の二つの異なった反応
このような介在を神の側から見ると、2つの反応がある、と教皇は指摘され、1つ目は、墓を見張っていた者たちが、神の圧倒的な力に立ち向かえず、「恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった」(28章4節参照)ことであり、これは「明らかな勝利を保証するために使われた者たちを、復活の力が圧倒している」ことを示している、とされた。
2つ目は、これとは対照的で、墓の前に来た女性たちは、石の上に座った天使から「恐れることはない。十字架につけられたイエスを探しているのだろうが、あの方はここにはおられない」(28章5節)とはっきりと告げられている。
*天使の言葉から得られるものは
続けて教皇は「こうした天使の言葉から、貴重な教えを得ることができます」とし、「私たちは、出会う人々に豊かな命をお与えになる復活したキリストを探し求めるのに飽きることはありません… キリストを見つけることは、心の平和を見出すことを意味します… 天使に告げられた時、動揺したが、弟子たちに知らせに行く途中でイエスに出会い、大きな喜びを得た、女性たちのように、です」と説かれた。
そして、「この復活節に私が願うのは、誰もが彼女たちと同じ精神的な体験をし、喜びに満ちた復活の宣言を、私たちの心、家庭、そして家族の中に歓迎することですーキリストは死から復活され、もはや死ぬことはない、死はもはや彼に打ち勝つことはありません」と言明された。
最後に、教皇は「今日そして復活節を通して、私たちを祈りへと突き動かすのは、このことが確実だからです..」と結論付けた。
「天使ガブリエルは、聖母マリアに最初にこうあいさつしましたー『おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる』(ルカ福音書1章28節参照)と。こうしてマリアの喜びは完全なものとなりましたーイエスは生きておられ、愛が勝利した、のです」。
そして教皇は、こう祈られたー「この喜びが、私たちの喜びになりますように!」
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
(2021.4.3 バチカン放送)
カトリック教会の典礼は3日の日没とともに「復活の主日」に入り、教皇フランシスコは同日午後7時半(日本時間4日午前2時半)から、聖ペトロ大聖堂の司教座祭壇で「復活の聖なる徹夜祭」を祝われた。
この式では、火の祝別や復活の大ろうそくを掲げた行列、「エクスルテット」(復活賛歌)の朗唱、救いの歴史における神の御業を思い起こすと共に、キリストの復活を告知する豊かな朗読などが行われた。復活徹夜祭の特徴の一部である洗礼式は、新型コロナ感染予防への配慮から、昨年に続き行われなかったが、参列者全員で洗礼の約束を新たにした。
教皇は説教で「先を歩まれるイエスの招きに応え、私たちもガリラヤに向かい、主と共にガリラヤから新たに出発しましょう」と世界の信者たちを励まされ、復活の三つの告知について話された。
教皇の説教は、以下のとおり。
**********
婦人たちは主の遺体に香油を塗ろうと思っていました。ところが、墓は空でした。彼女たちは死者を弔い、泣くために行きました、ところが、命の告知を耳にしました。マルコ福音書は、彼女らは「震え上がり、正気を失っていた」(16章8節)と伝えます。
「震え」、これは彼女たちの心を満たした「喜びと混ざり合う一種の恐れ」です。墓の大きな石は取り除かれ、中には白い衣を着た若者が座っていました。そして、驚きをもって、この言葉を聞いたのですー「驚くことはない。十字架につけられたナザレのイエスを捜しているのだろうが、あの方は復活なさって、ここにはおられない」 (16章6節)。
そして、婦人たちに次のように命じます。「行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』」(16章7節)。私たちもこの招き、復活の招きを受けましょう。復活された主が先においでになるガリラヤに行きましょう。
しかし、「ガリラヤに行く」とは何を意味するのでしょうか。「ガリラヤに行く」とは、まず何よりも「再び始める」ことを意味します。ガリラヤは弟子たちにとって、主との最初の出会いの地ー主が彼らを探し、ご自分に従うようにと招いた場所ーです。いわば、「最初の出会い」と「最初の愛」の地です。あの時から、弟子たちは網を捨てて、イエスに従い、その説教に耳を傾け、イエスが行う奇跡に立ち会ったのです。
しかし、彼らはいつもイエスと共にいながら、イエスを完全に理解したわけではありませんでした。しばしばその言葉を誤解し、十字架を前にすると、イエスを一人置き去りにし、逃げ去ってしまいました。
このような弟子たちの失敗にもかかわらず、復活された主は、以前のように彼らの前に現れ、先立ってガリラヤに行かれます。復活されたイエスは、弟子たちの前を歩まれるのです。イエスは弟子たちを呼ばれます。ご自分に従うようにと、飽くことなく、繰り返し呼びかけられます。イエスは言われます。「私たちが共に始めたところから、また再び始めよう。再出発しようではないか。すべての失敗を乗り越え、あなたがたを再び私の下に置きたいのだ」。ーこのガリラヤで、私たちは、「数々の失敗にもかかわらず、新たな道を開いてくださる主」の無限の愛を学び取るのです。
*第一の告知「神は、常にやり直すことを可能にしてくださる」
私が皆さんに示したい復活の第一の告知、それは「やり直すことは、常に可能だ。どのような失敗があっても、神は私たちに、やり直すことを可能としてくださる」ということです。
私たちの「心の残骸」からも、神は素晴らしい芸術作品を創造することがおできになります。私たち人類の「粉々になった遺物」からも、神は新しい歴史を準備されます。神はいつも、苦しみや絶望の、死の十字架において、私たちの前を行かれます。
こうしてまた、よみがえる生命の栄光においても、移り行く歴史においても、希望の再生においても、神はいつもわたしたちの前を歩まれます。新型コロナウイルスによる大感染の危機にある今この時においても、「再び始めるように、決して希望を失わないよう」とに招かれる、主のみ言葉に耳を傾けましょう。
「ガリラヤに行く」とは、また「新しい道」を行くことをも意味します。
それは、墓とは反対の方向に向かうことです。婦人たちは墓にイエスを探しに行きましたーイエスと共に過ごした時のこと、そして、今は失なわれたことの思い出をたどり、悲しみに沈むためでした。これは、「素晴らしかったが、今はすでに終わってしまったこと」を単に記憶するための、信仰のイメージです。多くの人々は「思い出の信仰」を生きています。あたかもイエスは「過去の人物で、遠い昔の若かりし頃の友人、子ども時代、カテキズムに通っていた頃の出来事」であるかのようです。習慣と化した信仰、過去の産物、小さい頃の遠い思い出ー今の自分にはまったく関係ないものに、成り下がっています。
「ガリラヤに行くこと」は、「信仰が生きたものであるために、常に歩み続けなければならないこと」を教えてくれます。毎日、新しく歩み出さねばなりません。最初の出会いの感動を新たにしなければなりません。そして、「何もかも知り尽くしている」という思い上がりなしに、謙遜のうちに、神の道の導きに委ねる必要があります。子どもの頃の思い出に神を閉じ込めず、いつも生きておられる方、私たちに驚きをもたらすお方を、再発見することが大切です。復活されたイエスは、絶えず私たちに驚嘆をもたらします。
*第二の告知「信仰は”思い出”ではなく、イエスは”過ぎた昔の人”ではない」
復活の第二の告知、それは「信仰は以前のことの思い出ではなく、イエスは過ぎた昔の人ではない」ということです。イエスは今ここで生きておられます。あなたが生きる状況の中で、あなたが抱える困難の中で、あなたが心に育む夢の中で、毎日あなたと共に歩まれます。
「ガリラヤに行く」、それは「辺地に行く」ということも意味します。ガリラヤは中央から離れた場所でした。そこには、エルサレムの正当な生き方からは、だいぶ外れた生き方をする人々が住んでいました。それにもかかわらず、イエスはご自身の使命を、このような土地から始められました。毎日の暮らしに苦労する人々や、疎外された人々、弱い人々、貧しい人々、落胆した人々、行き先を見失った人々に、神の御顔、神の現存を示すために福音を述べ伝えました。なぜなら、神の目には、誰も最後の者はなく、除外される者はないからです。
復活されたイエスは、今日も私たちに「そのような場に行くように」と願っておられます。「日々の生活の場、日々歩く道、住む街角に出て行くように」と主は望まれます。まさしく主は私たちの先を行かれ、その場におられます。私たちと共に、時を、家を、仕事を、疲労を、希望を共有する人々の中に、主はおられます。希望に満ちた人々、あるいは絶望の淵にある人々、喜ぶ人々、苦しみ泣く人々、特に貧しい人々、疎外されているこのような兄弟たちの中に、復活されたキリストを見出すことを、ガリラヤの地で学びましょう。神の偉大さがいかに小ささの中で現れ、その美しさがいかに単純な人々や貧しい人々の中で輝くかを見て、私たちは驚かされることでしょう。
*第三の告知「復活されたイエスは限りなく私たちを愛し、どのような時も訪ねてくださる」
第三の復活の告知は「復活されたイエスは限りなく私たちを愛し、どのような時にも、私たちを訪ねてくださる」ということです。
主は世界の中心に現存されます。そして、私たちは、あらゆる障害を克服し、偏見を改め、神の日常の恵みを再発見するために、自分の周りにいる人々に近づくよう招かれています。私たちのガリラヤに、毎日の生活の中に、復活された主の現存を認めましょう。主と共に生活は変わるでしょう。なぜなら、すべての敗北、悪、暴力、苦しみ、死にかかわらず、復活された主は生きておられ、歴史を導かれるからです。
姉妹、兄弟の皆さん、もしこの夜、困難や、失望、敗れた夢に苦しんでいるなら、大きな驚きをもって復活の告知に心を開いてください。「恐れるな。主は復活された、ガリラヤであなたを待っておられる」。あなたの期待は満たされ、涙はぬぐわれ、恐れは希望に打ち負かされるでしょう。なぜなら、主はあなたの先を歩み、あなたの前を進まれるからです。そして、常に主と共に、新しい人生が始まるのです。
(編集「カトリック・あい」=表記は当用漢字表記に、聖書の引用には「聖書協会・共同訳)に改めてあります)