♰「福音の宣言は十字架の受容と常に相伴う」教皇、聖木曜日の聖香油ミサで

Pope Francis celebrates Chrism MassPope Francis celebrates Chrism Mass  (Vatican Media)

(2021.4.1 Vatican News  Lydia O’Kane)

  教皇フランシスコは1日午前に聖ペトロ大聖堂で聖木曜日・聖香油のミサを捧げられ、その中の説教で、「福音の宣教は、ある特定の十字架を受容することと、常に相伴っている」ことを強調された。

*福音と十字架

 教皇はまず、「福音書は私たちに、迫害と十字架が福音の宣言と強く繋がっていることを教えています」とされ、キリストの受難と死に至る時間について考察しつつ、「喜ばしい宣言の時、迫害の時、そして十字架の時は、共に進んでいきます」と指摘。「神の言葉の優しい光は、好意を抱く人の心の中に明るく輝きますが、そうでない人の心には困惑と拒絶を目覚めさせます。私たちはそうしたことを、福音書の中で繰り返し見ています」と語られた。

 そして、福音書にある具体的な例として、畑に蒔かれた良い種は実を付けるが、敵の妬みを引き起こしたこと、慈悲深い父の優さにあふれる愛は、放蕩息子を赦し、家に迎え入れるが、その兄に怒りと恨みをもたらしたこと、をあげ、「これらの物語は、すべて、良き知らせを宣べ伝えることが、迫害と十字架と、謎めいてつながっていることを、私たちが知ることができるようにするのです」と説かれた。

*十字架は交渉の余地がない

 また、教皇は、2つの思考の流れに焦点を当て、第一に「私たちは、主が宣教を始められた時、お生まれになる前にでさえ、主の人生に十字架が存在することを知って驚きます…このすべてが私たちに、十字架の神秘が”始めから”存在していることを認識させます。十字架が偶然に現れることはありません」とされ、イエスは時が来た際、十字架を完全に受容されたが、「十字架の上で、曖昧さはありえない。交渉の余地はないのです」と述べられた。

 そして第二に、「私たち人間の状態、限界、そして弱さの欠かせない部分である十字架の側面があります。ですが、十字架上で起きたことは、私たち人間の弱さとは関係がなく、十字架につけられた無抵抗な主を見て噛みつき、毒を注入し、主のすべての業を消し去ろうとする蛇のひと噛み。『自分を救ってい見ろ』と言い続ける邪悪なもの毒液です」と指摘。「死をもたらそうとし、最終的に神の勝利が実現するのは、この激しい痛みを伴う”ひと噛み”においてなのです… イエスの和解をもたらす血のおかげで、十字架は、悪に打ち勝ち、私たちを悪から救う、キリストの勝利の力をもつ十字架となったのです」と強調された。

*私たちの中におられるキリストの苦しみ

 教皇は「私たちキリスト教徒は、(危機に直面して)尻込みする人の中にいません… ご自身の貧しい人々への喜ばしい救いの教えが心から受け入れられず、その言葉を聴くのを拒む人々の叫びと脅しの最中にあっても、イエスがショックを受けられなかったように、私たちは、ショックを受けません」と述べ、「私たちが、福音宣教において十字架を受容する道は、二つのことを明確にします。福音から来る苦しみは、私たちのものではなく、私たちの中におられるキリストの苦しみであること。そして、福音を宣べ伝えるのは私たち自身ではなく、主であるイエス・キリスト、そしてイエスの愛ゆえにすべての人の奉仕者である私たちだ、ということです」と説かれた。

*神の恵みとは

 最後に、教皇は、ご自身の過去の思い出で説教を締めくくられた。それは、自身の人生の暗黒の時期、困難で複雑な状況から解放してくださる恵みを主に願った時のことだ。 「私には特別の恵みが必要だったので、きらきらと輝く目をした姉に、告解の時に、『罪の償いとして、私のために祈ってください』と頼んだのです。すると、姉はこう答えました。『主は確かにあなたに恵みをくださるでしょう。けれど、間違わないで。主はご自身のなさり方で、恵みをあなたにくださるのですよ』と」。 「主はいつも私たちに望むものをくださるが、それはあくまで、主のなさり方でくださるのだーという姉の助言は、とても役に立ちました。その恵みには、十字架を負うことも含みます。自虐ではなく、愛、最後の最後まで愛の為に」。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

このエントリーをはてなブックマークに追加
2021年4月1日