☩「キリスト教徒に必要なのは、教義や道徳的理想よりも、イエスと生身の関係を持つこと」復活節第三主日の正午の祈り

Pope Francis during Regina CoeliPope Francis during Regina Coeli  (Vatican Media)

 教皇フランシスコは復活節第三主日、18日正午の祈りの説教で、「キリスト教徒のあり方は、教義や道徳的な理想を第一にするのではなく、イエスと生身の関係を持つこと」とされた。

 この日、イタリア政府が新型コロナ対策としての規制を緩和したのを受け、教皇は、およそ一か月ぶりにサンピエトロ広場に集まった人々に話しかけられ、この日のミサで読まれたルカ福音書の、復活されたイエスが弟子たちの集まりの中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた箇所(24章36-42節)を考察された。

 【イエスの言葉を聞いて恐れおののき、「霊を見ているのだ」と思った弟子たちに、イエスは彼らにご自分の手と足の傷を見せ、さらに、食べ物を求め、驚いている彼らの目の前で、差し出された焼いた魚を食べられた。】

 教皇は、この福音書の箇所の特徴は、弟子たちが「見て」、「触れて」、そしてイエスが「食べる」という極めて具体的な三つの動詞にある、とされ、「これらは三つの動詞は、すべて私たちの個々人の生活と共同体の生活を反映し、「生きておられるイエスとの真の出会いに喜びをもたらすことのできる」振る舞いを言い表しています」と説かれた。

*見るー無関心を克服する最初の一歩

 イエスは弟子たちに、「私の手と足を見なさい」と言われるが、これは「単に見るのではなく、それ以上のことー意図をもって、意志をもってすることを意味しています」と教皇は指摘され、「ですから、これは『愛』の動詞の一つ。母と父は自分の子どもを(愛情をもって)見つめます。そのようにして、恋人たちも互いに見合い、よい医者も患者を注意深く診ます…『見る』ことは、他者への無関心を克服する最初の一歩となるのです」と述べられた。

*触れるー親密さ、関わり合い、人生を共にすること

 さらに教皇は「『触れる』ことも『愛』の動詞です。愛は、親密さ、関わり合い、人生の共にすることを求めています」とされ、「イエスは、弟子たちにご自分の体に触れさせ、ご自分が霊ではないことを確認させ、それによって、弟子たちや私たち兄弟姉妹とご自身の関係が、『距離を置いた』まま、見つめるままではないことを、彼らと私たちにお示しになるのです」。

 そして、ルカ福音書の「善いサマリア人」のたとえ(10章30ー37節参照)ーサマリア人は、瀕死の状態で道端に倒れている男の人を、単に見るだけで済まさず、近寄って、傷にオリーブ油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱したーを取り上げ、「イエスとの関係でも同じです。イエスを愛することは、イエスと、生身の、触れて感じることのできる交わりに入ることを意味するのです」と強調された。

*食べるー生きるために必要な栄養

 3番目の動詞、「食べる」について、教皇は「最も自然な渇望-生きるために自分自身に養分を与える必要ーにおいて、私たちの人間性を明確に表しています」とされ、「私たちが家族や友人と一緒に食事をするとき、それは、愛、交わり、祝福を表わすことにもなります」 と振り返られた。

 そして、「四つの福音書に、皆と集まって食事をするのがお好きなイエスがどれほど頻繁に描かれていることでしょう!復活された方としてさえも、弟子たちとそうなさいます。そこにおいて、聖餐は、キリスト教徒の共同体の象徴的なしるしとなるのです」と説かれた。

*イエスとの生身の関係

 説教の最後に、教皇は、このルカ福音書の箇所が「イエスは『霊』ではなく、『生きておられる方』だということを、私たちに語っています」と念を押され、次のように締めくくられた。

 「 キリスト教徒に何よりも必要なのは、教義や道徳的理想を持つことではなく、イエスー復活した主ーとの生身の関係です。私たちはイエスを見、イエスに触れ、イエスによって養われ、イエスの愛によって変容し、他者を兄弟姉妹として見、触れ、そして養うのです」。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

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2021年4月18日