Rescue workers assist victims amid the rubble left by an Israeli air strike on Gaza City
(2021.5.16 Vatican News Christopher Wells)
教皇フランシスコは16日の正午の祈りの後で、対立が激化し多くの死傷者が出ているイスラエル情勢に改めて強い懸念を表明され、「神の名において」、聖地に速やかに平和が取り戻されるよう、訴えられた。
特に、数十人に上る子供たちの死は、「むごたらしく、耐えられません。未来を築きたくない、破壊したいというしるしです」と強く非難。イスラエルのヨルダン川西岸とガザ地区で激化している攻撃の応酬が「死と破壊のスパイラル」に陥る危険性と指摘し、「友愛と平和共存」を妨げる傷は「ただちに対話に立ち帰らない限り、治癒が難しくなる」と警告。イスラエルとパレスチナ双方の指導者たちに、「国際社会の助けを借りて、武力による応酬を止め、平和の道を歩むように」と強く呼びかけられた。
そして、イスラエルとパレスチナの人々が「対話と赦しの道を見つけ、平和と正義の忍耐強い建設者となり、共通の希望、兄弟間の共存に向けて、心を開く」ために、絶え間なく祈り続けるように、双方に求め、信徒たちには、今回の騒乱の犠牲者、特に子供たちのために、そして速やかな平和の回復へ、聖母マリアの助けを求める祈りをするように勧められた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
The Ascension of Jesus, by Giotto
(2021.5.16 Vatican News Christopher Wells)
教皇フランシスコは16日、「主の昇天」の祝日の正午の祈りの説教で、「真の神、真の人、そして聖霊についての主の約束であるイエスの昇天は、喜びをもたらすもの」と語られた。
教皇はまず、この日のミサで読まれたマルコ福音書のイエスの昇天の場面(16章19節)を思い起こされ、「主が天に昇られた時、弟子たちには、喪失感や見捨てられた気持ちがまったくなかった。主が自分たちから離れていかれたにもかかわらず、悲しみに打ちひしがれているようには見えません」とされ、「むしろ、喜びにあふれ、宣教師として世に出る準備ができていたのです」と語られた。
そして、「では、なぜ私たちも、イエスが天に昇られるのを見て、喜ぶべきなのでしょうか」と問いかけられ、こう答えられたー「昇天は、私たちの間でイエスの使命を全うするからです」。
さらに、「主は、私たち人間の所に降りられ、罪を償われ、そして今、私たちの肉の体を持って天に昇られます。イエスは、天国に入る最初の人ー彼が真の神であり真の人だからです。私たちの肉の体は天にあり、そのことが私たちに喜びを与えるのです!」と説かれた。
また、「主の昇天によって、弟子も、私たちも『見捨てられた』のではない、イエスは祈りの中で、弟子たち、私たちと共に、永遠に居てくださる」とされ、「イエスは、ご自身が私たちの罪を償われた傷を父に示されました。そのことが、私たちを保障し、さらには喜び-大きな喜びを与えてくれるのです」と重ねて説かれた。
弟子たち、そして私たちの喜びのもう一つの根拠として、教皇は、「聖霊を送ってくださる」とイエスが約束されたこと,を挙げられた。「天に昇られた後、イエスは、私たちに聖霊を送ってくださいました。福音宣教に出て行くために、私たちに聖霊を送ることを約束してくださいました。それも、今日の喜び、主の昇天の日の喜びの理由です」と強調。
最後に、次のように祈られたー「私たちがこの世において、人生のさまざまな状況の中で、復活された方を、勇気をもって証しすることができるよう、天の女王・マリアが助けてくださいますように」。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
Holy Mass for the Burmese faithful in Rome
(2021.5.16 Vatican News staff writer)
教皇フランシスコは16日の聖ペトロ大聖堂での「主の昇天」のミサを、軍の弾圧に苦しむミャンマーミャンマーの苦しんでいる人々のために奉げられ、ローマ在住の間ヤンマーの信徒たちが多く参加した。
ミャンマーではさる2月初めの軍事クーデターで民主政権が倒され、リーダーたちが逮捕・拘禁され、これに抗議する多くの人々が軍の弾圧で数百人殺され、数千人が負傷、さらに何千人もが囚われの身となっている。教皇はこうした事態に憂慮し、苦しむ人々を少しでも力づけようと、特別の意向をもってミサをされたものだ。
教皇はミサ中の説教で、福音書の箇所(マルコ16章15-20節)でイエスが弟子たちと離れ、天に上げられる前に友である弟子たちの為に祈られる場面を思い起こされ、この箇所は「私たちの人生で、激しく、痛みを伴う時に、どのように対処すべきか、を教えています」と説かれた。
そして、「主は、父に祈るとき、『keep(保ち続ける)』という言葉を使われます。ミャンマーの方々は『暴力、紛争、抑圧』を経験しておられますから、私たちは何をkeepするように呼びかけられているのか、問う必要があります」とされ、keepすべきものとして、「信仰」「一致」そして「真理」の三つを挙げられた。
このうち「信仰」については、「出口の見えない絶望に屈するのを避けるために、必要です。福音書では、イエスが苦しみの中で、どのように神に目を向けているかが語られています。イエスは悪に身を任せたり、悲しみに圧倒されたりすることはありません」と語られ、「イエスは、弟子たちに、同じようにすることを勧められました。『信仰を保ち続ける』ために、私たちの視線を天に上げ続けること、憎しみと復讐の論理に屈することを拒否し、私たちの視線を愛の神に固定し続けること、私たちがお互いに兄弟姉妹になることです」。
そして、「信仰を保ち続ける」ための鍵は、祈りにあるとされ、それは直面する問題から退いたり、逃れたりすることではなく、「愛と希望を生かし続けるために」欠かすことができない、と強調された。
次に「一致」について、教皇は「イエスは、弟子たちが完全に一致し、『愛と友愛が支配する一つの家族』になるように父に祈られました」とされ、「私たちは”分裂病”にかかるのを避けねばなりません。私たちは心の中でそれを経験し、私たちの家庭、共同体、そして教会にさえも広げてしまう可能性がありますー羨望、嫉妬、利己主義、そして一方的な決めつけ。それは悪魔ー”偉大な分裂をもたらす者”ーが引き起こす分裂です」と警告された。
それにもかかわらず、私たちは皆、友情、愛、友愛の中に生きる勇気を見出す道を選ぶことができる、と語られた教皇は、平和と友愛を求める力は、常に下から来るため、「どんなに小さなことでもいい、一人一人が役割を果たすことができるのです」とされ、「教会として、この役割を果たすために、私たちは、交わりのうちに、対話を推進し、他者に敬意を払うように、求められています」と説かれた。
最後に「真理」については、「『真理を保ち続ける』ことの重要性は、ただ考えを擁護したり、教義や教義の体系の守り手になるのではなく、キリストに繋がり続け、主の福音に専心することにあります。『真理を保ち続ける』ということは、福音を人間的で世俗的な考え方に歪めるのではなく、そのメッセージを誠実に保つこと… 人生のあらゆる状況の中で『預言者』となるなること、も意味します」と述べられた。
そして、「戦争と憎しみの中にあって、福音に忠実であること、平和のための調停者であるには、それに専心することが求められます。これにはリスクが伴いますが、この方法でのみ状況を変えることができるのです。勇気も必要です。主は、いい加減なことがお嫌いです」と条件を付けられた。
説教の最後に、教皇は「神が、すべての人の心を平和に変えてくださるよう」と祈られた。そして、ミャンマーのすべての人々に対して、希望を失わないように、そして「(苦しみに満ちた)今日においても、イエスは、私たち皆のために父の前で執り成してくださり、私たちを悪なる者から守り、悪の力から解放されるように祈ってくださっていることを忘れないように」と励まされた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
Pope meets a delegation from the Meter Association on May 15, 2021. (Vatican Media)
(2021.5. 15 Vatican News Robin Gomes )
教皇フランシスコは15日、イタリアのシチリア島でスタートし30年余り児童性的虐待問題に取り組んでいる Meter Associationの代表と児童たちと会見。あいさつで、現在の世界の児童虐待、小児性愛、児童ポルノのの氾濫について、このような行為は「精神的殺人」と指弾、世界の聖職者や教職者、政治家などは、新たな決意を持って取り組む必要がある、と強調された。
あいさつで教皇は、「子供たちは教会の中で最も小さく、無防備な存在」であり、そうした子供たちを守り、被害に遭った子供たちの『心の傷』をやさしさと思いやりで癒してきたこの団体とメンバー、ボランティアの活動に感謝を表明し、 「人々に確固たる良心を形成し、虐待と搾取の文化を根絶するために、教育的側面に特に注意を払いながら、しっかりと仕事を続けてください」と励まされた。
また教皇は、現在の世界の児童性的虐待、特にインターネットやソーシャルメディアを使った児童ポルノに関連した性的虐待が深刻化していることを取り上げ、「このような悲劇に対して、公的機関が新たな決意で取り組む必要であるだけでなく、家族や教育者がもっと意識を高める必要があります」と指摘。
そして、「現在もなお、児童の性的虐待に対する多くの家族の最初の反応は『性的虐待の事実を隠す』こと。これは、家族に限らず、教会、そして他の機関でも常にあることです… 私たちは『隠蔽』という古くからの悪習と戦わねなりません」と強調された。
教皇はさらに、こうした児童虐待を一種の「精神的な殺人」と表現し、多くの場合、これは「幼年期の抹消」に繋がる、と警告。「性的搾取から児童を守ることは、すべての国の義務。人身売買業者、性的虐待を犯す者を特定、学校、スポーツや娯楽、文化関係の団体、宗教団体、そして個人的な場における児童性的虐待を弾劾し、子供たちを守らねばならない、とされた。
MeterAssociationの最新の児童性的虐待に関する報告によると、最近の特徴として、コロナ禍の中でインターネットやソーシャルメディアを使った児童ポルノ画像の配信が急増していることだ。調査によると、児童ポルノの閲覧件数は2019年に比べて2020年の一年間では2.5倍にもなっている。
報告は、「小児性愛と児童ポルノには新型コロナ感染の心配がなく、ワクチンも必要ない。一般社会の活動とは逆の現象が起きている」と指摘し、「コロナ感染で多くの人ば家庭に籠っていることは、子供たちの性的虐待の画像を売り物にする人々にとって、大きな”ビジネス・チャンス”になっている。今のところ、これを止める効果的な”ワクチン”は見当たらないようだ」している。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
対面の一般謁見再開ーコロナは大丈夫?
(2021.5.12 Vatican News Linda Bordoni)
教皇は12日、コロナ対策としてバチカン宮殿から動画配信の形で続けて来られた水曜恒例の一般謁見をバチカンの聖ダマソの中庭で再開され、「祈りについて」講話で、「祈りが時として、いかに難しくなるのか」「多くの偉大なキリスト教徒が試練の時に障害と危機に打ち勝つのに、いかに悪戦苦闘するのか」について考察された。
約半年ぶりに信者たちと交流される一般謁見を再開された教皇は、冒頭で「皆さん一人ひとりとおできるることを大変うれしく思います。私たちは神において皆兄弟で、こうして出会うことは互いのために祈ることを助けてくれるからです」と集いへの参加を感謝された。
講話では、まず、「祈りとは一時的な気休めではありません… 聖書や教会史で出会ういかなる偉大な祈り手も、”楽な祈り”をしてはいません」とされ、「祈りは、確かに大きな安らぎを私たちに与えますが、それは時には、辛くて長い内面の戦いを通して得られるもの。決してたやすいことではありません… 私たちは、祈ろうと思っても、すぐに他の本質的でないことで気をひかれ、祈りを後回しにしてしまうことがある。敵はそうして私たちを陥れるのです」と語られた。
そして、「神に結ばれた人たちは、祈りの喜びだけでなく、難しさや苦労にも触れています… ある聖人は何年にもわたって、祈りに何の味わいも、有益さも見出すことができませんでした」とし、「沈黙・祈り・集中は難しい。祈りたい人は、信仰とは簡単なものではなく、時には何の手がかりもない、完全な闇が生じることも忘れてはなりません」と忠告された。
また教皇は、祈りの敵になるものとして、「祈りによって本当に神にたどり着けるのか」「なぜ神は沈黙しているのか」という疑いや、神の捉えがたさを前にしての「祈りは単なる心理的操作に過ぎない」「何かには役立つだろうが、本当に必要ではない」という思い、さらには「信じること」なしに「実践」だけをする態度、などを挙げられた。
さらに、「祈りの最悪の敵は、私たち自身の中にあります」とされて、祈りの戦いとは、「すさみからくる失望、『たくさんの財産』を持っているためにその全てを主に差し出すことのできない悲しみ、『自分の望みどおりに願いが聞き入られない』という落胆、罪深さを考えてかたくなになる高慢の傷、祈りの無償性に対する反感、などとの戦い」と、「カトリック教会のカテキズム」( 2728項)を引用して語られた。
続いて教皇は「私たちの心が誘惑に揺らぐ時、それを乗り越えるにはどうしたらよいでしょう」と信徒たちに問いかけられた。
そして、そのために、「霊性の歴史の中で多くの師たちが与える助言に耳を傾けること」を勧められ、具体例として、聖イグナチオ・デ・ロヨラの著書「霊操」は「私たちの生き方を整えることを教え、キリスト教的召命とは、悪魔の旗の下ではなく、イエス・キリストの旗の下にとどまって戦う決意であり、困難の中にあっても、善を行う努力をすることだ、と教えてくれます」と有用性を解かれた。
また、「修道生活の父」と呼ばれる聖アントニオ修道院長(251年‐356年)の祈りの戦いについて、教皇は、アレキサンドリア司教の聖アタナシオが著書「聖アントニオ伝」で記したエピソードを紹介された。聖アントニオは35歳頃に、人生で最も深刻な霊的危機の一つを体験した。彼は危機に動揺しながらも、それに耐え抜き、平安を取り戻した時、主に向かって「主よ、どこにいらしたのですか。なぜ私の苦しみを終わらせるために、すぐに来てくださらなかったのですか」と詰問した。すると、イエスは答えられた。「アントニオ、私はそこにいたのだ。しかし、おまえが戦うのを見届けるために待っていたのだ」(聖アントニオ伝、10)。
さらに、教皇は祈りの戦いにまつわる話として、ご自身がアルゼンチンの教区で働いておられた時の体験を回想された。
毎日曜のミサに出たことのない労働者の男性の娘さんが危篤になった。それで、彼は70キロ離れた、アルゼンチンの守護、ルハンの聖母の巡礼聖堂に出掛けた。だが、聖堂に着いた時には、すでに午後10時になっており、門が閉じられていた。それでも、彼は門の柵を握りしめ、夜明けまで祈り続け、朝の6時に門が開くと、聖堂の中に入って聖母像に挨拶して帰宅した。そして家に着くと、娘さんはすっかり回復していた。
教皇は「彼の必死の思いが、祈りを通して、聖母の恵みを受け、聞き届けられたのです。聖母が聞き入れらたのです。私はその証人ー祈りは奇跡を起こします、なぜなら、祈りは、父として私たちをみる神の優しさに、直接届くからです」と説かれ、「私たちは、必要な時に恵みを求めますが、戦わずに、それを得ようとします… だが、祈りは戦い。主は私たちといつも共にいてくださいます」とされた。
そして、最後に次のように締めくくられた。
「イエスは私たちといつも共にいてくださいます。盲目になる時、私たちはイエスの存在を見ることができないが、見える時がきます… 私たちの人生の終わりに、これまでを振り返り、このように語ることができるでしょうー『私は、自分が一人だと思っていた。だが、そうではない。イエスが共におられる』と」。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
(2021.5.11 カトリック・あい)
教皇フランシスコは9日の正午の祈りで、エルサレム、アフガニスタン、コロンビアの情勢に触れ、これらの地に平和を希求された。
エルサレムのイスラム教とユダヤ教双方の聖地「神殿の丘」などでパレスチナ人とイスラエル警察の衝突が続き、多くの負傷者が出ている情勢を深く憂慮した教皇は、「この聖なる地が、暴力的な対立の場ではなく、出会いと、祈り、平和の場となる」ように強く願われた。そして、「この聖なる都の他宗教的・多文化的なアイデンティティーが尊重され、兄弟愛が争いに勝る」ように、可能な解決策を共に追求する努力を訴えられた。
イスラエルの現地メディアなどの報道によると、エルサレムのイスラム教とユダヤ教双方の聖地「神殿の丘」など複数の箇所で、パレスチナ人とイスラエル警察の衝突が続き、パレスチナ赤新月社(赤十字に相当)では パレスチナ人の負傷者だけで10日現在は331人に上っている。さらに、10日夕には パレスチナ自治区ガザからイスラエルに向けて約40発のロケット弾が発射され、一部はエルサレム郊外に着弾。ガザに近いイスラエル南部では、イスラエル人1人が軽傷を負った。ガザを実効支配するハマスが発射を認める声明を出した。イスラエル軍は報復としてガザを空爆。子ども9人を含む⒛人の死者が出ている。
また、教皇は、アフガニスタンの首都カブールで8日発生した爆破テロで犠牲になった多くの女子生徒たちを悼まれ、その一人ひとりと遺族のために祈るよう、信徒たちに呼びかけ、アフガニスタンの平和を神に祈られた。
コロンビアで、反政府デモ隊と治安部隊が衝突し、死傷者が出ている事にも触れ、正午に祈りに集った多くのコロンビア人たちと共に、同国の平和を祈られた。
(2021.5.9 Vatican News Devin Watkins)
教皇フランシスコは9日、復活節第六主日の正午の祈りの説教で、この日のミサで読まれたヨハネ福音書の箇所(15章9‐17節)を考察。
イエスが弟子たちに話された「私の愛にとどまりなさい」(15章9節)について、「この言葉は、他者に対する自己犠牲の奉仕を、最もよく表しています」と語られた。 そして、弟子たちだけでなく、私たちも、「ご自分の愛が私たちの中にあり、私たちの喜びがみたされる」ように、ご自分の愛の中にとどまるように招いておられる、と強調された。
*父の愛を知る
また教皇は、この愛は「愛である父なる神を源泉とし、 川のように、御子イエスを通して私たちに流れてきます… イエスが私たちにくださる愛は、父がご自分に注がれる愛と同じ、純粋で、無条件で、進んで与えられる愛です」とされ、 「この愛を私たちにくださることで、イエスは私たちを友のように扱い、私たちに父を知らせます。そして私たちを、この世に対するご自分の使命に世界の生活のための彼の同じ使命に関わるようになさいます」と説かれた。そして「イエスの戒めを守ることで、私たちは、イエスの愛に留まるのです」と付け加えられた。
*互いを愛する
ヨハネの福音書のこの箇所で、 イエスは弟子に対する戒めを次の言葉で要約されたー「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」。
教皇は、「『キリストのように愛する』とは、『自分たち自身にとどまることなく、困窮している人々に心を開く』こと。 『キリストとして愛する』とは、イエスが弟子たちの足を洗われた時のように、『兄弟姉妹に仕える』ことを意味します」と指摘。 「それは、私たちがいつもそうする用意をしていることを意味します。そして、『言葉』ではなく、『行い』で愛することを 意味するのです」 と強調された。
*暴力や支配ではなく、奉仕で
さらに教皇は、「私たちがキリストのように愛するために、お金、成功、権力への愛のような、世俗的な 愛を脇に置くことが求められます。このような愛は、私たちを、主の愛から遠ざけ、利己的で自己陶酔的で尊大にし、真の愛の退化、他人への虐待、愛する人を苦しめることにつながります」 とされ、多くの女性が苦しめられている「暴力的な不健全な愛」は「愛ではありません」と指摘された。
主が私たちを愛しておられるように愛する、ということは、「私たちのそばにいる人たちを正しく評価し、自由を尊重し、そのままの姿で愛することを意味します… それはまた、他の人たちを支配するという野心を克服し、自分自身を彼らに奉げることを意味するのです」とかさねて強調された。
*喜びを証しする人に
最後に、教皇は、私たちの喜びが満たされるように、イエスの愛にとどまることを、信徒たちに改めてお勧めになった。
「神に愛されていることを知る喜びは、私たちが自信を持って人生の試練に立ち向かうことを可能にし、危機を乗り越えることができるようにします。 私たちの真の証しは、この喜びを生きることにあります。喜びは真のキリスト教徒の特徴的なしるしだからです」 と語られた教皇は、次の祈りで、締めくくられた。
「聖母マリアが、私たちがイエスの愛にとどまり、すべての人への愛で成長し、復活され主の喜びを証しするのを助けてくださいますように」
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
教皇フランシスコと移民たちとの出会い 2017年10月1日 イタリア・ボローニャ訪問で
教皇フランシスコが6日、9月26日に予定するカトリック教会の「第107回世界移民・難民の日」に向け、メッセージを発表された。
メッセージで教皇は、回勅「Fratelli Tutti(兄弟の皆さん)」で訴えられた「新型コロナウイルスの世界的大感染終息後の世界が、消費主義や利己主義に再び陥ることなく、正義と、平和、受容性に満ちたものとなるように」との思いを改めて示された。
そして、「救いの歴史は最初から最後まで『私たち』を見つめ、その中心には『すべての人を一つにしてください』と祈り、死に、復活された『キリストの神秘』がありますが、今日、神が望まれたその『私たち』は壊され、傷つけられ、歪められてしまった」と指摘。
この傾向は、特に現在のコロナ危機の中で、これまでよりも顕著になっており、閉じた国家主義や極端な個人主義が「私たち」を分裂させたことに対し、代償を払うのは「私たち以外の人、つまり外国人、移民、疎外された人々」だが、「実際には、私たちは同じ船に乗っており、皆が他人同士ではなく、ただ一つの『私たち」となるように求められているのです」と訴えられた。
さらに、「いかなる時代においても、生きているべき『カトリック教会の普遍性』」を強調され、「外国人、移民、難民が提供する多様性との出会いと異文化対話の中で、私たちは教会として成長し、相互に豊かになる機会を与えられています」と語られた。
「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(マタイ福音書10章7-8節)という、イエス・キリストが弟子たちに託した使命に従い、「私たち一人ひとりが自分の置かれた共同体から出発し、より共にある教会を目指し取り組むように」と世界の信徒たちに呼びかけられた。
メッセージの最後に、教皇は「教会と共同体の『私たち』の中に迎え入れた難民に対する行為を祝福してください… 私たちの地球が、すべての兄弟姉妹の共通の家となるように」と神に祈られた。
(編集「カトリック・あい」)
File photo of dummies with press jackets (AFP or licensors)
(2021.5.4 カトリック・あい)
5月3日の「世界報道自由デー」にあたって、教皇フランシスコはご自分のツイッターで、世界の報道関係者に対して、共通善を力強いものにする人々の努力を一層助けるように呼びかけた。教皇はまた、世界の人々に「私たちができるすべてのこと、特にメディアの強力な手段によって、共通善を追求し、強くしていきましょう」と訴えられた。
世界の自由で人々の役に立つ報道を巡る環境は、現在も続く新型コロナウイルスるの世界的大感染の中で、一段と悪化している。世界のジャーナリストが参加する「国境なき記者団(RSF)」が先日発表した年次報告書によると、世界のいつくかの国で新型コロナウイルスの大感染に乗じて制定された法律が、報道の自由をさらに抑圧する方向で働いている。
今回の年次報告の「世界報道自由度の国別ランキング」では、世界180か国のうち自由度が最も低い国の一つが中国で、3年連続で180か国中第177位。「中国共産党(CCP)は、ネット検閲、監視、政治的宣伝活動を前例のない規模に拡大・強化している」とし、「中国政府は新型コロナウイルスの大感染に乗じて、オンライン情報の検閲をさらに強化した」と指摘している。
また報告によると、以前から「世界で最も多くのジャーナリストを投獄している国」とされる中国では、報道の自由を支持する人々120人以上が拘束されており、コロナ関連の報道を理由に少なくとも7人のジャーナリストが逮捕・勾留されたまま。さらに450人を超えるソーシャルメディア・ユーザーが「コロナに関する”虚言”を流した」として一時的に拘留された。
そして、「アジア太平洋地域ではいわゆる『検閲ウイルス』が中国外の地域を蝕んでおり、特に中国政府が国家安全法(香港国家安全維持法)を施行した香港(80位)ではジャーナリズムが深刻に脅かされている」とし、中国共産党による香港の「情報の全体主義的管理」は「重大な懸念」と警告している。
国別の報道自由度ランキングで、中国よりもさらに低く評価されたのはトルクメニスタン、北朝鮮、エリトリア。特に北朝鮮については、「隣国の中国から教えてもらうまでもなく検閲に長けており、情報と国民を独裁統治するその体制の下で、自由度はおおむね最下位を続けている」とし、「海外に拠点を置く報道機関のウェブサイトを見ただけで、国民は強制収容所に送られる可能性がある」としている。
またミャンマーに関しては、2月1日に発生した軍事クーデターで、報道の自由は10年前に後退したとし、ジャーナリストたちは「再び体系的な一斉検挙や検閲の恐怖に直面している。警察の目を欺きながら真実を正確かつ自由に報道するために、多くの記者は秘密裏に活動することを余儀なくされると考えられる」と指摘している。
Pope Francis during the Regina Coeli in St. Peter’s Square (Vatican Media)
(2021.5.2 Vatican News Linda Bordoni)
教皇フランシスコは2日、復活節第五主日の正午に祈りの説教で、「キリストを証しするために、私たちは日々の行いの中で、主において互いに結び合い、主にとどまる必要がある」と訴えられた。
*ぶどうの木が実をつけるためには…
説教で教皇は、この日のミサで読まれたヨハネによる福音書(15章1-8節)を取り上げ、「イエスは自分自身を真のぶどうの木にたとえ、私たちを、ご自身と繋がらずには生きることができない枝として語っておられます。そしてまた、イエスは私たちを必要としています… 枝は自分だけでは生きていけない。存在の源である,ぶどうの幹に完全に依存しているのです」と強調された。
この朗読の箇所で、イエスは弟子たちに「あなた方は、私(あるいは木)に繋がっている」と7回も繰り返されているが、これは、イエスが「この世を去って父に行かれる前に、ご自身といつまでも繋がっていられるのだと強調され、弟子たちを安心させたかったのです」と指摘。
この「繋がる」は、受け身的、あるいは主の懐でまどろむようなものではなく、生身でつながることを意味する、とされ、「イエスが示される『繋がる』は積極的、相互的な意味を持っています」と語られた。そして、枝はつるがなければ育たず、実をつけることもできないように、つるも、実は幹には育たないために、枝を必要とする、つまり、「互いを必要としている。実を付けるために、(幹と枝はつるで)互いに繋がっていなければならないのです」と説かれた。
*私たちはイエスを必要とし、イエスも私たちを必要としておられる
そして、まず第一に、私たちは主イエスを必要としており、「主の戒めを守る前に、至福の教えの前に、慈悲の業の前に、主に繋がり、主に留まる必要がある。イエスに留まらなければ、私たちは良いキリスト教徒にはなれません。私たちは、イエスと共に働くことで、すべてを行なえる」が、一方で、イエスもまた、私たちを必要としておられる、とされた。
「互いを必要としている」とは、大胆な考えのように思われるかも知れないが、では、「イエスは、どのような意味で私たちを必要とされているのでしょうか」と、教皇は信徒たちに問いかけられ、こう答えられた。
「イエスは私たちの証しを必要とされているのです… イエスが父のところに昇られて以後、言葉と行いで福音を宣べ伝え続けるのは、弟子たちの仕事、そして私たちの仕事になった。私たちは、主の愛を証しすることで、それを続けねばなりませんー『生むべき実は、愛』なのです」。さらに、キリストと繋がり続けることによってのみ、「私たちは、聖霊の賜物を受け、私たちの隣人と社会に、教会に善をなすことができるのです… 真のキリスト教的生活はキリストを証しすることです」と説かれた。
*私たちの生活の実りは祈りにかかっている
最後に教皇は、イエスの言葉ー「あなたがたが私に繋がっており、私の言葉があなたがたの内にとどまっているならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる」【ヨハネ福音書15章7節)を引用され、「私たちの人生が実り豊かなものになるかどうかは、祈りにかかっている」とされ、次のように結ばれた。
「私たちは主に願えます。私たちが、イエスのように考え、イエスのように行動し、イエスの目で世界を見、物事を見るように、そして、イエスがなさったように、最も貧しい人たち、最も苦しんでいる人たちを始めとする私たちの兄弟姉妹を愛し、イエスの心をもって愛し、善と慈愛、平和の果実を世界にもたらすように、と」>
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二=聖書の引用の日本語訳は「聖書・聖書協会共同訳」を使用)
A demonstration against the military coup in Myanmar’s Shan State ope Francis asks for prayers for peace in Myanmar
(2021.5.2 Vatican News Linda Bordoni )
聖母月に入って最初の日曜の2日、教皇フランシスコは正午の祈りで、毎日のロザリオの祈りの中で軍事紛争に苦しむミャンマーの人々のために、早期の平和回復へ聖母マリアに取り次ぎを願うよう、世界の信徒たちにお求めになった。
ミャンマーでは、2月1日の軍事クーデター以後、民主政治回復、平和回復を求める市民たちへの軍の治安部隊による武力弾圧で、800人近くが殺され、数千人が逮捕、拘禁されている。
こうした事態に対して教皇は、「この国の困難と危機の時に、私たち1人ひとりが聖母マリアに顔を向けます。そして、聖母マリアに主への取り次ぎをお願いしましょう。ミャンマーの平和回復に責任を持つすべての人々に、話し合い、和解し、そして平和の道を歩むことができるよう努めることを」。
教皇はこの国の指導者たちに、対話に参加するよう繰り返し呼びかけ、和解を祈ってきたが、いまだに平和への展望は見えないことに、深く心を痛められ、世界の信徒、そしてすべての一人、祈りに参加するよう求めておられる。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)