◎教皇連続講話「祈りについて」㉕観想的祈りは愛の道の案内役」

(2021.5.5 Vatican News  Devin Watkins)

 教皇フランシスコは5日、水曜恒例の一般謁見で「祈りについて」の講話を続けられ、「観想的な祈りが、私たちにとって、愛の道に沿ってイエスに従う助けとなる」ことを強調された。(2021.5.5 バチカン放送)以下、翻訳中)

 教皇は講話でまず、「人間の観想的な側面は、生活に風味を付ける『塩』のようなもの、とされ、「日の出や、春を迎えた木々の芽吹き、鳥のさえずり、また音楽など芸術の中での観想を通して、人は日常を深く味わうことができるのです」と語られた。

 そして、今は故人となられたカルロ・マリア・マルティーニ枢機卿が司教としてミラノに派遣されて最初に発表した司牧書簡のテーマが、「生活の観想的側面」だったことを思い起こされ、「人工的で機能中心の大都市に住む人々は、観想する能力を失ってしまう恐れがあります」とし、枢機卿の書簡もそれを念頭に置いたものだった、と暗に指摘された。

  続いて、観想的な祈りは「方法」であると同時に「あり方」でもあり、「観想的であることは、目よりも、心によるもの。そうした祈りは、信仰と愛の行為、神と私たちの間に息づくものとして、重要な役を果たします」とされ、また、「祈りは心を清め、まなざしを澄んだものにし、現実を、別の見方から捉えることを可能にする」と語られ、観想的な祈りによる心の変容を、アルスの聖なる主任司祭、ヨハネ・マリア・ヴィアンネ神父の証しを通して示した「カトリック教会のカテキズム」の一節を引用された。

 「念祷(観想的な祈り)とは、イエスへと注ぐ信仰のまなざしです。聖なる主任司祭がいたころ、聖櫃の前で祈っていたアルスの農夫は、『私はあのかたを見つめ、あのかたは私を見つめておられます』と話していました。…イエスのまなざしの光は私たちの心の目を照らし、あらゆることをご自分の真理とすべての人に対するご自分の憐みとに照らして眺めるように、と教えてくれます」(2715項)。

 教皇は「『私はあのかたを見つめ、あのかたは私を見つめておられます』ーこれこそが、愛に満ちた観想的祈り、多くの言葉を必要としない、最も親密な祈りの姿であり、必要なのはだ一つのまなざし、『私たちの命は大きな誠実な愛に包まれている』という、ただ一つの確信です」と強調された。

  そして、「イエスは、こうしたまなざしの師でした… イエスはその生涯で、神との親密な交わりの時間、空間、沈黙を欠かしたことがなく、天の御父とのその交わりはイエスにとって避けがたい試練をも超えさせるものでした」とされた。

 その一例として、福音書の「イエスの変容」を挙げられた。この箇所では、イエスがペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて高い山に登られた時、「彼らの目の前でイエスの姿が変わり、衣は真っ白に輝いた。それは、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほどだった」(マルコ福音書9章2-3節)と記述されている。教皇は、「このエピソードは、イエスの周囲に拒否や無理解が広がる中で、ご自身の受難と死と復活をはっきりと予告され始めた頃のこと… 無理解の闇の中で輝いた神々しい光、それは御子を満たし変容させる『御父の愛の光』でした」と説かれた。

 また、教皇は、「観想」を「行動」の対極に置こうとする”古色蒼然とした誘惑”に陥らないように警告され、「過去の霊能力師の中には祈りについてそうした二元論的な理解をする人もいました。しかし、イエス・キリストにおいても、福音においても、『観想』と『行動』の間に対立はありません。福音における唯一つの崇高な呼びかけは、愛の道に沿ってイエスに従うように、との呼びかけです。それがすべてのことの頂点であり、そうした意味で、慈善と感想は同義、同じことを表現しているのです」と強調された。

 講話の最後に教皇は、教会が生んだ偉大な神秘思想家で観想的祈りの達人、十字架の聖ヨハネの教えを思い起こされ、次のように締めくくられた。

 「純粋な愛の小さな行為は、他のあらゆる業を合わせたものよりも教会の役に立つ… 自我の思い込みではなく、祈りから生まれたもの、謙遜で純化されたものは、たとえそれが隠された、目立たない愛の行為であったとしても、キリスト教徒ができる素晴らしい偉業になるのです」。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二=聖書の日本語訳は「聖書・聖書協会共同訳」を使用)

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2021年5月5日