☩「私たちの人生は絶え間ない疑問とリスクにさらされるが、最終的には主に至る旅」主の公現の祭日ミサで

(2023.1.6 Vatican News  Devin Watkins)

 教皇フランシスコは6日、バチカンの聖ペトロ大聖堂で、主の公現の祭日のミサを司式され、ミサ中の説教で、東方の三博士のたどった道を振り返られ、「私たちの人生の旅も、絶え間ない疑問とリスクを伴うかも知れないが、最終的には主の崇敬に至る旅となる」と語られた。

 説教で、教皇は、私たちの日々の生活の中で主に出会う3 つの方法に焦点を当てられた。

 

*絶え間ない疑問に、真剣に向き合う

 

 一つ目の方法は、「絶え間ない疑問」について真剣に考えること。「東方の三博士の経験した刺激に満ちた冒険の旅は、信仰が自分の功績や考え、理論から生まれるものではないことを教えてくれます」とされた教皇は、「探究心は、私たちに”無限な存在”を切望し、文明の進歩を刺激する”超越的なもの”の探求を始めるよう促します」と指摘。「信仰の旅は、神の恵みによって、私たちが日々の決まった暮らしに心を惑わせ、他者との関係や、夢や恐れについて、真剣に考え始めたときに始まるのです」と説かれた。

 また教皇は、「日々の生活では、それらの問題をかき消そうとする多くの”精神安定剤”ー喜びの約束、絶え間ないニュース報道、さらには”健康に関する偶像崇拝”など、快適をもたらすものーを私たちに提供されます… 三博士が、そのようなものを受け入れていたら、主に出会うことはなかったでしょう。でも、神は、私たちの絶え間ない問いかけの中に、いつもおられます」とされた。

 

 

*旅のリスクを受け入れる

 

 二つ目の方法は、「旅をすることのリスク」を受け入れること。すべての巡礼の旅には、目的地に到着するため、克服しなければならない危険がつきものであり、「私たちが旅を始めなければ、私たちが、自分の存在の奥深くで、神の御顔、御言葉の素晴らしさに向き合わなければ、霊的な疑問を含む疑問は、失望と心の荒廃につながる可能性がある」としつつ、「私たちの信仰は、主との絶え間ない対話の中で続けられる旅。祈りの中で、私たちの暮らしのあらゆる側面を主に帰することになります」と語られた。

 そして、「個人的な献身やミサに参加し続けることも、私たちの信仰を成長させるには十分ではありません。外に持ち出し、神と兄弟姉妹に向かう絶え間ない旅の中で、信仰を生きる必要があるのです」と強調された。

*主への崇敬を取り戻す

 

 三つ目の方法は、「主への崇敬」に至ること。教皇は、「私たちの絶え間ない疑問、霊的な旅、信仰の実践は、すべて、主への崇敬に至るものであらねばなりません… 現代世界の”脇道”に逸れた私たちは、神を崇敬する素晴らしさを取り戻す必要があります」と説かれた。

 そして、私たちにとっての旅の目的は、「個人的な目標を達成することでも、自分自身が栄光を受けることでもない。神に出会うこと」であり、そのための歩みを続ければ、「暗闇の中でも輝く光ー明けの明星のようなイエスの光、正義の太陽、地球のすべての人々を愛される神の慈悲深い輝きーを見つけることができるでしょう 」と語られた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2023年1月7日

☩「救い主の誕生が平和をもたらすように」ー東方教会の降誕祭を前に、ウクライナの人々に

教皇フランシスコ 2023年1月6日のお告げの祈り教皇フランシスコ 2023年1月6日のお告げの祈り  (ANSA)

(2023.1.6 バチカン放送)

 教皇フランシスコは6日、1月7日に降誕祭を迎える東方教会の人々にお祝いを述べるとともに、特にウクライナの平和を祈られた。

 教皇は6日、「主の公現」の祭日の正午の祈りを唱えられ、信徒たちへのあいさつで、7日に降誕祭を迎える東方教会の人々にお祝いを述べながら、救い主の誕生が平和への道をもたらすよう、次のようにアピールされた。

 「明日(1月7日)、主の降誕を祝う東方教会のカトリックまた正教会の共同体の皆さんに、降誕祭のお祝いを心より申し上げます。

 特に苦しむウクライナ国民の兄弟姉妹にあいさつを届けたいと思います。救い主の誕生が慰めをもたらし、希望を呼び覚ましますように。停戦と平和にようやく導くための具体的な歩みを促しますように。

 ウクライナと平和のために、たくさん祈りましょう」

(2023.1.6 Vatican News)

 Razumkov Centreの2018年現在の調べによると、ウクライナでは、全人口の65パーセントが東方教会の信者、9パーセントがウクライナ・ギリシャカトリックの信者とされている。.

(編集「カトリック・あい」)

2023年1月7日

◎教皇連続講話「識別について」最終回「識別の教師としての聖母マリアに目を向けよう」

 (2023.1.4 Vatican News staff reporter)

*霊的な伴奏”

 教皇フランシスコは4日の一般謁見で、昨年8月から続けて来られた「識別について」をテーマとする連続講話の最終回を、「識別は、私たちの人生に対する主の御心についての健全な理解を得る手順。この手順において私たち一人一人の助けとなる要素の 1 つが、”霊的に共に歩むこと”です」という言葉で締めくくられた。

 教皇はまず、神の恵みについて「神の恵みは常にあるがままの私たちに働きます。ですから、裁かれることを恐れて、私たちの最も脆い、あるいは敏感な側面をさらすことをためらうべきではありません」とされ、「ある意味で私たちの脆さは、実際には『真の豊かさ』になり得るのです」と指摘。「聖霊に従順であれば、”霊的に共に歩むこと”は、私たちと主の関係を考える上での誤解、重大な誤解を明らかにするのに役立ちます」と説かれた。

*神の恵みが働いている

さらに教皇は、「私たちが心の中で聖霊の動きを他の人と共有し、それによって自分自身の弱さに立ち向かう霊的な導きが、私たちを主に引き寄せるのにいかに役立つか」について語られ、「私たちはしばしば、人生で真に進むべき方向と、霊的に進むべき方向を伴った神の恩寵の私たちの心の中での静かな働きを、よりはっきりと識別することができます」と述べ、イエスとの出会いの中で、心を開き、憐れみと赦しを経験した多くの人々のことを、私たちが福音書の中で、どのように読んだかに注目された。

 そして、「識別の手順を踏むことが、私たちが驚きをもって、自分自身についての異なった物の見方ー自分の中に常にある善なるもののしるしーを見つけるのを助け、私たちが目にする否定的な側面にばかり注意を払う傾向に打ち勝つ助けになるのです」と語られた。

*共に旅をする

結論として教皇は、「”私たちは、キリストの体の一部であり、御父の息子と娘であり、聖霊の命にあずかる者であるであり、それゆえに、”霊的に共に歩むこと”が、完全への私たちの旅の共同体的性質をいかに反映することができるか。そのためには、私たちは”旅する共同体”の一員になることが不可欠であり、自分だけで歩もうとしないことが重要です」とされ、「識別の教師として、私たちは聖母マリアに目を向けることができます。マリアは私たちをイエスに導き、恐れるのではなく、イエスとイエスの永遠の命の言葉を信頼するよう、強く勧めるのです」と締めくくられた。

*ウクライナを忘れない

 教皇フランシスコは、一般謁見の最後に、使徒的祝福を授ける前の言葉の終わりに、世界のすべての人に対して、戦争で荒廃した ウクライナに住む人々と「愛情のこもった親密さと連帯」を堅持するよう促され、「ウクライナの人々の苦しみ、特に子供たちが心身に受けている傷を思い起しつつ、彼らのためにたゆまぬ祈りを捧げましょう」と呼びかけられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條 俊二)

 

 

2023年1月5日

☩「ベネディクト16世は教理を説く”偉大な師”」教皇、新年初の一般謁見で

(20223.1.4   Vatican News staff reporter)

 

(2023.1.4 バチカン放送)

 教皇は謁見中の講話の冒頭で、ベネディクト16世について次のように語られた。

 「講話を始める前に、今、隣の大聖堂でベネディクト16世に敬意を表している人たちと、皆で心を合わせたいと思います。そして、”教理解説の偉大な達人”であった名誉教皇に思いを向けたいと思います。 ベネディクト16世の明晰で品格ある思想は、自己言及的なものではなく、教会的なものでした。名誉教皇が常に、私たちがイエスと出会えるように導こうとされたからです。十字架上で死に、復活し、生きておられる主イエスこそ、ベネディクト16世が私たちの手を取って、導こうとされた目的地でした。私たちがキリストにおいて信じる喜びと生きる希望を見出すことができるよう助けを願いましょう」。

 また、謁見の後半、教皇はドイツ語圏からの巡礼者への挨拶でも、「私たちの愛する故ベネディクト16世の言葉をもって、皆さんにこのことを思い起してもらいたいと思いますー『信じる者は決して独りではありません』。神を御父として持つ人は、多くの兄弟姉妹を持っています。信仰の共同体がいかに普遍的で、死をもっても、それが終わらないことを、ここ数日、私たちは特別な形で体験しています。神が皆さんを祝福してくださいますように」。

 (翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2023年1月4日

☩「ベネディクト16世の賜物を私たちは神に感謝する」教皇、年頭の正午の祈りで

 

 

 

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2023年1月1日

☩神の母聖マリアの主日ミサ説教「新年の始まりに、マリアが私たちに希望をくださる」

(2023.1.1  Vatican News  Christopher Wells )

 教皇フランシスコは新年の始まり、1日に行われた「神の母聖マリア」の主日のミサの説教で、羊飼いたちが行ったように、この世を真に新しくすることのできる秘密の所に行こうとする「熱意」と、それを目の当たりにする「驚き」を再発見するよう、信者たちに促された。そして、マリアが母であることは、「信仰の基本的な所与」であるとともに、「驚くべき事実」であり、「神には母がおられ、そうして私たち人間と永遠に結ばれているのです」と語られた。

 そして、「この真実は、心から愛された『アベマリアの祈り』を通して、聖なる神の民の心と知性にほとんど入っているもの。この祈りに、神の母はいつも応えてくださいます… 私たちの切なる願いを聞いてくださいます。御子を腕に抱き、私たちを祝福し、肉体となられた神の優しい愛を私たちにもたらてくださいます」と説かれた。

 教皇はさらに、「一言で言えば、マリアは私たちに希望を与えてくださいます」とされ、「神の母と私たち自身の祝祭で始まる年は、希望への鍵はマリアであり、希望の交唱は「神の聖母」という祈りだということを教えてくれます」と述べられ、「今日、私たちは聖母に、私たちの最愛の名誉教皇ベネディクト16世を託し、名誉教皇のこの世から神への旅を、聖母が共にしてくださるように願います」とされた。

 また教皇は信者たちに対して、「苦しみの中にあり、祈る力を失った聖母の息子たち、娘たちのために、そして、紛争と戦争に苦しんでいるすべての人たちのために、特別に祈るように」と求められた。「平和を手にしていないすべての人たちのために、平和の君をこの世にもたらされた女性、マリアに祈りを捧げましょう」と呼びかけられ、私たちの中に神ー貧しくなられ、貧しい人たちと共にいることを喜びとされる神ーを見つけたベツレヘムの羊飼いたちに導かれるように、勧められた。

 続けて教皇は、朗読されたルカ福音書の箇所に登場する羊飼いたちの、お生まれになったイエスの所に「急いで行って」「探し当てた」という、二つの極めて単純な行為に注目され、まず、彼らが「急いでいった」ことについて、「もし私たちが神を歓迎し、神の平和を歓迎したいなら、ぼんやり立っていたり、もっと状況がよくなるまで待つようなことはしないでしょう」と指摘。それよりも、「奉仕する謙虚さ、他者の世話をする勇気をもって、他者をどのようにして助けるか、を考えるようにしましょう」と信者たちに勧められた。

 もう一つの羊飼いたちの行為、飼い葉桶の中に寝かされているイエスを「探し当てたた」ことについて、教皇は「重要なのは、彼らがイエスを探し当てたこと… 探すこと、周りを見回すこと、そして母が抱いて飼い葉桶に寝かせた幼子の前で足を止めること、です」とされた。

 説教の最後に教皇は、「今日、主が私たちの間に来られ、神の聖母が主を私たちの目の前に置かれました.」とされ、羊飼いたちがしたように、私たちも「急いで行くことの熱意」と「探し当て、目の当たりにすることの驚き」をもって、今年を真に「新しい」ものにする秘密を再発見するように、と信者たちを促された。.

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

 

2023年1月1日

☩「神が私たちに送ってくださるものを愛をもって受け取る」一般謁見の説教で

Pope Francis holds the weekly General AudiencePope Francis holds the weekly General Audience 

 そして、このようなルカ福音書の細かな描写が神の「親密さ、思いやり、優しさ」を完全に明らかにしている、とされ、「神は、ご自身の真実と正義を私たちに押し付けるのではなく、愛と優しさをもって、私たちをご自身に引き寄せようとしているのです… 愛は、神が私たちを惹きつけようとするなさり方のカギとなるものです」と強調された。

 さらに、「神の愛は、残念ながら、人間の愛によくあるような所有欲や利己的な愛ではありません。神の愛は純粋な贈り物、純粋な恵みです。 それはすべて、私たちのためだけ、私たちの利益のためのものです」と説かれた。

 続けて教皇は、「飼い葉桶」のもう一つの側面として、「貧困ーあらゆる世俗的な虚栄心を捨て去ることーがあります」と指摘された。

 そして、聖フランシスコ・サレジオに言及され、「彼は、『飼い葉桶』が『すべての物を完全に捨て去ること』を教えている、としています。『飼い葉桶』という粗末なベビー・ベッドが、優しさと厳しさ、愛と悲しみ、甘さと厳しさの両方を兼ね備えているからです」と述べられた。

 さらに、「『飼い葉桶』が強く示しているように、神の愛は、病的なほど甘いものではありません… クリスマスは確かに喜びとお祝いの時でますが、簡潔と厳粛の時でもあるのです」と説かれた。

 説教の最後に教皇は、このような粗末な環境の中でのキリストの誕生は、「神が私たちに送ってくださる『楽しいこと』と『そうでないこと』の両方を進んで受け入れるように、私たち一人一人を招くもの」である、とされた。

 そして、「私たちは、何も望まず、何も拒否せず、神が私たちに送ってくださるものすべてを受け入れ、常に、ただ愛をもって、そうすることに努めるべきです。それは、神が私たちを愛され、私たちの善のみを希望されているからです」と締めくくられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2022年12月28日

☩聖ステファノ殉教者祝日の正午の祈り「私たちも愛と赦しの中で成長できるように」

教皇フランシスコ 2022年12月26日 聖ステファノ祝日のお告げの祈り教皇フランシスコ 2022年12月26日 聖ステファノ祝日のお告げの祈り 

(2022.12.26 バチカン放送)

 教皇フランシスコは26日、聖ステファノの祝日の正午の祈りの集いで、初代教会の助祭、教会の最初の殉教者であるこの聖人の証しをテーマに、次のように説教をされた。

 教皇の説教の要旨は次のとおり。

**********

 昨日、私たちは主の降誕を祝った。典礼はこの出来事をより深く受け入れるために、それを祝う期間を1月1日まで広げ、主の降誕の8日間としています。

 しかし、驚くことに、この日々には、聖なる殉教者たちのいくつかの劇的な生涯が記念されるのです。たとえば今日記念されるのは、キリスト教の最初の殉教者、聖ステファノです。翌々日には、ヘロデ王の命によって殺害された幼子殉教者たちが、記念されます。このように典礼は、私たちを明るい光や、食卓、贈り物といった世界から引き離そうとしているように思われまずが、なぜでしょうか。

 それは、主の降誕は一人の王の誕生の”おとぎ話”ではないからです。私たちを悪から解放するため、エゴイズム、罪、死といった、私たちの悪をご自分に引き受けられる、救い主の訪れだからです。殉教者たちは、主に最も似た存在である。「殉教者」という言葉は、証人を意味します。つまり、自身の生き方を通して、悪に対し、慈しみをもって勝利したイエスを、私たちに見せてくれる人々なのです。現代にも殉教者は数多くいます。今日、イエスを証しし、迫害を受けたこれらの兄弟姉妹のために祈りましょう。

 では、私たちはイエスを証ししているでしょうか。どうしたらより良い証しができるのでしょうか。聖ステファノの生き方は、それを教えてくれます。

 使徒言行録は、ステファノがエルサレムの共同体の中で選ばれた七人の助祭の一人であった、と伝えています。彼らは食事の世話や分配などの奉仕のために聖別された人々でした。しかし、ステファノの活動はこうした奉仕にとどまらず、出会う人にイエスを語り、神の御言葉と使徒たちの教えに照らして信仰を分かち合いました。

 御言葉を受け入れ、その素晴らしさを伝え、「イエスとの出会いが、いかに人生を変容させるか」を語るーそれがステファノの証しのもう一つの側面でした。これはステファノにとって非常に大切なことであり、そのためには迫害者の脅しにも屈しませんでした。

 「慈愛と福音を告げ知らせること」。これがステファノの証しでした。彼の最も偉大な証しは、その慈愛と福音の告知を一致させることができた点にあります。ステファノは、死の間際に、イエスに倣い、自分を殺そうとする者たちを赦しました。その時、彼は最も偉大な証しを残したのです。

 これが、私たちの問いに対する解答です。私たちは、兄弟たちへの慈愛の業と、神の御言葉への忠実、そして赦しを通して、より良い証しをすることができます。赦しは、私たちが他者に慈愛を真に実践しているか、イエスのみことばを生きているかを、自ずから物語るもの。赦しは、人に与えることのできる最も偉大な恵みの一つです。それは、私たちが「イエスに属する者」であると同時に、「イエスに赦された者」だからです。

 お生まれになったばかりのイエスに赦すことのできる心を願いましょう。自分を傷つけた人のために祈り、心を開き、和解のための一歩をしるす力を願いましょう。私たちが慈愛のうちに、御言葉への愛と赦しの中で成長できるよう、殉教者の元后マリアが助けてくださいますように。

(編集「カトリック・あい」)

2022年12月27日

☩「主の誕生は平和の誕生だ」教皇、主の降誕の”Urbi et Orbi(都市と世界へ)祝福とメッセージ

(2022.12.25 Vatican News  Thaddeus Jones)

   教皇フランシスコは現地時間25日正午(日本時間同日午後8時)、聖ペトロ大聖堂の中央バルコニーから広場に集まった数千人の巡礼者たちに、恒例のクリスマス・メッセージと”Urbi et Orbi(都市=ローマ=と世界へ)の祝福を送られた。

 メッセージで教皇は、イエスの誕生が私たちの暮らしと世界における平和への道をいかに示しているかを強調。私たちの心に平和が生まれ、全ての人とそれを分かちあうことができるよう、幼子イエスの御顔をよく見つめ、神の愛に深く感動することを勧められた。

 

*私たちと共におられる神

 教皇はまず、この日のミサで読まれた福音(ルカ2章1-17節)を思い起こされ、私たちが「ベツレヘムに眼差しを向ける」この日がもたらす喜び、そして、マリアが月満ちた時、宿屋には泊まる所がなかったために、主は馬小屋でこの世に来られ、飼い葉桶に置かれたことを強調され、「真の光、すべての人を教え導く光が、この世界に来たのです」と指摘。

 さらに、「イエスは、私たちの中で生まれました。 イエスは、私たちと共におられる神です。私たちの日々の暮らしを共にされ、私たちの喜びと悲しみ、希望と恐れなど、あらゆることを私たちと分かち合うために来られます… 主は、無力な子供として… 貧しい人々の中でも貧しい方として、私たちの所においでになり、暖かい避難場を得るために心の扉をたたかれます」と語られた。

 

*神が与えてくださったしるしを見よ

 続けて教皇は、クリスマスの真のメッセージに注意を向けられ、私たちのためにお生まれになった神の御子の素晴らしい出来事よりも、”お祭り”と贈り物に皆が気を取られる、この時期の「色彩と喧騒」から超然とするように、信徒たちを促された。

 そして、「主の栄光に周りを照らされたベツレヘムの羊飼いたちのように、私たちも、神が与えてくださったしるしを見に行くことができますように。 私たちが心の眠気に、主の誕生を祝うことを忘れさせる浅薄な休日のきらびやかさに、打ち勝つことができますように」と願われた。

*平和の誕生

また教皇は、「主の誕生は平和の誕生だ」という大教皇、聖レオ一世の言葉を引用され、「イエスは真に私たちの平和であり、世界が与えることのできないもの。イエス・キリストは平和の道でもあります。 イエスは、その顕現、情熱、死、そして復活によって、『敵意と戦争の暗い影に閉ざされ、抑圧された世界』から、『開かれた、友愛と平和の中で自由に生きることのできる世界』への道を開かれました。 その道を進みましょう!」と呼びかけられた。

 さらに、「イエスに従うことは、私たちにのしかかり、障害となりうる重荷をなくすことを意味します。重荷とは、貪欲、プライド、権力の渇望、偽善、そして、クリスマスの恵みから私たちを退け、平和の道の入り口をふさぐ昔から今も変わらぬ問題、です。このような現実の結果が、『戦争の冷たい風』が今日も、人類を傷つけているのです」と嘆かれた。

 そして、「クリスマス、イエスの誕生、そして平和を願うなら、ベツレヘムに眼差しを向け、私たちのために生まれた御子の顔をよく見つめましょう! そして、その幼く、無邪気な顔の中に、世界中で平和を切望しているすべての子供たちの顔を見るようにしましょう」と信徒たちに求められた。

*ウクライナの人々、世界中の苦しむ人たちを助け、和平実現の努力を

 

 そのうえで、教皇は現実の世界に目を転じられ、「今、実際に暗闇と寒さを経験しているウクライナの兄弟姉妹の顔を見つめるように」と、世界のすべての人に呼びかけられた。

 そして主に対して、「苦しんでいるすべての人々を支援するために連帯の具体的な行動をするように私たちを奮い立たせ、武器の雷鳴を静め、この無意味な戦争を即座に終わらせる力を持つ人々の心に働きかけてくださいますように!」と祈られた。

 また、教皇ご自身が繰り返し「第三次世界大戦」と呼ばれている、ウクライナにとどまらず世界中で起きている深刻な「平和の飢饉」が続いていることを批判された。

 特に、何年も続く紛争に苦しむシリアの人々と、ここ数か月で暴力と死傷者が急増している聖地イスラエルに住む人々を思い思い起こされ、主の誕生を目の当たりにしたイスラエルで、イスラエル人とパレスチナ人の相互信頼を築く新たな対話と努力がなされるように、そして「幼子イエスが中東に住むキリスト教共同体を支え、それぞれの国々が異なる信仰を持つ人々が兄弟的共生の素晴らしさを体験できるますように」と祈られた。

 またレバノンの人々を思い起され、国際社会に対し、生き残りの闘いに手を貸すように、サヘル地域(サハラ砂漠の南縁部)をキリストの光が照らし、この地域の紛争を乗り越え、人々の間の平和的共存が再び根付くように、と願われ、さらに、イエメンでの永続的な休戦、ミャンマーとイランでの和解、そしてすべての流血の終結を祈られた。

 またアメリカ大陸においても、特に長年苦しんできたハイチの人々に言及され、、政治当局と大陸中の善意を持つすべての人々が協力して、社会的および政治的緊張を克服するように祈られた。

 

*食料が浪費される一方、戦争が食料の分配を妨げている

 教皇は、ベツレヘムが「パンの家」を意味することを思い起され、世界で多くの食料が浪費され、武器の増強に資源が費やされている今、世界中の飢えている子供たちにもっと関心を持つように、世界の人々に呼びかけられた。そして、穀物輸出国であるウクライナでの戦争が世界の食糧事情を悪化させていること、特にアフガニスタンとアフリカの角などで飢饉が深刻化していることを指摘。ウクライナなどで続いている戦争が、すでに飢えで苦しんでいる人々への食糧分配を困難にしていること、また、食糧を武器として使っている現状を嘆かれた。

 そして、「私たちは『平和の君』から学び、政治的責任を負っている人々を始めすべての人々が、食料をもっぱら平和の道具にすることに専念せねばなりません」と訴え、また、現在の経済危機の中で失業者や貧しい人々が苦しんでいることを思い起こされ、連帯して手を差し伸べるように呼びかけられた。

*避難民や難民に心を開こう

 教皇はさらに、「イエスが無関心と敵意に満ちた世界においでになった時のように、今も外国人や貧しい人々が拒絶に遭っています。快適さ、暖かさ、食べ物を求めて私たちの扉をたたく避難民や難民のために『心の余地』を持つように、すべての人に願われ、「社会の片隅に追いやられた人々、一人暮らしの人々、取り残される危険に遭っている孤児や高齢者、受刑者たちを忘れないようにしましょう」とも呼びかけられた。

 メッセージ最後に教皇は、”ベツレヘム”がどのように、「神の簡素さ」を、「賢く学識のある人々にではなく、取るに足らないと思われていた人々、純粋で開かれた心の人々に、ご自身を表されたこと」を示しているかを説かれ、羊飼いたちのように、私たちが、私たちの救いのために人となられた神の考えられないような出来事に感嘆するように願われ、次のように締めくくられた。

 「すべての善の源である神は、イエスの中でご自分を貧しい者とされ、私たち貧しい人間への施しを求めておられます… 神の愛に深く心を動かされるままにしようではありませんか。 そして、ご自身の完全において私たちに分け前を与えるために、ご自身の栄光を脱ぎ捨てられたイエスに従いましょう」。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2022年12月25日

☩「『飼い葉桶』の幼子イエスは、神の親密さ、清貧、具体性を示している」ー「主の降誕」夜半ミサで

 

*人類の貪欲さを拒絶する「飼い葉桶」

 さらに教皇は、「『飼い葉桶』は人類の『消費への貪欲さ』を象徴しているとも言えます。なぜなら、飼い葉桶は、食物をより早く消費することを可能にする”餌箱”として機能するからです」とされ、「動物たちが家畜小屋で餌を食べる一方で、私たち世界の男女は、富と権力に飢え、隣人や兄弟姉妹までも食べ尽くしています」と語られ、そうした貪欲さが、「世界に戦争と不正が蔓延し、人間の尊厳と自由、特に子供たちの尊厳と自由に悪影響を及ぼしていること」を嘆かれた。

 しかし、神の子は、そうした状態を「拒絶し拒否する飼い葉桶」にしっかりと置かれ、人間が最悪の状況にあっても神がおられることを明確にされたことを強調。「の飼い葉桶の中でキリストが生まれ、私たちは、キリストが私たちのそばにおられるのに気づきます。 キリストは、私たちの”食べ物”になるために、”餌箱”に来られたのです」と語られた。そして、「神は父であり、子供たちをむさぼり食うのではなく、神の優しい愛で私たちを養い、謙虚に私たちのそばにきてくださいます」と付け加えられた.

 また教皇は、「私たち一人一人が、自分の苦しみや孤独に神が寄り添ってくださることを、深く心に留めることができます… 神の子の最初のメッセージである『クリスマスの飼い葉桶』は、神が私たちと共におられることを告げています。 神は、私たちを愛し、私たちを求めておられます」とされ、「イエスが私たちを救おうとされない悪や罪はありません。 そして彼にはそれができます。 クリスマスは神が私たちの近くにいることを意味しますー 自信が再び生まれますように!」と願われた。

 

*イエスの貧しさの中に見出される真の豊かさ

 続けて教皇は、「飼い葉桶」で表現された「貧困」のメッセージに目を向けられた。「飼い葉桶には、愛以外にほとんど何もありませんでした… 飼い葉桶の貧しさは、人生の真の富がどこにあるかを示しています。それは、お金や権力ではなく、人間関係や人間関係です」と指摘。

 「イエスは、私たちが得ることのできる最大の富。特に私たちが世界の貧しい人々の中で、イエスの貧しさを愛し、奉仕することを学ぶときに、得られます」とされ、「ベツレヘムの馬小屋の素晴らしさをを受け入れるために、世俗的な快適な暖かさから離れるのは容易ではありません。しかし、貧しい人々がいなければ真のクリスマスではないことを、思い起こしてください」と信徒たちに求められた。

 

*イエスは厳しい状態に置かれた人間を受け入れられ

 また教皇は、飼い葉桶に置かれたイエスに示されている「具体性」に注目され、「飼い葉桶に置かれた子供は、印象的で粗末に扱われているようにさえ見えるでしょう… しかし、それは、神が本当に人となられたことを思い起させてくれるのです。イエスの人生のあらゆる瞬間において、イエスの私たちへの愛は、常に明白で具体的であり、粗末な木の(飼い葉おけの)感触と私たち人間の存在の厳しさを受け入れたのです」と説かれた。

 そして、「飼い葉桶に置かれた時、イエスは、マリアによって優しく包まれました。これは、私たちにも、周りで最も困っている人たちへの愛を身にまとうように、と願っておられることを示しています」と語られた。

 

*イエスは私たちの信仰に肉と命を与える

 最後に教皇は、「絶望を感じている人々に、新たな希望が生まれる」ようにするため、他者のために「何か良いことをしてクリスマスを祝うように」とすべての人に呼びかけられ、次のように祈られた。

 「イエスよ。あなたが飼い葉桶に置かれているのが見えます… あなたが私たちのそばにおられるように見えます。 主よ、ありがとうございます! 真の富は物ではなく、人にあり、何よりも貧しい人々にあることを私たちに教えるために、貧しい姿でおいでになります。もしも私たちが貧しい人々の中にあなたを見、奉仕することをしなかったらなら、 お赦しください。私たちはあなたを具体的な存在であると知っています。それは、あなたの私たちへの愛は明白だからです。 私たちの信仰に肉と命が与えられるように助けてください」。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

(2022.12.24 バチカン放送)

 教皇フランシスコによる、「主の降誕」夜半ミサの説教原稿全文の暫定訳は次のとおり。

**********

この夜は私たちの生活にまだ何かを訴えているでしょうか。イエスの降誕から2千年が経ち、多くの降誕祭が装飾や贈り物と共に祝われ、私たちが記念する神秘が多大な消費主義に包まれた後、ここで一つの危険に行き当たります。クリスマスについてわたしたちは多くのことを知っていても、その意味を忘れているのです。では、どのようにしてクリスマスの意味を再び見出すことができるでしょうか。特に、それをどこに探しに行けばいいのでしょうか。イエスの誕生の福音は、まさにそのために記されています。それは私たちの手を取り、神がお望みになる場所へ私たちを連れ戻すのです。

イエスの誕生の福音は、私たちと同じような状況から始まります。すべての人がある記念すべき重要な出来事に没頭し、あわただしくしています。それは非常に大がかりな住民登録で、多くの準備を必要とするものでした。その意味で、当時の雰囲気は、今日のクリスマスにおいて私たちを包む雰囲気とどこか似たものでした。しかし、福音のストーリーは、世俗的な光景から遠ざかりながら、強調したい別の場面をクローズアップしていくのです。

場面は一見価値のない小さな道具の上に止まります。それは福音の中で3回も言及され、その上にストーリーの登場人物たちを集めるものです。まず、マリアがイエスを「飼い葉桶に寝かせ」(ルカ2,7)ます。次に天使たちが「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」(同2,12)の存在を羊飼いたちに告げます。そこで、羊飼いたちは、「飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子」(同2,16)を探し当てるのです。

「飼い葉桶」、降誕祭の意味を再び取り戻すにはこれを見つめなければなりません。しかし、「飼い葉桶」はなぜこれほどにも重要なのでしょうか。それは、ほかでもない、キリストがこの世という場面に入る時にたずさえているしるしだからです。それはキリストがご自分を現された時のマニフェスト、歴史を再生するために、神がお生まれになった時の手段だからです。では、「飼い葉桶」を通して神がわたしたちに伝えたいことは何でしょうか。それは少なくとも3つあります。「寄り添い」、「貧しさ」、「具体性」です。

1.「寄り添い」。「飼い葉桶」は、餌を家畜の口の近くに持っていき、それを早く食べさせるために用いるものです。こうして、それは人類の姿を象徴します。それは消費における貪欲さです。なぜなら、家畜小屋の動物たちが餌を食べている間に、世の中の人間たちは権力と富に飢え、まわりの人々、彼らの兄弟たちをもむさぼるからです。なんと多くの戦争があることでしょう。いまだ今日、どれだけの場所で尊厳と自由が侵害されていることでしょうか。

人間の貪欲さの犠牲になるのは、いつでも主に不安定で弱い立場の人々です。このクリスマスにも、お金と権力と享楽に飢えた人類は、イエスに「場所がなかった」(参照 同2,7)ように、最も小さき人々、多くの生まれてくる子たち、貧しい人々、忘れられた人々に場所を与えようとしません。わたしは特に戦争や、貧困、不正義の犠牲となった子どもたちを思います。

しかし、イエスはまさにそこに、切り捨てられ、見捨てられた「飼い葉桶」の幼子となって来るのです。このベツレヘムの幼子の中に、すべての子どもたちがいます。それは、子どもたちの眼差しで、生活や政治や歴史を見つめるようにとの招きでもあるのです。

拒絶された、居心地の悪い「飼い葉桶」に、神は落ち着きます。神がそこにおいでになったのは、そこに人類の問題があるからです。それは所有と消費への焦りと貪欲から生まれた無関心です。キリストはそこにお生まれになり、私たちはその飼い葉桶の中にキリストを間近に見出すのです。キリストは食べ物をむさぼる場所に、私たちの食べ物となるために来られました。神はご自分の子らをむさぼる父ではありません。

むしろ、イエスの中におられる御父は、私たちをご自分の子とされ、その優しさで養ってくださいます。神はわたしたちの心に触れ、歴史を変える唯一の力は愛であると教えるためにやって来られます。わたしたちから距離をとることのない、力強く、寄り添われる、謙遜な神、天の玉座におられた方が、飼い葉桶に寝かされています。

兄弟姉妹の皆さん、神は今晩あなたの近くに来られます。それは神にとってあなたが大切だからです。飼い葉桶から、命の食べ物となって、イエスはあなたに言われます。「あなたがいろいろな出来事に疲れ切り、もしあなたが罪の意識と自分が不十分であるという思いに蝕まれているなら、もしあなたが正義に飢え渇いているなら、神である私はあなたと共にいる。私はあなたの暮らしを知っている。私はそれをあの飼い葉桶の中で体験した。あなたの惨めさと身の上に起きたことを知っている。あなたのそばにいつもいて、これからもいることを伝えるために、私は生まれた」。

幼子となられた神の最初のメッセージである、ご降誕の飼い葉桶は、神がわたしたちと共におられ、私たちを愛し、私たちを探されるということを伝えています。元気を出しましょう。恐れや、諦め、失望に負けてはなりません。神は飼い葉桶の中に、まさにあなたがどん底と思っていた場所に、あなたを再び立ち上がらせるためにお生まれになりました。イエスが救いを望まれない、救うことができない、いかなる悪も罪もありません。降誕祭とは、神が近くにいるという意味です。信頼を取り戻しましょう。

2.ベツレヘムの飼い葉桶は、私たちへの「寄り添い」と共に、「貧しさ」を伝えています。事実、飼い葉桶のまわりには、ほとんど何もありません。茂みと何匹かの動物、それくらいです。人々は宿屋で暖をとり、寒い家畜小屋を宿とすることはありませんでした。

それでも、イエスはそこにお生まれになりました。飼い葉桶は、まわりには何もなくても、そこにイエスを愛する人々がいたことを思い出させます。それはマリアとヨセフ 、そして羊飼いたちです。皆が貧しい人たちであり、富と大きな可能性を持たなくとも、愛情と驚きにあふれていました。貧しい飼い葉桶は真のいのちの豊かさを表していました。それはお金や権力ではなく、絆であり、人々でした。

その中で最も中心的な人物、一番の豊かさは、イエスその人でした。しかし、私たちはイエスのそばにいたいと思いますか? イエスに近づき、その貧しさを愛せますか? それとも、自分の関心の中に楽をしてとどまっている方がよいですか? 特に、イエスがいる場所、すなわち、私たちの世界の貧しい飼い葉桶を訪ねたいと思いますか?

イエスがおられるのはそこなのです。そして、私たちは貧しいイエスを礼拝し、貧しい人々の中におられるイエスに奉仕する教会であるようにと召されているのです。それは、ある聖なる司教が言ったとおりです。「教会は不正義の構造を変えるための努力を支え祝福し、ただ一つの条件を提示する。それは、社会、経済、政治の変容が真に貧しい人々のための恩恵となることである」(O.A.ロメロ、新年の司牧メッセージ、1980.1.1)。

確かに、ベツレヘムの洞窟の簡素な美しさを抱擁するために、世俗的なぬくもりを捨てることは容易ではないでしょう。しかし、貧しい人々を除いては真のクリスマスではありえないことを思い出しましょう。貧しい人々を考えずに降誕祭を祝うこともできます。しかしそれはイエスの降誕祭ではありません。兄弟姉妹の皆さん、降誕において神は貧しい存在です。慈愛の心がよみがえりますように。

3.最後のところにやってきました。飼い葉桶はわたしたちに「具体性」を伝えます。実際、飼い葉桶に寝かされた幼子の姿は、わたしたちを驚かせる、ある意味生々しいまでの光景です。それは神がまさに肉となられたことを思い出させます。こうなると、神に対する論理も思考も敬虔な感情も十分ではありません。貧しく生まれ、貧しく生き、貧しく亡くなられるであろうイエスは、ご自身の貧しさについて多くを語ることはありませんでしたが、わたしたちのためにその貧しさを徹底的に貫かれました。飼い葉桶から十字架に至るまで、イエスのわたしたちへの愛は明白で具体的でした。その誕生から死に至るまで、大工の息子は木の荒い手触り、人間の生きることの厳しさを包容しました。わたしたちを口先だけで愛されたのではありません。その愛は真摯なものでした。

イエスは外見だけに満足しませんでした。イエスが人となられたのは、適当な意図のためではありません。飼い葉桶の中に生まれたイエスは、口先や見せかけではない、礼拝と慈愛の業からなる具体的な信仰を求めました。飼い葉桶に裸で生まれ、やがて裸で十字架につけられるイエスは、わたしたちに真理を求めます。物事の真の姿を見つめ、言い訳や、正当化、偽善を、飼い葉桶の足もとに捨てるようにと命じます。

マリアによって布に優しくくるまれたイエスは、私たちを愛で包むことを望まれます。神は見せかけではなく、具体性を求められます。何か良いことを行わずして、このクリスマスを終わらせてはいけません。降誕祭がイエスのお祝い、イエスの誕生日であるからには、イエスに喜ばれる贈り物をしようではありませんか。ご降誕において、神は具体的です。神の名のもと、希望を失った人に、少しでもそれを取り戻させることができますように。

飼い葉桶の中に寝かされたイエスよ、私たちはあなたを見つめます。あなたはこれほどにも「近く」に、いつもわたしたちに寄り添ってくださいます。主よ、感謝します。私たちは貧しいあなたを見つめます。あなたの貧しさは、真の豊かさとは、物の中ではなく、人々の中に、特に貧しい人々の中にあることをわたしたちに教えます。私たちが貧しい人々の中にいるあなたの存在に気づかず、あなたに奉仕できなかったことがあったなら、どうかお赦しください。私たちはあなたの具体性を見つめます。なぜならあなたの私たちへの愛が具体的だからです。私たちの信仰に肉と命をもたらすことができるよう、助けてください。アーメン。

(編集「カトリック・あい」)

2022年12月25日

☩「感謝、回心、平和が降誕祭の贈り物であるように」教皇、バチカン関係者への挨拶で

(2022.12.22 バチカン放送)

 降誕祭を目前にした22日、教皇フランシスコは、教皇庁で働く枢機卿・司教ら高位聖職者、および諸機関の責任者ら高位聖職者および諸機関の代表に挨拶をおくられた。

 この中で教皇は、「人となられた神の御子の謙遜は、私たち人間の現実を見つめるための学び舎です」と述べ、「イエスが貧しさを選ばれたように、私たちも聖性の歩みの妨げとなる余計なものすべてを捨て、本質的な生き方に立ち返るよう招かれています」と話された。

 「私たちが過ぎた一年を振り返るにあたり、主がもたらしてくださった良いものから出発すべき」と語られた教皇は、「私たちのみじめさを思う時、神の愛がなければ押しつぶされてしまうでしょう」と、神への「感謝」の大切さを強調。

 そして、「神に感謝する習慣がなくては、私たちはただ自分の過ちを書き連ねるだけで、主が与えてくださる毎日の恵みという一番大切なものを陰らせてしまうでしょう」と話された。

 「これらすべての良いものの中には、私たちの『回心』も含まれていることを願う」と教皇は述べつつ、「私たちにとって最悪なのは『自分にはもう回心すべきことは何もない』と思い込むことです」と注意を促された。

 教皇は、カトリック教会における今年の重要な出来事として「第2バチカン公会議開幕から60年を記念したこと」を挙げ、公会議はまさに全教会にとって回心の大きな機会だった、と回想。

 「福音が変わるのではない。私たちがそれをより良く理解するようになる」という聖ヨハネ23世の言葉を教皇は引用しながら、公会議がもたらした回心は、福音をより良く理解し、それをこの歴史の瞬間において息づき、働くものにするという挑戦だった、と振り返られた。

 この回心の歩みは終わったわけではない、と述べた教皇は、現在教会が進めているシノドス性についての考察は、私たちに刺激を与え続けるキリストのメッセージを理解する歩みには終わりがないことを表している、と話された。

 最後に、教皇は「平和」の必要を強調。「今ほど私たちが平和への大きな願いを感じていることはありません」と述べつつ、苦しむウクライナをはじめ、世界の様々な場所で進行中の多くの紛争に目を向けられた。

 「戦争と暴力は常に一つの敗北です。宗教は紛争を煽ることに力を貸してはならない。福音は常に平和の福音であり、いかなる神の名においても『聖なる』戦争とは呼ぶことはできません」と述べられた。

 また、「死、分裂、争い、無実の人の苦しみがある場所に私たちが見出すことができるのは、十字架につけられたキリストのみです」とも語られた。

 教皇は、「平和の文化の構築は、人民間や国家間だけでなく、私たち一人ひとりの心の中から始まる」、「自分たちのそばにいる兄弟姉妹に対するあらゆる憎しみや怨恨を心から取り去ることで、私たちは平和に貢献でき、またそのようにすべきです」と語られた。

 「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい」(エフェソの信徒への手紙4章31-32節)と使徒聖パウロの言葉を引用され、 聖パウロが言う「親切」「憐れみ」「赦し」を、「平和を築くために私たちが持っている薬」として示された。

 そして、教皇は、「親切」は人間関係において常に善い方法を選ぶこと、「憐れみ」は他者が持つ限界を受け入れること、「赦し」は神が常に私たちを赦し、再び立ち上がらせ、新しい可能性を与えてくださったように、私たちも互いにそうすること、です、と説かれた。

 「神は幼子となられ、この幼子は大人となり、自ら十字架につけられた。十字架につけられた者ほど弱い存在はないが、その弱さにおいて神の全能を表された。赦しには常に神の全能さが働いている」と述べた教皇は、「感謝」「回心」「平和」がこの降誕祭の贈り物であるように、と願われた。

(編集「カトリック・あい」)

In his annual Christmas greeting to Officials of the Curia, Pope Francis asks them to always be grateful for the graces God grants us, to never think they are no longer in need of conversion, and to contribute to peace in every way.
Exchanging traditional Christmas greetings with members of the Roman Curia on Thursday, Pope Francis delivered a seven-point speech in which he asked them to never take the Lord’s graces for granted, to always walk a path of conversion, and to be peacemakers at a time in which we have never “felt so great a desire for peace.”

Reflecting on how Jesus’ birth in a simple and poor manger is a lesson in seeing things as they really are, he said “each of us is called to return to what is essential in our own lives, to discard all that is superfluous and a potential hindrance on the path of holiness.”

Gratitude

The Pope went on to call for what he described as the most important interior attitude: gratitude.

“Only when we are conscious of the Lord’s goodness to us can we also give a name to the evil that we have experienced or endured. The realization of our poverty, without the realization of God’s love, would crush us,” he said.

“Without a constant exercise of gratitude, we would end up simply cataloguing our failures and lose sight of what counts most: the graces that the Lord grants us each day.”

Conversion

Reflecting on an eventful year, the Holy Father said that “before anything else, we want to thank the Lord for all His blessings. Yet we hope that among those blessings is that of our conversion.”

“Conversion is a never-ending story. The worst thing that could happen to us is to think that we are no longer in need of conversion, either as individuals or as a community.”

He said that to be converted “is to learn ever anew how to take the Gospel message seriously and to put it into practice in our lives. It is not simply about avoiding evil but doing all the good that we can.”

“Where the Gospel is concerned, we are always like children needing to learn. The illusion that we have learned everything makes us fall into spiritual pride.”

Pope Francis recalled the conversion inspired by the Second Vatican Council exactly 60 years ago, a conversion that sparked an “effort to understand the Gospel more fully and to make it relevant, living, and effective in our time.”

The challenge of synodality

The Holy Father said that this process is far from complete and noted that the current reflection on the Church’s synodality highlights how the process of understanding Christ’s message never ends, but constantly challenges us to keep Christ’s message alive and not imprison it.

He stressed the need for vigilance, warning those present that it would naïve to think evil is permanently uprooted: “In short order, it comes back under a new guise.”

“Before, it [evil] appeared rough and violent, now it shows up as elegant and refined. We need to realize that and once again to unmask it.”

“That is how these ‘elegant demons’ are: they enter smoothly, without our even being conscious of them. Only the daily practice of the examination of conscience can enable us to be aware of them,” he said.

Thus, he encouraged those present to always put Christ at the centre, warning against the temptation of putting “too much trust in ourselves, our strategies, and our programmes.” He also warned them of the temptation of thinking “we are safe, better than others, no longer in need of conversion.”

He added, “Some of our failings, also as a Church, are a forceful summons to put Christ back at the centre; for, as Jesus says, ‘Whoever is not with me is against me, and whoever does not gather with me scatters’.”

Peace

Pope Francis dedicated the last two points of his discourse to the subject of peace at a time in which, he said, we think of war-torn Ukraine, but also of the many ongoing conflicts in different parts of our world.

“War and violence are always a catastrophe. Religion must not lend itself to fueling conflicts. The Gospel is always a Gospel of peace, and in the name of no God can one declare a war to be ‘holy’.”

“Wherever death, division, conflict, and innocent suffering reign, there we can recognize only the crucified Jesus,” he said, noting that “the culture of peace is not built up solely between peoples and nations. It begins in the heart of every one of us.”

“Anguished as we are by the spread of wars and violence, we can and must make our own contribution to peace by striving to uproot from our hearts all hatred and resentment towards the brothers and sisters with whom we live.”

The Pope invited the Curia to banish bitterness, anger, and resentment bitterness from their hearts: “If we truly want the din of war to cease and give way to peace, then each of us ought to begin with himself or herself.”

Kindliness, Mercy, Forgiveness

And he pointed to the “medicine” indicated by Saint Paul for building peace: kindliness, mercy, and forgiveness.

Kindliness, he said “means always choosing goodness in our way of relating with one another”; mercy, “accepting the fact that others also have their limits”; and forgiveness, “always giving others a second chance, in the realization that we become saints by fits and starts.”

“God does this with every one of us; He keeps forgiving us; He keeps putting us back on our feet; He always gives us another chance. We ought to do the same.”

“May gratitude, conversion and peace,” Pope Francis concluded, “be the gifts of this Christmas.”

2022年12月23日

☩「主の降誕を迎え、戦争の悲劇の重荷を負わされているウクライナの子供たちのために祈ろう」一般謁見で

Pope Francis met several Ukrainian refugee children on SundayPope Francis met several Ukrainian refugee children on Sunday  (VATICAN MEDIA Divisione Foto)

 

2022年12月21日

◎教皇連続講話「識別について」⑬「識別を通して、圧倒的な神の愛を感じる」

Pope Francis during the Wednesday General AudiencePope Francis during the Wednesday General Audience  (Vatican Media)

(2022.12.21 Vatican News  Francesca Merlo)

 教皇フランシスコは21日の水曜恒例一般謁見で、「識別について」の連続講話をさらに続けられ、「識別は、私たちが計画していない時にも起きることがある。そして、それを通して、私たちは、神の”抗しがたい魅力あふれた”愛を感じるのです」と強調された。

 そして「このような体験をした人は、『識別するというのは、何と複雑なことなんだろう』と思われる知れません」とされたうえで、「実際に、複雑なのが人生であり、それを読み取る方法を学ばなければ、人生を無駄にし、最後には失望に終わるやり方で人生を送る危険を冒すことになります」と注意された。

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*識別は一人で行うものではない

 この日の連続講話で教皇はまず、私たち一人一人が「何をしたいか、したくないか」など、単純なことを常に識別していることを考察した最初の講話を思い起され、「人生は常に、私たちに選択肢を提示します。そして、もし意識して選択をしないなら、結局は、自分の行きたくないところに連れて行かれてしまう人生になってしまうのです」と語られた。

 だが、「識別は、決して一人で行うものではありません」とされたうえで、そのことを頭において、霊的生活に欠かすことのできないいくつかのポイントを示された。

 その一つは、「神の言葉」と「教会の教義」を”査定”すること。「そうすることは、私たちの心を掻き立てるものを読み取り、神の声を認識し、私たちの注意を引くと思われる他の声と聴き分けるのを助けてくれますが、結局は私たちを混乱させてしまいます」とされた教皇は、「神の声は、私たちに何かを押し付けようとするものではありません。思慮深く、私たちに敬意を払い、平和を生み出してくれるもの。そして平和のうちにのみ、私たちは自分自身の心の中に深く入り、主がそこに置いてくださった本当の願いを知ることができるのです」と指摘。

 

*神の言葉は”生きている存在”

 そして、「神の言葉は、信徒にとって、単なる”朗読用のテキスト”ではありません。”生きている存在”です。聖書に書かれた言葉との感情のこもった関係は、主イエスとの感情のこもった関係へと私たちを導きます」とされ、これは「当然のことと考えてはならないもう 一つの、欠かすことのできない助けです」と述べられた。

 続けて教皇は、「私たちは、神についてしばしば誤った考えを持つことがあります。神を”不機嫌で厳格な裁判官”であり、私たちを現行犯で捕まえる用意をしておられる、と。そうではありません。イエスは、神が私たちへの思いやりと優しさに満ち、私たちのためにご自身を犠牲にする用意をされていることを明らかにされたのです」と説かれた。

 

*主との関係は、日々成長する友との関係

 さらに、「主と共にある私たちの人生は、”日々成長する友との関係”です。神との友情は心を変えることができます」とされ、「敬虔さは、神の父性を認識する能力を私たちに与える聖霊の偉大な賜物の1つです」と語られた。そして、「私たちには、いつも愛してくれる、やさしく、愛情にあふれた父がいます。そのことを経験すれば、私たちの心は溶け、疑い、恐れ、自分は無価値な人間だという気持ちが解消されます。この愛は、私たちを圧倒するほどです」と強調された。

 講話の最後に、教皇は、「聖務日課」で日々の主な祈りが、「神よ、私を救い出してください。主よ、急いで助けてください」(詩編70章2節)で始められることに注意を向けられた。

*識別の目標は、私たちの人生で神が働いておられる”救い”の認識

 そして、「『主よ、助けてください!』。それは、自分一人では先に進むことができない、愛することができない、生きていくことができないからです。この救いを求める祈願は、私たちの存在の深みから流れ出る、抑えることのできない要求です」とされた教皇は、「識別の目標は、神が私の人生で働いておられる『救い』を認識することにあります。そのような認識をもつことは、『自分は決して一人ではないのだ』ということを思い知らせてくれます。私が苦しんでいるのは、”賭け金”を高くしているから。 主が私たちに与えてくださるこれらの助けがあれば、恐れる必要はありません」と、信徒たちを励まして、講話を締めくくられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2022年12月21日

☩「神には、危機を『新たな始まりの機会』に変えることが可能」待降節第四主日の正午の祈り

 

*打ち砕かれた夢と新たな地平

 そして、教皇は、この福音から私たちが今、学ぶことのできる教訓について述べられた。

 「私たち皆が自分の人生の目標を持っており、望んだとおりにいかなくても、クリスマスの時期にそのことを思いめぐらすことがよくありますが、ヨセフは、自分が持っていた夢が打ち砕かれた、そのことを理解する方法を、私たちに示しています… 夢が砕かれた時、怒りや孤独感など否定的な感情に屈してはなりません。それは間違った対応です。私たちは人生における驚き、その驚きが自分にとっての危機であっても、その意味をよく考え、受け入れること。危機に出会った時、衝動的に判断するのではなく、ヨセフのように、すべてを思いめぐらす必要があります」。

 最後に教皇は、「私たちが危機のただ中にあっても、心の扉を門戸を開いていれば、”危機を夢に変える専門家”である神は、その危機に介入することができるのです」とされ、次のように締めくくられた。

 「神は、危機を『新しい地平』へと開かれます。おそらく私たちが期待するようにではありませんが、神がご存じのなさり方で。 神の”地平”は意外性のあるものですが、私たちの地平よりもはるかに壮大で美しい!」

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2022年12月18日

☩「キリスト生誕の喜びの中で、ウクライナで苦しむ子供たちを忘れてはならない」待降節第四主日に

A heart-shaped balloon with the Ukrainian flag on itA heart-shaped balloon with the Ukrainian flag on it  (Vatican Media)

(2022.12.18 Vatican News  Devin Watkins ) 

  教皇フランシスコは18日、待降節第四主日に、バチカンのサンタ マルタ小児科診療所の支援を受けている子供たち、両親、ボランティアスタッフと面会された際、間もなく迎えるキリストの誕生を平和の中で祝うことができないウクライナの多くの子供たちのために祈るように求められた。

 教皇は彼らに、「ウクライナの子供たちを忘れてはなりません… 今、ウクライナではとてもたくさんの子供たちが戦争に苦しんでいます。そして他の世界各地でも子供たちが不正に苦しんでいます」と語られた。

 そして、面が以上のとなったパウロ6世 ホールに置かれたウクライナの国旗を指さし、そこに書かれた「平和」という言葉に注意を向けられ、「主がクリスマスを共に平和に祝う喜びを私たちに与えてくださるのですから、私たちも苦しんでいる人たちのことを考え、彼らのために共に祈りましょう」と促された。

 また教皇は、サンピエトロ広場での正午の祈りでも、ウクライナの平和のため、ウクライナで続いている戦争で苦しむすべての人々のために、次のように祈られた。

 「聖母マリアにお願いします…ウクライナでの戦争を止めることのできる人々の心に触れてくだるように。私たちがこの戦争で苦しむ人たち、特に子供やお年寄り、病いの人たちを忘れないように。 祈りましょう、(彼らのために)祈りましょう!」

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2022年12月18日