☩「『飼い葉桶』の幼子イエスは、神の親密さ、清貧、具体性を示している」ー「主の降誕」夜半ミサで

 

*人類の貪欲さを拒絶する「飼い葉桶」

 さらに教皇は、「『飼い葉桶』は人類の『消費への貪欲さ』を象徴しているとも言えます。なぜなら、飼い葉桶は、食物をより早く消費することを可能にする”餌箱”として機能するからです」とされ、「動物たちが家畜小屋で餌を食べる一方で、私たち世界の男女は、富と権力に飢え、隣人や兄弟姉妹までも食べ尽くしています」と語られ、そうした貪欲さが、「世界に戦争と不正が蔓延し、人間の尊厳と自由、特に子供たちの尊厳と自由に悪影響を及ぼしていること」を嘆かれた。

 しかし、神の子は、そうした状態を「拒絶し拒否する飼い葉桶」にしっかりと置かれ、人間が最悪の状況にあっても神がおられることを明確にされたことを強調。「の飼い葉桶の中でキリストが生まれ、私たちは、キリストが私たちのそばにおられるのに気づきます。 キリストは、私たちの”食べ物”になるために、”餌箱”に来られたのです」と語られた。そして、「神は父であり、子供たちをむさぼり食うのではなく、神の優しい愛で私たちを養い、謙虚に私たちのそばにきてくださいます」と付け加えられた.

 また教皇は、「私たち一人一人が、自分の苦しみや孤独に神が寄り添ってくださることを、深く心に留めることができます… 神の子の最初のメッセージである『クリスマスの飼い葉桶』は、神が私たちと共におられることを告げています。 神は、私たちを愛し、私たちを求めておられます」とされ、「イエスが私たちを救おうとされない悪や罪はありません。 そして彼にはそれができます。 クリスマスは神が私たちの近くにいることを意味しますー 自信が再び生まれますように!」と願われた。

 

*イエスの貧しさの中に見出される真の豊かさ

 続けて教皇は、「飼い葉桶」で表現された「貧困」のメッセージに目を向けられた。「飼い葉桶には、愛以外にほとんど何もありませんでした… 飼い葉桶の貧しさは、人生の真の富がどこにあるかを示しています。それは、お金や権力ではなく、人間関係や人間関係です」と指摘。

 「イエスは、私たちが得ることのできる最大の富。特に私たちが世界の貧しい人々の中で、イエスの貧しさを愛し、奉仕することを学ぶときに、得られます」とされ、「ベツレヘムの馬小屋の素晴らしさをを受け入れるために、世俗的な快適な暖かさから離れるのは容易ではありません。しかし、貧しい人々がいなければ真のクリスマスではないことを、思い起こしてください」と信徒たちに求められた。

 

*イエスは厳しい状態に置かれた人間を受け入れられ

 また教皇は、飼い葉桶に置かれたイエスに示されている「具体性」に注目され、「飼い葉桶に置かれた子供は、印象的で粗末に扱われているようにさえ見えるでしょう… しかし、それは、神が本当に人となられたことを思い起させてくれるのです。イエスの人生のあらゆる瞬間において、イエスの私たちへの愛は、常に明白で具体的であり、粗末な木の(飼い葉おけの)感触と私たち人間の存在の厳しさを受け入れたのです」と説かれた。

 そして、「飼い葉桶に置かれた時、イエスは、マリアによって優しく包まれました。これは、私たちにも、周りで最も困っている人たちへの愛を身にまとうように、と願っておられることを示しています」と語られた。

 

*イエスは私たちの信仰に肉と命を与える

 最後に教皇は、「絶望を感じている人々に、新たな希望が生まれる」ようにするため、他者のために「何か良いことをしてクリスマスを祝うように」とすべての人に呼びかけられ、次のように祈られた。

 「イエスよ。あなたが飼い葉桶に置かれているのが見えます… あなたが私たちのそばにおられるように見えます。 主よ、ありがとうございます! 真の富は物ではなく、人にあり、何よりも貧しい人々にあることを私たちに教えるために、貧しい姿でおいでになります。もしも私たちが貧しい人々の中にあなたを見、奉仕することをしなかったらなら、 お赦しください。私たちはあなたを具体的な存在であると知っています。それは、あなたの私たちへの愛は明白だからです。 私たちの信仰に肉と命が与えられるように助けてください」。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

(2022.12.24 バチカン放送)

 教皇フランシスコによる、「主の降誕」夜半ミサの説教原稿全文の暫定訳は次のとおり。

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この夜は私たちの生活にまだ何かを訴えているでしょうか。イエスの降誕から2千年が経ち、多くの降誕祭が装飾や贈り物と共に祝われ、私たちが記念する神秘が多大な消費主義に包まれた後、ここで一つの危険に行き当たります。クリスマスについてわたしたちは多くのことを知っていても、その意味を忘れているのです。では、どのようにしてクリスマスの意味を再び見出すことができるでしょうか。特に、それをどこに探しに行けばいいのでしょうか。イエスの誕生の福音は、まさにそのために記されています。それは私たちの手を取り、神がお望みになる場所へ私たちを連れ戻すのです。

イエスの誕生の福音は、私たちと同じような状況から始まります。すべての人がある記念すべき重要な出来事に没頭し、あわただしくしています。それは非常に大がかりな住民登録で、多くの準備を必要とするものでした。その意味で、当時の雰囲気は、今日のクリスマスにおいて私たちを包む雰囲気とどこか似たものでした。しかし、福音のストーリーは、世俗的な光景から遠ざかりながら、強調したい別の場面をクローズアップしていくのです。

場面は一見価値のない小さな道具の上に止まります。それは福音の中で3回も言及され、その上にストーリーの登場人物たちを集めるものです。まず、マリアがイエスを「飼い葉桶に寝かせ」(ルカ2,7)ます。次に天使たちが「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」(同2,12)の存在を羊飼いたちに告げます。そこで、羊飼いたちは、「飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子」(同2,16)を探し当てるのです。

「飼い葉桶」、降誕祭の意味を再び取り戻すにはこれを見つめなければなりません。しかし、「飼い葉桶」はなぜこれほどにも重要なのでしょうか。それは、ほかでもない、キリストがこの世という場面に入る時にたずさえているしるしだからです。それはキリストがご自分を現された時のマニフェスト、歴史を再生するために、神がお生まれになった時の手段だからです。では、「飼い葉桶」を通して神がわたしたちに伝えたいことは何でしょうか。それは少なくとも3つあります。「寄り添い」、「貧しさ」、「具体性」です。

1.「寄り添い」。「飼い葉桶」は、餌を家畜の口の近くに持っていき、それを早く食べさせるために用いるものです。こうして、それは人類の姿を象徴します。それは消費における貪欲さです。なぜなら、家畜小屋の動物たちが餌を食べている間に、世の中の人間たちは権力と富に飢え、まわりの人々、彼らの兄弟たちをもむさぼるからです。なんと多くの戦争があることでしょう。いまだ今日、どれだけの場所で尊厳と自由が侵害されていることでしょうか。

人間の貪欲さの犠牲になるのは、いつでも主に不安定で弱い立場の人々です。このクリスマスにも、お金と権力と享楽に飢えた人類は、イエスに「場所がなかった」(参照 同2,7)ように、最も小さき人々、多くの生まれてくる子たち、貧しい人々、忘れられた人々に場所を与えようとしません。わたしは特に戦争や、貧困、不正義の犠牲となった子どもたちを思います。

しかし、イエスはまさにそこに、切り捨てられ、見捨てられた「飼い葉桶」の幼子となって来るのです。このベツレヘムの幼子の中に、すべての子どもたちがいます。それは、子どもたちの眼差しで、生活や政治や歴史を見つめるようにとの招きでもあるのです。

拒絶された、居心地の悪い「飼い葉桶」に、神は落ち着きます。神がそこにおいでになったのは、そこに人類の問題があるからです。それは所有と消費への焦りと貪欲から生まれた無関心です。キリストはそこにお生まれになり、私たちはその飼い葉桶の中にキリストを間近に見出すのです。キリストは食べ物をむさぼる場所に、私たちの食べ物となるために来られました。神はご自分の子らをむさぼる父ではありません。

むしろ、イエスの中におられる御父は、私たちをご自分の子とされ、その優しさで養ってくださいます。神はわたしたちの心に触れ、歴史を変える唯一の力は愛であると教えるためにやって来られます。わたしたちから距離をとることのない、力強く、寄り添われる、謙遜な神、天の玉座におられた方が、飼い葉桶に寝かされています。

兄弟姉妹の皆さん、神は今晩あなたの近くに来られます。それは神にとってあなたが大切だからです。飼い葉桶から、命の食べ物となって、イエスはあなたに言われます。「あなたがいろいろな出来事に疲れ切り、もしあなたが罪の意識と自分が不十分であるという思いに蝕まれているなら、もしあなたが正義に飢え渇いているなら、神である私はあなたと共にいる。私はあなたの暮らしを知っている。私はそれをあの飼い葉桶の中で体験した。あなたの惨めさと身の上に起きたことを知っている。あなたのそばにいつもいて、これからもいることを伝えるために、私は生まれた」。

幼子となられた神の最初のメッセージである、ご降誕の飼い葉桶は、神がわたしたちと共におられ、私たちを愛し、私たちを探されるということを伝えています。元気を出しましょう。恐れや、諦め、失望に負けてはなりません。神は飼い葉桶の中に、まさにあなたがどん底と思っていた場所に、あなたを再び立ち上がらせるためにお生まれになりました。イエスが救いを望まれない、救うことができない、いかなる悪も罪もありません。降誕祭とは、神が近くにいるという意味です。信頼を取り戻しましょう。

2.ベツレヘムの飼い葉桶は、私たちへの「寄り添い」と共に、「貧しさ」を伝えています。事実、飼い葉桶のまわりには、ほとんど何もありません。茂みと何匹かの動物、それくらいです。人々は宿屋で暖をとり、寒い家畜小屋を宿とすることはありませんでした。

それでも、イエスはそこにお生まれになりました。飼い葉桶は、まわりには何もなくても、そこにイエスを愛する人々がいたことを思い出させます。それはマリアとヨセフ 、そして羊飼いたちです。皆が貧しい人たちであり、富と大きな可能性を持たなくとも、愛情と驚きにあふれていました。貧しい飼い葉桶は真のいのちの豊かさを表していました。それはお金や権力ではなく、絆であり、人々でした。

その中で最も中心的な人物、一番の豊かさは、イエスその人でした。しかし、私たちはイエスのそばにいたいと思いますか? イエスに近づき、その貧しさを愛せますか? それとも、自分の関心の中に楽をしてとどまっている方がよいですか? 特に、イエスがいる場所、すなわち、私たちの世界の貧しい飼い葉桶を訪ねたいと思いますか?

イエスがおられるのはそこなのです。そして、私たちは貧しいイエスを礼拝し、貧しい人々の中におられるイエスに奉仕する教会であるようにと召されているのです。それは、ある聖なる司教が言ったとおりです。「教会は不正義の構造を変えるための努力を支え祝福し、ただ一つの条件を提示する。それは、社会、経済、政治の変容が真に貧しい人々のための恩恵となることである」(O.A.ロメロ、新年の司牧メッセージ、1980.1.1)。

確かに、ベツレヘムの洞窟の簡素な美しさを抱擁するために、世俗的なぬくもりを捨てることは容易ではないでしょう。しかし、貧しい人々を除いては真のクリスマスではありえないことを思い出しましょう。貧しい人々を考えずに降誕祭を祝うこともできます。しかしそれはイエスの降誕祭ではありません。兄弟姉妹の皆さん、降誕において神は貧しい存在です。慈愛の心がよみがえりますように。

3.最後のところにやってきました。飼い葉桶はわたしたちに「具体性」を伝えます。実際、飼い葉桶に寝かされた幼子の姿は、わたしたちを驚かせる、ある意味生々しいまでの光景です。それは神がまさに肉となられたことを思い出させます。こうなると、神に対する論理も思考も敬虔な感情も十分ではありません。貧しく生まれ、貧しく生き、貧しく亡くなられるであろうイエスは、ご自身の貧しさについて多くを語ることはありませんでしたが、わたしたちのためにその貧しさを徹底的に貫かれました。飼い葉桶から十字架に至るまで、イエスのわたしたちへの愛は明白で具体的でした。その誕生から死に至るまで、大工の息子は木の荒い手触り、人間の生きることの厳しさを包容しました。わたしたちを口先だけで愛されたのではありません。その愛は真摯なものでした。

イエスは外見だけに満足しませんでした。イエスが人となられたのは、適当な意図のためではありません。飼い葉桶の中に生まれたイエスは、口先や見せかけではない、礼拝と慈愛の業からなる具体的な信仰を求めました。飼い葉桶に裸で生まれ、やがて裸で十字架につけられるイエスは、わたしたちに真理を求めます。物事の真の姿を見つめ、言い訳や、正当化、偽善を、飼い葉桶の足もとに捨てるようにと命じます。

マリアによって布に優しくくるまれたイエスは、私たちを愛で包むことを望まれます。神は見せかけではなく、具体性を求められます。何か良いことを行わずして、このクリスマスを終わらせてはいけません。降誕祭がイエスのお祝い、イエスの誕生日であるからには、イエスに喜ばれる贈り物をしようではありませんか。ご降誕において、神は具体的です。神の名のもと、希望を失った人に、少しでもそれを取り戻させることができますように。

飼い葉桶の中に寝かされたイエスよ、私たちはあなたを見つめます。あなたはこれほどにも「近く」に、いつもわたしたちに寄り添ってくださいます。主よ、感謝します。私たちは貧しいあなたを見つめます。あなたの貧しさは、真の豊かさとは、物の中ではなく、人々の中に、特に貧しい人々の中にあることをわたしたちに教えます。私たちが貧しい人々の中にいるあなたの存在に気づかず、あなたに奉仕できなかったことがあったなら、どうかお赦しください。私たちはあなたの具体性を見つめます。なぜならあなたの私たちへの愛が具体的だからです。私たちの信仰に肉と命をもたらすことができるよう、助けてください。アーメン。

(編集「カトリック・あい」)

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2022年12月25日