空爆で施設の一部が破壊され、18人が死亡した、ガザ地区のギリシャ正教会、聖ポルフィリウス教会 (ANSA)
(2023.10.22 バチカン放送)
教皇フランシスコは22日の正午の祈りの集いで、イスラエルとパレスチナ双方に対して、対話と人道支援の確保、人質の解放を求める呼びかけをされた。
緊迫した状態が続いているガザ地区でのイスラエルとパレスチナの武力衝突に、教皇は深い憂慮と苦悩を表明され、「苦しむすべての人々、特に人質となっている人々、犠牲者と遺族、負傷者たち」に思いをはせ、祈られた。
また、ガザ地区の深刻な人道的状況がさらに悪化することを懸念されるとともに、先週、英国国教会系の病院とギリシャ正教会が攻撃を受けたことに深い悲しみを示され、イスラエル、パレスチナ、そして世界の国々に、両者の対話の場を作ること、人道支援を継続的に実施すること、人質を解放することに全力を尽くすよう、改めて強く願われた。
そして、ロシアの一方的な軍事侵略で一年半以上も深刻な人的、物的被害を被り続けているウクライナにも思いをはせられ、「ウクライナにおける戦争をはじめ、世界各地のあらゆる戦争は、敗北です。戦争は常に敗北であり、人類の兄弟愛を破壊するもの。兄弟たちよ、戦争をやめてください。やめてください」と訴えられた。
(編集「カトリック・あい」)
Pope Francis gives Angelus address (VATICAN MEDIA Divisione Foto)
(2023.10.22 Vatican News Deborah Castellano Lubov)
教皇フランシスコは22日、年間第29主日の正午の祈りに先立つ説教で、「 信仰と日々の暮らしを『別のもの』と考える誘惑に」対して警告され、「そのような考え方は、一種の『統合失調症』です」と厳しく批判された。
そして、「 私たちは主に属しており、地上のいかなる権力の奴隷でもありません」と言明され、 信仰と日々の暮らしが無関係だ、と考えがちな人々に対し、率直に言って、そのような考えは真実ではない」と注意された。
教皇の説教は、この日のミサで読まれたマタイ福音書の「皇帝への税金」の箇所(22節15章以降)をもとにしたもので、そこには、「イエスを罠にはめるために」ヘロデ派と一緒になったファリサイ派の人々のことが書かれている。
「 彼らはイエスのところに行き、『皇帝に税金を納めるのは許されているでしょうか』と尋ねます 。 それは策略です。イエスが税金を正当化すれば、イエスは国民から不支持な政治権力の側に自分を置くことになりますし、逆に、イエスが税金を支払わないと言えば、帝国に対する反逆罪で告発される可能性があります。 しかし、イエスは彼らに持っている硬貨を見せるように言われ、罠を逃れました。硬貨には皇帝の像が刻まれています。イエスはそのことをもとに、 彼らにこう言います-『では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい』と」と語られた教皇は、信者たちに「 これはどういう意味でしょうか?」と尋ねられた。
教皇は、イエスのこの言葉は、教会で”ありふれたもの”になっており、「教会と国家、キリスト教徒と政治の関係について語るために、時には誤って、あるいは少なくとも、それに帰結するように、多くの場合、次のように解釈されています」と指摘されたうえで、「そうではなく、 イエスは『皇帝』を『神』と、つまり地上の現実を霊的現実と区別したかったのです。 私たちも時々、『信仰とその実践は別のものであり、日々の暮らしは別のものだ』と考えてしまいます。でも、 これは『統合失調症』の一種であり、あたかも信仰が現実の生活とは何の関係もないかのように、思い込むのです」と注意された。
そして、「 イエスは、『皇帝』と『神』をそれぞれ適切な場所に置けるように、私たちを助けたいと望んでおられるのです。 私たちは、主のものですから」とされ、「 イエスは、『すべての人間が神のものである』という根本的な現実を確認しておられます。このことは、 私たちが地上のどの現実にも、この世界のどの『皇帝』にも属していないことを意味ます。 私たちは主のものであり、この世の権力の奴隷になってはなりません。 たとえ硬貨に皇帝の肖像が刻まれてたとしても、覚えておくべきは、『私たちの人生には、何者も、誰にも覆い隠すことのできない神の姿が刻まれている』ということです」と説かれた。
教皇フランシスコは、「この世のものは『皇帝』に属するかもしれませんが、『人間と世界そのものは、神のものである』と言うことを忘れてはなりません!」と強調され、「 イエスは私たち一人一人を本来、自分自身があるべき姿に戻してくださいます」と続けられた。
そのうえで 教皇は、信者たちに、「自分は、このような適切な理解を持っているか?」「自分には、個人的な偽善を克服する必要があるか?」と自問するよう促され、さらに、 「この世の硬貨には『皇帝』の像が刻まれているが、あなたは自分の心の中にどのような像をイメージを抱いていますか?あなたの人生の像は、誰ですか? 私たちは、自分が主のものであることを覚えているでしょうか?それとも世の論理に自分をはめ込まれ、仕事、政治、お金を、崇拝すべき偶像にしてしまっているのでしょうか?」と続けられ、最後に、 「私たちとすべての人間の尊厳を認識し、尊重できるよう助けてくださいますように」と聖母マリアに祈られた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
Smoke billows over northern Gaza (AFP or licensors)
(2023.10.18 Vatican News Francesca Merlo)
教皇フランシスコは18日の水曜恒例一般謁見で、ガザ地区の人道状況に深い懸念を表明、すべての当事者に対して武器を放棄を求めるとともに、すべてのキリスト教徒に対して10月27日を平和のための 祈りと断食の日とするよう呼びかけられた。 27日は午後6時からバチカンの聖ペトロ広場で1時間の祈りを予定しており、 「私は世界のすべての教会に対し、神の民を巻き込んだ取り組みを企画し、参加するよう勧めます」と訴えられた。
教皇は、パレスチナとイスラエルの現状を嘆かれ、 「犠牲者の数は増え続けており、ガザの状況は極めて深刻になっています。 人道的大惨事を回避するためにあらゆることを行う必要があります」と訴えられた。
そのうえで、世界の指導者たちに、 「世界はすでに多くの戦線が開かれているのを目の当たりにしています… 武器を捨て、貧しい人々、国民、罪のない子供たちの平和を求める叫びに耳を傾けてほしい」と懇願され、 「戦争は何の問題も解決しません。 死と破壊をまき散らし、憎しみを増大させ、復讐を増幅させるだけです。戦争は未来を消し去ります」と非難された。
そして、世界の信者たちに対し、「平和の側だけに立つように。 言葉ではなく、祈りと行動で全力を尽くすことです」と説かれ、その一環として、10月27日を「 平和のための祈り、断食、悔い改めの日」とし、カトリックだけでなく、あらゆるキリスト教宗派、 他の宗教を信じる人々、そして平和を主張するすべての人々に対し、それぞれ適切と思われる時と場での参加を求められた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
リジューの聖テレジア (1873 – 1897)
(2023.10.15 バチカン放送)
教皇フランシスコが15日、幼きイエスと尊き面影の聖テレジアがフランスのアランソンに誕生してから150年を記念し、使徒的勧告「セ・ラ・コンフィアンス」を発表。24歳の若さで帰天した「宣教の保護者」リジューの聖テレジア(テレーズ)の「神の慈しみにおける愛と信頼」を教会の本質として示された。
「私たちを愛に導くのは信頼であり、信頼以外の何ものでもありません」。教皇フランシスコがリジューの聖テレジア(テレーズ)に捧げた使徒的勧告のタイトルは、同聖人が1896年9月に記したこの言葉から採られている。
教皇たちが認めた小さき聖テレジアの証し
教皇フランシスコは、リジューの聖テレジアの証しの類いまれなる価値を認めた歴代の教皇たちの行いを「テレジアに15歳で修道院に入ることができるよう計らったレオ13世」から、「テレジアを1925年に聖人として、1927年に宣教者の保護の聖人として宣言したピオ11世」、「1980年にリジューの聖テレジアに教会博士の称号を与えた聖ヨハネ・パウロ2世」に至るまで振り返っている。
リジューの聖テレジアは、その修室で「イエスは私の唯一の愛」と記し、自身の霊的体験を分析した。教皇フランシスコは、「イエスとの出会いがテレジアを宣教へと召し、その奉献は兄弟たちの善の追求なしには考えられないものだったとし、事実、テレジアがカルメル会に入会したのは、人々の魂を救うためだった」と述べている。
信頼と愛の道
教皇は、小さきテレジアの霊性の中心である「小さき道」「霊的幼児の道」の考察へと向かう。幼きイエスの聖テレジアにとって、大切なのは神の働きかけ、恵みであり、個人の功績ではなかった。なぜならば物事を聖化するお方は主だからだ。教皇はこうしたことから、「最もふさわしい態度は、心の信頼を自分自身の外に、すなわち、私たちを際限なく愛され、イエスの十字架においてすべてを与えられた神の無限の慈しみの中に置くことです」と記している。
神の御手の中での委託
教皇は、私たちの人生はしばしば「恐れや、人間的な安泰への願望、すべてをコントロール下に置く必要」に押しつぶされている、と言う。小さきテレジアが勧める神における信頼と委託は、「私たちを強迫観念的な計算や、未来の不安、平和を乱す心配から私たちを解放してくれる。(…)もし、私たちを際限なく愛してくださる御父の御手の中にいるなら、あらゆる状況に見舞われても、あらゆることが起きても、進んで行けることは確かです」と述べている。
「信仰に対する試練」と慈しみにおける信頼
この若きカルメリットの霊的生活は、信仰に対する試練にも無縁ではなかった。小さきテレジアの時代、近代的無神論が大きな広がりを見せていた。そして、聖テレジアは「無神論者たちの姉妹」であると感じ、彼らのために取り次ぎ、彼らのために人生を差し出し、信仰の証しを新たにしていた。聖テレジアは神の無限のいつくしみを信じていた。神におけるすべては愛、そして正義である。教皇は言う。「これは小さきテレジアの最も重要な発見の一つであり、彼女が神の民全体に与えた最も偉大な貢献の一つである。素晴らしい方法をもって、聖テレジアは神の慈しみの奥深くへと入り込み、そこで神の無限の希望の光を得た」。
「母なる教会の心臓の中で、私は愛となりましょう」
小さきテレジアは、アヴィラの聖テレジアから「教会への偉大な愛を受け継ぎ、この神秘の奥深くに到達することができた」と教皇は記す。自叙伝の中で小さき聖テレジアはこう書いている。「私は悟りました、教会には一つの心臓が、愛に燃える心臓があると。 […] 私の母なる教会の心臓の中で、私は愛となりましょう」。教皇フランシスコはこのようにコメントする。「その心臓とは凱旋的な教会のものではなく、愛にあふれ、謙遜で、慈しみ深い教会の心臓である。[…] 小さき聖テレジアが教会の心臓を見出したことは、今日の私たちにとっても、闇や罪に傷つけられた教会組織の限界や弱さにつまずかないための、偉大な光なのです」。
最後に重要なのは愛のみ
最後の章で、教皇はこの使徒的勧告は、「福音の喜び」にもあるように、宣教的な教会において「福音の告知は、最も美しく、最も偉大で、最も魅力的であり、同時に最も必要な本質に集中すること」を思い出させる、と述べている。「最後に重要なのは愛のみ」と教皇は強調しながら、小さきテレジアのこの非凡な直感を受け入れ、内的な大胆さと自由をもって、その論理的、実践的、教義的、司牧的、個人・共同体的な実りを引き出す必要を神学者や倫理学者たちに呼びかけている。
小さき道の今日性
結論に導く中で、教皇はリジューの聖テレジアの「小さき道」の本質的な点を思い起こすと共に、その今日性に触れている。そして、教皇は「愛する小さき聖テレジア、あなたがそうであったように、神が私たちに持たれる偉大な愛にいつも信頼できるように、助けてください。あなたの聖性の小さき道に私たちも毎日、倣うことができますように」と、祈りをもってこの使徒的勧告を締め括っておられる。
(編集「カトリック・あい」)
rescuers and civilians remove the rubble of a home destroyed following an Israeli attack on the town of Deir Al-Balah in the central Gaza Strip (AFP or licensors)
(2023.10.15 Vatican News Linda Bordoni)
教皇フランシスコは年間第28主日の正午の祈りで、イスラエルとパレスチナの戦闘行為を直ちに停止するよう緊急の要請を行い、「 戦争は常に敗北」という自身の信念を改めて表明するとともに、世界のすべての信者に対し、来週17日に聖地の教会が行う 祈りと断食に参加するよう呼びかけられた。
教皇は、「私は、大変な痛みをもって聖地の状況を見守っています。特に子供たちと高齢者のことを思っています」と語られ、 「(ハマスがガザ地区に監禁している)人質の解放を改めて求めるとともに、子供、高齢者、女性、そしてすべての民間人が紛争の犠牲者にならないよう強く要求します」と訴えられた。また、 「ガザ地区では人道回廊を確保し、全住民を救出することが緊急に求められたいます」として、人道法規の尊重を改めて呼びかけられた。
教皇は「各地の戦乱ですでに多くの人が亡くなっています。聖地でもウクライナでも、他のどこでも、これ以上罪のない血を流さないでください。 戦争は常に敗北です!」と強調。
そして、来週17日の聖地の教会の平和のための祈りと断食の日に参加するよう、世界のすべての信者に呼びかけられ、 「祈りは、憎しみ、テロ、戦争という悪魔の力に対抗するための、相手を傷つけることのない、神聖な力です」と言明された。
ガザ地区では15日の日曜日、現地の医療関係者たちが、「イスラエルによる空爆と爆撃を受けて負傷者でいっぱいの病院で、燃料や必需品が絶望的に不足しており、数千人が死亡する可能性がある」と警告した。
7日のハマスの致命的な攻撃に端を発した戦争で予想されるイスラエルのガザ地区への全面地上攻撃を前に、一般のパレスチナ人は食料、水、安全を見つけるのに苦労している。 戦闘勃発以来、15日現在で、2329人のパレスチナ人が殺害され、ハマスの7日のロケット攻撃などで民間人主体の1300人以上のイスラエル人が殺害されている。
Rockets are fired by Palestinian militants from Gaza towards Israel (AFP or licensors)
(2023.10.11 Vatican News By Devin Watkins)
パレスチナのイスラム過激派、ハマスの攻撃で始まったイスラエルとの激しい戦いは今も続き、11日現在で双方合わせて2000人を大きく超える死者が出ているが、 教皇フランシスコは11日の水曜恒例一般謁見で、聖地の平和を訴え、「イスラエルには自国を守る権利がある」ことを認めつつ、「暴力は正義に基づいた永続的な平和の実現に貢献できない」と断言された。
教皇は、この戦いで双方に多くの犠牲者が出ていることに、深い悲しみを示され、 死傷した多くの人々を悼まれ、 ユダヤ人が「律法の喜び」を意味するシムチャト・トーラーを祝う日が追悼の日に変わった遺族のために祈り、ハマスに対し、数十人と言われる「人質の即時解放」を求められた。
また教皇は、「攻撃を受けた者には、身を守る権利がある」としつつ、ガザ地区で民間人を主体とするパレスチナ人が直面している、イスラエル側による「完全全面包囲」で多くの罪のない犠牲者が出ていることにも、強い懸念を示された。
そして、「テロと過激主義は、イスラエルとパレスチナの間の紛争解決には役立たず、憎しみと暴力、復讐心を煽り、互いに苦しみを与えている」と強く非難したうえで、ハマス、イスラエルの双方に自制を呼び掛け、紛争の早期解決への努力を求められ、「中東に求められているのは、戦争ではなく平和。正義と対話、友愛への勇気のうえに築かれる平和です」と早期の戦闘停止に向けた対話を呼び掛けられた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
Pope Francis greets the faithful at the Sunday Angelus (Vatican Media)
(2023.10.8 バチカン放送)
教皇フランシスコは8日、年間第27主日の正午の祈りに先立つ説教で、この日のミサで読まれたマタイ福音書中の「ぶどう園と農夫」のたとえ話(21章33-43節)を取り上げられた。
教皇の説教の要旨は次のとおり。
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今日の福音は、悲劇的な結末を迎える一つのたとえ話を語っています。
ある土地の主人がぶどう園を作り、それを大切に世話した。主人は旅に出ることになり、それを農夫たちに託した。ぶどう摘みの時期になり、 収穫を受け取るために、主人は自分の僕たちを農夫たちのところへ送った。 しかし、農夫たちはこの僕たちに暴力を振い、殺してしまった。そこで主人は自分の息子を送ったが、農夫たちはその息子までも殺してしまった。
なぜ、このようなことになってしまったのでしょう。何がいけなかったのでしょう。
ぶどう園の主人は、ぶどう園の手入れすべてを愛を込めて行いました。自ら働き、ぶどうの木を植え、垣を巡らし、搾り場を掘り、 見張りのやぐらを立てました。そして、そのぶどう園を農夫たちに託しました。自分の大切な財産であるぶどう園を彼らに貸し、彼らを対等に扱いました。ぶどうの収穫作業は、それを分け合い、皆が満足し、祝祭的な雰囲気のうちに終わるはずでした。
ところが、農夫たちの頭には、「恩知らず」で「強欲」な考えが入り込んできました。「主人に何も渡す必要はない。われわれの労働の成果は自分たちだけのものだ。誰にかまうものか」。しかし、この考え方は正しくありません。自分たちが受け取ったもの、自分たちが受けた待遇に対し、感謝すべきだからです。
ところが、忘恩は貪欲を生み、反逆的な気分を増長させます。そして、それは現実に対し歪んだ捉え方をさせ、仕事を与えてくれた主人に感謝するどころか、逆に恩着せがましい気持ちを抱きます。主人が彼らの所に送った彼の息子を見た時には、「これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう」と言うまでになっていました。こうして彼らは「農夫」から「殺人者」になったのです。
イエスはこのたとえ話で、人が「自分1人の力で生きている」と錯覚し、感謝を忘れ、「すべての善は神の無償の賜物」という本質を忘れる時に、何が起きるか、を教えてくださいます。本質を忘れる時、「愛されている」「救われた」という喜びを持てなくなり、自分だけの条件と限界の中で生きることになります。
そして、「愛も救いも必要ない」という、悲しい幻想に陥り、人を大切に思うことをやめ、自分の貪欲の虜となり、人よりも多く所有し、人を出し抜く必要に囚われるようになるのです。そして、ここから多くの不平や不満、無理解や妬みが生まれ、恨みに押されるがままに、暴力の渦に飲まれていくこともあります。
このように、忘恩が暴力を生むのに対し、「ありがとう」という単純な感謝の言葉が、平和を再び取り戻させます。自分に問いかけてみましょう。—「私は命と信仰、自分という存在を、賜物として受け取ったことを自覚しているだろうか。すべては主の恵みから始まると信じているだろうか」と。
私たちが感謝を毎日、「心から立ち上る光」とすることができるよう、主を称える方、聖母マリアの助けを祈りましょう。
(編集「カトリック・あい)
Pope Francis presides at Mass for the Vatican gendarmes (Vatican Media)
(2023.10.8 Vatican News By Adriana Masotti)
教皇フランシスコが7日午後、 バチカン庭園のルルドの洞窟で、バチカン市国憲兵隊のために大天使聖ミカエルを祝うミサを捧げられ、説教で、翌日年間第27主日のミサで読まれるマタイ福音書の「ぶどう園の農夫」のたとえ話( 21章33-43節)を取り上げ、「 私たちの人生は注意して守られればならないぶどう畑のようなもの」と語られた。
説教で教皇はまず、福音書より先の第一朗読の イザヤ書の「ぶどう畑」( 5章1-7節)に注目され、「 憲兵の仕事は、敵が植えられているものを台無しにし、破壊するために夜に侵入するぶどう畑を守ること。ぶどう畑は、善と悪が互いに戦う、すべての人の人生を表してもいます」とされた。
そして、「主は私たち一人一人を、あたかも良いぶどう畑の枝のように植えてくださいましたが、敵は常に私たちを破滅させようとやって来ます。 これは毎日の戦いです。あなたがたと私、そして私たち全員の戦いです。 戦わない者はキリスト教徒ではないし、誘惑に抵抗しない者はキリスト教徒ではありません」と言い切られた。
また教皇は、「私たちは皆、罪びとですが、前に進むために、自分の人生に入り込もうとする悪魔と戦わなければなりません」と語られ、 大天使ミカエルがこの戦いを助けてくれることを思い起しつつ、「 ここバチカンのぶどう畑にも、悪い芽が入らないように 」と説かれた。
そして、「 マタイの福音書に出てくる邪悪な農夫たちのたとえ話は、悪魔が何かを手に入れようとするとき、手に入れようとするものは破壊してしまう、ということを語っています。そして、 すべてを破壊しようとする戦争は”汚い戦争”であり、すべてを破壊することで勝利しようとする悪魔のやり方です」と強調。それでも大天使 聖ミカエルは「私たちが、その悪魔を追い出すのを助けてくれるのです」と結論付けられた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
10月はロザリオの月 (VATICAN MEDIA Divisione Foto)
(2023.10.1 バチカン放送)
教皇フランシスコは1日の正午の祈りで、「10月のロザリオの月を迎え、ロザリオの祈りの素晴らしさを体験し、聖母マリアと共にキリストの神秘を観想し、教会と世界の必要のために聖母の取り次ぎを祈りましょう」と信者たちに呼びかけられた。
そして、ロシアの軍事侵攻の長期化に苦しめられるウクライナをはじめ、戦争で傷つくすべての国、地域のために、世界の人々の福音宣教のために、そして4日から始まる「シノダリティ(共働的)な教会」をテーマとする「世界代表司教会議(シノドス()総会・第一会期のために、ロザリオの祈りを祈るように」と希望された。
また、教皇は1日は、教会暦で「信頼の聖人」、幼いイエスの聖テレーズ(テレジア)を祝うことに触れながら、10月15日に聖テレーズのメッセージをめぐる使徒的勧告が発表されることを予告された。そして聖テレーズと聖母に祈るよう勧められた教皇は、神に信頼し、宣教のために働くことができるよう、聖テレーズの助けを願われた。
(編集「カトリック・あい」)