Sr.岡のマリアの風通信 ⑦”越境のラディカリスト”イエス・キリスト…

 「イエスさんは『越境のラディカリストだ』」と言う、J会のH神父が、久しぶりに私たちの修道院を訪れた。「境を越える」「解放される」「脱出する」「自由になる」…すべて、旧約の「出エジプト」から始まって、神によって集められ、導かれている民が、日々直面するチャレンジだ。まず、自分からの脱出、自分が浸っている文化・考え方・行動の仕方…を越えること…。

 「脱出・自由」の頂点は、御父の思いの実現のための、御子イエス・キリストの受難・十字架の死、そして復活-御父の力によって―だろう。

 H神父は、お年(82歳!)にもかかわらず、健在どころか、ますます燃えている。「境を越える」というのは、日々の小さなことから始まる。以下、20歳以上の年の差も何のその、H神父との語り合い後の「独り言」から…。

***

 次世代に引き継ぐ、ということが、いかに難しいか。皆、多分、少なくとも善意があれば、頭では分かっていると思うのだが、いざ「自分が」仕事を引き継がなければならない、という状況になると、「いやいや、私はまだ大丈夫」ということになる。

  私も含めて、しばしば「原点」に戻り、同時に「将来」を見据える勇気と決断力を、日々養っていかなければならないだろう。

 ぎりぎりまで、高齢になるまで「○○シスター」は頑張った…という、その人個人の「武勇伝」は出来ても、実は、後継者はまったく育っていなかった、「まったく、若い世代は頼りない…」という結末にもなる。その繰り返しで、私たちは今まで来たようにも思う。

 先輩シスターたちの、私たちには分からない苦労、労力に感謝しながらも、やはり、私たち「中間層」が、次世代のことをしっかりと考えて決断していかなければいけないと(もう遅いくらいだが)思う、今日この頃だ。

 でも、そのためには、時に(無理なことを言う)「悪役」を買って出なければならない。それは「したくない」という本音がある。この、「私が良ければ、私の世代が良ければ」という「本音」からの、根本的な「脱出」が必要だろう。

 そのためには、「原点」-イエスさまに従う、神の国を造る協力者となる―に戻らなければならない。イエスさまが言う「神の国」とは、イエスさま自身のこと、「すべての人…キリスト信徒だけでなく…」が、神さまの永遠のいのちの交わりに生きる場だ。叩かれながらも「越えていく」。仲間たちと、ひたすら神の国の建設のために…。そういう潔さ、単純さで、前に進んでいきたい。

 もしかしたら、国内外の出張が少し多い私は、外からの刺激、インスピレーションを受ける恵みも多く与えられているのかもしれない。だから、「境を超えて行く」「脱出する」ことの必要性を、より感じるのかもしれない。今、置かれている場所、与えられている使命を、丁寧に、淡々とこなしながら、境を越えるタイミングを気づくことが出来るよう、目を覚ましていたい。「目覚めなさい、もう救いの時が近づいている」という、使徒パウロの言葉を心に。

 祈りつつ。ルカ

 (岡立子・おかりつこ・けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)

2017年1月25日 | カテゴリー :

 Sr.岡のマリアの風⑥ 「心の清い人は幸い、その人は神を見る」

 「心の清い人は幸い、その人は神を見る」(マタイ5・8)…

  年明け早々、アジア・オセアニア地区のマリア論のために働こうと望んでいる人々のグループ(わたしたち)の将来について、メールを通して、(イタリア語、英語が飛び交いながら)、熱く語り合っています。「今、出て行きなさい」という招き、「時のしるし」を、わたしたち皆、感じています。「どのように」「どこに向かって」…?それは、ナザレのマリアのように思い巡らしながら、祈りながら、共に語り合いながら、見えてくるものなのでしょう。

  今まで、教皇庁立国際マリアン・アカデミー(PAMI)のアジア・オセアニア部門の日本人は、わたしだけでしたが、今、J修道会のSr.Sが心強い「協働者」となりつつあります。これも「時のしるし」と、謙虚に受け止めていきたいと思います。

 権力とか、知名度とか、そういうものを求めるのではなく、マリア霊性が、教会の歴史の中で、キリストに従う霊性の本質であると確信されてきたことを受け継いで、貧しい方法を通して、イエスのみ国のために働きたいと願っています。

 …でも、時に、自我や、「わたしのやりたいように…」が、わたしの心の中に出て来ます。

   2017年、ファティマの聖母出現百周年。あの人、この人の回心、どこの国の回心、あの罪人、この罪人の救い…その前に、「わたし」の回心、「わたし」の心の清めが求められているのだと、ますます確信しています。それは、教父たちの霊性の中で、そして今でも、東方教会の霊性の中で、特に深められていると思います。

   「わたしのけがれのないみ心が、最後には勝利するでしょう」という、ファティマの聖母の根本メッセージを、わたしたち一人ひとりの中に、「心の清い人は幸い、その人は神を見る」というイエスの招きを呼び起こすものとして、今年一年、特に、思い巡らしていきたいと思っています。

  善い心から善いものが出て、悪い心から悪いものが出る。イエスのみ国のために働くわたしたちの心が、「みことば」を受け入れ、実りをもたらす「善い土地」でありますように。

祈りつつ…

 

(岡立子・おかりつこ・けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女) 「心の清い人は幸い、その人は神を見る」

2017年1月7日 | カテゴリー :

 Sr岡のマリアの風⑤ 独り言:「弟子であるマリア」-マリアの「こころ」

 

 12月に、ザベリオ宣教会のシスターたちに、大坂で、「弟子であるマリア」というテーマでお話を頼まれています。自分なりに、いろいろと勉強し-また、勉強してきたことを再度「辿り」―、祈りれば祈るほど、今年9月、ファティマ(ポルトガル)のマリア論国際会議で発表した、マリアの「こころ」と、「弟子である」というテーマのつながりに、気づかされます。

 

 神が、ご自分の「息吹」-いのち-を注ぎ込んでお造りになった人間。造り主の「いのちの息」を受けて、人間は、自分の「すべて」をもって-全人格で-神を愛することが出来るように、唯一、神と「対話」することが出来る被造物として、造られました。人間が、その「全人格」をもって神を愛する(それは必然的に、神がお造りなった一つ一つの被造物、特に一人一人の人間を愛することを伴う)と言うときの、「全人格」というイメージが、聖書の中で、「こころ」のイメージ、概念とつながります。

 聖書の中で、「こころ」とは、単なる感情の座ではありません。それは、まさに人間の「いのち」の中心、すべての生命活動―体・精神統合の中で―の源です。そのような文脈で、「みことば」を聞き、守り(こころに収め)、それを行う(決心し、行動する)という、イエスが明確に求める「弟子」のあり方は、まさに、「みことば」を「こころに受け入れる」という一言に要約される、とも言えるでしょう。

 つまり、聖書の中で、神の「みことば」が、人間の「こころ」に触れ、人間が「こころ」を尽くして、神の「みこころ・意志」に答えていく、という、神の救いの計画の実現のための、神と人間の、いわゆる「synergy―協働―」は、「こころ」が、その根源的な「場」となっている、と言えるでしょう。この場合、「みことば」を「こころに受け入れる」というのは、単なる感傷でも、客観的な考察でもなく、「わたしのすべて」を巻き込み、思い、意志、決心となって、主体的な行動となって実現されていく、積極的なニュアンスをもっています。

 

 神の「こころ」と、人間の「こころ」を、再び、完全に結び付けた、神の「みことば」そのものであるイエス・キリスト。「みことば」の母マリア…

 今、東方教会のイコンの歴史に関する本(共著 “A history of Icon painting: sources, traditions, present day”, Moscow 2007)を読んでいますが、教会がその初期の時代から、「受肉の神秘」の奇跡の中に完全に巻き込まれた母マリアの姿を、驚きの中に見つめてきたことを、ひしひしと感じています。

 

 ここ、本部修道院では、主の降誕前後の祈りの集い(12月17日~1月1日)が行われています。今年は、「大いなる沈黙」の中で起こった、わたしたちのいのちの根源にかかわる出来事を見つめるために、言葉を少なくし、沈黙の時間をたっぷりと取りました。わたしたち一人一人に語りかける主の言葉に、わたしたちの「こころ」を開くことが出来るように。共同体の姉妹たちの祈りに支えられながら、自分の弱さ、貧しさを素直に受け入れて、「共に歩いておられる神」に、わたしの「全人格」を開いていくことが出来ますように。その時、初めて、わたしの存在の「なぜ」「どこから」「どこに向かって」…の答えが見えてくるのだと思います。

 

「はい(Fiat)、あなたのお言葉どおり、この身になりますように(あなたのお言葉が、わたしの中で実現しますように)」(ルカ1・39)という短い言葉の中に凝縮される、「花婿・神」と、「花嫁・民(人間)」の決定的な出会いの場を差し出した、この「貧しい」イスラエルの娘、ナザレのマリアの言葉を、わたしの言葉にしていきながら…。

 

 …そいういうわけで、特にこの時期、聖母の「こころ」と、「弟子」であること、このテーマに、こだわってみようと思っています。

 

(岡立子・おかりつこ・けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)

2016年12月25日 | カテゴリー :

 Sr岡のマリアの風通信④ 修道誓願宣立25周年に…  

 160808%e3%83%90%e3%83%81%e3%82%ab%e3%83%b3%e5%86%99%e7%9c%9f%ef%bc%94東西の教会が、喜びの時も、苦しみの時も、脈々と毎日捧げてきた、いわゆる「マリアの賛歌Magnificat」-イスラエルの娘、マリアが、旧約聖書に証されている神の救いの「約束」の実現を、まさに「身をもって」体験し、体中からほとばしり出させた、主への賛美と感謝の歌。

マリアが、旧約と新約を貫く、唯一の神の民を代表して救い主に捧げた、この賛歌に、二千年のキリストの民の歩みの中で、どれほど多くの人々が声を、心を合わせてきただろう。世界に広がる神の民の集会の中で、無数の言葉で、異なる文化の中で、同じ主への賛美が捧げ続けられてきた。

そして今、神の民の膨大な歩みの中の、ほんとうに小さな小さな「わたし」が、修道誓願宣立25周年を記念する時に、同じ賛美の歌をほとばしり出させている。何と不思議なことか。こんなに小さな、この世の尺度ではまったく無力なわたしでも、救い主である主に賛美と感謝を捧げ、「わたしは幸いです」と証することが出来るとしたら、それはひとえに、わたしの前を歩んで生きた、無数の先輩たち-初代教会から始まって、使徒たち、殉教者、牧者、そして数えきれないほどの「天の教会」のメンバーたち-に助けられ、支えられているからだ。それを、今、この時のように、心底ありがたく体験したことはなかったかもしれない。

どんな時でも、いつも、ほんとうに「共に歩いていてくださる」イエスさまを、この困難な世の中で、喜びをもって証する使命。人間的にもまだまだ弱い修道者。それでも主は、このような使命を「平気で」任せてくださる。「弱い者」の中に輝き出る、主の力。弱い者、小さい者こそ、自分の中で行われる神のわざを知り、単純に賛美することが出来るのだろう。

一人ひとりに託された「唯一の」使命。それは、その人のためだけでなく、「すべての人の救い」のためだ。すべての人が神のいのちの交わりの中に帰っていくことを、創造主・救い主である神は望んでおられる。その神の「こころ」を証する使命。一生涯の戦いの中で、時に苦しみ泣きながらも、それでも、唯一の目的に向かって、信仰の喜びを次の世代に引き継いでいけたら…。

共に歩いてくださるイエスさま。共に歩いていく兄弟姉妹たち。「キリストのからだ」の交わりの中で。アーメン。

(岡立子・おかりつこ・けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)

2016年11月26日 | カテゴリー :

Sr岡のマリアの風通信① O神父に充てたメールの分かち合い

日本カトリック神学校紀要 第7号(2016年度)が送られてきた。以下、わたしが、編集者であるO神父に充てたメールの分かち合い。

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O神父さま、いつものことながら、この『紀要』編集を初号から続けておられる神父さまの、忍耐、努力、パッション(熱意)に感謝しています。私の友人の研究に関連していると思う記事があるので、送ってあげたいのですが、購入できるものなのでしょうか?

『紀要』が届いて、わたしは面白くて(??興味深くて)、谷氏、稲垣氏の記事を、一気に読んでしましました。

谷氏の研究(「神化の道行きと、その根拠をめぐって―キリストの十字架と復活―」)に関して言えば、実は今、わたしは、無知ながらも、正教会のイコンを通しての東方霊性に関する本を読んでいるところです。ローマで勉強していた時、正教会典礼について、また、Gregorio Palamasの霊性について授業を受けましたが、当時は、分かったような分からないような…という程度の理解でした。日本に帰ってから、(たぶん日本人だから)自分の中で、東方キリスト教霊性への傾きを感じて、個人的にイコンに関する本(英語、イタリア語が多いのですが)を読み始め、かなり「ハマって」います。十年以上たって、やっと、あの時のGregorio Palamasの授業が分かり始めた、というところですが―今思えば、それを教えてくださったE. Toniolo教授は、全身で、手振り身振りでPalamasの教えの偉大さを伝えて(伝えようと)してくださったのですが、東方霊性に疎いわたしたちは???という感じで、何とも教えがいのない生徒たちでした―。これから、谷氏が挙げておられる日本語文献を読んでみようと思っています。ひじょうに深いところで、わたしの専門、マリア論にも関わりがありますから。

また、稲垣氏の忍耐深い研究(「トマス・アクイナスの聖母神学―試論」)、まさに、わたしがマリアヌム神学院で叩き込まれたことと繋がります。つまり、神学の勉強において「偏見を持たない」ということ。この学者はプロテスタントだから、とか、アジア人だから、女性だから、○○会だから、○○派だから…という色眼鏡から、その人の研究を批判しない。あらゆる「正当、真面目な」研究の実りには、必ず何か学ぶことがある、という謙虚さで、他者の研究を尊敬すること。

聖母の「無原罪の宿り」の教義の歴史に関しては、一般に、「フランシスコ会は賛成派」「ドミニコ会は反対派」と単純化されますが、それは、あまりにおおざっぱな見解だと、わたしも思います。それプラス、その時代は、まだ教義宣言はされていなかったのですから、神学者は自由に討論することが出来たわけです。また、人間の「懐胎」についての概念-魂は、肉体が宿った後に宿る、それでは魂はどの瞬間に宿るのか、など―が、現代の概念とは全く違っていましたし、「懐胎」の概念が異なれば、当然、それに伴う「原罪」の理解も、わたしたちのそれとは、異なってきます。それらすべてが、「無原罪の宿り」の教義の歴史の背景にあることを理解し、丁寧に、忍耐強く研究する必要があります。

何でも「単純化」「一般化」したがる、「クイズ方式」的考察プロセスが、神学の分野にも入ってくると、ひじょうに「浅い」表面的な理解になってしまう、と、これはわたし自身にも常に言い聞かせていることです。

神学は、決して、人間が神を研究するのではなく、神が始動した、わたしたちの救いの歴史における、神の「足跡」(旧・新約聖書)から、人間が分かる範囲で、謙虚にその神秘に入って行く―入ることを許されるままにされる、というか―、ということだと思います。神の思いは、人の思いを、常に、はるかに超えることを受け入れながら。

谷氏や稲垣氏の研究のように、忍耐強い、固定観念にとらわれない、謙虚な態度が必要ですね。わたしも、このような諸先輩に倣いたいと願っています。

最後に、O神父さまの、常に変わらぬ忍耐、努力に、感謝しながら…。

(岡立子・おかりつこ・けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)

2016年11月26日 | カテゴリー :

Sr岡のマリアの風通信③スペインの友たちとの旅

160808%e3%83%90%e3%83%81%e3%82%ab%e3%83%b3%e5%86%99%e7%9c%9f%ef%bc%94ローマでたいへんお世話になったスペイン人神父さまの弟、ホアンが、休暇で日本に来た。

ホアンはわたしに、一年くらい前にメールで連絡してきた。長い間、日本に来たかった、この夢をどのように具体的にしたらよいか、アドバイスをしてほしい、と。正直、ちょっと途方に暮れていたところを、何人かのクラスメートとそのご主人たちの、全面的な協力を得て(感謝!)、東京から伊東、京都、大阪、広島、下関、長崎、そして再び東京…というルート、日程、宿泊、交通手段のプランを立てた。ホワンはとても喜んで、9月13日から30日の「旅」が実現した。わたしは母と一緒に数日付き添い、またクラスメートたちは、京都観光を企画し、同行してくれた。

エンジニアであるホアンは、移動の日付、駅までの行き方、電車の時間、出発ホーム、乗換の仕方、それぞれのホテルの場所…など、インターネットを駆使して詳細に調べ、細かい字で手帳に書き込み、記憶し、その通りに行動する。数字や方向に弱いわたしが勘違いで間違えると、「リツコ、違う」と、ホアンが指摘し、最後には、ホアンが道案内。母に、どっちが日本初めてなのか分からない、と笑われるほどに。

さて…エンジニアとして、東京の街を歩き回ってひじょうに感銘を受け、京都では日本の文化だけではなく、実際に日本人―クラスメートたち-と直接に触れ合い、言葉を交わし、広島は「ひじょうに興味深い」と言い…そして、ホアンは「長崎」に来た。

ホアンはわたしに、自分の国(スペイン)はキリスト教国と考えられているが、若い世代の多くは、信仰と実生活は別物だと感じている-考えている、というより、感覚的に知らない間にそう感じている-と言っていた。

そのホアンが、まず、長崎の外海地方、出津で、フランス、パリミッション会の宣教師ド・ロ神父(Marc Marie de Rotz、+ 1914)の生き方に「触れた」。ホアンは、ヨーロッパ人でありながら、初めてド・ロ神父の存在を知った。キリシタン迫害が終わった後、やせた土地で、貧しく厳しい生活を強いられていた外海のキリスト信徒たち、とくに若い女性たちを、ド・ロ神父は、キリスト教の精神だけでなく、「実践面」でも(神父は、建築、医療、印刷、農業…の知識を持っていた)助けた。つまり、キリスト者であることの根底である、神の似姿として造られた「人間」としての尊厳、その「総合的」な成長を助けた。しかも、こんな「遠い、知られざる国」で…今でも、ヨーロッパにとって、日本は「極東」である。ド・ロ神父の時代、どのくらいのヨーロッパ人が日本の存在に関心を持っていただろう…。

ホアンは以前から、一人の信徒として、実際にエンジニアであることを通して、何か具体的に人々を助けることは出来ないだろうか、と自問していた。ド・ロ神父の生き方は、彼自身の問いかけに答えを出すプロセスのきっかけになったようだ。

外海ではまた、遠藤周作記念館を訪れた。ちょうど、「沈黙」刊行五十周年の特別企画展が行われていて、当時のヨーロッパ、キリスト教思想における、「栄光のキリスト」と、日本のキリシタン迫害下での「みじめで、弱いキリスト」のギャップに悩んだ(と、遠藤周作は解釈する)一人の宣教師の「転び(棄教)」のテーマは、ホアンをひじょうに印象付けたらしい。記念館で英語訳を求めたが販売していなかったので、タイトルを手帳に書き留め、スペインに帰ったら購入する、と言っていた。

その翌日、ホアンは、二十六聖人殉教者たち(その中にはスペイン人も含まれる)と「出会った」。自分の知らない歴史の中で、「極東」の小さな島で、信仰のために命を捧げた「同胞たち-ヨーロッパ人たち-」がいること、そして、彼らにそこまでさせた「内なる原動力」が決して理論だけではないことが、ホアンを深く考えさせたようだ。

…今回も、たぶん、字余り。ここで終わるが、最後に、スペインに帰ったホアンのメールの訳を共有したい。「この旅の経験が、わたしをよりよい人間にしれくれることを、神に祈ります。わたしを、人間として、そしてまたキリスト者として成長させてくれるように…あの、宣教師たちが福音を運び苦労をした場所を見た後で、そしてたぶん、今日もまた、日本に住む多くのキリスト信徒たち、カトリック信徒たちが生きているだろう苦労を思いながら…」。

ホアンは、余った日本円はユーロに替えない、また来るから、と言っていた。

神のわざは偉大。アーメン。

2016年11月1日 | カテゴリー :

Sr.岡のマリアの風通信②

マリア論・マリアに関する国際会議に参加して

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9月6日~11日、ポルトガル、ファティマで開催された、マリア論・マリアに関する国際会議(Congresso Mariologico-Mariano Internazionale)に出席した。この会議は、教皇庁立国際マリアンアカデミー(ラテン語で:Pontificia Academia Mariana Internationalis、通称PAMI)が、四年に一回開催しているもので、1900年フランスのリヨンで第一回会議が開かれ、今回の会議で24回目になる。

PAMIの本部はバチカン市国にあるが、実際の事務所は、ローマの二つの大聖堂、ラテラノとサンタ・マリア・マッジョーレの真ん中あたり、フランシスコ会修道院・Antonianum大学の建物の一隅にある。主な役割は、聖座(バチカン)との連携の中で、全世界のマリア論学会、聖母巡礼地の責任者たち、マリア的特色を持つ教会内の「運動(ムーブメント)」などをコーディネートすることだ(詳しくはHP参照)。だから会議の名称も、単に「神学」(学術)的観点(Mariologico)からだけでなく、「歴史」、「霊性」、「司牧」的観点から見たマリアに関する総合的(Mariano)な会議であることを表している。

もちろん、わたしの母校Marianum神学院のマリア論分野の教授たちは様々な形でPAMIに関係している。わたしの博士論文担当教授Salvatore M. Perrella神父は評議員、先輩Stefano Cecchin神父は秘書(segretario)であり、彼らの推薦もあって、2012年12月8日から、わたしもPAMIの正式メンバーとして受け入れられた。

「自慢話」と思われたらお許しいただきたいのだが、なぜこんなことを書いているかというと、神学の中で「マリア論Mariology」という分野は非常にマイナーであり、(イタリアであっても)ほとんど知られていないか、何か「女子供のすること」くらいに(そのようにイタリア語でも表現される)軽く見られているからだ。本当はそうではない。神学の中でイエス・キリストの母、マリアに関する学問は、他の神学分野の学問と同じく、「まじめ」なものであり、聖書と教会の「聖なる伝統」をベースとしながら、「今」を生きるキリスト者の在り方に「実存的に関わる」ものだ、ということを知っていただきたいからだ。

「実存的に関わる」とは、教会のカテキズムでも明らかにされた「信じる(信仰宣言)」、「祭る(典礼)」、「生きる(キリスト教倫理[道徳]」、「祈る(日々の祈り)」の四本柱と深く関わっている、という意味だ。また、いわゆる「民間信心」(聖母に関しては、教会の歴史の中で非常に発展した)は、この、「信じる・祭る・生きる・祈る」というキリスト者としての土台に無関係ではない、という意味だ。

さて、今回の会議は、来年(2017年)、ファチマの聖母出現百周年を迎える準備として、ファチマの巡礼地がPAMIと連携して開いたもので、「ファチマの出来事、百年後:歴史、メッセージ、現代化」L’evento di Fatima cento anni dopo. Storia, messaggio e attualità」というタイトルだった。

PAMIの国際会議出席も四回目。まだまだ駆け出しのわたし(しかもアジアの東の果て、キリスト国でもない小さな島から来た)も、少しずつ「顔見知り」が増えてきた。国際的に著名な学者たちの間でワクワクしている学生のような気分は相変わらずだけれど、ちょっと大げさに言えば、キリスト教世界が、今、「東方」に、「アジア」に、そして「日本」に、何を求めているのか―それは、神が今、アジアに何を求めているのかを反映している-が、わたしの中で、少しずつ形になってきた。

今回も字余りになったので、ここで終わるが、10月は「ロザリオの聖母」の月。まず、わたしの中で、いわゆる「聖母信心」と、キリストに従う生き方の間の深い関係を、少しでも体験できる機会となることを祈りつつ。

(岡立子・おかりつこ・けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)

2016年9月24日 | カテゴリー :

Sr岡「マリアの風」通信①

 「ひとつにする」ために来たキリストと、一生懸命「分裂させ」ようとする「わたし」

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  「人の振り見て、我が振り直せ」、とはよく言ったもので、福音書のイエスの言葉を聞いて、「ファリサイ派の人たちって、厳格すぎるよね~」、「律法学者たちって、ぜんぜん融通効かないし…」などと、けっこう簡単に「片づけて」しまうわりには、日常生活の中で、同じようなことをやっている「わたし」には、案外、気づかない。

 たぶん、わたしが、大人になってからカトリックの洗礼を受けたせいかもしれないけれど、「あの人、『まだ』信者じゃないんでしょ」、「未信者だからね~[暗に、信用できない、というニュアンスで]」、同じキリスト教徒でも、「あの人は、『まだ』プロテスタントだもんね…」「『まだ』カトリックになってないんでしょ」…というような、普通の会話に、わたしは、かなり戸惑う。

 父が帰天したとき、「『未信者』だったの?でも大丈夫[もしかしたら、救われるかもしれないから]。でも、祈らなければね…」と、まったくの善意で言われ、わたしはかなりショックだった。何がショックだったかって、言葉にするのは難しいけれど、ようするに、その人が救われるか、救われないかを、「カトリック信者であるわたし」が決める、というようなニュアンスを感じたからだ。本人たちは、善意いっぱいで、その善意に素直に感謝したのだけれど、何かすっきりしない気持ちが残った。

 わたしたちは、救い主ではないし、それどころか、わたしたちの救い主イエス・キリストは、「すべての人を救う」こと、そのために、世のメンタリティーとはまったく逆の「王」としてご自分を示した―裏切られ、憎まれ、ののしられ、殺される「王」、「主の苦しむしもべ」として-。

 「わたしは、このグループ(キリスト者、カトリック信徒、この修道会、あの教会運動、この友だちサークル…)がいい…」。多様性は、一つになるための恵み。多様性が、分裂するための要素となるなら、それは、まったく、「キリスト的」ではない、と思う。イエス・キリストは、まさに、十字架に上げられることによって、「散らされた民を、一つに集める」のだから。

 一つになる…それが、どんなに困難か、歴史が、わたしたち自身の経験が示している。そんなに大げさなことではなくても、日々の小さな出来事の中で、わたしは、キリストとは別の方向に行こうとする。この人とは(性格が、意見が…)合わない、あの人は要らない、わたしを理解してくれない、…いろいろと理由をつけて、分裂させる、グループを作る、派閥を作る。

 一つに集めるために、いのちさえ進んで差し出したキリスト。

 そのキリストに従っている、と言いながら、分裂させる、わたし。

 多様性の中で一つになることは、人間の理論、外面的な小細工では無理だ。唯一のキリストの霊の中で、初めて、一つになれるのだから。

 今日もわたしは、自分に合わない出来事、人を避けようとする。そうしながら、わたしは「一つになるように」と願うキリストの意志を、邪魔している。

 今日は、少しでもいいから、自分に合わない出来事、人を、キリストの「一つになるように」という願いを実現させるために、わたしに与えられた「恵み」と感謝し、ちょっとほほえんで受け入れることが出来るようになりたい。

 今日、一つ、自分に合わない出来事、人を、感謝して受け入れることが出来たら、また、明日、別の、自分に合わない出来事、人が、与えられるだろう。そして、また、その次の日…そうやって、キリストは、わたしを「鍛え」ようとしているのだろう。ご自分の国の建設の協力者とするために。

 神が造ってくださった、わたしの心。わたしの心の内奥には、神のイメージが刻み込まれている。その心の内奥で、神の声を聞くことが出来るようになるだめに、キリストはわたしを鍛えてくださる。

 神がわたしに与えてくださった「自由」。わたしの心を、神に向かって開くことが出来るのは、わたしだけ。他の人には出来ない。神にさえ、わたしの心を無理やりこじ開けることは出来ない。

 わたしの心を神に向かって開くためには、わたしの人格全体が「一つ」になることが必要だ。心と体、思いとことば、行いが一つになる…わたしの心が、キリストの心になるように。キリストの「一つになるように」という思いが、わたしの思い、ことば、行いとなるように。

 不可能なことではない。

 ただ、難しいとすれば、それはわたしに、現代の忙しく、複雑な世の中で、「単純に」なることを求めているから。ボーっとしていると、だまされたり、足を引っ張られたりする。そんな中で生きているわたしが、「単純に」なること。そんなに簡単ではない。何を目的に生きているかが、あいまいなら、不可能かもしれない。

 わたしは、今、この場所で、一人のキリストに従う者として、何に向かって、何のために生きているのか…

 わたしにとって、イエスの母マリアは、使徒パウロのように、ある意味で、それ以上に、この世の戦いを戦い抜いた女性だ。だから、わたしは、キリスト者としての自分の歩みを、「マリア風」に乗って…とイメージする。マリアにとって、いつも、最後の決定的な一言は、「わたしが」ではなく、「主が」望むように、だ。マリア風に乗って、日々の「嵐」の真っただ中で、神の思いを感じ取り、それを、今、この現場で生きることが出来るように。

 祈りつつ    (岡立子・おかりつこ・けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)

2016年8月31日 | カテゴリー :