Sr岡「マリアの風」通信①

 「ひとつにする」ために来たキリストと、一生懸命「分裂させ」ようとする「わたし」

160808バチカン写真4

  「人の振り見て、我が振り直せ」、とはよく言ったもので、福音書のイエスの言葉を聞いて、「ファリサイ派の人たちって、厳格すぎるよね~」、「律法学者たちって、ぜんぜん融通効かないし…」などと、けっこう簡単に「片づけて」しまうわりには、日常生活の中で、同じようなことをやっている「わたし」には、案外、気づかない。

 たぶん、わたしが、大人になってからカトリックの洗礼を受けたせいかもしれないけれど、「あの人、『まだ』信者じゃないんでしょ」、「未信者だからね~[暗に、信用できない、というニュアンスで]」、同じキリスト教徒でも、「あの人は、『まだ』プロテスタントだもんね…」「『まだ』カトリックになってないんでしょ」…というような、普通の会話に、わたしは、かなり戸惑う。

 父が帰天したとき、「『未信者』だったの?でも大丈夫[もしかしたら、救われるかもしれないから]。でも、祈らなければね…」と、まったくの善意で言われ、わたしはかなりショックだった。何がショックだったかって、言葉にするのは難しいけれど、ようするに、その人が救われるか、救われないかを、「カトリック信者であるわたし」が決める、というようなニュアンスを感じたからだ。本人たちは、善意いっぱいで、その善意に素直に感謝したのだけれど、何かすっきりしない気持ちが残った。

 わたしたちは、救い主ではないし、それどころか、わたしたちの救い主イエス・キリストは、「すべての人を救う」こと、そのために、世のメンタリティーとはまったく逆の「王」としてご自分を示した―裏切られ、憎まれ、ののしられ、殺される「王」、「主の苦しむしもべ」として-。

 「わたしは、このグループ(キリスト者、カトリック信徒、この修道会、あの教会運動、この友だちサークル…)がいい…」。多様性は、一つになるための恵み。多様性が、分裂するための要素となるなら、それは、まったく、「キリスト的」ではない、と思う。イエス・キリストは、まさに、十字架に上げられることによって、「散らされた民を、一つに集める」のだから。

 一つになる…それが、どんなに困難か、歴史が、わたしたち自身の経験が示している。そんなに大げさなことではなくても、日々の小さな出来事の中で、わたしは、キリストとは別の方向に行こうとする。この人とは(性格が、意見が…)合わない、あの人は要らない、わたしを理解してくれない、…いろいろと理由をつけて、分裂させる、グループを作る、派閥を作る。

 一つに集めるために、いのちさえ進んで差し出したキリスト。

 そのキリストに従っている、と言いながら、分裂させる、わたし。

 多様性の中で一つになることは、人間の理論、外面的な小細工では無理だ。唯一のキリストの霊の中で、初めて、一つになれるのだから。

 今日もわたしは、自分に合わない出来事、人を避けようとする。そうしながら、わたしは「一つになるように」と願うキリストの意志を、邪魔している。

 今日は、少しでもいいから、自分に合わない出来事、人を、キリストの「一つになるように」という願いを実現させるために、わたしに与えられた「恵み」と感謝し、ちょっとほほえんで受け入れることが出来るようになりたい。

 今日、一つ、自分に合わない出来事、人を、感謝して受け入れることが出来たら、また、明日、別の、自分に合わない出来事、人が、与えられるだろう。そして、また、その次の日…そうやって、キリストは、わたしを「鍛え」ようとしているのだろう。ご自分の国の建設の協力者とするために。

 神が造ってくださった、わたしの心。わたしの心の内奥には、神のイメージが刻み込まれている。その心の内奥で、神の声を聞くことが出来るようになるだめに、キリストはわたしを鍛えてくださる。

 神がわたしに与えてくださった「自由」。わたしの心を、神に向かって開くことが出来るのは、わたしだけ。他の人には出来ない。神にさえ、わたしの心を無理やりこじ開けることは出来ない。

 わたしの心を神に向かって開くためには、わたしの人格全体が「一つ」になることが必要だ。心と体、思いとことば、行いが一つになる…わたしの心が、キリストの心になるように。キリストの「一つになるように」という思いが、わたしの思い、ことば、行いとなるように。

 不可能なことではない。

 ただ、難しいとすれば、それはわたしに、現代の忙しく、複雑な世の中で、「単純に」なることを求めているから。ボーっとしていると、だまされたり、足を引っ張られたりする。そんな中で生きているわたしが、「単純に」なること。そんなに簡単ではない。何を目的に生きているかが、あいまいなら、不可能かもしれない。

 わたしは、今、この場所で、一人のキリストに従う者として、何に向かって、何のために生きているのか…

 わたしにとって、イエスの母マリアは、使徒パウロのように、ある意味で、それ以上に、この世の戦いを戦い抜いた女性だ。だから、わたしは、キリスト者としての自分の歩みを、「マリア風」に乗って…とイメージする。マリアにとって、いつも、最後の決定的な一言は、「わたしが」ではなく、「主が」望むように、だ。マリア風に乗って、日々の「嵐」の真っただ中で、神の思いを感じ取り、それを、今、この現場で生きることが出来るように。

 祈りつつ    (岡立子・おかりつこ・けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)

このエントリーをはてなブックマークに追加
2016年8月31日 | カテゴリー :