Sr.岡のマリアの風 ㉒パパ・フランシスコと共に… 独り言アラカルト…(新)

 また、土曜日、「マリアと共にお手紙デー」が来た。他の日より、「ちょっぴり」、違う日。

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 この「ちょっぴり」という言葉。わたしは、けっこう、使うらしい。意識していなかったが、ある時、ポーランドからここ、本部修道院に派遣され、日本語を勉強しているSr.Tから、「シスター、『ちょっびり』って何ですか?」と、聞かれた。

 (わたしが思うに)「ちょっぴり」は、「少し」とは、まさに「ちょっぴり」違う(あくまで、わたしのこだわりだけれど)。わたしが、昨日よりも、今日、もうちょっとだけ、イエスさまに近づきたい、昨日よりも、もうちょっとだけ、目覚めて、ミサに行きたい、イエスさまに、姉妹たちに会いに、出て行きたい。昨日よりも、もうちょっとだけ、「みことば」に留まりたい。…「ちょっぴり」だけ…

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 それは、「どーせ、たくさんは出来ないから」…という、「あきらめ」とも、違う。「あきらめ」は、パパ・フランシスコが何度も言うように、「停止してしまう」こと、さらには、自分だけでなく、周りの人の善意も「ストップさせてしまう」こと。

 だから、パパ・フランシスコの中で、「あきらめ」はすでに「罪」である。人々の希望を摘み取ってしまうから。さらには、次の世代の人々に何も残さないどころか、自分が歩いた跡に、「不毛」、「荒廃」を残すから。

 「あきらめ」は、「ちょっぴり」進むことも拒否する。「ちょっぴり」前に進む、とは、(わたしによると)自分の弱さ、限界という現実に気づき、それをありのまま受け止めながら、周りの姉妹たち兄弟たちの弱さ、限界という現実に、ちょっぴりやさしくなって、どうにかして一緒に前に進みたい、という望み、希望から生まれる、「現実の一歩」だ。

 パパ・フランシスコは、「…したい」の状態で留まっていてはだめだ、と繰り返す。

 心の中の希望を消さない、とは、あきらめずに、小さなことを、普通の日々の中で、信じてやり続ける、具体的に「出て行く」、手を差し伸べる、声をかける、ほほえむ、善いことのために「手を汚して」働く…ということである。

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 パパは、今年の1月1日、神の母マリアの祭日に、神が「本当に」人となったことの神秘を思い巡らす。本当に人となったイエス・キリストに従うとは、「具体的に」この世界を、より「美しく」「住みやすく」するために、出て行くことだ、と(そのような内容のことを)訴えた。

 パパは、神が、真実に、マリアの胎の中で人間の肉を取り、「人となった」、その時から、もはや、神と人とは切り離せない、「もはや、人間なしに神はいない」とまで言い切る。

 この地の、苦悩の中にも希望する民を前にして、パパは、神が人となったのは、「わたしたちと共にいる」ためだけでなく、「わたしたちのように」なるためだ、と言う。神が、わたしの痛み、涙を、ご自分の痛み、涙として「経験する」ことが出来るように…。わたしたちを絶えず驚かす、神の心!(以下、試訳)

 「マリアが「神の母」であるということは[…]主がマリアの中で受肉したときから、その時から、そして永久に、主は、ご自分がまとったわたしたちの人間性を運んでいるという真理です。もはや、人間なしに、神はいません:イエスが、母から取った肉は、その時も、そして永久に、彼のものであるでしょう。「神の」母と言うのは、わたしたちに次のことを思い起こしています:神は、人の近くにいる-幼子が、彼を胎の中に運ぶ母の近くにいるように-。

 用語「母」(mater)は、用語「物体」materiaにも関連しています。天の神、無限の神が、彼の母の中で、自分を小さくした、自分を物体とした―「わたしたちと共に」いるためだけでなく、「わたしたちのように」なるために-。これこそ、奇跡、これこそ、新しいことです:人間はもはや一人ぼっちではありません;もはや、決して、孤児ではありません。永遠に、子です。そしてわたしたちは、マリアを、「神の母」と呼んでたたえます。わたしたちの孤独が打ち負かされたことを知るのは、喜びです。わたしたちが、愛されている子であると知ることは、このわたしたちの幼年期(子であること)は、決して取り除かれないと知ることは、美しいことです。… 」

 復活のイエスが、その体に、「傷」-十字架の傷―を運んでいた、という神秘を思い巡らすたびに、みじめな罪びとであるわたしたちは、ありがたさのあまり、涙を流さないではいられない。イエスは、「強い」「健康な」わたしたちに会うために、出て来たのではない。イエスは、「この」、弱い、罪に傷ついたわたしたちに会うために、出て来て、降りて来て、降り尽くしてくださった。この、疑いもない「真実」は、何という大きな慰めであることか。

 慰め…なぜなら神は、人間の、わたしたちの、わたしの罪に「つまずかない」「驚かない」から。神は、わたしたちの弱さ、傷つきやすさを知っているから。神は、わたしたちの疲れ、渇き、苦悩を、「生きて」「経験して」知っているから。

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 今週は、わたしにとって、チリ、ペルーを司牧訪問中のパパ・フランシスコの、「強烈な」言葉の一つ一つに触れ、心打たれ、涙を流した時期だった。自分のみじめさを思い、足りなさを思い、その「みじめなまま、足りないまま、傷ついたまま」で、「出て行ってください」、と懇願するパパの言葉をかみしめた。

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 パパは、チリで、司祭、修道者たちに話しかけた。司祭による未成年の性的虐待事件という、何か内にくすぶっていたものの「現れ」でもあった事実を前に、信頼を失いつつあるチリの教会、道を歩いていたら人々に中傷されることさえある司祭、修道者たちに。

 パパは彼らと共に、聖書の言葉を味わう。パパは彼らと共に、聖書が示す、ペトロと共同体の「信仰の歩み」を辿った。
自信のあったペトロ…世の常識を知らない「先生」(イエス)を守ってあげなければ、と頑張っていたペトロ、「先生」が弟子の足なんか洗うもんじゃない、と抵抗したペトロ、「先生」のためなら命も捨てる、と宣言したペトロ… 落胆したペトロ… それなのに、「先生」を裏切った。「先生」を見捨てた。自分の弱さ、限界を経験して、打ちのめされたペトロ。

 そして、ゆるされたペトロ… 復活したイエスはペトロに、「この人たち以上に、わたしを愛しているか」と問いかける。ペトロは、「はい、愛しています」と言うが、イエスは、さらに同じ質問をなげかける。最後にペトロは、「あなたは何もかもご存知です…わたしが、あなたを愛していること、それでも弱さに負けて、恐れて、あなたを裏切ってしまったこと。それでも、それにもかかわらず、あなたを、何にもまして愛したいことを…」。

 この、ペトロの、ありのままの、「へりくだった」告白を、イエスは聞きたかった。教会の頭(かしら)であるペトロが、自分の弱さ、限界を受け入れ、それでもイエスに従いたいという告白を。イエスは、その告白を受け入れ、彼にご自分の教会を託す。そして、まさに、イエスの、この「いつくしみに満ちあふれる心」によって、「変容される」ペトロ。

 ペトロは、初めて理解する。

 自分は「先生」に、「偉い人」が弟子の足を洗うなんて非常識だ、止めてください、と抵抗した。自分たちは、「先生」が受難に向かって歩いているときに、「自分たちの中で誰が一番偉いか」と、話し合っていた。

 ペトロは、初めて理解する。

 「偉くなりたい」なら、「小さく」なり、「低く」なり、「仕える」者となりなさい、という「先生」の言葉を。「先生」は、小さくなり、身をかがめ、自分たちの足を洗ってくれた。それは、「先生」の尊厳を低めることではなかった。イエスは、まさに、「そのために」世に来たのだ。

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 パパは、チリの司祭、修道者たちに言う。民が求めているのは、「規律」を厳格に守る司祭、修道者でも、高い所から命令する軍の司令官のような司祭、修道者でも、ない。

 民が求めているのは、自分たちのところに来て、自分たちの目を見て、自分たちと共に歩み、転んでしまったら、指さして非難するのではなく、黙って手を差し伸べ、また一緒に歩く司祭、修道者。苦悩のあまり涙を流すとき、弱さを見せるとき、自分たちのそばで、何も言わずに共に泣いてくれる司祭、修道者。イエスの「傷」を、自分の傷として運び、人々の傷、世界の傷の中に、イエスの傷を見ることが出来る司祭、修道者。そして、人々の傷、世界の傷を、唯一、それを癒すことが出来る方―イエス・キリスト-に運ぶことのできる、司祭、修道者である、と。

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 昨日の夜、本部修道院での月一度の「ルカ(わたし)の勉強会」があった。「勉強会」の前、いつも祈る。

 イエスさま、あなたが、このあなたの民に語りたいと望むことだけを、わたしに語らせてください。

 マリアさま、わたしが、主が望むこと以外を語るのを、決してゆるさないでください―どんなに美しい言葉であったとしても、理屈の通った教訓であったとしても―。ただ、主が、今、ご自分の民に語ることを望んでいる言葉だけを、わたしに運ばせてください。

 わたしの中に、善意ではあっても、よい意図ではあっても、「姉妹たちに、この人たちに、こういうことを分かってもらいたい。こういう状態だから、こういうことを言う必要がある」…と、「わたしの」欲が入ると、それはまさに、「高い所からの話し」になる。

 イエスが、受難に向かいながらエルサレムに入ったとき、民衆は歓呼して迎えた。その流れて神殿に入り、司祭や律法の先生たちの前で、何か「偉大なレクチャー」をすれば、ひじょうにインパクトがあったはずだ。でも、イエスは何をしたか…。神殿に入るなり、境内で商売している人たちを追い出し、机やいすを倒した。「神の家」は「祈りの家」だ、と言いながら。

 もっと「賢明に」、その辺のところは妥協して、神殿の中で、エルサレムの権力者たちに、当たり障りのない「良い話」をすることだって出来たはずだ。
でも、イエスは、そうしなかった。

 イエスは、だんだん、受難の「沈黙」に入っていく。神のみ心の中の、すべての人々の救いは、受難の沈黙の中で実現する。
永遠から、神とともに在った「みことば」は、わたしたちの救いのために降りて来て、その「誕生」のとき、「語らない」「みことば」-生まれたばかりの乳飲み子―となった。

 そして、その生涯の最後、「受難」のとき、再び、「みことば」は黙する。わたしたちの救いの、決定的な「時」は、沈黙の時である。神の「みことば」は、沈黙の中で、わたしたちに「語りかける」。

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 「沈黙」の中で語りかける神の「みことば」を運ぶ者となる。この、神のパラドックス(逆説)の中で、わたしたちも、沈黙に留まって、思い巡らさなければならない。マリアのように。十字架のもとに立つ、マリアのように。

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 わたしたちは何としばしば、「わたしはこう思う!」「そんなこと、あり得ない!」…と、主張したがることか。
パパは、今年の世界平和の日、世界難民移住移動者の日、バチカン駐在各国大使たちへの新年の挨拶…の中で強調する。「互いに受け入れ合う」ことは大切だ。でも、それでも十分ではない。「互いに認め合う」ことがなければ、と。

 「認め合う」とは、まさに、目の前の相手の、一人の人間としての尊厳、神の御手で造られた人間としての尊厳を認める、ということであり、それもどちらかが一方的にではなくて、相互に、ということだ。

 「そんなのキリスト者として当たり前」、と思うだろうか。そう、確かに「当たり前」。でも、この当たり前のことを、普通の日々の中で、自分の良心に照らしながら、神の「みことば」に照らしながら生きるのは、そんなに簡単ではない(少なくとも、わたしにとっては)。

 相手は、わたしにとってなくてはならない存在である、相手は、わたしが「総合的に」成長するために、絶対必要な「賜物」である、と互いに認め合う。この地を、この世界を、美しくするために、わたしたちは互いを、必要な「賜物」として受け入れ、認め合う。

 そうしないと、神の織りなす「唯一の作品」は、出来上がらない。この世界を、美しくするために、わたしたちは互いを、必要な「賜物」として受け入れ、認め合う。そうしないと、神の織りなす「唯一の作品」は、出来上がらない。

 救いの歴史の、唯一の織物。さまざまな材質、色が、それぞれの場所に織り込まれた、織物。神の御手による織物。しかし、人間の協力なしには、決して出来上がらない織物。神が人となった、その時から、神のわざは、人間なしでは完成しない。
神の唯一の望みは、全被造物が、創造の目的―「エデンの園」の調和、神のいのちの共有―に達することであり、神の姿、神に似た者として造られた人間は、全被造物を完成へと導く協力者としての任務を託されている。

 使徒パウロは言う。全被造物が、その完成の時を、呻きながら待っている、と。

 「現在の苦しみは、将来、わたしたちに現されるはずの栄光と比べると、取るに足りないとわたしは思います。被造物は神の子らが現れるのを、切なる思い出待ち焦がれているのです。被造物は虚無に服従させられていますが、それは、自分の意志にあらず、そうさせた方のみ旨によるのであり、同時に希望も与えられています。すなわち、その被造物も、やがて腐敗への隷属から自由にされて、神の子どもの栄光の自由にあずかるのです。わたしたちは今もなお、被造物がみなともに呻き、ともに産みの苦しみを味わっていることを知っています。被造物だけでなく、初穂として霊をいただいているわたしたち自身も、神の子の身分、つまり、体の贖われることを待ち焦がれて、心の中で呻いています。わたしたちは救われているのですが、まだ、希望している状態にあるのです。目に見える望みは望みではありません。目に見えるものを誰が望むでしょうか。わたしたちは目に見えないものを望んでいるので辛抱強く待っているのです」(ロマ8・18-25)。

 わたしの好きな聖書の箇所の一つ。そうなりますように!アーメン!

(岡立子=おか・りつこ=けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)

2018年1月20日 | カテゴリー :

 Sr.岡のマリアの風 ㉑パパ・フランシスコとの旅

 パパ・フランシスコは、謙虚に、一歩一歩進んでいますね。

 時に、メディアには、パパ・フランシスコの言動は「パフォーマンス的」 に映るかもしれないけれど、パパの言葉を、一言一言 かみしめていくと、決して、「耳に心地よい」ことは、言っていませんね

 この世の「常識」は 時に、「だって、しようがないじゃん」「相手が悪いんだから」「わたしたちが、いっくら頑張ったって… …と言って、わたしたちに「あきらめ」の空気を伝染する。その「あきらめ」に、わたしが、わたしたち自身が、流されるに任せてしまうこと、それは「罪」だ、とパパは断言します。

 あきらめてしまう、とは、もう、今、わたしの住んでいるこの世界を、さらには、次の世代の子どもたちの世界を、「少しでも良くする」ために 何かをする」のを放棄する、というだから。それは、今も、世の終わりまで、「働いて」いる、創造主である神の協力者
としての人間の使命、責任を、放棄することだから。

 それにしても、日々、短い言葉でパパの行動、言葉を要約している、「バチカン放送局HP」は、さすがにプロですね!(わたしは「記者」という職業をひじょうに尊敬しています。「要約」がひじょうに下手だから)。

 わたしは、その素晴らしい記事を読みながら、その間、シスターたちのために、ぼちぼち、パパの言葉を一言一言、試訳しています。誰かの言葉を 批判 するなら、きちんと原文を読んでからにしろ!と、恩師にさんざん-6年間-言われ続けましたので この場合、「批判」というのは、ヨーロッパ的ニュアンスで、否定的な意味ではありません)

 1月16日の、司祭、修道者、神学生たちへの話も、ひじょうにパパらしい、一方で、謙虚さ、他方で、「出て行く」力を兼ね備えたものですね。こちらは長いので、そしてわたしたち修道者にズ~ンとくる内容なので、少しずつ訳すことにします。

 1月17日の、テムコ空港でのミサ。短いけれど-バチカン放送HPでも分かるように―、本質的にいきなり入る、強烈なメッセージですね。「分かっちゃいるけど、実行するとなるとね~」と、わたしたちが概して、心の中では「このままではいけない と思いつつ、言い訳しながら、「ぐずぐず」しているところを、ズバッと明らかにする…。

 それプラス、今日のミサの第一朗読。イスラエル人を、ペリシテ人に対する勝利へと導いたダビデに、嫉妬するサウル王…。「他人事」として、この聖書の箇所を読めば、サウル王を、「王であるのに、大人げないな~」と思ってしまうけれど、こういうこと、日々の何気ない心の動きの中で、多かれ少なかれ、ありますね(わたしだけ??)

 嫉妬に狂って、冷静な判断が出来ず、ダビデを殺そうなどと過激な結論まで出してしまうサウル王。

 「嫉妬」は、まさに、神がわたしたち一人ひとりに託した、一つひとつのユニーク、唯一の使命を見えなくしてしまいますね。…だから、「嫉妬、妬み」は、わたしを、神から分裂させる。

 サウル王は、主に「油注がれた者(メシア)」としての自分の使命-すべての人を一つに集め、神の「地」、神のいのちへと導く使命-を、まったく忘れています。というより、もしかしたら、心の底でわかってはいるけれど、認めたくない!という気持ちでしょう。
わたしは、わたしたちは、何と無駄なことに、神の時間を費やしているのでしょうか…

 サウル王から始まる、イスラエルの、主に油を注がれた王たちの歴史。その完全な実現である、大文字の「油注がれた者(メシア) イエスは、十字架に上げられながら、すべての人々を一つに集めます。

 何と、わたしたちの思いと、神の思いは、異なるのでしょう!
今日から、「キリスト教一致週間」。平和を脅かす「分裂」をもたらすもの。それは、まさに、「善いことをした」ダビデを妬み、殺そうとまでする、サウル王の「心」―嫉妬、妬み-ですね。

 聖書学者A. Vanhoye枢機卿は、また、このサウル王の心を落ち着かせ、主が彼に託した「王であること」の意味を静かに諭す、彼の息子、ヨナタンのしたことを、「和解」の素晴らしい模範だ、と指摘しています。まさに、一致、平和を助けるのは、暴力ではなく、相
手を思いやる心から発する真理の言葉ですね。

 パパは、テムコ空港のミサの中で、パパの「口癖」の一つ、わたしの好きな言葉を伝えています。平和を造りだすのは、「手職人rtigiani だ、平和は、異なる糸を一つ一つ味わいながら(一つ一つの糸に「聞きながら」)、少しずつ、忍耐強く、一つの調和のとれた織物を織っていくようなものだ、と。だから、平和は、「手作業」「手作り」。機械による大量生産や、机の上だけの精巧な理論では造り出せない、とパパは強調します。

 平和は「手作業」…だから、「対話」。だから、「相手」のところに「出て行って」、その人が住んでいるところ、生きている場に行って、その人の話だけでなく、その人「自身」に聞くこと…

 パパ・フランシスコは、さらに、相手を「受け入れる」だけでは十分ではない、と言います。相手を「認め」なければならない、相手の、人であることの尊厳を認めなければならない、互いに「認め合わなければ」ならない、と。

 これって、まさに、パパ自身が行っていることですね。今、チリで「出て行って」、その人たちの「地」に自らを置き、美しいことばかりでなく、その人たちの涙、苦しみを「聞く」こと…

 パパは、テムコ空港でのミサに集まった人々に、共に祈るよう、呼びかけます。「主よ、わたしたちを、一致の職人としてください」«Signore, rendici artigiani della tuaunità»

 わたしが、ぼちぼちと、せっせと、いろいろな「試訳」をしているのを、「すごいバイタリティー!」と感心してくださる、心優しい友人たちがいます。でも、わたしの中では、そんな大げさなことでも、尊敬されるようなことでもなく、今日のわたしの使命を、不器用に、少~しずつ、生きている、という感じです(こう言うと、また「謙遜な…」と「誤解」されるかもしれませんが、これって、すべての善意の人たちが、毎日、しようとしていることと、まったく同じです)。アーメン!

(岡立子=おか・りつこ=けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)

2018年1月18日 | カテゴリー :

 Sr.岡のマリアの風 ⑳2017年終わりの「独り言あれこれ」

パパ・フランシスコと共に…仕えること(奉仕)と、交わり(コムニオ)を生きること

2017年度、待降節・降誕節を、パパ・フランシスコと共に過ごしながら-パパの言葉、任務に、インターネットを通じて寄り添いながら-、繰り返される幾つかの言葉が、わたしの中で響く…

 パパ・フランシスコと共に、受肉の神秘に奥深く分け入る中での「独り言」…

・限りなく、無償で、わたしたち人間に愛を注ぐ父である神は、御子、イエス・キリストの中で、わたしたちが見、聞き、触れることが出来るものとなった。

・御子、イエス・キリストは、わたしたちのため、わたしたちの救いのために、インマヌエル 「わたしたちと共におられる神」 となった。罪を除いて、わたしたちとまったく同じ者、同じ肉をまといながら。
わたしたちは、主の降誕の神秘の中に、人間の知恵では想像もつかない、神の「やり方」を見る-わたしたちのために、貧しく、身分の低い者となって、ご自分のために「宿屋に場所がない」この世に降りて来た神―・わたしたちは、この、柔和で謙遜な「幼子イエス」を、今、世界中で、「宿屋に場所がない―生きるための場を奪われた-」たくさんの子どもたちの顔の中に、見る。(パパは、具体的に、中東、シリア、イエメン、イラン、アフリカ…の子どもたち、両親に仕事がない子どもたち、さまざまな形で搾取され[人身売買、少年兵… 幼年期を奪われた子どもたち…と例を挙げている)。

・わたしたちは、聖霊に照らされて初めて、この貧しくへりくだり、飼い葉桶に寝かされた「幼子」の中に、わたしたちのただ中に降りて来た「救い主」を見分けることが出来る。

・幼子イエスは、わたしたちの心を開く…この世の価値観ではなく、「神の価値観」へと。富、権力、名誉、快楽、安心を求める生き方ではなく、自分の一番大切なものを、神のために、人々のために捧げ尽くしていく生き方へと。

・幼子イエスは、わたしたちに悟らせる…無償のいつくしみ深い愛である神の御手の中で作られた人間は、「他者」より優れた者になることにではなく、「他者」のために-神のために、人々のために-自分の大切なもの、命までをも分け与えて行くことの中に、真の「幸い」を見出すことが出来ることを…。

 幼子イエスは、わたしたちに悟らせる…神の「姿-イメージ-」を、自分の存在深く印されている人間は 相手の富を搾取したり、相手の心を独占しようとしたり、相手の名声、権力をねたんで陥れ、自分がトップに立とうとしたり、決して満たされることのない快楽を求めたりする「生き方」の中で、決して、本当の「幸い」を見出すことが出来ないことを。

・「世の初めから」「永遠から」神の傍らで、神の栄光をまとっていた「みことば」は、聖霊の働きによって、ナザレの貧しい、身分の低いおとめ、しかし同時に、「永遠から」神の母となるために望まれ、準備され、神の恵みに満たされていたおとめ、マリアの胎の中に宿った。飼い葉桶に寝かされた、人となった神の「みことば」には、当然まとうべき「神の栄光」はないけれど、その代わりに、マリアとヨセフの、人間の親としての気遣いに「まとわれ」、貧しいけれど、神の救いの知らせに「目覚めて」いた羊飼いたちの喜び、遠い国から、すべてを置いて救い主を拝みに来た、東方の博士たちの喜びに「まとわれ」ている

・長い間、イスラエルの民が待っていた「救い主」が生まれたのに、王、権力者たち、学者たち、祭司たちは、飼い葉桶に寝かされた貧しい幼子の中に、それを見分けることが来なかった。

・今日、「わたしたちのために、救い主が生まれた」。それは、わたしたちが想像するような場所、姿(王宮の中、立派なベッドの上、召使たちに囲まれて…)においてではなく、わたしたちの「すぐ近く」に、わたしたちの共同体の中に、町の中に、国の中に、忘れ去られている人々、排斥されている人々、苦しむ人々の中に…。

・今日、わたしたちも、羊飼いたちと共に「出て行こう」-「さあ、立って、天使が告げたこと(飼い葉桶に寝かされた、救い主)を、見に行こう!」-。

 パパは、教皇庁恒例の、降誕祭挨拶(Auguri Natalizi della Curia Romana:2017年12月21日)や イタリア神学会Associazione Teologica Italianaへの講話(2017年12月29日)の中で、さまざまな意味で、教会を導く立場にある人々に、「仕えること」-「交わり(コムニオ)の中で生きること」を強調している

 教会のトップに立つ者は、「社会常識」の中で考えられている、トップに立つ者の姿とは、全く違う。自分の権力をひけらかすことにではなく、「仕えること(奉仕すること)」の中に、教会の指導者たちの権威の表現が、ある。

 何に仕えるのか?―「交わり(コムニオ)」に仕える。互いの(指導者たちの間、神学者たちの間)交わり。神の民-教会-との交わり。
ペトロの任務を継承する、教皇との交わり。三位一体の「交わり」の神との、交わり。「交わり(コムニオ)」の神秘を深めることにより、「仕える」ことの神秘が深められ、「仕える」ことの神秘を深めることにより、「交わり」の神秘が深められる。

 「仕える」ことも、「交わり(コムニオ)」も、キリスト者にとって、根源的な「神秘」である。なぜなら、主イエス・キリストが、「仕える」ため、散らされた神の子たちを「一つに集めるため-交わりの中に-」、わたしたちのただ中に降りて来たのだから。ご自分の命を、徹底的に、根源的に、すべて、神である御父の救いの計画のため、わたしたちの救いのためにささげ尽くしながら。

 別の機会に、パパ・フランシスコは、教会の中で責任ある立場にある人々は、この世の「出世主義」に毒されないように、と繰り返し訴えている。教会の中での任務は、「出世」のためではない。今はこの役職だから、次の異動のときには、もっと「上の」役職をもらえるだろう、あの人より、この人より、早く「出世」できるように…と考えるのは、「この世の」メンタリティー、「出世主義」の考え方である。

 教会の中で、一つ一つの任務、役職は、それが大きいものでも、小さいものでも、みな、同じ「奉仕」である。教会の中で、肩書のある役職から、肩書のない「下働き」に移された、と文句を言う人には、こう言いたい…とパパは言う…。何も心配しないでください。あなたはただ、一つの「奉仕」から、もう一つの「奉仕」へと移っただけです、と。

 またパパは、イタリアの神学会への講話の中で、神学は、「交わり」のための「奉仕」であるから、教会共同体の交わりの中で、神の民に「分かるように」、「善い知らせ」-福音-を伝えてください、と訴えている。

 この、複雑にさまざまな思惑が絡み合っている現代社会に生きる人々に、複雑な話ではなく、「単純な光」に照らされた「善い知らせ」を伝える。…誤解してはいけないと(わたしは)思うが、人々に「分かるように」とは、「簡単に」という意味ではないだろう。キリストの福音は、ある意味で、「簡単に分かるものではない」からだ。キリストの福音は、こう言うことが出来るなら、人間の思考回路に対して、常に、「パラドックス(逆説)」として映る。

 イエスは、人々に「分かるように」、たとえ話で話した。しかし、この、たとえ話にしたって、「簡単に分かるものではない」。ルカ福音書が伝える、神のいつくしみに関する、三つのたとえ話―失われた銀貨、見失った一匹の羊、放蕩息子のたとえ話―にしたって、物語としては「分かりやすい」が、その奥に隠されている真理は、決して分かりやすくない。

 無償の愛を注ぐ父と、その父の愛を、自分の快楽、利益のために使い、父を裏切り、一文無しになって帰ってきた息子を、駆け寄って抱きしめ、再び、息子としての尊厳を与え(上等の服、指輪、靴…)、宴会まで開いて喜び合う父。それに腹を立てて、宴会に来ようとはしない、もう一人の息子を、わざわざ外に迎えに行く父。…これは、決して「分かりやすい」話ではないだろう。

 神の民に「分かるように」伝える、という神学の、神学者の務めとは、神の民を「子ども扱い」することではなく、分かりやすい言葉を使いながら、人間の知恵では、決して理解し尽くすことの出来ない、神の「知恵」の深みに、少しずつ、へりくだって、忍耐強く、そして、神学者自身も、神の民の一人として、民と共に、交わりの中で、入っていくことだろう。

 キリストの復活の霊、聖霊だけが、わたしたちを、人間の知恵を超える神の「知恵」へと開く。まさに、「聖霊に導かれた(動かされた)」老シメオンが、貧しい両親―ヨセフとマリア-に連れられて、神殿に入って来た「幼子」の中に、イスラエルの民が長年待望していた「救い主」を見分けることが出来たように。わたしたちも、日々の、一見、普通の、取るに足りない出来事の中に、「わたしたちと共におられる神」-インマヌエル-を見分けることが出来るように。

 神の民は、決して「子ども」ではない。神の民、一人ひとりの中で働く聖霊が、「分かりやすい」言葉で語られる、深い神の神秘を、少しずつ理解させていく。だから、大切なのは、神の民一人ひとりが―指導者も、司祭も、神学者も、修道者も、信徒も-、おとめマリアの、へりくだって、率直に、神の「みことば」を心に受け入れ、留め、思い巡らす態度を、自分のものとすることだろう。

 おとめマリアの「思い巡らし」は、単に、目の前に起こる出来事を考えるだけにはとどまらない。マリアは、彼女自身の民の伝統-数千年のイスラエルの民の信仰の旅から来る知恵―と、現実を対比させながら、今、主が自分に望んでいること、主の「思い」を理解しようとする。それを、より良く生きることが出来るように。

 これこそ、神との深い交わり―「子」、「友」としての交わり―に招かれている、神の民の「信じる」態度だろう。単に、何かが天から落ちてくるのを、または誰かが教えてくれるのを待っているのではなく、自分の方から、神の思い、望みを探し求め、それを生きようと積極的に努力する。それがつまり、聖霊に心を開いている状態、と言えるだろう。

 マリアは「教会の姿―イコン-」とも呼ばれる。マリアは、「アルファ(初め)」から、「オメガ(終わり、完成)」へと向って、日々の
歩みを続けている、神の民の壮大な旅の「小宇宙(ミクロ・コスモ)」とも言われるイスラエルの娘、シオンの娘であるマリアの、神の民を代表した、あの「はい(フィアット)」が、わたしたちのための神の救いの計画の「決定的実現」の始まりを印した。あの、マリアに代表された神の民の、積極的な、意識ある、責任ある「はい(フィアット)」がなければ、全知全能の神でさえ、ご自分の計画を実現できなかった。

 …では、神は、「不確実性」にかけたのか?そうではない、と、教会の伝統は教える。神が、ご自分の民の娘の「はい(フィアット)」を「必要」としたのは、神が、それほどまでに、人間を尊重し、信頼しているから、と言えるだろう。実に神は、天地創造の「初め」から、数千年という膨大な時間をかけて、この、救いの歴史の中で唯一の「はい(フィアット)」を準備したのだ。神は、不確実性にかけたのではなく、こう言うことが出来るなら、絶対に確かな、決して撤回されない「はい(フィアット)」を準備するために、ご自分の民を教育した。神の前で、わたしたちの世の千年は一日に等しい、と、詩編作者は歌う。神の、わたしたちに対する忍耐、いつくしみ深さは、とてもわたしたちが想像することは出来ない。

 新しい年、2018年が始まろうとしている。自分に出来ることを、日々、忠実に続ける中で、聖霊に動かされて、わたしたちのただ中
におられる主―インマヌエル-の現存に、つねに目覚めていることが出来るように。主の望みを、「普通の日々」の中で、へりくだって、喜んで、行っていくことが出来るように。

 そのためには、毎朝、共同体と共にミサ聖祭の始まりに捧げる 「主よ、あわれみたまえ」の祈りに、全身全霊を込め、主に絶えず赦しの恵みをいただきながら、自分のみじめさ、罪深さを涙すると同時に、無償で、真に「神の子」としての尊厳をいただいたことに感謝しながら、喜んで、前に進んで行こう。「赦された者たち」の共同体の交わりの中で。

 また、自分の生きている間のことだけを考えるのではなく、次の世代、後輩たちのために、自分自身が受けてきた教えを、語り継いでいこう。唯一の霊に導かれ、たとえ文化、言語、考え方が違っても、唯一の歩み―神ご自身の永遠のいのち、交わりの中に入る歩み―を続けてきた神の民の中で、共に歩んでいくことが出来るように。「オメガ(完成の時)」に向かって…。このようにして、貧しいわたしたちを通して、すべての人々に、主の祝福が行きわたるように。地の果てにまで。アーメン!

 2017年終わりの独り言として…Sr.ルカ

(岡立子=おか・りつこ=けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)

2017年12月30日 | カテゴリー :

 Sr.岡のマリアの風 ⑲「降誕祭に…、天に生まれた、Sr. Sのこと…」

  「いのち」が降りて来た日に、天に上って行った「いのち」…
降誕祭夜半ミサの少し前に、Sr. Sが、この世のいのちを返して、天のいのちへと入って行った。ちょうど、わたしたちの救いのために、「いのち」そのものである方 神の御子が、わたしたちのところの「降りて来た」時に…。

 神は人となった。人が神となるために。神は降りて来られた。人が、わたしたちが、上るために。神は「死ぬ」者となった。人が、わたしたちが、永遠に「生きる」者となるために。

 この、汲みつくせない主の降誕の神秘が、Sr. Sの「いのち」の中に輝く神と、人への奉仕にすべてを捧げた 隠れた、へりくだりの中に生き抜かれた生涯。

 高齢で、車いすの生活となり、修道服を着ることも出来なくなったときも、 Sr. Sは介護をするシスターたちを気遣い、「修道服が着たい」とは、一度も言わなかったそうだ。どんなにか、もう一度、修道服を着て、ミサにあずかりたかったことか。

 主の降誕祭には、修道院に帰りたい、と言っていた。姉妹たちと、降誕祭のミサにあずかりたい、と言っていた。わかった、12月24日の午後、迎えに来っけんね(迎えに来るからね)、一緒に修道院に帰ろうね、と約束していた。

 その、12月24日の午後 3時40分。Sr. Sは、この世のいのちから、天のいのち、もう終わることのない、苦しみもない、永遠のいのちへと 生まれた。約束通り、降誕祭のミサの前に、修道院に「帰ってきた」。

 最後の最後まで、痛みを伴う苦しみを、苦しんだ。本部、支部修道院のシスターたちが、交代で、昼夜、病院のベッドの傍らに付き添った。数分ごとに、数秒ごとに来る痛みに声を上げる。「痛い、痛い おかあさん!」。手を宙に舞わせ、もがく。付き添いのシスターたちは、手を握り、声をかけ、祈る。

 最後となった23日の晩は、Sr. Bが付き添った。昔、Sr. SがいたM島での思い出を、Sr. Bは、ず~っと語りかけていたそうだ。話している間は、Sr. Sは静かにしている。話が途切れると、うめく。だから、Sr. Bは、一晩中、語り続けたそうだ。それで、Sr. Sも、満足したのかもしれない。

 最後の晩、話し好きなSr. Bで良かったね。神さまは、心配しなくても、一番よいようにしてくださるね。
修道生活68年。享年96歳。病院から帰ってきたSr. Sに、修道服を着せながら、ずっと介護をしてきたSr. MEが話しかける。

 修道服、ほんとうは着たかったんだよね。ほら、やっと修道服を着て、イエスさまの降誕祭ミサにあずかれるよ。よかったね~
たぶん、68年間、新しいものを求めることなく、ずっと同じ修道服を着続けたのだろう。いたるところ、ほころんで、拙い手縫いで直してある。

 Sr. Sの棺は、本部修道院の、聖堂の近くの「マリアの部屋」、聖歌が「聞こえる」部屋に置かれた。その前で シスターたちが交代で祈る。

 シスターたちの間では、もう、 Sr. Sのために祈る」というより、天への「凱旋」を喜ぶ、という雰囲気がただよう。
よかったね~、今、神さまが両手を広げて受け入れ、抱きしめてくださっているよね~。マリアさま、ヨセフさまが、幼子イエスさまを抱かせて、キスさせてくださっているよね~。

 介護の必要なシスターたちが生活する「本部新館」で、シスターたちが、年のせいで、あそこが痛いとか、これが出来ない、させてもらえない、とか、ついつい愚痴ってしまうとき、Sr. Sは、「ささげんばね(捧げなければね)」「今、ささげんで、いつささげっとね(今、捧げなければ、いつ捧げるの)」と言っていた、と聞いた。

 最後まで痛みがあった、と言った。もしかしたら、Sr. Sが望んだのかもしれない。わたしたちのため、すべての人の救いのため。
そのためにこの世に降りて来たイエスさまの思いを、自分の思いとして…。神さまとSr. Sとの間の秘密。それは、誰にも分からない。

 この世に生まれる「いのち」と、この世のいのちを返し、天に生まれる「いのち」。2017年の降誕祭は、忘れられないものとなるだろう。

 神に感謝!アーメン

(2017-12-24記)(岡立子=おか・りつこ=けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)

2017年12月24日 | カテゴリー :

 Sr.岡のマリアの風 ⑱ポーランドの村から・帰国を前に・

 お祈り、ありがとうございます。ポーランドに着いてから、ず~っと「何かが」あって、PCに向かう時間がありませんでした。明日は帰国、という今、やっと書いています。おかげさまで元気です。

 ところで、今日、12月3日、待降節第一主日、ここ、ストラホチナ村は真っ白です!朝から雪が降り、だいぶ積もって来ました。ポーランドのシスターたちによると、これは「まだまだ少ない」そうです。

 ローマから着いたばかりの時、空港に迎えに来てくれたシスターから、「そんな恰好(薄着)では死んでしまう!」、というような感じのことを言われ、Sr.Jから「生もの」のセーターをもらい(手編みということを言いたかったらしい)、Sr.Aからダウンの軽いコートをもらい(ファスナーは、ゆっくりと、そーっと上げないと壊れるらしい)、冬用の靴を買ってもらい、ショールをもらい…。部屋用には、「暖かいパジャマ」とガウンを貸してもらい(あげる、と言われたけれど、荷物に入らない!)。

 修道院の時間割は、毎日、「変化」します。ポーランドでは当たり前、とか。前日の夜にならないと、次の日の朝のミサの時間が分からなかったりします。信徒たちはどうするんだろう?特に、午後3時の祈りから始まって、夜9時頃まで、おやつや食事をはさんで、ずっと祈り、ミサが続きます。

 ミサは、朝、修道院で捧げられることもありますが、夕方の教会のミサにはあずかるので、時に、一日に二回、あずかります。主日は、何度もミサが捧げられますが、シスターたちは、出来るだけ二回ミサにあずかるよう勧められているそうです。今日は主日ですが、わたしは荷物の準備をしているので、朝一番のミサにだけあずかりました。

 時々、主任神父さまの長い説教がありますが、スラブ系の言葉は、何について話しているのか、全く検討もつきません。時に「サクラメント(秘跡)」とか、イエス・キリストとか、神の母とか、マリアとか…。分かるのは、それくらい。主の祈り、アヴェ・マリアの祈り、栄光唱はたびたび唱えるので、「祝福」、「永遠に」、「今も」…という単語は、何とか識別できます。

 そういうわけで、シスターたちはそれぞれの仕事で忙しいのですが、わたしは、リラックスして祈る時間をいただいています。

 先日、ポーランド語を勉強している日本から派遣されたSr.Jの、週末の帰省の迎えついでに、ルブリンに行ってきました。ルブリンは初めてです。最初に訪問した司教館で、秘書の神父さまが、イタリア語が出来る、ということで、カテドラル(司教座聖堂)の説明をしてくださいました。

    カテドラルは、二人の聖ヨハネに捧げられていて(洗礼者ヨハネと福音作者ヨハネ)、それぞれの聖画が祭壇上に置かれています。また、祭壇のすぐ上の、キリストの洗礼の聖画は、スライド式になっていて、降誕祭にはご降誕の画、四旬節には十字架の画が、下から出てくるそうです。
金曜日だったので、聖体顕示(アドラチオ)があり、信徒たちが祈っていました。また、告解場には、長い列が出来ていました。

(2017-12-03記)

(岡立子=おか・りつこ=けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)

2017年12月4日 | カテゴリー :

 Sr.岡のマリアの風 ⑰(独り言)「足並みをそろえる」ということ…

 先日、受け取ったメール。教会共同体の中で、一つの大きな行事を前に、「足並みをそろえる」ことの困難を体験しています、と。
足並みをそろえる…誰でも、これこそ、共同体としての生活の中で もっとも大切なことの一つ、と「分かっている」。そう、「分かっている」。でも、「むずかしい」。

 なぜ、むずかしいか?「だって、あの人が(彼が・彼女が)」、みんなでこうしよう、と言っているのに、なんにでもケチをつけるから、言うだけで何もしないから、無関心だから、一人で勝手なことをするから、協力的ではないから、足をひっぱるから…などなど。
とくに、「わたしが」、その行事の責任者の一人である場合、足並みがそろわないのは、ほんとうに、困る。「もう知らない!」「そんなに反対なのだったら、自分たちで勝手にすれば!」と、ついつい言いたくなる。

 わたしが生活をしている、ここ本部修道院では、高齢者から若者まで、また国籍も四か国の、70名近い姉妹たちが共同生活をしている。本部、まさに「マザーハウス」-お母さんのところに、子どもたちが集まる家-である。70人もいれば、同じ出来事に対して、同じ言葉に対して、多種多様の反応、理解がある。それを、日々 体験している。毎日が、相手の「リズム」に合わせる訓練のようなものだ。この「訓練」を、つらい顔でしていれば、まことに悲観的になるが、ちょっと「ゆとり」をもって、楽しみながらするなら、けっこう、新しい発見に満ちている。わたし一人では考えもつかなかったような、いろいろなことが見えてくる。

 教皇フランシスコが、特に、司祭・修道者たちとの集まりの中で繰り返すことの一つに、キリストに従って生きるとは、本質的に、一人で勝手に生きることではなく、「共同体性」「兄弟性(姉妹性)」を生きることだ、ということがある。

 先日の、ボローニャ司牧訪問(10月1日)の際には、教区司祭に向かって、サッカー好きのイタリア人に合わせて、「あなたたちは『リベロ』ではない」と言っている。つまり、あなたたちは、「フリー」ではなく、一つの「からだ」(教区司祭にとって、それは司教区)に、その「からだ」の霊性に属している、と。それが「教区性」la dioceasnitàということであり、「それを、わたしたちは、たいへんしばしば忘れている」と、パパは指摘する。この「教区性」の精神(一つの「からだ」に属しているという精神)を養わないと、わたしたちは、極度に「個人的」、「孤独」になる。そして、「孤独な者は不幸である」という、荒野の教父たちの知恵ある教訓を、パパは引き合いに出している。それは、教区司祭だけに限らない。

 「共同体性」を失う、ということは、「過去」との関連においては「ルーツ」を失う、伝統から切り離される、ということであり、「現在」においては「ある種のいらだち、落ち着きのなさ、神経質」に陥る危険があり、「未来」に関する、「すべての民族が、神の民と共に、主の山に帰っていく」という、「神の国」の「共同体的ビジョン」をもたない-つまり、神の民としての目的をもたない-ということである。

一言で言えば、天地創造から始まる、壮大な神の救いの歴史の中で、過去と未来を自ら断絶し、自分の中に、中にと閉じこもる、神の民特有の喜び・希望をもたない孤独な人、である。

  あるカリスマ的人物の、個人的パフォーマンスが、成功を収めることもあるだろう。でも、もしその人が、共同体に「奉仕する」謙虚さを忘れていくなら、互いの「リズム」に合わせる忍耐を忘れていくなら、その人はもはや、キリストの弟子ではないだろう。

 「わたしの」考えること「だけ」が正しい、と思っている限り、わたしの心は、わたしたちと共に歩いている復活のイエスの霊、聖霊の促しに閉ざされているのだろうさまざまな意味で「リズム」が違う姉妹たちとの日常生は、簡単ではないけれど、それこそ、人となった神の子イエスが、わたしたち人間のただ中で体験したことなのだろう。イエスこそ、弟子たちに、群衆に、自分を迫害する人たちに対して、(そして、わたしたちに対して)イライラしても不思議ではなかったはずだ。

 そう思って、福音が描き出す、 イエスの、人々との受け答えのシーンに留まってみると、いかに神がわたしたちに対して、忍耐強く、いつくしみ深いかが、(わたしの忍耐のなさと対比して)心に浸みて来る。

 今日もまた、「あの人が…」「この人が…」、「わたしの」思い通りにしてくれない、と、心の中で文句を言っているわたしがいる。その、同じ「わたし」が、人には、思うようにことが進まなくても、神に信頼して「忍耐しなさい」などと言っている。主よ、これが現実です!「イエス・キリスト、生ける神の子、罪びとのわたしをあわれんでください!」アーメン。

(岡立子・おかりつこ・けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)

2017年10月27日 | カテゴリー :

 Sr.岡のマリアの風 ⑯教皇のコロンビア訪問…私たちも、ゆるしと和解・・

 教皇フランシスコの9月6日から11日にかけてのコロンビア訪問で、パパさまは自ら 信仰の巡礼者」として、内戦や不正、搾取のために犠牲になった多くの人々、その家族と共に、「泣く恵み」を祈り求めた。訪問中、一週間、毎日、各地でミサを捧げ、人々を訪問し、ひたすら「ゆるし」を訴えかけたパパさまの言葉は、まさに「生の声」で、わたしたちの心を揺さぶるものだった。
「信仰の巡礼者」としてのパパは、一貫して、「わたしたちはみな、罪びとです。みんなです。このことを忘れないでください」と繰り返した。

(司祭、修道者、神学生、その家族との集いで)(メデジン、コロンビア:9月9日)[試訳]
「わたしたちは、和解するために、和解されました。呼ばれたこと(召命を受けたこと)は、わたしたちに、品行方正の、完全無欠の証明書を与えるものではありません。わたしたちは、聖性のオーラ(雰囲気)をまとっていません。聖人のような(あたかも聖人であるかのような)顔をして生きている修道者、奉献生活者、神父、シスターは不幸です(呪われよ)!わたしたちはみんな罪びとです。みんな。
わたしたちは、日々、再び立ち上がるために、神のゆるしといつくしみを必要としています。神は、よくないこと、わたしたちが間違ったことをはぎ取り(根こそぎにし)、それを、ぶとう園の外に放り出し、それを燃やします。神はわたしたちを清めます-実を結ぶことが出来るように-」。

 コロンビアでのパパの呼びかけは、一貫している。わたしたちは、みな、日々、ゆるされることを必要としている罪びとであることを、深く悟って初めて、「神のまなざし」で、「神の心」で、今の世の現実をみつめることが出来るようになる、と。そして、「神のまなざし」は、冷たい裁判官のそれではなく、いつくしみに満ちた愛のまなざしである、と。
犯してしまった間違い、罪は、曖昧にしてはいけない。それをしっかりと見つめて、改めなければならない。不正、搾取は、決してゆるしてはいけない。しかし、罪を犯してしまった「一人の人間」には、「顔」がある。わたしたちの神は、その人の「顔」をも探し求めて、「出て行く」神であり、それはまさに、善きサマリア人としてのイエス・キリストご自身の姿である。
教会に逃れてきた人たちが虐殺され、多数の犠牲者を出した、ビリャヴィセンシオでの、和解のための祈りの集い (9月8日)では、二人の子供を失った母である牧師と、足を失った青年によって代表された、苦悩と恨みを乗り越えて、ゆるし・和解のために働き続ける人々の証があった。同時に、「罪」の側に、人のいのちを奪う側に加担してしまった人々の証-ゆるしを乞い、自分を捧げる生き方を始めた人々-の証もあった。

 「わたしたちは、みな、ゆるしを必要としている罪びとです。みんな」。パパはキリストの共同体に 罪を犯した人々、殺す側に回ってしまった人々が、神の恵み
で「変わろうと」しているのを受け入れる「勇気」をも、持ってください、と訴える。それは非常に困難なチャレンジであることを、わたしは知っています。でも、主の恵みに心を開き、それを受け入れてください、と。
また、パパは、若者たちが生来もっている「じっとしていられないこと(落ち着きのなさ)」は、一方で、たやすく悪への誘惑に引き込まれる要因となるが(「麻薬の殺し屋たちによって欺かれ、破滅させられる」-ひじょうに多くの若者たちが!-)、もしそれが、神の恵みによって導かれるなら、自分自身の利益、楽しみを捨てて、他者のために「出て行く」はずみともなる、と語りかける。
そして、どんな人でも、神を信じない人であっても、他者の痛みに心を揺り動かされ、それに寄り添うために、自分から「出て行く」とき、その人は、自分でも知らないうちに、イエスを運んでいる、と明言する。
たとえ、キリストを知らない人であっても、その人の中で、いつくしみと愛が先行し「出て行く」とき、その人は、イエスを運んでいる、つまり、「真の人間」の姿を運んでいる、と。

(司祭、修道者、神学生、その家族との集いで)(メデジン、コロンビア:9月9日)[試訳]
「若者たちは、生来、探し求めることにおいて、じっとしていられない(落ち着かない)ものです。そして、現在の、責任の危機や、共同体的結びつきの危機にもかかわらず、多くの若者たちが、共に、世の悪を前にして結集し、活動や、ボランティアの、さまざまな形で献身しています。たくさんの若者たちです。

 そして、何人かは、「掟を守っているカトリック信徒」(cattolici praticanti)ですが、多くは、「名ばかりのカトリック信徒」(cattolici “all’acqua di rose”)―わたしのおばあちゃんが言っていたように-です。その他の人々は、信じているのか信じていないのか分からない人々です。
しかし、この、じっとしていられないこと(落ち着きのなさ)が、彼らを、他の人々のために何かをしようとさせ、この、じっとしていられないことが、世界中のボランティア活動を、若い顔で満たしています。この、じっとしていられないこと(落ち着きのなさ)を導かなければなりません。それを、イエスへの愛のためにするなら-自分が共同体の一部であると感じながら-、彼らは「信仰の旅人(巡礼者)」-あらゆる道、あらゆる広場、地上の隅々にイエスを運ぶことを喜びとする-となります(cf. 使徒的勧告『福音の喜び』107)どんなにたくさんの人々が、イエスを運んでいることを知らずに、実際にはイエスを運んでいるころでしょうか!
これこそ、仕えながら道に出て行くこと、もしかしたら、彼ら自身もそれをすべて知らなくても、信仰の旅人であることの豊かさです。それは、証です。証は、わたしたちを、わたしたちの心の中に入り、そこで働くだろう、聖霊のわざへと開きます」。

 第二バチカン公会議は、イエスの受難・死・復活の神秘から、わたしたちの上に、世界の上にあふれ出る「聖霊」-愛の霊、ゆるしの霊、いのちを与える霊-は、構造上の「教会」をはるかに超えて自由に働いていることを、再確認している。神の望みは、「すべての人々」の救いであるからだ。目の前には、「みことばのたね(種子)」 «semina verbi»によって準備された、「喜びの知らせ」(福音)を待っている、広大な地がある。わたしたちは、異なる方法であっても、「みな」、喜びの知らせを告げ知らせる義務をもっている。

[参照]「みことばの種子 AG 11 15 、「福音の準備」 LG 16、第二バチカン公会議『教会の宣教活動に関する教令』Ad gentes AG 1965 3 11 15項。『現代世界憲章』Gaudium et spes GS 1965 10 11 22 26 38 41 92 93項。『教会憲章』Lumen gentium LG 1964 16 17項。パウロ六世 使徒的勧告『福音宣教』Evangelii nuntiandi 1975 53項。ヨハネ・パウロ二世 回勅『救い主の使命』Redemptoris missio 1990 28項。イエスと出会った喜び、イエスと出会い続けている喜びを生きているキリスト者は

 みな、大いなる確信をもって、「みことばの種子」によって準備されている地に出て行かなければならない。このキリスト者の「義務」は、大きな喜びに促されて、いても立ってもいられない心、まさに、イエスのいつくしみの心から、イエスのまなざしから、生まれる。わたしの心は、何と、まだまだ「狭い」ことか!
祈りつつ、今日も前に進みたい。アーメン

(岡立子・おかりつこ・けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)

2017年9月26日 | カテゴリー :

 Sr 岡のマリアの風 ⑮和解と平和…パパ・フランシスコの心…

 

 パパ・フランシスコが、南米コロンビアの司牧訪問(2018年9月6日~11日)を終えた。パパは、一貫して、「和解と平和」の切り離せない関係を語りかけた。「誰かが」、先ず、出て行って、自分を傷つけた相手との、具体的な和解・ゆるしの道を歩み始めなければならない。そうしない限り、決して「憎しみ」の連鎖は断ち切れない。たった一人であっても、その「誰か」が、絶望、あきらめの中で、希望を開く人となる、と。

 パパは、自分もラテン・アメリカ人である。コロンビアの人々にとって、この「和解と平和」の道が、どんなに困難であるか、人間的に見れば不可能でさえあることを、よく知っている。長い内戦の暴力、社会の不正の犠牲となった人たち。特に無実の犠牲者たちと、その家族、友人たち。パパ・フランシスコは、その人々に「復讐の誘惑」に打ち勝ってください、次の世代のために、「平和を築く人」になってください、と訴えかける。

 「わたし」が「先ず」出て行って(相手のところに来るのを待たずに)、対話をする。それは、妥協ではなく、顔と顔を合わせて、目と目を合わせて、つまり、「具体的に」「実際に」最初の言葉をかける、という意味だろう。対話は決して「馴れ合い」ではない。互いに、自分の考えをはっきりと述べ、そして相手の考えを聞く。相手の間違いを非難し合うばかりでは、「憎しみの連鎖」から脱出できない。それは、最終的には、神に似た者として造られた人間を、悪魔の姿、「憎しみの奴隷」としてしまう。対話とは、互いの考えを聞き合う中で、共有できる善を共に探すことだろう。そこから「憎しみの連鎖」からの解放、「将来の希望」への道が開ける。

 特に現代の教皇たちは、「人間は神ではない」「わたしたちは救い主ではない」ことを、教会の「罪の歴史」と率直に向き合う中で語ってきた。「人間は神ではない」-当たり前だ、と簡単に言うことは出来ないだろう。わたしたちは-少なくともわたしは-、日々の小さな事柄、人々とのかかわりの中で、あたかも「わたしが」他者の救い主であるかのようにふるまうことが、多々、ある。「わたし」自身も、ゆるされ、救われることを、常に必要としていることを忘れながら。

 人間は、誰一人として、「わたしが絶対に正しい」「わたしのしていることに、間違いはなし」とは言えないだろう。わたしが、今、ここで、「普通の」生活をしているとしたら、それは、わたしが、今日まで、たくさんの、たくさんの人々に「ゆるされ」「受け入れられ」てきたからだ。不幸にも、ゆるされることも、受け入れられることもなく生きることを強いられた人々の傷を、わたしがあたかも救い主であるかのように触れるとき、さらなる分裂、さらなる憎しみの連鎖が始まるのだろう。

 わたしたちの主、イエス・キリストは、わたしたちに模範を残した。人々の深い傷に触れることが出来るために、自ら「貧しく」なりながら。自らを、究極まで低めながら。十字架を、いつくしみの深い沈黙の中で受け入れながら。

 わたしは、わたしを非難し、拒絶する人に対して、わたしを賞賛し、受け入れる人に対するのと同じ心で接しているだろうか。「和解が抽象的なものであるなら、それは何の実も結ばない」と、パパ・フランシスコは言う。和解、ゆるし、愛…それは、実に「具体的」なもの、一人の、具体的な人の目を見つめながら、その人の幸せだけを願う心から生じるものでなければならない、と。

 子どもの幸せを心から願う母親は、たとえ子どもが自分の思うとおりにならなくても、「待つ」ことを知っている。母の「待つ」心は、受け身ではなく、実に「積極的」である。母の「待つ」心は、勇気、信頼、希望の、英雄的な行為である。母マリアが、子イエスの十字架のもとに立ちながら、憎しみ、絶望に心を閉ざさず、希望に開かれた心で「待つ」ことを知っていたように。

 今、パパ・フランシスコのコロンビアでのメッセージ(講話、説教、祈り、記者会見…)を、少しずつ読んでいる。教皇ベルゴリオは、彼自身、英雄的に、「憎しみ、絶望の誘惑」と戦ってきた、そして今も戦い続けている、と言えるだろう。現在、毎週水曜日の一般謁見でのカテキズムは、「キリスト者の希望」についてで、前回(2017年8月30日)で32回目となる。

 折に触れて、さまざまな形で教皇が、キリストの民に、すべての善意ある人々に語りかけるメッセージは、その時代その時代の教会にとって「預言的」、つまり、現在、この世の中において、神が何を望んでいるのかを指し示すものである。それは、簡単には分からない。「わたしたち」の側からも、「神はわたしに、わたしたちに何を望んでいるのか」を祈り求める謙虚な態度を要求する。

 「わたしたちは救い主ではない」。それはまさに、自分の罪深さを素直に認め、わたしたちの罪をはるかに超える神のいつくしみにより頼む、へりくだった心から生まれる「悟り」だろう。

 「キリストに従う者」としての歩みは、何と困難で、同時に、何と奥深く神秘に満ちたものだろう。それを素直に謙虚に受け入れるなら、わたしたちは「キリストの喜び」を心に抱く、という、最高の幸せをいただくのだろう。それは、人のために、その人の幸せのために、自分のいのちまでも差し出す準備が出来ている心の状態、態度、と言えるかもしれない。

アーメン

(岡立子・おかりつこ・けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)

2017年9月14日 | カテゴリー :

 Sr 岡のマリアの風 ⑭独り言…「人々」から、一人ひとりの「顔」へ… 

 今年(2017年)の六月、ここ、小長井の本部修道院を訪れてくださった、スペイン人のホセ神父とのメールのやりとり。8月17日、スペイン北東部バルセロナ中心部のランブラス通りで起きたテロ事件の知らせを聞き、悲しみ、祈っています、という、わたしからのメールから始まって。

***

 ホセ神父さま、バルセロナでのテロ事件の知らせを、痛みをもって聞きました。シスターBと、わたしたちは祈らなければならない、と話しました。何よりも先ず、わたしたち自身の心が、主の恵みに開かれるように。わたしたちは、ただ、主イエスを見つめることによってのみ-特に、わたしたちが真のいのちを得るために、極みまでへりくだり、愛し、赦して、十字架にかかったイエスを見つめることによって-、本当の平和、赦し、和解が何であるかを知り、学び、それを生きる力を与えられるのでしょう。わたしたちは、神父さまと、神父さまの民-主から愛された民-と共にいます。主イエスを真ん中にして。祈りつつ

 ***

 シスターL、シスターのみなさま、祈りでわたしたちと共にいてくださることに感謝します。

 ただ、愛から生じる正義だけが、つまりイエスの現存だけが、暴力を遠ざけることを可能にします。まさにシスター方が日々しているように、わたしたちは、祈り、働かなければなりません。素朴な(単純な)世界、より兄弟愛に満ちた世界を造り出すために。今は、犠牲者とその家族のために、共に祈りましょう。

 先日、8月15日の、長崎での、平和とマリアについての話はどうでしたか?もちろん、すばらしかったと確信しています。マリアの母のご保護のもとにいるのですから。わたしもお祈りしていました。

 祈りのうちでつながりながら。ホセ神父

***

 ホセ神父さま、メールをありがとうございます。わたしが、わたしの貧しい話を通して、何らかの方法で、一人ひとりの心の中に、わたしたちの平和、イエスさまを運ぶことが出来たのか。正直、わたしには分かりません。すべて主の御手に委ねます。

 引き続きお祈りしています。先ず、いつくしみ深い主が、わたしに「新しい心」をくださるように。憎しみ、嫉妬、絶望に耐え、対抗することが出来る心を。

 場所は離れていても、イエスさまを真ん中にして、神父さまと、神父さまの民の近くにいます。祈りつつ。

 ***

 もしかしたら、ここ本部修道院の多くのシスターたちにとって、スペインの国や人々は、遠い国の「人々」だったかもしれない。でも、先日、本部修道院を訪れ、主日のミサの共同司式をしてくださったホセ神父を通して、スペインの人々が、「顔」のある、具体的な、身近な人々となったのではないか。

 顔と顔を合わせた「出会い」を通して、「ふれあい」を通して、「その他大勢」だった人々が、それぞれ「名前」のある、「顔」のある、具体的な兄弟姉妹となっていく。そして、彼らを通して、彼らの両親、家族、友人、恩人…たちが、具体的な「顔」となっていく。

 ホセ神父と出会ったシスターたちにとって、もはや、スペインの人々は、顔のない「その他大勢」ではなくなったはずだ。

 8月には、二泊三日で、フランスの若者たちの巡礼団も訪れた。彼らは、ここ小長井の「山里」で、それまでの、どちらかというと強行軍だった巡礼の疲れを癒し、休み、黙想する時を過ごした。大きなリュックをしょって、歩き、雑魚寝をしてきた彼ら。聖堂の中で、袖なしシャツに短パンといったいでたちで、深く祈りに専心している若者たち。聖堂横の小部屋で告解をし、夕食後、夜8時から、聖ヨゼフ小聖堂でミサを捧げる…。シスターたちの慣習とは違う、しかし、真摯に祈っている姿は、心を打つものがあった。

 三日目の朝、「旅立ち」の時、見送りのために玄関前に集まった、たくさんのシスターたち。日本語とフランス語で、聖歌を歌い合い、最後には抱き合い、握手し合い、涙も流しながらの、「心の交わり」。言葉は分からなくても、笑顔で通じる。

そしてこの日から、シスターたちにとって、フランスの国、フランスの人々が、「他人」ではなくなっていく。

***

 一言の、「ごめんなさい」、「ありがとう」。目が合ったときの、笑顔、やさしさ…。

 神を信じる者の「平和」とは、一人ひとりの心の中におられる神の現存、平和であるキリストの現存を、「呼び覚ます」もの、と言えるのかもしれない。神は、キリストは、わたしたちの心の中に、「すでに」おられるのだから。ただ、わたしたちの「思い煩い」-心配事ばかりでなく、わたしたちの目を引くさまざまな誘惑も-が、神の現存を「ふさいで」いるのだろう。

(岡立子・おかりつこ・けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)

2017年8月21日 | カテゴリー :

 Sr岡のマリアの風⑬独り言…教皇フランシスコと「お母さん」

  8月15日(被昇天の聖母祭日)、「マリアと平和」について話す機会をいただき、教皇フランシスコの、今までの「世界平和の日メッセージ」、1月1日のミサ説教、お告げの祈り後の講話などを読み直している。このように、数日間、パパ・フランシスコの言葉に浸りながら、パパと「共に」考えた。

  「平和」から連想する言葉…母―いのち-関係―大切にする―聞く―開く―受け入れる-思い巡らす-信じる-待つ―ゆるす―祈り―希望―喜び…。

    キリストに従う者にとって、「平和」とは、単に争いがない、中立、妥協、ではなく、「積極的」な平和、「自分」から「出て行き」、つまり、自分の考え方、やり方、好み…から出て行き、「他者」の幸せのために祈り、動く、そのようなダイナミックさの中にある「平和」だ。それはまさに、「キリストの平和」であり、キリストはこの平和を、「十字架」を通して成し遂げた。

    パパは、「平和」のテーマと、「母であること」との間の深い結びつきを、ことあるごとに指摘する。「教会はお母さんでなければなりません」、と。

  「お母さん」の行動の原動力は、理屈を超えた、わが子を大切にする思いだ。わが子を、いとおしく、大切にする。その子が、どんな状態にあっても、母だけは、信じて、待つ。多くを語らず、ひたすら祈って、希望を失わずに、待つ。

   お母さんの幸せは、自分の幸せより先に、わが子の幸せだ。わが子が幸せを―そして、真の幸せを―見出せるためなら、何でもする。

   わが子が苦しんでいれば、いてもたってもいられず、共に苦しみ、共に祈り、希望する。苦しむ子を前に、「あなたが悪いのよ。自業自得だからしかたない」、と言って、何もせずにいられるなら、その時、すでに「母である」ことを放棄しているのだろう。

  「お母さんである」ということは、「関係」の中にいる、ということだ。子がいなければ、母もいない。

    今まで、「わたし」が生活の中心だったのに、「母」になると、その中心が、徐々に、「子」にシフトしていく。このようにして、子のおかげで、母は、さらに「人間らしく」なっていくのだろう。人間は、関係から生まれ、関係の中で育ち、関係の中で生かされているから。

  「神である主は土の塵で人を形づくり、命の息をその鼻に吹き入れられた。そこで人は生きる者となった」(創世記2・7)。たった一節の、シンプルな神の言葉。しかし、何と深いのだろう。

    人は、「生かされて」いる。関係の中にいる。人は、だから、自分の力だけで十分、自分だけが幸せになればいい、と思って生きている間は、決して幸せになれない。幸せだと思っているとしても、実は、幸せではない。文明の発展だけでは幸せになれないことは、すでに歴史が、そしてわたしたちの周りの具体的な出来事が証明している事実だろう。

   人は、創造主の神の「イメージ(姿、像)」、「似た者」として造られた(創世記1・27参照)。わたしたちの中には、すでに、神のイメージが刻印されている。

   この神を、パパ・フランシスコは、「いつくしみ深い」「愛さずにはいられない」「いつも、どんなときでも、繰り返し、ゆるさずにはいられない」神として、わたしたちに呼び起こしている。それはすでに聖書の中の神の姿であるが、時にわたしたちは、あたかも神は厳しい方、罪びとを罰する方、汚れたものを排斥する方、として考えてしまう。

   そうではない、とパパ・フランシスコは、何度も何度も、繰り返す。

   神は、子どもであるわたしたちが、不幸になることを望まない。神は、子どもであるわたしたちが、知らずに、不幸になる道を選んでいるのを、「自業自得だ、勝手にしなさい」と、ただ見ていることなど出来ない。

   家を勝手に飛び出していった子が、ただお腹がすいたから、という理由で家に帰ってきたとしても、ただただ、「帰ってきてくれた」ことで大喜びし、駆け寄って子を抱きしめ、宴会まで開いてしまう、「愚か」なまでの「お父さん」。イエスの、いわゆる「放蕩息子」のたとえ話に出てくる、「何でそこまでするの~?信じられない!」お父さん(ルカ15・11-32参照)。でもそれが、実は、お父さんである神の、子であるわたしたちとの、日々の関わりなのだろう。

   それが、生きておられる神、アブラハム、イサク、ヤコブ…そしてイエスの神、わたしたちの神の真の姿であり、それを聖書は、たびたび「母のイメージ」で描いている。つまり、神の心は、限りなく「母の心」に近い。それは、何よりもまず、母が、勇気をもって、「いのち」に「はい」と言い、「他者」の「いのち」を生かすために、自分のいのちを投げ出すことを知っているからだ。

    わが子を、何にもまして大切にする心。わが子が、自分の思うようにならなくても、祈り、待ち、思いめぐらし、希望し、信じる母。

   そして、パパ・フランシスコは、「教会はお母さんでなければなりません」と言う。

   パパの思考の中で、イエスは、母マリアを、「教会は、このようになってほしい」という思いを込めて、教会に賜物として残した。「お告げ」の時の、「いのち」への「はい」から、十字架のもとで、その「いのち」が暗黒の淵に飲み込まれるかに見えた時にも、信じ、希望し、子と共に苦しみながら差し出した「はい」まで。そして、最初の、不安と自責の念に沈んでいた共同体の中で、わが子の約束を信じ、待ち、希望した母。

   今年の1月1日のミサ説教の中で、パパ・フランシスコは言っている。「マリアはわたしたちに、困難のただ中でわたしたちを包み込む、母の温かさを与えてくださいます。それは、教会の懐の中で、御子イエスによって始められた『やさしさの革命』を、誰にも、何ごとにも消すことを許さない、母の温かさです。母がいるところには、やさしさがあります。マリアは母の心をもって、わたしたちに、謙虚さとやさしさは、弱い者の徳ではなく、強い者の徳であることを示し、自分の重要さを実感するために、他者を虐げる必要はないことを教えています(使徒的勧告『福音の喜び』288参照)」。

  わたしたちは何と、世のお母さんたちに学ばなければならないだろう!

(岡立子・おかりつこ・けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)

2017年7月27日 | カテゴリー :

 Sr岡のマリアの風⑫ 独り言…神学校の授業を終えて…

 2017年度の神学校での授業(マリア論)を終えて、ほっとしているのと同時に、主が望んでいることに、誠実に、単純に―自分の名誉とか利益とかを求めず―答えただろうかと、自問しているところだ。主イエスの母、マリアについて話すときは、いつも、そうだ。ある意味、自分自身の信仰と向き合うところから始まる。「あなた方のうちで一番の者になりたい者は、みなの僕(しもべ)となりなさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人の贖いとして、自分の命を与えるためである」(マコ10・44-45)というキリストの言葉を、わたしたちは何度聞いたことか、そして、何度口にしたことか―そして、それを何度、相手に(自分にではなく)要求したことか!-。でも、人間の本性―nature-は、弱い。それは、神学的理論というより、わたしたち自身が、経験をもって知っている。

 「学ぶ」という作業は、ひたすら忍耐を要求する。すぐに結果が出ない場合は、なおさらだ。「スピード・ラーニング」が魅力的なのは、わたしたちが、出来るだけ簡単に、手っ取り早く、知識を身につけたいからだ。パソコンやインターネットによって、以前、図書館に行き、本を捜し、頁をめくり、書き写し…と、ひじょうに時間のかかった一連の作業によるリサーチが、あっと言う間に出来るようになった。20年前、ローマで勉強していたとき、何かと「日本の人口は?国土の面積は?キリスト教徒の数は?…」と聞かれ、数字に弱いわたしは、手帳に書き留めて持ち歩いていたものだ。それが今は、インターネットで調べればすぐに答えが出てくる。

 そのような「学び方」に慣れている若い世代に、まず、「学ぶ」ことを教える。それは、「仕える」ことだと思っている。自分の満足を求めるのではなく、相手の善のために仕える。そして、その「善」は、たぶん、後になって分かる。

 マリア論の授業や講話を100人が聞いて、その中の1~2人が興味をもち、そこからさらに、生涯をかけてこの学問分野を深めたいと願ってくれればいい、と思っている。神学のどの分野でもそうであるように、マリア論も、それほど奥が深く、人生全部をかけても、知り尽くすことはないからだ。

 神学校で教え始めて、今年で11年目。マリア論を学んだ神学生たちのうち、何人くらいが、「面白い学問だ、もっと知りたい」と思っただろうか。時々、教え子が「ヘルプ・メール」をくれる。司牧の現場などで、マリアに関することで、どのように対応したらよいのか分からない時に。そういう時は、何を差し置いても、出来るだけ丁寧に返事を書くように心がけている。それが、わたしの「つとめ・仕えること」だと思うから。わたしの恩師、サルバトーレ・ペレッラ教授(神父)は、ひじょうに忙しい人であるが、わたしがマリア論に関して質問メールを出せば、ほとんど必ず、返事メールが来る。「神学者のつとめは、教会に奉仕すること。つねに、教会に忠実であるように」とは、ペレッラ教授が繰り返しわたしに叩き込んでくれたことだ。「わたしが…」ではなく、「教会」、「神の民」に仕えること。教会が、この世での、キリストの救いの「現場」となるように。

 毎年、神学校での短い講義のために、わたしなりに全力をかける。将来の司祭たちを通して、教会に仕えたい、という、わたしなりの理解だ。

 「仕える」こと、完全に他者のために尽くすことは、難しい。でも、それこそ、主イエス・キリストがわたしのために、わたしたちのためにしてくださったことだ。母マリアは、わが子の、その心を、自分の心としていった。「わたしは主のはしためです」と潔く宣言するマリアが、わたしは、本当に好きだ。この学問を学ぶことが出来たことに感謝しつつ…。

(岡立子・おかりつこ・けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)

2017年6月26日 | カテゴリー :

 Sr岡のマリアの風通信⑪独り言…大雨の中、聖母をたたえて…

 もう何年になるだろうか…修道会が母体となった、社会福祉法人の施設-心身障がい者施設―の中で働くシスターが少なくなってきて、聖母賛美をすることが難しくなった。…そうか、なら、本部修道院のシスターたちの方から、法人事務所、四つの施設を訪問して、「お出かけ聖母賛美」をしてみよう。つまり、「聖母行列」と言っても、車いすの利用者、同伴する職員たちは実際には行列が出来ないので、シスターたちが回って、賛美を「つなげていく」というイメージ。え~っ、無理じゃない?だいたい、職員たち(ほとんどキリスト教信者ではない)が乗って来ないでしょう~。と言われる中、いいです、いいです、「わたしたち、シスターたちが」、まず、マリアさまを賛美したいのだから。ちゃんと計画表とプログラム、なぜそのような行事をするのか、何を準備してほしいのか、を前もって法人事務局に出しますから…。ということで、この、「手作り賛美」、シスターたちの「お出かけ賛美」が始まった。

 やり方はシンプル。シスターたちが賛美を歌いながら行列して、各施設を回る。それぞれの場所で、一緒に聖母への賛歌を歌い、神のみことば(聖書)を聞き、聖母像(または聖母子像)に戴冠し、利用者、職員、家族の方々を、聖母の母のご保護に委ねて祈り、最後は父である神さまに、聖母とともに感謝を捧げて祈る。聖書の箇所、結びの祈りは、年間を通して祝われる聖母の祝日の典礼の中から、それぞれの場所で異なる箇所を選る。全部の場所を回るシスターたちには、出発点の法人事務所から、終着点のむつみの家の施設までで、聖母に関する、大切な聖書の箇所をすべて聞くことになる。

 聖書朗読と、聖母像への戴冠は、それぞれの施設の職員に任せる。朗読箇所を前もって知らせ、また、戴冠のやり方について簡単な説明をしておく。大事な瞬間なので、必ず練習をしてください。皆が見守る中で行われるので、聖母像の前からではなく、後ろか横から行ってください、と。

 第一回目、ふたを開けてみると…何と、わたしたちでさえ予想をしていなかった、職員、利用者の方たちの「乗り方」!それぞれの施設の聖母像に、その施設の職員たちが、沈黙の中で「戴冠」する、荘厳な瞬間は、みなが息をのみ、シスターたちの中には感動して涙を流す人も…。それくらい、職員の方たちが心を入れて準備したのだ。

 こうして、毎年、5月の聖母月と、10月のロザリオの聖母の月の二回、合同聖母賛美を行うことになった。

 そして、今年、2017年の5月。その日は、初めて雨が、しかも、雷を伴う「大雨」が降った。施設から、聖母賛美、どうするんですか~?と不安げな電話も。だいじょうぶ。もちろん、行います!施設の外にある聖母像の前では行えないので、プログラムにも書いておいたように、施設内に聖母賛美の場所を用意してください!朝食の時、シスターたちに言った。みなさん、大雨の中、マリアさまへの感謝、賛美、喜びを運びましょう!

 14時前、修道院玄関に、傘、雨がっぱ、長靴で完全装備したシスターたちが集まった。皆で十字架のしるしを切り、ロザリオを唱えながら、最初の目的地、法人事務所に向けて出発。雨に負けじと、大声で賛歌を歌いながら歩く。不思議と、誰も文句を言わない。びしょ濡れになりながらも、喜んで歩く。今までにない経験もした。ある施設に着くと、大雨の中に現れたシスターたちを見て、思わず利用者の方々が拍手で迎えてくれる。ある施設では、わたしたちが入り口の端に脱いだ長靴を、職員の方々が、中央にきれいに並べてくださった。行列の全行程に参加したシスターたちは、一時間半、ほとんど「歌いっぱなし」。それでも、何と幸せだったことか!

 この「幸せ」の秘密は…わたしたちの思い通りにならなかったこと(大雨!)を、みなで心を一つにして、安らかに受け入れて、利用者、職員の方々を喜ばせるために、出来る限りのことをした。まったく、自分たちの好み、プロジェクトから「脱出」し、人々の喜びのために、自分の時間を差し出した。だから…神さまは喜んで、わたしたちのささげものを受け入れてくださった。神さまの懐で、わたしたちのお母さん、マリアさまも喜んでくださった。だから、幸せだった。

 最後の施設で賛美が終わると、びしょ濡れのわたしたちに、職員の方々が、飲み物とアイスクリームを用意してくださった。天の糧と、地の糧に養われて…Deo Gratias(神に感謝)!

 

(岡立子・おかりつこ・けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)

2017年5月28日 | カテゴリー :

 Sr岡のマリアの風通信⑩ 独り言…聖母月…

  五月は聖母月。今年は、東京のK教会に招かれて、マリアさまの話をすることになった。ありがたいことだ。

  何といっても「マイナー」なマリア論Mariology。「一応」、カトリック教会の神学分野の一つで、しかも、そのルーツは、すでに「聖書」の中に、しかも、パウロ書簡の中にも見出すことが出来る、と、わたしの恩師たちを始め、近代マリア論学者たちは明言している。恩師の一人、聖書学者のAlberto Valentini教授は、パウロ書簡の中の、マリア論の「萌芽」について論文を書いているし、もう一人の恩師、Aristide Serra教授は、さらにさかのぼって、旧約聖書の中に「予表」されている、「メシア・救い主の母」の実現としての、ナザレのマリアについて、何冊もすばらしい論文を書いている。

  そして、Serra教授の論文の内容が、あまりにもすばらしく、そして、あまりにも知られていない分野なので、わたしは、へたな翻訳ではあるが、せっせと訳している。マリア論が「マイナー」なのは、もったいない!と思うから。マリアこそ、神と、神の民とを結ぶ、また、旧約の神の民(イスラエル)と、新約の神の民(教会)を結ぶ、さらには「花婿・創造主」と、創造主によって造られた「花嫁・人間」を結ぶ、何というか、「交差点」、結び目、にいる。マリアは、キリスト教の「中心」ではない-中心は、唯一の救い主、イエス・キリストだ-。しかし、マリアは、キリスト教の中心であるイエス・キリストと、切り離せない絆で、一人の人間として最も緊密な絆で結ばれている。

  …ということを、第二バチカン公会議の『教会憲章』(1964年)は、特にその第八章で、マリアに関する教会の教えを、もう一度源泉に戻って(聖書、教父たちの伝統、典礼…)再確認する中で、明言している。

  さて…聖母月に、マリアさまの話。何を話すか?選択肢として、「伝説(おとぎ話)的話」、「当たり障りのない話」から、「チャレンジ的話」まで、ある。「チャレンジ的話」は、もしかしたら、訳の分からない、「だから、何なの?」と言われるかもしれない話-つまり、マリアの姿を、ますます分からなくさせるリスクのある話―。わたしの能力からいって、それを「分かるように」話せるか、と言われれば、「?」では、ある。

  でも…敢えて、「チャレンジ的話」にも、まさに「チャレンジ」してみよう。そうしないと、いつまでたっても、マリア論Mariologyは、a pious devotion(敬虔な信心)の域を「超える」ことが、出来ない。敬虔な信心は、ひじょうに大切であり、この、民衆のpiety(敬虔、信心)があるからこそ、キリスト教は、「生ける神」の、まさに、わたしたちの日々の生活に「関係のある」宗教であり続ける。わたしたちの神は、本当に、「肉」に、「人間」になったのだから、わたしたちの「肉」、「人間性」は、キリスト教において大切な部分である。

  それでは…K教会での、聖母月のマリアさまの話…。ここ、本部修道院のシスターたちの絶えざる祈りに支えられ、少し「チャレンジ」してみよう。わたしの栄光のためではなく、聞いてくださる人々が、マリアの真の姿―「わたしたちの一人」、わたしたちの「母」、わたしたちの「姉妹」、わたしたちの「模範」-を、少しでも知り、それによって、苦しみ、悩みの絶えない日々の生活の中で、希望と勇気をもつことができるように。…わたし自身、マリアのことを知れば知るほど、「わたし」が「誰」であるか(神のいのちを共有するよう招かれ、共に、一つの目的に向かって信仰の旅路を歩いている、神の民の一人)を知り、出口が見えないような困難の中にあっても、確かな希望を持ち続けることが出来る、と、日々、体験している。

  K教会の信徒の方々の上に、復活の主の豊かな祝福を祈りながら。アーメン

(岡立子・おかりつこ・けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)

2017年4月26日 | カテゴリー :

 Sr岡のマリアの風通信 ⑨ 独り言…T神父の四旬節の黙想会…

 

 T神父の四旬節の黙想会で。

   エマオの弟子たちが、イエスさまのことばを聞き、イエスさまと共に歩き、「心が燃えた」(ルカ14・13-35参照)…「わたしたちも、燃やしていただきたいですね~。どうでしょう、イエスさまがわたしたちの傍らを歩きながら、わたしたちのいのち、わたしたちの人生をすべて解き明かしてくれたら…燃えますよね~。いや~、こうして燃やしていただかなければ、やってられないですよ、キリストに従う生活なんて、この世の中で」。

   T神父は続ける。「この弟子たち、どんなに嬉しかったでしょうね~。どうですか?失望のどん底にいたのに、イエスさまに心を燃やしていただいて、まったく別の人になった。もう、もたもたせずに、すぐにエルサレムに、たぶん走って、引き返した。嬉しくて、嬉しくて、しょうがなかったのでしょうね~」。

   そして、バシッと決める。「みなさん、わたしたちは、こんなに、こんなに嬉しい出来事を、今、準備しているんですよ。イエスさまの復活は、こんなにも素晴らしいことだから、その喜びを準備するために、40日間もかけるんです。わたしたち、燃えていますか?」。

   う~ん、心に響きました。心が冷めているとき、信じたくてもなんだかボ~っとしているとき、イエスさま自身に、わたしの心を「燃やしていただきたい」!四旬節って、「泣き笑い」の時なのかも。わたしの罪深さに泣きながら、こんなわたしのために、神さまがご自分の一番大切なもの、独り子を世に遣わしてくださって、その独り子イエスさまは、こんなわたしのために、すべてを喜んで献げ尽くしてくださったことを、わたしをご自分の永遠のいのちに引き寄せるために、十字架の死まで、すべてを投げ出してくださったことを、深く、深く喜ぶ。そんな時なのかもしれない。

 神さまの正義は、いつくしみ。神さまの掟は、愛のため。

 だから、今日も歩きます。前に、もうちょっと前に。イエスさま、わたしと共に歩いてください。マリアさま、ヨセフさま、わたしを見守り、助けてください。アーメン!

(岡立子・おかりつこ・けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)

2017年3月25日 | カテゴリー :

Sr岡のマリアの風通信 ⑧独り言…帰省…

     修道誓願宣立25周年…で、ふるさと、茨城県日立市に帰省しました。

    一人暮らしの母は、ほんとうに「おかげさま」で、それなりに元気にしています。かえって、わたしのためにあれこれ気を遣って、まめまめしく動いてくれました。「してもらうことに甘える」のも、「大切な愛のわざ」と、半分、言い訳で、母が「これ、してあげようか?」と言ったことにはすべて、「わぁ、ありがとう。お願い!」と甘えていました。

    今、日立教会では、わたしがイギリスで洗礼を受けて帰ってきたときに主任司祭だったK神父さまが、巡り巡って、また司牧をしておられます。K神父さまは、当時、日本語のミサの受け答えを知らなかったわたしに、とても丁寧に、謙虚に、そして時間をかけて穏やかに接してくださいました。

    その後、数週間で、わたしは長崎に行き、結局帰って来なかった(シスターになったので)のですが、K神父さまに、言葉だけでなく、心から心へ、教えていただいたことは、わたしの信仰の歩みの中で大きなものであり続けています。

    今回、たまたま25周年で帰省し、日立教会にはK神父さま。これも何かの縁。神父さまや、信徒の皆さま、特に「お母さんたち」と語り合い、共に過ごす時間を、感謝していただきました。帰省中は、わたしの誕生日も重なり、母はもちろん、妹、姪から、また本部修道院のシスターたちからの祈りのメッセージが届き、神に感謝!K神父さまは、「シスターの誕生日祝いに」と、お茶を立ててくださいました。

    日立の海は、どこまでも青く、岩にあたって砕ける白波がほんとうに美しく、たくましい。日立教会は、この小さな「田舎の町」の小さな群れ。しかし、神は救いの歴史の中で、いつも、「小さな群れ」、主に信頼する「残りの者たち」を通して、偉大なわざを行ってきました。

    貧しい、小さな「わたし」が、主の変わらぬ「やり方」に信頼し、主のわざに心を開いていくなら、どんな闇の中でも、わたしの中で、主の光が輝くのでしょう。十字架のかたわらにたたずむ、主の母マリアの心が、主の住まいであり続けたように。アーメン!

 (岡立子・おかりつこ・けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)

2017年2月20日 | カテゴリー :