*米国のドミニコ会の修道士たちがケルトの伝統音楽をモチーフにした聖歌を作曲、演奏開始!以下でお聞きになれます。
(2017.12.13 Crux/CNA) The band consists of 10 members from the Dominican House of Study and St. Dominic’s Priory in Washington, D.C. It began as a lighthearted project with a focus on traditional Celtic music.
“The band itself was started by a couple of friars in our province,” said Brother Jonah Teller, who sings and plays guitar in the band. It grew out of a group of brothers who would get together to play Irish tunes, he said.
お祈り、ありがとうございます。ポーランドに着いてから、ず~っと「何かが」あって、PCに向かう時間がありませんでした。明日は帰国、という今、やっと書いています。おかげさまで元気です。
ところで、今日、12月3日、待降節第一主日、ここ、ストラホチナ村は真っ白です!朝から雪が降り、だいぶ積もって来ました。ポーランドのシスターたちによると、これは「まだまだ少ない」そうです。
ローマから着いたばかりの時、空港に迎えに来てくれたシスターから、「そんな恰好(薄着)では死んでしまう!」、というような感じのことを言われ、Sr.Jから「生もの」のセーターをもらい(手編みということを言いたかったらしい)、Sr.Aからダウンの軽いコートをもらい(ファスナーは、ゆっくりと、そーっと上げないと壊れるらしい)、冬用の靴を買ってもらい、ショールをもらい…。部屋用には、「暖かいパジャマ」とガウンを貸してもらい(あげる、と言われたけれど、荷物に入らない!)。
修道院の時間割は、毎日、「変化」します。ポーランドでは当たり前、とか。前日の夜にならないと、次の日の朝のミサの時間が分からなかったりします。信徒たちはどうするんだろう?特に、午後3時の祈りから始まって、夜9時頃まで、おやつや食事をはさんで、ずっと祈り、ミサが続きます。
ミサは、朝、修道院で捧げられることもありますが、夕方の教会のミサにはあずかるので、時に、一日に二回、あずかります。主日は、何度もミサが捧げられますが、シスターたちは、出来るだけ二回ミサにあずかるよう勧められているそうです。今日は主日ですが、わたしは荷物の準備をしているので、朝一番のミサにだけあずかりました。
時々、主任神父さまの長い説教がありますが、スラブ系の言葉は、何について話しているのか、全く検討もつきません。時に「サクラメント(秘跡)」とか、イエス・キリストとか、神の母とか、マリアとか…。分かるのは、それくらい。主の祈り、アヴェ・マリアの祈り、栄光唱はたびたび唱えるので、「祝福」、「永遠に」、「今も」…という単語は、何とか識別できます。
そういうわけで、シスターたちはそれぞれの仕事で忙しいのですが、わたしは、リラックスして祈る時間をいただいています。
先日、ポーランド語を勉強している日本から派遣されたSr.Jの、週末の帰省の迎えついでに、ルブリンに行ってきました。ルブリンは初めてです。最初に訪問した司教館で、秘書の神父さまが、イタリア語が出来る、ということで、カテドラル(司教座聖堂)の説明をしてくださいました。
カテドラルは、二人の聖ヨハネに捧げられていて(洗礼者ヨハネと福音作者ヨハネ)、それぞれの聖画が祭壇上に置かれています。また、祭壇のすぐ上の、キリストの洗礼の聖画は、スライド式になっていて、降誕祭にはご降誕の画、四旬節には十字架の画が、下から出てくるそうです。
金曜日だったので、聖体顕示(アドラチオ)があり、信徒たちが祈っていました。また、告解場には、長い列が出来ていました。
(2017-12-03記)
(岡立子=おか・りつこ=けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)
先日教皇様からいただいた東京教区大司教の任命ですが、任命されますと2ヶ月以内に,その新しい司教座に「着座」をしなければならないと定められています。 わたしは東京教区司教座に,正式に着座をするまでは,新潟教区の教区司教です。その着座式は、12月16日土曜日の午前11時から、東京教区のカテドラルである関口教会で行われることになりました。お時間がありましたら,ご出席くださり、一緒にお祈りください。
また、新潟教区の教区司教を離れるに当たり、新潟教区では離任ミサをしてくださることになりました。それは着座式の一週間前、12月9日土曜日の午後1時から、新潟教会で行われます。こちらも参加していただけると幸いですが、ただ東京とは異なり新潟教会の聖堂は300人ほどしか収容できませんので、そのことはご承知おきください。
新潟教区の司教座は、12月16日から「空位」(教区司教が任命されていない状態)となります。しかし教区は生きていますから、教区管理者が任命されます。それについては、空位期間が始まってから、発表となります。
なお、東京教区の皆さんにあっては、わたしが着座後即座に、ばりばりと東京で働くことをご期待いただくのやもしれませんが、もうしわけない。
なにぶん年末から来年1月末までは,すでに数年前からお約束した事などが山積みで、それを順番に行っていかなくてはならず、そのため東京への引っ越しも着座式以降になろうかと思います。もちろん着座式前に,少しずつ東京に住むことができるようにはいたします。ですから何月何日をもって,きれいに新潟を去り,東京へ移りました、とはならないことをも,ご承知おきください。
どうぞみなさまのお祈りによるお支えを,心よりお願いいたします。
12月9日は、東京大司教への着座式の一週間前です。新潟教区では今日、まもなく新潟教区を離れるわたしのために、離任ミサを企画して下さいました。
今にも雪が降りそうな寒い土曜日でしたが、教区各地から多くの方が参加してくださり、新潟教会聖堂は200人を超える方々で一杯となりました。
また司祭団も、教区司祭団は他の先約があった数名を除いてほぼ全員が、また山形地区や秋田地区からも代表が駆けつけてくださいました。神言会からは管区長のジェブーラ神父が来て下さり、祭壇上では秋田の永山神父様と並ばれたので、新旧管区長のそろい踏みとなりました。ジェブーラ神父はポーランドから学生時代に来日され、わたしとは名古屋の神学院時代を一緒に過ごし、わたしの司祭叙階の日に助祭に叙階されました。また昨年司祭団の黙想会を指導していただいた縁で、サレジオ会の阿部神父さまもおいで下さいました。感謝です。
ミサ後には、センター二階で感謝の集いを開いていただき、多くの方々と挨拶を交わすことができました。また本当に文字通り山のように霊的花束をいただきました。感謝します。これからもどうかわたしがふさわしく司教職を果たすことができるように、みなさまのお祈りをお願いいたします。あと一週間で、新潟教区の司教座は空位となります。一日も早く、ふさわしい司教が任命されるように、お祈り下さい。
(菊地功=きくち・いさお=司教・新潟教区長=12月16日に東京大司教に着座予定)
2017年12月3日
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カテゴリー : 菊地大司教
(2017.12.2 菊地・新潟司教の日記)
今週は,年に二回開催される国際カリタスの理事会にあたる地域代表会議(Representative Council)に出席するため、ローマに来ていました。
国際カリタスは世界に160を超えるメンバー団体を持つ連盟組織です。連盟に参加が許されるためには,それぞれの国や地域のカトリック司教協議会の承認が必要です。日本からはカリタスジャパンが連盟に名を連ねています。
国際カリタス事務局はバチカンのローマ市内にある飛び地のひとつ、サンカリスト宮殿にあり、ここには先般複数の社会福音化活動を担当する部署を統合して誕生した、総合的人間開発促進部署も本部を置いています。(写真左、サンカリストの国際カリタス入り口)
国際カリタスは世界を7つの地域に分けており,わたしが責任者を務めるアジアは、24のカリタスがメンバーとなっています。アジアからこの理事会に参加するのは、わたしと、パキスタンとミャンマーの代表ですが,今回はわたし以外の二人は欠席(教皇様訪問や政治状況など)。アジアからはもう一人、オブザーバーでカリタスアジア事務局長も参加しています。
今回の主な議題は、2015年から19年までの活動計画の中間評価と、19年以降の活動計画の基本方針の確認。そして18年の予算の承認などですが、途中、新しくできたお隣の総合的人間開発の部署の次官(秘書)に任命されたフランス出身のブルーノ・デゥユフェ師においでいただき、総合的人間開発について2時間ほどお話をいただきました。
ちなみに,私の国際カリタス関係の関わりは,カリタスアジアの責任者(President)の任期が終われば終了します。任期は一期4年の現在2期目で、2019年5月までです。規定でそれ以上の再選はありません。(写真左下、朝霧のテベレ川。毎朝、途中でバスを降り、この川沿いを散策しながら会議に向かいます)
カリタスの業は単なる愛の奉仕のとどまるのではなく、神から与えられた賜物であるこの尊厳あるいのちを、十全に生きることができる社会を生み出すことを目指して行われています。ですから,一部の心優しい人の特別な活動なのではなく、神を信じる人にとって当然取り組まなければならない業でもあります。
人間開発は,私たちの信仰的には,神から与えられたタレントを十分に生きることができ,それによって一人一人の使命が果たされるような状況を生み出すことであり、それは貧富の問題や飢餓の問題や難民問題にだけ留まるのではなく,人が生きるという現実のすべての課題に及ぶがために、総合的なのです。
すべての信仰者が,カリタスの業に開かれている教会共同体を目指したいと願っています。
(菊地功=きくち・いさお=司教・新潟教区長=12月16日に東京大司教に着座予定)
2017年12月2日
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カテゴリー : 菊地大司教
「教会は疲れている。幸せなヨーロッパと米国において、欧米の文化は歳を重ね、教会は大きく、宗教施設には人はいない。教会の官僚主義的な装置は多くなるばかりで、儀式と祭服はもったいぶったものに見える。(中略)今日、教会では残り火の上にとても多くの灰が覆い被さっているのを見て、私はしばしば無力感に苛まれる。どうすれば、愛の炎を再び燃え立たせるために灰の中から残り火を取り出すことが出来るだろうか」
ここに掲げた言葉は、故カルロ・マルテイーニ枢機卿(1927〜2012年)が、亡くなる数週間前、イエズス会士によるインタビューに応えたものである。
「教会は疲れている」という枢機卿の率直な言葉に、どれくらいの信者が、共感する事が出来るか、私には不安がある。と言うのは、週に一度、月に一度ぐらいの信者生活では、教会全体の行き詰まっている深刻な状況が分からないのでは・・・と思うからである。
マルテイーニ枢機卿彼は、教皇フランシスコと同じくイエズス会出身である。ミラノ教区の司教に任命され、2002年までミラノ大司教区の教区長として働き、イタリアのカトリック教会の優れた指導者として高く評価され、一時は、故ヨハネパウロ二世の後継者になるのではないか、と見なされていたほどの人物である。晩年パーキンソン病などを患った上、高齢であったことから教皇として選出されることはなく、2012年、85歳で帰天したが、その亡くなる直前に、それまで胸の奧に深く秘めていた、カトリック教会の現状に対して抱いていた心配、不安を、初めて公に口にしたのである。
教会が、その力を弱め、人々に対する影響力を失ってしまっているという事実は、ヨーロッパの町を歩いてみれば、誰の目にも明らかである。
街の至るところに教会の建物はある。しかし、どこの聖堂も、現代人を引きつける魅力ある空間ではなくなっている。薄暗く、人の気配はなく、ひっそりと静まりかえっている。都市の中心にある、天高く聳える大聖堂も、その昔は人々の燃えるような信仰の発露の場であったろうが、今やその中で静かに祈る信徒の姿はほとんどなく、目につくのは、ガイドブックを片手にして堂内を歩き回る観光客の姿ばかりである。
ちなみに、カトリック国といわれていたフランスでもイタリアでもスペインでも、日曜日のミサの参列者は信者の10%前後、幼児洗礼も、教会で結婚式を挙げる者も、激減している。
さらにまた、かつては隆盛を誇った多くの修道会も、志願者が激減して衰退し、その広大な敷地と建物が売りに出され、ホテルになったり研修所になったり、図書館になったりしてしまっている。
「しばしば無力感に苛まれる」の枢機卿の言葉には、おそらく多くの司祭たちは、心から共感するのではないかと思われる。司祭たちは、自らの人生を賭けて、教会のために尽くそう、と決断した男たちである。しかし、キリストが、なかなか悔い改めない人々を前にして嘆いた様に、司祭たちが、いくら悲しみの歌を歌っても、喜びの笛を吹いても、手応えはない。人々の日常は社会の営みにすっかりのみ込まれ、こころも時間もそこに奪われ、教会には足が向かなくなってしまっているからである。
多くの司祭達は、しばしば自分たちの存在が無意味に思え、無力感に苛まれてしまう。それは、どの司祭も体験することである。枢機卿も、その一人であったと言うことである。
しかし、大半の司祭は、それをなかなか表には出さない。自らの内なる苦しみも教会についての不満、批判も滅多に口にしない。と言うのは、信徒たちに負担をかけてはならない、という責任感からである。また、ある意味で、教会という組織の公僕だからである。マルテイーニ枢機卿のインタビューが、思い悩み、心痛めている多くの聖職者たちから好意的に受けとめられたことは、事実である。
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大半のひとが、社会の営みにのみ込まれ、影響力を失い社会の少数派になっていくカトリック教会は、今後どのような姿勢で、社会とそして人々と向き合えばよいのか、これからのカトリック教会の大きな課題なのである。
これまでのように、「自分たちにはキリストから委ねられた真理があり、救いが保証されている」という信念のもとに、社会に生きる人々を「世俗主義に毒されている」と決めつけて、上からの目線で語りかけ働きかけていく姿勢を続けるならば、歯止めにならないどころか、教会離れをますます進行させるだけになってしまうことは間違いない。
これからの教会は、教会を無視し教会から離れていく人々を責める前に、これまでの自分たちの姿勢についての反省し、新たに進むべき道を探るべきなのではなかろうか。
その点で、私が感服したのは、マルテイーニ枢機卿の姿勢である。二十数年前のことである。お忍びで,日本を訪れて来たことがあるのである。その際、個人的に枢機卿と会食する機会に恵まれた。その席で「なぜ,日本にこられたのですか」と問う私に、枢機卿は「ミラノでも教会離れが進んでしまっている。教会が社会の少数派になってしまうことは、これからも避けられない。そんなとき、教会がどのような姿勢で社会と向き合ったらよいのか、カトリック信者が、総人口の1%にも満たない社会の少数派として苦労している日本の教会からヒントをえたい、と思って来日した」と答えてくれたのである。
確かに、日本の教会は,社会の少数派である。信者の数は,全人口の0、4%。1000人の人が集まれば,信者はわずか4人ということになる。その4人が、「自分たちだけに真理があり、光がある」と自負して、一般の人々に馴染みのない教会用語を駆使して、周りに語りかけ働きかけていっても、信頼をえられるはずがない。
日本の社会で教会が人々から信頼され、意味ある存在となるための唯一の道は、苦しみ悩む人々に対する誠実な愛、そして彼らを無条件で包み込む、損得を超えた真摯な愛を証しすることである。それは、資本主義の論理が隅々にまで浸透してしまった社会では、最も否定され軽視されているものだからである。そうした生き方は、愛に徹したマザーテレサの生き方が宗派の違いを超えて人々の共感をえたのと同じように、日本でも多くの人々の共感を呼ぶはずである。
その原型は、キリストにある。少数派になっていく教会に求められることは、余計な物を脱ぎ捨てて、キリストの原点に立ち戻ることなのではなかろうか。
(森一弘=もり・かずひろ=司教・真生会館理事長)
前回の「諫死としての特攻と九回生きて帰還した特攻諫死としての特攻と九回生きて 帰還した特攻」に続けて・・。
私は旧制の松本高等学校を3学年までやって卒業できた旧制高校最後の卒業生の一人です。卒業は1950年3月のことでした。同窓会会報93号で「80周年記念祭特集」と銘打たれたものを見ていたら、姫路高校卒業生、鷲見昭彦氏の「特攻散華の友」と題する投稿が目に留まりました。
敗戦真際の事、 ここにもう一人国の行く末を安じつつ特攻死した若者の姿がありました。昭和20(1945)年4月28日 、海軍神風特別攻撃隊第一正気隊の隊員として沖縄戦に散華した安達卓也という学徒兵の想いが「日誌」 からの抜書きで紹介されていました。
「いかに特攻が続き出現しても、中核をなす政府が空虚であっては早晩亡国の運命が到来する であろう」、祖国の中核に「いかなる悲境にも泰然として揺るがず、身を鴻毛の軽きに比して潔癖な道義にのみ生きる大人物の出現」を信じ、自分はここに「爆発しその最後を飾り、一瞬の中に生を終えんとする」、そして「神国の新しき神話の世界創造の礎たらんとする」。
かくの如く、日誌に書き残していた学徒兵安達青年は、出撃に当り「後顧なし」 を最後の言葉とした。
しかし、それからいく星霜、彼の想い描いた「神国の新しき神話の世界」はどうなったか、いやど うなろうとしているか。「戦争を放棄した平和国家」の「神話」はいまや潰えんばかりである。
あの 敗戦の晩春特攻死した青年安達卓也は特攻死を平和立国への殉死と観念していたのだったが、歴史とはそのようなロマンとは無慈悲にも無縁であるのか。今我々は問われている。(2017・11・29 記)
(三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所長)
2017年12月1日
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カテゴリー : 三輪先生
プ ーミポン国王様の喪に服して1年、 国を挙げて準備した葬儀の会場は、実に真心のこもった、 タイの芸術と技術を駆使した式場でした。葬儀が滞りなく行われた後、会場の説明、 作業工程の詳しい説明を加えて市民に展示公開されたので、私もバンコク教区の希望者 に加わって訪問しました。
ご遺体を安置した木彫の柩の見事な彫刻をを見て固唾を飲んでしま いました。
迎賓の参列した館には、 国王様の88年の歩み業績が展示されていました。 国民を愛し労わり尽くしたご生涯、これ程までに丁重で、 心のこもった埋葬の儀の理由が物語られ、国民の慕情、 尽きない感謝の念が溢れた会場でした。
王宮広場の会場は年内公開されるとの事、 日々訪れる人々の行列が絶えません。 人々の心と歴史に刻まれた慈父プーミポン国王の思いは、 後の世まで語り継がれることでしょう。愛と慈しみの思いと行動こそ平和と一致をもたらすことを心に明記した訪問でした。
国民は喪服から普段の服装に戻り、 新国王の即位戴冠式に備えています。 誕生色は同じく黄色で街は明るい雰囲気です。
昨年は自粛した静かなクリスマスでしたが、今年はまた、 素敵な華やかな飾り付けで賑わうことでしょう。 仏教の常夏のタイで、 汗を流しながらで救い主のご降誕を祝う味わいも格別です。
(阿部羊子=あべ・ようこ=バンコク在住、聖パウロ女子修道会会員)
2017年11月29日
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カテゴリー : Sr阿部
1981年1月13日午前7時、教皇ヨハネ・パウロ二世はバチカン宮殿の最上階にある私的聖堂で初めて日本語のミサを捧げられた。ローマ在住の日本人シスター12,3人がミサに招かれた。
ミサ中、わたしは第一朗読を任された。教皇さまがじっと聞いていらっしゃるのを感じた。この日は、聖ペトロから264代続いたカトリック教会の教皇が、たとえ私的ではあっても、初めて日本語でミサを捧げるという、歴史に記憶されるべき日であった。
わたしは朗読の他にもう一つ大きな宿題を胸に、その成功を祈りつつ、教皇ミサに与った。
宿題とは、教皇の訪日を前にしてバチカンに取材に来ている日本カトリック・ジャーナリスト・クラブのメンバーと、教皇との特別謁見を実現させるための許可を得ることである。実は日本のジャーナリストたちは、教皇庁広報評議会に正式な手続きで事前に申請書を出していたが、許可が下りず、暗礁に乗り上げていて、わたしに「SOS」を出してきたのだ。
ミサ後、わたしたちは隣の控室で一人ひとり教皇さまにご挨拶した。その時、わたしは日本カトリック・ジャーナリストたちが教皇さまと特別謁見ができるよう、教皇の個人秘書S.Z.師にお願いした。「みんなカトリック?」と神父。
「ハイ」と答えると、「したいことは何でもさせてあげる」と考えていた10倍もの返事が師から返ってきた。わたしはただ感激した。教皇さまとの謁見やインタビューを求めるリクエストは、毎日、世界中から何百も教皇庁広報評議会に届いていることをわたしは知っていたからだ。そしてなかなか許可が下りず、その実現が難しいことも。
( 石野澪子=いしの・みおこ=聖パウロ女子修道会修道女、元バチカン放送日本語課記者兼アナウンサー)
2017年11月27日
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カテゴリー : Sr石野
それは、やわらかな朝日が差し込む病室での光景だった。
私の勤務する高齢者専門病院には、夫婦で入院生活を送る患者のための病室がある。 歳の大迫優司さん(仮名)と 歳の栄子さん(同)も、病棟の一角にある陽当りの良い部屋で日々を過ごしている。
午前9時 自らは言葉を発することもできなくなった優司さんの胸に、栄子さんはそっと頭を乗せる。すると、その栄子さんの背中を、優司さんがトントンと指で優しく叩き始める。「お父さん、叩いてくれてるのね。ありがとう」。しばらくすると、優司さんは手を止める。「お父さん、疲れたの?」。栄子さんの声に、優司さんは再び手をトントンと動かす――そうやって夫婦の間では、ふんわりとした時間が過ぎてゆく。ベッドの傍らで私たちスタッフは、声にはならない夫婦の「会話」を耳にしているのだ。
寒い晩だな、寒い晩です。妻のナグサメとは、まさに斯くの如きもの也
明治期に活躍した小説家・評論家の斎藤緑雨が1899(明治 )年、格言集「眼前口頭」に記した言葉である。ともに暮らす夫婦がお互いを思いやって交わす 会話 は、緑雨の時代から120年近い時を経ても、大きく変わるものではない。
ただ一つ、はっきりと変わった点がある。ここで紹介した緑雨の言は、彼が 歳で早世する5年前、 歳になったばかりの時点で残した言葉なのだ。
明治の世と、平成の現代――。食生活の変化、衛生状態の改善、医療技術の進歩、そのいずれもが国民の平均寿命を押し上げる方向に働き、平成時代の終幕を迎えようとする今、日本は「人生100年時代」と言われるまでになっている。
事実、私の勤務先の患者の平均年齢は88・5歳だ。年齢構成で言うと90歳以上がほぼ半分、100歳以上のいわゆる百寿者も約20名を数える歳の優司さんと 歳の栄子さんというカップルは、院内で特別に高齢というわけではない。夫婦が会話を交わす年数は、とにかく格段に長くなっている。
私事に及んで恐縮だが、終末期医療をテーマにした小説「ロングターム・サバイバー」が日本推理作家協会の編集による「ザ・ベストミステリーズ2017」(講談社)の一編に選ばれるという栄誉を受けた。この作品の発想も、一組の夫婦の会話にあった。それは、「末期がんを宣告された老齢の夫は、妻に何を、どのように語るだろうか?」というものだった。
厳しさを増す寒い晩に、あるいは朝の日差しの中で、あなたは大切な人にどんな言葉をかけるだろうか どのような会話をつむぐだろうか。
(みなみきょうこ・医師、作家: 終末期医療のあり方を問う医療ミステリー『サイレント・ブレス』=幻冬舎=は5刷出来。5月24日発売の日本推理作家協会編『ザ・ベストミステリーズ2017』=講談社=に短編「ロングターム・サバイバー」が収録されました。アマゾンへのリンクは、https://www.amazon.co.jp/dp/4344029992?tag=gentoshap-22 )
2017年11月25日
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カテゴリー : Dr.南
私の詩の恩師、ハッダード アーデル先生は、文学・哲学を専門とする学者であり政治家であるが、文字通り書物のひとである。
鉄筋造りの自宅には、自分専用に図書館が作られている。自ら何冊もの本を出している。テヘラン在勤中には、御自分でペルシャ語に翻訳した「コーラン」をいただいたし、ペルシャの2大詩人のひとりモウラナーの代表作(マスナビ)を90年前に初めて全部英語訳したニコルソンの復刻版もいただいた。
私が日本に戻り外務省を退職してからも、人づてに2冊の近刊の自著をいただいた。そのうちの一つは、折々に記したもう一人のペルシャの大詩人ハーフェズに関する論考を本にまとめたものである。
その中の一編に、ハーフェズの詩の特徴を分析したものがあるが、その中で「実践的知恵」の表題の下、ハーフェズの詩の中から、人生訓・処世訓となるような詩句をたくさん例示している。
例えば、「無智なるものよ 知恵あるものとなるよう努めよ 歩き始めなければ いつ道を進む者になれるのか」(ハーフェズの詩)
さらには、「裏庭に住するもの(真摯に道を励む修行者)に (偽善の導師よ)かっこよく徳を語ることなかれ いかなる話にも(ふさわしい)時があり いかなる論にも(なすべき)場所がある」(同)
など、30編近くの詩句が引用されている。うれしいことに、上記2編を含めて5つは、私がいつも暗唱している詩句と同じであった。
ハッダード アーデル先生からは直接ハーフェズを教わったわけではないが(同先生から学んだのはモウラナーの詩)、人生訓・処世訓に関しては、自分も先生の理解に少しは近づいたものと思う。
上記2つの詩句はいずれも修道の心得を述べたものであるが、人生万般に通じる教訓であろう。前者について一言触れておくと、当時のイスラーム世界の知識・科学の水準は世界最先端であったが、ここでいう知恵とは、神に至る道は神の知恵に頼る以外ないこと、知識や理解ではだめで実践して体得しなければならないことを述べている。ハーフェズ・モウラナーともに時代の一級の知識人であって、その科学理解の一旦は詩句からも感じられるが、それはまたの機会に譲る。
ハッダード アーデル先生であるが、その娘さんの一人は、日本の金沢で留学生として学び、のち米国でナノテクノロジーの博士号を取得、そのまた娘さん(先生の孫娘)は、日本で小学校に通ったことで、日本語が大変流暢であった。先生も娘の家族に会うため何度か日本を訪れていて、大変な日本びいきとお見受けした。先生のもう一人の娘さんは、ハーメネイ最高指導者の息子に嫁いでいる。先生は、したがって最高指導者と親戚関係である。
次回は、イスラーム哲学の最高峰の学者であられた故井筒俊彦先生についてお話ししよう。
(ペルシャ詩の翻訳はいずれも筆者)(駒野欽一=国際大学特任教授、元イラン大使)
2017年11月25日
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カテゴリー : 駒野大使
戦没学徒兵の遺書を集めた一書『きけわだつみの声』の突端を飾ったのは慶應義塾大学学生から応召した上原良司の遺書であった。
「自分は自由主義者である」といい、「全体主義国家の日本は負ける。それは分っていても自分が死ななければ日本は変わらない」と観念して、特攻の使命達成に向けて飛び立った。「願わくば日本を偉大な国にして下さい」と日本国民に託して。
あと3ヶ月余で日本が連合国に降伏して第二次日中戦争開始の1937年から数えれば8年の長きにわたった「一億一心火の玉だ」の 総力戦が終結するという、1945年の5月11日、沖縄戦の一閃光となって22歳の若き命をちらした。
これは日本の負け戦だとわかっていても、「俺が死ななければ日本は変わらない」と覚悟した死であっ た。日本の国家、日本国民の運命を決める政策決定者等に向けた死による問いかけ、諫死であった。 それはあまたの特攻死のなかで、死の意味を明確にした一つの突出した事例であった。
しかし死なずに敵の艦船撃沈、撃破の目的を達成した特攻兵士の事例もあった。死んで来いと命じられても、爆弾だけを敵艦船に投下して、見事目的を達成した、陸軍の第一回特攻隊のパイロットがいた。
「死ななくてもいいと思います。死ぬまで何度でも行って、爆弾を命中させます」と言っていた 。その名を佐々木友次といい21歳であった。彼は終戦までに9回出撃し、目的を果たした上で、9回とも無事帰還した。此の異例な行動は賞賛されることは無く、かえって叱責された。「今度こそ死んで来い」と上官に叱責されるのであった。
此の兵士は戦後を92歳まで生き、5回にわたり下記の著者のインタヴューに応じたが、呼吸不全のため2016年2月9日札幌の病院でその生涯を閉じた。そんな事もあったのだ、と吃驚する。鴻上尚史著『不死身の特攻兵―軍神は何故上官に反抗したか』(講談社現代新書 、2017)である。 (2017・11・20記)
(三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所長)
2017年11月20日
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カテゴリー : 三輪先生
1 おったまげた生徒たち
ゴキブリを食べるのは異常である。しかし、食べた人物がいる。それも、わがイエズス会の六甲学院のS先生であった。何が、どのように起こったのか。
私がまだ若い教師だったころ。数年後に新卒の先生がやってきた。K有名大学で生物学を専攻していた。生物学といっても研究室でおたまじゃくしを観察する類のものではない。昆虫の生態観察といったものだろうか。ボルネオやマレーシア、フィリッピンなどのジャングルに分け入って行うフィールドワークなのだ。
この先生の一年目。中一の生物を担当することになった。その最初の授業。「お前たち、いいものを見せてやろうか」生徒は何だろうと興味をもった。「ただし、条件がある。見たことを家の人に絶対話さないこと。約束するか?」生徒たちはいっせいに答えた、「約束します!」。 それでは、と言って先生はゴキブリを取り上げた。「ゴキブリです。今からこれを食べて見せます。」「ひえー!」とかれらは声を挙げた。その瞬間、先生はむしゃむしゃとゴキブリを食べたのである。かれらは度肝を抜かれた。目をまんまるくし、ある者はぽかんと口を開けたままだった。
その後、何が起こったか。その日のうちにすべての親がこの事実を知ったことである。・・・
生徒たちは約束を破るつもりは毛頭なかった。しかし、約束よりも<驚き>の方が強かった。彼らは衝撃の出来事を黙っていられなかったのである。
人は驚きの出来事をしゃべらずにはいられない。エミリ・ディキンソンという米国の詩人がいる。その父親はアマースト大学の理事であった。ある日、夕日の美しさに感動して、鐘楼の鐘を鳴らし続けたそうである。美しいものに感動したとき、やはり人は黙っていられない。
2 感動が伝わる
2017年10月、ローマからフィローニ枢機卿が来日され、各地で講演をおこなった。彼が繰り返したのは、「すべてのキリスト信者は、宣教する務めがある。」ということであった。務めは<義務>を想起させる。義務では、しかし、信仰は伝わらない。伝わるのは、あの生徒たちやエミリの父親のように、おったまげたり、耐えられないほどの美に感動した時なのである。私たちにそういう信仰の感動があるか?
聖書の中で感動しているのは誰か。イエスの弟子たちである。ヨハネ20章19節以下はその感動を伝えている。イエスが十字架上で惨めに息を引き取った時、弟子たちはその係累を恐れて一目散に逃げ散った。やがて誰かの家にひっそりと隠れ、家の戸に<鍵>をかけ、閉じこもっていた。そこへイエスが現れ、彼らはイエスが生きていることを知った。
復活の出来事である。この時、弟子たちの恐れは喜びに変わった。復活のイエスに触れ、そのイエスから息吹かれた彼らは、もう恐れを知らない。見たこと、聞いたことを黙っていられないのである。ペトロは扉を開けて、つい最近まで恐れに恐れていた群衆を前にして、この復活のイエスについて語りだす。もう恐れはない。もうぶれない。ただ、あの復活の命にふれた感動を語っているのである。宣教とはそういうものだ。 (了)
(清水弘=イエズス会士、広島教区・益田・浜田教会主任司祭、元六甲学院中高等学校長)
2017年11月12日
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「臨終洗礼を授けてあげたいのですが、 方法を忘れてしまいました、教えて下さい」
急に様態が悪化し、 緊急入院したご主人に付き添う友人からの電話。 長年献身した夫への、心からの見送りをしたいとの友人の言葉に、 ご主人への熱い思いが伝わって来て、 幸せな方だな―と思いました。洗礼を授けた翌日召され、 安らかな神々しいご主人の最期、 安堵した友人の気持ちがメールに綴られていました。
タイの人々は一般に信心の業を大切にしています。 事あるごとにお寺にお参りして線香を炊き献 花し、仏像に金箔を貼って祈り、 跪座し合掌して僧侶に散水して祈ってもらう。 お布施と善行に励む姿、心から美しいと思います。
カトリック信徒も同様、「見えない恵の見えるしるし」である秘跡( ミサ、聖体、ゆるしの秘跡、洗礼他)、聖水を使い十字を切る、 ご像に触れて祈る、ロザリオ、十字架の道行、 他の信心の業に惜しみなく励む敬虔な姿、 敏感な感性に生かされた信仰に、少なからず感化されています。
新鮮な花が毎週美しく祭壇に飾られ、 人々の賛美と感謝の思いが生き生きしているのです。
見えない有難い存在への畏敬の念、 聖霊と悪霊の働きへの敏感な感性は、 物質文明が急速に発展する社会の救いであり、 決して魂抜きの社会にはさせまい、そう思います。
見えない主への信望愛の念を胸に、 感謝と賛美を感性で生き生きと現したい、 プーミポン国王陛下と友の葬儀に参列して心底思いました。(写真は、私の修道院前の聖ミカエル教会で、早朝からマリア様に祈りを捧げる若い人たち)
(阿部羊子=あべ・ようこ=バンコク在住、聖パウロ女子修道会会員)
2017年10月29日
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イランの新年は3月21日、春分の日である。ノウルーズ(新しい日)の休みは、一年で最高の季節、ほぼ2週間、社会全体が休み気分にひたる。しかし、2011年3月、東日本の大震災で、前代未聞の惨事を見聞きしては、休み気分に浸れない。気忙しい中、ハーフェズの詩集を読むことにした。イラン人の各家庭に一冊はあるという、超ベストセラーである。
ハーフェズ占いは、たまたま開いたページの詩句から、自分の抱える問題解決・運命へのヒントを探る遊びとしてイラン国民の間で今でも人気がある。抽象性・暗示性が高い詩句であるから、多様な解釈や占いが可能であるのだが、初心者にしてみれば難しいことこの上ない。それでも、ハーフェズ詩集の500に上るガザル(短い詩形式)を、休み中に何とか読み終えた。
「汝決意するならば まずは働け 耕せよ そうして運命に委ねよ」(ハーフェズと並ぶペルシャ詩の2大巨星、モウラナーの詩)である。
朧気ながら分かった詩句は、全体の1割にもいかなかった。それでも、最初のコラム(1)に記したいくつかの衝撃的な表現にぶつかって、興味をそそられた(特に「虚無の大岩」という言い回し)。
その後も、詩集をめくりはしていたが、邂逅ともいえるのは、ハッダード‐アーデル先生との出会いである。
「汝の行いを かのひとのそれに 比することなかれ 似ていたとしても ライオンをミルクと書くようなもの」(モウラナーの詩)(ライオンもミルクもペルシャ語では同じ単語のシール。したがって、人を食べるシール=ライオン=と人が食べるシール=ミルク=とよく言う)。
ハッダード‐アーデル先生こそ、智と徳に長けたイラン・イスラーム文化人の典型であろう。先生は哲学者、文学者であり、自ら詩作もされる。国会議員4期を務めたうち、一期4年間は議長を務めて「ハーフェズを読みたい」と言うと、ジャラーリ先生を紹介してくれた。松浦元大使が、UNESCO(国連教育科学文化機関)の事務局長をしていた時、イランのUNESCO代表になった人である。ハーフェズ講義は、5~6度続いた。
そのうち、ハッダード‐アーデル先生自身がモウラナーの講義を始める、と聞いて、加えてもらうことにした。これは、毎週先生が自宅の地下のサロンで、40~60人の参加者を前に、モウラナーの「マスナビー」という詩集を講じるのである。
2012年の1月から、10月にイランを離任する2日前まで、私は都合32回先生の講義に出席した。先生こそ自分の詩の恩師である。先生は当時まだ国会議員、そのほか、イランの文化・言語の普及・発展に尽くされお忙しい身であったはずであるが、毎週木曜日の朝一時間、新年休暇の一度を除いて講義を続けられた。(その後の国会議員選挙では落選したが、現在も、ペルシア言語文学院の総裁である)。
モウラナーの詩集マスナビーは、全6巻、27000を超す「ベイト」からなり、大変なボリュームであるが、筆者も1000くらいの「ベイト」まではこなした。先生は、その日読むページの主要テーマを説明の上、「ベイト」ごとに解説を加えた。学ぶことの多い講義であった(「ベイト」は、2つの短文からなる詩の基本要素)。
ジャラーリ先生とハッダード‐アーデル先生の詩の時間はまさに、「汝とともにある瞬間は 1年が一日 汝のいない瞬間は 一瞬が一年」(ハーフェズの詩)であった。
次回も引き続き、ハッダード‐アーデル先生について述べる。
(ペルシャ詩の翻訳はいずれも筆者)(駒野欽一=国際大学特任教授、元イラン大使)
2017年10月28日
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カテゴリー : 駒野大使
(2017.10.26 司教の日記)
教皇様は10月25日、東京教区のペトロ岡田武夫大司教の定年に伴う引退願いを受理されました。その上で教皇様は、後任の東京大司教に、わたしを任命されました。東京での着座式は12月中頃を予定していますが、決定次第、お知らせいたします。
東京は信徒数から言えば9万人を超えて、日本で一番大きな教区です。わたしは東京に住んだことも、そこで働いたこともありません。まったく何をどうしたらよいのか見当もつかない中での任命で、教皇大使から内示を受けてからのこの数日、そして今でも、大きな困惑のうちにおります。どうぞ務めを忠実に、より良く果たすことができるように、みなさまのお祈りをお願いいたします。
またこれまで13年間、司教として育ててくださった新潟教区の皆さんには、心から感謝申し上げます。以下、今回の任命にあたって、新潟教区の皆さんに向けた挨拶のビデオです。(菊地功=きくち・いさお=新潟教区)
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2017年10月27日
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カテゴリー : 菊地大司教
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