清水神父の時々の思いⅢ「ゴキブリを食べた先生」

 1 おったまげた生徒たち

    ゴキブリを食べるのは異常である。しかし、食べた人物がいる。それも、わがイエズス会の六甲学院のS先生であった。何が、どのように起こったのか。

    私がまだ若い教師だったころ。数年後に新卒の先生がやってきた。K有名大学で生物学を専攻していた。生物学といっても研究室でおたまじゃくしを観察する類のものではない。昆虫の生態観察といったものだろうか。ボルネオやマレーシア、フィリッピンなどのジャングルに分け入って行うフィールドワークなのだ。

    この先生の一年目。中一の生物を担当することになった。その最初の授業。「お前たち、いいものを見せてやろうか」生徒は何だろうと興味をもった。「ただし、条件がある。見たことを家の人に絶対話さないこと。約束するか?」生徒たちはいっせいに答えた、「約束します!」。  それでは、と言って先生はゴキブリを取り上げた。「ゴキブリです。今からこれを食べて見せます。」「ひえー!」とかれらは声を挙げた。その瞬間、先生はむしゃむしゃとゴキブリを食べたのである。かれらは度肝を抜かれた。目をまんまるくし、ある者はぽかんと口を開けたままだった。

 その後、何が起こったか。その日のうちにすべての親がこの事実を知ったことである。・・・
生徒たちは約束を破るつもりは毛頭なかった。しかし、約束よりも<驚き>の方が強かった。彼らは衝撃の出来事を黙っていられなかったのである。

    人は驚きの出来事をしゃべらずにはいられない。エミリ・ディキンソンという米国の詩人がいる。その父親はアマースト大学の理事であった。ある日、夕日の美しさに感動して、鐘楼の鐘を鳴らし続けたそうである。美しいものに感動したとき、やはり人は黙っていられない。

2 感動が伝わる

    2017年10月、ローマからフィローニ枢機卿が来日され、各地で講演をおこなった。彼が繰り返したのは、「すべてのキリスト信者は、宣教する務めがある。」ということであった。務めは<義務>を想起させる。義務では、しかし、信仰は伝わらない。伝わるのは、あの生徒たちやエミリの父親のように、おったまげたり、耐えられないほどの美に感動した時なのである。私たちにそういう信仰の感動があるか?

  聖書の中で感動しているのは誰か。イエスの弟子たちである。ヨハネ20章19節以下はその感動を伝えている。イエスが十字架上で惨めに息を引き取った時、弟子たちはその係累を恐れて一目散に逃げ散った。やがて誰かの家にひっそりと隠れ、家の戸に<鍵>をかけ、閉じこもっていた。そこへイエスが現れ、彼らはイエスが生きていることを知った。

    復活の出来事である。この時、弟子たちの恐れは喜びに変わった。復活のイエスに触れ、そのイエスから息吹かれた彼らは、もう恐れを知らない。見たこと、聞いたことを黙っていられないのである。ペトロは扉を開けて、つい最近まで恐れに恐れていた群衆を前にして、この復活のイエスについて語りだす。もう恐れはない。もうぶれない。ただ、あの復活の命にふれた感動を語っているのである。宣教とはそういうものだ。 (了)

 (清水弘=イエズス会士、広島教区・益田・浜田教会主任司祭、元六甲学院中高等学校長)

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