・Sr.岡のマリアの風㉞「地元の病院」に通って気が付いたことは・・

  優しくて人気(?)のH先生の担当日に、いつものように定期通院。でも、いつも車で一杯で、停めるところを探すのに苦労する駐車場が、がら空き。思わず「えっ?H先生、休み?」と、そちらに思考が行く。

 車を降りると、やはり通院に来たおばあちゃんが「今日は、人が少なかとですね~」と、わたしに声をかけてくる。「大丈夫ですか?」とヨロヨロ歩いているおばあちゃんと一緒に病院に入ると、待合室もがら空き。H先生の担当日には、二時間以上待つこともざらなのに…。

 名前をすぐに呼ばれて行くと、H先生は、いた。

 「今日は、人が少ないですね~」と看護師さんに言うと、「そうですね~。稲刈りだからじゃなかとですか~」。「地元の病院」に四週間に一度の定期通院を始めて数か月(お恵みで、いたって健康だけれど、骨密度が問題らしい)。

 初めのころは、あまり病院に通ったことのないわたしにとって、何となく「場違い」な感じがしていた。でも、だんだん、「地元感」の良さを発見するようになってきている。

 確かに、車の窓から、田植え、稲刈りの風景は、見ている。だけど、「いつも通院してきている」おじいちゃん、おばあちゃんが、実際に稲刈りで通院を休んでいる(?)」と思うと、何か、季節感がぐっと現実味を帯びてくる。確かに、最近、台風をはじめとして天気が悪かった。今日は、秋晴れ。そうか、みんな、体が痛いことより、まず、稲刈りなのか…。

 そういえば、と、急に思い出した。東日本大震災後の、岩手県O町で、ボラティアをしていたとき。学童支援センターにいつも来ていたお兄さんが、いなかった。「○○先生は休みですか?」と聞くと、「わかめ取りに行っている。彼は漁師だから」との答え。その時、O町は、こうやって、少しずつ、地道に復興しているのだな~、と実感したっけ。

 O町で、カトリック教会のボランティア活動を立ち上げた、故F神父が、言っていた。わたしたち、長崎で生まれた三つの修道女会(「みつあみの会」)が被災地にボランティアを送ることを計画し、「でも、わたしたちに何が出来るでしょうか?」と尋ねたときだ。「とにかく、まず、現地に行ってください。

 地元の空気を吸い、地元の店で買い物をし、地元の食材を買って味わい…。人々と『共にいる』、同じ空気を吸う、それが、すでにボランティアです」。

 F神父は、その土地その土地で異なる「空気」、「雰囲気」は、決して言葉では通じない。ニュースで見ただけでも感じることは出来ない。自分が、地元に
行かなければ分からない、と言っていた。初めて、O町に行ったとき、それはすぐに分かった。理屈ではなく、体で。

 「地元の病院」の待合室では、病気の話しよりも、「あんたの息子、嫁さんもらうってな~」「○○さんのとこ、男の子が生まれしゃったとよ~」「母ちゃん、元気にしとるとね?」…と、単なる挨拶、好奇心以上に、「寄り添う」心、「関心をもっている」心に出会う。

 キリスト教のある伝統は、ナザレのマリアが、神の使いのお告げを受けた時(受胎告知)、最初の部分は、マリアが井戸に水を汲みに行ったときだった、と語っている。それが事実かどうかはともかく、このような、人類の歴史の中で最も偉大な出来事の一つが、小さな村の「普段性」、「日常性」の中で起きたと考えることが、わたしは好きだ。神はわたしたち自身さえも気づかない時、場所、方法で、わたしたちに会いに来る。教皇フランシスコは、しばしば、わたしたちの神は「サプライズの神」だ、と言う。

 地元の待合室での、何気ない「寄り添い」のひと時。稲刈りの時期には人が少なく、雨が続くと人の多い、待合室。「おはようございます」と挨拶すれば、恥ずかしそうに答えてくれる、おじいちゃん、おばあちゃんたち。

 通院を始めたこともあり、初めて、特定健康診断も「地元の病院」で受けた。シスターたちとは長い付き合いの看護師さんたち。すべての診断(胃カメラも)で、ベールを取らなくていいです、と言われ、「地元感」から来る何とも言えない温かさに、すっかりリラックスした。

 「都会の有名病院」ではないから、高度な治療を受けるわけにはいかないかもしれない。もしかしたら、病気が発見されなかった、ということがあるかもしれない。でも、60歳も過ぎれば、あとは「返す」人生。今まで、わたしだけでなく、先輩たちがお世話になった地域の人々の中で、今日は調子が良いとか悪いとか、痛いとか痛くないとか、よく眠れたとか眠れなかったとか、そんなことを繰り返しながら、一緒に「返していく」ことが出来たらいい、と思うようになった。

 いつかは行くんだ、天国に。それが一年早くても、一年遅くても、同じ共同体のシスターたちだけでなく、「地元の」おじいちゃん、おばあちゃん」たちと一緒に行く方がいい。だって、こうやって、だんだん「中古車」になってきた自分の体と付き合いながら、ときにはつぶやきながらも、それでも寄り添いながら、いたわりながら、共に今まで、歩いてきたのだから。

 教皇フランシスコは、特にシスターたちと話すとき、「お母さんになってください」と呼びかける。「お母さん」は、「わたし」よりも「あなた」-子ども-を中心に置く。お母さんは、生活の中心に「他者」を置くことを、自然に知っている。

 昔、映画が大好きで、よく出かけていた友人が、結婚して、子どもが出来たら、映画を見に行くことも出来なくなった(ビデオやDVDのない時代である。映画館に行かなければ、なかなか映画を見ることは出来なかった)。やっと時間が出来て外出するつもりでいても、子どもが熱を出して行けなくなった、ということはしばしばだった。

 でも、彼女は、だから昔が良かった、とは言わなかった。むしろ、ずっと幸せそうだった。

 生まれてくる子ども、障がいをもった人、高齢者…を、この世は「問題」として提示するけれど、それは「賜物」です、とパパは言う。なぜ「賜物」か、と言うと、この人たちは、わたしたちに、一番大切なもの、中心に置くべきものを教えてくれるから。それは「いのち」。わたしたちが他者に、特に、より弱い、より傷つきやすい「いのち」に、わたしの時間を、わたしの心を、わたしの空間を開く時、その時、わたしたちは、知らない内に、「いのち」を真ん中に置いて生きることを学ぶ。

 パパ・フランシスコは、「若者」をテーマにしたシノドスの機会に集まった若者たちに、語りかけた。

 いただいた賜物であるいのちを、あたかも自分だけのものであるかのように考え、先人たちに耳を傾けることなく、「わたしが」好きなように生きようとする時、わたしたちは迷路に入り、行き詰まり、閉じこもる。「いのち」に開かれていないからだ。わたしたちを解放するのは、自由にするのは、「あなた」、そして特にもっとも小さな「あなた」の「いのち」である。「わたし」が「あなた」に中心を譲る時、わたしたちは癒され、ゆるされ、解放される。

 わたしたちは、一人だけでは、決して解放されることはない。自分の利益だけを求めていると、いくらお金、権力、名声を得ても、「孤独」である。孤独な人は、自由にはなれない…

 「地元の病院」の待合室で、今日も、いろいろなことを考えている。人生は、いくつになっても、学ぶことに満ちている。もし、「謙虚に」「耳を傾ける」ことを知っているなら…。祈りつつ。

(岡立子=おか・りつこ=けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)

2018年10月13日

・【読者投稿】「小さな胸の内-片親のいない心の痛みを分かって…」

カトリック東京教区信徒 M.K.

 「父の日にお父さんはいない」―親を亡くした子どもの作文集(あしなが育英会)が手元に届いた。微々たる寄付だが子どもが小さい頃から続けている。

 この作文集、書いたのは小学生、中学生、親を早くに亡くした子が父( 母) の日について書いている。読みながら、かつての私と重なるところがいくつもあった。ずっとずっと昔のことであったが、私も同じような思いだったと甦ってきた。この作文を書いた子ども達も父( 母) を亡くし、小さな心に傷み悲しみをもっている。

 父( 母) の日にその主役がいない。学校では父( 母) への作文を書く、絵を描く、回りの皆は当たり前に書く。わたしは書けない。生きていた頃のことを思い出して書くけれど、回りの友や先生の同情はさらに心を傷めることになる。かわいそうね、私もかつて言われた。表現力のまだ乏しい子どものいたわりの言葉であろう。でも……私は悲しかった。

 昔、学校では母の日に造花のカーネーションを胸に付けた。今のように生花を買う程社会は豊かではなかった。母が居ない私は白のカーネーションだった。白を付ける子は殆ど居なかった。寂しく、孤独にも思った。こんなことしない方がいい。だけど私には付けないという勇気もなかった。恐らく、その後じきにカーネーションを付けるということは無くなったように思う。白を付ける子の気持を汲むようになったのだろうか。

 作文では、遺された片親に気遣う優しさを子ども達は持つ。片親になり、その親の大変さを感じ取り、思いやる子ども。私もそうだったと思う。子ども心にも少しでも親を支えようとあまり甘えない。

 父( 母) の日は寂しい。友人はプレゼントの話をする。作文は書かなくていいとか、ばあちゃんのことを書いたら?などと言われる。ちょっとした言葉も辛くなる。授業参観も寂しい、と小さな胸を締めつける。

 これらのことはかつて私はどうだったか、忘れてしまった。父( 母) の日の授業参観は無かったかもしれない。

 母が亡くなって……遠足の日は新しい服を用意してくれていたが、自分で有る物の中から考えて着て行った。

 髪をいつも母が結んでくれていたが、親戚の家に行き、伯母の「誰が結んだの?」という問いかけに「私」と答える。「そう、上手に結べているわね」と言ってくれたが、私が結ぶしかないでしょ、と心の中で叫んだ。悲しかった。

 父の遠縁の人が一年ほど居てくれた。「お姉さん」と呼んでいた。でも母とは違う。今ではとても有り難かったと思う。

 八歳で亡くなったので、母がしてくれたことは覚えているが、母の気持、心の中のことまでは分からない。

 母に叱られて障子におかあさんのバカと書こうとして「おかあさん」までしか書かなかった。私はおとなしい子だった。しかし母亡き後、その障子に書いた「おかあさん」を目にする度に悲しくなった。

 母は最期に救急車で運ばれて行った。とても長い間、救急車を見たり、サイレンを聞いたりする度に、この救急車で運ばれている人が助かって欲しいと心の中で願っていた。

 母亡き後、弟が居たこともあり、悲しみを抑えていたのだと思う。私がしっかりしなくてはと幼な心に思っていたのだろう。この抑えたままの悲しみはずっと胸の内に持ち続けていた。クリスチャンになってやっとそのことに気付いた。三十数年も経っていた。牧師先生にその悲しみをイエス様に癒してほしいと、祈ってもらった。悲しみ、苦しみの癒やしはイエス様に願うのが一番の近道だから。

 二度目の母と衝突すると、どうしてお母さんは死んじゃったの?と一人泣いた。死ななかったらこんな悲しみは無かったのに、とすら思っていた。

 娘が生まれた時、この子が二十歳になるまでは私は生きなければと思った。今その倍生かされていることに感謝している。

 時代は変わっても、親を亡くした子どもの悲しみは同じだとつくづく思った。今では心のケアもよく考えられるようになった。あしなが育英会は奨学金が始まりだったが、心のケアにも力を入れている。阪神淡路大震災では五七三人もの子どもが遺児となった。その四年後、神戸に初めてレインボーハウスが海外、国内からの寄付により創られ、続いて東京日野にもできた。東日本大震災では二千人を超える子ども達が遺児、孤児となり、東北にも三か所開設されたという。これは遺児達にとって大変良い場となっている。

 サンドバッグがある「火山のへや」、みんなで語り合う「おしゃべりのへや」、「あそびのへや」、静かになれる「おもいのへや」、創作や絵を描く「アートのへや」、があるようだ。

 心の内にしまい込み、悲しみを言い出せない子。そこに集まった子たちは皆同じ境遇であることで、誰かの話を聞いた子が、安心してポツリ、ポツリと話し出す。ここではスタッフも元遺児のようだ。皆が共感しあえる。このような場が創られたことは大変有り難い。
心の内が次第に楽になっていくことだろう。「時間の経過だけでは悲しみは小さくならない」と、レインボーハウスのスタッフは言う。

 あしなが育英会は、初めは交通事故の遺児への奨学金のために玉井義臣さんが中心となり創られた。ご自身は母親を交通事故で亡くされていた。その後尽力の末、国に移管され交通遺児育英会となった。あしながでは災害遺児、病気遺児、自殺遺児と次々と支援を広めている。

 私も大人になるまで、母が小さい頃亡くなったこと、二度目の母のことをなかなか人に話せなかった。回りはまだ母親が健在の人が多かったことや当時二度目の母に心を閉ざしていたことがあったからだろう。レインボーハウスがその頃あったなら、そこに行ったかも知れない。しかし、幸いにも私にはその後、イエス様との出会いがあった。

 子どもにとって、親は自分を守ってくれる人である。親の離婚もそうであるが、片親が居ないということは、子にとって大きな不安であり、心の痛みである。このような子ども達に、社会はもっと配慮していって欲しいと願う。

2018年10月12日

・菊地大司教の日記㉞真生会館感謝の集いーさらなる信仰養成と学びの場に

2018年10月 6日 (土)

 信濃町にある真生会館が、新しい建物になってから二年。6日の土曜日の午前11時から、二周年を記念して感謝ミサが捧げられました。

  新しいビルの四階には聖堂がありますが、感謝ミサに集まったすべての人を収容するには小さすぎます。そこでミサは、三階のネランホールで行われ、私が司式し、森司教と福島一基師が共同司式してくださいました。

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Shinseikaikan1804 信濃町にある真生会館が、新しい建物になってから二年。本日10月6日の土曜日の11時から、二周年を記念して感謝ミサが捧げられました。

 新しいビルの四階には聖堂がありますが、感謝ミサに集まったすべての人を収容するには小さすぎます。そこでミサは、三階のネランホールで行われ、私が司式し、森司教と福島一基師が共同司式してくださいました。

 

 真生会館には長い歴史があります。ホームページに掲載された理事長の森司教の言葉には、次のように記されています。

 「真生会館が、産声を上げたとき。それは、今から80数年前の1934年。日本全体が軍国主義一色に覆われて行った日本社会に、キリスト教的な価値観に根ざした若い人々の育成の必要性を確信した岩下壮一神父によって、財団法人聖フィリッポ寮として誕生しました」

 1952年からは、学生寮を廃止して、信仰養成の学びの場として真生会館となり、さらに新たな生涯学習の場として、現在の建物での活動は2年前から始まっています。定期的に様々な講座が開かれており、東京教区のみならず関東一円の、信仰養成と学びの場として、重要な役割を果たしてくださっています。

Shinseikaikan1806 神のみ言葉は教会内外の至る所に種まかれていますが、その種がふさわしく健全に育っていくためには、教会共同体の積極的な関与が不可欠です。その意味で、真生会館にかぎらず、信仰の継続養成は不可欠です。それは、一人個人の信仰を深めることに留まるのではなく、教会共同体全体の一致と、その一致がもたらすあかしの働きを深め、社会の中で福音を生きるあかしの共同体を実現するために、欠かすことができません。これからの真生会館の活動と、福音宣教への貢献に期待しています。

 ミサ後、懇親会を挟んで、午後1時半から講演をさせて頂きました。わたし自身のアフリカでの宣教師の体験と、それに続く新潟での体験などから、現代における福音宣教の可能性についてお話しさせて頂きました。(写真は歌っているわけではなく、話しているのです)

Shinseikaikan1803 祈りあい、分かちあい、学びあい、支えあう教会共同体は、必ずや福音を宣教する共同体へと育っていきます。一つの体の部分として、それぞれが与えられた使命に気がつき、自らの役割を忠実に果たしながら、信仰における一致のうちに、福音を告げ知らせる共同体をそだてていきたいと思います。

 さて報道されているように、バチカンではシノドス(世界代表司教会議)が始まっています。今回は「若者、信仰そして召命の識別」をテーマとして、代表の司教たちが青年たちの声に耳を傾けるところから会議が進められているようです。日本の教会からは、札幌教区の勝谷司教が代表として参加しています。会議は10月28日まで開催されます。また、先日、司教任命に関する暫定合意が署名されたと報じられている中国からも、2名の司教が参加しています。(なお暫定合意については、具体的な内容がまだわかりませんので、今の段階では情報は提供できません)

 バチカンニュースによれば、開会のミサ説教で、教皇様は次のように述べられたと言うことです。

「若者たちは、彼らの尊厳ある人生の発展を妨げるすべてのものに対する戦い、創造性・知的な大胆さ・情熱・希望に満ちた献身を、わたしたちに望んでいると述べた教皇は、若者たちの人生を脅かし、そのビジョンを曇らせる死の商人たちの手に、彼らを委ねたままにすることはできない、と話された」

 様々な意味で危機に直面している教会は、これまでの歩みを真摯に振り返り、将来の世代を担う若者たちの声に耳を傾けながら、よりよい道を選び取って行こうとしています。東京教区でも、同じようにできるだけ多くの若者たちの、国籍を超えた若者たちの声に、教区全体が積極的に耳を傾けることができればと思います。

(菊地功=きくち・いさお=東京大司教)(「司教の日記」より許可を得て転載)

2018年10月7日

・菊地大司教の日記㉝20回目の新潟教区信徒大会を秋田・大潟村で一泊二日

2018年9月30日 (日)第20回新潟教区信徒大会@秋田

 第20回目となる新潟教区の信徒大会が、9月29日と30日、秋田県の大潟村で開催され、新潟教区各地から170名以上の方々が参加してくださいました。大潟村というのは、八郎潟の干拓地で、広々とした干拓地の一角にあるホテルサンルーラル大潟が、今回の信徒大会の会場となりました。

Kyokutaikai1804 新潟教区は、秋田県、山形県、新潟県の三県からなる教区で、南北に非常に長く、南の端の糸魚川から北の端の大館までは、距離にして560kmにもなります。これをすべて自動車で移動すると、8時間強。鉄道の便も非常に悪い。

 そんな南北に長い教区ですから、なかなか教区全体の行事というのが企画しにくいのです。そこで、3年に一度に絞り、各地区持ち回りで、教区全体の信徒大会を開催しています。今回はその20回目。秋田県が担当でした。

Kyokutaikai1805 教区全体では、統計上は七千人は信徒がおられるので、今回参加した170名は、本当にその一部でしかありませんが、しかし今回は、一番南の端の糸魚川からも、信徒の方々がバスに乗って駆けつけてきてくださいました。全部で30ほどある小教区のうち、21の小教区から代表が参加。

 信徒大会は、昨日午後の基調講演で始まりました。今回のテーマは「愛のよろこび」。もちろん教皇フランシスコの使徒的勧告の表題です。基調講演は、私が務めました。

 その後、小グループに分かれて分かち合い。夕食は懇親会で、各県からの歌や踊りの披露となりました。

 日曜は、まずそれぞれの地区から、都合4名の方が、自らの信仰体験について分かち合ってくださいました。そして最後は派遣ミサ。

Kyokutaikai1803台風も近づいていたこともあり、山形や新潟方面にバスや車で戻る方も多数おられたので、大会は11時半で終了。帰途につきました。 私は、東京まで飛行機で帰る予定でしたが、結局台風のため欠航に。急遽、秋田新幹線で戻りました。

 3年に一度であり、また全員が参加できるわけではないのですが、こういった教区全体の代表が集まって分かち合い、交流を深める大会は、とても大切だと思います。これに参加した個々人が、自分だけのよい思い出として心にしまい込むのではなく、ご自分の小教区に戻ってから、大会で心に残ったことを分かち合ってくださることを期待します。共同体の中での信仰体験の分かちあいから、わたしたちの福音宣教始まります。

 準備してくださった、秋田地区の皆さん、ありがとうございました。東京教区でも、こういった信徒の交わりの集いを、実行してみたいと切に思います。東京教区の皆さん、いかがですか?

(評論)このような行事は、東京教区でも白柳枢機卿・大司教、森補佐司教のもとで、第二バチカン公会議と全国福音宣教推進会議の精神を受けて作られた「生涯養成委員会」(今あるものとは別)で、行われていたものに近い。生涯養成委員会には3グループ、40代から50代の20数人の信徒それに数人の若手司祭がスタッフとして、各小教区から自由意思で集まり、毎月全体会議、グループ会議を開いて企画を立て、東京教区の全信徒を対象に「一泊交流・分かち合いの会」「日帰り黙想会」「教会運営に関する連続講演会」、さらに、特別企画として連続講演会「第二バチカン公会議と私たちの歩むべき道」を開催し、信徒たちの精神的、実質的な意識向上、小教区での具体的な活動に大きな成果を上げてきた。生涯養成委員会の活動は1990年代に10年以上にわたって続けられたが、大司教、補佐司教の交替とともに委員会のスタッフたち関係者に全く何の説明も、通告もなく、カテドラルに置かれていた事務局もろとも”消滅”させられた。その後、このような東京教区挙げての信徒の恒常的な活動はなされていない。別ものの”生涯養成委員会”はあるようだが、小教区にその活動はほとんど知らされず、構成員がどのように選ばれ、どのような方がいるのかも定かでない。そのような経過を知ったうえで、どうするのか。当時のスタッフも高齢化し、どのように再び行動を起こせばいいのか。40代、50代の信徒にかつてのようなこうした活動への熱意をどの様に呼び起こすか、課題は少なくない。(「カトリック・あい」南條俊二)

2018年10月4日

・Sr.阿部のバンコク通信㉕仏教寺院で奉仕活動する尼僧がカトリックに受洗!

   タイは仏教の国、僧侶や尼僧の姿を普段に見かけます。人々は親しく「メーチー」と呼んでいます。私たち修道者も一般人から「メーチー」と呼ばれます。

 私たちのセントマイケル教会に、ある平日の夕方、メーチーがミサに与り、友人信徒と一緒にご聖体拝領の列に加わったのです。主任司祭が躊躇して事情を訪ねてましたが、ご聖体を授けました。

 剃髪した尼僧姿なので、皆んなびっくりしました。主任のドミニコ神父が「ミサに与るだけでなく、ご聖体拝領するなら、躓きを避けるために尼僧の姿を何とかするように」と言ったようで、それ以来、自分でデザインした写真の様な姿で教会に来るようになりました。もちろん教会に来る時のみ。

 その後、頻繁にミサで出会い、メーチー・モーと親しくお話しするようになりました。仏道に励み、その道に詳しく、会話内容が深いです。

 そして、メーチー・モーはカトリックの教えに惹かれ、司祭から要理を学び受洗したのです!

 仏教寺院で奉仕活動を続けているため、普段は尼僧の姿のままで活動していますが、カトリック信徒として私的に誓約し、修道の道を生きているとの事でした。颯爽と車を運転して教会にやって来ます。

 9月29日、セントマイケル教会のお祝いのミサで久々に会い、写真を撮りました。仏教国のとっておきの福音の喜び実話。

(阿部羊子=あべ・ようこ=バンコク在住、聖パウロ女子修道会会員)

2018年9月30日

・三輪先生の現代短評①全体主義の台頭許すべからずー個人主義のサムライ文化振起すべし

 現代短評①全体主義の台頭許すべからずー個人主義のサムライ文化振起すべし

 昨日、封切り日の朝一番に、映画「散り椿」を観てきた。感動した。

 葉室麟原作の映画化である。今日の世相へ「個人主義」の一針を突き立てたものと感じた。「全体主義」の足音への知的批判と読めた。

 手元に『危機の時代と「知」の挑戦』と題する上下2巻本がある。中野晃一、村上雄一など海外の大学で研鑽した者を含み当代を代表する社会科学者による時宜をえた著作である。本書を企画した長谷川雄一は編著者を代表してこう記している。

 「日本がそして世界があてどなく『漂流』し続けているともいうべき今日の危機的状況において社会科学を生業にしている者は如何にこの状況を分析解明しそれに立ち向かうべきなのかというのが、本書のテーマである。

 端的に言って、最大の関心事は「全体主義」の澎湃とした台頭にどう立ち向かうのかということにある。

 サムライ文化の中の「封建主義」的自己犠牲は排除し、全体主義に果敢に立ち向かうサムライ文化を振起したいものである。   (2018 9 29記)

(三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所長)

・Sr.石野の思い出あれこれ③初めて修道院の門をくぐったころ-洗礼を受けるか迷う

 今から60年以上も前、初めて修道院の門をくぐったころの前々回の話に戻る。

 修道院に行くのに遠慮する必要はない、と分かったわたしは、それからたびたび足を運んだ。お玄関を入っても緊張しなくなった。受付のシスターにご挨拶をして、いつもお話を聴く部屋に通った。

 どんなときにもやさしく、笑顔で迎えてくださるシスターがわたしは大好きだった。修道院の雰囲気にも環境にも慣れ、「公共要理」とやらのお勉強も順調に進んでいた。今までキリスト教のキの字も知らなかったわたしの頭の中に毎日毎日新しいことが飛び込んでくる。すべてが新しく、新鮮だった。でも理解に苦しんだこともたくさんあった。

 そんな私の心を察したのか、シスターが言われた「これは奥義です。人間の知恵で理解することはできません。ただ信じるのです。信じればよいのです」。

 素直にシスターの言葉に従った。でも、復活の話になった時は、そう単純に信じられなかった。亡くなった人が生き返るなんて・・・ある日、信じられない苦しみを胸に、暗くなりかけた道を「どうしたらよいのだろう」と考えながら一人で歩いていた。

 その時、ふと、面白い解決策が頭に浮かんだ。

 シスターはスペインの外交官の娘、毎週修道院に通って来られる神父様はウイーン出身のピアニスト。あの方たちがすべてを捨て、いのちをかけて信じていることがもし本当なら、たとえ、わたしが疑ったとしても、真理は真理として動くことなく存在する。疑うわたしが愚かなのだー未熟で単純な”解決策”だけど、それで納得がいって、心が軽くなるのを感じ、足取り軽く家路を急いだ。

 その頃、修道院には若い女性がたくさん通っていた。公共要理のお勉強が主だった。勉強がひと通り終え、受洗を希望する人が次々と洗礼を受けていた。

 わたしの勉強も終わりに近づいたある日、シスターがおっしゃった。「次に洗礼を受けるグループには石野さんも入れましょうね」。

 わたしはぎょっとした。洗礼のことは一応考えてはいたけれど、まだまだと思っていたし、未だ決心がつきかねていた。洗礼を受けたら一生涯クリスチャンでいなければならない。毎日曜日に教会に行かなければいけない。他にも、カトリックになれば、いろいろ守る掟がある。そんなこと絶対に出来ない、と考えていた。家は、特に父は熱心な仏教徒、死ぬまであるお寺の会計監査役をしていた。そんな両親がわたしの洗礼を許してくれるはずがない。それ以上に、わたしの気持ちがまだ固まっていなかった。

 あまりにも急なシスターの言葉に「洗礼を受けることは、母が赦してくれないと思います」と答えて、一応妥当な返事をしたつもりでいた。ところが、シスターは「洗礼を授けるのは、あなたのお母様ではありません。神様です」と返してこられた。

 これには二の句が継げなかった。シスターはわたしも洗礼を受けることを考えていらっしゃるのか、と思うと憂鬱になった。どうしよう。それでも修道院に通うのを控えることは出来ず、それまで通り、週に二回、ときには三回通った。

( 石野澪子=いしの・みおこ=聖パウロ女子修道会修道女、元バチカン放送日本語課記者兼アナウンサー)

 

2018年9月28日 | カテゴリー :

・Sr.岡のマリアの風㉝教皇フランシスコの聖母巡礼地・アグロナでのミサ

教皇フランシスコのバルト3国訪問中の 24日、ラトビアの聖母巡礼の中心地、アグロナ でのミサが感動的でした。試訳でお届けします。(小見出しも)

「あなたが母であることを示してください!」

十字架のもとに立つ母 わたしたちは、こう言うことが出来るでしょう:聖ルカが使徒言行録の最初に語っていることが、今日、ここで繰り返される、と。わたしたちは、深く結びつき(一致し)、祈りに専念しています、わたしたちの母、マリアと共に(1 14参照)。今日、わたしたちは、この訪問のモットーをわたしたちのものにしましょう:「あなたが母であることを示してください!」“Mostrati Madre! Show yourself as Mother! ” 母よ、あなたが「マニフィカト」を歌い続けている場所を、わたしたちに示してください。

わたしたちに、あなたのみ子が十字架につけられている場所を示してください-わたしたちが、十字架のもとで、あなたの堅固な存在と出会えるように-。カナの婚礼と、十字架のもと ヨハネの福音は、イエスの生涯が、彼の母の生涯と交差する、ただ二つの時だけを語っています:カナの婚礼(2 1 12参照)と、今、聞いたばかりの、十字架のもとの母(19 25 27参照)。

ヨハネの福音書は、人生の、一見して反対の状況の中で、わたしたちにイエスの母を示そうとしたとも言えるでしょう:婚礼の喜びと、子の死のための苦しみ。わたしたちが、「みことば」の神秘の中に深く入り込むとき、「みことば」はわたしたちに、主が、今日、わたしたちと共に分かち合うことを望んでいる「善い知らせ(福音)」が何であるかを示します。
「しっかりと(堅固に)立っていた」

福音作者が強調する最初のことは、マリアが、彼女の子の傍らに、「しっかりと(堅固に)立っていた」“saldamente in piedi”ということです。

気楽な方法で立っているのでもなく、あいまいでも、ましてや臆病な方法でもなく。マリアは、断固として、十字架のもとに「釘づけにされて」います。彼女の体の姿勢をもって、何も、誰も、彼女をあの場所から動かすことは出来ないことを表現しながら。

マリアは、世界中が避けている人々の傍らに、ご自分を示すマリアは、先ず、このように ご自分を示します :苦しんでいる人々の傍らに、世界中が避ける人々の傍らに、告訴された人々、すべての人々から糾弾された人々、追放された人々の傍らにも。抑圧され、または搾取されただけでなく、直接、「システムの外に」、社会の縁にいる人々の傍らに(使徒的勧告『福音のよろこび』53項参照)。彼らと共に、母もいます-無理解と苦しみの十字架の上に釘付けにされて-。

マリアは、持続的に、傍らに留まることを、わたしたちに示す

マリアは わたしたちに示しています この現実の傍らに立つ方法をも ちょっとした散歩や、短い訪問、ましてや「連帯のツアー(観光)」をするのではなく。

苦しみの現実を耐えている人々が、わたしたちを、彼らの傍らに感じること、彼らの側にいると感じること-断固とした、持続的な方法で-が必要です;社会の「廃棄された人々」がすべて、繊細に(思いやりをもって)近くにいるdelicatamente vicina「母」の経験をすることが出来ます―なぜなら、苦しんでいる人の中に、彼女の子イエスの開かれた傷が続いているから―

マリアは、それを、十字架のもとで学びました。わたしたちもまた、人々の苦しみに「触れる」よう呼ばれています。わたしたちの民に会いに行きましょう。彼らを慰め、彼らに寄り添うために;わたしたちは、「やさしさの力」を経験すること、他の人々の生活に巻き込まれ、面倒になることを、恐れません(同上、270項参照)。

そして、マリアのように、堅固に、立って、留まりましょう:神に向けられた心をもって、勇敢に。転んだ人を再び起こし、みじめな人を慰め、彼らを、十字架につけられた者たちのようにしている、あらゆる抑圧の状況を終わらせるよう、助けながら。

マリアは、わたしたちを「子」として受け入れる

マリアは、イエスから、愛する弟子を、彼女の子として受け入れるよう招かれました。福音箇所はわたしたちに、彼らが共にいたと語っています。しかしイエスは、互いに受け入れ合わなければ、十分ではないと気付きました。

なぜなら、ひじょうにたくさんの人々の傍らにいることは出来ます、同じ住まい、地区、または仕事を共有することさえ出来ます;信仰を共有し、同じ神秘を観想し、享受することが出来ます。しかし、受け入れることなしに、他者を 愛をもって受け入れようとせずに。

どんなにたくさんの夫婦が、近くにいながら、共にいない彼らの物語を語ることが出来るでしょうか;どんなにたくさんの若者たちが、大人たちに関するこの隔たりを、苦しみをもって感じているでしょうか;どんなに多くの高齢者たちが、冷たく世話をやかれていると-愛情をもって気遣われ、受け入れられているのではなく-感じているでしょうか。

マリアは、赦しに開かれた女性としてご自分を示す

わたしたちが他の人々に開くとき、時に、それがわたしたちをひじょうに傷つけることがあるのは、本当です。そしてまた、わたしたちの政治的現実において、民の間の衝突は、まだ痛ましくも生々しいことは本当です。

マリアは ご自分を示します 赦しに開かれた女性、怨恨(えんこん)、不信をわきに置く女性として マリアは、もし、彼女の子の友人たちが、彼女の民の祭司たちが、「こうすることが出来たら」、または、政治家たちが、異なる方法でふるまったなら、と非難することを放棄します。マリアは、欲求不満(フラストレーション)、または無気力に勝たせるに任せません。

マリアは、イエスを信じ、弟子を受け入れます。なぜなら、わたしたちを癒し、わたしたちを解放する関係は、他の人々との出会い、兄弟愛にわたしたちを開く関係だからです。そのような関係は、他者の中に、神ご自身を見出すからです(同上、92項参照)。

Sloskans司教の言葉

ここに眠っているSloskans司教は、捕らえられ、遠くに連れて行かれた後、彼の両親に書いています:「あなた方に、わたしの心の奥深くからお願いします:復讐、または絶望が、あなた方の心の中に開かれるままにしないでください。もし、わたしたちがそれを許すなら、わたしたちは本当のキリスト者ではなく、狂信者となるでしょう」。

わたしたちに、他の人々を信用しないよう(警戒するよう)招き、統計をもって、わたしたちに、もしわたしたちが一人でいるなら、より繁栄を得、より安全だと示そうとしているメンタリティーが戻って来たように見える、今の時代において、マリアと、この地の弟子たちは、わたしたちに、受け入れ、兄弟について、普遍的兄弟愛について、再び賭けをするよう、招いています。

マリアは、受け入れられるに任せる女性としてご自分を示す

しかしマリアはまた ご自分を示します 受け入れられるに任せる女性として、弟子に属する物事の一部になることを、謙虚に受け入れる女性として。

あの、ぶどう酒がなくなった婚礼―喧嘩に満ち、しかし、愛と喜びに欠けて終わる危険とともに―の中で、イエスが彼らに言うだろうことを行ってくださいと命じたのは、彼女でした(ヨハ2 5参照)。

今、マリアは従順な弟子として、受け入れられ、変えられ、より若い者のリズムに自らを順応させるにまかせます。

いつも、調和は苦労を要します:わたしたちが異なるとき、年月、歴史、状況が、わたしたちに、一見して反対であることのように見えることを 感じ、考え、行なうように仕向ける時。わたしたちが、受け入れなさいという命令、受け入れられなさいという命令を 信仰をもって聞く時、違いにおける一致を形づくることが可能になります。

なぜなら、違いは、わたしたちにブレーキをかけることも、わたしたちを分裂させることもせず、わたしたちは、さらに向こうを見つめることが出来るから、他の人々を、彼らの、より深い尊厳において見ることが出来るから―同じ「御父」の子らとして(福音的勧告『福音のよろこび』228項参照)。

このミサ聖祭の中で-あらゆるミサ聖祭の中でのように-、わたしたちはあの日の記念を行います。十字架のもとで、マリアはわたしたちに思い起こします:マリアの子らとして認められたことの喜びを。そして御子イエスはわたしたちを招きます:マリアを家に連れて行くことを、マリアを、わたしたちの生活の真ん中に置くことを。

マリアは、わたしたちに与えることを望んでいます:堅固に立つために、彼女の勇気を;歴史のあらゆる時の座標軸に、自らを順応させるにゆだねる、謙虚さ(へりくだり)を;そして、彼女の声を上げます-この彼女の巡礼地に、わたしたちすべてが、差別無しに、集まるよう努力するように。そして、ラトビアにおいて、わたしたちすべてが、より貧しい人々を優先し、倒れた人々を再び起こし、到着し、わたしたしたちの前に現れる他の人々を受け入れる心構えが出来ているように。

ミサの終わりに-感謝-

愛する兄弟姉妹たち、この祭儀の終わりに、あなた方の司教の言葉に感謝します。また、さまざまな方法で、この訪問のために協力したすべての人々に、心からありがとうを言いたいのです。特に、ラトビア共和国大統領と、各界代表の方々の歓迎に、心からの感謝を表します。

この「マリアの地」で、神の聖なる母に、特別なロザリオを捧げます:おとめマリアが、あなた方を守り、あなた方につねに寄り添ってくださいますように。

(岡立子=おか・りつこ=けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)

2018年9月28日 | カテゴリー :

・駒野大使の「ペルシャ大詩人のうた」⑭イスラーム時代の世界をリードした高度な科学知識 

  今回はハーフェズの生きざま、時代背景や環境、その詩的人生を紹介する最後として、イスラーム時代の科学知識について触れておく。

 イスラームというと今は、ヘジャーブ(女性の髪や顔、肌さらには身体全体を覆う)や断食など宗教儀礼の一部やイスラーム過激派のことがすぐに浮かぶが、その歴史は栄光に輝く。

 イスラーム生誕後(7世紀)、8世紀には、バグダード(現在のイラク)を首都とするイスラーム帝国が樹立され、宗教の拡大に合わせて、文化、商業、科学・技術を発展させて世界の中心となる。イスラームを生み出したアラブ人のみならず、征服されてイスラームを受け入れたペルシャの世界も、科学知識の発展に大きく貢献した。

 当時のイスラーム世界の科学・知識の水準は世界の最先端であった。占星術・天文学、化学、数学、神学、哲学、論理学、文学・詩など輝かしい発展を遂げ、またギリシャ哲学やその科学的知識を積極的にアラビア語に翻訳した。イスラーム世界の学問とともに、アラビア語訳されたギリシャの哲学が、その後西洋に逆輸入されて、その復興(ルネサンス)に深く貢献した。

 ハーフェズの関心は、神すなわち見えざる世界とのかかわりであり、それを中心に据えた人の生き方として、イスラーム教の神秘主義の道を実践する人生であった。ハーフェズの名前そのものが、イスラームの聖典「コーラン」を暗唱する人を意味し、また詩人として「見えざる世界の舌(語る人)」と評された。同時にハーフェズは、一級の知識人であり当時の科学知識も教養の一端とし、それが詩の中にも垣間見ることができる。

 「我々の存在は謎である。ハーフェズよ、研究したところで無駄である。無駄」と歌うのは、コーランや神学を懸命に学び研鑽しながら、それで神を体得できるわけではないことを自覚しているからであり、あるいは、「我が知識の集積はすべて葡萄酒で洗い流そう。宇宙は我々の知ったかぶりに復讐する心はコンパスのようにあちこちに動き回る。 しかし結局、固定された円の内にとどまっている」と語り、あたかも科学・知識を否定するがごとくであるのは科学知識では神の世界を捉ええないことをはっきりと認識していたからである。

 むしろここでは、宇宙、コンパス、円といった言葉が用いられていることに注目したい。ハーフェズの科学知識に対するレベルを示すものであり、現代の詩歌で用いられても全く遜色のない言葉である。

 また、「幸せの錬金術は友である。友に限る」と言って錬金術に言及している。

 錬金術は価値のない金属から金を作り出そうとする術であるが、ローマ・ギリシャ以来重要な科学技術の一分野であり、ハーフェズの時代でも立派な科学であった。その後そのようなことが不可能であることは明らかになったが、ありきたりの金属を金に変えようとする努力は現代の化学の基礎になった。

 ハーフェズが内外(ペルシャ・アラブ)の文学に広く通じていたことも、ハーフェズの詩の中で「コーラン」とともに引用される多くの文学上のエピソードから知られることであるが、同時に言葉の専門家として、「意味は言葉ですべて言い尽くすことはできない。大海が入れ物に収まらないように」と言葉の限界を巧みに科学的に表現している。

 イスラーム世界は、ヨーロッパ文明がルネサンス、地理上の発見、産業革命を経て世界をリードするまでの間、世界の科学技術の発展に大きな役割を果たした。ハーフェズはそんなイスラーム世界の一級の知識人であった。

 次回からはいよいよ、筆者が毎日暗唱し自らの生き方の指針としているハーフェズのいくつかの詩の断片を、その詩全体とともに紹介する。

(ペルシャ詩の翻訳はいずれも筆者)

(駒野欽一=元イラン大使)

2018年9月27日

・Dr.南杏子の「サイレント・ブレス日記」㉔ 届けたい音がある

 和太鼓の音に魅入られている。

 はじまりは2010年秋、縁あって訪れた国際基督教大学(ICU)の大学祭。同大学の和太鼓部によるパフォーマンスを目の当たりにした時のことだ。青空の下、校舎をバックにした緑の芝生の上で、高らかに響きわたる太鼓の音を聞いて驚いた。このICUでは、和太鼓部の演奏が大学祭プログラムの人気投票で毎年のようにトップを占めるというから、彼らのバチさばきと人気のほどはご理解いただけるだろう。

 あれから毎年のように和太鼓の演奏会やワークショップなどに足を運ぶようになって9年。聞く側の楽しみは色あせない。古来、「五穀豊穣」や「無病息」を祈る際に打ち鳴らされることが伝統の和太鼓だが、最近は災害からの復興支援をうたい、被災者へエールを送ることを主眼に演目が組まれることも多くなった。

 被災地・被災者の支援を主眼に置く和太鼓の演奏会が本格化したのは、1995年に起きた阪神大震災が契機と言えそうだ。各地の催しを振り返ってみる、この震災の翌年以降、神戸市などで地元の和太鼓集団が復興を誓う演奏会が毎年続けられるようになっている。

 そうした中で2000年6月、伊豆諸島・三宅島で雄山が噴火。全島避難で多くの人々が島を離れることを余儀なくされた。三宅島といえば、江戸時代から伝わる「三宅島神着神輿(かみつきみこし)太鼓」で知られる。「三宅太鼓」の通称で親しまれるこの太鼓の演奏は、低い姿勢から体全体を使って打ち込むスタイルと、聞く者の体に響くような音で和太鼓ファンの大きな人気を集める。

 島の噴火を機に都内へ移り住んだ元島民が三宅太鼓の普及に努めたり、著名な太鼓集団が三宅島支援の募金活動やチャリティー演奏会を開催したりするなどの活動を展開。災害からの復興支援と和太鼓演奏は、結びつきを一層強める形となった。「がんばれ」「くじけないで」「私が応援している」という思いがこもった和太鼓の演奏は、聞く者の心に強く響くものだ。

 病を押してステージの出演を目指す人たちを医療的な側面からサポートする女性医師の物語<ステドク>シリーズの第5話「届けたい音がある」を9月22日発売の小説現代10月号に発表した。

 今回の物語では、病床にある大切な人の回復を祈りつつ懸命に三宅太鼓を打つ奏者の姿を描いた。「がんばれ」「くじけないで」「私が応援している」と2
いう太鼓の音を文字で表現するのは、とても難しいが刺激的な体験だった。

 西日本を中心に全国の広い範囲で記録した集中豪雨、大阪北部と北海道を襲った地震、相次いで上陸した台風……。2018年は、災害の多い夏だった。ようやく季節が移り変わる時期を迎えたものの、今でも誰かが「がんばれ」「くじけないで」「私が応援している」と声を枯らしているはずだ。時には耳をすましたい。寄り添う思いを届けたい。

 (みなみきょうこ・医師、作家: 終末期医療のあり方を問う医療ミステリー『サイレント・ブレス―看取りのカルテ』=幻冬舎=が、7月12日に文庫化されました。クレーム集中病院を舞台に医療崩壊の危機と医師と患者のあるべき関係をテーマに据えた長編小説『ディア・ペイシェント』=幻冬舎=も好評発売中)

2018年9月27日

・Sr 阿部のバンコク通信㉔ひとまとめに”外国人扱い”しないタイ社会の良さ

  タイ社会のおいて私たちは「外国人」ではなく日本人。台湾人、韓国人、中国人、ベトナム人、カンボジア人、ミャンマー人、パキスタン人…それぞれの国民で、「外国人」ではありません。「ファラン」=外国人はフランス人の意ですが、西欧、北中南米諸国の国名が分からない時、一般的に指してファランと言います。

  でも、こうした呼び方は別にして、タイ社会が、国外の人をひとまとめに”外国人扱い”しないことは嬉しい限りです。近隣諸国が陸続き、人とモノの流れの分岐点であり合流点でアクセスが良く、あらゆる国から千客万来。異なった文化と民族を受け入れるどほどに、心の領域と視野も広がります。異文化の受容に柔軟で、大らかなタイ社会はたしかに居心地がいい。

    各自の信仰についても同様。仏教国であっても其々に信奉する信仰を持っていて、仏教、カトリック、プロテスタント、イスラム、ヒンズー、シーク他、むしろ信仰を持って生きる事は人間の当然の在り様と受け止められていている社会、タイ駐在の日本人カトリック信者の皆さんも、信仰を表明して、伸び伸びと生活しておられます。

   ここタイには、アジア諸国の人々が共存する社会があり、活気に満ちた「協力、共生」を感じます。アジア通貨危機でタイ経済が低迷し、現地での商売に見切りをつける外資企業が相次いだ時期に、日本企業はタイに留まり、この国の経済と国民の生活を支え続けました。「困った時こそ、共に乗り切る仲間になってくれる日本が、本領を発揮するのです」と、現地の会社役員を務めるカトリックの友人が語ってくれました。

  汗だく埃だらけになって共に働き、創造する喜び達成感を味わう醍醐味を、国境、利害関係の有無を越えて体験している人々がいる。本当に嬉しく思います。

  人間社会の凄みと成熟は、多民族の共生から実現される、と思います。難民問題が大きく世界中の話題になっている今日この頃、「人が植え、整備された人工林よりも、雑木林は、確かに強い」-そういう人間社会を期待する気持ちを、改めて強くしている私です。

(阿部羊子=あべ・ようこ=バンコク在住、聖パウロ女子修道会会員)
2018年9月1日 | カテゴリー :

・菊地大司教の日記㉜吉祥寺教会で福音宣教講演会・9月、10月の予定など

 

*吉祥寺教会で福音宣教講演会

 8月25日の土曜日、午後1時半から、神言修道会日本管区の宣教事務局主催で、福音宣教について考える講演会が開催されました。宣教事務局長のディンド神父から依頼を受けましたので、当日、講演をさせていただきました。

 また参加者の方々には、そのまま、午後4時からの小教区のミサにご参加いただき、私が司式いたしました。

 なお当日は、名古屋の神言神学院で学ぶ神学生たち6名(そのうち二人は助祭)が、養成担当の暮林神父と一緒に参加され、講演の休憩時間に歌を披露したり、ミサの時に助祭の奉仕と侍者をしてくれました。

 また吉祥寺教会の聖歌隊の皆さんも、休憩時間に歌を披露したり、ミサの歌を担当してくださいました。感謝です。そして吉祥寺教会の信徒の多くの方が、プログラム進行に協力くださいました。ありがとうございます。

 神言会の宣教事務局とは、海外に派遣されている宣教師の会員を支援したり、来日する宣教師会員を支援したり。また地域の教会で、福音宣教への意識を高めるための様々な活動を行う事務所です。私自身も、その昔、ガーナへ派遣されていた当時は、募金を集めていただいたり、ガーナからのニュースを国内で配布していただいたり、帰国時には宣教地のお話をする機会を設けていただいたりと、様々な形で宣教事務局のお世話になりました。

 神言修道会では、各管区に規模の違いはあれど、宣教事務局があり、その中でも、ドイツと米国シカゴの宣教事務局は、宣教地への物資の提供なども行う非常に大きな組織となっています。

 さて、講演は、福音宣教の喜びについて、二つお話をせよ、とのリクエスト。

 一つ目は、主に第二バチカン公会議の教会憲章から、教会の本性としての福音宣教についてお話をし、さらに第二バチカン公会議の最後にやっと採択された「宣教教令(Ad Gentes)」の成立に神言会がどれほど関わり、今の神言会がその具体化のために務めていることをお話ししました。後半では、アドリミナの時にベネディクト16世から質問された「教区の希望」について、特に山形県新庄のフィリピン出身の信徒の方々の活躍について、お話させていただきました。

 参加してくださった皆さん、ありがとうございます。困難な道であっても、くじけることなく、勇気を失うことなく、「あなたをおいて誰のところへ行きましょう」の心意気を持って、福音を言葉と行いで証ししていきましょう。

 パウロ6世の言葉の通り、神様はご自分だけがご存じの方法で、愛する人類を救うに違いないのですが、かといってそのために召された私たちが、恐れや恥や誤った説によって福音宣教を怠るなら、果たして私たちの救いはあるでしょうか?忘れずに。

(2018年8月26日 (日) 司教の日記より)

*9月と10月の予定

まもなく八月も終わりですので、九月と十月の主な予定を掲載しておきます。なお個別の来訪者の予定などはここには記していませんので、予定が記載されていない日が必ずしも空いているわけではありませんので、ご来訪のご希望などがある場合は、必ず事前に教区本部事務局にご確認ください。

  • 9月2日  滞日外国人司牧担当者意見交換会
  • 9月3日  カトリック神学会 懇親会 (上智大学)
  • 9月5日  神の愛の宣教者会 ミサ (15時半)
  • 9月6日  常任司教委員会、社会司教委員会 (潮見)
  • 9月6日  平和旬間委員会 (関口、18時)
  • 9月7日  HIV/AIDSデスク会議 (潮見、15時)
  • 9月8日  マリアの園幼稚園お話 (予定、調布、10時)
  • 9月8日  財務担当者会議 (関口、14時半)
  • 9月9日  神言会JPIC講演会 (名古屋、13時半)
  • 9月10日 司祭評議会、司教顧問会、責任役員会 (関口)
  • 9月11日 健康診断
  • 9月12日~13日 東北巡礼
  • 9月14日 秋田の聖母の日 (聖体奉仕会、秋田)
  • 9月15日 宣教司牧評議会 (関口、14時半)
  • 9月17日 パリウム授与ミサ (カテドラル、13時)
  • 9月18日 カリタスジャパン委員会  (潮見、10時)
  • 9月18日 ロゴス点字図書館打ち合わせ (潮見、14時)
  • 9月20日 経済問題評議会 (関口、18時半)
  • 9月22日 聖ヨハネ会総会ミサ (小金井、10時)
  • 9月23日 松戸教会ミサ (10時半)
  • 9月24日 さいたま教区司教叙階式 (さいたま、11時)
  • 9月25日~26日 新潟教区司祭黙想会 (軽井沢)
  • 9月27日 ペトロの家運営委員会 (関口、14時)
  • 9月28日 聖園幼稚園保護者お話 (関口、9時半)
  • 9月29日~30日 新潟教区信徒大会 (秋田)
  • 10月1日 司祭評議会、社会部門連絡会 (関口)
  • 10月2日 カリタスジャパン援助部会 (潮見、13時半)
  • 10月3日 ペトロの家ミーティング (関口、8時半)
  • 10月3日 ロゴス点字図書館映画会 (中野ゼロ、19時)
  • 10月4日 常任司教委員会 (潮見)
  • 10月4日 グアダルペ宣教会ミサ (17時)
  • 10月6日 真生会館講演会とミサ (信濃町、13時半)
  • 10月7日 ケベック外国宣教会70周年ミサ (赤堤、11時)
  • 10月8日 鹿児島教区司教叙階式 (鹿児島、13時)
  • 10月10日 ロゴス点字図書館打ち合わせ (潮見、16時)
  • 10月11日 五日市霊園合葬墓祝福式 (五日市)
  • 10月12日 田園調布雙葉保護者講演会 (19時)
  • 10月13日 受刑者のためのミサ (麹町教会、14時)
  • 10月14日 こどものミサ (カテドラル、14時半)
  • 10月14日 聖心会ミサ (聖心会、17時半)
  • 10月15日 司祭評議会、CTIC運営委員会 (関口)
  • 10月16日~19日 カリタスアジア理事会 (バンコク)
  • 10月20日 ラテン語ミサ (カテドラル、15時)
  • 10月21日 目黒教会堅信式 (10時)、上野毛教会堅信式 (14時)
  • 10月22日 ペトロの家運営委員会 (予定)
  • 10月23日 カリタスジャパン啓発部会 (潮見、10時)
  • 10月24日~26日 東京教区司祭研修会
  • 10月26日 ロゴス点字図書館 法人理事会 (潮見、14時)
  • 10月27日 オスカル・ロメロ列聖感謝ミサ (カテドラル、10時)
  • 10月27日 海外宣教者を支援する会講演会 (ニコラバレ、13時半)
  • 10月28日 清瀬教会ミサ (10時)、師イエズス会ミサ (八王子、16時半)
  • 10月29日 HIV/AIDSデスク会議 (潮見、11時半)
  • 10月30日~31日 カリタスジャパン全国担当者会議 (潮見)

(菊地功=きくち・いさお=東京大司教)(「司教の日記」よりご本人の了解を得て転載)

・三輪先生の国際関係論㉞教育、研究と金銭、アメリカと日本の場合

 フォード財団の理事長がある時、こう語った。「研究助成をした場合、その成果だけが必要。いかに金銭を使ったか、領収書の添付など、要求したりしない。それに対して日本では、公的な助成を受けた場合、1銭1厘まで領収書の添付が要求される」。

 あるアメリカ人学者も、私にこう訴えたことがある。相手は国際交流基金だ。研究助成金交付の公募に応じて、見事成功した。それを受け取る一種儀式めいたことがあり、財団の理事長に挨拶した。そして数年後、研究成果の報告書を提出した。アポイントを取って挨拶に伺った。

 「口頭で研究の概要をお話しするつもりだったが、びっくりしたことに、愛想よく迎えてくれたものの、研究成果の報告には全く興味を示さず、だらだらと世間話に終わってしまった」そうだ。随分と無駄な金を使っているのではないか、との印象を受けたという。

 教育の話は、もう50余年も昔になる私自身が体験したことである。プリンストンの大学院で勉学中、岳父が危篤、との電報で急きょ家族ともども帰国することになったが、為替の問題もあり旅費を用意することが出来ない。指導教授に相談すると、総務の事務員がやってきて、私の手に1000ドルを握らせた。「借用書を書きましょう」と言うと、「いいのです」との返事。

 「だってそうでしょう。わが大学は貴方に来てもらって勉学してもらっているのです。緊急なご帰国をお助けするのは当然のことでしょう」という説明だった。

 凄い。日本の文科省官僚に聞かしてやりたい金銭感覚だ、と感じたものだ。(2018・8・31記)

(三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所長)

・Sr.岡のマリアの風㉜9月の初めに:小さな道を歩もう-初心にかえって-

 8月を「聖母の被昇天」の祭日 一年の典礼暦の中で一番大きな聖母の祭日 を祝って終え、9月を、「聖マリアの誕生」の祝日で始める。東方正教会Orthodox Churchでは、9月は、新しい典礼暦の始まりである。

 聖マリアの「誕生」をもって始まる、新しい時。それは、「小さな道」とも言えるだろう。

 聖マリアの誕生の場は、伝統的に、エルサレムの、現在の「聖ステファノの門」の近く、聖アンナ教会があるところだったろうと言われている(諸説あるけれど)。それは、イスラエルの民の宗教の中心地、エルサレムで起こったとしても、当時、ほとんど人目に付かない、宗教の指導者たちの目からは隠された、「小さな」出来事だっただろう。

 7月、ローマの恩師、先輩たちと会い、ヨーロッパにおいても「マイナー」な神学分野であるマリア論の研究を、喜びと熱意をもって続けている姿を見た。また、ローマ出張の後に訪問したポーランドの共同体の姉妹たちの、素朴で力強い信仰と、聖母への、子どものように単純な崇敬を体験した。

 8月、本部修道院では、被昇天の聖母祭日 8月15日 を中心に、祭日前の「9日間の祈り」(ノヴェナ)と、祭日を含む「8日間の祈り」を、姉妹みなで祝った つまり、8月6日から始まり、8月15日で頂点を迎え、8月22日の天の元后聖マリアの記念日までその間、晩の教会の祈りの少し前に聖堂に集まり、聖母賛歌を歌い、聖母の被昇天の神秘に関する教会の伝統を、ゆったりと聞く 今年は特に、教皇フランシスコ、教皇ヨハネ・パウロ二世の講話、祈りを味わった。

 祭日、8月15日には、一時間の「被昇天の聖母の集い」を行った。修道院の長い廊下を通って聖堂まで、聖母像を先頭に聖歌を歌いながら行列し、聖堂では、各々バラの花(シスター手作り)を捧げ、聖母像に触れて祈る。共に「聖母の戴冠式の連祷」を歌う祈りの期間中の主日には、ミサにあずかった障がい者施設の利用者、その他の信徒の方々が ミサの後、それぞれ行列をして聖母に花を捧げた。

 最終日の8月22日、天の元后聖マリアの記念日には、聖堂の大きな聖母像に荘厳に戴冠し、九日間と八日間の祈りの中で捧げてきたものすべて(花、手紙…)を、聖母像の前に捧げた。

 聖母や聖人のご像や絵に触れたり接吻したりするのは、日本的な感覚ではないかもしれない。でも、本部修道院は、ポーランド、韓国、ベトナムの姉妹たちと共に共同生活をしている場。それぞれの国の信仰感覚-それは特に、「民間信心」の中に培われ、温められ、表現される-を共有することによる豊かさを、わたしたちは現に経験している。

 いわゆる「民間信心popular piety」については、教皇フランシスコがたびたび示しているように、パウロ六世の、使徒的勧告『福音宣教Evangelii nuntiandi 1975 -まさに、福音宣教に関する「座右の書」-48項に、簡潔だが深い要約を見ることが出来る。それをさらに、現代のわたしたちにも分かりやすく説明したのが、教皇フランシスコの使徒的勧告『福音の喜びEvangelii gaudium 2013 122 126項(「民間信心がもつ福音化の力」というサブタイトルがついている)だろう。

 付け加えれば、パウロ六世の文書自身、第二バチカン公会議の『教会の宣教活動に関する教令Ad gentes 1965 第2項の、次の要約的一節を深めたものとも言える:「地上を旅する教会は、父である神の計画に従って、御子の派遣と聖霊の派遣とに由来するのであるから、その本質上、宣教的である」。

 教皇フランシスコは、『福音の喜び』の123項で、第二バチカン公会議後の数十年間で「再評価」されるようになった民間信心に「決定的な弾みをつけた」のが、パウロ六世の『福音宣教』であると述べ、次のように要約している:「パウロ六世は、民間信心は『素朴で貧しい人々のみが知りうる、ある神への渇きを示していて』、『信仰告白が問われるときには、人々に自らをささげて、熱心に徳の頂点の至らせる力を与えます』と説明しています」。

 また、125項では、教皇フランシスコ自身の経験を 日常の分かりやすい言葉で表現している:「今、わたしが思い出しているのは、彼ら[貧しい人々]の強い信仰です。信条(クレド)の信仰箇条を知らなくとも、病気の子どものベッドの足元で熱心にロザリオを唱える母親たちのことです。マリアの助けを求めて、質素な家にともされたろうそくに心からの希望を寄せる人々、十字架のキリスト像に親しみを込めたまなざしを向ける人々のことです。神の忠実で聖なる民を愛する人なら、こうした行為は神的なものを求める自然な探求心に過ぎないという見方はしないでしょう。こうした信心行為は、わたしたちの心に注がれた聖霊が働く、み心にかなう生活の表れです(ロ―マの信徒への手紙5 章5節参照)」。

 本部修道院の「聖母賛美」の中で、聖母像に軽く手を触れる人、その顔をやさしくなでる人、何かを語りかける人、手を置きながら、しばらくじっと祈る人… 姉妹の中に、それを「外面的」とか、「迷信的」などと言う人はいない。どの姉妹も真剣。そして、おのおのの、聖母との対話を尊重し合う。そのようにして、賛美の時は深められていく。

 8月中提出の、日本カトリック神学院、神学2年生の「マリア論」レポートの採点をした。毎年のことだが、神学生たちのレポートが入った 版の封筒が届くと、緊張する。

 むやみに開けて、神学生たちのレポートを、その辺に散らばせておく気持ちはなれない。というわけで、結局、8月下旬まで、封をしたまま、作業室に置かれていることになる。採点をする日は、前日から「覚悟」を決め、作業室の机の上の整理をする。当日の朝、(少しは整頓された)作業室で、祈りながら封を開ける。

 なぜ緊張するか、といえば、神学生たちのレポートは、自分の授業を、ある意味で「映し出す」ものとも言えるからだ(少なくともわたしはそう思う)。わたしが伝えたかったことが反映されているのを見たら、素直に感謝。わたしの授業で欠けていたことが反映されているのを見たら、率直に反省、来年度のための参考とする。

 大神学校での授業、初めての年は、もしも落第点を付けなければならないほどのレポートがあったらどうしよう、と心配だった(自分もつい最近まで学生だったから)。しかしこれは杞憂に過ぎないことを、最初の年で分かった。

 点数を付けるというのは、付けられる方もだが、付ける方も、気分のよいものではない。どこまで、自分の好みではなく、客観的に評価できるのか。

 わたしは、採点のために決めた日は、他の仕事で中断せずに、一気に集中してレポートを読むことにしている。全部読んでから、一つ一つ読み直し、また全部読む。採点をした後で、「神学生たちに向けて」、全体的に評価できる点、全体的に欠けていると思われる点を示し、参考のためにアドバイスを書く。 一枚の、簡単なものだが、これがせめてもの、わたしの神学生たちへの感謝の気持ちである。

 今年の神学2年生のレポートも、わたし自身、教えられることが多かった。神さまは、一人ひとりを、ご自分の姿、似た者として造られた。その、一人ひとりが、こんなに違うということは、神さまがいかに、限りなく大きく、広く、深いかを教えてくれる。誰一人欠けても、唯一の方向に向かって歩んでいる「人類家族」の旅路に必要なものが、欠けるだろう。

 「独り言」の始めに戻れば…  わたしのしていることは、何と小さいのか、と、時々思うことがある。

 そういう時には「初心」にもどりたい。わたしの初心だけでなく、キリストの民の初心、そして、神の民の初心。 モーセは、イスラエルの民全体に思い起こす:「あなたの神、主は地上のすべての民の中からあなたを選んで、ご自分の宝とされた主があなたたちに愛情を傾けて、あなたたちを選ばれたのは、あなたたちがほかのどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたたちはすべての民の中で最も数の少ない民であった。しかし、主はあなたたちを愛誌、また先祖に立てた誓いを守られたので、主は強いその手であなたたちを導き出し、どれの家から、エジプトの王 ファラオの手からあなたを贖われた」(申命記7章6~ 8節参照)

 イスラエルの娘、ナザレのマリアは、だから、高らかに宣言する-「主は、身分の低いはしためにも目を留めてくださった」。「身分の低い者を引き上げ」、「飢えた人を良いもので満たす」主、力ある方が「 わたしに偉大なわざを行われた」と(ルカ福音書1章 48 、49、 52、 53節参照)。

 イエス自身、父である神が、「小さい者たち」にご自分を現してくださったこと、それが神の望みであることを知り、喜びにあふれる(同10章 21 、24節参照)。

 6月に訪問した、韓国の「マリアのけがれなきみ心」修道会の総長、Sr.Mにメールを書いた。わたしたちは小さなもので、小さなことしか出来ないけれど、その小さなことを、率直に、単純に、謙虚に積み重ねていきたい、それがマリアに倣う生き方なのだと思う、協力してくださいませんか、と。Sr.Mから、小さな力を分かち合って、よろこんで協力します、と返事が来た。

 父である神が、わたしに、わたしたち一人ひとりに託した「夢」。わたしたちは、その「夢」の実現の協力者なのだろう。そして、神の望みは、すべての人を、ご自分の永遠の命の中に招き入れることである。わたしたちは、神の「夢」を実現しながら、わたしたち一人ひとりの召命を実現していくのだろう。それは、わたしたち一人ひとりが、「わたしたち自身」になること-造り主の神が望んだわたしたちの姿になること-である。

(岡立子=おか・りつこ=けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)

2018年8月30日 | カテゴリー :

・Sr.石野の思い出あれこれ②ベトナム人シスターと日本にいた弟2人のこと

 ローマにベルギー系の女子修道会が経営するレストランがある。ウエートレスは皆シスター。シスターと言っても修道服を着ているわけではなく、思い思いの服装で働いている。

 常時3、4人のシスターがいるが、その中にベトナム人のシスターがいた。ベトナムで修道院に入り、ベルギーに勉強に行ったが、ベトナム戦争が勃発して祖国に帰れず、そのままベルギーに残った、と言っていた。

 ある日、そのシスターから「弟がフィリピンのマニラから日本に行ったのを知ったが、居所が分からず連絡の取りようがない、何とかしてもらえないか」と相談を受けた。

 突然のことで、どうしてよいか分からなかった。でも考えた。ベトナム人のボートピープルなら皆、同じ所にいるだろう、日本のカトリック教会はその人たちのお世話をしているはずだ、と。

 そこで東京の大司教様に手紙を出した。すぐに返事をいただいた。ベトナム人の係をしているシスターを紹介して下さった。早速そのシスターに連絡を入れた。

 ベトナム人の弟さん二人は倉敷に住んでいて繊維工場で働いていることが分かった。姉のシスターの心は燃えた。すぐにも倉敷に飛んで行きたい-そう思ったのは当然だが、彼女は心臓を患っていたため、飛行機での長旅は出来ない。せめて電話でも話せたら、と言うことで、そちらを試してみた。

 ある日、ローマから、彼らが働いているという工場に電話を入れてみた。返事が返ってきた。10年以上も会っていない姉弟は、多くのことは語らなかった。流した涙が多くを語っていた。

 声を聴き、言葉を交わした姉と弟は「会って直接話したい」という強い望みにかられた。難民として日本に入国したベトナム人が日本を出ることは難しい。そんなことは分かっていた。それでも何とかならないものか。彼らのその強い思いがまた、わたしの心を動かした。

 ちょうどローマ駐在の日本大使館に勤務していた日本公使と親交があったので、事情を話してみた。彼はすぐ動いてくれた。そして日本の外務省から2人のベトナム人に3週間の日本外滞在の許可を取ってくれた。こうして2人の弟は姉を訪ねてローマに来ることになった。

 2人がローマに着いたとき、空港まで迎えに出た姉は、弟をすぐに見分けることが出来なかったとか。翌日二人は姉に連れられてバチカン放送局にわたしを訪ねてくれた。二人並んで直立不動で「シスターは僕たちの命の恩人です」としっかりした日本語で言って最敬礼をした。

 小さな船に70人で乗り込み、波にもまれ、食べ物もなくなり、恐ろしい日々を過ごしていた。立派な船が何隻も近くを通って行った。いくら助けを求めても救ってもらえなかっ た・・・。「そんな中で日本の船が僕たちを助けて、マニラに連れて行ってくれた。『日本人はいい人たちだ』。そう思って日本に行くことを決めた 日本に行ったことを後悔していません」と話してくれた。

 一週間ほどローマに滞在して、彼らはまた日本に向けて出発した。その後、弟たちはベトナムの女性と結婚し、子供にも恵まれた。結婚式に招待されたが、行けなかった。その後も何回か文通したが、やがて音沙汰も絶えてしまい、今はどこでどうしているか分からない。ひたすら幸せを祈るばかりだ。

( 石野澪子=いしの・みおこ=聖パウロ女子修道会修道女、元バチカン放送日本語課記者兼アナウンサー)

2018年8月27日 | カテゴリー :