教皇フランシスコのバルト3国訪問中の 24日、ラトビアの聖母巡礼の中心地、アグロナ でのミサが感動的でした。試訳でお届けします。(小見出しも)
「あなたが母であることを示してください!」
十字架のもとに立つ母 わたしたちは、こう言うことが出来るでしょう:聖ルカが使徒言行録の最初に語っていることが、今日、ここで繰り返される、と。わたしたちは、深く結びつき(一致し)、祈りに専念しています、わたしたちの母、マリアと共に(1 14参照)。今日、わたしたちは、この訪問のモットーをわたしたちのものにしましょう:「あなたが母であることを示してください!」“Mostrati Madre! Show yourself as Mother! ” 母よ、あなたが「マニフィカト」を歌い続けている場所を、わたしたちに示してください。
わたしたちに、あなたのみ子が十字架につけられている場所を示してください-わたしたちが、十字架のもとで、あなたの堅固な存在と出会えるように-。カナの婚礼と、十字架のもと ヨハネの福音は、イエスの生涯が、彼の母の生涯と交差する、ただ二つの時だけを語っています:カナの婚礼(2 1 12参照)と、今、聞いたばかりの、十字架のもとの母(19 25 27参照)。
ヨハネの福音書は、人生の、一見して反対の状況の中で、わたしたちにイエスの母を示そうとしたとも言えるでしょう:婚礼の喜びと、子の死のための苦しみ。わたしたちが、「みことば」の神秘の中に深く入り込むとき、「みことば」はわたしたちに、主が、今日、わたしたちと共に分かち合うことを望んでいる「善い知らせ(福音)」が何であるかを示します。
「しっかりと(堅固に)立っていた」
福音作者が強調する最初のことは、マリアが、彼女の子の傍らに、「しっかりと(堅固に)立っていた」“saldamente in piedi”ということです。
気楽な方法で立っているのでもなく、あいまいでも、ましてや臆病な方法でもなく。マリアは、断固として、十字架のもとに「釘づけにされて」います。彼女の体の姿勢をもって、何も、誰も、彼女をあの場所から動かすことは出来ないことを表現しながら。
マリアは、世界中が避けている人々の傍らに、ご自分を示すマリアは、先ず、このように ご自分を示します :苦しんでいる人々の傍らに、世界中が避ける人々の傍らに、告訴された人々、すべての人々から糾弾された人々、追放された人々の傍らにも。抑圧され、または搾取されただけでなく、直接、「システムの外に」、社会の縁にいる人々の傍らに(使徒的勧告『福音のよろこび』53項参照)。彼らと共に、母もいます-無理解と苦しみの十字架の上に釘付けにされて-。
マリアは、持続的に、傍らに留まることを、わたしたちに示す
マリアは わたしたちに示しています この現実の傍らに立つ方法をも ちょっとした散歩や、短い訪問、ましてや「連帯のツアー(観光)」をするのではなく。
苦しみの現実を耐えている人々が、わたしたちを、彼らの傍らに感じること、彼らの側にいると感じること-断固とした、持続的な方法で-が必要です;社会の「廃棄された人々」がすべて、繊細に(思いやりをもって)近くにいるdelicatamente vicina「母」の経験をすることが出来ます―なぜなら、苦しんでいる人の中に、彼女の子イエスの開かれた傷が続いているから―
マリアは、それを、十字架のもとで学びました。わたしたちもまた、人々の苦しみに「触れる」よう呼ばれています。わたしたちの民に会いに行きましょう。彼らを慰め、彼らに寄り添うために;わたしたちは、「やさしさの力」を経験すること、他の人々の生活に巻き込まれ、面倒になることを、恐れません(同上、270項参照)。
そして、マリアのように、堅固に、立って、留まりましょう:神に向けられた心をもって、勇敢に。転んだ人を再び起こし、みじめな人を慰め、彼らを、十字架につけられた者たちのようにしている、あらゆる抑圧の状況を終わらせるよう、助けながら。
マリアは、わたしたちを「子」として受け入れる
マリアは、イエスから、愛する弟子を、彼女の子として受け入れるよう招かれました。福音箇所はわたしたちに、彼らが共にいたと語っています。しかしイエスは、互いに受け入れ合わなければ、十分ではないと気付きました。
なぜなら、ひじょうにたくさんの人々の傍らにいることは出来ます、同じ住まい、地区、または仕事を共有することさえ出来ます;信仰を共有し、同じ神秘を観想し、享受することが出来ます。しかし、受け入れることなしに、他者を 愛をもって受け入れようとせずに。
どんなにたくさんの夫婦が、近くにいながら、共にいない彼らの物語を語ることが出来るでしょうか;どんなにたくさんの若者たちが、大人たちに関するこの隔たりを、苦しみをもって感じているでしょうか;どんなに多くの高齢者たちが、冷たく世話をやかれていると-愛情をもって気遣われ、受け入れられているのではなく-感じているでしょうか。
マリアは、赦しに開かれた女性としてご自分を示す
わたしたちが他の人々に開くとき、時に、それがわたしたちをひじょうに傷つけることがあるのは、本当です。そしてまた、わたしたちの政治的現実において、民の間の衝突は、まだ痛ましくも生々しいことは本当です。
マリアは ご自分を示します 赦しに開かれた女性、怨恨(えんこん)、不信をわきに置く女性として マリアは、もし、彼女の子の友人たちが、彼女の民の祭司たちが、「こうすることが出来たら」、または、政治家たちが、異なる方法でふるまったなら、と非難することを放棄します。マリアは、欲求不満(フラストレーション)、または無気力に勝たせるに任せません。
マリアは、イエスを信じ、弟子を受け入れます。なぜなら、わたしたちを癒し、わたしたちを解放する関係は、他の人々との出会い、兄弟愛にわたしたちを開く関係だからです。そのような関係は、他者の中に、神ご自身を見出すからです(同上、92項参照)。
Sloskans司教の言葉
ここに眠っているSloskans司教は、捕らえられ、遠くに連れて行かれた後、彼の両親に書いています:「あなた方に、わたしの心の奥深くからお願いします:復讐、または絶望が、あなた方の心の中に開かれるままにしないでください。もし、わたしたちがそれを許すなら、わたしたちは本当のキリスト者ではなく、狂信者となるでしょう」。
わたしたちに、他の人々を信用しないよう(警戒するよう)招き、統計をもって、わたしたちに、もしわたしたちが一人でいるなら、より繁栄を得、より安全だと示そうとしているメンタリティーが戻って来たように見える、今の時代において、マリアと、この地の弟子たちは、わたしたちに、受け入れ、兄弟について、普遍的兄弟愛について、再び賭けをするよう、招いています。
マリアは、受け入れられるに任せる女性としてご自分を示す
しかしマリアはまた ご自分を示します 受け入れられるに任せる女性として、弟子に属する物事の一部になることを、謙虚に受け入れる女性として。
あの、ぶどう酒がなくなった婚礼―喧嘩に満ち、しかし、愛と喜びに欠けて終わる危険とともに―の中で、イエスが彼らに言うだろうことを行ってくださいと命じたのは、彼女でした(ヨハ2 5参照)。
今、マリアは従順な弟子として、受け入れられ、変えられ、より若い者のリズムに自らを順応させるにまかせます。
いつも、調和は苦労を要します:わたしたちが異なるとき、年月、歴史、状況が、わたしたちに、一見して反対であることのように見えることを 感じ、考え、行なうように仕向ける時。わたしたちが、受け入れなさいという命令、受け入れられなさいという命令を 信仰をもって聞く時、違いにおける一致を形づくることが可能になります。
なぜなら、違いは、わたしたちにブレーキをかけることも、わたしたちを分裂させることもせず、わたしたちは、さらに向こうを見つめることが出来るから、他の人々を、彼らの、より深い尊厳において見ることが出来るから―同じ「御父」の子らとして(福音的勧告『福音のよろこび』228項参照)。
このミサ聖祭の中で-あらゆるミサ聖祭の中でのように-、わたしたちはあの日の記念を行います。十字架のもとで、マリアはわたしたちに思い起こします:マリアの子らとして認められたことの喜びを。そして御子イエスはわたしたちを招きます:マリアを家に連れて行くことを、マリアを、わたしたちの生活の真ん中に置くことを。
マリアは、わたしたちに与えることを望んでいます:堅固に立つために、彼女の勇気を;歴史のあらゆる時の座標軸に、自らを順応させるにゆだねる、謙虚さ(へりくだり)を;そして、彼女の声を上げます-この彼女の巡礼地に、わたしたちすべてが、差別無しに、集まるよう努力するように。そして、ラトビアにおいて、わたしたちすべてが、より貧しい人々を優先し、倒れた人々を再び起こし、到着し、わたしたしたちの前に現れる他の人々を受け入れる心構えが出来ているように。
ミサの終わりに-感謝-
愛する兄弟姉妹たち、この祭儀の終わりに、あなた方の司教の言葉に感謝します。また、さまざまな方法で、この訪問のために協力したすべての人々に、心からありがとうを言いたいのです。特に、ラトビア共和国大統領と、各界代表の方々の歓迎に、心からの感謝を表します。
この「マリアの地」で、神の聖なる母に、特別なロザリオを捧げます:おとめマリアが、あなた方を守り、あなた方につねに寄り添ってくださいますように。