バチカンが日本の神道関係者への新年あいさつを公表

教皇庁諸宗教対話評議会が2018年1月1日に向けて、日本の人々、特に神道関係者に「世代間の断絶という課題に直面している現代、神道の皆さまとキリスト者がともに手をたずさえて」と題する以下のメッセージを事前公表した。内容は以下の通り。(日本語訳は

 親愛なる神道の皆さま、

1.教皇庁諸宗教対話評議会より、日本の皆さま、とりわけ神道の皆さまに新年のごあいさつを申し上げます。新年のおめでたい日を迎え、初詣により、青年たちも含め、多くの人々が神社を参拝されることと思います。

2.ことしのごあいさつの中で、今日課題となっている、広がりゆく世代間の断絶について考えてみたいと思います。カトリック教会では、「青年、信仰と召命の識別」と題された世界会議を、2018年10月に開催しようとしています。この会議の準備文書は次のように述べています。「今日の若者世代は、その両親や教師たちの世代とは異質の世界に暮らしている。経済的社会的変化は、責任とチャンス双方の全域に影響を及ぼし、青年たちの深い望み、ニーズ、感情、人間関係の持ち方もまた変化している」(2項)。さらに次の点を強調しています。「こうした背景の中、古いアプローチはもはや有効には働かず、前の世代が経験してきたことは早々と時代遅れになるのである」(3項)。

3.明らかに、世代間の断絶が拡大しているのは世界中での出来事ですが、とくに日本のような発展した国では顕著です。このことは、比較的年長の人と若い人が、その経験、意見、習慣や行動の違いによって理解し合うことが難しいことから分かります。異なる世代間の目に見える分断はまた、あらゆる世代を悩ます共通の問題、つまり孤独の問題を増大させます。両親と子どもたちは、現代の生活様式が足早に過ぎるので、ほとんどともに過ごす時間をもてないでいます。さまざまな人々の中で、コミュニケーションや交流がますます不足することにより、以前は、文化的宗教的遺産を継承し、高齢者の知恵を未来世代に伝える手段であった世代間の結びつきが弱まっています。

4.親愛なる友人の皆さま、こうした世代間の断絶に橋を架けるという共通の関心と務めを、わたしたちは共有しています。経験からわたしたちは、遺産として経済的繁栄を次の世代に残すだけでは、幸福も、世界の正義や平和も保障されないことを知っています。わたしたちが保持しているものは、次の世代に伝えられるべき真の宝です。つまりそれは、わたしたちそれぞれの宗教がもつ信仰の霊的遺産です。現在世界の問題となっている平和への脅威は、新たな世代が直視することが求められるものですが、軍事衝突や敵対心によって解決することはできません。知恵によって、また対話、忍耐、寛大さの力によってしか解決できないのです。これこそが、わたしたちが次の世代に継承すべき霊的遺産です。

5.教皇フランシスコは、青年たちがその祖父母や高齢者と密接な関係をはぐくむよう勧めています。生きる知恵を有する高齢者の声に耳を傾けるよう励ましています。また、祖父母の人たち自身、青年たちの大志や望みを理解するために、彼らに耳を傾けるよう指摘しています(バチカン放送局、2016年12月19日のニュース参照)。このように、それぞれの世代は相互のかかわりを通じて、他の世代を養い支援していくことができるのです。

6.結局わたしたちは、本質的に関係性の中に生き、他者と意味あるかかわりを必要とする人間です。これまで見たように、かつてないほど広がった世代間の断絶に対する解決手段は、顔をつきあわせた交流の中で表現され、またデジタル機器を介しても表現される、愛と理解です。デジタル機器は、そうした背景で行われるなら、意味ある関係性のためのよい手段となりえます。

7.この新年のお祝いが、青年も、年長者もともに自分たちの宗教や伝統文化の価値を再発見し、世代間の距離に橋を架ける、幸いな機会となりますように。世界におけるキリスト者と神道の皆さまとの協力、努力により、年長者と青年たちがそれぞれの世代のたまものを真に理解し、社会を強固なものとすることができますように。この共通の望みをもって、あらためて皆さま、皆さまのご家族、皆さまを取り巻く社会の方々へ、心より新年のごあいさつを申し上げます。

 神道の皆さま、明けましておめでとうございます。

 教皇庁諸宗教対話評議会議長:ジャン・ルイ・トーラン枢機卿 同次官:ミゲル・アンヘル・アユソ・ギクソット神父

2017年12月29日

 教皇、東京などに続き、メキシコシティ、パリ両教区の新大司教を任命(Tablet)

(2017.12.7 Tablet Christopher Lamb)

 教皇フランシスコが7日、世界のカトリック教会指導者の刷新の一環として、メキシコシティ、パリ両大司教区に新たなリーダーを任命した。700万人の信徒を抱える世界最大の大司教区であるメキシコシティの大司教にはカルロス・アギアル・レテス枢機卿が、欧州の主要大司教区であるパリの大司教にはミッシェル・オーペティ司教が就任する。

 オーペティ新大司教は、44歳の時に叙階された医療倫理学者で、2014年からナンテール司教。最近任命されたミラノのマリオ・デルピニ大司教、ローマのアンゲロ・デ・ドナティス司教総代理と同じく、慎ましい司牧スタイルで有名。バリ大司教任命も、政治的、教会経営的に重要な役割を果たす人物よりも基礎的なところから宣教活動を作り上げていく人物を重視する現教皇の新司教任命の路線の延長にある。

 一方で、アギアル枢機卿のメキシコシティ大司教への任命は、中南米の教会指導者としてこれまでも際立っており、順当と言える。中南米教会協議会の前会長であり、昨年、現教皇から枢機卿に叙されていた。教皇自身が、枢機卿として協議会が2007年に中南米での教会活動の基本を定めたアパラチア文書のとりまとめに重要な役割を果たした経験を持ち、アギアル枢機卿もその推進者だ。彼は「進歩派」「保守派」のいずれにも偏らない穏健な指導者として知られ、教皇庁立グレゴリアン大学で聖書学の博士号を取った神学者でもある。

  二人の人事は、教皇フランシスコが最近実施した世界の主要大司教区、東京(日本)、ブラッセル(ベルギー)、ミラノ(イタリア)、そしてニューアーク(米国)に続くものだが、これら6人すべてに共通するのは、「自分の羊たち(教区の信者たち)」のそばにいようとする志をもっている、ということだ。このことは、教皇が、枢機卿を新任する際に、これまで日の当たらなかった地域で活動する聖職者、自分の教区に必要な心の糧を行き渡らせようと努めている聖職者を選んでいることと共通している。

 (翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

(Tabletはイギリスのイエズス会が発行する世界的権威のカトリック誌です。「カトリック・あい」は許可を得て翻訳、掲載しています。 “The Tablet: The International Catholic News Weekly. Reproduced with permission of the Publisher”   The Tablet ‘s website address http://www.thetablet.co.uk)

→以上のような評価は菊地・東京大司教選任についてもなされている、と解釈していい。 菊地大司教の選任は、教皇フランシスコの世界の教会のリーダー選任に当たっての一貫した「基準」にかなったもの、とご自身が判断されているのだ。

 

2017年12月12日

 「『主の祈り』の表現を見直す必要」と教皇が言明(Tablet)

(2017.12.8 Tablete  Christopher Lamb)

 教皇フランシスコが、カトリック教会の祈りの中で最も重要な「主の祈り」にある「non ci indurre in tentazione」 (英語公式訳はこの直訳の『lead us not into temptation』 、日本語公式訳は『わたしたちを誘惑におちいらせず」)は「もっとよい表現」にすべきだ、との考えを明らかにした。

 これは、イタリアのテレビ放送TV2000のインタビューに答えたもので、「この翻訳の言葉はよくありません」と指摘し、その理由を「人々を誘惑に❝lead”(導く、おちいらせる)のは神ではなく、サタンであるからです」とし、「この表現は変えるべきです」と語った。そして「(誘惑に)陥るのは私。私を誘惑に陥らせるのは彼(神)ではありません。父親は自分の子供にそのようなことをしない。すぐさま立ち直るように助けてくれます」と述べ、さらに「私たちを誘惑に導くのはサタン。それがサタンの役回りなのです」と改めて強調した。

 そして、この箇所をどのように改めるべきかについては、より正確にこうした神学的な見方に従って、「don’t let me fall into temptation」とするのが適当、とし、フランスの司教団がこのほど主の祈りを見直し、英訳にするとこれまで「“Do not submit us to temptation」としていたのを「Do not let us into temptation」と改めたのを妥当との判断を示した。

 現在の主の祈りの言葉は、ギリシャ語訳をラテン語に翻訳したものをもとにしており、ギリシャ訳のもとは、イエスが実際に語られていたアラム語(ヘブライ語の古語)から来ている。教皇庁立グレゴリアン大学のマッシモ・グリリ教授は「ギリシャ語のこの箇所は『eisenenkês』で、文字通り訳すと『don’t take us inside』となると言い、そのように訳し直すべきだ、としている。

 教皇フランシスコはこのほど、教会法の部分改正を実施、各国語の典礼文の表現について、バチカンから現地の司教団に権限の比重を移す決定をしたが、従来のようなラテン語訳からの文字通りの翻訳を続けるか、それともギリシャ語やアラム語の原本を重視すべきかの議論は続いている。

 (翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

 →教皇フランシスコの先輩のイエズス会員、ミラノ大司教で高名な聖書学者でもあったカルロ・マリア・マルティーニ枢機卿(2012年没)は著書「イエスの教えてくれた祈り―『主の祈り』を現代的視点から」(教友社刊・篠崎栄訳)の中で、この部分を「私たちが誘惑に負けることのないようにしてください」としている。まさに教皇の指摘された線に沿っている、というよりは先取りしていた、と言えるだろう。現在の日本語訳は表現があいまいで、しかも、神に「誘惑しないで」と求めているように読めてしまう。日本の司教団は現在、典礼文などの見直しを進めているというが、主の祈りもこのマルティーニ枢機卿の表現を参考に見直す必要がある。(「カトリック・あい」南條俊二)

(Tabletはイギリスのイエズス会が発行する世界的権威のカトリック誌です。「カトリック・あい」は許可を得て翻訳、掲載しています。 “The Tablet: The International Catholic News Weekly. Reproduced with permission of the Publisher”   The Tablet ‘s website address http://www.thetablet.co.uk)

 

2017年12月12日

 日本・バチカン国交樹立75周年記念ミサ、聖ペトロ大聖堂で

日本・バチカン国交樹立75周年記念ミサ、バチカン・聖ペトロ大聖堂 – RV

(2017.11.23 バチカン放送)日本とバチカンの国交樹立75周年を記念するミサが、11月22日、バチカンの聖ペトロ大聖堂でとり行われた。

 1942年、日本とバチカンの間に完全な外交関係が結ばれてから、75周年を迎えた今年、茶道や、能、オペラ、シンポジウム、コンサートなど、一年を通して、ローマで様々な記念行事が行われた。

 22日、バチカンでのミサは、大聖堂の「司教座の祭壇」で、聖ペトロ大聖堂主席司祭、バチカン市国における教皇代理、アンジェロ・コマストリ枢機卿によって捧げられ、ローマ在住の日本人司祭たちが共同司式した。

 ミサには、中村芳夫在バチカン日本国特命全権大使をはじめ、ローマのカトリック日本人共同体、日本や世界各地からの巡礼者たちが参列。日本から参加した六本木男声合唱団のコーラスが、儀式をいっそう荘重なものとした。

 コマストリ枢機卿は、ミサ中の説教で、医学者アルベルト・シヴァイツアーやマザー・テレサの、深い信仰に培われた労苦を厭わない愛徳の実践を思い起こしながら、すべてのキリスト者は愛の奉仕に招かれていると話した。そしてミサの中で、日本と日本国民の発展と貢献を参列者たちと共に祈った。

 ミサの前日、11月21日夜には、ローマ市内の聖イグナチオ・デ・ロヨラ教会で、日本・バチカン国交樹立75周年記念コンサートが開かれ、 三枝成彰氏の作曲「最後の手紙」が六本木男声合唱団とオーケストラ・ディ・ローマによって演じられた。

2017年11月24日

 教皇、南スーダンとコンゴ民主共和国の平和のために祈る

教皇フランシスコ、南スーダンとコンゴ民主共和国の平和のための祈り – AFP

(2017.11.23  バチカン放送)

 教皇フランシスコは23日午後、教皇はバチカンの聖ペトロ大聖堂で、南スーダンとコンゴ民主共和国の平和のための祈りの集いを開かれた。

 集いの説教で、教皇は「南スーダンとコンゴ民主共和国、そして争いに傷ついたすべての地に、祈りを通して平和の種を蒔きたい」と話された。また、南スーダンへの訪問を望んだが実現できなかったことを語りつつ、「祈りは神の力と共に働くもの、神にとって不可能はありません」「復活されたキリストゆえに、私たちは平和は可能であると信じています」と説かれた。

 さらに、「イエス・キリストは私たちの平和」と述べ、「復活の主が兄弟たちを隔てる敵意の壁を壊してくださるように」「主が私たち皆を、それぞれの置かれた場所において、平和を作り出す人としてくださるように」と祈った。

 スワヒリ語や英語の聖歌と、聖書朗読を交えながら行われたこの集いで、参加者たちは、無関心と分裂を乗り越え、希望のために働く人、平和の真の証し人となれるよう、回心を祈り求めた。そして、戦争の犠牲者である女性たち、暴力の無実の犠牲者たちのために祈りを捧げ、同時に、紛争の当事者、地域と国際社会の責任者、両国の平和構築に取り組む人たち、故郷を追われた避難民たちのためにも祈った。また、南スーダンとコンゴ民主共和国の人々をキリストの傷ついた体として見つめながら、信仰のもとに希望と愛と平和が可能となり、神の似姿である人間の命が常に尊重、保護されることを願った。

 集いの最後に、教皇は聖母像2体を祝別された。神の母マリアの助けのもと、兄弟愛と平和への相互努力が育まれることを願って、これらの聖母像は南スーダンとコンゴ民主共和国に届けられる。

2017年11月24日

教皇、バチカン国務省に外交官人事局を新設

(2017.11.21 バチカン放送)教皇フランシスコは、バチカンの国務省に、新しい局を設立された。国務省内の「総務局」と「外務局」に並ぶ、第三の局となるもので、「教皇庁外交官人事局(仮訳)」と呼ばれる。

 同局は、現在国務省内にある教皇使節代表部を強化し、国務省所属の局として設立され、教皇使節代表(現代表:ヤン・ロメオ・パウロウスキ大司教)が局長となる。新設の目的は、教皇と国務省の責任者らのバチカンの外交官に対する関心と寄り添いを表すことにある。これによって教皇使節代表は、各国のバチカン大使館を定期的に視察することができるようになる。

 この第三局は、教皇庁の外交官に関連する問題だけに関わり、例えば、その人選、初期および長期の育成、外交官の生活および勤務環境などを取り扱う。第三局は、適宜な独立性を保つと同時に、国務省の他の2局、総務局および外務局と緊密な協力関係を持つことになる。

2017年11月22日

 2017年 第1回「貧しい人のための世界祈願日」教皇メッセージ

第1回「貧しい人のための世界祈願日」に向けて以下のメッセージを発表された。

年間第33主日 2017年11月19日の第1回「貧しい人のための世界祈願日」に向けて―「口先だけではなく、行いをもって愛し合おう」

1.「子たちよ、ことばや口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう」(一ヨハネ3・18)。この使徒ヨハネのことばは、キリスト者が決して無視することのできない命令を示しています。「愛する弟子」ヨハネは、イエスのこの命令を現代社会に確かに伝えています。その確かさは、わたしたちの口先からよく出る「空虚なことば」と、わたしたちが実行すべき「具体的な行い」を対比させることによってさらに際立ちます。愛に言い訳は通用しません。イエスが愛してくださったように愛したいと願う人は、イエスを模範としなければなりません。貧しい人を愛するときはなおさらです。一方、わたしたちは神の子がどのように愛してくださるかをよく知っていますし、ヨハネはそのことをはっきりと伝えています。それは次の二つの柱に基づいています。神は最初にわたしたちを愛してくださいました(一ヨハネ4・10、19参照)。神はすべてを、ご自分のいのちさえも与えて、わたしたちを愛してくださいました(一ヨハネ3・16参照)。

 この愛にこたえずにいることはできません。その愛は、何の見返りも求めずに無条件で与えられていますが、人々の心を燃え立たせます。そしてたとえ限界や罪を抱えていても、その愛にこたえるよう人々を駆り立てます。しかしこのことは、わたしたちが神の恵み、神のいつくしみ深い愛を心の底から受け入れ、自分たちの思い、そして感情さえもが、神と隣人を愛することに向けられるときに初めて実現します。こうしていわば、三位一体の神の心から湧き出たいつくしみが、わたしたちの人生を動かし、困窮している兄弟姉妹に対する思いやりと愛のわざを生み出します。

2.「この貧しい人が呼び求める声を主は聞」(詩編34・7)いてくださいました。教会はこの叫び声がいかに重要であるかをつねに理解してきました。使徒言行録の前半には、このことをあかしするすばらしい証言が記されています。「霊と知恵に満ちた」(6・3)七人を選んで、貧しい人の世話をする務めを彼らに任せるよう、ペトロが求めたのです。これはまさしく、キリスト教共同体が貧しい人への奉仕という世界に踏み出した最初のしるしです。イエスの弟子の生活は友愛と連帯を示すものでなければならないことが理解されたからこそ、このことが実現しました。貧しい人は幸いである、その人たちは天の国を受け継ぐ(マタイ5・3参照)と宣言した師なるイエスの教えに従ったのです。

 「財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った」(使徒言行録2・45)。この箇所は、初期のキリスト者が深い懸念を抱いていたことを明らかにしています。いつくしみについてだれよりも多くを語った福音記者ルカは、初代教会共同体における分かち合いをあるがままに伝えています。一方、このことばはあらゆる時代の信者に、したがってわたしたちにも向けられており、わたしたちのあかしを支え、もっとも困窮している人々への奉仕を促しています。使徒ヤコブも同じ確信のもとに、この教えを力強く鋭い表現を用いて自らの手紙に記しています。「わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、ご自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。だが、あなたがたは、貧しい人を辱めた。富んでいる者たちこそ、あなたがたをひどい目に遭わせ、裁判所へ引っ張って行くではありませんか。……わたしの兄弟たち、自分は信仰をもっているという者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、『安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい』というだけで、からだに必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」(2・5-6、14-17)。

3. しかし、キリスト者はこの声をまったく無視して、事あるごとに世俗的な考えに影響されてきました。それでも聖霊は、もっとも大切なものを見つめるよう人々を励まし続けています。聖霊は実際、貧しい人に奉仕するためにあらゆるかたちで人生をささげるよう、人々を駆り立ててきました。この2000年の間に、どれほどの歴史のページが、純真さと謙虚さと豊かな愛の想像力をもって、困窮している兄弟姉妹のために尽くしてきたキリスト者によって記されてきたことでしょう。

 とりわけ際立っているのは、何世紀にもわたり多くの聖人が従ってきたアッシジのフランシスコの模範です。彼はハンセン病者を「抱きしめ」、「施し」をするだけでは満足せず、彼らと「ともに生活する」ためにグッビオに行くことを決意しました。彼はこの出会いを回心への転機ととらえていました。「わたしがまだ罪の中にいた頃、ハンセン病者を見ることは、あまりにも耐え難く思われました。それで、主は自らわたしを彼らの中に導いてくださいました。そこで、わたしは彼らをあわれみました。そして、彼らのもとを去ったとき、以前には耐え難く思われていたことが、わたしにとって魂とからだの甘味に変えられました」(文書1-3、FF110〔フランシスコ会日本管区訳、「聖フランシスコの遺言」〕)。この証言は愛がもつ変容させる力と、キリスト者の生き方を明らかにしています。

 貧しい人のことを、単なる週一回のボランティア活動や、良心を慰めるためのその場限りの善行の対象としてだけ考えてはなりません。たとえそれらの体験が多くの兄弟姉妹のニーズや、多くの場合その原因となっている不正義に対する認識を高めるために役立つ有意義なものであったとしても、それは貧しい人と真に「出会い」、「分かち合い」を生き方とするようわたしたちを導くものでなければなりません。分かち合いという愛のわざは、わたしたちの祈り、弟子としての歩み、そして回心が真に福音的であるかどうかを確認するものです。この生き方はキリストのからだに手で触れるものであるために、喜びと平穏な心をもたらします。もしキリストに会いたいと真に望むなら、聖体のうちに与えられる秘跡的な交わりへの応答として、わたしたちは貧しい人の傷ついたからだの中におられるキリストのからだに触れなければなりません。聖なる典礼において裂かれたキリストのからだは、もっとも弱い立場にある兄弟姉妹の顔と人格の中に、分かち合いという愛のわざを通して見いだすことができます。聖ヨハネ・クリゾストモのことばはどの時代にも当てはまります。「キリストのからだを尊びたいのですか。それなら裸でおられるキリストをさげすんではなりません。教会堂の中で絹の布をあげてキリストを尊びながら、戸外にあって寒さと裸で震えているキリストをなおざりにしてはなりません」(『マタイ福音書講話』50, 3: PG58)。

 したがってわたしたちは、貧しい人に手を差し伸べ、彼らに会って目を見つめ、抱きしめるよう招かれています。それにより、孤独の悪循環を断ち切る愛のぬくもりを彼らが感じることができるからです。差し出された彼らの手は、わたしたちが安全で快適な暮らしから出て、貧しさそのものの価値を認めるよう求める呼びかけでもあるのです。

4. キリストの弟子にとって、貧しさとは「貧しいイエスに従うという召命」にほかなりません。このことを忘れないようにしましょう。それは天の国の幸いに向かう旅において、イエスの後を、イエスとともに歩むことです(マタイ5・3、ルカ6・20参照)。貧しさとは、自分自身が限界と罪をもった被造物であることを受け入れ、自分が不滅であるかのような錯覚を起こさせる、全能への欲望に打ち勝つことのできる謙虚な心をもつことを意味します。貧しさは、金銭やキャリア、贅沢が人生の目的や幸せの条件であると考えない内的姿勢です。貧しさはむしろ、神はすぐそばにおられ、恵みによって支えてくださることを信頼しながら、自分自身の個人的、社会的な責任を、限界を抱えながらも無償で担うという状態を生み出します。このように考えると、貧しさとは、物的財を適切に使っているかどうか、さらには寛大で無欲な気持ちで人間関係を築いているかどうかを推し量る尺度であることが分かります(『カトリック教会のカテキズム』25-45参照)。

 ですから、真の貧しさのあかし人である聖フランシスコの模範に従いましょう。キリストをつねに見つめていたからこそ、彼は貧しい人の中におられるキリストに気づき、奉仕することができました。もし歴史を変え、真の発展を促すために貢献したいと望むなら、貧しい人の叫びを聞き、疎外された状態から彼らを救い出すために尽力すべきです。それと同時に、わたしたちの町や共同体の中で生活している貧しい人にお願いします。福音に示されている貧しさという、日常生活に刻まれた感性を失わないでください。

5. ご存じのように、現代社会の中で貧しさをはっきりと定義づけるのは非常に困難です。それでも貧しさは、苦しみ、疎外、抑圧、暴力、拷問、監禁、戦争、自由と尊厳の剥奪、無関心、無学と非識字、衛生面での緊急事態、雇用不足、人身売買、奴隷制、亡命、貧困、強制移住によってゆがんだ無数の人々の表情を通して、日々の生活の中でわたしたちに問いかけています。貧しさは、薄汚い利益のために搾取され、権力と金銭が支配する邪悪な論理によって踏みにじられた男女や子どもたちの顔をしています。社会における不正義、道徳的退廃、少数の人々の強欲、一般化する無関心によって引き起こされる貧しさを目前にして作成されるリストは、なんと無情で果てしなく長いことでしょう。

 不幸なことに現在、少数の特権階級の手によって、これ見よがしに富がますます蓄積されており、そのために違法行為や、人間の尊厳を傷つける搾取が頻繁に行われ、貧困が全世界のほとんどの社会で驚くほど広がっています。この状態を前にして、わたしたちは何もせずにいることはできませんし、ましてやあきらめることなどできません。雇用を奪うことにより、多くの若者のやる気をそぐ貧しさ。他の人に仕事をさせつつ自分が得をするよう促し、責任感を麻痺させる貧しさ。労働し生産する人々の報酬を下げることにより、共有の井戸を汚し、職業意識を曇らせる貧しさ。これらすべての貧しさに対し、わたしたちは新しい生活観と社会観をもって応じなければなりません。

 福者パウロ六世がよく述べていたように、すべての貧しい人は、「福音に基づく権利」(第二バチカン公会議第二会期開会のあいさつ、1963年9月29日)によって教会に属しており、彼らのために根本的な選択をすることを求めています。したがって、貧しい人を抱きしめ、助けるために開かれた手は幸いです。その手は希望をもたらします。文化、宗教、国籍によるあらゆる壁を乗り超え、人類の傷に慰めの油を注ぐ手は幸いです。何の見返りも求めず、「もし」とも、「でも」とも、「たぶん」とも言わずに開かれた手は幸いです。その手は兄弟姉妹の上に神の祝福を降らせます。

6. 「いつくしみの特別聖年」が終わりを迎えるとき、わたしは世界中のキリスト教共同体を、もっとも小さくされた人々ともっとも困窮している人々に向けられたキリストの愛のより具体的で大きなしるしとするために、「貧しい人のための世界祈願日」を教会に提案しようと思いました。わたしたちの共同体生活の中ですでに慣例となっている、わたしの先任者により制定された「世界祈願日」にこの日を加えたいと思います。それにより、貧しい人に優先的に向けられるイエスの愛という、福音に完全にかなった要素が加えられることとなるでしょう。

 わたしはこの祈願日にあたり、全教会と善意の人々に呼びかけます。助けを求めて叫び声をあげ、連帯を求めて手を伸ばしている人々にしっかり目を向けてください。彼らは天の御父によって造られ、愛されているわたしたちの兄弟姉妹です。この祈願日は、使い捨てと浪費の文化を否定し、出会いの文化を受け入れるようキリスト者を励ますことを第一の目的としていますが、それと同時に、兄弟愛の具体的な表れであるあらゆる連帯活動を通して、貧しい人と分かち合うよう、宗教の別にかかわりなくすべての人を招いています。神はすべての人のために天と地を創造されました。不幸なことに人間は、境界線や壁、柵を設けて、本来一人残らずすべての人に与えられたはずのたまものをないがしろにしています。

7.  年間第33主日に記念され、今年は11月19日にあたる「貧しい人のための世界祈願日」の前の一週間、キリスト教共同体が出会いと友愛、連帯、具体的支援のための時間をもうけるために尽力するよう、わたしは望みます。この主日に貧しい人やボランティアの人を招いて、一緒にミサにあずかるとよいでしょう。そうすれば、その次の主日である「王であるキリスト」の祭日をさらに真正に祝うことができます。ゴルゴダには、キリストの王職のすべての意味が表れています。それは罪のないキリストが十字架につけられ、貧しく、裸で、すべてをはぎ取られた人間として、あふれるほどの神の愛を示した瞬間です。御父に完全に身をゆだねるイエスの姿勢は、イエスの完全な貧しさを表すと同時に、復活の日に新たないのちによみがえらせた、愛である神の力も明らかにしています。

 この主日に、もし近隣に保護と助けを求める貧しい人が住んでいたら、その人たちに寄り添いましょう。それは、探し求めていた神と出会うすばらしい時となるでしょう。聖書の教えに従い(創世記18・3-5、ヘブライ13・2参照)、食卓を囲む大切な客人として彼らをもてなしましょう。その人たちは、わたしたちがさらに強く信仰を貫けるよう支える先生なのかもしれません。彼らは、信頼して助けを受け入れることができます。そして、必要最低限のものだけをもって、神の摂理に身をゆだねて生きることがいかに大切であるかを、飾ることなく、しばしば喜びをもってわたしたちに教えてくれるのです。

8. この祈願日に行われる数多くの具体的な取り組みの根底には、つねに「祈り」があるべきです。「主の祈り」は貧しい人の祈りであることを忘れないようにしましょう。日ごとの糧を与えてくださるよう求めることは、生活に基本的に必要なものを神により頼むことを表しています。この祈りの中でイエスが教えておられるすべてのことは、いのちの危険と必需品の欠如に苦しんでいる人々の叫びを集約し、表しています。祈り方を教えて欲しいと求める弟子たちに対しイエスは、唯一の父に語りかける貧しい人のことばをもって答えます。唯一の父のもとではすべての人が兄弟姉妹であることを、皆が認めているのです。「主の祈り」は複数形で唱えられる祈りです。願い求める糧は「わたしたちのもの」であり、分かち合い、参加、共同責任を生じさせます。この祈りにおいてわたしたちは、喜んで互いに受け入れ合うためには、あらゆる種類の利己主義を克服する必要があることを認めます。

9. 貧しい人を支えるという使命を自らの召命としている、司教、司祭、助祭の皆さん、そして修道者、諸団体、諸運動、そして広い分野でボランティアとして活躍している皆さん、この「貧しい人のための世界祈願日」を、現代世界における福音宣教に具体的に貢献する一つの伝統とするために尽力してください。

 したがって、この新しい世界祈願日は、信者としての良心への力強い呼びかけとなるべきです。この祈願日は、貧しい人との分かち合いは福音のもっとも奥深い真理を理解させてくれるという確信をさらに強めるものとなるでしょう。貧しい人は悩みの種ではなく、福音の本質を受け入れ、生きるためにくみ上げる泉なのです。

2017年11月18日

 国連気候変動枠組み条約締約国会議(COP23)に教皇メッセージ

(2017.11.16 バチカン放送)地球温暖化対策を国際レベルで話し合う、第23回国連気候変動枠組み条約締約国会議(COP23)が、11月6日から17日まで、ドイツのボンで開かれている。

 教皇フランシスコは、同会議の開催にあたり、議長国フィジーのフランク・バイニマラマ首相に宛てメッセージをおくられた。

 この中で教皇は、2年前の第21回会議での「パリ協定」の採択を「歴史的な出来事」と位置づけ、これは「今日の人類の最も大きな懸念の一つである、気候変動という問題に対する、共通の取り組みの必要への強い意志の表れ」とされた。

 「パリ協定」実施のための指針やルールを作るためにボンに集ったCOP23の参加者に、「地球の未来を構築するための対話を新たにすること」を急務とし、「私たちが体験している環境問題は、私たち全員に関係し、影響してくる問題であり、皆を一致させるための検討が必要」と呼びかけられた。

 そして、「残念ながら、環境危機の具体的な解決を求める多くの努力は、しばしば無関心や、諦め、技術への過度な信頼などによる問題の否定によって挫折させられている」と指摘。「私たちの地球の未来をめぐる正直な研究、誠実で建設的な対話を妨げるこれらの態度に陥ることがないように」と願われ、「環境危機問題の解決は、単に経済や技術的側面に限定されず、倫理的・社会的な様相や影響の面からも考察しなければなりません」と強調された。

 さらに、こうした意味から、「環境全体を考えた生活スタイル、地球という共通の家に対する責任ある良心を育てること」の重要性を示された。

 気候変動に対応し、貧困と闘い、人間の統合的な真の発展を推進するための決定を受け入れの意志を明確にすることができるようにと、参加者たちに強く求められた。

 

 

2017年11月18日

 システィナ礼拝堂聖歌隊の待降節・クリスマスの聖歌CD発売

(2017.10.24 バチカン広報)バチカン広報事務局が、システィナ礼拝堂聖歌隊の待降節・クリスマス聖歌の新CD「VENI DOMINE – Advent & Christmas at the Sistine Chapel」をドイツ・グラモフォンから発売した、と発表した。

 バチカン図書館の同礼拝堂関係保存資料のルネッサンス期の曲目を聖歌隊が再現する形でレコーディングしたもので、世界初公演となる曲目も三曲収録され、イタリアの人気オペラ歌手、チェチーリア・バルトさんも共演している。

 なお、このCDは日本でもamazonで購入可能。消費税・送料込みで1904円(「カトリック・あい」)

2017年11月15日

 前教理省長官が使徒的勧告‶ Amoris Laetitia”で教皇”支持”表明(TABLET)

(2017.10.30 Tablet Christopher Lamb)

 バチカンの前教理省長官、ゲルハルト・ミュラー枢機卿が、教皇フランシスコが昨春の使徒的勧告‶ Amoris Laetitia(家庭における)愛の喜び”で示した離婚・再婚者に聖体拝領の道を開く方針を支持していることが明らかになった。

 ミュラー枢機卿は今年7月に、教皇から教理省長官を解任され、 使徒的勧告で教皇が示したこの方針を批判する高位聖職者のリーダー格と見なされていたが、枢機卿は、このほど刊行された 同勧告に関する本に「Amoris Laetitiaの諸批判に対する有効的な対応」と題する巻頭言を寄せ、「離婚の後、再婚している人々に対して‶酌量の余地〟があり得る」 と述べたものだ。

 この本の著者は、神学者で前々教皇、ヨハネ・パウロ二世の腹心の友だったロッコ・バッティリオーネ教授。欧州委員会の委員候補になった際、同性愛者に対する見方で批判を浴びて注目されたこともあるが、Amoris Laetitiaについては、司祭や学者の保守派から批判が強まる中で、その内容を支持する立場を鮮明にしている

  ミュラー枢機卿は批判陣営のリーダー格ともみなされ、批判的な発言がこれまで目立っていたが、この本の巻頭言では「不規則的な男女の同居」にある一定の要素は、この二人が「是非の判断の全体的な評価において、倫理的な価値をもって神の前に立つことができることを意味する」とした。これは事実上、再婚したキリスト教徒が―最初の結婚の無効を認めるための公開の裁定に至ることなく、新たな結びつきが神の目に正しいということを―確信される手段として、“internal forum(非公開の裁定)”を主張したものだ。

 巻頭言では「このように言うことができる。それは、最初の二人の関係が、教会において結婚の形をとってなされたものの秘跡として正当でないこと、そして、現在の関係、子供たちに恵まれ、現在の相手との長く円熟した関係が神の前に真の結婚であることを心底から確信しているキリスト教徒がいる、ということだ」「おそらく、このことは教会法的に証明することはできないだろう」とも書かれている。

 ただし、枢機卿は、をヨハネ・パウロ二世の教えとのつながりの中で読むことができる、とし、離婚して再婚したカトリック信者に対して“situation ethics(状況倫理=決まったルールを杓子定規に当てはめるのでなく、状況に応じて倫理上の適切な判断を下すやりかた)”を主張しているわけではない。代わりに、 “subjective conscience(主観的良心)”が「諸関心と特定の諸状況を考慮する中」で「自然の道徳律の客観的な基準」と一致することが可能、と主張している。この考え方は、Amoris Laetitiaの元となった2015年の「家庭」をテーマとする全世界司教会議(シノドス)でドイツの司教団が展開した「正義は具体的な状況に‶適合〟させる必要がある」との聖トマス・アクィナスの言葉をもとにした主張でもある。

 枢機卿はまた、Amoris Laetitiaが出されて以来の教会内での賛否の論争を振り返り、「自分は、賛否両陣営の間に立って、第三の道を見出そうとしている」とし、「神学者たちの一方に、以前は教皇の教導権に異議を唱えていたが、今は教皇の言葉を何でも支持する‶進歩派‶を自認する人々がおり、また一方には、教導権に厳格に従うことを義務のように感じ、現在は、それを学生が論文をまとめるように学問的手法で関係の文書を研究している人々がいる」と述べて、両極端の動きを暗に批判している。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

(Tabletはイギリスのイエズス会が発行する世界的権威のカトリック誌です。「カトリック・あい」は許可を得て翻訳、掲載しています。 “The Tablet: The International Catholic News Weekly. Reproduced with permission of the Publisher”   The Tablet ‘s website address http://www.thetablet.co.uk)

2017年11月2日

 宗教改革500年記念年終わる-教会一致へのさらなる歩みを誓う

2016年10月、宗教改革500年を機にスウェーデンを訪問した教皇フランシスコ – AFP

(2017.10.31 バチカン放送)10月31日、宗教改革500年記念年の終了あたり、ルーテル世界連盟と教皇庁キリスト教一致推進評議会が、共同声明を発表した。

 共同声明では「宗教改革500年共同記念年の最終日にあたり、私たちは改革で得た霊的、神学的恵みに感謝します」としたうえで、この記念の年がルーテル世界連盟とカトリック教会だけでなく、世界で教会一致を進める人々と分かち合われたこと、500年の間にキリスト者が「主の体」を損ない、互いに傷つけ合った罪に対し赦しを願ったこと、を明言。

 また、ルター派とカトリック教会がともに、祈りや、儀式、対話に支えられ、ここ50年間に一致の歩みが進んだことを確認した。

 宗教改革500年記念の一年を振り返る中で、特にスウェーデンのルンドで、教皇フランシスコと、ルター派世界連盟(LWF)の当時の議長、ムニブ・ヨウナン監督が出席して行われたルーテル派とカトリックの教会一致の祈りが思い起こした。

 そのうえで、ルター派とカトリック教会が宗教改革を初めてエキュメニカルな視点で見つめたことを記念年に受けた祝福としながら、過去を変えることはできないが、交わりと分裂克服の希望を進める力に変容することができる、と強調。「眼差しを未来に向け、聖霊に導かれて、主イエス・キリストによって望まれた一致へのさらなる歩みを続けていこう」と呼びかけた。

 

2017年11月1日

 教皇、若者教育ネットワーク「出会いの学校」ローマ事務局を訪問

教皇、ローマの「スコラス・オクレンテス」事務局を訪問

(2017.10.27 バチカン放送)教皇フランシスコが26日、ローマの「スコラス・オクレンテス(出会いの学校)」事務局を訪問された。

 「スコラス・オクレンテス」は、2013年8月に教皇庁立基金として活動を充実させ、今年6月に、ローマのトラステベレ地区にあるサン・カリスト館に事務局を開設している。

 26日の訪問で、教皇はパレスチナ、イスラエル、イタリア、スペインを中心に各地から集った多くの学生たち、ボランティアや関係者に迎えられ、集いで、メキシコ、パラグアイ、アルゼンチン、プエルトリコ、米国テキサスからの中継を通し、各地の若者たちが置かれた困難な状況や、スコラス・オクレンテスの支援についての報告に耳を傾けられた。

 教皇は特に今年9月のハリケーンで大きな被害を受けたプエルトリコの若者たちに連帯を示され、移民とその受け入れを「常に新・旧の大陸を相互に豊かにする源」と強調。「よりよい未来の希望に賭ける移民たちを助ける」ように世界のすべての人々に願う一方で、「移民たちが受入れ国の法律を遵守し、受け入れ国の市民たちが守られる必要」を説かれた。

 また、教皇は、中央・南アメリカのいくつかの国々で「スコラス・オクレンテス」が活動拠点していることを喜ばれた。

 「スコラス・オクレンテス」は、教皇がアルゼンチンでブエノスアイレス大司教を務めていた時から推進してきた教育ネットワーク。すべての青少年に教育の機会を提供し、出会いと、対話、異なる存在への尊重を推進することを目的に、公立・私立、宗教の違いを超えた様々な教育機関が協力し合っている。

2017年10月28日

「教皇は問題を解決したのではない、第二バチカン公会議の実りを収穫したのだ」と典礼学者

 (2017.10.24 Crux  John L. Allen Jr. and Ines San Martin)米国司教協議会典礼委員会のリチャード・ヒルガートナー前事務局長が23日、Cruxと会見し、教皇フランシスコが9月に発出した自発教令「マニュム・プリンチピウム(重要な原則)」に関して、典礼書の翻訳についての実質的な権限を価値観から現地の司教協議会に戻すことで、教皇は、20年前に翻訳に関して起こされた歴史的問題を解決する以上のことをした、第二バチカン公会議以来の経験を「統合」し、「実質的にすべてを清算したのだ」との見解を明らかにした。

 (翻訳中)

“It can’t just be that the pendulum swings back and forth,” said Monsignor Richard Hilgartner. “I don’t think the Church would be able to survive if every papacy were just a swinging in one direction or the other.”

Currently the pastor of St. Joseph’s Parish in Cockeysville, Maryland, Hilgartner is a former executive director of the U.S. Bishops’ Secretariat for Divine Worship.

“We’ve learned a great deal over the last fifty years about how language works, and how people communicate,” Hilgartner said. “I think this is an attempt to capture some of the best of it. We’ve not completely jettisoned the principles for translation. There’s still a call for a faithful translation. The question is simply, who’s best positioned to make the right judgment about that?”

Hilgartner spoke Monday to “The Crux of the Matter,” Crux’s weekly radio show on The Catholic Channel, Sirius XM 129.

Hilgartner said he was surprised on Sunday to see Francis publicly respond to comments by Cardinal Robert Sarah of Guinea, Prefect of the Vatican’s Congregation for Divine Worship and the Discipline of the Sacraments, about the pontiff’s recent document Magnum Principium, which effectively aims to reduce the Vatican’s control over translations and beef up that of bishops’ conferences around the world.

“I think what’s surprising is how public his response was,” Hilgartner said.

“The letter was dated Oct. 15, so it was a week ago, and in the letter is an explicit instruction that the Holy Father’s response to Cardinal Sarah’s comments needed to be publicized with the same web sites and blogs [where Sarah’s commentary originally appeared].”

“What’s most surprising, pleasantly surprising, is that clearly, the Holy Father understands the nature of social media, both the power and sometimes the danger of it,” he said. “Rather than the traditional private conversation, this became very public using the same instruments that were fanning the flames in the first place.”

Hilgartner predicted that restoring primary control over translations to local bishops probably won’t mean much in the short term for what American Catholics experience at the Sunday Mass, because a new translation was implemented just six years ago and “these are texts that we need to live with for a long time.”

However, he said, there are other translation projects in the pipeline, including the Liturgy of the Hours and baptismal rites for both children and adults. While he doubts the bishops will go back over those drafts and rethink them from the ground up, he does see Francis’s moves as having significance for them anyway.

“They can certainly enter into that process with a greater degree of confidence that their work will be respected, as is,” he said.

“In the past five to ten years, certainly over the period of the Roman Missal, what was seen was that everything was still subject to final editing, final recommendations, and approval by the Holy See,” Hilgartner said. “The spirit the Holy Father is setting up is that the work of conferences of bishops is where the action happens.”

The following are excerpts from Hilgartner’s interview with “The Crux of the Matter,” which was conducted by John Allen and Inés San Martín.

Crux: What’s the background to the Pope’s letter on Sunday? Why is the question of who calls the shots in liturgical translation important?

Hilgartner: The question of translation always involves a delicate balance, and let’s remember that the Church is still relatively new at translating texts from Latin and the other source languages into the vernacular languages for use in the liturgy.

In other arenas one might say, hey, we’ve been doing this for fifty years now, we should have it figured out. But when you’re talking about Church history, this really just started yesterday, right?

Very much so. It’s always a delicate balance, but the ultimate issue here is how much do you slavishly and formally translate word-for-word, versus getting the best possible sense of something understandable? There’s always going to be a judgment call in that, about whether you sacrifice flow and comprehensibility for exactness in literal rendering, which sometimes can lead to a text that’s a little bit more cumbersome.

There’s still debate about the new Roman Missal, for instance, and where it landed in all of that …

By that you mean the collection of prayers and other texts for the Mass, which, in English, got a reboot six years ago with a new translation, the most familiar element of which to most people probably is moving from “And also with you” when the priest says, “The Lord be with you,” to saying, “And with your spirit,” right?

Yes, along with words such as ‘consubtantial’ in the Creed to describe the nature of the relationship between the Father and the Son. There are still lots of questions whirling around that, but we’re six years into it, and the dust seemed to have settled, more or less.

Would it be fair to say that in the years right after Vatican II, those judgment calls were made mostly at the local level, and then, beginning in the 1990s, the tide began to shift toward a stronger role for the Vatican? Now, Pope Francis seems to be moving back in the direction of local control. Is that a fair summary?

I think it’s a fair summary.

It’s important to note, though, that the Code of Canon Law always gave the primary responsibility for producing the translations to the conferences of bishops, meaning the local level, or for us, the national level, where the best judgment of how people understand English and how texts can be prepared that are accessible to the people can be made. Even the guidelines for translation produced in 2001, Liturgiam Authenticam, which is really part of what’s at play in this conversation, still recognized the role of the conferences of bishops in that judgment about producing a text that’s understandable and accessible to the faithful.

The final judgment, though, has rested with the Holy See, essentially with the Vatican and the Congregation for Divine Worship. The Code of Canon Law has always recognized that, that the Congregation for Divine Worship has the final say in offering what was known for a long time as the recognitio, meaning the official recognition before a liturgical text can be published and put into use.

What’s shifted now is what the Holy See’s role really is. In Pope Francis’s motu proprio back in September, that role shifted from granting the recognitio to what’s now called a confirmatio, which didn’t really have a whole lot of other equivalent in the law. It’s somewhat new. The pope’s document emphasizes the role of the conference of bishops as being the best judge of determining the fidelity of a translation that’s usable and understandable for the people who would be using it and praying it.

Were you surprised that the pope chose to answer Sarah like this? What do you think it means?

I think what’s surprising is how public his response was. The letter was dated Oct. 15, so it was a week ago, and in the letter itself is an explicit instruction that the Holy Father’s response to Cardinal Sarah’s comments needed to be publicized with the same web sites and blogs.

What’s most surprising, pleasantly surprising, is that clearly, the Holy Father understands the nature of social media, both the power and sometimes the danger of it. We see it in all walks of life, its ability to influence the conversation. Rather than the traditional private conversation, this became very public using the same instruments that were fanning the flames in the first place.

Does the fact the pope chose to respond so quickly and so publicly, when in other cases of criticism or competing spin of his decisions he’s kept silent, suggest that to him, something really important is on the line?

There absolutely is something important on the line. The Second Vatican Council teaches us that the liturgy is the ‘source and the summit of the Christian life.’ As pastors, we know that our primary contact with our faithful in our parishes is on Sunday at Mass. What happens at Sunday Mass is important on a day-to-day basis for the faithful. For most of the faithful, the liturgy is their primary contact with the Church. I think the Holy Father understands that, and takes this seriously.

I think one challenge going forward is the clear indication that there seems to be differing opinion between the Holy Father and, essentially, a member of his cabinet. That difference of opinion suddenly is getting aired in social media and the blogosphere, and that could become toxic quickly.

In the Donald Trump era, maybe there’s nothing especially unique about that! But on the question of what the Pope sees as on the line here, it’s not just the importance of the liturgy, is it? Isn’t it also his reading of Vatican II, which he seems to view as having intended a greater decentralization in the Church and a higher ‘trust level’ in Rome about the ability of local churches to work things out for themselves?

That’s absolutely part of it, and I think one thing that’s helpful to recognize in terms of Francis’s perspective is that he’s the first pope who was ordained a priest after the council. He was ordained in 1969, on the verge of the implementation of the Missal of Pope Paul VI, meaning the official version of the reformed liturgy after Vatican II. He was basically ordained already celebrating the provisional versions of that.

RELATED: Why was Pope Francis so quick to answer these ‘dubia’?

His whole priesthood has been shaped by the post-conciliar time, and his rootedness in living in not only the spirit but the letter of the council is clear. When he spoke to an Italian conference earlier this year regarding Vatican II and the definitive reforms of the liturgy, he didn’t say anything earth-shattering, but he was certainly reinforcing that the liturgy is the way it is because the Second Vatican Council saw in its wisdom to undertake a liturgical reform, and those reforms are here to stay.

Would you agree that for American Catholics, the pope’s moves won’t mean much in the short term for the Mass itself, because most American bishops don’t want to revisit the battles of the 1990s and 2000s?

I’d agree with that.

We’ve only been doing this six years, and while there a few awkward moments in there, there are some things that are a little bit obtuse perhaps, but by and large, it’s a vast improvement of what we’d been using for forty years. To pull the rug out from under that after only six years would be more disruptive, creating the impression that everything can be the whims of the day, that every five years the winds could blow in a different direction and we could shift it again. These are texts that we need to live with for a long time.

So where might American Catholics feel the implications of this decision?

I think moving forward, there a number of projects before the bishops now that clearly could be impacted. I don’t think it’s that the bishops would have to go back and redo any of the work that they’ve been doing on, say, the Liturgy of the Hours, or they’re beginning to look right now at the rites for the baptism of children and also the RCIA, the rite of Christian initiation for adults. Those texts are in various stages of drafting and consultation leading, probably, to presentation for a vote and approval within the next year or so.

I don’t know that they’d change the principles with which they translate, but they can certainly enter into that process with a greater degree of confidence that their work will be respected, as is. In the past five to ten years, certainly over the period of the Roman Missal, what was seen was that everything was still subject to final editing, final recommendations, and approval by the Holy See. I think they can approach this with a greater sense of confidence. Certainly, the spirit the Holy Father is setting up is that the work of conferences of bishops is where the action happens.

One way to read what the pope’s doing here is as a settling of historical scores, going back to debates that were hot twenty years ago and reversing the outcome. Is that how you see it, or do you think there’s something more going on?

I think there’s something more. It can’t just be that the pendulum swings back and forth. I don’t think the Church would be able to survive if every papacy were just a swinging in one direction or the other.

I’d like to think this is a maturing of what we’ve experienced over the last fifty years since the Second Vatican Council. Since then, the pendulum has swung in both directions, some would say, and maybe this is an attempt to integrate and really balance everything. Maybe it’s a way to recognize that yes, the Holy See does have an essential role, especially in a global Church. Even in the letter to Cardinal Sarah, there’s an acknowledgment there are certain essential formula that the Holy See has a greater responsibility to oversee. They’re the essential sacramental formula, which belong to the Holy Father himself to be able to approve.

There’s also, however, a recognition that we’ve learned a great deal over the last fifty years about how language works, and how people communicate. I think this is an attempt to capture some of the best of it. We’ve not completely jettisoned the principles for translation. There’s still a call for a faithful translation. The question is simply, who’s best positioned to make the right judgment about that?

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

・・Cruxは、カトリック専門のニュース、分析、評論を網羅する米国のインターネット・メディアです。 2014年9月に米国の主要日刊紙の一つである「ボストン・グローブ」 (欧米を中心にした聖職者による幼児性的虐待事件摘発のきっかけとなった世界的なスクープで有名。映画化され、日本でも昨年、全国上映された)の報道活動の一環として創刊されました。現在は、米国に本拠を置くカトリック団体とパートナーシップを組み、多くのカトリック関係団体、機関、個人の支援を受けて、バチカンを含め,どこからも干渉を受けない、独立系カトリック・メディアとして世界的に高い評価を受けています。「カトリック・あい」は、カトリック専門の非営利メディアとして、Cruxが発信するニュース、分析、評論の日本語への翻訳、転載について了解を得て、掲載します。

2017年10月25日

 バチカンでメキシコ先住民の少年殉教者たち35人の列聖式(CJC)

 【2017.10.23 CJC】バチカン放送(日本語電子版)などによると、教皇フランシスコは10月15日、バチカン(ローマ教皇庁)のサンピエトロ広場でミサを捧げ、この中で列聖式を行った。参加者は約3万5千人に達した。

 「聖人」として宣言されたのは、17世紀のブラジル、16世紀のメキシコでの殉教者、また19世紀のスペイン、17~18世紀のイタリアで使徒職のために尽くした司祭たち、合わせて35人。列聖の儀式では、教皇庁列聖省長官アンジェロ・アマート枢機卿が、35人の人となりを紹介した。

 教皇は、「彼らは、愛することに、安易に『はい』と言ったのではありません。自らの命を懸け、まさに最期に至るまで『はい』と言ったのです」と語った。

 列聖された35人は次の通り。□

 ▽アンドレ・デ・ソベラル神父、アンブロジオ・フランチスコ・フェロ神父、マテウス・モレイラ信徒と27人の同志殉教者。

 16世紀末、ブラジル東北部で、ポルトガルからの宣教師による福音宣教が開始されたが、数十年後にオランダから訪れたカルヴァン派による迫害によって、1645年、多くのカトリック教徒が殉教した。その中で名前が確認されたのが、神父2人と28人の信徒。

 ▽クリストバル、アントニオ、ホアンの少年殉教者3人。

 16世紀のメキシコの初期殉教者。3人はフランシスコ会の最初の宣教者たちによって堅固なカトリックの教育を受けた。クリストバルはその信仰のために、父から暴力を受け1527年、13歳で殉教。アントニオとホアンは宣教師たちのために先住民インディオスの通訳として奉仕、死を覚悟の上で、宣教師らが偶像を破壊するのを助け、1529年、インディオスたちに殺害された。

 ▽ファウステイノ・ミゲス神父。

 1831年生まれ。50年、エスコラピオス会に入会。56年、司祭叙階。57年、キューバに同会の最初の学校を創立するために派遣された。ミゲス神父の教育における奉仕は50年以上にわたった。また、特に貧しい人や、弱い立場の人、病者に愛を注いだ。当時の貧しい女性たちの置かれた状況に、早期からの教育の必要を痛感したミゲス神父は、『牧者マリアの娘カラサンス修道会』を創立、少女たちの教育に尽くした。

 ▽アンジェロ・ダクリ神父。

 1669年、南イタリアのアクリ生まれ、カプチン会に入会。1700年、司祭叙階。カラブリア地方を中心に、南イタリア各地で説教師、告解師、霊的指導者として精力的に奉仕した。1726年、アクリに同会の修道院を創立したほか、各地の修道院で修練長を務め、38年間の熱心な使徒職の後、帰天した。

2017年10月25日

 教皇フランシスコを支持する神学者、司教たちが批判勢力に対抗する書簡(TABLET)

(2017.10.18 Tablet  Christopher Lamb)

 ドイツ語を母国語とする神学者、司教たち100人のグループが、教皇フランシスコに対する‶異端〟批判の動きに対し、教皇支持の書簡を教皇に送った。

 教皇フランシスコが昨春に出した使徒的勧告「Amoris laetitia(家庭における)愛の喜び」の中で、離婚・再婚者の聖体拝領を認めることに柔軟な姿勢を示したことに対して、昨秋以来、欧米の保守派聖職者などから批判が出ていたが、先月には聖職者や学者など62人が、結婚と道徳生活に関して7つの異端的立場が示されている、とし「子としての義務を果たすために修正を求める」との要請文を教皇に送り、賛同者から1万人の署名を得ていた。

 これに対して、100人のグループは教皇に送った書簡で、教皇の司牧上の先導的な行為が強い批判を受けていることを認めたうえで、勇敢で神学的に健全な教皇の指導力を讃え、「短い間に、あなたは、イエスのもともとの意向に沿ったカトリック教会の司牧文化を作り直すことに成功されました。傷ついた人々、傷ついた自然はまっすぐにあなたのところに来ます。あなたは教会を命の瀬戸際における野戦病院と見ておられます。あなたの関心は神に愛された一人一人の人間にあります。他の人々に出会った時、律法ではなく、共感が決定的なものとなるのです」と訴えている。

 書簡の署名者には、ソ連の支配下のチェコで投獄の危険を冒して信教の自由を求める活動をし2015年にテンプルトン賞を受けた司祭のトマス・ハリク教授、オーストリア・アイゼンシュタット教区のパウル・イビー補佐司教、英国ダーラム大学のカレン・キルビー教授(カトリック神学)、米国ノートルダム大学のセリア・ディーン・ドラモンド教授(神学)などが名を連ねている。

 「子としての修正要請」は大部分が一般信徒だが、ローマの保守派消息筋によると、レイモンド・バーク枢機卿が他の枢機卿と教皇に対して「兄弟としての修正要請」を準備中、という。いつ、どのような形で発出されるのかはまだ不明だが、「子として・・」よりも重みをもつことになろう。

 バーク枢機卿は昨年11月に、Amoris laetitiaで示された離婚・再婚者への聖体拝領についての柔軟な姿勢についての質問状を仲間の3人の枢機卿と共に、教皇に送りつけている。教皇はこれに直接の返事は出していないが、先週行った「カトリック教会の教え」発刊25周年記念の講演で、「カトリックの教理は、進歩なしに保持されることができない」と言明している。

 教皇に対して修正を求めることについては、教会法上も問題がある。ローマの教皇庁立グレゴリアン大学のユーリッヒ・ロード教授(教会法)はTabletに「教皇に対して正誤を判定することはできない」と語り、「このことは、教会全体として、教皇を公式に裁くことは裁判所、会議、枢機卿、あるいはいかなる人によるものも禁じられており、法的効力も発生しない、ということを意味します」と説明した。

 また、誰にも「自分の意見を公表する」権利があるが、「教会の正当な権威をもった義務的な教えと勧告に従う限りにおいてだ」とも強調。さらにこう付け加えた。「枢機卿あるいは司教は、意見を公表しようとする場合、(叙階される時に)教皇に忠誠を誓ったことを思い起こさねばなりません。枢機卿や司教が教皇を批判するような質問をすることについて、教会法では明確な基準を定めてはいませんが、個人的あるいは当事者以外には秘匿する以外に、そうすることができるとは考えられません」。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

(Tabletはイギリスのイエズス会が発行する世界的権威のカトリック誌です。「カトリック・あい」は許可を得て翻訳、掲載しています。 “The Tablet: The International Catholic News Weekly. Reproduced with permission of the Publisher”   The Tablet ‘s website address http://www.thetablet.co.uk)

2017年10月25日