・「私たちはすべて、『福音を告げるように』と派遣されている」菊地大司教の年間第14主日メッセージ

2022年7月 2日 (土)週刊大司教第八十三回:年間第十四主日

 あっという間に梅雨が明け、6月末から猛暑となりました。どうか熱中症にはお気をつけください。2022dgsjubilee

 写真は、6月27日月曜日に東京カテドラル聖マリア大聖堂で行われた、今年の司祭叙階ダイアモンド、金祝、銀祝のお祝いミサ後に撮影された参加司祭の集合写真です。記録のため、一瞬マスクを外しました。教皇大使も参加してくださいました。お祝いを迎えられた神父様方に、心からお慶びを申しあげます。

 7月3日の午後2時から、大分教区の新しい司教、スルピス森山信三師の司教叙階式が執り行われます。森山司教様は1959年1月生まれですから、私とほぼ同い年です。森山司教様と大分教区のために、どうぞお祈りください。

 私も明日の朝早く、大分に向かい、叙階式に参加する予定です。なお、こちらのリンク先の大分教区ホームページに、司教叙階式の映像配信についての解説が掲載されています。3日の日曜日午後2時です。

 以下、本日午後6時配信の週刊大司教第八十三回、年間第十四主日のメッセージ原稿です。

【年間第14主日C(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第83回 2022年7月3日】

 パウロはガラテヤの教会への手紙に、「主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません」と記しています。同じパウロは十字架について、コリントの教会への手紙には、次のように記していました。

 「キリストが私を遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架が空しくならないように、言葉の知恵を用いずに告げ知らせるためだからです(コリントの信徒への手紙1・1章17節)」

 福音を告げるものが「言葉の知恵に」頼っていては「キリストの十字架が空しいもの」となる、と告げるパウロは、その十字架こそが、信仰者の唯一の誇りであるのだ、と強調しています。

 信仰者の唯一の誇りである十字架とは一体、何でしょうか。それは、神ご自身が自ら創造された命に対して、ご自分の慈しみの心を、ご自身を、いけにえとしてささげる、という目に見える具体的な行動として表した主の愛の心そのものです。

 ルカ福音には、イエスが72人を任命し、「ご自分が行くつもりの全ての町や村に2人ずつ遣わされた」と記されていました。福音を告げるように、と遣わされた宣教者は、神の支配の確立である平和を告げ知らせ、その告知は「病人の癒し」という具体的な行動を伴っていたことが記されています。

 同時に福音を告げるようにと遣わされることは、たやすいことではなくて、「狼の群れに小羊を送り込むようなもの」と主ご自身が言われるように、いのちの危機をも意味する数多の困難を伴う生き方です。まさしく主ご自身が十字架を持って具体的に証しされたように、福音を告げ知らせることも、命懸けの、具体的な愛の証しの行動であります。

 信仰者は、すべからく「福音を告げるように」と派遣されています。私たちは全て、福音宣教者であります。イエスは「ご自分が行くつもりの全ての町や村」へと弟子たちを派遣されました。その町や村は一体どこでしょうか。

 もちろんすべての命を創造され、世界を創造された御父にとって、その慈しみは、この世界のすべての命に対して向けられています。ですから、するべき事は山積しているのです。福音が伝わっていない町や村は、私たちの周囲を見ただけでも、いくらでもあるではありませんか。ですから、「収穫は多いが、働き手は少ない」とイエスは言われます。いま、その働き手が必要です。

 働き手は、誰でしょうか。誰か特別な人が司祭や修道者になれば、それで済むことなのでしょうか。召命を語ることは、ひとり司祭・修道者の召命を語ることにとどまるのではなく、すべてのキリスト者に対する召命を語ることでもあります。司祭・修道者の召命があるように、信徒の召命もあることは、幾たびも繰り返されてきたところです。

 第二バチカン公会議の教会憲章に、こう記されています。

 「信徒に固有の召命は、現世的なことがらに従事し、それらを神に従って秩序づけながら神の国を探し求めることである。自分自身の務めを果たしながら、福音の精神に導かれて、世の聖化のために、あたかもパン種のように内部から働きかけるためである」(31)

 弟子を2人ずつ遣わされたイエスは、「共に歩む教会」の姿をそこに明示します。互いに耳を傾けあい、互いに支え合い、互いに道を歩み続ける2人の弟子は、今、共に道を歩む教会に変わろうとしている私たちの模範です。福音を証しする人生を共に歩みましょう。

2022年7月2日

・「私たちは洗礼を受けることで既に『手を鋤にかけ』ている」菊地大司教の年間第13主日メッセージ

2022年6月25日 (土)週刊大司教第82回:年間第13主日

2022_06_24_ 梅雨になったかと思ったら、今日は真夏の陽気です。熱中症には気をつけましょう。

 6月23日は沖縄慰霊の日でした。コロナ禍以前には、この日に那覇教区では平和行進が行われ、私も参加したことがありましたが、この3年間は他の機会を設けて、平和のための祈りがささげられています。この日にあたって司教協議会の「正義と平和協議会」から、担当のウェイン司教様(那覇教区)とガクタン司教様(仙台教区)の連名のメッセージが出ています。

 1945年6月23日に司令官であった牛島中将が自決したことで、組織的戦闘は終わった、と言われますが、その日を境に戦争が終結したわけではなく、さらには戦後の歴史を振り返れば、沖縄の方々の苦難は、今に至るまで終わっていません。沖縄の地で命を失った多くの方々の安息を祈り、また特に戦争が現実の存在として影響を及ぼしている今年は、平和のために改めて祈りたいと思います。

 戦争が改めて現実の存在となり、命を脅かしている状況を目の当たりにして、もちろん平和のために祈ることは最優先に必要ですが、同時に、そこに至るまでの状況を振り返ってみることも、将来に対して必要だと思います。

 第二次世界大戦を経て、世界の平和と秩序の確立のために国際機関が設けられ、様々な外交努力の道筋が確立され、さらには東西の冷戦時代を乗り越えてきたにもかかわらず、それらが機能せず、今の事態に陥ったのはなぜなのか。時間的に先のことを考えるのも大切ですが、どうしてうまく機能していないのかを振り返ってみなければ、全てを暴走したリーダーの存在で片付けてしまう可能性があります。しかし暴走したリーダーの存在「だけ」が原因ではなかったことは、この十数年の体験から(例えばイラクやリビアなど)明らかであると思われます。歴史や政治の専門家による振り返りを期待しています。

 世界の平和に関連して、世界宗教者平和会議(WCRP)と言う組織があります。そのホームページにはこう記されています。

 「WCRPの歴史は、1970年に京都で開催された『第1回世界宗教者平和会議』に始まります。300名以上もの宗教者が一堂に会したこの会議では、宗教者の出会いと対話を促進し、平和のための宗教協力の原点を確立しました。そして、この会議の結実である京都宣言を具体化し、継続させていくための国際組織としてWCRPが設立されました。現在は世界最大級の諸宗教ネットワークとして活動しています」

 WCRPの日本委員会は1984年に財団法人格を取得し、2012年には公益財団法人格を取得しています。創設の歴史から現在も立正佼成会の方々が中心になって活躍されていますが、多くの宗教団体がメンバーとして参加しております。現在の日本委員会会長は立正佼成会の庭野⽇鑛師、理事長は聖公会の植松誠主教が務めておられます。

 日本のカトリック教会も長年にわたって協力関係にあり、東京、大阪、長崎の大司教が役員として参加しています。このたび、高見大司教の教区司教引退に伴い、6月21日の評議員会での議決を経て、長崎の中村大司教が新しく理事に、私が理事から評議員に移り、高見大司教は参与となられることに決まりました。また前田枢機卿は顧問として継続です。国内の様々な宗教団体の方々と協力しながら、世界平和の実現のために取り組んでいきたいと思います。

 以下、25日午後6時配信の週刊大司教第82回、年間第13主日のメッセージ原稿です。

【年間第13主日C(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第82回 2022年6月26日

 列王記は、エリヤが主からの命令に従い、自らの後継者であるエリシャを召し出す様子を伝えています。エリヤとエリシャにとって人生の大きな転換点であるにもかかわらず、全てが粛々と、というよりも、淡々と進められていった様が、記されています。神の聖霊の導きに対して、二人が完全に信頼を寄せているからにほかなりません。

 ガラテヤ人への手紙でパウロは、「キリストによって罪の枷から解き放たれ、自由の身となったのだから、奴隷のくびきに再び繋がれることのないように」と諭します。パウロは、そのために必要なことは、「霊の導きに従って歩むこと」だと指摘します。

 ルカ福音は、イエスの言葉に従って歩む者に、徹底的な決断を促す言葉を記します。

 「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」

 現実の社会で生きている私たちにとって、かなり厳しい言葉でもあります。

 そもそも私たちの人生は、すべからく選択の連続です。私たちは大なり小なり、常に選択に直面し、その都度、進むべき道を選びとるために決断を迫られます。もちろん自信を持って行う選択もあるでしょう。しかし、先を見通すことが難しい状況にあっては、どうしても不安が先に立ち、決断をためらうことがしばしばあります。まさしくそういった時に、私たちは「鋤に手をかけ」たのはいいが、不安に駆られて「後ろを顧み」てしまいます。

 第二バチカン公会議の教会憲章は、「聖なる方から油を注がれた信者の総体は、信仰において誤ることができない」と記し、その特性は、「司教をはじめとして全ての信徒を含む信者の総体が信仰と道徳のことがらについて全面的に賛同する時、神の民全体の超自然的な信仰の感覚を通して現れる」と記します(12)。

 今、教会が共に歩んでいる「シノドスの道」も、この信仰の感覚に教会共同体が信頼を寄せ、聖霊の導きに全幅の信頼を寄せながら、その導きに身を委ねることの重要性を強調します。その上で、シノドスの準備文書は、「霊の働きを通して、使徒たちに由来するこの聖伝は…教会の中で進展し、それによって神の民は、伝えられた事物やことばの理解の中で成長できる」としるします。

 私たちは、洗礼を受けることによって、キリストの身体に結ばれ、聖体をいただくことによって、一致の交わりに招かれています。私たちが一致のうちに結ばれるキリストの体である教会共同体は、聖霊によって導かれています。私たちは既に「鋤に手をかけ」ています。教会共同体の信仰の感覚に信頼し、教会が示す誤りのない道を、勇気を持って、しかし淡々と、前に向かって歩み続けていきたいと思います。

 6月24日金曜日はイエスの御心の祝日でした。6月はイエスの御心の月でもあります。全人類に対する神の愛と慈しみを象徴するのは、イエスの御心です。その深い愛と慈しみの御心で、私たちを包み込み、守り導いてくださる主の思いに信頼することで、聖霊の導きを、この世の価値観や自分自身の独善的な思いと比べるような誤った選択をすることのないように、いたしましょう。そのためにも、教会に働かれる聖霊の導きを私たちに感じさせる、「教会に満ちあふれる信仰の感覚」を、たいせつにしたいと思います。

 6月29日は、聖ペトロ聖パウロの祝日です。この偉大な2人の使徒の働きに思いをはせると同時に、私たちを導かれるペトロの後継者である教皇様のためにお祈りいたしましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2022年6月25日

・「聖体の秘跡のうちに、多様性における一致を生きよう」菊地大司教のキリストの聖体の主日メッセージ

2022年6月18日 (土)週刊大司教第八十一回:キリストの聖体の主日

Img2895 三位一体の主日が祝われた週の木曜日は、キリストの聖体の祭日です。キリスト教が生活の一部になっている国々では、大規模な聖体行列が行われたりします。こういった大きな祭日を週日に行うことが難しい国々では、直後の主日にシフトして、キリストの聖体の主日として祝われます。日本もその一つです。

 左の写真は、昔、私が主任司祭を務めていたガーナのオソンソン教会の聖体行列です。1989年頃でしょうか。一つ目の傘の下にわたしが、その後ろの二つ目の傘の下が聖体顕示台です。

 教会の難民移住者の日は9月に行われますが、来る6月20日は国連の定める世界難民の日です。今年は「安全を求める権利」がテーマとなっています。国連難民高等弁務官事務所のサイトをご覧ください。

 今年発生したロシアによるウクライナ侵攻で、多くの方が居住地を離れ、安全を求めて避難生活を送らざるを得なくなりました。ヨーロッパで起こった出来事であり、スマホやネットの普及で現地からどんどん情報が発信されることもあり、避難される方々の存在が注目を浴び、実際に多くの援助の手が差し伸べられています。

 災害の被災者の方も同様ですが、援助が必要なのはその事由が発生した時だけではなくて、その後、長期にわたっての関わりと支援が不可欠です。なぜならば、それは一人の人間の人生の歩みだからであり、命の旅路を守ることだからです。長期的な視点で、それこそ教会が今強調している「共に歩むこと」が不可欠だと思います。

 同時に、これまでも、また今後も、世界のどこかでは必ず、紛争に巻き込まれて命の危機に直面する人たちが常に存在され、誰かの助けを必要とする人たちがいるという状況は、変わらないでしょう。そのときの世界の政治状況や報道の度合いによって、注目を浴びる事もあれば、全くその存在を顧みられない人たちもいます。

 それぞれの政府には政府の考えと方針があるので、それを一瞬にして大きく変更することは難しいのが現実です。大きな船の方向を変えるのに時間が必要なのと同じです。ですから、それぞれの国の政府に対しては、人々が命の危機に直面し、普段の生活を放棄せざるを得ないような状況を生み出すことのないように、辛抱強く働きかけ続けなくてはなりませんし、またそういう状況に追い込まれた人に、人道的な対応をするように求め続けたいと思います。公的な立場からの強制的解決は、時に暴力的になり、命の危機を解消するどころか、それを深めることにしかなりません。

 同時に、小回りのきく小さなボートのような私たちは、そこには無機質な名詞としての「難民」が存在しているのではなく、顔を持った、喜びや悲しみを持った一人の人間がそこにいて、人生をかけて助けを求めている、という事実に思いを馳せ、助けましょう。助け合いましょう。愛と慈しみの心は、必ず希望を生み出し、希望は私たち全てを生かす力を生み出します。助け合うことのない世界は、希望を打ち砕き絶望をもたらし、私自身を含めたすべての命を奪います。

第二バチカン公会議の現代世界憲章は、こう始まります。

「現代の人々の喜びと希望、苦悩と不安、とくに貧しい人々と全ての苦しんでいる人々のものは、キリストの弟子たちの喜びと希望、苦悩と不安でもある。真に人間的な事柄で、キリストの弟子たちの心に響かないものはなにもない」

 私たちは、その「キリストの弟子たち」であります。

 下の写真は、2005年、カリタスジャパンの視察で訪れたウガンダ北部の国内避難民キャンプで水くみの順番を待つ子どもたちです。

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以下、18日午後6時配信の週刊大司教第八十一回、キリストの聖体の主日メッセージ原稿です。

【キリストの聖体の主日C(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第81回 2022年6月19日】

 聖体は一致の秘跡です。

 第二バチカン公会議の教会憲章には、「聖体のパンの秘跡によって、キリストにおいて一つの体を構成する信者の一致が表され、実現される(3)」と記されています。

 聖体は、私たちを分裂させ分断させるのではなく、キリストにおいて一致するように、と招く秘跡です。なぜならば、それこそがキリストご自身の私たちへの心であり、あふれ出る神の慈しみそのものの具体化だからであります。

 ルカ福音は、五つのパンと二匹の魚が、五千人を超える群衆の空腹を満たした奇跡物語を記します。この奇跡は驚くべき事ですが、この物語にはもう一つ重要な事柄が記されています。それは空腹を抱える多くの人を解散させようとする弟子たちに対して、イエスは、「あなた方が彼らに食べ物を与えなさい」と述べ、散らすことではなく、 一致へと結びつけるための業を行うように命じていることです。まさしくこの言葉にイエスの思いが記されています。自らにつながって一致していることこそが、救いへの道であることを、イエスはこの言葉を持って明確に示されました。

 神の民としてともに旅をする私たちを一致させるのは、「あなた方が彼らに食べ物を与えなさい」と命じられた、主イエスの私たち一人ひとりへの思いです。それは聖体に凝縮されたイエスの御心であり、まさしく聖体のうちに現存する主は、聖体を通じて私たちをその絆で結び、私たちと歩みをともにされます。

 聖体のいけにえは「キリスト教的生活全体の源泉であり頂点」であって、感謝の祭儀にあずかることで、キリスト者は「神的いけにえを神にささげ、そのいけにえとともに自分自身もささげる」と教会憲章は指摘します(11)。

 教皇ヨハネパウロ二世は、「教会に命を与える聖体」において、「罪の結果として、不和の根源が人間性のうちに深く根ざしていることは、日々の経験から明らかです。この不和の根源に対抗できるのは、キリストの体がもたらす一致の力です(24)」と記します。

 分裂と分断が支配する現代社会にあって、私たちは聖体の秘跡を通じて、罪の癒しと一致へと招かれています。

 私事ですが、5月の末に体調を崩し、検査の結果、新型コロナ陽性と診断を受けました。のどの痛みと発熱の中、自宅療養で、全く誰とも会わずに十日間を過ごしました。現在は無事に回復しましたが、その間、皆様にいただいたお祈りとお見舞いの言葉に、心から感謝します。隔離生活をすごしながら、改めて私たちは、他の方々によって生かされていることを実感させられました。

 直接に間接に、私たちは他者の力によって生かされています。私たちの命は、まさしく、「互いに助けるもの」として生きるように、と与えられています。命を生かすのは分裂や分断や対立ではなく、一致であります。

 一致のうちに共に歩む旅路を導くシノドスの準備文書には、その特徴がこう記されています。

 「洗礼を受けたすべての人は、・・・それぞれのカリスマ、召命、奉仕職を実行することによって、キリストの祭司職、預言職、王職に参与し、個人としても神の民全体としても、福音化の能動的な主体となるのです」。

 聖体の秘跡のうちに、多様性における一致を生きたいと思います。

(編集「カトリック・あい」)

2022年6月18日

・「私たちは三位一体の神の交わりの中で教会共同体の絆に結び合わされる」菊地大司教、三位一体の主日に

2022年6月11日 (土)週刊大司教第八十回:三位一体の主日

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 三位一体の主日となりました。

 私の健康のためにお祈りくださっている多くの方に、心から感謝します。この一週間は、徐々に仕事に復帰していますが、まだ少し声が不調なことと、大きい声を出すと咳が出てしまうため、いくつかの行事をキャンセルいたしました。

 本来であれば、6月11日の土曜日午後には、碑文谷教会で青年の集いが久しぶりに開催されることになり、ミサを司式する予定でしたが、体調に不安があったため、メッセージだけとさせていただきました。申し訳ないです。

 将来の教会、ではなくて、まさしく今の教会を担う青年たちが(教皇フランシスコのシノドスでの言葉より)、しっかりと互いの絆で結ばれ、教会をさらに大きく発展させてくださることを期待しています。聖霊は、時に驚くような方法で働かれます。常識を破るような方法で働かれます。挑戦することを恐れず、力強く前進されることを、心から期待しています。

 以下、11日午後6時配信の、週刊大司教第80回、三位一体の主日メッセージ原稿です。

【三位一体の主日C(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第80回 2022年6月12日】

 私たちは、「父と子と聖霊のみ名によって」(マタイ福音書28章19節)洗礼を受けます。したがって、私たちキリスト者の信仰は「三位一体に基づいています」と、『カトリック教会のカテキズム』は記しています(232項)

 私たちを「導いて、真理をことごとく悟らせる」聖霊は、「私のものを受けて、あなたがたに告げる」と、ヨハネ福音は主の言葉を記します。その「私のもの」は、「父が持っておられるものはすべて、私のものである」と主ご自身が言われるのですから、私たちは、信仰において、三位一体の神の交わりの中で、聖霊に導かれて、御子に倣い、御父へと結び合わされています。

 『カトリック教会のカテキズム』はそれを、「御父の栄光をたたえる者は、御子によって聖霊のうちにそうするのであり、キリストに従う者は、その人を御父が引き寄せ、聖霊が動かされるので、そうするのです」と記します(259項)。

 東京教区では、2020年末に宣教司牧方針を定めました。この宣教司牧方針も、三位一体の神の交わりに基づいて三つの柱が定められています。宣教司牧方針には、こう記されています。

 「東京大司教区の宣教司牧方針の三つの柱、①「宣教する共同体をめざして」②「交わりの共同体をめざして」③「すべての命を大切にする共同体を目指して」は変動するこの世にあって、私たちが心を合わせて進んで行く方向を示しています。そして、その三つの柱は互いに関連し合っています。  「宣教する共同体」は「義人アベルから最後に選ばれた人に至るまで」ご自分のもとへと集めようとなさる天の御父の救いの想いを反映しています(第二バチカン公会議『教会憲章』2項参照)。「交わりの共同体」は神と人、人と人の和解のために十字架につけられた御子の生きる姿を写し出します。「すべての命を大切にする共同体」は「主であり、命の与え主」(『ニケア・コンスタンチノープル信条』参照)である聖霊の働きによって成立します。ですから、この宣教司牧方針は三位一体の神のお姿をこの世に現わしていくものなのです」

 私たちは共同体で生きる教会です。私たちの信仰が、父と子と聖霊の一致のうちにある共同体としての三位一体に基づくものであるからこそ、教会共同体も、三位一体の神をこの世に具体的に現わす共同体であるよう努めなくてはなりません。

 またそれだからこそ、宣教する共同体も交わりの共同体もすべての命を大切にする共同体も、それだけで独自の存在ではなく、互いを前提とし、互いに支えられて、一致していなくてはなりません。

 そもそも私たちの信仰が三位一体に基づいているからこそ、私たちには教会共同体が必要であり、信仰を一人孤独のうちに生きることはできません。父と子と聖霊のみ名によって洗礼を受けた瞬間に、私たちは三位一体の神の交わりの中で、教会共同体の絆に結び合わされるのです。私たちの信仰は、本性的に共同体の信仰です。

 第二バチカン公会議の現代世界憲章は、「主イエスは、『私たちが一つであるように、・・・すべての人を一つにしてください』と父に祈ることによって、・・・神における三位の結びつきと、真理と愛における神の子らの結びつきとがいくらか似ていることを開示するものであった。この類似から明らかなとおり、・・・人間は、余すことなく自分自身を与えない限り、自分を完全に見出すことはできない」(24項)と記します。主イエスご自身に倣い、御父の願いを具体的に実現するために、聖霊の導きに身を委ね、共同体の交わりの中で、信仰を生きていきましょう。

(編集「カトリック・あい」=言葉を読みやすく、本来の意味がよく理解されるようにするため、いのち⇒命、わたし⇒私、こころをあわす⇒心を合わす、など表記を当用漢字表記に統一しています)

2022年6月11日

・「聖霊の導きに心から信頼する共同体に」菊地大司教の聖霊降臨の主日メッセージ

2022年6月 4日 (土)週刊大司教第79回:聖霊降臨の主日

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  聖霊降臨の主日です。

  5月23日夕方に発熱と喉の痛みで始まり、25日には新型コロナ陽性判定となり、十日間の自宅療養を続けていましたが、なんとか解熱剤なしで熱も平熱となり、喉の痛みも癒えてきました。少なくとも72時間、解熱剤なしで平熱を保ち、その他の症状もないことから、「6月2日23時59分をもって自宅療養を解除」との連絡が、東京都のフォローアップセンターからメールで送られてきました。

 まだ少し咳が残っているのと、声が本調子ではないことに加え、体調が完全に戻っていないものですから、再稼働しましたが、ちょっとスローで前進することにします。

 聖霊降臨の主日の午後に予定されていた韓人教会の堅信式と、その後に予定されていた教区の堅信式は、それぞれ韓人教会主任司祭と、司教総代理に司式を委任しましたこと、どうかご理解くださるようお願いいたします。

 この期間、大勢の方にお祈りいただいたことを感謝いたします。また、のど飴やサプリメントなど、様々なものを送ってくださった方にも感謝します。改めて「一人で生きていけないこと」を痛感しています。

 私が療養している間、多くの方に支えられていることを、実感いたしました。教区事務局長から始まって、カテドラル構内の多くの方、医療関係者、また保健所などで対応に当たられている多くのスタッフ。皆さんに支えられていることを痛感しながら、過ごしておりました。改めて感謝申し上げます。

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 以下、4日午後6時配信、週刊大司教第79回、聖霊降臨の主日メッセージ原稿です。なおビデオは5月18日に収録したものです。

【聖霊降臨の主日C(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第79回 2022年6月5日

 「聖霊来てください。あなたの光の輝きで、私たちを照らしてください」

 聖霊降臨の主日に、福音の前に歌われる聖霊の続唱は、この言葉で始まります。共同体として何らかの行動を始めるときに、聖霊の導きを祈ることは、教会の伝統です。なぜならば、教会は、「聖霊によって誕生し、聖霊の働きによって育まれ、聖霊の導きによって歩み続けている存在」だからです。

 「聖霊は教会の中に、また信者たちの心の中に、あたかも神殿の中にいるかのように」住んでいると指摘する第二バチカン公会議の「教会憲章」は、聖霊は「教会をあらゆる真理に導き、交わりと奉仕において一致させ、種々の位階的たまものやカリスマ的賜物をもって教会を教え導き、霊の実りによって教会を飾る」と教えています。

 その上で、聖霊は「福音の力をもって教会を若返らせ、たえず新たにし、その花婿との完全な一致へと導く」(4項)とし、教会は「キリストを全世界の救いの源泉と定めた神の計画を実現するために協力するよう」聖霊から迫られている(17項)とまで記します。

 使徒言行録には、五旬祭の日に起こった聖霊降臨の模様が記されています。その出来事は、「激しい風」と「家中に響く音」と、人々が集まってくるような「物音」によって特徴付けられています。

 聖霊降臨の出来事は、静かに、秘められるように進んでいったのではなく、皆が驚くほどの衝撃を与えるような、いわば「騒々しい出来事」であったと、使徒言行録はわざわざ記しています。すなわち、聖霊によってもたらされる業は、時に居心地の悪い驚きをもたらすものであり、皆が驚くような変革であります。

 2021年9月の初めにローマ教区の信徒代表たちとお会いになった教皇フランシスコは、シノドスの歩みに関連して、「教会がリーダーたちとその配下の者たちとか、教える者と教わる者とから成り立っている、という凝り固まった分断のイメージから離れることには、なかなか手強い抵抗があるが、そういうとき、神は立場を全くひっくり返すのを好まれることを忘れている」と指摘されました。

 会議で集まって何かを決めることよりも、皆で歩みを共にして識別する道を提示され、シノドスというシステムを大転換させようとしている教皇様は、これまでのやり方に固執することなく、勇気を持って新しいあり方を模索することを、教会にしばしば求められます。

 「福音の喜び」には、「宣教を中心にした司牧では、『いつもこうして来た』という安易な司牧基準を捨てねばなりませ」(33項)と記されています。これまで歩んできた道を、大きく変えることは、居心地が悪く、心に不安を生み出し、成果を見通すことが難しいため、どうしても一歩を踏み出すことに躊躇してしまいます。

 そういう時にこそ、教会は聖霊によって導かれており、その聖霊は「静かな改革ではなく、騒々しくて居心地の悪い改革を生み出すもの」だと言うことを、心に思い起こしたいと思います。

 聖霊は、弟子たちを、「福音を全世界に向けて証しする宣教者」に変えました。私たちは、同じ聖霊に導かれている共同体です。ヨハネ福音に「私を愛する人は、私の言葉を守る」とあるように、私たちは主イエスを愛しているが故に、主の言葉に従って生き、主の言葉を証しし、福音を告げ知らせます。聖霊は、「望むままに、望むときに、望む場所で働かれます」(「福音の喜び」279項)。聖霊の導きに、心から信頼する共同体でありましょう。

(編集「かとりっく・あい」)

2022年6月4日

・「神、隣人、大地の関わりが引き裂かれている状態を修復させる務めがある」菊地大司教の主の昇天の主日メッセージ

2022年5月28日 (土)週刊大司教第七十八回:主の昇天の主日

   すでにご存じの方が多いとは思いますが、新型コロナ感染症に罹患し,この数日は臥せっております。すでに多くの方から,メールやFB上で励ましのコメントを頂き,また多くの方にお祈りいただいていることに,心から感謝いたします。

  23日月曜日の夜遅くまで、アジア司教協議会連盟(FABC)50周年を記念する総会の準備委員会がオンラインで行われ、参加していましたが,そのあたりから軽い発熱と喉の痛みを感じ始めました。そのまま翌火曜日朝には症状が悪化し、その日は教区本部に出勤せずに自室で休んでおりました。しかしながら水曜に熱が上がり、喉の痛みも激しくなってきたので、医療機関を受診し、「新型コロナ陽性」と診断されました。

 その後すぐに文京保健所から携帯に電話があり、保健所の指示で「最低でも10日間の自宅療養」となりました。(現時点では23日をゼロとして、6月2日までの自宅療養を指示されています)なお,ワクチンは,三度すでに接種済みです。

 木曜と金曜には、38度程度の熱と激しい喉の痛み、咳で、声もでなくなってしまいましたが、土曜日、本日の朝には熱も少し落ち着き、喉の痛みも多少、和らいできたと感じます。ただ,声は多少出るようになりましたが,戻っていません。こうしてPCの前で座ってタイプできるようになったのも,昨日からです。

 私は子どもの頃から喉が弱く,よく喉を痛めて高熱を出してきました。これは大人になっても変わらず、特に疲れた時などに喉を痛め,高熱を出すことがあります。それで慣れているというのではなく、それにもかかわらず,今回ほど激しい喉の痛みには遭遇したことがないほど、喉を痛めつけられました。

 文京保健所と東京都のフォローアップセンターからは、一日に数回、病状確認の電話があり、また登録したラインで症状を一日二度(午前と午後)報告するなど、細かくケアを頂いています。独居で罹患された方々には,こういった電話による確認は、「誰かに見守られている、つながっている」という安心をもたらす,重要なものだと実感いたします。大勢の対象となる方を抱え,保健所などのスタッフの皆さんには大変な業務量だと思いますが,その大切なお働きに,心から感謝いたします。

 教区の業務にいろいろと支障をきたし,またいくつかの予定をキャンセルすることになって,大変申し訳ありません。特に亀有教会の皆さんには,29日の昇天の主日に,教会50年の記念ミサの予定でしたのに,出かけることができなくなり,申し訳なく思います。一日も早く現場復帰できるように、皆様のお祈りの時に覚えていただけると幸いです。

 教会の諸活動にあっても,「そろそろ大丈夫だろう」と気を緩めず,今一度,対面行事やミサなどでの感染対策をご確認いただければと思います。

以下、本日午後6時配信の週刊大司教第七十八回、主の昇天のメッセージ原稿です。なお映像は5月18日に収録したものです。

【主の昇天の主日C(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第78回 2022年5月29日】

 御父のもとへと旅立たれる主を目の当たりにして、弟子たちは呆然として、ただずんでいました。使徒言行録は、その弟子たちに対して天使が、「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか」と語りかけた、と記します。天使の呼びかけは、「ただ呆然と立ち尽くすのではなく、イエスが再び来られることを確信しながら、その日まで、与えられた使命を果たして生きよ」という、促しの言葉であります。

 弟子たちは何をするように促されていたのでしょうか。ルカ福音も使徒言行録もともに、聖霊による導きの約束と、「地の果てに至るまで、私の証人となる」というイエスの言葉を記します。すなわち弟子たちは、自分勝手に何かを語ることではなく、「神の聖霊に満たされ導かれて、イエスの言葉と行いについて、世界中の人たちに証しをする福音宣教者」となるように促されているのです。私たちは、自分勝手に好きなことを語る宣教者ではなく、「聖霊に導かれて主イエスの言葉と行いを語る忠実な宣教者」でありたいと思います。

 2015年5月24日に回勅「ラウダート・シ」が発表されたことを受けて、毎年5月に「ラウダート・シ週間」が設けられ、教皇が呼びかけた総合的エコロジーの視点から、私たちの「共通の家」である地球を守るための道を模索し、行動を決断する時とされています。

 今年の「ラウダート・シ週間」は5月22日から29日までとされ、そのテーマは、「共に耳を傾け、共に歩もう」であります。「共に」という呼びかけは、もちろんシノドスの道程を今、共に歩んでいるからに他なりません。教皇フランシスコは回勅に、「『皆が共に暮らす家を保護する』という切迫した課題は、人類家族全体を一つにし、持続可能で総合的な発展を追求するという関心を含んでいます」と記されました。

 残念ながら、この数か月、私たちはこの共通の家を「争いの場」としてしまい、武力の行使は地球を荒廃させ、さらには環境の中心にある賜物である命を暴力的に奪い去ります。人類家族全体は、残念ながら一つにはなっておらず、共通の家に対する配慮は、後回しにされています。 私たちはこの現実の中で、キリストの福音を証しするものとして遣わされています。教会を導く聖霊は、私たちにこの現実の中で何を証しするようにと導いておられるのでしょう。

 創世記には、神が人を創造された時に、「互いに助けるものとして共に生きるように」と二人の人を創造して、命を与えられた事が記されています。私たちは互いに助け合うように命を与えられました。命を守らず、他者への配慮を忘れた世界には、神の平和がありません。

 回勅「ラウダート・シ」で教皇フランシスコは、「神が創造されたものは、一つとして他者と関係なく勝手に存在するものはなく、すべてが密接につながっている」と指摘され、こう記しておられます。

 「密接に絡み合う根本的な三つの関わり、すなわち、神との関わり、隣人との関わり、大地との関わりによって、人間の生が成り立っていることを示唆しています。聖書によれば、命に関わるこれら三つの関わりは、外面的にも私たちの内側でも、引き裂かれてしまいました。この断裂が罪です」(66)。

 福音を告げ知らせるように、と遣わされている私たちには、この世界において、三つの関わりが引き裂かれている状態を、修復させる務めがあります。神が望まれる世界は、「創造主と人間と全被造界との関係」が修復され、調和が実現している世界であるはずです。

(編集「カトリック・あい」)

2022年5月28日

・世界広報の日に「心の耳を澄ませ、耳を傾けよう」菊地大司教の復活節第6主日メッセージ

 週刊大司教第77回:復活節第6主日 2022年5月21日 (土)

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 復活節第六主日は、世界広報の日と定められており、この日のために教皇様のメッセージも発表されています。

 第二バチカン公会議の「広報メディアに関する教令」に基づき、現代社会におけるメディアのあり方を問いかけ、福音宣教との関わりを考察するために始まったこの世界広報の日ですが、第56回目となる今年の世界広報の日のテーマは「心の耳で聴く」とされています。こちらのリンクからメッセージ全文をお読みいただけます

 自らの主張を言いっぱなしで聞くことが欠如していると指摘する教皇様は、次のようにメッセージに記します。

 「ですから聴くことは、対話にも正しいコミュニケーションにも、いちばんで不可欠な要素です。まず聴くということをしなければコミュニケーションは成立しませんし、聴く力がなければ、優れた報道はできません。確実で良識ある包括的な情報を提供するには、長期にわたり耳を傾けることが必要です。ルポとして何らかの出来事を報告したり、現状を描いたりするには、耳を傾ける技術の獲得と、自身の考えを変えて当初の仮説を修正することもあるとの覚悟が必要です」

 その上で、「兄弟に耳を傾けることのできない人は、いずれ、神に耳を傾けることもできなくなるでしょう」と、教皇様は指摘されています。

 じっくりと耳を傾ける事よりも、反射的に攻撃的な言説に走ることがしばしば見られる現代社会にあって、心の耳を澄ませることの大切さをあらためて心に刻みたいと思います。

 以下、21日午後6時配信の、週刊大司教第77回目、22日の復活節第六主日のメッセージ原稿です。

【復活節第6主日C(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第77回 2022年5月22日】

 教会は聖霊に導かれています。

 ヨハネ福音は、最後の晩餐でイエスが弟子たちに残した言葉を記しています。主イエスは、「私は去って行くが、また、あなた方のところへ戻って来る」という言葉を具体的に示すために、弟子たちの上に聖霊の導きがあることを約束します。聖霊の働きを通じて、神は教会とともに歩みを続けておられます。教会は、常に聖霊に満たされ、聖霊による導きを受けている存在です。その教会を通じて、私たちも聖霊の導きのうちに時を歩んでいます。

 第二バチカン公会議の現代世界憲章は、「神の民は、世界を満たす主の霊によって自分が導かれていることを信じ、この信仰に基づいて、現代の人々と分かち合っている出来事、欲求、願望の中に、神の現存あるいは神の計画の真のしるしを見分けようと努める(11)」と記します。すなわち、教会は社会の現実から切り離された隠れ家なのではなく、聖霊の導きのうちに積極的に社会の現実を識別し、神の計画を見極め、その実現のために出向いていく存在であります。

 使徒言行録は、初代教会にあって意見の対立が生じたときに、パウロやバルナバがエルサレムにおもむき、使徒や長老と協議をしたことを記しています。その協議の結果を伝える手紙には、「聖霊と私たちは、次の必要な事柄以外、一切あなた方に重荷を負わせないことに決めました」という言葉が記されています。

 教会が普遍教会として、異邦人に対して、すなわち全世界に向けて福音を告げる存在となることを決定づけたこのエルサレムでの話し合いは「聖霊による導きを識別し、正しい道を見いだすために行われたこと」が示されています。聖霊は時として、教会に大きな変革の道を示すこともあると、この使徒言行録の話は私たちに示唆しています。

 私たちは常に、共に歩んでくださる神の聖霊の導きに耳を傾け、その示す方向性を識別する努力を続けなくてはなりません。私たちの知見があたかも全てであるかのように思い込むなら、私たちは聖霊の導きに背を向け、神の声に耳を閉ざしてしまうことになりかねません。

 復活節第六主日は「世界広報の日」と定められています。第二バチカン公会議の「広報メディアに関する教令」は「(広報)メディアが正しく活用されるなら、人類に大きく貢献することを熟知している。それらが人々を憩わせ、精神を富ませ、また神の国をのべ伝え、堅固なものとするために大いに貢献する」と、メディアの福音宣教に果たす役割を高く評価しています。

 同時に、メディアに携わる人々に対して、「人類社会の正しい利益に向かってのみ(広報メディア)を方向付けるべく、努力するよう」呼びかけます。インターネットが普及した現代、この呼びかけは一部の専門家だけでなく、すべての人に向けられています。

 今年、第56回目となる「世界広報の日」の教皇メッセージ、「心の耳で聴く」において、教皇フランシスコは「聴くことは、謙遜な神の姿と相通じるところがあります。神は、語ることによって人間をご自分の似姿として造り、聴くことによって人間をご自分の対話の相手として認めます… 主は、人間が余す所なくあるべき姿になれるようにと、人間を愛の契約にはっきりと招いておられます。それは、他者に耳を傾け、受け入れ、譲る力を備えた神の似姿、『かたどり』となることです。聴くとは、本質的には愛の次元なのです」と記しておられます。

 私たちは、創造主である神ご自身がそうであるように、他者に耳を傾けることが必要です。そして神ご自身の声に耳を傾けるために、心の耳を澄ませることが不可欠です。

2022年5月21日

・「今こそ、『互いに愛し合いなさい』という言葉が必要」菊地大司教の復活節第5主日メッセージ

2022年5月15日 (日) 週刊大司教第七十六回:復活節第五主日

2017_05_13img_4255 復活節第五の主日となりました。

 この水曜日、衝撃的なニュースが香港の友人から飛び込んできました。3代前の香港司教である陳日君枢機卿様が、公安当局に逮捕されたというのです。陳枢機卿様は、御年90歳と高齢ですが、香港の民主化のために活動する人々を支え、自らも積極的に行動されていました。ですからその身の安全を慮る声は以前からありましたが、高齢の枢機卿ですから、「バチカンとの関係を考えると、手荒な選択はないだろう」と思われていました。

 今回は、民主化運動に関連して身柄を拘束された人たちを資金的に支える基金の運営に関わり、海外の勢力に通じていたとして、国家安全維持法違反で逮捕、拘束となった模様です。

 即座に保釈されましたが、パスポートを取り上げられているとのことで、今後どのような展開になるのか、共に拘束された他の3名の方々とともに、注視したいと思います。香港の現在の司教様からも「お祈りを」との依頼がありますので、ここは祈りの力をもって支援したいと思います。香港の平和と安定のため、また中国のために祈りましょう。

 個人的なことですが、陳枢機卿様とは、2002年に初めてお会いしました。その年に前任者が帰天され、陳枢機卿様は協働司教から教区司教となられて、即座にカリタス香港の見直しに手を付けられました。香港のカリタスはありとあらゆる社会での活動を包括し、学校もあれば社会福祉施設もあれば外国人支援もあれば宿泊施設まで運営している、巨大組織です。

 ちょうどそのとき私は、カリタスアジアの運営委員の一人として、東アジア担当だったので、即座に、香港に「呼びつけ」られました。そこで二日間にわたって、いろいろと意見と事情の聴取をされたのが出会いです。

 それ以来今に至るまで、ご想像いただけるあの分野について、ありとあらゆることをご教示いただいています。枢機卿様のために、そして香港の教会のために、さらには中国にある教会のために、心からお祈りいたします。

 以下、本日午後6時配信の週刊大司教第76回のメッセージ原稿です。

【復活節第五主日C(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第76回 2022年5月15日】

 5月は聖母の月です。5月13日はファティマの聖母の記念日でしたが、10月とともに5月には、聖母の取り次ぎを願って、ロザリオの祈りをささげるように勧められています。

 特に2020年以来、感染症の困難によっていのちの危機に直面する中で、教皇様はしばしば、聖母の取り次ぎ願って祈りをささげるようにと、わたしたちを招かれています。

 2020年4月26日には、「この試練のときを信仰と希望をもって乗り越えられるよう、聖母マリアが助けてくださいます」とアレルヤの祈りの時に述べて、五月中にロザリオの祈りを唱えるようにと招かれました。その上で、すべての信徒に手紙を送り、そこにこう記されています。

 「五月は、神の民がとりわけ熱心におとめマリアへの愛と崇敬を表す月です。五月には家庭で家族一緒にロザリオの祈りを唱える伝統があります。感染症の大流行によるさまざまな制約の結果、わたしたちはこの「家庭で祈る」という側面がなおさら大切であることを、霊的な観点からも知ることになりました。

 そこで、私はこの五月に、家庭でロザリオの祈りを唱えるすばらしさを再発見するよう、皆さんにお勧めしたいと思ったのです。誰かと一緒に唱えることも、独りで唱えることも、どちらの機会も最大限に活用して、状況に応じて決めることができます。」

 加えて今年、感染症の状況が終息にまだ向かわない中で、私たちは今度は戦争の危機に直面しました。ウクライナへのロシアによる武力侵攻という暴挙の中で、多くの人が命を暴力的に奪われる事態を目の当たりにして、教皇様は聖母への祈りを強めるように呼びかけられました。

 1965年、特に世界平和のために聖母の取り次ぎを祈ってほしいと、教皇パウロ六世は呼びかけました。回勅「メンセ・マイオ」で、教皇は5月にロザリオの祈りをささげる伝統について「五月は、より頻繁で熱心な祈りのための力強い励ましであり、私たちの願いがよりたやすくマリアの憐れみ深い心に近づく道を見い出す時です。教会の必要が求めるときに、あるいは人類が何か重大な危機に脅かされている時にはいつでも、キリスト者に公の祈りを捧げるよう勧めるため、このマリアに奉げられた月を選ぶのは、私の先任者たちに好まれた習慣でした」と述べておられます。(3)

 感染症の状況と戦争の脅威の中に生きるとき、ヨハネ福音に記された主イエスの言葉が、心に強く響き渡ります。

「互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなた方が私の弟子であることを、皆が知るようになる」

 愛し合うためには、互いの存在を受け入れることが必要です。命の危機の中で、自己防衛の思いは、どうしても人間を利己的にしてしまいます。異質なものへの拒否感と排除の感情を強めます。個人のレベルでも、共同体のレベルでも、国家のレベルでも、自分を守ろうとするとき、私たちは排他的になってしまいます。

 だからこそいま、「互いに愛し合いなさい」という言葉が必要です。互いに心を開き、耳を傾けあい、支え合う連帯こそが、この状況から抜け出すために不可欠だと、教皇フランシスコはたびたび繰り返されます。福音を広く告げしらせることを第一の責務だと考えるのであれば、私たちは、互いに愛し合うために、心を開く必要があります。

2022年5月15日

・「危機にある司祭・修道者の召命のために祈ろう」菊地大司教の復活節第4主日メッセージ

2022年5月 7日 (土)週刊大司教第七十五回:復活節第四主日

 復活節第四主日です。復活節第四主日は、毎年朗読される福音から「善き牧者の主日」とも呼ばれ、世界召命祈願日と定められています。通常であれば、この主日の午後2時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂において、教区内で養成を受けている教区や修道会の神学生、修道会の志願者などに参加を呼びかけ、教区の一粒会と一緒に、召命祈願ミサを行うのですが、残念ながら今年もまた、感染症の状況を勘案して、中止とさせていただきました。

 どうかこの主日に、司祭、そして修道者の召命のためにお祈りくださるようにお願いします。

 また同時に、召命を語ることは、キリスト者の召命、すなわち信徒の召命についても考えるときです。一人ひとりに呼びかけ、福音をそれぞれの場で、それぞれの方法であかしするようにと招いておられる主に、どのように応えていくか。黙想する日曜といたしましょう。

 例年、教皇様はこの日にあわせてメッセージを発表されます。今年は発表が大幅に遅れ、つい2・3日前の発表となりました。そのため、中央協議会での翻訳は間に合いません(日本では連休中の発表でしたので)。今年のメッセージのテーマは「Called to build a Human Family(人類家族を造るために呼ばれて)」となっています。翻訳の発表までは今しばらくお待ちください。

 メッセージで教皇様は、教会がいまともに歩んでいるシノドスの道に触れ、まずはじめに教会全体が福音宣教の主役となるように召されていると強調されます。すなわち、召命は特定の人、特に聖職者の召命だけを語るのではなく、それぞれの場でどのように福音を宣教する主役となるのかを考える、教会全体への召命であることを指摘されています。

 その上で、教会全体が、分断された人類を再び一致させ神と和解させるというキリストの使命にともに与るように招かれていると強調されます。

もちろん司祭や修道者の召命が増えるようにと、その道を歩み出す勇気が呼ばれている人に与えられるようにとお祈りいただきたいのですが、同時にわたしたち一人ひとりが、また教会共同体が、神からの呼びかけに応え、与えられたタレントを共通善のために十分に生かすために、互いに何ができるのだろうか。教皇様の呼びかけに耳を傾け、この主日に、お祈りください。

なお教皇様はこの数日、様々な要因から歩くことや立っていることに困難を感じておられます。どうか教皇様の健康のためにも、お祈り下さい。

 ⇒「カトリック・あい」注: 教皇の世界召命祈願日メッセージは「カトリック・あい」で仮訳を載せています。

 以下、本日午後6時に配信された週刊大司教第七十五回、復活節第四主日メッセージ原稿です。

復活節第四主日C(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第75回 2022年5月8日

 復活節第四主日は、世界召命祈願日と定められています。教皇パウロ六世によって、1964年に制定されました。今日は特に、司祭・修道者の召命のために、お祈りをお願いいたします。

 第二バチカン公会議の会期中、1964年4月11日のラジオメッセージで、教皇パウロ六世は、こう述べておられます。

 「十分な数の司祭を確保するという問題は、すべての信者にすぐさま影響を与えます。それは、彼らがキリスト教社会の宗教的な未来をそのことに託しているためだけではありません。この問題は、小教区や教区の各共同体の信仰と愛の力を正確かつ如実に表す指標であると同時に、キリスト者の家庭の道徳的な健全性のしるしだからです。司祭職と奉献生活への召命が多く見られるところではどこでも、人々は福音を豊かに生きています」

 すなわち召命の問題は、組織としての将来的存続の課題にとどまるのではなくて、福音が豊かに生きられているかどうかの指標でもあるというのです。これは私たちにとっては、厳しい指摘です。国内には修道会立も含めていくつもの神学院があり、司祭養成が行われてきました。さらに各修道会では国内外各所で志願者の養成が行われてきました。しかし近年、司祭や修道者を志願する信徒の数は減少傾向にあり、例えば東京教区でも、司祭を目指す神学生は、現時点では四名しかおりません。

 一人の神学生が司祭になるまで養成するためには、最低でも7年が必要です。将来の教区組織維持の観点からも厳しいものがありますし、教皇パウロ六世の指摘されるように、それが福音が豊かに生きられているかの指標であるとするなら、まさしくその数字自体が厳しい指摘となっています。まずは司祭・修道者の召命のために祈りましょう。同時に、私たち教会共同体の責務として、さらに福音に生きる姿勢を追い求め、福音を証しして参りましょう。

 実際、召命を語ることは、ひとり司祭・修道者の召命を語ることにとどまるのではなく、すべてのキリスト者に対する召命を語ることでもあります。司祭・修道者の召命があるように、信徒の召命もあることは、幾たびも繰り返されてきたところです。

 第二バチカン公会議の教会憲章に、こう記されています。

 「信徒に固有の召命は、現世的なことがらに従事し、それらを神に従って秩序づけながら神の国を探し求めることである。自分自身の務めを果たしながら、福音の精神に導かれて、世の聖化のために、あたかもパン種のように内部から働きかけるためである」(31)

 今ほど、司祭・修道者の召命に加えて、信徒の召命を深める必要があるときはありません。牧者であるキリストの声を、すべての人に届けるためには、キリスト者の働きが必要です。「自分自身の務めを」社会の中で果たしながら、「パン種のように内部から働きかける」召命を生きる人が必要です。「福音の精神に導かれて、世の聖化」のために召命を生きる人が必要です。

 召命の促進は、特別な人の固有の務めではなく、教会共同体全体の責務であります。

 ヨハネ福音は、羊飼いと羊のたとえを記しています。「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける」と主は言われます。私たちは常にわたしたちと共にいてくださり、先頭に立って私たちを導いてくださる羊飼いとしての主の声を聞き分けているでしょうか。それとも、もっと他の声に気を取られて、そちらへと足を向けているのでしょうか。それぞれに与えられた召命を理解し、その召命に忠実に生きるとき、私たちは羊飼いの声を聞き分ける羊となることができます。

2022年5月7日

・「イエスを心に抱き、一歩前進する信仰に生きる」菊地大司教の復活節第三主日

2022年4月30日 (土)週刊大司教第七十四回:復活節第三主日

2022_04_09_007 今年の復活節第三主日は、5月最初の日となりました。5月と言えば、聖母の月です。

  1965年、特に東西冷戦が深刻さを増し、ベトナムでの軍事的緊張は東西の代理戦争の様相を帯びていた時期に、世界平和のために聖母の取り次ぎを祈ってほしいと、教皇パウロ六世は呼びかけました。

 回勅「メンセ・マイオ」で、教皇パウロ六世は5月にロザリオの祈りをささげる伝統について、「五月は、より頻繁で熱心な祈りのための力強い励ましであり、私たちの願いがよりたやすくマリアの憐れみ深い心に近づく道を見い出す時です」と教会が大切にしてきた聖母への祈りの重要性を指摘されました。

 その上で教皇は、「教会の必要が求めるときに、あるいは人類が何か重大な危機に脅かされているときにはいつでも、キリスト者に公の祈りをささげるよう勧めるためこのマリアにささげげられた月を選ぶのは、私の先任者たちに好まれた習慣でした」と述べておられます。(3)

 主キリストの贖いの業の第1の協力者は、十字架の傍らに立ち、イエスの苦しみを共にされた聖母マリアです。聖母の人生は、主の思いをと心を合わせ、主と共に歩む人生です。それだからこそ、聖母の取り次ぎには力があります。この5月を聖母を通じて私たちが主イエスに達することができるるように、その取り次ぎのうちに、贖い主への信仰を深める時にしたい、と思います。特に、感染症や戦争など、世界的規模で命が危機に直面するような事態に直面する今、一日も早い終息と平安を求めて、聖母に私たちの祈りを委ね、その取り次ぎを祈ることは、教会の伝統です。

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 以下、本日午後6時配信の、週刊大司教第74回、復活節第三主日のメッセージ原稿です。(写真上はガリラヤ湖畔のペトロ首位権教会にある、主イエスによるペトロの選び。「私の羊の世話をしなさい」と銘板に刻まれています)

復活節第三主日C(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第74回 2022年5月1日

 復活された主イエスを証しする弟子たちの言葉と行いは、どれほど力強いものだったのでしょう。その影響力に恐れをなした大祭司たちは、ペトロをはじめ弟子たちを最高法院に引いていき、尋問し、黙らせようと試みます。

 最後の晩餐の頃の弟子たちであれば、あっ、という間にその脅しに負けて、口を閉じたのかも知れません。しかし使徒言行録が記している弟子たちは、大きく変わっていました。激しくののしられ脅されても、「イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び」最高法院を出て行ったと記されています。この大きな生き方の転換には、復活の主との出会いがありました。

 イエスが捕らえられたあと、三度にわたって「イエスを知らない」と否定したペトロに対して、復活されたイエスは、同じく三度にわたって、「私を愛しているか」と尋ねられたことを、ヨハネ福音は記しています。あの晩の苦い思い出を心に抱くペトロは、しかし三度、「私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」と応えます。

 よく知られていることですが、「愛する」という行為に、イエスは「アガペー」を使います。それに対してペトロは「フィリア」を使って応えます。「アガペー」は命をかけて相手のために身をささげる愛であり、「フィリア」は友愛です。命をかけて私を愛しているか、というイエスの重ねての問いかけに、ペトロは「友愛的な感情」、すなわち「自分を中心に据えた心持ち」をもって応えます。

 しかし、それではイエスが弟子として従うものに求める生き方、つまり無私の愛には結びつきません。イエスは、自分を捨てて、自分の十字架を背負って従うことを求めていました。それを具体的に意味する「アガペー」の愛を、ペトロは理解できていません。そこでイエスは三度目に、ペトロが理解する「フィリア」の愛を使って、重ねて尋ねます。

 ここでペトロは初めて、イエスの願いを心に感じ、「主よあなたは何もかもご存じです」と応えています。やっと、愛する行動の中心はペトロ自身からイエスに移ります。ペトロはイエスに身を委ねることで、初めて、イエスのように生きることが可能となりました。

 イエスに従うものの人生の中心にあるのは、自分ではなくてイエスご自身です。イエスご自身に完全に身を委ねることができたとき、つまり、私たちが自分の弱さを認めた時に、初めて、私を通じて福音が証しされるのです。福音の証しは、私が中心になっているときには実現しません。伝えるのは私の思いではなくて、私を生かしてくださる主ご自身です。

 今、私たちはウクライナに対するロシアの武力攻撃という事態に直面し、戦争の危機を肌で感じる中で、教皇様と一致して、全人類を、そして特にロシアとウクライナを聖母の汚れなき御心に奉献しました。

 聖母への奉献という行為は、本質的に聖母を通じてイエスに奉献するという行為です。私たちは、完全に聖なる方に私たちを「委ね」、それでよし、とするのではなく、委ねることで完全に聖なる方が私たちを聖なるものとしてくださるように、決意をするのです。

 つまり、ただ恵みを受けるだけの受動的な姿勢ではなく、私たちが能動的に、聖なるものとなるために、行動することが不可欠です。ですから、「奉献の祈りをしたから、あとは自動的に聖母が平和を与えてくださるのを待つ」のではなく、「奉献の祈りをしたからこそ、完全に聖なる方に一致するための行動を起こす」ことが必要です。

 復活の主との出会いは、主との一致のうちに福音を証しする行動へと、私たちを招いています。イエスを心に抱いて、一歩前進する信仰に生きましょう。

(菊地功=きくち・いさお=東京大司教)

2022年4月30日

・「人類は、神の慈しみへ向かわない限り、平和を得ない」ー菊地大司教の復活節第二主日メッセージ

2022年4月23日 (土) 週刊大司教第七十三回:復活節第二主日

2022_04_08_003-2 復活節第二主日です。

 復活節第二主日は「神の慈しみの主日」とされています。主の慈しみのメッセージはポーランドの聖ファウスティナ・コヴァルスカの受けた神の慈しみに関するメッセージに基づくもので、聖ファウスティナは聖ヨハネパウロ二世教皇によって、2000年に列聖されています。

 なお聖人の聖遺物が、東京カテドラル聖マリア大聖堂の右手に、聖ヨハネパウロ二世教皇の聖遺物とともに安置されています。聖堂右手のピエタ像の前です。

 以下、23日午後6時配信の週刊大司教第73回めのメッセージ原稿です。

【復活節第二主日C(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第73回 2022年4月24日)

 復活節第二主日は、教皇ヨハネパウロ二世によって、「神の慈しみの主日」と定められています。

 「人類は、信頼をもって私の慈しみへ向かわない限り、平和を得ないであろう」という聖ファウスティナが受けた主イエスの慈しみのメッセージに基づいて、神の慈しみに信頼し、その愛に身を委ね、私たち自身が受けた慈しみと愛を、今度は隣人に分かち合うを黙想する日であります。

 1980年に発表された回勅「慈しみ深い神」で、教皇はこう指摘されています。
「愛が自らを表す様態とか領域とが、聖書の言葉では「憐れみ・慈しみ」と呼ばれています」(慈しみ深い神3)

 その上で、「この『愛を信じる』とは、慈しみを信じることです。慈しみは愛になくてはならない広がりの中にあって、いわば愛の別名です」(「慈しみ深い神」7項)と言われます。

 「憐れみ深い人々は幸いである、その人たちは憐れみを受ける」という山上の垂訓の言葉を引用しながら、「人間は神の慈しみを受け取り経験するだけでなく、他の人に向かって、『慈しみをもつ』ように命じられている」と指摘される教皇は、人類の連帯を強調されました。

 慈しみに基づいた行動は、神からの一方通行ではなく、それを受ける私たちの霊的変革が求められるごとく、相互に作用するものだ、とも語られます。教皇は「人間的なものに対する深い尊敬の念をもって、相互の兄弟性の精神を持って、人と人との間の相互関係を形成していくために、慈しみは不可欠の要素となる」と指摘しています。正義には愛が不可欠であることを、愛と慈しみが介在して始めて相互の連帯が生まれることを強調するヨハネパウロ二世は、教会が「多くの要素を持った人間関係、社会関係の中に、正義だけでなく、福音の救世的メッセージを構成している『慈しみ深い愛』を持ち込む」ために働くよう求められました。(「慈しみ深い神」14項)

 教皇フランシスコの、東京ドームでの言葉を思い起こします。

 「傷をいやし、和解と赦しの道をつねに差し出す準備のある”野戦病院”となることです。キリスト者にとって、個々の人や状況を判断する唯一有効な基準は、神がご自分のすべての子どもたちに示しておられる、いつくしみという基準です」

 復活された主は、週の初めの日の夕方、ユダヤ人を恐れて隠れ鍵をかけていた弟子たちのもとへおいでになります。主は復活によって、死をもたらす悪に、神の愛と慈しみが打ち勝つことを示され、その上で、「平和があるように」、すなわち神の支配が弟子たちと常にあることを明確にして恐れを取り除きます。そして弟子たちを罪の赦しのために派遣されました。罪の赦し、すなわちイエスご自身がその公生活の中でしばしば行われたように、共同体の絆へと回復させるために、神の慈しみによって包み込む業を行うことであります。

 福音に記されたトマスと主との関係は、神の慈しみは完全な存在であり、常に私たちに向けられているのに、それを拒むのは人間の側の不信仰であることを浮き彫りにします。信じようとしないトマスを、それでもイエスは愛と慈しみで包み込もうとなさいます。放蕩息子の父親に通じる心です。

 この世界には、神の愛と慈しみが満ちあふれています。互いに連帯し、支え合い、賜物である命を尊重して生きるように、と私たちを招く、神の愛と慈しみに満ちあふれています。それを拒絶するのは、私たちの側の不信であり、怠慢であり、悪意であります。

(編集「カトリック・あい」=「いつくしみ⇒慈しみ」「いのち⇒命」「ゆるし⇒赦し」など表記を、本来の言葉の意味を表し、より文章を理解しやすく、読みやするため、ひらがなでなく、教科書や新聞などで一般的に使われている当用漢字を使用。たとえば、「慈しみ」の「慈」は、「心」と音符「茲(シ)」からできており、仏教用語。語源的には「友」「親しきもの」を意味する mitraという単語から派生したもので「真実の友情」「純粋の親愛の念」を意味しています=ブリタニカ国際大百科事典小項目事典)

2022年4月23日

・「私たちの信仰生活は、神の定めた方向性を心に刻みつつ前進を続ける、挑戦に満ちあふれた旅路」菊地大司教の復活徹夜祭

2022年復活徹夜祭@東京カテドラル

2022evg05 主の復活おめでとうございます。

 聖土曜日はいわゆる固有の典礼のない日です。静かに主の墓の前に佇みその受難と死を黙想する日です。 そしてその日の夕刻、日が沈んで、聖書的には翌日が始まる土曜日の夜、主の復活の徹夜祭が行われます。

 その中心にあるのは、復活された主イエスが、暗闇に輝く希望の光であることを明確に示す光の祭儀、そして出エジプトの物語を中心とした旧約聖書の朗読を通じた救いの歴史の黙想、そして感謝の祭儀です。通常この復活徹夜祭が新しい命のよみがえりを祝うのですから、古い自分に死んでキリストのうちに新しい後を生きる洗礼が行われます。

2022evg09 東京カテドラル聖マリア大聖堂では、この晩、12名の方が洗礼を受け、3名の方が転会し、さらに10名が加わって堅信の秘跡を受けられました。おめでとうございます。

 以下、復活徹夜祭の説教原稿です。なお、洗礼式で個人名が読み上げられることもあり、ビデオは添付いたしません

【復活徹夜祭 東京カテドラル聖マリア大聖堂 2022年4月16日】

 皆さん、御復活、おめでとうございます。

 私たちの人生は旅路であり、それは時の流れのうちにある旅路です。時は立ち止まることなく常に前進を続けていきますから、私たちの人生の旅路も、立ち止まることはありません。

 この二年間、私たちは様々な危機に直面し、あたかも暗中模索を続けているようです。どこへどう進んでいったら良いか分からず、立ち止まってしまったとしても、時の流れはとどまることを知りませんから、私たちの人生はそれでも前進を続けています。

 私たちの信仰の旅路も、とどまることなく前進を続けています。週の初めの日の明け方早く、墓へ出かけていった婦人たちの心は、主であるイエスが十字架の上で無残に殺害されたその時で、止まってしまったのかも知れません。ですから、肝心のイエスの遺体が見つからないときに、婦人たちはどうするべきなのか分からず、「途方に暮れた」と福音は記します。

 そこに天使が出現し、「イエスは生きている」と告げます。途方に暮れた婦人たちに、天使は進むべき方向性を思い起こさせます。それはすでに与えられているのです。

 ガリラヤはイエスに従う人々がイエスと初めて出会った地です。「信仰に生きる」とはどういうことか、イエスが言葉と行いをもって教えられた地です。それは単に過去の記憶として留めておくべきものではなく、これからを生きる人生の旅路に、明確な方向性を与える指針であります。

 弟子たちも、「十字架上での主の死」という喪失にとらわれ、途方に暮れて立ち止まっていたことを福音は記します。実際にイエスの体がそこには無いことを目で見たペトロが、ただただ、「驚いて」家に帰ったと福音は記しています。

 ペトロは家に帰ったのであって、前に進もうとはしません。イエスご自身が現れるまで、前に進まないのです。主は立ち止まることではなく、常に前進し続けることを求めます。信仰は旅路です。やみくもに歩いているのではなく、主ご自身が示された方向性の指針に基づいて、歩みを続ける旅路です。

 出エジプト記において、救いの歴史にあずかる神の民は、エジプトでの安定した生活を捨て、常に挑戦し続ける旅に駆り立てられ、40年にわたって荒れ野をさまよいます。「安定した過去へ戻ろう」と神に逆らう民に、神は時として罰を与えながら、それでも常に前進するように命じます。その旅路は過酷であり、あたかも、さまよっているようにしか見えませんが、しかし神の救いの計画、すなわち、進むべき方向性の指針は、すでに明確に示されていました。

 私たちの信仰生活は、神の定めた方向性を心に刻みながら、常に前進を続ける新しい挑戦に満ちあふれた旅路であります。洗礼を受け、救いの恵みのうちに生きる私たちキリスト者は、神の定めた方向性の指針、つまり神の定められた秩序を確立するために、常に新たな生き方を選択し、旅を続けるよう求められています。

 イスラエルの民が紅海の水の中を通って、奴隷の状態から解放され、新しい人生を歩み出したように、私たちも洗礼の水によって、罪の奴隷から解放され、キリスト者としての新しい人生を歩み始めます。洗礼は、私たちの信仰生活にとって、「完成」ではなく、「旅路への出発点」に過ぎません。

 今日、洗礼を受けられる方々は、信仰の旅路を始められます。洗礼の準備をされている間に、様々な機会を通じて、主ご自身がその言葉と行いで示された進むべき方向性の指針を心に刻まれたことだと思います。それを忘れることなく、さまよい歩くのではなく、神の定めた秩序が実現されるように、この旅路の挑戦を続けていきましょう。

 とはいえ、一人で旅路を歩むのは心細いものです。本当にそれが正しい道なのかどうか、分からない時も、しばしばでしょう。ですから私たちは共にこの道を歩みます。教会は共同体であり、私たちは信仰の旅路を、共同体として共に歩みます。「一人、孤独のうちに歩む」のではなく、互いに助け合いながら歩み続けます。

2022evg04 ちょうど今、教会は、シノドスの道を歩んでいます。そのテーマは、「ともに歩む教会のため-交わり、参加、そして宣教-」と定められています。シノドスは信仰の旅路の刷新を目指します。

 東京教区では、集まることが難しい中、定期的にビデオを作成し公開していますが、ご覧になったことはありますか。一つ一つは短いものですので、是非ご覧になって、何人かの方々とその内容について分かち合い、理解を深めていただければと思います。

 このシノドスは、何か決議文を生み出すのではなく、互いに信仰を深め、進むべき方向性の指針を再確認し、助け合い支え合いながら、信仰の旅路をともに歩み続けることが目的です。

 東京教区では、折しも宣教司牧方針を、教区の多くの方の意見に耳を傾けながら定めたところです。残念ながら、発表した直後から感染症の状況に翻弄されており、宣教司牧方針を公表したものの、深めることが一切できずにおりました。

 今回のシノドスの歩みは、そういった状況にある東京教区にとっては、ふさわしい呼びかけとなりました。

 シノドスの歩みを共にすることで、私たちは「今の東京教区の現実の中で、『神の民』であるとは、どういう意味があるのか」を理解し、深めようとしています。そのプロセスの中で、交わりを深め、ともに参加し、福音を告げる共同体へと豊かになる道を模索していきます。そのことはちょうど、東京教区の宣教司牧方針の三つの柱、すなわち、「宣教する共同体」「交わりの共同体」「すべてのいのちを大切にする共同体」の実現と直接につながっています。

 復活された主は、私たちの信仰の旅路に常に寄り添ってくださいます。共に歩んでくださるのは、主ご自身です。互いに支え合い、共に歩む教会共同体を生み出していきましょう。

2022年4月17日

・「喜びと希望を生みだす教会共同体に」菊地大司教、復活の主日メッセージ

2022年4月17日 (日)2022年復活の主日@東京カテドラル

 2022esun01皆様、主の復活おめでとうございます。

 この数日は肌寒い雨模様が続きましたが、復活の主日の今日は、少しばかりの曇り空ですが晴れ上がり、暖かな春の日となりました。復活祭ということもあり大勢の信徒の方がミサに参加されました。聖マリア大聖堂は、堂内の人数制限をしているため、今日は正面扉を開放して、その外にも、ミサにあずかる方が互いの距離を取りながら、祈りをささげておられました。

2022esun04 今日のミサで、これから異動となる神父様方も多数おられると思います。関口教会でも、助任のホルヘ神父様が、来週から高幡教会で働かれることになります。

 ミサの最後に、関口教会からお祝いとホルヘ神父様の趣味でもある盆栽が贈られました。新しい任地で、新しい責務を負われるホルヘ神父様に、聖霊の導きを祈ります。

 新しい主任司祭や助任司祭を迎える教会共同体にあっては、どうか司祭のためにお祈りください。新しい任地へ向かう司祭のため、そして新たに皆さんの共同体に赴任される司祭のため、どうか祈りをお願いします。

 私たちは、祈りの力を信じています。祈りを忘れたとき、人間の力に頼らざるを得なくなり、それが生み出す結果は神様の望まれる道とは異なる方向を向いてしまう可能性すらあります。

 洗礼を受けられた皆さん、おめでとうございます。これからキリストの身体の一部分として、共同体の大切なメンバーとして、ともに歩んで参りましょう。

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以下、本日午前10時の、関口教会でのミサの説教原稿です。

【復活の主日 東京カテドラル聖マリア大聖堂 2022年4月17日】

 主の復活おめでとうございます。

 昨晩の復活徹夜祭で洗礼を受けられた方々には、心からお祝い申し上げます。

 洗礼を受けられたことで、皆さんはキリストの身体を構成する一部分となりました。そのことを目に見える形で象徴するように、共同体の一員としても迎え入れられることになります。

 教会は共同体です。お一人お一人にそれぞれの人生の歩みがあることでしょうから、共同体への関わりの道も様々です。具体的な活動に加わることもできますし、祈りのうちに結ばれることもできます。重要なのは、信仰はパートタイムではなくてフルタイムであって、どこにいても常に、私たちキリスト者は霊的な絆で共同体に、そしてキリストの身体に結ばれていることを心に留めておくことだと思います。

 私たちから神に背を向けて離れていくことはいくらでもできますが、神は自分の身体の一部である私たちを離しません。洗礼の恵みによって、さらには聖体と堅信の恵みによって、私たちは霊的にキリストに結び合わされ、その結びつきを私たちが切り離すことはできません。どうか、これからもご自分の信仰生活を深められ、できる範囲で構いませんので、教会共同体の大切な一員として、それぞれに可能な範囲で貢献していただくことを期待しています。

 主の復活を祝うこの日は、私たちの信仰の中心にある喜びの日です。十字架の苦しみと死に打ち勝って、新たないのちへと復活されたイエスの勝利がなければ、今日の使徒言行録に記されているようなペトロの力強い宣言はなかったのです。ヨハネ福音に記されたペトロと、使徒言行録に記されたペトロは、同じ人物ですが、そこには大きな違いがあります。

 あの晩、三度にわたって「イエスを知らない」と宣言し、恐れのあまり逃げ隠れしていたペトロは、主の復活を理解できません。ヨハネ福音には復活された主は登場してきません。語られているのは、空になった墓であり、その事実を見てもまだ理解できずにまだまだ困惑しているペトロや弟子たちの姿です。

 しかしそのペトロは、使徒言行録で、「力強くイエスについて宣言するペトロ」になりました。その異なるペトロの姿の間には、復活された主ご自身との出会いがあります。

 教皇ベネディクト16世は、回勅「神は愛」にこう記しておられます。

 「人をキリスト信者とするのは、倫理的な選択や高邁な思想ではなく、ある出来事との出会い、ある人格との出会いです。この出会いが、人生に新しい展望と決定的な方向付けを与えるからです(1)」

 こう記した教皇は、繰り返し、私たちの信仰は、イエスとの個人的な出会いの体験によって生み出されると強調されました。イエスとの出会いは、ペトロやパウロがそうであったように、命を生きる希望を生み出します。

 その上で教皇ベネディクト16世は、「福音は、あることを伝達して、知らせるだけではありません。福音は、あることを引き起こし、生活を変えるような伝達行為なのです。・・・希望を持つ人は、生き方が変わります(回勅「希望による救い」2)」とも指摘されています。

 洗礼によって、私たちは、古い自分に死に、新しい自分として生まれ変わりました。その間には、復活された主との個人的な出会いがあります。主との出会いは命を生きる希望を生み出します。その希望を心に受けた者は、それを力強く証しする人生を歩み始めます。なぜなら、私たちが受けた福音は、単なる知識や情報ではなくて、何かを引き起こし、生活を変えるような力を持っているはずだからであります。

2022esun06 今、たぶん、私は理想を述べています。現実はそう簡単にはいかないことを、私たちはこの四旬節の間、目の当たりにしてきました。

 そもそもこの二年間以上、感染症の影響で、希望のない暗闇の中をさまよってきました。さまよい続けているにもかかわらず、多くの人が暴力的に命を奪われうるような戦争状態が発生し、世界中が希望を見失ってしまいました。喜びの季節であるはずなのに、心のどこかに不安が根を張っています。

 教会は霊的な絆に結び合わされた共同体であるにもかかわらず、実際に集まることができない状態が長く続く中で、その状態にとどまり続けるのは、容易なことではありません。どこからか甘い言葉がささやかれると、思わず飛びつきたくなる心持ちです。でも甘い言葉には、真理と平和はありません。

 なんと私たちの信仰の弱いことか、と思い知らされ続ける二年間でありました。これまで「当たり前だ」と思っていた、日曜日に教会へ行ってミサに与ること、それが難しくなった時、初めて私たちは、集まること自体が、喜びを生み出していたことを、心で感じました。

 「私たち」と言って、皆さんのことを私が判断することはできませんから、少なくとも、私自身は、人間の心の弱さを、この二年間、つくづく思い知らされています。そして他者の命を暴力的に奪ってでも、政治的野望を成し遂げようとする、人間の心の醜さを目の当たりにして、ただただ、「主よ助けてください」と叫び続けるしかありません。

 このような時代に生きているからこそ、私たちは福音の基本に立ち返り、現実社会の中で教会がどうあるべきか、私たちがどのように生きるべきかを、思い起こしたいと思います。

 私たちの信仰を支える教会共同体には、三つの本質的務めがあると、教皇ベネディクト16世は指摘されていました。

 回勅「神は愛」で、「教会の本質はその三つの務めによって表されます。すなわち、神の言葉を告げ知らせること(宣教と証し)、秘跡を祝うこと(典礼)、そして愛の奉仕を行うこと(奉仕)です。これらの三つの務めは、それぞれが互いの前提となり、また互いに切り離すことのできないものです(25)」と記されています。

 教会は、福音を証しする存在です。教会は祈りを深め、神を礼拝する存在です。教会は愛の奉仕を行う存在です。どれかが大切なのではなくて、この三つの務めは互いを前提としているので、それぞれのが十分になされていなければなりません。

 これに基づいて東京教区では、全体の方向性を示す「宣教司牧方針」を定めています。宣教司牧方針の柱は三つあり、①宣教する共同体、②交わりの共同体、③すべての命を大切にする共同体を育てていくことを目指しています。それによって先ほどの三つの本質的務めを十全に果たしていく共同体になりたいと思います。

 三つの務めや三つの柱は、共同体の効率化だとか、そういったことを求めて定めてあるのではありません。それは、教会共同体が主ご自身との個人的な出会いを生み出す場となるためであり、主との出会いによる喜びに満たされている場となるためであり、社会に対してその喜びを宣言し希望を生み出すものとなるためであります。

 皆さん、歩みを共にしながら、「宣教する共同体」「交わりの共同体」「すべてのいのちを大切にする共同体」をつくり育んでまいりましょう。喜びと希望を生み出す、教会共同体でありましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2022年4月17日

・「主イエスの苦しみに心を合わせ、神の秩序の実現へ具体的に行動する人生を」聖金曜日・主の受難の菊地大司教メッセージ

2022年4月16日 (土)2022年聖金曜日主の受難@東京カテドラル

2022gf06 聖金曜日の主の受難の典礼です。

 今年もまた、感染対策のため、通常通りの典礼ができていません。残念です。特に十字架の崇敬を、本来はお一人お一人にしていただきたいのですが、全員で一緒に崇敬という形にさせていただきました。来年こそは、元に戻すことができるのを願っています。また盛式共同祈願では、教区司教の定めとして、ウクライナの平和とミャンマーの平和のため、また感染症の終息のため、教区典礼委員会が準備した祈願文二つを使いました。

2022gf05

以下、聖金曜日主の受難の典礼の説教原稿です。

【聖金曜日・主の受難 東京カテドラル聖マリア大聖堂 2022年4月15日】

 この日、私たちは、愛する弟子たちによって裏切られ、人々からはあざけりを受け、独り見捨てられ孤独のうちに、さらには十字架上での死に至るまでの受難という、心と身体の痛みと苦しみに耐え抜かれた主イエスの苦しみに心を馳せ、祈ります。

 今日の典礼は、十字架の傍らに聖母が佇まれ、その苦しみに心を合わせおられたことを、私たちに思い起こさせます。人類の罪を背負い、その贖いのために苦しまれる主イエスの傍らに立つ聖母は、キリストと一致した生き方を通じて、教会に霊的生活の模範を示されています。

 教皇パウロ六世は、「(聖母の)礼拝が人の生活を神に対する奉献とさせる点」において、また「私は主のはしためです。お言葉通り、この身になりますように」という言葉に生きたことによって、「すべてのキリスト者にとって、父である神の御旨に対して従順であるように、との教訓であり、模範である」と指摘しています。(「マリアーリス・クルトゥス」21)

 人生において私たちは、様々な困難に直面します。人間の知恵と知識を持って乗り越えることのできる困難もあれば、時には大災害のように、人間の力ではどうしようもない苦しみも存在します。この数年間、私たちは日本において、例えば東北の大震災のような大きな自然災害によって、人間の知恵と知識の限界を思い知らされました。そして2020年、新型コロナウィルスによって、あらためて人間の知恵と知識の限界を思い知らされました。

 そして今度は戦争の危機に直面することになりました。今年の四旬節は、ロシアによるウクライナへの武力侵攻とともにある四旬節でした。核戦争の可能性さえ感じさせるこの事態は、しかし、自然災害ではありません。まさしく教皇ヨハネパウロ二世が1981年に広島から世界に呼びかけたように、「戦争は人間の仕業です。戦争は人間の生命の破壊です。戦争は死です」。

 第二次世界大戦という悲劇を経験した人類は、それを繰り返さないために、戦後、さまざまな国際的規約を定め、国際機関を設立し、平和を確立しようとしました。東西対立が深まり核戦争の危機が現実となった時代に、教皇ヨハネ23世は「地上の平和」を著され、「武力に頼るのではなく、理性の光によって、換言すれば、真理、正義、および実践的な連帯によって(62)」、国家間の諸課題を解決せよと呼びかけました。その上で、「その解決を、命を危機に直面させ、さらには人間の尊厳を奪う、武力行使に委ねることはできない」と主張されました。

  今回のウクライナでの事態にあたり、教会は教皇フランシスコの度重なる祈りの呼びかけに応え、平和のための祈りをささげてきました。しかしながら平和は自然現象ではありません。戦争が人間のしわざであるように、平和も人間の業によって生み出されなくてはなりません。

 平和は、教皇ヨハネ23世によれば、「単に戦争のない状態ではなくて、神の秩序が完成している状態」です。平和は神から恵みとしてもたらされるものではなくて、私たちがそのために力を尽くして確立するものであり、神は共通善に向けた私たちの行動を、聖霊を持って祝福し導いてくださいます。神の導きに応えて行動するのは、私たちです。

 「地上の平和」にこう記されています。
「一人ひとりの中に平和がなければ、換言すれば、一人ひとりが自分自身の中に神が望む秩序を植え付けなければ、人々の間に平和は成立しえません。(88)」

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   教皇フランシスコは、3月25日、「全人類と、特にロシアとウクライナを、聖母の汚れなき御心に奉献する」ことを宣言され、全世界の教会に、教皇様と一致して祈りをささげるようにと招かれました。その原点は、ファティマで出現された聖母が、ルチアに伝えた第一、第二の秘密に記されています

 聖母への奉献という行為は、聖母を通じてイエスに奉献するという行為です。教皇ヨハネパウロ二世は、1982年5月13日、ファティマでのミサにおいて、こう述べておられます。

 「マリアに私たちを奉献するという意味は、私たちと全人類を聖なる方、つまり完全に聖なる方にささげるために、聖母の助けを求めるということです。それは、十字架のもとですべての人類への愛、全世界への愛に開かれたマリアの母なる御心に助けを求め、世界を、人類一人ひとりを、人類全体を、そしてすべての国を完全に聖なる方にささげるためです」

 私たちは完全に聖なる方に、私たちを「委ね」て、それで終わりとするのではなく、委ねることで完全に聖なる方が、私たちを聖なるものとしてくださるようにと、行動を決意をするのです。

 つまり、ただ恵みを受けるだけの受動態ではなくて、私たちが能動的に聖なるものとなるために行動することが不可欠です。ですから、「奉献の祈りをしたから、あとは自動的に聖母が平和を与えてくださるのを待つ」のではなく、奉献の祈りをしたからこそ、完全に聖なる方に一致するための行動を起こすことが必要です。平和を求めて、全人類を聖母の汚れなき御心に奉献した私たちの、具体的な行動が問われています。

 命の与え主である神が人間を愛しているその愛のために、イエスは苦しみ抜かれ、ご自分を贖いの生け贄として十字架上で御父にささげられました。聖母マリアは、イエスとともに歩む時の終わりである、イエスの十字架上の苦しみに寄り添いました。聖母の人生は、完全に聖なる方にその身を委ねる人生でした。その身を委ねて、それに具体的に生きる前向きな人生でした。

 苦しみの中で命の危機に直面していた主は、「婦人よ、ご覧なさい。あなたの子です」と母マリアに語りかけ、愛する弟子ヨハネが代表する教会共同体を、聖母にゆだねられました。またそのヨハネに「見なさい。あなたの母です」と語りかけられて、聖母マリアを教会の母と定められました。まさしくこの時から、教会は聖母マリアとともに主の十字架の傍らに立ち続けているのです。

 その全生涯を通じて、イエスの耐え忍ばれた苦しみに寄り添い、イエスとともにその苦しみを耐え忍ばれたことによって、「完全な者」として神に認められた聖母マリアの生涯を象徴するのは、十字架の傍らに立ち続ける姿です。

 十字架上のイエスは私たちの救いの源であり、傍らに立ち続ける聖母マリアはその希望のしるしです。私たちも、同じように、「完全な者」となることを求めて、聖母マリアとともに十字架の傍らに立ち続けたいと思います。聖母マリアに倣い、主イエスの苦しみに心をあわせ、神の秩序の実現のために、具体的に行動する人生を生きたいと思います。

(編集「カトリック・あい」)

2022年4月16日

・「おのれの身が裂かれても、人類のために身をささげられた主の愛に倣う」菊地大司教の聖木曜日・主の晩餐ミサ

(菊地大司教の日記 2022年4月15日 (金) 2022年聖木曜日主の晩餐@東京カテドラル

2022hth02 聖木曜日の主の晩餐のミサを、東京カテドラル聖マリア大聖堂で行いました。例年、聖なる三日間の典礼は、関口教会と韓人教会の合同で行われていますので、昨晩のミサには韓人教会の主任である高神父様も参加、さらに昼間の聖香油ミサに引き続いて、大分教区の新しい司教である森山信三被選司教様も参加して祈りの時を共にしてくださいました。

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 感染対策中のため、残念ですが、今年も、洗足式を中止とし、さらにミサ後に御聖体を仮祭壇に運ぶ際も、会衆も共同司式司祭も、自席からお祈りしていただきました。来年こそは元に戻したいーそう思い、また願います。

 なおビデオを見ていただくと分かりますが、ミサでは第一奉献文を歌っています。あまり歌われることがありませんし、私自身が自分の名前を呼ぶ(「私たちの司教○○」のところです)ところをどうしたのかも、一度ご覧いただければと思います。

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 以下、主の晩餐のミサの説教原稿です。

【聖木曜日・主の晩餐 東京カテドラル聖マリア大聖堂 2022年4月14日】

 この2年間、感染症の状況のただ中にあって、私たちは「孤立するのではなく、互いに連帯して助け合うこと」の重要性を、肌で感じ、同時に、命の危機に直面する時、人がどれほど容易に利己的になり、様々なレベルで連帯が実現しないか、その現実も目の当たりにしてきました。

 最たるものは、今年の四旬節を悲しみと恐れの影で覆い尽くしたウクライナにおける戦争です。そこには様々な政治的な理由があることでしょう。それをもって武力の行使を正当化しようとする立場もあることでしょう。

 しかし信仰に生きる私たちは、感染症によって世界中の命が既に危機にさらされている中で、今こそ必要なのは「共に命を生きるために連帯すること」であって、「命を奪うことではない」と改めて、しかも愚直に主張したいと思います。

 教皇フランシスコは、回勅「兄弟の皆さん」で、現在の世界情勢を「散発的な第三次世界大戦」と指摘された上で、こう語られています。

 「私たちを一つに結びつける展望の欠如に気付くとしたら、それは驚くにあたりません。どの戦争でも、破壊されるのは『人類家族の召命に刻み込まれた兄弟関係そのもの』であり、そのため『脅威にさらされた状況は、ことごとく不信を助長し、自分の世界に引きこもるよう人々を仕向ける』からです(26)」

   命を守るために世界的な連帯が必要とされる今、世界はそれに逆行するかのように、互いの絆を断ち、利己的になり、互いに無関心になり、命をさらなる危機に追いやっています。

 感染症対策が私たちを孤立させ、可能な限り人間関係を希薄にさせ、教会に集まることすら困難にさせている中で、私たちは改めて教会の共同体性を考えさせられています。教会は、何をもって共同体なのでしょうか。2年前まで、日曜日に教会に集まることで、わたしたちは教会共同体であると思っていました。しかしそれが不可能となった時、「私たちを結びつけているのは、いったい何なのだろうか」と考える機会を与えられました。

 私はこの感染症の状況の中で、教会活動に様々な対策を講じる中で、福音に記された「私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる」という主イエスの言葉を、私たちを結びつける絆のしるしとして掲げてきました。

 私たちは、どのような状況に置かれていても、主ご自身が、世の終わりまで共にいてくださると言われた、その約束に信頼し、主ご自身を通じて共同体の絆に結び合わされています。私たちは”仲良しクラブの会員”ではありません。「仲が良いから集まっている」のではありません。私たちは、仲が良かろうと良くなかろうと、世の終わりまで共にいてくださる主が、私たちと共におられるから、この共同体に集められているのです。

 教皇ヨハネパウロ二世は、回勅「教会に命を与える聖体」の冒頭で、主ご自身のこの約束の言葉に触れ、教会は様々な仕方で主の現存を味わうのだが、「聖なる聖体において、すなわちパンとぶどう酒が主のからだと血に変わることによって、教会はこのキリストの現存を特別な仕方で深く味わうのです(1)」と語られます。

 そのうえで教皇は、「教会は聖体に生かされています。この『命のパン』に教会は養われています。すべての人に向かって、絶えず新たに、このことを体験しなさい、と言わずにいられるでしょうか(7)」と述べておられます。

 私たちイエスによって集められている者は、主ご自身の現存である聖体の秘跡によって、力強く主と結び合わされ、その主を通じて互いに信仰の絆で結び合わされています。私たちは、御聖体の秘跡があるからこそ、共同体であり、その絆のうちに一致しているのです。

 主における一致へと招かれている私たちに、聖体において現存されている主イエスは、「私の記念としてこれを行え」という言葉を聖体の秘跡制定に伴わせることによって、後に残していく弟子たちに対する切々たる思いを、秘跡のうちに刻み込まれました。

 このイエスの切々たる思いは、聖体祭儀が繰り返される度ごとに繰り返され、「時代は変わっても、聖体が過越の三日間におけるものと『時を超えて同一である』という神秘を実現」させました(「教会に命を与える聖体」5項)。私たちは、聖体祭儀に与るたびごとに、あの最後の晩餐にあずかった弟子たちと一致して、弟子たちが主から受け継いだ思いを、同じように受け継ぎます。

 パウロは「コリントの教会への手紙」で最後の晩餐における聖体の秘跡制定の出来事を記す中で、「私の記念としてこれを行え」というイエスが残された言葉に続けて、「だから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むごとに、主が来られる時まで、主の死を告げ知らせるのです」と呼びかけています。この呼びかけは、いま聖体祭儀にあずかる私たち一人ひとりへの呼びかけです。

 イエスは、裂かれたパンこそが、「私の体である」と宣言します。ぶどうは、踏みつぶされてぶどう酒になっていきます。裂かれ、踏みつぶされるところ、そこに主はおられます。

 だからこそ、ヨハネ福音は、最後の晩餐の出来事として、聖体の秘跡制定を伝えるのではなく、その席上、「イエスご自身が弟子の足を洗った」という出来事を記します。この出来事は、弟子たちにとって常識を超えた衝撃的な体験であったことでしょう。その終わりにこうあります。

 「ところで、主であり、師である私があなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。私があなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」

 パンが裂かれ、ぶどうが踏みつぶされるように、互いに自分を主張するのではなく、相手を思いやり支え合い、そのために自らの身を犠牲とするところ、そこに主はおられます。

 私たちは聖体祭儀に与る度ごとに、自らの身が裂かれ、踏みつぶされて、それでも愛する人類のために身をささげられた主の愛に思いを馳せ、それを心に刻み、その思いを自分のものとし、そして同じように実践していこうと決意します。主の愛を自分のものとして具体的に生きるとき、そこに主はおられます。

 教会は今、「共に歩む教会のために–交わり、参加、そして宣教」というテーマを掲げて、共にシノドスの道を歩んでいます。3月19日に世界中の司祭に向けて、聖職者省長官とシノドス事務局長が連名で書簡を出されました。そこに教会の新たな姿を求めるこの旅路について、こう呼びかけが記されています。

 「私たちは、神の民全体と共に聖霊に耳を傾け、信仰を新たにし、兄弟姉妹と福音を分かち合うために新たな手段と言語を見出す必要があります。教皇フランシスコが私たちに提案しているシノドスの歩みは、まさにこのことを目的としています。つまり、相互に耳を傾け、アイデアやプロジェクトを共有しながら、教会の本当の顔を示すために、共に歩み出すのです。その教会とは、主が住まわれ、友愛に満ちた関係性によって励まされる、扉の開け放たれた、もてなしのあふれる『家』です」

 聖体の秘跡を制定された主イエスの切なる思いを心に刻み、聖体に現存される主に生かされて、その主を多くの人に告げ知らせるために、主のおられる教会共同体となりましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2022年4月15日