・「私たちはすべて、『福音を告げるように』と派遣されている」菊地大司教の年間第14主日メッセージ

2022年7月 2日 (土)週刊大司教第八十三回:年間第十四主日

 あっという間に梅雨が明け、6月末から猛暑となりました。どうか熱中症にはお気をつけください。2022dgsjubilee

 写真は、6月27日月曜日に東京カテドラル聖マリア大聖堂で行われた、今年の司祭叙階ダイアモンド、金祝、銀祝のお祝いミサ後に撮影された参加司祭の集合写真です。記録のため、一瞬マスクを外しました。教皇大使も参加してくださいました。お祝いを迎えられた神父様方に、心からお慶びを申しあげます。

 7月3日の午後2時から、大分教区の新しい司教、スルピス森山信三師の司教叙階式が執り行われます。森山司教様は1959年1月生まれですから、私とほぼ同い年です。森山司教様と大分教区のために、どうぞお祈りください。

 私も明日の朝早く、大分に向かい、叙階式に参加する予定です。なお、こちらのリンク先の大分教区ホームページに、司教叙階式の映像配信についての解説が掲載されています。3日の日曜日午後2時です。

 以下、本日午後6時配信の週刊大司教第八十三回、年間第十四主日のメッセージ原稿です。

【年間第14主日C(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第83回 2022年7月3日】

 パウロはガラテヤの教会への手紙に、「主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません」と記しています。同じパウロは十字架について、コリントの教会への手紙には、次のように記していました。

 「キリストが私を遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架が空しくならないように、言葉の知恵を用いずに告げ知らせるためだからです(コリントの信徒への手紙1・1章17節)」

 福音を告げるものが「言葉の知恵に」頼っていては「キリストの十字架が空しいもの」となる、と告げるパウロは、その十字架こそが、信仰者の唯一の誇りであるのだ、と強調しています。

 信仰者の唯一の誇りである十字架とは一体、何でしょうか。それは、神ご自身が自ら創造された命に対して、ご自分の慈しみの心を、ご自身を、いけにえとしてささげる、という目に見える具体的な行動として表した主の愛の心そのものです。

 ルカ福音には、イエスが72人を任命し、「ご自分が行くつもりの全ての町や村に2人ずつ遣わされた」と記されていました。福音を告げるように、と遣わされた宣教者は、神の支配の確立である平和を告げ知らせ、その告知は「病人の癒し」という具体的な行動を伴っていたことが記されています。

 同時に福音を告げるようにと遣わされることは、たやすいことではなくて、「狼の群れに小羊を送り込むようなもの」と主ご自身が言われるように、いのちの危機をも意味する数多の困難を伴う生き方です。まさしく主ご自身が十字架を持って具体的に証しされたように、福音を告げ知らせることも、命懸けの、具体的な愛の証しの行動であります。

 信仰者は、すべからく「福音を告げるように」と派遣されています。私たちは全て、福音宣教者であります。イエスは「ご自分が行くつもりの全ての町や村」へと弟子たちを派遣されました。その町や村は一体どこでしょうか。

 もちろんすべての命を創造され、世界を創造された御父にとって、その慈しみは、この世界のすべての命に対して向けられています。ですから、するべき事は山積しているのです。福音が伝わっていない町や村は、私たちの周囲を見ただけでも、いくらでもあるではありませんか。ですから、「収穫は多いが、働き手は少ない」とイエスは言われます。いま、その働き手が必要です。

 働き手は、誰でしょうか。誰か特別な人が司祭や修道者になれば、それで済むことなのでしょうか。召命を語ることは、ひとり司祭・修道者の召命を語ることにとどまるのではなく、すべてのキリスト者に対する召命を語ることでもあります。司祭・修道者の召命があるように、信徒の召命もあることは、幾たびも繰り返されてきたところです。

 第二バチカン公会議の教会憲章に、こう記されています。

 「信徒に固有の召命は、現世的なことがらに従事し、それらを神に従って秩序づけながら神の国を探し求めることである。自分自身の務めを果たしながら、福音の精神に導かれて、世の聖化のために、あたかもパン種のように内部から働きかけるためである」(31)

 弟子を2人ずつ遣わされたイエスは、「共に歩む教会」の姿をそこに明示します。互いに耳を傾けあい、互いに支え合い、互いに道を歩み続ける2人の弟子は、今、共に道を歩む教会に変わろうとしている私たちの模範です。福音を証しする人生を共に歩みましょう。

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2022年7月2日