・「安倍元首相に永遠の安息をーそして神の憐れみの心が支配する社会へ」菊地大司教の年間第15主日

2022年7月 9日 (土)週間大司教第84回:年間第15主日

 2021_07_04_008  安倍元首相が銃撃され亡くなられた,とのニュースを聞き、驚きとともに悲しみが湧き上がっています。安倍元首相の永遠の安息をお祈りいたします。

  命に対する暴力を働くことによって自らの思いを遂げようとすることは、命を創造された神への挑戦です。「神が賜物として命を与えられた」と信じるキリスト者にとって、命はその始めから終わりまでその尊厳と共に守られなくてはならない賜物です。

 今回の暴力的犯罪行為の動機は、これから解明されるのでしょうが、多くの人が自由のうちに命を十全に生きようとするとき、そこに立場の違いや考えの違い、生きる道の違いがあることは当然ですから、その違いを、力を持って、ましてや暴力を持って押さえ込むことは、誰にも許されません。

 暴力が支配する社会ではなく、「互いへの思いやり」や「支え合い」といった神の憐れみの心が支配する社会の実現を目指したいと思います。

 9日午後6時より、東京カテドラル聖マリア大聖堂では、東京教区の姉妹教会であるミャンマーの兄弟姉妹の皆さんと共に、ミャンマーの平和のために祈る集いが開かれます。こちらも配信をされることになっています。

 軍事政権が暴力を持って人々の自由を圧迫し、命の尊厳をないがしろにしているミャンマーの現状に心を馳せ、平和を祈ります。また昨日の安部元総理襲撃という事件がありましたので、全ての暴力を否定し、神の正義が支配する社会の実現のために祈ります。これについては別途また報告します。

 以下、本日午後6時配信の週間大司教第84回、年間第十五主日のメッセージ原稿です。

【年間第15主日C(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第84回】 2022年7月10日

 ルカ福音書は、よく知られた「善きサマリア人」の話を伝えています。

 律法の専門家のイエスに対する問いかけは、「これだけのことをすればこれだけの報いがあるはずだ」という、例えば、「労働の対価として、それに見合った報酬があるべきだ」というような意味合いで、正義の実現として正しい問いかけではあります。

 しかし、神と私との関係の中では、「これだけすれば、これだけ報いがあるはずだ」という論理は通用しません。なぜならば、神を信じるとは、「自分自身を神にゆだね、神が真理そのものであるため、神から啓示されたあらゆる真理に同意しながら、神ご自身に帰依すること」であって、それはつまり、「神からの一方的な働きかけに身を任せること」に他ならないからです。(「カトリック教会のカテキズム」の要約27)。

 神を信じることは、レストランでメニューから選択したら食事が出てくるような類いのことではなくて、神に帰依しているのですから、主体である神が望まれるように生きることであります。人生の様々な出会いの中で、神が私たちに、どのように行動することを望まれるのか、が問題であって、事前に用意されたメニューを選択することでは、決してありません。

 見事な回答をした律法の専門家に対して、イエスは、「よく知っているではないか。それでは、その神の望みを具体的に生きれば良い」と告げます。しかし律法の専門家は、事前に用意されたメニューにこだわります。「隣人の範囲は一体どこまでなのか」と問いかけています。

 善きサマリア人の話は、神が求められている慈しみの思いに心を動かされることなく、自らが事前に選択した道をひたすらに歩む二人の姿と、神の慈しみの心に動かされて、それを具体的に生きようとしたサマリア人の対比を描きます。

 教皇ヨハネパウロ二世は回勅「慈しみ深い神」に、神の慈しみについて記しています。

 「慈しみの本当の本来の意味は、ただ見ていること、どんなに深く同情を込めてであっても… 悪いことを見つめていることではなく… 世界と人間の中に実際にある悪いことから、よいものを見出し、引き出し、促進するとき(6)」に表れます。

 私たちに求められている憐れみ深い行動は、単に私たち自身の優しい性格によっているのではなくて、それは神ご自身の思い、張り裂けんばかりに揺さぶられている神の憐れみの心に、私たちが自分の心を合わせることによって促される行動です。

 神ご自身は、ただ傍観者として憐れみの心を持ってみているのではなく、自ら行動されました。自ら人となり、十字架での受難と死を通じて、ご自分の慈しみを目に見える形で生きられました。そこに、最初から用意されていたメニューはありません。

 慈しみそのものである神は、その愛に基づいて、信じるものが隣人への愛に生きるように促されます。一人ひとりの信仰者が促されると共に、教会は共同体としてその責務を担っています。

 教皇ベネディクト16世は、回勅「神は愛」に、「教会の全ての活動は、人間の完全な善を求める愛を表します。…愛とは、物質的な事柄も含めた、人間の苦しみと必要に応えるために教会が行う奉仕を意味します」と記して、教会全体が組織的に神の愛を具体化する行動を取るように促します。

 私たち一人ひとりの生活での出会いを通じて、また教会の組織を通じて、神の慈しみの心の思いを身に受けて、具体化して参りましょう。

(編集「カトリック・あい」)

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2022年7月10日