・「希望の道である平和!」-新年「世界平和の日」教皇メッセージ(2020.1.1)

第53回「世界平和の日」教皇メッセージ(2020年1月1日)「希望の道である平和――対話、和解、エコロジカルな回心」

1. 平和――障害や試練に直面する中で歩む希望の道のり

 平和は、尊い宝、私たちの希望の対象、全人類が切望してやまないものです。平和を望むことは実存的な緊張を伴う人間の姿勢であり、その望みがあるからこそ、現在がときに困難な状況にあっても、「私たちはそれを生き、受け入れることができます。そのためには、現在が目標へと導いてくれるものでなければなりません。私たちがこの目標を確信できなければなりません。そしてこの目標が、労苦して目指すだけの意味をもつものでなければなりません」(1)。このように希望とは、たとえ克服できそうもない障害に直面しても、わたしたちを踏み出させ、前に進む翼を与えてくれる徳なのです。

 私たち人間の社会は、ますます破壊力を増している相次ぐ戦争や紛争の傷を、その記憶とからだに受けています。戦争と紛争は、とくに、もっとも貧しく弱い人々に害を与え続けています。国全体で、憎しみと暴力に拍車をかける搾取と腐敗の連鎖から自らを解き放つのに難渋している国々もあります。今日でも、非常に多くの人が、老いも若きも、尊厳、身の安全、信教の自由を含む自由、共同体としての連帯、未来への希望を否定されています。罪もない無数の犠牲者が、侮辱や排除、死別の悲しみや不正義、さらには当然ながら、同胞や愛する人が組織的な攻撃を受けたことによるトラウマのために苦しんでいます。

 内戦や国家間の戦争という悲惨な試練は、情け容赦のない暴力によってますます深刻化しており、人類の体と心にいつまでも消えない傷痕を残しています。どの戦争も、人類家族の召命に刻みこまれた兄弟関係そのものを破壊する兄弟殺しにほかなりません。

 戦争は、多くの場合、相手の違いを受け入れられないことから生じていることは言うまでもありません。そうした不寛容は所有欲や支配欲を助長します。それは、利己主義、傲慢、憎しみによって、人間の心の中で生まれます。憎しみが、破壊に、相手を否定的なイメージで固めることに、相手の排除や抹殺に至らせるのです。戦争は、さまざまな関係の歪み、覇権への野心、権力の濫用、他者や異なるものを障害と見なすことで生じる恐怖心によってあおられます。そしてこれらすべてが、戦争によってさらにあおられるのです。

 先日の日本への司牧訪問で強調したように、逆説的ではありますが、「私たちの世界は、倒錯した二分法の中にあります。それは、恐怖と不信の心理から支持された偽りの安全保障を基盤とした安定と平和を、擁護し確保しようとしているからです。人と人の関係を毒し、可能なはずの対話を阻んでしまうものです。国際的な平和と安定は、相互破壊への不安や壊滅の脅威を土台とした、どんな企てとも相いれないものです。むしろ、現在と未来のすべての人類家族が、相互依存と共同責任によって築く未来に奉仕する、連帯と協働の世界的な倫理によってのみ実現可能となります」(2)。

 脅威にさらされた状況はことごとく、不信を助長し、自分の世界に引きこもるよう人々を仕向けます。不信と恐れは、決して平和的な関係に結びつかない悪循環で、関係性をもろくし、暴力の危険を増大させます。この意味では、核の抑止力も架空の安全をもたらすにすぎません。

 ですから、絶滅への恐怖で世界の安定を維持できるなどと、極めて不安定な状況の中で、核の深淵に立ち、無関心という壁の内側に閉じこもったまま、言い張ってはなりません。そうした場では、互いを大切にせずに、人や被造物を使い捨てにするという悲劇への道を開くような、社会経済的な決断がなされるのです(3)。それでは、どうしたら平和と相互尊重への道を切り開けるのでしょうか。どうしたら脅威と恐れに基づく不健全な論理を打ち破れるでしょうか。どうしたら現在蔓延している不信の流れを断ち切れるでしょうか。

 私たちは、神という共通の源に根差した、対話と相互信頼のうちに実践される真の兄弟愛を追い求めなければなりません。平和への願いは、人間の心に深く刻まれています。決して、それより劣るものに甘んじてはなりません。

2. 平和――記憶と連帯と兄弟愛に基づいた、耳を傾けるという道のり

ヒバクシャ――、広島と長崎に投下された原爆の生存者は、1945年8月に起こったことの恐ろしさと、今日までの筆舌に尽くしがたい苦しみを、次世代の人々に証言することで、共同意識の炎を今もともし続けています。彼らの証言は、どのような支配欲や破壊欲を前にしても人間の良心をさらに強固にするために、犠牲者の記憶を呼び起こし守っています。「現在と将来の世代に、ここで起きた出来事の記憶を失わせてはなりません。より正義にかない、いっそう兄弟愛にあふれる将来を築くための保証であり起爆剤である記憶」(4) をです。

 ヒバクシャと同じように大勢の人が、世界中で、記憶を守るための活動を次世代の人々のために行っています。それは、同じ過ちを再び犯さないため、あるいは過去の妄想的な企てを繰り返さないためだけでなく、経験の実りである記憶が、平和に向けた現在と未来の決断の根拠と刺激となるようにするためでもあります。

 記憶はさらに、希望の地平です。戦争や紛争の闇に何度覆われても、連帯の印をわずかでも受けたという記憶があれば、勇敢で、英雄的でさえある決断をくだすことができます。そして個人や共同体の中にまったく新しい力を生み出し、新しい希望の炎をともすことができるのです。

 平和の道のりを切り開いて進むことは、ますます複雑な挑戦となっています。個人、共同体、国家間の関係に付随する利害が多様で相反しているからです。何よりもまず道徳心と、個人の意思と政治的意思に働きかけなければなりません。平和はまさに、人間の心の奥底から現れます。そして、政治的意思は、つねに新たにされなければなりません。それにより、人々と共同体を和解させ一つにする、新たな道が開かれるのです。

 この世界が必要としているのは、空虚なことばではなく、確信にあふれるあかし人、排除も操作もなく対話に開かれた平和の職人です。実際、イデオロギーや異なる意見を超えて、真理を追い求める人々の間で納得のいく対話がなされなければ、本当の意味で平和を実現することはできません。平和とは、「たえず建設されるべきもの」(5)であり、絶えず共通善を追求し、約束を守り法を遵守する責任を果たしつつ、ともに歩む道のりです。互いに耳を傾け合うことによって、相手に対する知識と敬意は、敵の中に兄弟姉妹の顔を見るほどに深まるのです。

 ですから平和の歩みは、時間がかかる骨の折れることなのです。それは、真理と正義を求め、犠牲者の記憶を尊重し、報復よりもはるかに強い共通の希望に向けて一歩ずつ切り開いていくという、忍耐力を要する作業です。法に基づく国家では、民主主義がこの歩みにおける重要な枠組みとなります。ただしその民主主義が正義に根ざし、弱者や周縁に追いやられた人をはじめとする各人の権利を守る義務に根ざしたもので、真理がつねに追究されている場合においてです(6)。それが社会構築であり、各人が地域、国家、国際社会のあらゆるレベルで責任をもって貢献する発展なのです。

 聖パウロ六世が強調しているように、「二つの欲求、すなわち、平等の達成と責任ある参加の増進は、なんらかの形の民主主義社会の促進を求めます。……これは、社会における生活のために人々を教育することの重要性を示しています。社会教育において、個人の権利について教えるだけでなく、それに必然的に伴う義務、すなわち、他者に対する義務をも思い出させるのです。自分の義務の自覚とその実行は、個人または集団の自由に課せられている限界を認めると同時に、自己抑制の程度にかかっています」(7)。

 その逆に、社会の分断、格差の拡大、さらに全人的発展に必要な措置の排斥は、共通善の追求を脅かします。一方、言葉の力と真理の力に根ざした忍耐強い努力は、共感する力と、創造性をもって連帯する力を人々の中に呼び覚ますことができます。

 私たちは、自分たちを和解させるためにご自身のいのちを捧げてくださったキリストを、キリスト者としての体験を通してつねに思い起こしています(ローマ5・6-11参照)。教会は、キリスト教の価値観の伝達、道徳的な教え、さらには社会的・教育的活動を通して、正しい秩序を実現させるために全身全霊をかけて関わり、共通善のために尽くし、平和への希望を育み続けているのです。

3. 平和――兄弟姉妹の交わりにおける和解の道のり

聖書は、とりわけ預言者のことばを通して、人間と結んだ神の契約を、各人の心と諸民族に思い起こさせます。それは、他者を支配しようという欲望を捨て、互いを人間として、神の子として、兄弟姉妹として見られるようにするということです。発言や行動だけで相手を決めつけるのではなく、持っている可能性のゆえにその人を大切にすべきです。尊重する道を選んではじめて、報復の連鎖を断ち切り、希望の道に踏み出せるのです。

 私たちは、ペトロとイエスの間で交わされた次の会話を伝える福音によって導かれます。「『主よ、兄弟が私に対して罪を犯したなら、何回ゆるすべきでしょうか。七回までですか』。そしてイエスはいわれた『あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までもゆるしなさい』」(マタイ福音書18章21-22節)。この和解の道のりをたどるためには、赦す力と、互いを兄弟姉妹として認める力を、心の奥底に見いださなければなりません。赦しながら生きるすべを学ぶことにより、私たちは平和の人となる力をいっそう高めることができるのです。

 社会的領域における平和について言えることは、政治や経済の領域における平和にも当てはまります。平和の問題は、共同体の生活のすべての側面に浸透しているからです。ですから、より公正な経済システムを構築できなければ、真の平和は決して築かれません。10年前にベネディクト十六世が回勅『真理に根ざした愛』に記したとおりです。「低開発を克服するために必要な行動は、交換を基礎とする取引を改善し、公共福祉の構造を設けるだけでなく、何よりも、無償性と交わりに特徴づけられる経済活動を受容する姿勢を徐々に世界規模で増大させることです」(39)。

 

4. 平和――エコロジカルな回心の道のり

「私たちが自らの行動規範を誤って解釈し、自然の濫用を正当化したり、被造界に対して横暴に振る舞ったり、戦争や不正や暴力行為に手を染めたりすることがあったのであれば、私たち信仰者が認めるべきは、それによってわたしたちは、自分たちが守り保つよう招かれた知恵の宝に不忠実だったということです」(8)。

 私たちは、他者への敵意、共通の家への敬意の欠如、天然資源の濫用――地域社会や共通善、自然界にまったく配慮せずに、資源を目先の利益の手だてとしか、見なしていません――の結果に直面しており、エコロジカルな回心が必要です。

 先ごろ行われたアマゾン特別シノドスは、共同体と土地との間、現在と記憶との間、体験と希望との間での平和的な関係構築に向けた訴えを、革新的なしかたで行うよう、私たちを強く促しています。

 この和解の道のりは、神が共通の家とするようにと、私たちに与えてくださったこの世界に耳を傾け、観想することでもあります。天然資源、さまざまな形態のいのち、そして地球そのものは、まさに、「耕し、守るように」(創世記2・15参照)と、そして未来の世代のために、一人ひとりが責任をもって積極的にかかわるようにと、私たちに託されているのです。私たちはまた、他者との出会いや、創造主の美と知恵を映している被造物という、たまものの受容に向けて、自分たちの信念と観点をさらに開かれたものに変える必要があります。

 そうして初めて、共通の家に住むための、それぞれの多様性をもったまま互いに向き合うための、与えられ分かち合う命をたたえて大切にするための、生物をこれからも繁栄させ永続させることに優しい社会の条件と模範について考えるための、さらには人類家族全体の共通善を発展させるための、心からの意欲と新たな方法がもたらされるのです。

 ですから、私たちが訴えているエコロジカルな回心は、地球を与えてくださり、喜びと節度をもってそれを分かち合うよう繰り返し呼びかけておられる、創造主の惜しみのなさについて考えることを通して、新たなまなざしで命を見つめるよう、私たちを導いてくれます。この回心は、私たちと兄弟姉妹との関係、他の生物との関係、ありとあらゆる被造物との関係、すべての命の源である創造主との関係の変質として、完全な形で理解されなければなりません。キリスト者は、「イエス・キリストとの出会いがもたらすものを周りの世界との関わりの中で証し」(9)するよう求められているのです。

5. 希望するだけのものをすべて、勝ち得ることができる(10)

和解の道のりには、根気と信頼が欠かせません。平和は、望まなければ決して実現しません。

 それは何よりもまず、平和の実現を信じること、そして相手も自分と同じように平和を求めていると信じることです。そうして初めて、私たち一人ひとりへの、神の自由で、限りのない、無償で、飽くことのない愛によって導かれることができるのです。

 争いの源は、多くの場合、恐れです。ですから、私たちを愛してくださり、放蕩息子の父親のように待っていてくださる方(ルカ福音書15章11-24節参照)の前では助けを必要としている子どもであるという自覚をもって、人としての恐れを乗り越えることが重要です。兄弟姉妹の間の出会いの文化は、争いの文化を打ち砕きます。それはあらゆる出会いを可能にし、その出会いを寛大な神の愛からの贈り物とします。その文化は、私たちが狭い視野の領域を超え出るよう導き、天におられるただ一人の御父の子らとして、普遍的な兄弟愛のもとに生きるよう、常に私たちを励ましてくれます。

 キリストの弟子にとってこの道のりは、洗礼を受けた者の罪の赦しのために、主がお与えになる和解の秘跡によっても支えられています。個人と共同体を新たにする教会のこの秘跡は、「その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物を」(コロサイの信徒への手紙1章20節)ご自分と和解させたイエスを見つめ続けるよう呼びかけています。そして、隣人に対しても、神の被造物に対しても、思い、言葉、行いによるあらゆる暴力を放棄するよう求めているのです。

 父なる神の恵みは、無条件の愛として与えられています。キリストにおいて御父の赦しを受けた私たちは、現代に生きる人々にその恵みを差し出すために歩み始めることができます。聖霊は毎日、私たちが正義と平和の職人となるための姿勢や語り方を示しています。

 平和の神が私たちを祝福し、私たちを助けに来てくださいますように。

 平和の君の母であり、地上のすべての人の母であるマリアが、和解の道を一歩一歩進む私たちに寄り添い、支えてくださいますように。

 この世に生まれたすべての人が、平和な生活を味わい、心に抱く愛といのちの約束を十全に果たすことができますように。

 

バチカンにて 2019年12月8日 フランシスコ

(カトリック中央協議会訳=表記は一般に使われている日本語表記に改めてあります(「カトリック・あい」)

2019年12月31日

♰「イエス、マリア、ヨセフにならい、家族が互いに支え合うように」-”ケータイ家族”に警告

Pope Francis during the Sunday Angelus Pope Francis during the Sunday Angelus   (ANSA)

 

(2019.12.29 VaticanNews Francesca Merlo)

 教皇フランシスコは聖家族の祝日の29日正午の祈りの中の説教で、家族の一人一人が、なぜ互いに支え合うのかについて考察された。

 その中でまず、聖家族は「神の賜物」によるとともに、「神の計画を、自由に、責任をもって守っていく」ことによって聖とされ、「神のみ胸に心を開いていた」と指摘された。

*マリア

 聖家族の中でマリアについて、聖霊の働きに対する「従順さ」を取り上げ、「人は、どうすれば聖霊の働きに大きな驚きを持ち続けないでいられるのでしょうか?」と会衆に問いかけられた。

 マリアは、多くの若い女性と同じように「配偶者との深い交わりを通して彼女の人生の計画を固めようとしていた」。しかし、「神が自分に求めておられる使命を知った時、自分自身を『召使い』と宣言することをためらいませんでした」と語られた。

*ヨセフ

 ヨセフについては、「福音書は彼について一言も述べていない」とされたうえで、ヨセフは「言葉で語ることはしませんが、振る舞いを通して、(注:聖霊の業に)従った」とし、その例として、マリアが妊娠したことから、密かに離縁しようとした「慎重を要する時」を挙げられた。そして「彼のそうした選択は、神の計画の障害にならないように、マリアが神のみ旨をしっかりと守るために自由であるように、との配慮からされたのです」と説かれた。

*イエス

 聖家族の第三のメンバーはイエスだ。教皇はイエスを「神の御心」であり、聖パウロは「イエスには『はい』と『いいえ』の選択肢はなく、『はい』しかなかったと述べている、とされ、「それは、イエスの人生の初期に何度も表明されています」と指摘。具体的に、次の聖書の三か所を挙げられた。

ルカ福音書2章49節の神殿でのエピソードー心配して行方を探していた両親に対する「私が自分の父の家にいるはずだということを、知らなかったのですか」という問いかけ。ヨハネ福音書4章34節のイエスが弟子たちに語られた「私の食べ物とは、私をお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」という言葉。そして、マタイ福音書26章42節のゲッセマネでの「父よ、私が飲まない限りこの杯が過ぎ去らないのでしたら、御心が行われますように」という祈り。

 全ての出来事は、「このようなキリストの言葉と同じ言葉ーいけにえも供え物もあなたは望まず… その時、私は言いました。『ご覧ください。私は来ました。…神よ、御心を行うために』(へプライ人への手紙10章5-7節、詩編40章7-9節参照)ーが完全に実現されたのです」と説かれた。

*家族

 最後に教皇は、「ナザレの聖家族は、祈り、働き、対話していました」とし、「今日の家族たちは、互いに対話をしていますか、それとも同じテーブルに就きながら、一人ひとりが携帯電話を見ていますか」と会衆に問いかけられた。そして、「両親、子どもたち、祖父母、兄弟間の対話を取り戻さなくてはなりません」と強調。それを聖家族の祝日の課題として掲げられた。

 聖家族は「天の父の御心に対して『声を合わせて応える』家族の模範…  家族を構成する人々が神の計画を見出し、それを成し遂げるために、互いを際限なく助け合ったのです」とされ、聖家族を模範とし、「家庭の聖性の基礎」である福音をしっかりと守るために、世界の親たち、子供たちが互いに支え合うことができるように、と祈られた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

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2019年12月30日

♰「天の栄光は富や権力ではなく、愛と献身から」-聖ステファノ祝日に

教皇フランシスコ、2019年12月26日、バチカンでの正午の祈り教皇フランシスコ、2019年12月26日、バチカンでの正午の祈り 

 教皇フランシスコは26日-聖ステファノの祝日に、バチカンで正午の祈りの集いをなさった。

 カトリック教会の典礼暦は、主の降誕の祭日の翌日の12月26日、キリスト教の最初の殉教者、聖ステファノ助祭を記念する。

 教皇は、この日、バチカンで多くの巡礼者たちと共に正午の祈りを行われ、説教の中で聖ステファノの祝日の意義について話された。

 まず教皇は「降誕祭の喜ばしい雰囲気の中で、キリスト教の最初の殉教者を記念することは、一見ふさわしくない印象を与えます。しかし、信仰の眼差しでとらえる時、この殉教者の祝日は、クリスマスの真の意味と呼応するものなのです」と説かれた。

 そして、聖ステファノが殉教という至上の証しの時、天が開けるのを観想し、自分を迫害する者たちを赦したことを思い起こしつつ、「その殉教によって、愛は暴力に、命は死に打ち勝つことになりました」と話された。

 さらに、「聖霊に満ち、言葉だけでなく、特に行いをもってイエスを語り、その生涯と死を通して師イエスと似た者」となった福音の若き奉仕者、聖ステファノの学び舎で、「私たちも、御父の忠実な証しであるイエスを見つめ、天の栄光は富や権力ではなく、愛と献身からなることを学ぶように」と促された。

 教会の最初の7人の助祭の一人であったステファノは(使徒言行録6章1-6節参照)、福音的な兄弟愛と愛徳の業を通してキリストを告げることを私たちに教え、殉教によって頂点に達したその証しは「私たちのキリスト教共同体の刷新のための源泉… キリスト教共同体は、常にもっと宣教的に、希望と救いに渇くすべての人々のもとに福音をもたらすように召されています」とされ、「その共同体は、この世の論理を追わず、自分を中心に置くことなく、神の栄光と、小さく貧しい人々をはじめとする、すべての人々の善だけを求めるものでなくてはなりません」と強調された。

 最後に教皇は、キリスト教の最初の殉教者聖ステファノの祝日に、過去と現在のすべての殉教者たちを思い起こし、「彼らとの交わりを感じ、イエスの名を心と唇に保ちながら生きて死ぬ恵みを彼らに願うように」と呼びかけられた。

(編集「カトリック・あい」)

2019年12月27日

♰「世界中の苦しむ人たち、子供たちの為に祈ろう」-教皇が「ウルビ・エト・オルビ」で

 教皇フランシスコは25日正午(日本時間25日午後8時)、聖ペトロ広場を埋めた世界中からの信徒たちを前に、ローマと世界に向けたクリスマス・メッセージと祝福「ウルビ・エト・オルビ」を発出された。

 今年のテーマは「暗闇を歩む人々が素晴らしい光を見た」。「ウルビ・エト・オルビ」は、文字通り「都市へ、世界へ」を意味し、教皇は例年通り、世界中で苦しんでいる人々、国々に焦点を当て、私たちを救うために来られた主の平和を祈られた。

 教皇はまず、今年のメッセージのテーマに言及し、「人間の心には暗闇がありますが、キリストの光はそれよりも、もっと大きい… 個人、家庭、社会には暗闇がありますが、キリストの光はもっと大きい。経済的、地政学的、および生態学的な対立には暗闇がありますが、それよりも、キリストの光は大きいのです」と強調。

*中東に対して

 続いて世界の地域ごとの現状に移り、最初に「中東と世界の様々な国で戦争と紛争に苦しんでいる多くの子供たち」に注意を向けた。特にシリアについて、「過去10年以上にわたって、この国で続いている敵対に終わりの見えない、愛するシリアの人々」が慰めを受けるように祈り、各国政府と国際社会に「筆舌に尽くしがたい悲惨な状態を終わらせ、地域の人々が平和と安全の内に共存するための解決策を見つけように」と訴えた。

 また、「現在の危機を乗り越え、すべての人々の自由と調和のとれたメッセージとなる、という自分たちの使命を再発見する」ことに苦労しているレバノンの人々にも思いを向けた。

 聖地についても言及し、「非常に多くの人々が苦労しているが、落胆していない。平和、安全、繁栄の時を待っている」と願い、「現在の社会的緊張の中でイラク」と「深刻な人道危機に苦しんでいるイエメン」に慰めがもたらされるよう、と祈られた。

*アメリカ大陸に対して

 さらに遠くにアメリカ大陸に目を転じた教皇は、「多くの国が社会的および政治的激変の時代を経験している」とされたうえで、「ベツレヘムにお生まれになった幼子がアメリカ大陸全体に希望をもたらす」よう願われた。「長い間、政治的、社会的緊張の状態に置かれ続けたベネズエラの人々」のために、「彼らが必要とする助けが得られるように… 正義と和解を促進し、各人の尊厳を傷つける様々な危機と多くの形態の貧困を克服する努力を惜しまない人々が、祝福されますように」と祈られた。

*ウクライナに対して

 紛争で破壊されたウクライナに「世の救い主が、永続する平和のための具体的な解決策を切望する、この国の人々に、光をもたらしてくださいますように」と願われた。

*アフリカに対して

 アフリカについても、「不当な社会的、政治的状況が根強く残っているためにしばしば移動を余儀なくされる人々」のことを思い起こされ、天から地上に降りられた神の御子に「数々の不正のために、安全な生活を求めて移動を余儀なくされているすべての人々を守り、支えてください」と祈られた。

 そして、「彼らが命を落とすことになる砂漠や海を渡らせるのは不正です。言葉では言い表せない形の虐待、あらゆる種類の奴隷扱い、非人道的な収容所での拷問を、彼らに行うのは不正です。尊厳のある人生への希望を持つかもしれない場所から彼らを遠ざけ、無関心の壁の前に立たせるのは不正です」と強く批判。

 特に、コンゴ民主共和国の東部地域について「継続する紛争で引き裂かれている」とし、「救い主が暴力、自然災害、病気の発生のために苦しんでいるすべての人に慰めをもたらしてくださいますように。宗教を信じているために迫害されている人々、特に宣教師や拉致された信徒たち、特にブルキナファソ、マリ、ニジェール、ナイジェリアの過激派グループによる攻撃の犠牲者に慰めが与えられますように」と祈られた。

*全ての人が石の心を和らげるように

 最後に、教皇は、「エマニュエル(神の御子)が、私たち人間家族の苦しんでいる全ての仲間に光をもたらしてくださいますように。私たちの石のような自己中心の心を和らげ、愛の流れを作ってくださいますように。私たちの貧弱な顔を通して、世界中のすべての子供たちに見捨てられた人々と暴力に苦しむ人々に笑顔をもたらしてくださいますように」と祈られた。

 そして、さらに祈られた。私たちのひ弱な手を通して、「身に着けるもの​​がない人に服を着せ、飢えた人にパンを与え、病人を癒してくださいますように。取るに足らない私たちの友情を通して、高齢者と孤独な人々、移住者と社会の片隅に置かれた人々の側に来てくださいますように。この喜ばしいクリスマスの日に、すべての人に優しさをもたらし、この世界の暗闇を輝かせてくださいますように」と。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

 

 

 

2019年12月25日

☩「全ての人に救いをもたらす神の愛を受け取ろう」-降誕祭の深夜ミサで

(2019.12.24 Vatican News)

 2019年の降誕祭を迎え、教皇フランシスコは24日夜(日本時間12月25日朝)から、バチカンの聖ペトロ大聖堂で、深夜ミサを捧げられた。

 教皇はミサの中の説教で、神の恵み-すべての人に救いをもたらし、この夜、私たちの世界に輝くーについて語られた。

 この恵みを「神の愛、人生を変え、歴史を更新し、悪から解放し、心を平和と喜びで満たす愛」とされ、「この愛はイエスとして私たちに明らかにされました。イエスにおいて、いと高き方がご自身を小さくされました。私たちがその方を愛せるようにです」と語られた。そして、「すべてが得るために与えているように見える世界に、神はご自身の意思で降りてこられます。神の愛は取引をするようなものではありません」と言明。

 さらに、「クリスマスは、神が私たちすべて、私たちの中で最も悪い者さえも、愛し続けておられることを思い起こさせてくれます… それは、私たちが神の目にはかけがえのない者だからです。神の愛は無条件です。私たちに左右されません… 私たちが善良であれば神は喜ばれ、悪いなら私たちを罰されると、どれほど頻繁に私たちは考えるでしょうか」と問いかけられ、「でも、それは神のなさり方ではありません… 神の愛は変わることがない。気まぐれではありません。それは忠実であり、忍耐強いのです」と強調された。

 そして「『神に恵み』は『素晴らしさ』と同じ意味を持ちます」とされ、神の愛の素晴らしさの中で「私たちも自分の素晴らしさに気づきます。私たちは神に愛されているからです… 神の目には、「私たちがすることではなく、私たちの存在が、素晴らしいのです」と語られた。

 また教皇は、「幼子イエスを深く思い、私たちが、神の優しい愛に包まれるように」と促され、クリスマスに当たって、次のような問いかけをされたー「自分自身を、神に愛されるようにしますか?私たちを救いに来られる神の愛のために自分自身を捧げますか?」。

 神の恵みという贈り物を受け取ることは、「感謝する用意ができている、ということを意味します… 今日は、聖櫃、飼い葉おけの中の幼いキリスト、飼い葉おけ、に近づき、ありがとうございます、と言うのにふさわしい日です。イエスという贈り物を受け取りましょう。私たちが、イエスのような贈り物となるために。贈り物となるということは、人生に意味を与えることです。そして、それが、世界を変える最良の方法なのです」と強調された。

 教皇は続けて、「イエスは言葉の洪水で歴史を変えたのではなく、ご自身の命という贈り物によって変えられました。イエスは私たちを愛する前に、私たちが善い者となるまでお待ちになりませんでした… 同じように、私たちが隣人に善いことをするのに、彼らが善い人になるのを待つべきではありません。私たちが教会を愛するのに、教会が完全なものとなるのを、私たちが他の人々に奉仕するのに、彼らが私たちに敬意を払うのを、待つべきではありません」と訴えられた。「私たちから始めましょう… それが、恵みの贈り物を私たちの意思で受け取ることを意味します」と。

 最後に教皇は「イエスがお生まれになった時、羊飼いたちは、さまざまな贈り物を持って馬小屋に急いだ」という福音書の場面を取り上げられた。

 ー彼らの中には、とても貧しくて、贈る物が無い羊飼いもいた。彼は、皆が競って贈り物を捧げる中で、離れた所に立ち、恥ずかしい思いをしていた。一方で、聖ヨセフと聖母マリアは、沢山の贈り物を受け取るのに苦労していた… とくにマリアは、生まれたばかりの幼子の世話で忙しかった。それで、ヨセフは、その手の空いている羊飼いを知って、飼い葉おけの側に来て、イエスを抱いてくれるように頼んだ。

 「羊飼いは喜んでその頼みを受け、そして、自分には値しないものを受け取ったこと、自分の腕に最も素晴らしい贈り物を手にしたことを知りました。彼は自分の手を見つめました」と語られた。

 そして「兄弟姉妹の皆さん、もしも、あなたの手が空いているように思われたら、あなたの心に愛が足りないことが分かるでしょう。今夜はあなたのためのものです。神の恵みが、あなたの命を輝かすために現れました。それを受け取りなさい。クリスマスの光があなたの中に輝きます」と呼びかけられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2019年12月25日

♰「ヨセフは主へのゆるぎない信仰、信頼の模範」-キリスト誕生の日を目前にして

(2019.12.22 Vatican News Linda Bordoni

 教皇フランシスコは待降節最後の日曜日の22日、正午の祈りの説教で、ミサで朗読されたマタイ福音書1章18-24節を題材にとり、主への揺るぎない信仰と信頼の模範としてヨセフに目を向けるよう求められた。

 教皇はまず、ヨセフについて、「一見したところ、主役に準じる立場にあるようですが、その態度にはキリスト教徒の知恵のすべて含まれています」と語られ、彼が洗礼者ヨハネ、マリアと共に、待降節の典礼が取り上げる登場人物の1人であることを思い起こされた。

 この三人のうちで、ヨセフは最も謙虚であり、「説教をすることも、話もしませんが、神の御心を実行しようとします。そして、福音的な仕方で、(山上の垂訓の)至福の教えにあるような柔和で謙虚な仕方で、意志を完遂… 彼の貧しさは、すべての信頼を置く神にすべてを頼ることを知っている人々の典型といえるものです」とされた。

 そして、ヨセフは、この驚くべき知らせに直面して、当然のことながら動揺したが、「衝動的、あるいは反発的に対応する代わりに、愛するマリアの尊厳と高潔さを大切にした解決策を探すのです」と教皇は指摘された。

 福音書には「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」(マタイ福音書1章19節)とあり、「ヨセフは婚約者であるマリアを否認した場合、彼女は、重大な事態、死に追いやられるかも知れないことを、よく知っているからです… ヨセフは妻として選んだマリアを完全に信頼しています。(注:マリアが聖霊によって身ごもっていることを)理解していないが、解決策を求めます」と教皇は語られた。

 そして、この説明できない状況は、ヨセフに二人の関係への疑問を抱かせ、「問題が表面化しないようにして、マリアと離縁することを決意します」。 しかし、「主の天使が彼の夢に現れて、そのような解決策は神の意志ではないことを告げます。むしろ、主があなた方に、新たな一致、愛、幸せへの道を開いておられるのだ、と彼に語りかけます。『ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのです』と」と説かれた。

 「この時点で、ヨセフは神に対する完全な信頼を示しました。天使に従い、マリアを家に連れて行きます… まさに神に対するこの揺るぎない信頼が、人間的に困難で、ある意味で理解できない状況を受け入れることを可能にしたのです」と教皇は語った。

 そうして、ヨセフは、信仰を通して、マリアの胎内に宿った赤ん坊が自分の息子ではなく、神の子であることを理解し、地上の父権を行使することで、神の子の守護者になる。「この善良で、柔和で賢明な人の先例は、私たちに、視線を上げ、先を見、神の驚くべきお考えに信頼することーそれは、新たな地平、キリスト、そして御言葉への開かれた心にあること-を教えてくれます」と結論づけられた。

 そして次のように祈られたー「聖母マリアと彼女の貞潔な配偶者ヨセフ、私たちの所においでになるイエスに耳を傾けるのを助けてください。イエスは、私たちの計画と選択にご自身を取り込むことを願われています」。

 最後に、教皇は「クリスマスまであと三日、祝いの日々に集まった家族の皆さん、両親から遠く離れて住み、家に戻る人たち、一緒に過ごそうと努める兄弟姉妹たちに、私は心を向けます。クリスマスが、全ての人にとって友愛の時となりますように。信仰を成長させ、助けを必要としている人たちへの連帯した行動の機会となりますように」と希望された。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

 

2019年12月23日

♰「教皇庁は現実から離れたものであってはならない…改革のカギは福音宣教省、広報省、人間開発省」-バチカンの高位聖職者たちへ

教皇フランシスコ、バチカンの高位聖職者らと降誕祭前の集い 2019年12月21日教皇フランシスコ、バチカンの高位聖職者らと降誕祭前の集い 2019年12月21日  (Copyright 2019 The Associated Press. All rights reserved)

(2019.12.21 バチカン放送)

 教皇フランシスコは21日、バチカンの高位聖職者らと降誕祭前の挨拶を交換された。

 バチカン宮殿のクレメンスの間で行われたこの恒例の集いには、日ごろ教皇の協力者としてバチカンの諸組織で働く枢機卿や、司教たちが一堂に会し、教皇は挨拶で、現在取り組んでいる教皇庁内の組織改革を主なテーマに話された。

 まず、改革の狙いについて、「改革のための改革でも、流行を追うためのものでもありません。発展と成長はこの世と人間の生活の特徴である一方で、信仰の眼差しで眺める時、そのすべての中心には神という安定性を持ちます。そうした確信による改革なのです」と強調。

 「聖書の歴史は、アブラハムやイエスに見るように、すべてが一つの歩みであり、神の民の歴史=教会の歴史は、常に出発や移動や変化に満ちていました」とされ、その歩みには「留まるために旅立つ」「忠実でいるために変化する」というパラドックス的な心の動機を見出すことができる、と指摘された。

 そして、教皇庁改革の推進は「今までのものがまるで無であったかのような思い上がりによるものではなく、教皇庁の複雑な歴史の中でよく作られたものにより価値を与え、しっかりした基礎の上に未来を築くためのもの」と語られた。

 現在、遂行中の改革の中でも、「教会の最も重要な使命である宣教に関わる福音宣教省」「バチカン内の様々な広報機関やメディアを一つに統合した広報省」「福音の光の下に人間の総合的発展を推進するという教会の召命を担う人間開発省」などを具体的に挙げて、その意義を説明。「これらの改革の目的は、教皇庁のすべての組織が今日の世界の宣教に適したパイプとなるためであり、そのためには司牧的回心が必要です」と話された。

 さらに教皇は「教皇庁は現実から離れたものであってはならず、現代の人々の歩み、時代の変化において、創り出され、生きていくものでなければなりません」「ローマ教皇庁は、福音の統合性を生きれば生きるほど、いのちを得たからだとなることができるのです」と説かれた。

(編集「カトリック・あい」)

2019年12月22日

♰ 「兄弟姉妹の絶望の叫びに耳を傾けて」教皇、難民たちとの集いで

 

教皇フランシスコと難民たちとの出会い 2019年12年19日教皇フランシスコと難民たちとの出会い 2019年12年19日  (Vatican Media)

(2019.12.19 バチカン放送)

 教皇フランシスコは、12月19日、ギリシャの難民キャンプからローマに到着した難民たちとの集いをもたれた。お会いになったのは、最近、レスボス島のモリア・キャンプから「人道回廊」によって、ローマに到着した33人で、うち14人は未成年者、十数人はキリスト教徒。難民の救援にあたるグループや聖エジディオ共同体のメンバーも参加した。

 集いでは、関係者から、アクリル素材で包まれ十字架にかたどられた一枚の救命胴衣が教皇に託された。この救命胴衣は、今年7月、海上で行方不明になった一人の難民が身に着けていたもので、胴衣だけが地中海を漂流しているのを発見された。

 教皇はこの「十字架を背負う救命胴衣」を、「不正義によって祖国を離れざるを得ず、不正義によって旅の果てに海で命を落とした多くの犠牲者たちの苦しみの象徴」とされた。そして、その十字架の透明さは、私たちに、常に真理を注意深く見つめ、探し求めるよう促し、その光は復活における私たちの信仰を励ましています」と述べられた。

 そして、「『人命を救うことは、信仰を持つ人、持たない人を一致させる倫理的義務』だということを、目と心を開いて思い出すよう、この救命胴衣を今回の集いが行われた場所に掲げたい」と強調。

 「どうして多くの兄弟姉妹の絶望の叫びに耳を傾けないでいられるでしょうか。私たちの怠りは罪です」とされ、「無関心でいることをよしとせず、困難にある人を助ける決意を持った人々」に感謝されたたうえで、「難民船を阻止することだけでは問題は解決しません」と語られた。

 また教皇は具体的な対応として、「リビアの難民収容キャンプを空にすることを目指し、移民の取り引き・搾取をする者を糾弾し、追跡し、人命を経済利益よりも優先させること」を挙げられた。

(編集「カトリック・あい」)

 

2019年12月20日

♰「プレゼピオの前で、一年の出来事や、希望、不安を分かち合おう」-一般謁見で

教皇フランシスコ、バチカン・パウロ6世ホールでの一般謁見 2019年12月18日教皇フランシスコ、バチカン・パウロ6世ホールでの一般謁見 2019年12月18日  (Vatican Media)

(2019.12.18 バチカン放送) 教皇フランシスコは18日、バチカンのパウロ6世ホールで水曜恒例の一般謁見を行われ、プレゼピオ(”飼い葉おけ”-イエスの降誕の場面を再現した馬小屋の模型)をテーマに講話をされた。

 まず教皇は、「降誕祭が近づき、人々が”お祝い”の準備に走り回る今、クリスマスの『主役』である方の誕生を、私たち自身はどのように準備しているか、省みる必要があります」とされ、「クリスマスを迎える精神的な準備を行うための、シンプルで効果的な方法は、プレゼピオを作ることです」と語られた。

 教皇は、今年のクリスマスの準備期間である待降節を迎えて、アッシジの聖フランシスコによって最初の「プレゼピオ」が作られたグレッチョを巡礼され、プレゼピオの伝統の意味を思い起こさせるための書簡を発表されている。

 教皇は、プレゼピオは「生きた福音書のようなもの」であり、「家や、学校、職場、病院、養護施設、刑務所、広場など、人々が暮らす場所に福音をもたらすもの」「『神は天で見えない状態に留まることなく、地上に来られ、人となられた』という本質的なことを、私たちに思い起こさせるもの」。だから、「プレゼピオを作ることは、神が近くにおられることを祝うことなのです」と説かれた。

 プレゼピオの幼きイエス像の中には、両腕を広げている姿のものもあるが、「それは、『神が私たち人類を抱擁するために来られたこと』を表しています… プレゼピオの前で、自分の暮らしを主に打ち明け、心に抱える人や物事について話し、過ぎた一年の出来事や、希望、不安を分かち合うのは、素晴らしいことです」と語られ、イエスの隣のマリアとヨセフの姿から、「私たちは、幼子イエスがお生まれになった時の、彼らの貧しさ、喜び、苦しみなどを想像でき、プレゼピオと共に、私たちは聖家族を自分たちの家に招くことができるのです」とも話された。

 さらに「プレゼピオとは、家庭の中の福音である」と述べた教皇は、プレゼピオという言葉が「飼い葉桶」を、イエスがお生まれになったベツレヘムは「パンの家」を意味し、「プレゼピオは、イエスが私たちの糧、命のパンであることを伝え、イエスは私たちの愛を育み、家族が前進し、赦し合う力を与えてくます」と説かれた。

 また、プレゼピオが与えてくれるもう一つのことは「観想への招き」であると話され、「プレゼピオは、せわしないリズムで暮らす私たちに、立ち止まることの大切さを思い起こさせます。実際、私たちは自分自身を省みる時のみ、人生で本当に大切なものを受け入れることができるのです」と語られた。そして、「世界で多くの武器が製造され、たくさんの暴力的な映像が目や心に入ってくる日常に対し、プレゼピオは平和を創りだすもの」と強調。

 プレゼピオでは、羊と共にいる羊飼いや、鉄を打つ鍛冶屋、パンを作る人など、様々な生活の場面を見ることができ、「私たちの暮らす風景や地域の状況が、そこに反映される」こともあるが、『イエスが私たちの具体的な生活の中に入って来られた』ということを思い起こすためにも、それは当然のこと… プレゼピオは生活そのものの意味をも教えてくれるのです」と話された。

 最後に教皇は、「主は私たちと共に住まわれ、毎日の生活の中で私たちはもう一人ぼっちではありません」「魔法のようには物事は変わらないが、主を受け入れるなら、すべてのことを変えることができるのです」と語り、プレゼピオを作り、生活の中にイエスを招くよう、信者たちを促された。

(編集「カトリック・あい」)

 

2019年12月19日

・教皇フランシスコ、83歳の誕生日を迎える

(2019.12.18 Vatican News)

 教皇フランシスコが17日に83歳の誕生日を迎えられ、世界中の信徒たちから、心からのお祝いの言葉が大量に寄せされた。

  12月は教皇フランシスコにとって重要な意味を持つ月。数日前には司祭叙階50周年を迎え、17日は83歳の誕生日。世界の子供たちからの「おめでとう」の手紙とともに、何千ものお祝いのEメールが教皇の下に届けられた。一般信徒たちのSNSを使った祝電は何百万通に達し、世界中からも宗教指導者たちも含め祝福のメッセージが届けられ、その中には、前教皇のベネディクト16世からのものもあった。

 

 

2019年12月18日

♰「喜びのイエスをお迎えするために、心の部屋を開けておこう」-正午の祈りで

Pope Francis during the AngelusPope Francis during the Angelus 

 (翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

 

2019年12月16日

♰「慈しみとは、第一に人々の傷をいやすこと」 教皇フランシスコ、司祭叙階50周年を祝う

(2019.12.13 バチカン放送)

 教皇フランシスコは13日、司祭叙階から50周年を迎えられ、枢機卿団をはじめ、多くの人々からお祝いの言葉を受けられた。

 教皇フランシスコ(ホルヘ・マリオ・ベルゴリオ)は1969年12月13日、コルドバのラモン・ホセ・カステジャーノ大司教により司祭に叙階された。33歳の誕生日を迎える4日前のことであった。

ベルゴリオ神父が司祭への召命を心に受け止めたのは、その15年以上前の1953年9月21日、聖マタイ使徒福音記者の祝日だった。告解の最中に「神の深いいつくしみを体験した。その大きな喜びが、司祭になることで、永遠に自らを神に捧げようという決意を励まし続けた」という。

司祭叙階から、曲折を経て、ブエノスアイレス大司教、枢機卿への任命、コンクラーベを経て今日に至る、教皇の50年間の司祭職を特徴づけてきたのは、この「神の慈しみ」だった。人々と共にいて、神の憐みを証しすることを、しばしば「慈しみの時」と呼んでこられた。数年前のローマ教区の主任司祭たちとの会合で、教皇は司祭としての心構えについて次のように話されている。

「司祭は他の人々に自らを捧げながら、騒ぎたてることなく、共同体の毎日の生活に完全に没頭する必要があります… イエスが、飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている群衆を見て深く憐れまれたように、司祭も羊たちを前に心を動かされなければなりません。善い牧者の姿に倣い、司祭は、自分に託された人々のそばにいて、皆に奉仕しながら、慈しみと憐みの人とならなければなりません。…いかなる事情でも、人生に傷ついた人を見たら、その人に関心を持ち、耳を傾けなければなりません… 癒すべき傷が、たくさんの傷があるのです。物質的な問題や、教会の中にもある、スキャンダルで傷ついている人がたくさんいます… 人々は世の幻想に傷ついているのです。私たち司祭は、そこに、その人々の近くにいる必要があります。慈しみとは、第一に傷をいやすことなのです」(2014年3月6日、ローマ教区の主任司祭たちとの出会い)

(編集「カトリック・あい」)

 

 

2019年12月14日

♰「現代の殉教者たちの存在を心に留めるように」

Pope Francis at the General Audience of 11 December, 2019. Pope Francis at the General Audience of 11 December, 2019.   (Vatican Media)

(2019.12.11 バチカン放送)

 教皇フランシスコは11日、バチカンのパウロ6世ホールで、水曜恒例の一般謁見を行われ、謁見中の「使徒言行録」を用いたカテケーシス(教会の教えの解説)で、使徒パウロがアグリッパ王の前で自身の回心と使命を語る場面を取り上げられた。

 使徒パウロの宣教の旅が進むにつれて、彼の試練と苦しみも増していく。

 教皇は「パウロは異教徒の間で新しいキリスト教共同体を生み育てる、熱意にあふれた宣教者であるだけでなく、復活の主を苦しみと共に証しする存在でもある」と話された。

「使徒言行録」21章に記されるように、エルサレムでパウロは扇動された民衆に捕えられた。こうしてエルサレムは、イエスにもそうであったように、パウロにとっても敵意に満ちた場所となった。神殿の境内から引きずり出されたパウロは、はじめは最高法院で、次に総督の前で、最後にアグリッパ王の前で弁明することになった。

 教皇は、ルカは「使徒言行録」の中で「パウロとイエスのどちらも、敵対者から憎まれ、公の場で訴えられ、ローマ帝国の当局から無実を認められたという、両者の類似性を浮き上がらせています」と指摘。このように、「パウロは師イエスの受難に自分自身を連ね、彼の受難は生きた福音となっていくのです」と話された。

 教皇はここで、この朝、ウクライナのビザンチン典礼・ムカチェヴォ教区の巡礼団と交流されたことを紹介。「迫害の中でも、自らの信仰において決して妥協することなく、福音のために苦しんだ人々の模範」として示された。そして、「今日もヨーロッパや世界で、信仰のために命を捧げる人々、疎外されて苦しむ人々が多くいます」と述べつつ、「現代の殉教者たちの存在を心に留めるように」と促された。

パウロは無罪を証明するために、古代ユダヤの領主アグリッパ王の前に引き出されることになったが、その弁明は説得力にあふれた信仰の証しへと変わっていった。回心のいきさつを語ったパウロは、復活の主によってキリスト教徒とされ、民と異邦人の「目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、彼らがキリストへの信仰によって、罪の赦しを得、聖なる者とされた人々と共に恵みの分け前にあずかるようになるため」(参照:使徒言行録26章18節)に遣わされたと、自らの使命を説明した。

そして、パウロは「メシアが苦しみを受け、また、死者の中から最初に復活して、民にも異邦人にも光を語り告げることになる」(同23節)と説いた。パウロの情熱的な証しは、アグリッパ王の心に触れ、彼は「短い時間でわたしを説き伏せて、キリスト信者にしてしまうつもりか」(同28節)とパウロに言った。

 「パウロは何も悪いことはしていない、とアグリッパたちは認めましたが、彼が釈放されることはなかった。パウロは皇帝に上訴していたため、ローマへ送られ、留まることのない神の御言葉の旅は、ローマへと続いていくことになったのです」と教皇は語った。

 さらに、「囚人パウロが繋がれていた鎖、それは彼の福音に対する忠実を象徴するものでした… 私したちが信仰に再び活力を取り戻し、キリスト者としての召命にどこまでも忠実でいられるように」と使徒パウロの取り次ぎをもって祈られた。

(2019.12.11 Vatican News Robin Gomes)

During his General Audience on Wednesday, Pope Francis held up the figure of St. Paul as a model for Christians saying suffering, persecution and martyrdom are a sign that they are walking in the footsteps of the Lord.
Even today Christians are being persecuted and marginalized, Pope Francis said in his catechesis, adding, it is a blessing to be a witness of martyrdom.

The Pope reflected on the “seal of suffering” that increasingly marked the life of St. Paul as recounted in the Acts of the Apostles. The intrepid missionary is not only an ardent evangelizer among the pagans but he is also the suffering witness of the Risen One.

Passion of Christ and Paul

Upon his arrival in Jerusalem, Paul is met with “ferocious hatred” with people saying he was a persecutor who is not to be trusted. As it was for Jesus, Jerusalem also becomes hostile to Paul.  He was led out of the temple to be lynched but was saved by the Roman soldiers. Accused of teaching against the law and the temple, he was arrested and began his journey as a prisoner to various authorities of the region.

The Pope drew attention to similarities between Paul and Jesus. Both were hated by their adversaries; accused publicly, both were found innocent by the Roman authority; Paul is associated with the passion of his Master and his passion becomes a living Gospel.

Today’s martyrs of faith

The Pope noted that Christians continue to suffer for the sake of Christ even today. Just before the General Audience, he said, he met a group of Ukrainian pilgrims, who suffered for the Gospel without negotiating their faith.

“Today in the world, in Europe,” the Pope pointed out, “many Christians are persecuted and they give their lives for their faith, or are persecuted with white gloves, that is, left aside, marginalized.” “Martyrdom,” he stressed, “is the air of the life of a Christian, of a Christian community.”

“There will always be martyrs among us: this is the sign that we are on the path of Jesus.” “It is a blessing from the Lord, that among the people of God, there be some witness of martyrdom,” the Pope said.

Witness of faith

Called to defend himself against accusations in the presence of King Agrippa II, the Pope explained, Paul’s apology turns out to be an effective witness of faith, the Pope said.

Paul narrated his own conversion and how the Risen Christ entrusted him with the mission among the nations. In carrying out this task, the apostle showed how the prophets and Moses foretold that Christ should suffer and that, “as the first to rise from the dead, He would proclaim light both to the people and to the Gentiles”. Paul’s passionate witness touched the heart of the King, who lacking the decisive step, replied, “You will soon persuade me to play the Christian.”

Chains – sign of faith

Paul was declared innocent, but could not be released because he had appealed to the Roman Emperor. Thus, the Pope said, the unstoppable journey of the Word of God continued to Rome, where Paul ended up in chains.

Pope Francis noted that because of this, Paul is portrayed as a prisoner whose chains are the sign of his fidelity to the Gospel and his testimony to the Risen One. For Paul, as Pope Benedict XVI noted, faith is not a theory or an opinion on God and the world but is the impact of God’s love in his heart and his love for Jesus Christ.

Pope Francis concluded, urging Christians to pray for the grace to persevere in their faith amid trials, seeing everything with the eyes of faith and being faithful to their vocation as disciples and missionaries of the Lord.

 

2019年12月12日

♰教皇フランシスコの「無原罪の聖母への崇敬の祈り」

(2019.12.8 カトリック・あい)

 教皇フランシスコは無原罪の聖マリアの祝日の9日、ローマ市内のスペイン広場においでになり、以下の祈りを唱えられた。(Sr.岡による試訳)

けがれのないマリアよ、

 私たちはまた、あなたの周りに集まりました。

 人生の歩みを進むほど、神への感謝は増します、

罪人である私たちに、「けがれのない方」よ、あなたを、母を与えてくださったことを。

すべての人間の中で、あなたは唯一罪から守られました、世の罪を取り除く「神の小羊」、イエスの母として。

 しかし、このあなたの並外れた特権は、あなたの子である私たちすべての善のために、あなたに与えられました。

実際、あなたを見つめながら、私たちはキリストの勝利を見ます、神の愛の、悪に対する勝利:罪が増したところ、つまり人間の心の中に、恵みが満ち溢れました、
イエスの御血の、柔和な力を通して。

 母であるあなたは、私たちに思い起こさせます、私たちが罪人であることを、しかし、もはや罪の奴隷ではないことを!

 あなたの御子は、ご自分の「いけにえ」をもって、悪の支配を打ち砕き、世に勝ちました。

これは、すべての世代に語り伝えます、風がすべての雲を散らした天のように澄んだ、あなたの心を。

 このようにして、あなたはわたしたちに思い出させます、罪人であることと、堕落した人であることは同じではないことを:それはまったく異なります。

一方は、転んで、しかしその後、悔い改め、神のいつくしみの助けとともに再び起き上がること。他方は、悪との、偽善的な共犯、心の腐敗、それは、外側は非の打ちどころなく思われますが、内側は、邪悪な意図と、けちくさい利己主義で満ちています。

 あなたの澄み切った清さは、私たちに、率直さ(誠実さ)、透明さ、単純さを呼び起こします。

私たちは、どんなに必要としているでしょうか、最も深刻な危険である、心の腐敗から解放されることを!

それは、慣れて(中毒になって)しまっている私たちには、不可能に思われます、

 けれどそれは、すぐ近くにあります。あなたの母のほほえみに、あなたのけがれのない美しさに、まなざしを上げれば十分です、

私たちが、悪のために造られたのではなく、善のために、愛のために、神のために造られたということを再び感じるために!

 そのために、おとめマリアよ、今日、私はあなたに委ねます、

この街の、そして全世界の、不信によって、罪による落胆によって抑圧されているすべての人々を;

自分のために希望はないと思っている人々、自分の過ちが大きすぎると思っている人々、神は、自分のために時間を無駄にするわけはないと思っている人々を。

あなたに彼らを委ねます、あなたは母であるだけでなく、母として、あなたの子らを愛することを決して止めないだけでなく、「けがれのない方」、恵みに満ちた方でもあり、最も濃い闇の内側から、「復活したキリスト」の光の光線を反映させることが出来るのですから。

 キリストが、そしてキリストだけが、悪の鎖を打ち砕き、もっとも執拗な依存から解放し、もっとも凶悪な絆を解き、もっとも頑固な心を柔らかくします。

そして、もしこれが、人々の内側で起こるなら、街の表情はどんなに変わるでしょうか!
小さなジェスチャー(行為)と、大きな選択において、悪循環は、少しずつ徳の循環となり、生活(いのち)の質はより良くなり、社会的風土は、より呼吸しやすくなります。

 けがれのない母よ、あなたに感謝します、

 私たちに思い起こさせてくださることを、イエス・キリストの愛を通して、わたしたちがもはや罪の奴隷ではなく、自由であること、自由に愛し、大切にし合い、兄弟として助け合うことが出来ることを、
たとえ、私たちは異なっていても―神のおかげで、わたしたちは異なっています!

感謝します、

 あなたは純白さをもって、私たちを力づけてくださるから、善を恥ずことなく、悪を恥じるように;

私たちを助けてくださるから、欺きをもって私たちを引き寄せ、その内側は死である邪悪なものから、遠ざかるように;

私たちに、甘美な記憶を与えてくださるから、

私たちが、計り知れないやさしさの「父」、いのち、美、愛の永遠の源である神の子らであるという記憶を。アーメン。

2019年12月9日

♰「私たちの生活のすべてを、神への『はい』とするように」-無原罪の聖マリアの祭日に

(2019.12.8 バチカン放送)

 無原罪の聖マリアの祭日の8日、教皇フランシスコは、バチカンで正午の祈りの集いを行われ、その中の説教で、「無原罪の聖マリアの祭日が待降節の中に位置づけられていることに特別な意味」について語られた。

 教皇は、無原罪の聖マリアの祭日は、「主の御母となられるマリアが、ご自分の母の胎内に宿った瞬間に、すでに神の聖化する愛で満たされ、人類が背負う原罪の汚れから守られていたことを祝うもの」と説明された。

 この日のミサで読まれたルカ福音書の「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる」(1章28節)というマリアへの天使の挨拶を観想され、「この天使の言葉にあるように、神はその深遠なご計画によって、マリアが恵み-すなわち神ご自身の愛-で完全に満たされた者であるよう、常に考え、望まれていたのです… 神の恵みに完全に満たされるためには、自分自身を空にしなければなりませんが、マリアは、神の御言葉に耳を傾け、神の御旨に完全に信頼し、その御旨を恐れず、自分の人生に受け入れることを知っていました」と語られた。

 さらに、「マリアにおいて、御言葉は肉となられましたが、それは受胎を告知する天使に対して答えた『私は主の仕え女です。お言葉どおり、この身になりますように』(同38節)というマリアの承諾の『はい』があったからこそ可能となったのです」と強調。

 こうして、神のご計画に完全に応えながら、マリアはあまねく美しく聖なる存在となったが、「そこには、ひとつの自賛もなく、神の「傑作」でありながら、謙遜で、小さく、貧しい者として留まり、神の素晴らしさ、すなわち神の愛と恵みと献身を反映する存在となられました」と説かれ、実際、マリアが自身を「主の仕え女」と呼び、最初から奉仕の態度を示し、受胎告知を受けた直後にエリザベトを訪問した出来事に見られるように、「他の人が必要としていることに気を配る態度」に注目された。

 最後に教皇は「私たちが、自分の生活の全てを、神への『はい』とするように、神への崇敬、愛と奉仕の振る舞いによる『はい』とするように」と無原罪の聖母に祈られた。

(編集「カトリック・あい」=聖書からの引用は「聖書協会 共同訳」を使用しています。今回は従来の日本語訳聖書では「はしため」という言葉が使われていた箇所を「仕え女」としてあります。これは、前者は漢字では「端た女・婢女」と書かれることもあり、差別的である、との判断によります)

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 教皇の説教のイタリア語全文からの試訳(Sr.岡)

 愛する兄弟姉妹たち、おはようございます!

 今日、私たちは、無原罪の聖マリアの祭日を祝っています。それは、待ち望む季節、待降節の中に置かれています:神は、約束したことすべてを成し遂げるでしょう。しかし、今日の祭日は、私たちに、「すでに」、おとめマリアのうちに、彼女のいのち(人生)のうちに成就されたものを告げています。

 私たちは今日、この成就の始まり―それは、主の母の誕生よりもさらに前―を黙想しています。実際、マリアのけがれのない宿りは、私たちを、マリアのいのちが彼女の母の胎の中で鼓動し始めた、まさにその瞬間へと導きます:すでにそこに、神の、聖とする愛があります―マリアを、人類の共通の遺産である悪の伝染から守りながら―。

 今日の福音の中で、マリアへの天使の挨拶が響きます:「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におらる」(ルカ福音書1章28節)。神は、ご自分の計り知れない計画の中で、永遠からマリアを思い、望
みました―恵みに満たされた、つまり、ご自分の愛でいっぱいにされた被造物として。でも、いっぱいに満たされるためには、空間(スペース)を造らなければなりません、自分を空(から)にしなければなりません、自分を脇に置かなければなりません。

 まさに、マリアがしたように―マリアは、自分自身を明け渡して、神の「みことば」に耳を傾けることを知っていました。神のみ心(意志)に完全に信頼することを知っていました―神のみ心を、自分のいのち(人生)の中に、条件無しで受け入れながら―。彼女の中に、「みことば」が肉(人)となるほどに。これは、マリアの「はい」によって可能にされました。

 イエスの母となる準備が出来ているか、と尋ねる天使に、マリアは答えます:「私は主の仕え女です。お言葉どおり、この身になりますように」(同38節)。

 マリアは、たくさんの理屈をこねて時間を無駄にしたりしません。主の邪魔をしません。マリアはすぐに、自らを委ね、聖霊のわざ(働き)に空間(スペース)を開けました。自分の全存在と、自己の歴史を、直ちに神に差し出しました―それらを形づくり、それらを成就させるのが、みことばと、神のみ心となるように―。

 このようにして、神の、彼女に対する計画に、完全に答えながら、マリアは「まったく美しい方 la “tutta bella”」、「まったく聖なる方 la“tutta santa”」となりました―しかし、少しの自己満足の影もなく―。マリアは謙遜でした。マリアは、最高傑作ですが、貧しく、小さく、謙虚でい続けました。マリアのうちに、神の美しさ―それは、すべて愛、恵み、自己贈与の美しさです―が映し出されます。

 私はまた、マリアが神に自分の身を委ねるなかで、自らを定義づけた(特徴づけた)言葉をも強調したいと思います:「主の仕え女」«la serva delSignore»。マリアの、神への「はい」は、最初から、奉仕の態度、他の人々の必要への注意(留意)を負っていました。「お告げ」の直後に続く、エリサベトへの訪問の事実が、それを具体的に証ししています。神に対する献身は、隣人の必要を引き受ける献身に符号します。

 このことすべて、騒音や見せびらかし無しに、名誉の地位を求めること無しに、宣伝無しに。なぜなら、愛のわざ、いつくしみのわざは、トロフィーとして提示される必要はないからです。慈しみのわざは、沈黙のうちに、隠れて、それらを誇ることなく、行われます。私たちの共同体においても、私たちは、マリアの模範に従うよう招かれています―思慮深く、隠れたスタイル(様式)を実践しながら―。

 私たちの母の祭日が、私たちが、自分の生活(人生)全体を、神への「はい」とするよう、助けてくださいますように―神への礼拝と、日々の愛と奉仕のジェスチャー(行為)によって造り出される「はい」―。

2019年12月9日