♰「私たちの生活のすべてを、神への『はい』とするように」-無原罪の聖マリアの祭日に

(2019.12.8 バチカン放送)

 無原罪の聖マリアの祭日の8日、教皇フランシスコは、バチカンで正午の祈りの集いを行われ、その中の説教で、「無原罪の聖マリアの祭日が待降節の中に位置づけられていることに特別な意味」について語られた。

 教皇は、無原罪の聖マリアの祭日は、「主の御母となられるマリアが、ご自分の母の胎内に宿った瞬間に、すでに神の聖化する愛で満たされ、人類が背負う原罪の汚れから守られていたことを祝うもの」と説明された。

 この日のミサで読まれたルカ福音書の「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる」(1章28節)というマリアへの天使の挨拶を観想され、「この天使の言葉にあるように、神はその深遠なご計画によって、マリアが恵み-すなわち神ご自身の愛-で完全に満たされた者であるよう、常に考え、望まれていたのです… 神の恵みに完全に満たされるためには、自分自身を空にしなければなりませんが、マリアは、神の御言葉に耳を傾け、神の御旨に完全に信頼し、その御旨を恐れず、自分の人生に受け入れることを知っていました」と語られた。

 さらに、「マリアにおいて、御言葉は肉となられましたが、それは受胎を告知する天使に対して答えた『私は主の仕え女です。お言葉どおり、この身になりますように』(同38節)というマリアの承諾の『はい』があったからこそ可能となったのです」と強調。

 こうして、神のご計画に完全に応えながら、マリアはあまねく美しく聖なる存在となったが、「そこには、ひとつの自賛もなく、神の「傑作」でありながら、謙遜で、小さく、貧しい者として留まり、神の素晴らしさ、すなわち神の愛と恵みと献身を反映する存在となられました」と説かれ、実際、マリアが自身を「主の仕え女」と呼び、最初から奉仕の態度を示し、受胎告知を受けた直後にエリザベトを訪問した出来事に見られるように、「他の人が必要としていることに気を配る態度」に注目された。

 最後に教皇は「私たちが、自分の生活の全てを、神への『はい』とするように、神への崇敬、愛と奉仕の振る舞いによる『はい』とするように」と無原罪の聖母に祈られた。

(編集「カトリック・あい」=聖書からの引用は「聖書協会 共同訳」を使用しています。今回は従来の日本語訳聖書では「はしため」という言葉が使われていた箇所を「仕え女」としてあります。これは、前者は漢字では「端た女・婢女」と書かれることもあり、差別的である、との判断によります)

・・・・・・・・・・

 教皇の説教のイタリア語全文からの試訳(Sr.岡)

 愛する兄弟姉妹たち、おはようございます!

 今日、私たちは、無原罪の聖マリアの祭日を祝っています。それは、待ち望む季節、待降節の中に置かれています:神は、約束したことすべてを成し遂げるでしょう。しかし、今日の祭日は、私たちに、「すでに」、おとめマリアのうちに、彼女のいのち(人生)のうちに成就されたものを告げています。

 私たちは今日、この成就の始まり―それは、主の母の誕生よりもさらに前―を黙想しています。実際、マリアのけがれのない宿りは、私たちを、マリアのいのちが彼女の母の胎の中で鼓動し始めた、まさにその瞬間へと導きます:すでにそこに、神の、聖とする愛があります―マリアを、人類の共通の遺産である悪の伝染から守りながら―。

 今日の福音の中で、マリアへの天使の挨拶が響きます:「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におらる」(ルカ福音書1章28節)。神は、ご自分の計り知れない計画の中で、永遠からマリアを思い、望
みました―恵みに満たされた、つまり、ご自分の愛でいっぱいにされた被造物として。でも、いっぱいに満たされるためには、空間(スペース)を造らなければなりません、自分を空(から)にしなければなりません、自分を脇に置かなければなりません。

 まさに、マリアがしたように―マリアは、自分自身を明け渡して、神の「みことば」に耳を傾けることを知っていました。神のみ心(意志)に完全に信頼することを知っていました―神のみ心を、自分のいのち(人生)の中に、条件無しで受け入れながら―。彼女の中に、「みことば」が肉(人)となるほどに。これは、マリアの「はい」によって可能にされました。

 イエスの母となる準備が出来ているか、と尋ねる天使に、マリアは答えます:「私は主の仕え女です。お言葉どおり、この身になりますように」(同38節)。

 マリアは、たくさんの理屈をこねて時間を無駄にしたりしません。主の邪魔をしません。マリアはすぐに、自らを委ね、聖霊のわざ(働き)に空間(スペース)を開けました。自分の全存在と、自己の歴史を、直ちに神に差し出しました―それらを形づくり、それらを成就させるのが、みことばと、神のみ心となるように―。

 このようにして、神の、彼女に対する計画に、完全に答えながら、マリアは「まったく美しい方 la “tutta bella”」、「まったく聖なる方 la“tutta santa”」となりました―しかし、少しの自己満足の影もなく―。マリアは謙遜でした。マリアは、最高傑作ですが、貧しく、小さく、謙虚でい続けました。マリアのうちに、神の美しさ―それは、すべて愛、恵み、自己贈与の美しさです―が映し出されます。

 私はまた、マリアが神に自分の身を委ねるなかで、自らを定義づけた(特徴づけた)言葉をも強調したいと思います:「主の仕え女」«la serva delSignore»。マリアの、神への「はい」は、最初から、奉仕の態度、他の人々の必要への注意(留意)を負っていました。「お告げ」の直後に続く、エリサベトへの訪問の事実が、それを具体的に証ししています。神に対する献身は、隣人の必要を引き受ける献身に符号します。

 このことすべて、騒音や見せびらかし無しに、名誉の地位を求めること無しに、宣伝無しに。なぜなら、愛のわざ、いつくしみのわざは、トロフィーとして提示される必要はないからです。慈しみのわざは、沈黙のうちに、隠れて、それらを誇ることなく、行われます。私たちの共同体においても、私たちは、マリアの模範に従うよう招かれています―思慮深く、隠れたスタイル(様式)を実践しながら―。

 私たちの母の祭日が、私たちが、自分の生活(人生)全体を、神への「はい」とするよう、助けてくださいますように―神への礼拝と、日々の愛と奉仕のジェスチャー(行為)によって造り出される「はい」―。

このエントリーをはてなブックマークに追加
2019年12月9日