♰「イエスの最初の弟子たちに倣い、神の愛の伝令者、証人となるように」-日曜正午の祈りで

(2020.1.26 VaticanNews Linda Bordoni  )

 教皇フランシスコは26日の正午の祈りの説教で、この日のミサで読まれた福音書の箇所を取り上げ、「善意のすべての人々は父の慈しみを受け、聖霊の恵みによって自分自身が変えられるように召されています」と語り、サンピエトロ広場に集まった人々に、神の御言葉の伝令者、証人となるように勧められた。

 教皇は、イエスがガリラヤ湖のほとりで弟子たちとどのように出会い、彼らを回心するように召されたかを記したこの日の福音書の箇所について考察され、まず、当時のガリラヤが、異邦人と混在した、疑惑の目で見られる辺境の地と見なされ、何の期待も持たれない地だったが、まさにその地で、イエスが宣教を始められたことに注意を向けられた。「イエスが『悔い改めよ、天の国は近づいた』と宣言されたのは、まさにそうした場所だったのです… この宣言は、暗闇を突き抜けて霧を切り裂く強力な光線のようです」と語られた。

 そして、「私たちには、自分の人生を変え、利己心、悪、罪の道を捨てるのが不可能に思えることが、しばしばあります。でも、それは、回心の努力が、キリストと聖霊ではなく、自分自身と自分の力だけに集中するからです」とされ、「イエス・キリストの良い知らせ-世界を変え、心を変容させる知らせ-を受け取るために、心を開きましょう… 私たちは、父に信頼し、父の慈しみに心を開き、聖霊の恩恵によって変えられるように、呼びかけられているのです」と訴えられた。

 それが、「イエスの最初の弟子たちに対して起きたこと。イエスとの出会いが、弟子たちを彼に従わせ、神の王国の奉仕にしっかりと身を置くことによって人生を変える勢いをもたらし… イエスと同じように、彼らは輝き、全ての人に対する真の自由、キリストがもたらした自由を宣言するために、異邦人たちと交わり、辺境の地に心地よさを感じたのです」と述べた。

 最後に教皇は、すべての信徒たちに対して、神の言葉を渇望する人々に希望をもたらすために、救い主の足跡をたどる、神の言葉の最初の伝令者、使者となった弟子たちに倣うように求められた。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

2020年1月27日

♰「イエスの言葉は、私たち1人ひとりへの”ラブレター”」-御言葉の主日のミサで

(2020.1.26 VaticanNews Linda Bordoni)

 教皇フランシスコは26日、初の「神の御言葉の主日」を迎えて、ミサを捧げ、説教の中で、「私たちが日常生活にあふれる何千もの言葉の中で、物事ではなく人生について語る言葉を聴くために、神の言葉が必要」と強調された。神の御言葉の主日は教皇が昨年9月に自発教令で定められたもので、暦年の第三主日に祝われる。

*イエスの宣教は「悔い改めよ、天の国は近づいた」で始まった

 教皇は説教を、イエスの宣教の初めについて述べたマタイの福音書の箇所、「述べ伝え始められた」(4章17節)の考察から始められ、「神の御言葉である方が、私たちと話すために来られました。御自身の言葉で、ご自身の生きざまによって」とされたうえで、「イエスの説かれる言葉の根本へ、命の言葉の根源に行きましょう。それは、イエスがどのようにして、どこで、誰に、説かれ始めたかを、私たちが知る助けになります」と語られた。

  そして、イエスの宣教が極めて簡単な言葉-「悔い改めよ、天の国は近づいた」(マタイ福音書4章17節)-で始まったとし、「この言葉こそ、イエスのなさった全ての説教の柱となるメッセージ… 神が近くにおられること、地上に降り、人となられたことを私たちに告げられ、私たちとの間の壁を取り払い、距離を縮められました」「これは喜びに満ちたメッセージです。神は人となることで、私たちのところに直接、おいでになりました。義務ではなく、愛ゆえに、そうなさったのです」と強調。

*ご自分が私たちの側におられることが分かるように語られた

 さらに、「神は人となられました。それは、神が私たちを愛され、私たちが自分一人では、助けなしでは、手にすることを望めない救いを私たちに与えたいと、強く望まれたからです。神は、私たちと共にいて、人生の美しさを、心の安らぎを、赦され、愛されていると感じる喜びを、私たちにお与えになりたいのです」と語られた。

 そして、このことは、イエスが私たちに求めておられることー「悔い改めなさい」、言い換えれば「あなたの生き方を変えなさい」-を理解する助けになる、それは新たな生き方への招きであり、神と共に、神のために、「他の人のために、愛をもって、愛のために」生きる時を告げている、とされた。

 また、イエスは私たちに語りかけ、私たちが自分の人生にご自分を受け入れるように願われておられる、イエスの言葉を「ご自分が私たちの側におられることが分かるように、私たち1人ひとりにお書きになった”ラブレター”」に例えられ、「彼の言葉は、私たちを慰め、励まします。意欲をかきたて、自己中心の束縛から解放し、回心へ招きます。私たちの人生を変え、暗闇から光へと導く力を持っているからです」と説かれた。

*「暗闇」に暮らす漁師たちに最初に呼びかけられたのは

 教皇はさらに、イエスが、当時のガリラヤのように「暗闇の中」にあると考えられていた場所で宣教を始められたことを取り上げ、「ここに私たちへのメッセージがあります。救いの言葉は、手つかずの清潔で安全な場所ではなく、私たちが生活している辺鄙で、込み入った場所を求めます… 神は、絶対においでになるまい、と私たちが思う場所を訪れることを望まれます。でも、私たちはどれほど頻繁に扉を閉ざし、困惑と暗闇、偽りの中に隠れていることを選んでいるでしょうか」と問いかけられた。

 そして、「私たちはしばしば、真実が自分の心を揺さぶらないように用心しながら、紋切り型の祈りで主に向かいますが、思い起こしてください。イエスは、天の国の福音を宣べ伝え、病いと打ちひしがれた心を癒すために、ガリラヤ中を回られたのです…」

 最後に、教皇は、イエスが純朴な人々と話すのを選ばれたことを取り上げ、「(イエスから)最初に呼びかけを受けたのは漁師ー才能がある人や、神殿で祈りを捧げるような信心深い人ではなく、普通の労働者ーでした」とされ、「イエスは、彼らが理解する言葉を使い、彼らの人生は、すぐさま変わりました… イエスは、ご自分の使命を彼らと共にするために、彼らのいる場所で、そのままの彼らに呼びかけられ、彼らはイエスに従いました。命令を受けたからではなく、愛に惹かれたからです」と説かれた。

*呼びかけに、日々、耳を傾け、聖書を読もう

 そして、「イエスに従うために、ただ良い行いをするだけでは十分ではありません… 私たちは彼の呼びかけに、毎日、耳を傾けねばなりません。だからこそ、私たちには、御言葉が必要なのです… 呼びかけに耳を傾けることで、私たちは、何千もの言葉があふれる日常生活の中で、物事ではなく人生について語る言葉を聴くことができるのです」と念を押され、すべての信徒に対して、神の言葉のために自分たちの暮らしに席を作るよう促され、つぎのように説教を締めくくられた。

 「毎日、聖書の1つか2つの箇所を読みましょう。福音で始めましょう… 私たちの机に開いたまま置いておき、ポケットに入れ、携帯電話で読み、毎日、ひらめきを受けるようにしましょう。そうすることで、神が私たちの近くにおられ、私たちの闇を払いのけ、大いなる愛をもって、私たちの生活を深く、導いてくださるのを知ることになるでしょう」。

2020年1月27日

♰「人は語る存在。日々の物語を紡ぎながら、豊かにされていく」-5月の「世界広報の日」に向けて(全文試訳付き)

(2020.1.24 バチカン放送)

 教皇フランシスコが24日、今年のカトリック教会の「世界広報の日」(5月24日)に向けて、メッセージを発表された。

 今年のテーマは「『あなたが語り伝え、知るために』(出エジプト記10章2節)生きることが語りとなる(仮訳)」。メッセージで教皇は、「語ること」をテーマに、「破壊的ではなく建設的なストーリー、皆で前進するためのルーツと力を見出させる良いストーリーの真理に触れる必要」を説いている。

 教皇は、「人間は語る存在。人間は小さい時から、食べ物を必要とするように、話を必要としています… 人は、自身の脆さを覆い、自分の生き方を守るために己を語ることを必要とする唯一の存在… 成長する存在ゆえに、語る存在でもあり、日々の物語を紡ぎながら、人は豊かにされていくのです」と指摘。だが、「すべての語り(ストーリー)が良いものであるとは限りません。ストーリーが何らかの目的のために利用されている時は、その命は短い」とされ、「それが良いストーリーである場合は、時空を超えて残っていきます」と語っている。

 聖書については、「多くのストーリーを集めた一つのストーリーであり、実に様々な出来事、人々が登場します。聖書は、神が創造主であると同時に、語り手であることを示しています」とされ、「聖書は、神と人類の間の偉大な愛のストーリーであり、中心にイエスがいます」としたうえで、「人は、世々に、この聖書の重要な出来事を『語り伝え、記憶に刻む』よう求めておられます」と述べて、「神の語り、イエスの語りに耳を傾け、イエスと似た者に変容されていく必要」を説いている。

 さらに、キリストのストーリーは「過去のものでなく、常に今日を生きる私たちのもの」とし、人となられ、人の歴史に入って来られるまでに、人々を心にとめられる神のストーリーは「人間のストーリーで、意味のないもの、小さいものは、一つもないこと」「それぞれの人間のストーリーはかけがえのない尊厳を持っていること」を語っている、とも指摘。

 「あなたがたは、キリストが私たちを用いてお書きになった手紙、として公けにされています」(コリントの信徒への手紙②3章3節) と聖パウロが語っているように、聖霊、神の愛は、「私たちの中に記し、善を刻み、それを思い起こすようにと願われています」と語った。

 そして、「すべての偉大な物語が、私たちのストーリーに影響を及ぼすように、私たちを創り、救ってくれた愛を記憶に刻む時、私たち自身もページをめくり、『自分の心を閉じ込めていたもの』から解放され、他者に心を開き、ストーリーの語り手である神のビジョンに自分を開かなければなりません」と述べた。

 さらに、「自分を主に語ることは、『自分や他の人々への憐みにあふれた愛の眼差し』の中に入ることです… 神という偉大な語り手の眼差しをもって、私たちの側にいる登場人物たち、私たちの兄弟姉妹たちに近づきましょう。なぜなら、誰もが世界のシーンの端役ではなく、それぞれのストーリーは変化の可能性に開かれているからです」とされ、「私たちが悪について語る時も、贖いのための余地を残し、悪に囲まれた中にも善のダイナミズムを見出せるように」と求められた。

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 「世界広報の日」は、福音宣教の中でも特に新聞、雑誌、テレビ・ラジオ、インターネット、映画などのメディアを用いて行う宣教について教会全体で考えることを目的としている。聖霊降臨の直前の日曜日(今年は5月24日)に記念されるが、日本の教会では、1週間早い日曜日(復活節第6主日・今年は5月17日)とされている。

(編集「カトリック・あい」)

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メッセージの日本語訳全文は以下の通り(Sr.岡立子訳)

 教皇フランシスコ 第54回「世界広報の日」メッセージ[試訳]

(*注:訳の中でLa storiaは「物語」「語り」、La narrazioneは「語り」「叙述」「物語」

  「あなたが子や孫に語り伝えるように」(出エジプト記10章 2節) 人生が物語(語り)となる

 私は今年の「メッセージ」を、「物語(語り) 」のテーマに捧げたいと思います。私たちが道に迷わないためには、善い物語の真実を呼吸する必要があると信じるからです。破壊するのではなく、建設する物語;一緒に前に進むために、ルーツ(根源)と力を再発見するのを助ける物語。

 私たちを取り囲む混乱する声やメッセージの中で、私たちは、自分について、またそこに住む美しさについて語る、人間的な「物語」を必要としています。世界と出来事を、やさしさtenerezzaをもって見つめることを知っている「物語」、生き生きとした織物の部分である私たちの存在を語り、私たちが互いに結びつけられている糸の絡み合いを明らかにする「物語」を。

1.物語を織る

 人間は物語を語る存在です。小さい時から、私たちは、食べ物を渇望するように、物語を渇望しています。私たちは、おとぎ話、小説、映画、歌、情報…の中にいるので、物語は私たちの人生に影響を与えます 。たとえ私たちが、それに気づいていなくても。しばしば、何が正しくて、何が間違っているのかを、自分が同化した人物や物語を土台にして判断します。物語は、私たちを印し、私たちの確信や態度を形づくり、自分が誰であるかを理解し、言うことを助けることが出来ます。

 人間は、自分のもろさを覆うための衣を必要としている、唯一の存在であるだけではなく(創3 21参照)、自分を語ること、自分の人生を保つために物語を「まとうrivestirsi」必要を持っている、唯一の存在でもあります。私たちは、衣を織るだけでなく、物語も織ります:実際、「織る」ことの出来る能力は、「織物tessuti」と「テキストtesti」の両方につながります。あらゆる時代の物語は、共通の「織機(骨組み)telaio」を持っています:構造は「英雄たち」-日常の英雄たちも-を想定しています。彼らは、夢を追求するために、困難な状況に立ち向かい、悪と戦います。彼らに勇気を与える力 愛の力に駆り立てられて。物語の中に入りながら、私たちは、人生の挑戦(課題)に立ち向かうための、英雄的動機(モチーフ)を再発見することが出来ます。

 人間は、物語を語る存在です。なぜなら、人生の日々の横糸の中で、自分を見出し、自分を豊かにする、「なりつつある」存在だからです。けれど、最初から、私たちの物語は脅かされています:物語の中に、悪が蛇行(だこう)しています。

2.すべての物語が善いのではない

 「それを食べると目が開け、神のように善悪を知るものとなる」(創世記3章5節):蛇の誘惑は、歴史の緯糸の中に、解くべき結び目を挿入します。「もしこれを持つなら、あなたは…になる、…に到達する」と、手段としての目的で、いわゆる「ストーリーテリング(物語を話すこと)」を使う人は、今日もまた、ささやきます。これらの物語は、私たちを麻痺させます。幸せになるためには、絶え間なく持つこと、所有すること、消費することが必要だと、私たちを説得しながら。

 ほとんど、私たちは気づきません。どんなに私たちが、おしゃべり(噂話)をし、陰口をたたくことを渇望しているか、どんなに暴力と偽りを消費しているか、に。しばしば、伝達(コミュニケーション)の横糸の上に、社会的つながりと文化的構造(織物)の接着剤である、建設的な物語の代わりに、共生のもろい糸を消耗させ破壊する、破壊的で挑発的な物語が生み出されます。検証(実証)されていない情報を一緒にまとめ、ありふれた(陳腐な)、偽りの説得力のある話(スピーチ)を繰り返し、憎しみの叫び声をあげながら、人間的な物語を織るのではなく、人間から尊厳をはぎ取ります。

 しかし、道具や権力の目的で使われた物語は短命であり、他方、善い物語は、空間と時間の境を越えることが出来ます。数世紀の距離は、今日的に留まります。なぜならそれは、人生(生命)を養うからです。

 偽造が 指数関数レベル(ディープフェークil deepfake)に達しながら ますます精巧になった時代において、私たちは必要としています-美しい、真実の、善い物語を集め、造り出すための知恵を。私たちは必要としています-これらの 偽りで悪意のある物語を拒否する勇気を。私たちは必要としています-今日の、たくさんの裂傷の間の糸を失わないよう、私たちを助けることが出来る物語を再発見するための、忍耐と識別を。日々の生活の中で無視された英雄性(ヒロイズム)の中にあってさえ、私たちが誰であるかの真実を明らかにする物語を。

3.物語の中の「物語」

 聖書は、物語の中の「物語」una Storia di storieです。それは、どんなにたくさんの出来事、民、人々を示しているでしょうか!聖書は私たちに、最初から示しています-創造主であり、同時に、物語を語る方(語り手 である神を。神は実際、ご自分の「ことば」を発し、物事は存在しました(創世記1章参照)。ご自分の「語り」を通して、神は、物事を命へと呼び(招き)、その頂点に、男と女を創造しました-ご自分の自由な話し相手、神と共に物語を造り出すものとして。

 詩編の中で、被造物は創造主に語ります。「まことにあなたは私のはらわたを造り、母の胎内で私を編み上げた。あなたに感謝します。私は畏れ多いほどに、驚くべきものに造り上げられた。あなたの業は不思議。私の魂はそれをよく知っている。私が秘められた所で造られ、地の底でおりなされたとき、あなたは私の骨を隠されてはいなかった」(詩編139章 13-15節)。

 私たちは完成されて生まれたのではありません。私たちは絶え間なく、「織られtessuti」「刺繍されるricamati」必要があります。人生は、あの「驚くべき不思議meraviglia stupenda -それが私たちで
す-を織り続ける招きとして、私たちに与えられたのです。

 この意味で、聖書は、神と人間の間の偉大な愛の物語です。真ん中にイエスがいます。イエスの物語は、神の人間に対する愛を完成に導き、同時に、人間の神に対する愛を完成に導きます。人間はこのようにして、幾世代にもわたって、この 物語の中の「物語」Storia di storieの、最も重要なエピソード 起こったことの意味を伝達することが出来るエピソードを語り聞かせ、記憶の中に留めるraccontare e fissare nella memoriaよう招かれています。

 この「メッセージ」のタイトルは、出エジプト記-神が、ご自分の民の物語(歴史)の中に介入するのを見る、聖書の根本的な物語(叙述)-から採られています。実際、奴隷であったイスラエルの子らが神に叫びをあげた時、神は耳を傾け、思い起こします。「神はその呻きを耳にし、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエルの人々を顧み、御心に留められた」(出エジプト記2章 24 -25節)。

 神の記憶から、抑圧からの解放-それは徴と奇跡を通して起こります-がほとばしり出ます。主がモーセに、これらのすべての徴の意味を託したのは、その時です。「私が… どのようなしるしを行ったかをあなたが子や孫に語り伝え、私が主であることをあなたがたが知るためである」(出エジプト記10章2節)。出エジプト記の経験は、私たちに、神についての知識は、何よりも先ず、世代から世代へ、どのように神がご自分を現存させ続けているかを、語りながら伝えられることを教えています。

 イエスご自身、神について、抽象的な講話(スピーチ)でななく、日常生活から取った、たとえ話、短い物語をもって語りました。ここで、生活(人生)は物語になり、そして、それを聞く人にとって、物語は生活(人生)になります。あの物語は、それを聞く人の生活(人生)の中に入り、それを変容します。

 福音もまた、偶然ではなく、物語(語り)です。それらは私たちに イエスについて知らせながら、私たちをイエスに 成し遂げます」[イエスに変えます]、私たちをイエスに形造ります。福音は、読む人に、同じ命(生き方)を共有するために、同じ信仰に参与することを求めます。

 ヨハネの福音は私たちに、最高の「物語を語る方il Narratore」-みことばil Verbo, la Parola-が、物語になったsi è fatto narrazioneと言っています-「父のふところにいる独り子である神、この方が、神を啓示された[語ったraccontato]のである」(ヨハネ福音書1 章18節)。私は「語ったraccontato」という用語を使いました。なぜなら、原語exeghésato は、「啓示されたrivelato」とも、「語られたraccontato」とも訳せるからです。

  神は,私たちの人性umanitàの中に、個人的に(人格的に)自らを織り込みました。それによって、私たちに、自分の物語を織る新しい方法を与えながら。

4.新たにされる物語

 キリストの物語は過去の遺産ではありません。わたしたちの物語―常に現実の―です。それは私たちに、神が、人間、人間の肉、私たちの物語に心を留めたこと-ご自分が人間に、肉に、物語になるまでに-を示しています。それは私たちに、人間の、無意味な物語や小さな物語は存在しない、と言っています。

 神がご自分を物語にしたDio si è fatto storia後、あらゆる人間の物語は、ある意味で神の物語です。あらゆる人間の物語の中に、御父は、地上に降りたご自分の御子の物語を再び見ます。あらゆる人間の物語は、除去することの出来ない尊厳をもっています。ですから、人類はあの高さ、イエスが引き上げた、あの目も眩むほど魅力的な高さの物語に値します。

 聖パウロは書いています。「あなたがたは、私たちが書いたキリストの手紙であって、墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人間の心の板に記されたものであることは、明らかです」(コリントの信徒への手紙二3章3節3)。

 聖霊-神の愛-は、私たちの内に書きます。そして、私たちの内に書きながら、私たちの中に善を定め、私たちにそれを思い出させます。記憶する(思い起こす Ri-cordareは、実際、心に運ぶportare al cuore、心に「書く」“scrivere” sul cuoreという意味です。聖霊のわざを通して、あらゆる物語は―最も忘れられている物語、最もねじれた線で描かれた物語のように見えても-、インスピレーションを得ることが出来ます。福音の追加appendiceとなりながら、生まれ変わることが出来ます。

  教皇ベネディクト十六世回勅『希望による救い』:「キリスト教のメッセージは『情報伝達的』なだけでなく、『行為遂行的』なものでした。すなわち、福音はあることを伝達して、知らせるだけではありません。福音は、あることを引き起こし、生活を変えるような伝達行為なのです」。

アウグスチヌスの『告白 Confessioni 』のように。イグナチオの『巡礼者の話il Racconto del Pellegrino』のように。幼きイエスのテレジアの『魂の物語la Storia di un’anima』のように。『いいなづけi Promessi Sposi』、『カラマーゾフの兄弟』のように。神の自由と、人間の自由の間の出会いを、すばらしく脚色した、その他の無数の物語のように。私たちの一人ひとりは、福音の香りに満ちた物語、命(生き方)を変容する「愛」を証しした、さまざまな物語を知っています。

 これらの物語は、共有され、語られ、あらゆる時代において体験されることを要求します。あらゆる言語、あらゆる手段をもって。

5.私たちを新たにする物語

 あらゆる偉大な物語の中に、私たちの物語が介入します(絡まります)。私たちが、聖書、聖人たちの物語、また、人間の魂を読み、その美しさを明らかにすることの出来たテキストを読む時、聖霊は、自由に、私たちの心の内に書きます。私たちの中に、神の目に、私たちがそうであるものの記憶la memoria di quello che siamo agli occhi di Dioを新たにしながら。私たちが、私たちを造り、私たちを救った愛を記念する時、私たちの日々の物語の中に愛を入れる時、私たちの日々の横糸をいつくしみで織る時。その時、私たちはページをめくります。

 私たちはもはや、私たちの心を閉じ込める病んだ記憶に結びつけられ、嘆きや悲しみに縛り付けられたまま留まりません。そうではなく、他の人々に開きながら、私たちは、「物語を語る方Narratore」のヴィジョンそのものに自分を開きます。神に私たちの物語を語ることは、決して無駄ではありません。たとえ出来事の年代記が変わらなくても、それらの意味と視点は変わります。主に自分のことを語ることは、主の、私たちへの、また他の人々への、いつくしみ深い愛amore compassionevoleの眼差しの中に入ることです。

 主に、私たちは、自分が生きている物語を語り、人々を運び、状況を委ねることが出来ます。主とともに、私たちは、人生の織物を結び直すことが出来ます-ほころびや裂け目を縫合しながら。私たちはどんなにそれを必要としているでしょうか。私たち皆!

 「物語を語る方Narratore」-最終的な視点をもつ唯一の方-の眼差しで、私たちは、今日の物語の主人公、私たちの兄弟姉妹、私たちの近くの俳優たちに近づきます。

 そうです、誰も、世界の舞台の中で端役(エキストラ)ではなく、一人ひとりの物語は、変化の可能性に開かれています。私たちは、悪を語るときも、贖いへの空間(スペース)を残すことを学ぶこと
が出来ます。悪のただ中で、善のダイナミズムを認識し、それに空間(スペース)を与えることが出来ます。

 ですから、それは、「ストーリーテーラーstorytelling」の理論を追求することでも、宣伝をする、または自分を宣伝することでもなく、神の目に、私たちがそうであるところのものを記憶する(思い起こす)ことfare memoria di ciò che siamo agli occhi di Dio、霊が心の中に書いたものを証しすること、一人ひとりに、それぞれの物語が驚くべき不思議を含んでいることを明らかにすることです。

 それが出来るために、胎の中に神の人性を織った女性、そして-福音が言っています-自分に起こったすべてのことを一緒に織った女性に、私たちを委ねましょう。おとめマリアは、実際、すべてを心の中で思いめぐらしながら、収めました(ルカ福音書2章 19節参照)。愛の柔和な力をもって、命(人生)の結び目を解くことが出来たマリアに、助けを求めましょう。「マリアよ、女性であり母である方、あなたは胎の中で、神のみことばを織りました。あなたは、あなたの人生をもって、神の驚くべきわざを語りました。私たちの物語に耳を傾け、それをあなたの心の中に収め、あなたの物語としてください-誰も聞くことを望まない物語をも。私たちに、物語を導く善い糸を認識(識別)することを教えてください。

 結び目の山-その中で、私たちの記憶を麻痺させながら、私たちの人生がもつれています-に目を向けてください。あなたの繊細な手は、あらゆる結び目を解くことが出来ます。「霊」の女性、信頼の母よ、私たちにもインスピレーションを与えてください。平和の物語、未来の物語を構築するのを助けてください。共にそれらの物語を進むための道を、私たちに示してください。

ローマ、ラテラノ、聖ヨハネ大聖堂のかたわらで、2020年1月24日、聖フランシスコ・サレジオの祝日に。フランシスコ

(編集「カトリック・あい」南條俊二、聖書の引用は「聖書協会 共同訳」を使用)

2020年1月25日

♰「苦しむ人々をもてなすために、キリスト者がエキュメニカルな協力をするように」

教皇フランシスコ、バチカン・パウロ6世ホールでの一般謁見 2020年1月22日教皇フランシスコ、バチカン・パウロ6世ホールでの一般謁見 2020年1月22日  (Vatican Media)

(2020.1.22 バチカン放送)

 教皇フランシスコは22日、水曜恒例の一般謁見のカテケーシス(教会の教えの解説)で、「使徒言行録」をもとに、現在行われている「キリスト教一致祈祷週間」のテーマ「人々は大変親切にしてくれた」(使徒言行録28章節)について講話をなさった。

 まず教皇は、先週の講話で取り上げた、使徒パウロたちを乗せた船の難破とマルタ島における住民のもてなしのエピソード(使徒言行録27~28章)を思い起こされ、次のように話された。

(ローマに向かうパウロたちの船は暴風に巻き込まれ、太陽も星も見えない中で14日間も漂流を続け、270人以上の乗員、乗客は皆、動揺し、助かる望みを失っていた。だが、信仰に支えられ、希望を失わないパウロは、皆に話しかけ、激励した。『誰一人命を失うことはありません。私は福音をもたらすよう神から召されており、神は一緒に航海している皆さんを、私に任されたのですから』と、神の天使から告げられたことを話した。パウロのこの言葉は、船がマルタ島の海岸に乗り上げ、全員が無事上陸した時に現実のものとなった。そして、マルタ島では、荒れ狂う嵐の海とは対照的に、住民たちが貴重な人間的な温かさをもって一同をもてなした。)

 教皇は「マルタ島の住民はまだ、キリストの福音に接していませんでしたが、親切な行為をもって神の愛を具体的に表しました」とされ、「自然な形でのもてなしと、気遣いの行為は、神の愛の何かを伝えるものです」と指摘された。

 さらに、島の人々のもてなしに、パウロは島の病人たちを癒すことで応えたが、「パウロにとって、マルタの人々は神の摂理のしるしであり、マルタの人々にとっては、パウロは神のいつくしみの愛の証人でした」と語られ、「もてなしとは、エキュメニカルな愛徳… それにはまず、キリスト者同士が『真の兄弟』であることを認め、異なる歴史を持つ共同体に耳を傾けることが必要です」と説かれた。

 また、パウロたちの船が漂流した海は、「今日、暴力や戦争、貧困から逃れた人々の危険な旅の舞台になっています」と指摘。「これらの人々は、パウロたちのように、人々の無関心や、砂漠や川や海の厳しさを体験し、時には、人間以下の扱いを受け、人身取引の犯罪に搾取されているのです… このような移民・難民たちに神の愛を示し、『すべての人が、神にとって大切で愛された存在』だということを証しするために、キリスト者は共に働かなければなりません」と強調された。

 そして「特に弱い立場の人をはじめとする人々のもてなしのために、すべてのキリスト者がエキュメニカルな協力をすることで、よりよい使徒、よりよい一致したキリスト者の民となるように」と願われた。

 (編集「カトリック・あい」)

2020年1月23日

♰「私たちは”人間家族”の一員だ、ということを忘れないで」-ダボス会議50周年

(2020.1.21バチカン放送)

50周年を迎えた世界経済フォーラム50周年を迎えた世界経済フォーラム  (ANSA)

 会議には、バチカンを代表して人間開発省のピーター・タークソン長官(枢機卿)が参加しているが、教皇はメッセージで、複雑に絡み合う形で数多くの問題を抱える今日の世界の中で、「持続可能な世界へ利害関係者の結束」という会議のテーマは「人類が直面する様々な課題にあらゆるレベルでより効果的な方法で取り組む必要を示しています」と強調。

 そして、会議発足からこれまでの50年間に、世界の経済など様々な発展で地政学的環境は大きく変わったが、「発展は人類に益をもたらす一方、重大な欠陥ももたらしています」と指摘したうえ、「50年前と今の状況は違っても、いつも忘れてならないのは『我々は人類家族の一員』だ、ということです」と述べ、「互いに助け合いうことを、道徳的義務と認識し、公共的な政策の中心に、『権力や利益の追求』ではなく、『人間』を据えねばなりません」と訴えられた。

 さらに、「真に統合的な人類の発展は、『すべての人類家族のメンバーが共通善の追求の対象に含められ、すべての人がそのために貢献』できてこそ、可能になります」とする一方で、「真の発展の追求において、他者の尊厳を侵すことは、発展の価値を落とすことにつながります」と警告された。

 メッセージの終わりで教皇は、世界経済フォーラムの50年間の実りを振り返りつつ、この会議で、今回の、そして未来の参加者が、『すべての人の総合的発展を目指す』強い責任感を保ち続けることを、願われた。

(編集「カトリック・あい」)

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(関連記事)1兆本の植林活動では不十分、グレタさんがトランプ氏表明に不満

(2020.1.21 ダボス発 ロイター) – スウェーデンの環境活動家グレタ・トゥンベリさんは21日、スイスのダボスで開催されているダボス会議で、トランプ米大統領が参加を表明した1兆本の植林活動を念頭に、「植林だけでは気候変動の解決に不十分だ」と述べた。

 グレタさんは「我々の家は火に包まれている」と昨年のダボス会議での発言を繰り返し、「無為が火に油を注いでいる」と行動を促した。

 トランプ氏はこの日、ダボス会議で演説し、米国が1兆本の植林活動に参加することを表明。一方で、環境活動家を「過去に愚かな予言を行ってきた人々の後継者」と非難し、石油・ガス業界の経済的な重要性を主張した。

 これに対してグレタさんは、各国指導者が「子どもは心配すべきではない。そう悲観的になるな。何も起きていない。静かにしていろ」と「空虚な発言や約束をしている」と批判した。

2020年1月22日

♰「私たちいまだに哀れな罪人だが、悪の奴隷ではない」-日曜正午の祈りで

(2020.1.19  VaticanNews  Linda Bordoni )

Pope Francis during the AngelusPope Francis during the Angelus 

 教皇は説教の中で、この日の典礼が、5日の「主の公現」、12日の「主の洗礼」とつながっており、「今日のミサで読まれた福音(ヨハネ福音書1章29-34節)は、私たちにイエスの顕現を語り続け、私たちへの神の愛に驚かされることを決して止めることのないよう、勧めています」とされた。

 教皇は、洗礼者ヨハネが「私は、“霊”が鳩のように天から降って、この方(イエス)の上にとどまる」のを見て、キリストを証しするという切迫した欲求を抑えられなくなった(32-34節参照)場面を取り上げ、「ヨハネは、心を揺さぶるような体験をしました。彼は、罪人たちと連帯している愛する神の子-を見たのです」と語られた。

 そして「聖霊はヨハネに、『前代未聞の新しさ』を理解させました-本当に革新的なこと、です… 実際、多くの宗教において、神に何かを捧げ、犠牲を差し出すのは人間… この場合、人類の救いのためにご自分の子を差し出すのは、神です」とされ、「ヨハネの驚きが、ミサの中で私たちが繰り返す深い意味をもつ言葉-『見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ』(29節)-に表れています」と指摘された。

 また教皇は、「洗礼者ヨハネは、信仰の旅を、新に始めることー父なる神から私たちのために与えられた慈しみに満ちる小羊、イエス・キリストから、新たに始めることを-を、私たちに勧めています」と述べ、「神の選択-私たちの側にいて、罪人たちとの連帯を示し、ご自身が重荷の全てを背負うことで、世界を悪から救うーという神の選択-に、もう一度驚かされましょう」と、会衆に呼びかけられた。

 そして、今日読まれたこの福音書の箇所から学ぶことのできる得られるもう一つは、洗礼者ヨハネが自身の体験で示したように、「『既にイエスを知っている』『イエスついて既にすべてのことを知っている』と思い込まないこと」を学ぶこと、と指摘された。

 また、「東洋と西洋に多くある歴史的な芸術の素晴らしく豊かな表現の一つ、「聖なる顔」-キリストの肖像―を、立ち止まって、じっくりと味わう機会を持つように… 私たちの目で、さらに心で、じっくりと味わいましょう。そして、聖霊に教え導かれるようにしましょう」と、会衆に勧められた。

 最後に教皇は「神の子は子羊となり、愛ゆえに犠牲となりました… イエスのみが、世の罪、私の罪を負い、苦しまれ、償います… 私たちから罪を取り去り、私たちは罪から解放され、悪の奴隷ではなくなります… 私たちはいまだに哀れな罪人ですが、奴隷ではない。子供たち、神の子供たちなのです!」と強調された。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

 

2020年1月20日

◎教皇連続講話「使徒言行録」最終回「使徒たちの宣教は、今もなお、私たちの手で続けられる」

教皇フランシスコ、一般謁見教皇フランシスコ、15日の一般謁見  (Vatican Media)

(2020.1.15 バチカン放送)

 教皇フランシスコは15日の水曜一般謁見でのカテケシス(教会の教えの解説)で、今回が最終回となる「使徒言行録」についての講話をされ、使徒聖パウロの殉教前のローマでの宣教活動について次のように話された。

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 使徒言行録を記した聖ルカはパウロのローマでの最後の様子を詳しく書き残してくれました。聖パウロは囚われの身ではありましたが、一軒の家を与えられ兵士の監視付ではありましたが、自由に神のみ言葉、福音を伝えることが出来ました。

 神の言葉に耳を傾けようとした多くの人々がパウロのもとを訪れました。パウロは家から出て自由に動き回ることは出来ませんでしたが、訪れる人々に話すことは全く自由でした。パウロの言葉を鎖で縛り付けることはできなかったのです。パウロの言葉は、多くの人々の心に、神の御言葉の種子をまき続けました。

 聖パウロのローマでの家は教会を象徴したいます。いかに誤解されようとも、偏見を持たれようとも、神を求め、福音に耳を傾けようとする、あらゆる人々に、教会は常に大きく開かれています。教会は、イエス・キリストにおいてその具体的な姿を示された神の愛を、すべての人々に伝えるために、いつも母親の心をもって、どんなに疲れていても、あらゆる人々を受け入れ続けているのです。

 聖ルカは、使徒言行録の「使徒たちの宣教」を「パウロの殉教」ではなく「パウロの宣教」で締めくくります。「使徒たちの宣教」が、今日もなお福音の旅路を続けていることを示唆しているようです。

 私たちはこの数か月、「良き知らせ」が世界中に広がっていく経過をたどってきました。「私たち1人ひとりが、勇気ある、喜びに満ちたキリストの宣教の使徒となるように」との呼びかけを、新たにしてくださるように、聖霊に願いましょう。そうして、パウロの足跡をたどる私たちが、この世界を、福音で満たし、私たちの共同体を、全ての人が復活された主と出会うことのできる場としますように」

(編集「カトリック・あい」)

2020年1月16日

♰「イエスは私たちに、柔和、率直、敬意を払う者であれ、と教えてくれる」-主の洗礼の日に

(2020.1.12 VaticanNews Linda Bordoni)

  主の洗礼の祝日の12日、教皇フランシスコは、サンピエトロ広場での正午の祈りの中の説教で、この日の朝、バチカンのシスチナ礼拝堂でなさった乳児32人の洗礼を思い起こし、今日のキリスト教徒が「イエスの柔和で率直な態度」にどのようにして倣わねばならないか、について話された。

 教皇は冒頭、乳児たちとその家族の為に祈るよう求めた後、この日のミサで読まれたマタイ福音書(3章13-17節)にあるイエスの受洗について取り上げ、洗礼を受けることを求めるイエスと洗礼者ヨハネとの対話に注目。

 本来なら、主から洗礼を受ける必要があるのはヨハネの方だが、「神は聖なる方であり、イエスが歩まれるのは神の道であり、私たちには予測不可能な道です」とされ、その道は、神の子が人類と神の間の距離を埋めるもの… イエスが完全に神の側におられるなら、完全に人類の側にもおられるのです」とされたうえで、だから、「イエスがヨハネに、『今はそうさせてもらいたい。すべてを正しく行うのは、我々にふさわしいことです』とヨハネに洗礼を求めるのです」と語られた。

 そして、「つまるところ、イエスは、父の計画ー子としての従順と連帯を通してもたらされる計画ーを、弱く、罪深い人間性をもって成し遂げるのです。それは謙遜の道、神のご自身の子供たちとの親密さの道です」と説かれた。

 さらに、教皇は、「イエスは、この世の潮流に逆らうやり方で、この世でのご自身の使命を果たします」とされ、「これは柔和な態度であり、イエスがご自身の謙遜、柔和さをもって私たちに教えるもの。率直さ、敬意、節度と内に秘めた振る舞いーそれは、今日の主の弟子たちにも求められていることです」と強調。

 「しかし、残念なことに、多くの人は、自分が主の弟子であることを自慢しています。彼らは、主の良い弟子ではありません… 良い弟子とは、イエスの弟子であることを見せびらかさない、謙虚な人、柔和な人、善を行う人です… キリスト教徒は、表に出て、他の人と会い、常に自分から提案し、相手に何かを課すことをせず、証言をし、実際の生活を人々と共にする人です」と念を押された。

 続けて教皇は、イエスがヨルダン川で洗礼を受けると、天が開かれ、聖霊が鳩の形で彼の上に降りてきた… そして、「これは私の愛する子、私の心に適う者」という声が天から聞こえた、というマタイ福音書の箇所(3章16-17節)を取り上げられ、今日の主の洗礼の祝日にあたって、私たちが自分が洗礼を受けた時の初心に帰ることを勧められ、次のように述べられた。

 「イエスがまさに御父の最愛の息子であるように、私たちも水と聖霊によって生まれ変わりました。そして、自分たちが御父の最愛の子供であり、御父の喜びの対象であり、他の多くの兄弟姉妹の中にいる兄弟姉妹であり、すべての男性と女性に対する御父の限りない愛を証しし、宣言するという壮大な使命を託されたのだ、ということを、私たちは知っています」。

 最後に教皇は、洗礼を受けた時がいつか知らない人々に、洗礼を受けた日を見つけ出すという「宿題」を出された。そして、毎年、自分が洗礼を受けた日を祝うように求め、「これは、私たちにとても良くしてくださる主に対する当然の義務でもある」ことに気付くよう、信徒1人1人に願われた。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

 

 

2020年1月13日

♰「広島、長崎の被爆者たちは核の悲劇を繰り返させない、と訴える『生きたともし火』」-在バチカン外交団への新年挨拶

(2020.1.9 バチカン放送)

 教皇フランシスコが9日、恒例の駐バチカン外交団と新年の会合を持たれ、バチカンと外交関係を持つ183カ国にマルタ騎士団と欧州連合を加えた185の国・組織の代表に新年の言葉をおくられた。

 この挨拶の中で、教皇は、昨年行われた海外司牧訪問や教会の行事を振り返りつつ、各地の紛争や緊張状態、未成年者の虐待、環境保全、核兵器非保有など、今日の世界と教会が抱える現状と課題を浮きぼりにされたうえで、「平和と人類の統合的発展のため、世界の人々に対話を促し、希望を抱くように励ます」バチカンの外交方針を示された。

 まず、教皇は、昨年初めにパナマで開かれた「世界青年の日(ワールドユースデー)」の「社会の未来と希望である若者たち」との出会いを、喜びをもって思い起こす一方、「聖職者を含む多くの大人たちによって、若者や子どもたちの尊厳に対する重大な犯罪が行われている」ことに遺憾を表され、昨年2月に全世界の司教協議会会長を招集して開いた未成年者の保護をめぐる会議に触れ、「様々な角度からの規則をもってこの問題に対処していく」決意を新たにされた。

 さらに、若者たちによって積極的に提起されている環境問題について、昨秋のアマゾン地域シノドス(代表司教会議)でも、環境問題が重要な議題となったことを指摘したうえで、統合的な「エコロジー的回心」が急務になっている、と強調。「地球温暖化防止への国際社会の賢明な取り組み」を呼びかけられた。

 また教皇は、昨年の海外司牧訪問の中で、アラブ首長国連邦訪問の際、アル=アズハルのグランド・イマーム、アフマド・アル・タイーブ師と、共同文書「世界平和のための人類の兄弟愛」に署名したことに言及。「この文書が宗教の自由と新しい世代の諸宗教対話を促進するもの」となるよう願われた。

 今日の世界情勢の中については、特に「シリアの平和と再興のための解決策」を緊急課題として示されるとともに、イランと米国の間で危機的事態が続いていることを深く憂慮され、「対立を回避し、国際法の尊重のうちに、対話と自制を保つ」ことを関係者に強く訴えられた。

 さらに、昨年11月に日本訪問にも言及、特に世界唯一の原爆被爆国で広島、長崎の現地を訪れ、「人類が体験しうる限りの苦しみと恐怖にじかに触れました… 広島、長崎の被爆者の証言に耳を傾け、『核兵器による人類絶滅の脅威の上に真の平和を築くことはできない』との思いを強くしました」と話された。

 そして、「被爆者たちは、1945年8月に起きた恐怖と、今日まで続く筆舌に尽くしがたい苦しみ、後世に決して繰り返させないとの共通の思いを、『生きたともし火』として保ち続けています」とされたうえで、「核兵器のような、高度な破壊力を持った兵器による支配と破壊へのあらゆる願望を前に、人類の良心がより強まるよう、被爆者たちの証言は、犠牲者たちの記憶を呼び覚まし、保っているのです… 核兵器は、恐怖や、不信、敵意を広めるだけでなく、希望を破壊します。核兵器の使用は、倫理に反するものであり、人類とその尊厳に対するだけでなく、私たちの共通の家のあらゆる未来に対する犯罪です」と強調。 ともしび

 「核兵器のない世界は可能であり、必要です」と述べた教皇は、「大量破壊兵器の保有が世界を安全にするわけではないことを十分に意識する」ように世界の政治指導者たちに訴えられた。

(編集「カトリック・あい」)

2020年1月10日

◎教皇連続講話:使徒言行録⑯「パウロの航海は、私たちに『試練を生きる』ことを教えてくれる」

Pope Francis at the General Audience  (Vatican Media)

(2020.1.8 VaticanNews Lydia O’Kane)  教皇フランシスコは8日、新年初の定例謁見に臨まれ、使徒言行録についてのカテキーシスを続けられた。

 今回は、聖パウロが囚われの身となって、陸路ではなく海路で帝国の都、ローマに向かった箇所を取り上げられ、これによって、「あなたがたは… 地の果てまで、私の証人となる」(使徒言行録1章8節)という、復活されたイエスの言葉が実現された、と指摘。

 パウロは、海路を護送される途中、船がクレタ島を離れようとした時、海が荒れる季節で航海が危険となったのを知って、船に乗っている人々に、このまま航海を続けようとすれば、人命さえも危うくなると警告した(同27章9-10節参照)。だが、人々は彼の警告を聞かず、出港し、何日も暴風に襲われ、本当に危険な状態になったが、パウロは「元気を出しなさい… 私は神を信じています… 必ずどこかの島に打ち上げられます」(22-26章)と人々を励ました。

 そして、船は破壊されたものの、乗員全員が無事にマルタ島に上陸できた(27章39-28章6節参照)。だが、パウロは現地の人々が寒さをしのぐために焚いてくれた火の中から出てきた毒蛇に噛まれてしまう。それでも彼はその毒蛇を火の中に振り落とし、何の害も受けずに済んだ(28章5-6節参照)。そして、病に苦しんでいる島の人々を癒した。

 このような出来事を振り返り、教皇は「パウロの航海は、洗礼の水の中で死から生への道を通して、神がそのご意思で私たちを顧みてくださる、という象徴とみることができます」とされ、「(パウロのように)『試練を受けたキリスト者』は、苦しんでいる人に確実に近づき、心を開き、他者との連帯に敏感になることができるのです」と強調された。

 さらに、「パウロは、キリストにひたすら付き従うことで、私たちに『試練を生きる』ことを教えてくれます… 『明らかな失敗の中でさえ、神はどんな状況でも行動できる』『愛ゆえに自分自身を神に捧げる人は多くの実を結ぶ』という確信を深めるために」と説かれた。

 最後に教皇は、「試練の中にある私たちを支えてくださいますように。今日、乗った船が難破し、私たちの海岸に着く人々を、心を開いて迎えられますように」と主に祈られた。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

 

2020年1月9日

♰ 「神の前にひざまずけないなら、神学も司牧も意味を持たない」-主の公現

教皇フランシスコ、2020年1月6日、「主の公現」のミサで バチカン・聖ペトロ大聖堂教皇フランシスコ、2020年1月6日、「主の公現」のミサで バチカン・聖ペトロ大聖堂  (Vatican Media)

(2020.1.6 バチカン放送) 教皇フランシスコは6日、「主の公現」のミサをバチカンの聖ペトロ大聖堂で捧げられた。

(「主の公現」とは、幼子イエスへの東方三博士の訪問や、キリストの洗礼、カナでの最初の奇跡など、キリストが公に人々の前に姿を現されたこと。6日は主の公現を記念し、イエスを通して神の栄光がすべての人々に現れたことを祝う日だが、イタリアやバチカン以外の米国や日本では5日の祭日に祝われている。)

 ミサ中の説教で教皇は、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」(マタイ福音書2章2節)という占星術の学者たちの言葉を引用され、「『礼拝する』とは、キリスト者たちが目指すもの、すなわち主に向かって歩むことです」と述べられた。

 さらに、キリスト教生活の歩みは、「主に向かうものであり、自分たちに向かうものではありません」とされ、「神を礼拝することを望む東方三博士」の傍らで、「神を礼拝することができないでいる人々」の存在を福音書の中から指摘された。そして、後者の1人として、まず、ヘロデの存在を挙げた。

 教皇は、「ヘロデは占星術の学者たちを呼び寄せ、この幼子が見つかったら知らせるよう命じ、『私も行って拝もう』(マタイ福音書2章8節)と語りました… ヘロデは『拝む』という言葉を使っていますが、実際には自分自身だけを崇拝し、この幼子を邪魔な存在と考えていたのです」と述べ、「人は神を拝まない時、自分自身を崇めるようになり、神に仕えるどころか、神を自分たちのために利用しようとするのです」と話された。

 「神を礼拝することができない人々」として、教皇は次に挙げられたのは、民の祭司長たちや律法学者たち。

 ヘロデがこれらの人々を集め、メシアはどこに生まれることになっているかを問いただすと、彼らは非常な正確さをもって、預言者の言葉を引用しながら、「それはユダの地、ベツレヘムです」と答えた。だが、彼ら自身は幼子を拝みに行こうとはしなかった。教皇は「彼らの振る舞いは、キリスト教生活は、知識だけでは十分でないことを示しています」と強調。「自分から抜け出し、神と出会い、拝むことなしに、神を知ることはできません。神の前にひざまずけないなら、神学も効果的な司牧も意味を持ちません」と強調された。

 そして、「拝む」ことについて、「自分自身への隷属という最も重い隷属から解放され、自分ではなく、神を中心に置くこと」「多くの要求なしに、『ただイエスと共にいたい』という思いだけをもって、イエスと出会うこと」「お金や、消費や、快楽、成功など、拝むべきでないものを学ぶこと」「あらゆる距離を超える愛の神秘を前に、私たちに互いを兄弟姉妹と気付かせること」と説かれた。

 最後に「多くのキリスト者は祈りはしますが、礼拝ができていません… 『自分はキリスト者として神を礼拝しているか』『日常の中で礼拝の時間を持っているか』『礼拝のためのスペースを確保しているか』を問い直すように」と勧められた。

(編集「カトリック・あい」)

2020年1月7日

♰「クリスマスの意味は聖性の賜物をいただくこと」-主の公現の日、正午の祈りで

(2020.1.5 VaticanNews  Devin Watkins)

  教皇フランシスコは今年初めての日曜日、降誕節の第二日曜の5日、正午の祈りの中で、イエスの誕生の意味について観想された。(世界の国々の中にはこの日を主の公現の祝日とする国が少なくないが、バチカンとイタリアは伝統的に6日をこの祝日としている。)

*言葉は肉となった

 教皇はまず、ヨハネの福音書が第一章で、神の子である永遠の言葉が「肉となった」(14節)というショッキングなメッセージを取り上げ、「神の子は、人々の中に住むようになっただけでなく、人々の1人、私たちの1人になったのです!」と語られた。

 そして、そのことは「私たちが今や、法律や制度のような抽象的な原理に従うよりも、私たちの肉を帯びられた神の子に倣って生きることができるようになったこと、を意味しています」と指摘。

*私たちを神の子とするために

 続けて、教皇は、聖パウロは、イエス・キリストにおいて実現された愛の計画ゆえに、神の恩恵を感謝している、とし、「この計画の中に、私たち1人ひとりが自分の基本的な使命を見出します-私たちはイエス・キリストを通して神の子になることを運命づけられています。神の子は、私たち、男性、女性を神の子にするための人となられたのです」と述べられた。

 そして、「私たちは、キリスト降誕の場面で父との親子関係を深く思い… 今日のミサ典礼は、キリストの福音が『人類に対する神の計画の完全な啓示』であり、おとぎ話や、神話、あるいは教訓的なお話ではないことを、確認するのです」と説かれた。

*愛において聖とされる

 さらに教皇は、私たちは一つの問いと向き合っている、それは、「私たちの中に神の子の誕生をお示しになり続けることで、主は私にどんな具体的な事業を私たちにお任せになったのか」ということだ、とされ、「聖パウロは、私たちに、クリスマスの意味についての答えをくれています… 『神は、御前で、聖なる、汚れの無い者として、慈しみの中で私たちを選ばれたのだ』と… 主がいつも私たちの中に来て、御言葉の賜物を与えてくだされば、私たち1人ひとりは、この呼びかけに応えられるのです-愛において聖人になるために」と語られた。

*隣人のためを思って

 教皇は、聖性について、「神に属し、神と交わり、神の限りない善を表明すること」を意味する、とされたうえで、「聖性を恵みの贈り物として受け取る人は誰でも、日常生活で、他の人との出会いの中で、具体的な行動によって、必ず実を結びます」、そして「愛に基づいて行動することは、私たちを『汚れのない者』とします… 『汚れがなくなる』のは、『私がしみを落とす』からではなく、『神が私たちの中に入って来られる』という意味なのです。神の無償の贈り物が私たちの中に入り、私たちはそれを大切にし、他の人にそれを与えるのです」と強調された。

 そして最後に、聖母マリアに「イエス・キリストにおいて実現された神の愛の計画を、私たちが喜びと感謝をもって受け入れるのをお助けくださいますように」と祈られた。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

 

2020年1月6日

♰「戦争は死と破壊しかもたらさない」-教皇、米・イラン情勢悪化の中で、対話と自制を呼びかけ

(2020.1.5 VaticanNews Devin Watkins)

 米国とイランの間の関係悪化が深刻になる中で、教皇フランシスコが5日の正午の祈りに続いて、国々に自制と対話を強く求められた。

 「戦争は死と破壊しかもたらしません」。教皇は、 特定の国を名指しすることは避けつつ、世界の多くの地域で「ひどい緊張が起きている」とされ、「私は全ての関係者に対して、対話と自制を強く働かせ、敵の影を消すように呼びかけます」と強調。その様な願いを持って沈黙のうちに祈るよう、全ての人に求めた。

 教皇フランシスコの呼びかけは、米軍が3日、イラン革命防衛隊のスレイマニ司令官をイラクで空爆して殺害、イラン国内の反米感情の高まりを背景に同国指導部は米国に報復すると宣言するなど、米国とイランの間の緊張の高まっているのを受けたものだ。

 イラクの首都バグダッドの東方カルデア典礼カトリック教会のルイス・ラファエル・サコ総主教も4日、この米軍によりイラクで行われたイラン軍高官の殺害について、イランの人々を代表して、強い遺憾の意を表明。「私たちの国が、自らの国土、財産、市民を守ることのできる主権国家ではなく、仕返しの場になってしまったのは、嘆かわしいことです」の述べ、節度ある行為を保ち、道理に従って行動し、(戦闘回避へ)合意に努めるよう、すべての国に呼びかけている。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

 

 

2020年1月6日

♰「聖母は御子を示すことで私たちを祝福される」神の母・聖マリアの祝日正午の祈り

2020年1月1日アンジェラスの祈り2020年1月1日アンジェラスの祈り  (AFP or licensors)

(2020.1.1 バチカン放送)

 教皇フランシスコは2020年元日、「神の御母聖マリア」の祭日にあたって、正午の祈りの集いを行われ、聖ペトロ広場に集まった信徒たちに、神の御母について次のように話された。

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親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 新年あけましておめでとうございます。

 昨晩、2019年最後の日を、神への感謝の中に過ごしました。今日は、2020年最初の日を、昨晩と同じ神への感謝と賛美の中に始めます。

 新年最初の日、典礼暦ではナザレトの乙女、救い主イエスをこの世にもたらした「神の御母聖マリアの大祝日」を祝います。このマリアの子は、すべての人にとって、全世界にとっての、神からの祝福そのものです。

 イエスはこの世の悪を根こそぎ倒しました。イエスのもたらす救いは魔法ではありません。忍耐強い救いです。それは愛に満ちた忍耐をもたらします。「愛の忍耐」です。愛は私たちを忍耐強くしてくれます。私たちは何回も忍耐を失います。ですから、私たちはベトレヘムの馬小屋を観想しながら、信仰の目で、まったく新たにされた世界、悪の支配から解放された世界、まぐさ桶にに横たわる幼子に救い主の王権を見るのです。

 今日、神の御母は、私たちを祝福してくれます。聖母は私たちをどのように祝福されるのでしょうかーその御子を示すことによってです御子を抱き、私たちに見せ、祝福してくれるのです。

 聖母はこうして、全教会を祝福し、全世界を祝福します。ベトレヘムで天使たちが歌ったように、「すべての民に喜び、人々には神の栄光と平和」をイエスはもたらすのです。これこそ、一年の初めの日を、パウロ六世が平和の日に定めた理由なのです。

(編集「カトリック・あい」)

2020年1月2日

♰「神による人類の救いは女性の体から…女性への暴力は神への冒涜」-元旦、神の母・聖マリアの祝日に

 

  2020年元日、教皇フランシスコはバチカンの聖ペトロ大聖堂で「神の母聖マリア」の祭日のミサを捧げられた。また、この日は、カトリック教会の「世界平和の日」を記念し、今年の第53回「世界平和の日」のテーマには「希望の道である平和――対話、和解、エコロジカルな回心」が選ばれた。

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 「時が満ちると、神は、その御子を女から生れた者… としてお遣わしになりました」(ガラテヤの信徒への手紙4章4節)。

 教皇はミサの説教で、神の御子が「女から生まれた」、「マリアの胎内に宿られた」(ルカ福音書2章21節)という神秘を観想。

 「一人の女の胎内において、神と人類は二度と離れることのないように一致したのです」、「新年の最初の日、私たちは一人の女性の胎内において始まった、この神と人類の結びつきを祝います」と話された。

 マリアの「女性」であり「母」であるという本質を強調しながら、「女性であるマリアから救いが生まれ、この女性なしでは救いはありませんでした」とされ、「それゆえに、私たちは一年を聖母のしるしのもとに始めるのです」と語られた。

 そして、「人類の再生は女性から始まり」、「女性は命の源」であるにもかかわらず、「彼女たちは、絶えず感情を害され、痛めつけられ、強姦され、自ら身体を売り、子宮に宿す命を圧迫するように仕向けられます。女性に加えられる暴力は、女性から生まれた神を冒涜するものです。人類の救いは女性の身体からもたらせれたのです」と強調。

 さらに、「人類の救いは、女性の体からもたらされました。ですから、女性の体をどのように扱うかによって、人間性のレベルが測られます。消費されるための外見としての広告、利潤、ポルノ画像など女性を冒涜する祭壇の上で、女性の体が何回犠牲にされているのでしょうか。女性の体は、消費主義から解放されねばなりません。尊重され、敬意を払われねばなりません」と念を押された。

 「女性の体は、この世で最も高貴な肉体であり、私たちを救われた『愛の神』を身ごもり、生んだのです!今日、母性は侮辱されています。なぜなら、私たちの関心を引く唯一の『成長』は『経済的な成長』だからです。自分の子宮に宿した存在がより良い未来を迎えられるようにと必死に望み、困難な旅をする危険を冒す母親たちがいます。しかし、彼女たちは、飽食し愛の心を欠いた人々によって余計者と見なされています」と現状に対する反省を求められた。

 教皇はまた、「マリアはこれらのことをすべて心に留めて、思い巡らしていた」(ルカ福音書2章19節)という、聖母の態度にも注目された。

 そして、「マリアのように、心で物事をしっかり見ることのできる人だけが、人や物事の内部を見通すことができ、人々をその過ちや弱さで判断せず、困難にも希望を見出し、すべてを神に委ねることができるのです」と説かれた。

 最後に教皇は、新年を始めるに当たり、「自分は物事を心でしっかり見ているか」「一緒にいる人々のために心を砕いているか」を問い直すよう招かれた。そして、この一年、私たちが人のことを心にかけ、世話をする気持ちを持てるよう、その恵みを願うよう求められた。

 

(編集「カトリック・あい」=聖書の日本語の引用は「聖書協会 共同訳」を使用)

2020年1月2日