♰ 「神の前にひざまずけないなら、神学も司牧も意味を持たない」-主の公現

教皇フランシスコ、2020年1月6日、「主の公現」のミサで バチカン・聖ペトロ大聖堂教皇フランシスコ、2020年1月6日、「主の公現」のミサで バチカン・聖ペトロ大聖堂  (Vatican Media)

(2020.1.6 バチカン放送) 教皇フランシスコは6日、「主の公現」のミサをバチカンの聖ペトロ大聖堂で捧げられた。

(「主の公現」とは、幼子イエスへの東方三博士の訪問や、キリストの洗礼、カナでの最初の奇跡など、キリストが公に人々の前に姿を現されたこと。6日は主の公現を記念し、イエスを通して神の栄光がすべての人々に現れたことを祝う日だが、イタリアやバチカン以外の米国や日本では5日の祭日に祝われている。)

 ミサ中の説教で教皇は、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」(マタイ福音書2章2節)という占星術の学者たちの言葉を引用され、「『礼拝する』とは、キリスト者たちが目指すもの、すなわち主に向かって歩むことです」と述べられた。

 さらに、キリスト教生活の歩みは、「主に向かうものであり、自分たちに向かうものではありません」とされ、「神を礼拝することを望む東方三博士」の傍らで、「神を礼拝することができないでいる人々」の存在を福音書の中から指摘された。そして、後者の1人として、まず、ヘロデの存在を挙げた。

 教皇は、「ヘロデは占星術の学者たちを呼び寄せ、この幼子が見つかったら知らせるよう命じ、『私も行って拝もう』(マタイ福音書2章8節)と語りました… ヘロデは『拝む』という言葉を使っていますが、実際には自分自身だけを崇拝し、この幼子を邪魔な存在と考えていたのです」と述べ、「人は神を拝まない時、自分自身を崇めるようになり、神に仕えるどころか、神を自分たちのために利用しようとするのです」と話された。

 「神を礼拝することができない人々」として、教皇は次に挙げられたのは、民の祭司長たちや律法学者たち。

 ヘロデがこれらの人々を集め、メシアはどこに生まれることになっているかを問いただすと、彼らは非常な正確さをもって、預言者の言葉を引用しながら、「それはユダの地、ベツレヘムです」と答えた。だが、彼ら自身は幼子を拝みに行こうとはしなかった。教皇は「彼らの振る舞いは、キリスト教生活は、知識だけでは十分でないことを示しています」と強調。「自分から抜け出し、神と出会い、拝むことなしに、神を知ることはできません。神の前にひざまずけないなら、神学も効果的な司牧も意味を持ちません」と強調された。

 そして、「拝む」ことについて、「自分自身への隷属という最も重い隷属から解放され、自分ではなく、神を中心に置くこと」「多くの要求なしに、『ただイエスと共にいたい』という思いだけをもって、イエスと出会うこと」「お金や、消費や、快楽、成功など、拝むべきでないものを学ぶこと」「あらゆる距離を超える愛の神秘を前に、私たちに互いを兄弟姉妹と気付かせること」と説かれた。

 最後に「多くのキリスト者は祈りはしますが、礼拝ができていません… 『自分はキリスト者として神を礼拝しているか』『日常の中で礼拝の時間を持っているか』『礼拝のためのスペースを確保しているか』を問い直すように」と勧められた。

(編集「カトリック・あい」)

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2020年1月7日