♰「イエスは私たちに、柔和、率直、敬意を払う者であれ、と教えてくれる」-主の洗礼の日に

(2020.1.12 VaticanNews Linda Bordoni)

  主の洗礼の祝日の12日、教皇フランシスコは、サンピエトロ広場での正午の祈りの中の説教で、この日の朝、バチカンのシスチナ礼拝堂でなさった乳児32人の洗礼を思い起こし、今日のキリスト教徒が「イエスの柔和で率直な態度」にどのようにして倣わねばならないか、について話された。

 教皇は冒頭、乳児たちとその家族の為に祈るよう求めた後、この日のミサで読まれたマタイ福音書(3章13-17節)にあるイエスの受洗について取り上げ、洗礼を受けることを求めるイエスと洗礼者ヨハネとの対話に注目。

 本来なら、主から洗礼を受ける必要があるのはヨハネの方だが、「神は聖なる方であり、イエスが歩まれるのは神の道であり、私たちには予測不可能な道です」とされ、その道は、神の子が人類と神の間の距離を埋めるもの… イエスが完全に神の側におられるなら、完全に人類の側にもおられるのです」とされたうえで、だから、「イエスがヨハネに、『今はそうさせてもらいたい。すべてを正しく行うのは、我々にふさわしいことです』とヨハネに洗礼を求めるのです」と語られた。

 そして、「つまるところ、イエスは、父の計画ー子としての従順と連帯を通してもたらされる計画ーを、弱く、罪深い人間性をもって成し遂げるのです。それは謙遜の道、神のご自身の子供たちとの親密さの道です」と説かれた。

 さらに、教皇は、「イエスは、この世の潮流に逆らうやり方で、この世でのご自身の使命を果たします」とされ、「これは柔和な態度であり、イエスがご自身の謙遜、柔和さをもって私たちに教えるもの。率直さ、敬意、節度と内に秘めた振る舞いーそれは、今日の主の弟子たちにも求められていることです」と強調。

 「しかし、残念なことに、多くの人は、自分が主の弟子であることを自慢しています。彼らは、主の良い弟子ではありません… 良い弟子とは、イエスの弟子であることを見せびらかさない、謙虚な人、柔和な人、善を行う人です… キリスト教徒は、表に出て、他の人と会い、常に自分から提案し、相手に何かを課すことをせず、証言をし、実際の生活を人々と共にする人です」と念を押された。

 続けて教皇は、イエスがヨルダン川で洗礼を受けると、天が開かれ、聖霊が鳩の形で彼の上に降りてきた… そして、「これは私の愛する子、私の心に適う者」という声が天から聞こえた、というマタイ福音書の箇所(3章16-17節)を取り上げられ、今日の主の洗礼の祝日にあたって、私たちが自分が洗礼を受けた時の初心に帰ることを勧められ、次のように述べられた。

 「イエスがまさに御父の最愛の息子であるように、私たちも水と聖霊によって生まれ変わりました。そして、自分たちが御父の最愛の子供であり、御父の喜びの対象であり、他の多くの兄弟姉妹の中にいる兄弟姉妹であり、すべての男性と女性に対する御父の限りない愛を証しし、宣言するという壮大な使命を託されたのだ、ということを、私たちは知っています」。

 最後に教皇は、洗礼を受けた時がいつか知らない人々に、洗礼を受けた日を見つけ出すという「宿題」を出された。そして、毎年、自分が洗礼を受けた日を祝うように求め、「これは、私たちにとても良くしてくださる主に対する当然の義務でもある」ことに気付くよう、信徒1人1人に願われた。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

 

 

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2020年1月13日