☩「神の和解を受け入れなさい」-教皇が四旬節メッセージ

教皇フランシスコの2020年度四旬節メッセージ教皇フランシスコの2020年度四旬節メッセージ 

 教皇フランシスコは24日、2020年度の「四旬節」に入るにあたって、メッセージを発表された。

 カトリック教会の典礼暦は、26日に記念される「灰の水曜日」から、「復活祭」の準備期間、「四旬節」に入る。祈りと償いの時である「四旬節」を信者たちがより有意義に過ごし、復活祭のためにふさわしい準備ができるように、教皇は毎年この時期に、メッセージをおくられる。

 今年の「四旬節」に教皇フランシスコが選ばれたテーマは「キリストに代わってお願いします。神の和解を受け入れなさい」(コリントの信徒への手紙2・ 5章20節)。

 教皇はこのメッセージで、四旬節を「『イエスの死と復活』という偉大な神秘の新たな記念を準備する、またとない機会」とし、神への回心を、次のように促されている。

(以下、メッセージ要約)。

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*過ぎ越しの神秘は、回心の基礎

 イエスの死と復活の福音に耳を傾け、それを受け入れること。キリスト者の喜びは、福音の告知「ケリグマ」から生まれます。

 福音を信じる者は「私たちの命は自分たち自身が創造したのだ」という偽りを退け、「命は、それを豊かに与えることを望まれた父なる神の愛によって、生まれた」と知るようになります(参照:ヨハネ福音書10章10節)。

 もし「偽りの父」(参照:ヨハネ福音書8章45節)の巧みな誘惑の声に耳を傾けるなら、虚無の深遠に突き落とされ、地上の地獄を味わうことになるでしょう。

*回心は急務

 過ぎ越しの神秘を深く観想することは、有益なことです。この神秘のおかげで、私たちに神の慈しみがもたらされたのです。神の慈しみの体験は、十字架につけられ、復活された主と、一対一で向き合う「心と心の対話」「友と友との対話」によってのみ、可能です。

 四旬節で「祈り」が大切なのは、この為です。「祈り」は一つの義務である以前に、常に先立って私たちを支えてくださる神の愛にふさわしい者になりたい、という気持ちの表現です。

 実際、キリスト者は「自分は愛されるに値しない者だ」という自覚のうちに祈ります。「祈り」には様々な形がありますが、神の御目に真に重要なのは、その「祈り」が私たちの心を奥底まで掘り下げ、神とその御旨により一層、向き合うために、その頑なな心に切り込んでいるかどうかです。

 この四旬節に、イスラエルのように荒れ野に導かれ(ホセア書2章16節)、そこで初めて私たちの「花婿」の声を聞き、その声を、心の中に深く響かせなくてはなりません。

*子らとの対話を情熱的に望まれる神

 主が私たちの回心のために再びくださるこの機会を、当たり前と思ってはなりません。この新しい機会が、私たちに感謝を呼び覚まし、私たちの無気力を揺さぶるものとなる必要があります。私たちの生活、また教会や世界における悪の存在にもかかわらず、生き方を変えるように与えられたこの機会は、私たちとの救いの対話を絶つまい、とされる神の粘り強い御旨の表れなのです。

*自分のためにため込まず、分かち合うべき豊かさ

 「過ぎ越しの神秘を生活の中心に据える」とは、十字架につけられたキリストの御受難を通し、戦争や、幼子から高齢者に至る命に対する様々な非道な行い、暴力、そして、環境災害、富の不平等な分配、人身売買などによる多くの犠牲者の中に、憐みを感じることを意味しています。

 より平等な世界を構築するために、皆が関わる形として、自分の持っている物を最も貧しい人々と分かち合うように、すべての善意の人々に呼びかけることは、今日も重要です。愛徳における分かち合いは、人間を一層、人間らしくします。富を溜め込むことは、人間を利己主義の中に閉じ込め、愚かにしてしまいます。

 こうしたことから、2020年度の四旬節中の3月26日から28日にかけて、アッシジに若い経済専門家や企業家たちを招き、より正しく包括的な経済を目指すための集いが開かれます。

 この四旬節、「神と和解させていただくように」との呼びかけを受け入れ、過ぎ越しの神秘の中心に眼差しを据えながら、神との開かれた誠実な対話に向き合うことができるように、聖母の取り次ぎを祈りましょう。

(編集「カトリック・あい」=聖書日本語訳は「聖書協会 共同訳」を使用)

*カトリック中央協議会の日本語訳全文以下の通り

2020年四旬節教皇メッセージ 「キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい」(二コリント5・20)

親愛なる兄弟姉妹の皆さん

イエスの死と復活という偉大な神秘を新たな心で記念するために備えるのにふさわしい季節を、主は今年もまた、わたしたちに与えておられます。この神秘こそが、個人、共同体としてのキリスト者の生活の礎です。わたしたちは心と思いを尽くして、絶えずその神秘に立ち返らなければなりません。わたしたちがその霊的な力にすすんで関わり、広い心で自由に応えて受け入れるほど、その神秘はわたしたちのうちで広がり続けます。

1. 過越の神秘、それは回心の基盤
キリスト者の喜びは、イエスの死と復活の良い知らせ、すなわちケリュグマを聞いて受け入れることから生じます。ケリュグマは、「本物で、真実で、具体的なので、正直で豊かな対話に満ちた関係をもたらしてくださる」(使徒的勧告『キリストは生きている』117)愛の神秘を要約しています。この知らせを信じる人は、自分のいのちの源は自分自身にあるという偽りを退けます。いのちはまさに御父の愛から、いのちを豊かに与えたいという御父のみ旨からこそ生じます(ヨハネ10・10参照)。けれども、「偽り者の父」(同8・44参照)がそそのかす声に耳を傾けるなら、不条理の深淵に陥り、この地上ですでに地獄を見る恐れがあります。人間が個人として、集団として経験したあまりにも多くの悲劇的な出来事が、痛ましくも物語っているとおりです。

ですからこの2020年の四旬節にあたり、わたしは使徒的勧告『キリストは生きている』の中で若者に向けて記したことを、あらゆるキリスト者と分かち合いたいと思います。「十字架につけられたキリストの広げた腕を見つめなさい。幾度も幾度も繰り返し救っていただきなさい。そして自分の過ちを告白しようとするときは、罪の憂いから解き放ってくださるキリストのあわれみを、固く信じてください。深い思いがこもった流れるその血をじっと見つめ、その血で清めていただきなさい。そうすればあなたは、つねに新たにされるでしょう」(123)。イエスの過越は過去の出来事ではありません。聖霊の力によって、つねに今ここにある出来事です。そして、わたしたちが苦しんでいる多くの人々のうちに、信仰によってキリストのからだを見て触れられるようにしてくれるのです。

2.回心の緊急性
過越の神秘をより深く観想することは、皆さんのためになることです。神のいつくしみは、その神秘を通して与えられるのです。「わたしを愛し、わたしのために身をささげられた」(ガラテヤ2・20)かた、十字架につけられ復活した主と「顔と顔を合わせ」てはじめて、神のいつくしみを味わうことができます。それは心と心との対話、友と友との対話です。ですから祈りが、四旬節においてとりわけ重要なのです。祈りは、義務というよりはむしろ、つねにわたしたちに先立ち、わたしたちを支えてくださる神の愛にこたえる必要の表れです。キリスト者は現に、身に余るほどに愛されていることを自覚しつつ、祈りをささげています。祈りにはさまざまなかたちがありますが、神の目から見て真に大切なことは、祈りがわたしたちの心の奥を深く掘り下げ、心のかたくなさを和らげているかどうかです。それによりわたしたちは、よりいっそう神とそのみ旨へと向かう回心ができるのです。

ですから、そのためにふさわしいこの期間に、イスラエルの民のように荒れ野に導かれましょう(ホセア2・16参照)。そうすれば、花婿であるかたの声をついに聞き、その声を心のうちで、より深く意欲をもって響かせることができるでしょう。そのかたのことばにすすんで関わればそれだけ、わたしたちに無償で与えられる主のいつくしみをますます味わえるようになります。ですから、主への回心の時期や方法を司るのは自分だといううぬぼれた思い違いで、この恵みの時を無駄に過ごすことのないようにしましょう。

3.ご自分の子らとの対話を望まれる神の熱意
回心にふさわしい時を主が再び与えてくださることを、当然のことと捉えてはなりません。この新しい機会は、感謝の気持ちを生じさせ、わたしたちを惰眠から目覚めさせるものであるべきです。教会生活や世界と同様、わたしたちの生活に、ときに劇的にすらなる悪の存在があるにもかかわらず、わたしたちの生き方を変えるためにこの季節が与えられているということは、わたしたちとの救いの対話を途切れさせたくないという神の揺るぎない熱意の表れなのです。十字架につけられたイエスを「神はわたしたちのために罪となさいました」(二コリント5・21)。そのイエスにおいて、神の熱意は、ご自分の独り子にわたしたちのすべての罪を負わせるほどに、また教皇ベネディクト十六世が述べたように、「自らに逆らう神のわざ」(回勅『神は愛』12)となるほどまでに高まります。神はまさに、ご自分の敵さえも愛しておられるのです(マタイ5・43-48参照)。

神が、御子の過越の神秘を通して根づかせたいと願っておられる一人ひとりとの対話は、「何か新しいことを話したり聞いたりすることだけで、時を過ごしていた」(使徒言行録17・21)アテネの住人がしていたようなものとは違います。空虚で浅薄な好奇心から生まれるこうしたおしゃべりは、どの時代においても世俗性の特徴であり、わたしたちの日々の生活の中でも、誤ったかたちのコミュニケーション手段になりかねません。

4.独り占めせずに分かち合う富
過越の神秘をわたしたちの生活の中心に据えるということは、戦争や、胎児から高齢者に至るまでのいのちに対する虐待、さまざまなかたちの暴力、環境災害、地上の富の不公平な分配、あらゆる種類の人身取引、偶像の一つである利益を求めるあくなき欲望、それらの無数の罪なき犠牲者の中におられる十字架につけられたキリストの傷に、あわれみを覚えることです。

自分の所有物を、施しを通して困窮している人に分け与えるよう、善意の人々に呼びかけることは、今日においても重要なことです。施しは、より公正な世界を築くために個人として参与する一つの方法です。愛のわざを通して分け与えることは、人をより人間らしくします。一方、ため込むという行為は、人を利己心の中に閉じこめ、人間らしさを奪う恐れがあります。わたしたちは、さらに踏み込んで、経済の構造的な側面について考えることができますし、そうすべきです。ですから2020年四旬節の3月26日から28日の間、わたしは、経済を現状よりも公正で包摂的なものにするために、若い経済学者と実業家、チェンジメーカー(社会起業家)とアッシジで会議を行います。教会の教導権が何度も繰り返し教えているように、政治は愛徳の傑出した一形態です(教皇ピオ十一世「イタリア・カトリック大学連盟(FUCI)での講話(1927年12月18日)」参照)。同じことが経済活動にもいえます。同じ福音的な精神、真福八端の精神をもってたずさわることができるのです。

神と和解させていただきなさいという呼びかけをわたしたちが受け入れ、過越の神秘を心の目で見つめ、神との開かれた真摯な対話に心を向けることができるよう、至聖なるマリアの執り成しをこの四旬節に願い求めます。そうすればわたしたちも、キリストが弟子たちになるようにと言われた、地の塩、世の光(マタイ5・13-14参照)となることができるでしょう。

フランシスコ ローマ サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂にて 2019年10月7日 ロザリオの聖母の記念日

 MESSAGE OF HIS HOLINESS POPE FRANCIS FOR LENT 2020 “We implore you on behalf of Christ, be reconciled to God” (2 Cor 5:20)

Dear Brothers and Sisters,

This year the Lord grants us, once again, a favourable time to prepare to celebrate with renewed hearts the great mystery of the death and resurrection of Jesus, the cornerstone of our personal and communal Christian life. We must continually return to this mystery in mind and heart, for it will continue to grow within us in the measure that we are open to its spiritual power and respond with freedom and generosity.

1. The paschal mystery as the basis of conversion

Christian joy flows from listening to, and accepting, the Good News of the death and resurrection of Jesus. This kerygma sums up the mystery of a love “so real, so true, so concrete, that it invites us to a relationship of openness and fruitful dialogue” (Christus Vivit, 117). Whoever believes this message rejects the lie that our life is ours to do with as we will. Rather, life is born of the love of God our Father, from his desire to grant us life in abundance (cf. Jn 10:10). If we listen instead to the tempting voice of the “father of lies” (Jn 8:44), we risk sinking into the abyss of absurdity, and experiencing hell here on earth, as all too many tragic events in the personal and collective human experience sadly bear witness.

In this Lent of 2020, I would like to share with every Christian what I wrote to young people in the Apostolic Exhortation Christus Vivit: “Keep your eyes fixed on the outstretched arms of Christ crucified, let yourself be saved over and over again. And when you go to confess your sins, believe firmly in his mercy which frees you of your guilt. Contemplate his blood poured out with such great love, and let yourself be cleansed by it. In this way, you can be reborn ever anew” (No. 123). Jesus’ Pasch is not a past event; rather, through the power of the Holy Spirit it is ever present, enabling us to see and touch with faith the flesh of Christ in those who suffer.

2. The urgency of conversion

It is good to contemplate more deeply the paschal mystery through which God’s mercy has been bestowed upon us. Indeed, the experience of mercy is only possible in a “face to face” relationship with the crucified and risen Lord “who loved me and gave himself for me” (Gal 2:20), in a heartfelt dialogue between friends. That is why prayer is so important in Lent. Even more than a duty, prayer is an expression of our need to respond to God’s love which always precedes and sustains us. Christians pray in the knowledge that, although unworthy, we are still loved. Prayer can take any number of different forms, but what truly matters in God’s eyes is that it penetrates deep within us and chips away at our hardness of heart, in order to convert us ever more fully to God and to his will.

In this favourable season, then, may we allow ourselves to be led like Israel into the desert (cf. Hos 2:14), so that we can at last hear our Spouse’s voice and allow it to resound ever more deeply within us. The more fully we are engaged with his word, the more we will experience the mercy he freely gives us. May we not let this time of grace pass in vain, in the foolish illusion that we can control the times and means of our conversion to him.

3. God’s passionate will to dialogue with his children

The fact that the Lord once again offers us a favourable time for our conversion should never be taken for granted. This new opportunity ought to awaken in us a sense of gratitude and stir us from our sloth. Despite the sometimes tragic presence of evil in our lives, and in the life of the Church and the world, this opportunity to change our course expresses God’s unwavering will not to interrupt his dialogue of salvation with us. In the crucified Jesus, who knew no sin, yet for our sake was made to be sin (cf. 2 Cor 5:21), this saving will led the Father to burden his Son with the weight of our sins, thus, in the expression of Pope Benedict XVI, “turning of God against himself” (Deus Caritas Est, 12). For God also loves his enemies (cf. Mt 5:43-48).

The dialogue that God wishes to establish with each of us through the paschal mystery of his Son has nothing to do with empty chatter, like that attributed to the ancient inhabitants of Athens, who “spent their time in nothing except telling or hearing something new” (Acts 17:21). Such chatter, determined by an empty and superficial curiosity, characterizes worldliness in every age; in our own day, it can also result in improper use of the media.

4. A richness to be shared, not kept for oneself

Putting the paschal mystery at the centre of our lives means feeling compassion towards the wounds of the crucified Christ present in the many innocent victims of wars, in attacks on life, from that of the unborn to that of the elderly, and various forms of violence. They are likewise present in environmental disasters, the unequal distribution of the earth’s goods, human trafficking in all its forms, and the unbridled thirst for profit, which is a form of idolatry.

Today too, there is a need to appeal to men and women of good will to share, by almsgiving, their goods with those most in need, as a means of personally participating in the building of a better world. Charitable giving makes us more human, whereas hoarding risks making us less human, imprisoned by our own selfishness. We can and must go even further, and consider the structural aspects of our economic life. For this reason, in the midst of Lent this year, from 26 to 28 March, I have convened a meeting in Assisi with young economists, entrepreneurs and change-makers, with the aim of shaping a more just and inclusive economy. As the Church’s magisterium has often repeated, political life represents an eminent form of charity (cf. Pius XI, Address to the Italian Federation of Catholic University Students, 18 December 1927). The same holds true for economic life, which can be approached in the same evangelical spirit, the spirit of the Beatitudes.

I ask Mary Most Holy to pray that our Lenten celebration will open our hearts to hear God’s call to be reconciled to himself, to fix our gaze on the paschal mystery, and to be converted to an open and sincere dialogue with him. In this way, we will become what Christ asks his disciples to be: the salt of the earth and the light of the world (cf. Mt 5:13-14).

Francis

Rome, at Saint John Lateran, 7 October 2019 Feast of Our Lady of the Rosary

2020年2月25日

♰「敵を愛し、迫害する者のために祈るには、神の力が必要」-バーリでのミサで

教皇フランシスコ、イタリア南部バーリでのミサ 2020年2月23日教皇フランシスコ、イタリア南部バーリでのミサ 2020年2月23日 

 地中海地域の司教たちの集い(「地中海、平和の前線」)出席のため、イタリア南部のバーリを訪れていた教皇フランシスコは23日、同市内でミサを司式された。

 湾岸部と中心街を結ぶ大通りと県庁前広場を会場に行われたミサには、約4万人の市民が参加。教皇は専用車「パパモービル」から沿道の人々に祝福をおくられた。

 ミサの説教で教皇は、この日の福音朗読箇所であるマタイ福音書(5章38-48節)の「敵を愛しなさい」というイエスの教えを観想された。

 (イエスは「目には目を、歯には歯を」(出エジプト記21章24節)と命じる古い掟に触れながら、「しかし、私は言っておく。悪人に手向かってはならない。誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」(マタイ5章39節)と説いている。)

 この箇所について教皇は、「『いったい、どういうことだ。誰かが自分にひどいことをしたなら、同じ目に合わせてはいけないのか』と人は考えるでしょう。それでも、イエスは『暴力はいけない。一切の暴力はいけない』と言っておられるのです」とされた。

 また、イエスは「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(44節)と言われるが、「なぜ、敵を愛するように命じるのでしょう… イエスの答えは、『父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるから』(同45節)です。神から愛された私たちは、愛するようにと招かれています。赦された者から、赦す者に、愛に触れられた者から、愛を与える者に、無償で救われた者から、無償で善を行う者になるようにと招かれているのです」と説かれ、「キリストの弟子になりたいなら、これがその道であり、他の道はありません」と強調された。

 さらに、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈る」のは、「キリスト教の新しさ、キリスト教が持つ違いです」とされ、「自分を愛してくれる人や、友人、同じ民族だけでなく、そうでない人々も愛すること。なぜならイエスの愛には壁も限界もなく、主は計算なく愛するように、と私たちを招いておられるからです」と語られた。

 そして、こうした目標は「人間には不可能に思われますが、神に対して、愛することの恵み、赦すことの教えを願うことが大切。『私一人ではできません。あなたの力が必要です」と神に祈ることが重要です」と説かれ、「それが犠牲を伴うことでも、世の流れに反することであっても、今日、愛することを選びましょう。イエスの愛の挑戦を受け入れましょう。そうすれば、私たちは真のキリスト者となり、世界はより人間性に満ちたものになるに違いありません」と訴えられた。

(編集「カトリック・あい」)

 

2020年2月24日

♰「教育への取り組み刷新へ、5月に『教育をめぐるグローバル・コンパクト』開催」

 

 教皇フランシスコは20日、教皇庁教育省の定例総会参加者とお会いになった。

 挨拶で、教皇は「教育とは躍動する現実。人々に光をもたらす一つの運動」とされたうえで、教育関係者が取り組むべきいくつかの課題を示し、全人格的な人間育成の一環として「エコロジー運動」を取り上げ、「自分自身と、自分が生きる『共通の家』を知り、兄弟愛や、互いを豊かにする多様な文化を生きること」を学べるように希望された。

 また、「教育とは『受容のための運動』でもあるべきで、『受容』とは、貧困や、戦争・飢餓・自然災害による困窮した状態、社会的差別、家庭や個人の問題などにより疎外された全ての人に向けられるべきものでなければなりません… 教育を通して『受容』を学び、兄弟愛の拒否から生まれる『切り捨ての文化』の拡大を食い止める必要があります」と強調された。

 さらに教皇は、「平和を作り出す運動」としての教育の役割を指摘。平和教育は、「異なった代・民族・文化・経済状況・性別などの間に不和を作り出す利己主義」に抗し、「互い違いを、一致の障害ではなく、かけがえのない皆の豊かさとして理解することを促すでしょう」と語られた。

 加えて、教皇は、「チームの運動」としての教育の側面も挙げ、「教育とは一個人、一組織のものではなく、学校・家庭・教師はもとより、文化・市民・宗教系などの様々な組織、そして社会や人類共同体に至る、皆の参加によって成り立つもの」と説かれた。

 また教皇は、教育のために本来あるべき、これらの連携が困難になっている現状への対処の一環として、5月14日を「教育をめぐるグローバル・コンパクト」のための日とし、企画・運営を教育省に委ねた経緯に言及。「この催しは、政治・行政・教育・宗教など様々な分野から責任者や専門家を招き、『教育のための共同体』の再構築について話し合い、教育への取り組みと情熱を新たにすることを目的としています」と説明された。

*「グローバル・コンパクト」は、「各組織・団体が責任ある創造的なリーダーシップを発揮することで、社会の良き一員として行動し、持続可能な成長を実現するための世界的な枠組み作りに参加する自発的な取り組み」を意味する言葉。1999年の世界経済フォーラム(ダボス会議)の席上でコフィー・アナン国連事務総長(当時)が提唱し、潘基文現国連事務総長も明確な支持を表明しているイニシアチブとして、国連グローバル・コンパクト(UNGC)が始められた。

 あいさつの最後に、教皇は「兄弟愛あふれる社会の基盤を築き、分裂を克服する成熟した人々を育てるために、神と人の、世代間の、人々と諸文化の、先生と生徒そして親たちの、広範な『教育のための盟約』のもと、共に努力することが、今、求められているのです」と訴え、教育に一層のエネルギーを注ぐよう、関係者を励まされた。

(編集「カトリック・あい」)

 

2020年2月21日

◎教皇連続講話 「山上の説教」④ 「憤っても、心を落ち着け、熟考し、再び歩み始めよう」

 

教皇フランシスコ、2020年2月19日、バチカン・パウロ6世ホールでの一般謁見教皇フランシスコ、2020年2月19日、バチカン・パウロ6世ホールでの一般謁見  (Vatican Media)

(2020。2.19バチカン放送)

   教皇フランシスコは19日、水曜恒例の一般謁見で、[山上の説教」(マタイ福音書5章1-11節)についての講話を続けられ、この日は「真福八端」の3番目の教えー「柔和な人々は、幸いである。その人たちは地を受け継ぐ」というイエスの言葉を取り上げられた。

   この教えで使われる「柔和」という言葉は、文字通り、「優しい、穏やか、思いやりのある、暴力的でない」などの意味を持つ、と教皇は説明。「『柔和さ』は、争いなど、敵意ある状況の中でこそ、表されるもの。誰もが、平穏な時は柔和でいられても、攻撃されたり、プレッシャーをかけられたりした時に、どのように反応するかが、試されます」と語られた。

  「キリストの優しさと心の広さ」(コリントの信徒への手紙2。10章1節)を指摘する聖パウロや、「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、人を脅さず、正しく裁かれる方にお任せになりました」(ペトロの手紙2,2章3節)という聖ペトロの言葉に、教皇は「受難の中で特に際立つイエスの柔和さ」を観想された。

    また、聖書の中でこの「柔和な」という言葉は、「土地を持たない者をも指している」とされ、「真福八端」の中で、この「柔和な人々」が「地を受け継ぐ」と言われていることに深い意味を見出された。

    さらに教皇は、詩編でも「憤らないことと、地を継ぐことの関係」が示されている(詩編37章8-11節)ことに目を向けられ、「柔和な人たちは土地を争いで『獲得』するのではなく、神から賜物として『受け継ぐ』のであり、その土地とは単なる地上の所有地ではなく、新たな地ー私たちが向かっている『天の国』のことなのです」と話された。

  また「 キリストの弟子は、神から受け継ぐこの『地』を、いつくしみや兄弟愛、信頼や希望と共に守らなければなりませんが、柔和さは、心に打ち勝ち、友情や多くのものを守ります」と述べた教皇は、「憤っても、心を落ち着け、熟考し、再び歩み始めることで、私たちは柔和さと共に、また築いていくことができるでしょう」と説かれた。

(編集「カトリック。あい」)

 

2020年2月20日

♰「神の法を守るのは容易でない、神の差し伸べる愛の手を受けよう」

(2020.2.16 VaticanNews Linda Bordoni)

 教皇フランシスコは16日、日曜日正午の祈りの説教で、神は、私たちに恵みをお与えになるためにこの世に来られ、それゆえに、私たちは神のご意思を行うことができる、とし、神の律法を通して、イエスは私たちに真の自由と責任を教えている、と説かれた。

 説教で教皇は、この日の主日のミサで読まれたマタイ福音書の5章17₋37節、イエスが山上の説教で「律法の成就」について語られた箇所を取り上げ、「このことを忘れないようにしましょうー律法を自由の道具として生きることは、私がもっと自由になるのを助け、激情と罪の奴隷にならない助けになることを」とされた。

 そして、「戦争とその結果がもたらす、とてもとても多くの災難​​」を例に挙げ、「それは激情が生み出すもの。戦争をする人々は、自分の激情をどうやってにコントロールしたらいいのか、分からない」、そして、「私たちが誘惑と激情に屈した時、私たちは自分の人生を担うのをあきらめてしまうのです」と語られた。

 続けて、「殺人、姦淫、離婚、偽りの約束を思うことの危険性について、イエスが弟子たちに警告していること」に触れ、「イエスは、これらの問題に関する処方箋を捨てるのではなく、それらのもつ深い意味を説明し、観察せねばならない」とされ、「律法を形式的に、ではなく、実質的に守ることー律法を心から受け入れることを、私たちに勧めておられるのです」と強調された。

 さらに、次のように指摘された。「神の法を心から受け入れることによって、私たちは理解するのですー隣人を愛さない時、私たちは自分自身と他の人たちを幾分か殺している、ということを。なぜなら、憎しみ、対立、分裂は、人間同士の関係の基礎となる兄弟愛を殺してしまうからです… そのことは、戦争だけでなく、うわさ話にも当てはまりますー舌で”殺す”からです」。

 そして、「心から神の法を受け入れることによってのみ、熱望は導かれねばならないことを、私たちは理解することができます。それは、私たちが強く望むもの全てを手に入れることができないから… でも、戒めを心底から、全面的に守って生きることは容易ではないことを、イエスはご存じであり、だからこそ、「私たちに、ご自身の愛の助けをくださるのです」と説かれた。

 「イエスは、律法を成就するためだけでなく、私たちに神の恵み-私たちが、神のご意思、神と私たちの兄弟姉妹を愛することーを行うことのできる恵みーをお与えるために、この世においでになりました… 私たちは、神の恵みを受けて、全てのことができます。実際、聖性は、神が私たちに下さったこの無償の恵みを守ることに、他なりません」と教皇は訴えられた。

 最後に教皇は、正午の祈りに聖ペトロ広場に集まった信徒たちに、神と神の恵みに信頼し、自身を委ね、「私たちの努力と献身が、善と慈しみに満ちた神の助けによって支えられるように、絶えず私たちに差し伸べてくださるその手を、喜んで受けるように」と促された。

 (翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

 

2020年2月17日

◎教皇連続講話「山上の説教」③「『罪を悲しむ』とは、愛の神に背いたのを悲しむこと」

(2020.2.13 バチカン放送) 教皇フランシスコは12日の水曜恒例の一般謁見で、「山上の説教」(マタイ福音書5章1-11節)についての講話を続けられ、この日は「真福八端」の二つ目、「悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる」(4節)を取り上げられた。 

 教皇はまず、「悲しむ人々は、幸いである」という教えの「悲しむ」という動詞は「受動的ではなく、自発的なもの、すなわち、自らが内面からの悲しみを感じている状態です」とされ、「キリスト教の霊性において中心的なこの態度は、砂漠の教父たちが“penthos”(内的な苦しみ、嘆き)と呼んでいたものであり、それは主との、また隣人との関係に自らを開くもの」と説かれた。

 そして聖書では、「悲しみ」は二つの意味を持ち、「一つは、死や他者の苦しみのために引き起こされる悲しみ、もう一つは、神や隣人を傷つけたことの苦しみ、罪のために流される涙です」と話され、「たとえば、『喪の悲しみ』は、辛い道ですが、一人ひとりのかけがえのない命やその聖なる価値に目を開くことを助けてくれるのです」と語られた。

 また、「罪を悲しむ」ことについて、教皇は「あやまちに憤慨することは、自分のプライドにすぎませんが、自分の行いや怠り、神への裏切りに対し、『私たちをこれほどまでに愛される神に背いた』と悲しむこと、これが罪の意識なのです」と話され、「イエスの前で悲しみ、新しい真の愛に目覚めたペトロ」と「自分のあやまちを受け入れられずに、死を選んだユダ」を比べられ、「罪を知ることは、神の恵み、聖霊の働きです」と強調された。

 さらに、「涙で洗われた顔は、言いようもなく美しい」というシリアの聖エフレムの言葉を引用された教皇は、「それは後悔の涙、悔悛の涙の美しさです」と話され、最後に、「愛に結ばれた悲しみを受け入れる者は幸いです。その人は、赦し、正される神の優しさ、聖霊の慰めを受けるでしょう」と説かれた。

(編集「カトリック・あい」)

2020年2月14日

♰「信徒、教会は、世界の争いと罪に抗し、『潮』と『光』であり続けよう」

Pope Francis leads the faithful in the Angelus prayerPope Francis leads the faithful in the Angelus prayer  (Vatican Media)

  教皇フランシスコは9日正午の祈りの説教で、この日のミサで朗読されたマタイ福音書の箇所(5章13₋16節)を取り上げ、信徒たちに「社会に潜む暗闇を拭い去る」よう促されるとともに、「教会は福音宣教と奉仕の使命を放棄できない」と述べられた。

 教皇は説教でまず、この福音書の箇所で、弟子たちに「塩」と「光」であることを求められたことに注意を向けられ、「これは、主の弟子たちがこの世でどのように使命を果たす基準を示しています」とされた。

*塩であること:罪と道徳的な劣化への抵抗

 「塩」について、「食べ物に風味をつけ、腐敗から守るもの」であり、と「イエスが弟子たちに求めたのは、危険や人々の命を蝕むものから社会を守ること。そのことを、私たちキリスト教徒は、罪と道徳的な劣化に抵抗することによって、そして誠実さと連帯を証しすることによって、実践するのです」とされ、「出世第一主義や権力、富を含むいくつもの誘惑に陥らないようにいように警戒すべきです」と注意された。

 そして、私たちが過ちを犯した時でさえも、”塩”であることは、「勇気と忍耐をもって、人々との対話と出会いを求めて、日々、新たに出直すこと」を意味し、「認められたり、褒められたりするのを求めるのでなく、謙遜の心で兄弟姉妹に奉仕するというイエスの教えに忠実であること」を意味する、と説かれ、「このような態度が大いに必要とされているのです」と念を押された。

 

*光であること:他の人をキリストに導く行為

 また「光」は、「暗闇を払いのけ、見ることができるようにするもの」であり、「イエスは、罪の暗闇を払いのけられましたが、いくつかの影が、まだ、この世と一人ひとりの心の中に残っています… キリストの光を人々の間に輝かせ、福音を宣言することで、そのような影を取り除くことが、キリスト教徒の仕事なのです」と強調。

 さらに、「私たちは、言葉を通して、主の光を発することができますが、それよりももっと、良い行為を通して、人々を、神へ、神の善と慈悲を体験できるように導くのです… 、狭い空間の外で信仰を生きる方法を知っている時、イエスの弟子(注:である私たち)は『光』であり、偏見や中傷を取り除き、偽善と嘘によって汚されたところに、真実の光をもたらす役割を果たすのです」と説かれた。

 

*教会:暴力、不正、抑圧に打ち勝つこと、福音宣教の使命を放棄できないことができ

 最後に教皇は「イエスは、争いと罪の逆風に抗して、この世で信仰を生きるように、私たちを促しています」とされ、教会の使命について「暴力、不正、抑圧に打ち勝たねばならず、福音宣教と奉仕の役目を放棄することはできません」と言明。さらに、教会は「最も小さい人、貧しい人に、広い心と優しさもって接します。社会の底辺にいる人、社会からのけ者にされた人の叫びに耳を傾けます。歴史を通してイエス・キリストの救いの現存を広めるよう、呼びかけられる巡礼者共同体であることを知っているからです」と訴えられた。

 そして、聖母マリアに、「私たちが、この世の塩と光になり、生活と言葉を通して、すべての人に神の愛の良い知らせをもたらすことができますように」と祈られた。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

 

 

2020年2月10日

♰「次世代の教育は、いつか、ではなく、今、取り組むべき課題」ー教育セミナーで

教皇フランシスコ、教育テーマのセミナー参加者と 2020年2月7日教皇フランシスコ、教育テーマのセミナー参加者と 2020年2月7日  (Vatican Media)

 (2020.2.7 バチカン放送)

 教皇フランシスコが7日、教育をテーマとするセミナーの参加者との出会いを持たれた。セミナーは、教皇庁立社会科学アカデミーが主催し、今年5月14日にバチカンで開かれるイベント「教育のためのグローバル・コンパクト」の準備として行われた。

 教皇は関係者への言葉で「現在の世界では、人々の教育へのアクセスに大きな不平等が見られる」と指摘。「貧困・差別・気候変動・無関心の拡大、人間を物のように扱う風潮など、様々な原因から生じる不平等が、無数の子どもたちの可能性の開花を妨げています」と話された。

 そして、「今日、私たちは人間と教育の関係を見直すために、教育のための新しい協定を構築する必要があります… 教育を考えることは、人類の未来を考えることなのです」と強調され、「教育には家庭・学校・社会制度・文化・宗教などの責任ある連帯が必要」だが、特に「教育のための新しいグローバル・コンパクト」には、教育の質向上のために、教育事業に対する家庭と地域共同体の積極的な参加が望まれる、と述べられた。

 また、教皇は、教育におけるもう一つの課題として、「未来の世代を育成する教育者たちへの支援」を挙げ、「次世代の教育は、いつか、ではなく、今、取り組むべき課題なのです」と関係者たちの情熱と努力に強い期待を示された。

(編集「カトリック・あい」)

2020年2月8日

◎教皇連続講話「山上の説教」②「霊における貧しさ」は真の自由に奉仕するもの

 教皇フランシスコは5日の一般謁見で、先週から始められた「山上の説教」(真福八端=マタイ福音書5章1-11節)についての講話を続けられた。この日は、最初のイエスの言葉「霊において貧しい人(Blessed are the poor in spirit)は、幸いである。天の国はその人たちのものである」を取り上げられ、「私たちが受け入れねばならない貧しさがあります。それは私たち自身に関してです。そして、私たちが求めねばならない、この世のものから貧しさです」と語られた。

 この日の講話の初めに教皇は「イエスが幸福への道を告げるにあたって、『霊において貧しい人は幸い(Blessed are the poor in spirit)』という、一見矛盾に満ちた道を最初に説いているのは、驚くべきこと」とされ、この教えの説く「貧しさ」とは何なのか、福音記者マタイがただ「貧しい人」という言葉を使っていたなら、それは経済的な意味に過ぎないかもしれないが、「ここでは『霊において貧しい人』とされています」と指摘された。

 では、「spirit」とは何か。教皇は、聖書によれば「神がアダムに吹き込んだ命の息吹、私たちを人間たらしめる、存在の深い核心となるもの」と述べ、「霊において貧しい人」を「幸い」と宣言するイエスは、その理由を「天の国はその人たちのものである」からだ、という。これに対し、「この世で、人は常に何者かにならねばならない、有名にならねばならない、と言われ続け、極度の競争や不安から、孤独感や満たされない気持ちを抱くことになるのです」とされた。

 また、「もしも、自分の貧しさを受け入れることができないならば、自身の弱さや欠点を思い出させるすべてのものを憎むことになります」。さらに、「誰もが自分を見つめる時、足りなさや弱さを自覚しますが、自己の限界を認めない人は、より良く生きることができません。プライドの高い人は助けを求めることも、自分の過ちを認め、赦しを乞うこともできないのです」と指摘された。

 教皇は、イエス・キリストは「貧しいことは恵みの機会である」と私たちに告げ、「自分の偽善や欠陥を隠そうとする苦労からの解放の道を示しています」と話され、「『貧しさは天国への道である』と、イエスは私たちに貧しくあることの権利を与えてくれましたが… 注意したいのは、私たちは心を貧しくするために、わざわざ自分を変える必要はない、ということ。なぜなら、私たちは本来、貧しいからです。私たちは皆、心の貧しい者、神の救いを必要とする者だからです」と説かれた。

 そして、「神の御国は心の貧しい人たちのものですが、この世において王国を築く人たちもいます。だが、その王国はいつかは終わり、人の権力も過ぎ去る」とされ、「真に統治する者は、本当の善を、自分自身よりも愛します… キリストは、地上の王たちがしないこと、すなわち自分の命を人々のために与えることができました。これこそ、真の権力なのです」と強調、ここに「真の自由」を見つめられた。

 教皇は、「山上の説教」が称える貧しさは、「この真の自由に奉仕するもの… なぜなら、貧しさには、『受け入れるべき自分自身の本来の貧し』と、『自由でいること、愛することができるために必要な、もう一つの追求すべき貧しさ』があるからです」と語られた。

(日本語版の聖書では一般に「心の貧しい人」と訳されていますが、通常の日本語では「心の貧しい」は、「度量小さい」「しみったれている」「裕福そうに見えても心は貧乏人のそれ」というようなニュアンスで使われることが多く、ここでのこうした訳は必ずしもしっくりきません。元の言葉に近い、バチカン公式発表の教皇のイタリア語の講話の英語訳「Blessed are the poor in spirit」を忠実に訳す方が、本当の意味に近いと判断し、そのようにしてあります。なお、フランシスコ会聖書研究所訳では「自分の貧しさを知る人」となっています=「カトリック・あい」)

 

 

(英文のVaticanNewsの内容は次の通り)

In his catechesis on the first Beatitude — “, for theirs is the kingdom of heaven” — Pope Francis said “there is a poverty that we must accept, that of our own being; and a poverty that we must seek instead, from the things of this world”.

A paradoxical proclamation

Jesus’ “way to happiness”, the Pope said, begins with a “paradoxical proclamation… a strange object of bliss”. So we must ask ourselves, What is meant by the word “poor”? Matthew’s use of the expression “poor in spirit” shows us that Jesus is not talking simply about economic poverty, but of a spiritual understanding of our poverty. “Those who are ‘poor in spirit’”, the Pope said, “are those who are and who feel themselves to be poor, beggars, in the depths of their being”.

We are already poor

Pope Francis said, though, that we must remember that we “don’t have to transform ourselves to become poor in spirit, because we are already poor! We are all poor in spirit, beggars”.

The kingdoms of the world, possessed by those who have wealth and comfort, are kingdoms that end. “The power of human beings, even the greatest empires, pass and disappear”, the Pope said. On the contrary, it is the one “who knows how to love the true good more than himself” who truly reigns. This, he said, “is the power of God”; and this is how Christ shows Himself to be powerful: “He knew how to do what the kings of the earth do not: to give His life for human beings. And this is true power: the power of fraternity, the power of charity, the power of love, the power of humility. This is what Christ did”.

And, the Pope continued, “true freedom lies in this: the one who has this power of humility, of service, of fraternity is free. The poverty praised by the Beatitudes lies at the service of this freedom”. He concluded his catechesis by saying “we must always seek this freedom of the heart, which has its roots in the poverty of ourselves”.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

VaticanNews)

(2020.2.5 VaticanNews  Christopher Wells)

 

 

2020年2月5日

♰「平和と愛と兄弟愛の価値が勝る未来を!」-アブダビでの共同文書署名一周年に

(2020.2.4 バチカン放送)

 アラブ首長国連邦(UAE)訪問時における共同文書「世界平和のための人類の兄弟愛」の署名から一年、教皇フランシスコは4日、UAWアブダビで開催中の記念行事参加者たちにビデオメッセージをおくられた。

  共同文書は、昨年年2月4日、UAEのアブダビで開かれた諸宗教の集いの席で、教皇とアル=アズハルのグランド・イマーム、アフマド・アル・タイーブ師によって署名された。

 ビデオメッセージは以下の通り。

 「記念行事に参加されているすべての皆様、そして、特に人類の中で、貧しい兄弟たち、病者たち、迫害される人々、弱い立場にある人々に対し、宗教、民族を問わず、これらの人々を助けておられる方々に、ご挨拶申し上げます。

 一年前、私の兄弟、グランド・イマーム、アフマド・アル・タイーブ師と、私は、アラブ首長国連邦の首都アブダビにおいて、人類の兄弟愛をめぐる共同文書に署名しました。本日、この大きな人道的イベントから一年を迎え、人類のより良い未来、憎しみや怨恨、過激主義、テロリズムのない、平和と愛と兄弟愛の価値が勝る未来を希望いたします。

 今日、この一周年において、「『人類の兄弟愛のための最高委員会』の作業に対するアラブ首長国連邦の支援に御礼申し上げます。また、『人類の兄弟愛賞』の設置を提唱されたアブラハミック・ハウスに感謝いたします。

 今ここで、人類の兄弟愛国際賞を世界に共に紹介できますことをうれしく思います。この世界において、宗教・民族・文化の違いを超えて、他者の善のために行いと犠牲を通して愛を具現化するすべての優れた人々の模範を励ましたいと思います。全能の神が人類の善に寄与するあらゆる努力を祝福し、兄弟愛のうちに前進することを助けてくださいますように。

ありがとうございました」

(編集「カトリック・あい」)

 

2020年2月5日

♰「感動し、驚こう!主との出会いが実り多いものになる」-「主の奉献」の主日正午の祈りで

 教皇フランシスは2日、「主の奉献」の祝日の正午の祈りの説教で、まず、この祝日の意義について、「貞操、貧困、服従の誓いを立て、主に付き従う、全ての人々の教会にある『偉大な宝』を私たちにい思い起こさせます」と始められた。

 そして、この日のミサで朗読された、誕生から40日後のイエスの奉献について述べたルカ福音書の箇所(2章22₋40節)について、「伝統的な儀式について述べているだけではない。主がご自身を捧げられ、人間の側に来られたその場所で、主と出会う経験をし、その瞬間に捕らえられたわずかな人々に、私たちの注意を向ける内容になっています」と説明された。

 さらに、この場面に登場するマリアとヨセフ、シメオンとアンナは「神に自らの命を捧げる用意のできている人々の模範」とされたうえで、「ルカは、彼らの振る舞いを『感動』と『驚き』で示しています」と指摘された。

 (マリアとヨセフはエルサレムに向かって旅をする。一方、シメオンは霊に動かされて神殿に来る。アンナは昼夜を問わず神に仕える…)

  4人の登場人物は、「キリスト教徒の人生には『活力と旅をする意欲』を持ち、常に聖霊を案内者とすることが求められている、ということを、私たちに教えている」とし、「感動することのできるキリスト教徒、全ての人にイエスの言葉をもたらすために旅をすることを止めないキリスト教徒を、世界は必要としています… 洗礼を受けた人は、誰もが、福音宣教の使命を受けているのです」と説かれた。

 そして、「マリアとヨセフは、イエスについて言われたことに驚きました(33節参照)。驚きは、二人がイエスを抱いて神殿の境内に入り、いけにえを捧げようとするのに出会ったシメオンの反応(27₋32節参照)にも見られます。そして、神の民に代わって、夜も昼も断食と祈りを持って神に仕えてきたアンナ(36₋38節参照)にもです… 彼らは、驚き包まれています。それは、自分が捕えられ、自分の目の前で起きている出来事に関わったからです」と語られた。

 最後に教皇は、「驚くことのできる能力が、宗教的経験を育て、主との出会いを実り多いものにします… それと反対に、驚かないことは無関心につながるだけでなく、信仰の旅と日常生活の間の距離を広げてしまうのです」と人々に注意を促された。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

 

 

 

 

2020年2月3日

♰「年配者はケアの対象だけではない、福音宣教の担い手だ」-年配者司牧に関する国際会議で

2020.01.31 Congresso Internazionale La ricchezza degli anniAudience with participants in the International conference on pastoral care of the elderly  (Vatican Media)

(2020.1.31 Vatican News Christopher Wells)

 教皇フランシスコは31日、年配者の司牧に関する国際会議の参加者たちと会見し、年配者は「その出生、背景や、経済的、社会的条件に関係なく、すべての男女が人生の旅の中で形作る貴重な宝物」とされた。

 そして、「人生は贈り物、長い人生は自身にも他の人にとっても恩恵です。いつでも、です」としたうえで、教会に対して、年配者をケアし、「顔に笑みを、手に福音を」携えて」、彼らの所に行くように求められた。

 また、教皇は「世界は人口動態の大きな変化-若者の減少と高齢者の大幅な増加に直面していまする」とされ、「高齢者が直面している問題ー社会的な見当識障害、そして社会の彼らに対する無関心と拒絶など-が、教会と社会に対して、「歳を取ることの価値を認識し、評価することを学ぶために、真摯な反省」が求められている、と強調された。

 会議のテーマに言及した教皇は、「長い人生の持つ豊かさ…は、人々の豊かさ、長い人生経験と歴史を重ねてきた一人一人が持つ豊かさなのです」と指摘された。

 またこの会議を称えるとこもに、「孤立した活動」に留まらず、「司牧の深化と識別の旅の始まり」となるように期待され、さらに「私たちは、私たちの家族や地域社会のメンバーであるとても多くの年配者の存在に対応するために、これまでの司牧の慣行を変える必要があります」と訴えられた。

 聖書の中で「長寿は天の恵み」とされていること、年配者も「神の救いの計画において場所を持っている」ということを、参加者に思い起こさせ、「年配者のもつかけがえにない役割に注目しましょう… 教会は、聖霊の賜物を互いに交換することで神の愛の計画を分かち合うように、全ての世代に求める場になっています…老いも若きも、教会の未来なのです」と説かれた。

 特に教皇が強調されたのは、「信仰の中で子供たち、若者たちを教育するのために、祖父母が、欠かすことのできない輪」であり、「年配者は、教会のケアの対象であるだけでなく、司牧的な福音宣教の担い手、神の忠実な愛の光栄ある証人」となること。

 そして最後に次のように参加者を激励された。「恐れないように。主導権を取りなさい。司教と教区が高齢者に対して奉仕し、そして高齢者と共に奉仕するのを助けてください。挫けずに… 前に進んでください!」

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

 

2020年1月31日

♰「社会の文明度は”切り捨て文化”への対抗力で測られる」-教理省総会で

教皇フランシスコ、教理省の定例総会参加者と 2020年1月30日教皇フランシスコ、教理省の定例総会参加者と 2020年1月30日  (Vatican Media)

(2020 . 1.31 バチカン放送)

 教皇フランシスコは30日、教皇庁教理省の定例総会参加者とお会いになり、命の尊重や病者への寄り添いをテーマに話された。

 教理省(長官:ルイス・フランシスコ・ラダリア・フェレール枢機卿)は今回の定例総会で、「重篤な状態にある患者および終末期の患者に対するケア」をテーマに神学的側面から考察した。

 教皇は「キリスト教神学は、固定的・閉鎖的な体系でも、時と共に移り変わるイデオロギーでもありません。その基盤に忠実に留まりながら、復活したイエス・キリストの御顔と体を、幾世代にもわたって新たにし、要約していく、ダイナミックな”現実”で”なければなりません」と強調された。

 総会のテーマに関連して、教皇は「今日の社会・文化は、人間の命を尊いものとする考えを次第に損ないつつあります」と指摘、「効率性や有用性で命を測り、基準にそぐわないものを切り捨てようとする現代の傾向」を憂慮された。

 そして、社会の文明度は「かけがえのない人の命の価値を認めているか」「共存の基礎にある連帯が守られているか」「『切り捨ての文化』にどれだけ対抗できるか」によって測られるのです」と強調された。

 また、「病者が必要とするのは、その人を見つめ、手を取り、優しく寄り添う、福音書に登場する『善きサマリア人』のような存在」とされ、「多くの人は相手を『眺め』ますが、『見つめる』ことを知りません。『善きサマリア人』の模範から、慈しみをもって、心で見つめ、立ち止まり、寄り添うことを学ぶべきです」と念を押された。

 さらに、「病者との絆は、不治の人を見捨ることを決してしません」として、マザーテレサの言葉を思い起こされた-「人生の歩みの中で、辛い時を過ごしている誰かに、たとえ一つでも、小さなともし火をもたらしたなら、その人の人生は無駄ではない」。

 最後に教皇は、緩和ケアのためのホスピスに言及しながら、「これらの施設が『尊厳のセラピー』に取り組み、命のための愛と尊重を育む場所であり続けるように」と願われた。

(編集「カトリック・あい」)

2020年1月31日

◎教皇連続講話【山上の説教】①イエスが語る「幸い」が意味するものは何?

(2020.1.29 バチカン放送)

 Inaugurating a new cycle of catechesis dedicated to the Beatitudes, Pope Francis reflects on Jesus’ invitation to conduct a life of humility, poverty and mercy.

 Pope Francis said that In order to give Himself to us, God often chooses “unthinkable” paths that point us beyond our “limitations, tears and failures,” towards that Paschal joy born of Christ’s own passage from death to life.

Speaking to the pilgrims gathered in the Paul VI Hall for the Wednesday General Audience, he reflected on the Sermon on the Mount pronounced by Jesus who, he said, “enlightened” the lives of believers and also of many non-believers.

“It is difficult,” the Pope said, not to be touched by these words, and he encouraged the faithful to understand and welcome them “ever more fully” because “they contain a kind of Christian identity card”.

The proclamation of the Beatitudes

The Pope explained how the proclamation of the message came about: When He saw the crowds Jesus went up the “sweet slope” surrounding the Lake of Galilee, sat down and addressed the disciples proclaiming the Beatitudes.

“The message is addressed to the disciples, but there are crowds stretching to the horizon, there is all humanity. It is a message for all humanity,” he said.

A new law

The “mountain”, the Pope continued, recalls the one in Sinai, where God gave Moses the Ten Commandments. However this time, he said, the setting is not that of a “terrible storm”, but of a place in which the “sweet power” of the Good News is in the air.

Thus, Pope Francis said, Jesus began to teach a new law that calls us to be poor, to be meek, to be merciful.

These “new Commandments”, he added, are much more than norms: “In fact, Jesus does not impose anything, but reveals the path to happiness,” repeating the word ‘blessed’ eight times.

God’s gift

Pope Francis explained that each Beatitude is composed of three parts: the opening word “Blessed” followed by the situation in which those who are called blessed find themselves – poor in spirit, mourning, thirsting for justice – and finally the reason for which they are blessed.

“There are eight Beatitudes and it would be nice to learn them by heart and to repeat them in order to keep this law that Jesus gives us in our mind and in our hearts,” he said.

He highlighted that the reason for Beatitude is not to be found in one’s present situation, but in the new condition that those who are blessed receive as a gift from God: “For theirs is the kingdom of heaven”, “for they will be comforted”, “for they will inherit the land” and so on.

A condition of grace

As for the “reason” for happiness, the Pope noted that Jesus often uses passive verbs like “they will be satisfied”, “they will be shown mercy”, “they will be called children of God”; saying that the Beatitudes teach that we are blessed not by our present situation, but rather by the new condition that is ours by God’s grace

The Pope went on to dwell on the word “Blessed”, saying that in its original meaning it  does not indicate someone “with a full belly or who is doing well.” He explained that it refers to a person who finds him or herself in a state of grace and who is going forward on the path indicated by God with patience, poverty, service towards others, consolation.

“He or she who goes forward on that path is happy, will be blessed,” he said.

Read the Beatitudes

Reiterating that the Beatitudes “always lead to joy”, the Pope invited those present to take the Gospel of Matthew in hand and read chapter 5, verse 1 to 11, “perhaps a couple of times during the week, in order to understand this beautiful and secure path to happiness that the Lord proposes to us.”

Greetings to pilgrims

At the end of the audience, Pope Francis greeted the groups of pilgrims present in various languages, and reminded those from Poland that on Sunday, on the Solemnity of the Presentation of the Lord, the Day for Consecrated Life is celebrated in their country and he asked for prayers:

“Let us pray for the religious who dedicate themselves to God and to their brothers and sisters in daily service, according to their charism, so that they may always be faithful witnesses of Christ’s saving love. Let us also pray for new vocations to the consecrated life.”

(バチカン広報発表の教皇講話の全文)

Dear brothers and sisters, good morning!

 Today we begin a series of catecheses on the Beatitudes in the Gospel of Matthew (5.1-11). This text which opens the “Sermon on the Mount” and which illuminated the lives of believers, even of many non-believers. It is difficult not to be touched by these words of Jesus, and the desire to understand them and accept them ever more fully is right. The Beatitudes contain the Christian’s “identity card” – this is our identity card – because they outline the face of Jesus himself, his lifestyle.

 Now let’s frame these words of Jesus globally; in the next catecheses we will comment on the individual Beatitudes, one by one.

 First of all, it is important how the proclamation of this message came about: Jesus, seeing the crowds following him, climbs the gentle slope surrounding the lake of Galilee, sits down and, addressing his disciples, announces the Beatitudes. Therefore the message is addressed to the disciples , but on the horizon there are the crowds , that is, all humanity. It is a message for all humanity.

 Furthermore, the “mountain” refers to Sinai, where God gave Moses the Commandments. Jesus begins to teach a new law: to be poor, to be meek, to be merciful … These “new commandments” are much more than norms. In fact, Jesus does not impose anything, but reveals the way of happiness – his way – by repeating the word ” blessed ” eight times .

 Each bliss is made up of three parts. At first there is always the word ” blessed “; then comes the situation in which the blessed find themselves: poverty of spirit, affliction, hunger and thirst for justice, and so on; finally there is the reason for bliss, introduced by the conjunction “why”: “Blessed are these because, blessed are they because …” So are the eight Beatitudes and it would be nice to learn them by heart to repeat them, to have this law in your mind and heart that Jesus gave us.

 Let us pay attention to this fact: the reason for bliss is not the current situation but the new condition that the blessed receive as a gift from God: “because of them is the kingdom of heaven”, “because they will be comforted”, “because they will inherit the earth “, and so on.

 In the third element, which is precisely the reason for happiness, Jesus often uses a passive future: “they will be comforted”, “they will inherit the earth”, “they will be satisfied”, “they will be forgiven”, “they will be called children of God”.

 But what does the word ” blessed ” mean ? Why does each of the eight Beatitudes begin with the word ” blessed “? The original term does not indicate someone who has a full belly or is doing well, but is a person who is in a condition of grace, who progresses in the grace of God and who progresses on the path of God: patience, poverty, the service to others, consolation … Those who progress in these things are happy and will be blessed.

 To give himself to us, God often chooses unthinkable paths, perhaps those of our limits, of our tears, of our defeats. It is the Easter joy of which the Eastern brothers speak, that which has the stigmata but is alive, has gone through death and has experienced the power of God. The Beatitudes always bring you joy; they are the way to joy.

 It will do us good to take the Gospel of Matthew today, chapter five, verse one to eleven and read the Beatitudes – perhaps a few more times during the week – to understand this road so beautiful, so sure of the happiness that the Lord offers us.

2020年1月29日

♰「このような悲劇を絶対に繰り返してはならない」-アウシュビッツ解放75周年を迎えて

Archive photo showing Auschwitz- Birkenau's main guard house known as 'the gate of death'Archive photo showing Auschwitz- Birkenau’s main guard house known as ‘the gate of death’

(2020.1.27 VaticanNews Linda Boldoni)

 ナチの強制収容所アウシュビッツ・ビルケナウの解放から27日で75周年を迎えた。この日はホロコースト犠牲者を想起する国際デーとされているが、教皇は前日26日の正午の祈りで、「このような大変な悲劇を前にして、無関心でいることは許されない。記憶を新たにする必要があります」と祈りと注意を喚起された。

 「27日に、私たちは祈りと追憶の時間を持つことが求められています。私たちの心を込めて、『二度とこのようなことを繰り返さないように!』と」と教皇は、サンピエトロ広場に集まった人々に呼びかけられた。

 また、毎年1月の最終日曜日は「世界ハンセン病の日」とされ、今年は26日がその日に当たったが、教皇は、「私は、ハンセン病に苦しむすべての人々、さまざまな方法で彼らを助けている人々に心を寄せています」と強調された。

 「世界ハンセン病の日」は、この病気とその影響を受ける人々についての世界の人々の意識を高めるために設けられているが、最近の世界保健機関の報告によると、特にインド、ブラジル、インドネシアなどの国々で再び流行の気配が出ている、という。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

 

2020年1月27日