・「マリアの正義と優しさの力、これこそ福音宣教する教会の模範」菊地大司教の聖母被昇天ミサ説教

聖母被昇天祭@東京カテドラル 2020年8月15日

 8月15日は聖母被昇天祭です。

 暑い毎日が続いています。どうか皆さま、感染症対策と共に熱中症にも対策をされ、健康には、くれぐれもお気をつけください。東京都と千葉県は、感染症の終息はなかなか見通すことができていません。教会でのクラスターなどの発生は、今のことろ教区内からは報告がありませんが、まだまだ慎重に対処したいと思います。幸いなことですが、皆さまにご協力いただいている感染症対策が、功を奏しているものと思います。

 十分に納得いただけないような状況の中で、不便を忍び、ご自分の思いを心に納め、感染症対策にご協力いただいている多くの皆さまに、心から感謝申し上げます。本当にありがとうございます。皆さまの忍耐は、命を守る行動です。

 皆さまの健康が守られ、また私たちを取り巻くこの不安な状況が一日も早く解消されるように、聖母の取り次ぎのもと、父である神の守りと祝福を祈りたいと思います。

 なお、8月16日から23日までの一週間も、これまでと同様の感染症対策をとりながら、気を緩めることなく慎重に、教会活動を続けます。

 以下、15日午後6時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂でささげられた、聖母被昇天祭ミサの説教原稿です。

【聖母被昇天 東京カテドラル聖マリア大聖堂 (公開配信ミサ)2020年8月15日】

 聖母被昇天を祝う今日8月15日は、改めて申し上げるまでもなく、日本においては平和を祈念する日でもあります。

毎年8月6日の広島原爆の日から9日の長崎原爆の日を経て、15日の終戦記念日に至るまでの10日間を、日本のカトリック教会は「平和旬間」と定めています。

 1981年2月23日から26日に、日本を訪問された教皇ヨハネパウロ二世は、ご自身を「平和の巡礼者」と呼ばれ、昨年11月の教皇フランシスコと同様に、東京だけでなく、広島と長崎を訪問されました。特に広島では、「戦争は人間の仕業です」という有名な言葉で始まる平和アピールを発表され、その中で繰り返し「過去を振り返ることは、将来に対する責任を担うことである」と世界の人に向けて強調されました。

 当時の司教団は、戦争を振り返り、平和を思うとき、平和は単なる願望ではなく、具体的な行動を伴わなくてはならない、と考え、その翌年(1982年)から、日本にとって最も身近で忘れることのできない広島と長崎の悲劇を思い起こす8月6日から終戦の15日までの10日間を「日本カトリック平和旬間」と定めました。日本の教会にとって聖母被昇天祭は、平和旬間を締めくくる日でもあります。神の母であり、教会の母であり、平和の女王である聖母マリアの取り次ぎによって、私たちが神の平和の実現に至る正しい道を見い出し、その道を勇気を持って歩み続けることが出来るように、祈り続けましょう。

 広島平和アピールの終わりで、教皇ヨハネパウロ二世は神を信じる人々に向けて、「愛を持ち自己を与えることは、かなたの理想ではなく、永遠の平和、神の平和への道だ、ということに目覚めようではありませんか」と呼びかけておられます。「神の平和への道」とは、すなわち「愛を持ち自己を与える」行動である、と教皇は指摘されます。

 改めて言うまでもなく、教会が語る「平和」とは、単に「戦争や紛争が無いこと」を意味してはいません。教会が語る「平和」とは、「神の定めた秩序が実現している世界」、すなわち「神が望まれる被造物の状態が達成されている世界」を意味しています。残念ながら、核兵器をはじめとして人間の抱く不信や敵対心に至るまで、神の定めた秩序の実現を妨げる要因は、数多く存在しています。

 その文脈で、教皇ヨハネパウロ二世は、「愛を持ち自己を与える」行動が、神の平和を実現する道の一つであることに気づくように、と促しておられます。

 今年も梅雨の間に各地で集中豪雨が発生し、特に九州では大きな被害が発生しました。加えて新型コロナウイルス対策のため、県外からのボランティア参加が認められず、必要な助けが集まらないのではないか、との不安の声が聞かれました。しかし実際には多くの方が県内から駆けつけ、互いを支え合いながら、復興支援のボランティア活動に取り組まれたとうかがいました。

 まさしく、愛を持って自己を犠牲にしながら、助けを求めている人のところへ駆けつけるボランティアの活動は、単なる優しさの象徴ではなく、平和構築の道そのものであります。

 その意味では、新型コロナウイルス感染症と闘う医療関係者の方々は、まさしく危機に直面する命を救うために、命への愛と尊敬を持って尽力されているのですから、その活動は、平和構築の道でもある、といえます。その働きに、心から感謝したいと思います。

 教皇フランシスコは、教会が新たにされて福音宣教へ取り組むようにと鼓舞する使徒的勧告「福音の喜び」の最後に、「教会の福音宣教の活動には、マリアという生き方があります(288項)」と記しておられます。

 聖母マリアの人生は、まさしく「愛を持ち自己を与える」生き方であります。聖母マリアの人生は、神の平和を構築する道として、教会に模範を示している生き方であります。

 教皇フランシスコは「正義と優しさの力、観想と他者に向けて歩む力、これこそがマリアを、福音宣教する教会の模範とするのです」と指摘されます。

 その上で教皇は、聖母マリアは、福音宣教の業において「私たちと共に歩み、共に闘い、神の愛で絶え間なく私たちを包んでくださる」方だと宣言されます。

 教会が模範とするべき聖母マリアの根本的な生きる姿勢、とりわけ「正義と優しさの力」は、ルカ福音書に記された聖母の讃歌「マグニフィカト」にはっきりと記されています。天使のお告げを受けたマリアは、その意味を思い巡らし、その上でエリザベトのもとへと出向いていきます。「観想と他者に向けて歩む力」であります。

 マリアは全身全霊を込めて神を賛美するその理由を「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです」と記します。ここに、「謙虚さと優しさは、弱い者の徳ではなく、強い者のそれであること」を見い出すだすことができる、と教皇は記されます。

 なぜなら、マリアがこの時、その身をもって引き受けた「主の招き」とは、人類の救いの歴史にとって最も重要な役割であり、「救い主の母」となるという、人間にとって最大の栄誉であるにもかかわらず、マリアはそれを謙虚さのうちに受け止め、おごり高ぶることもなく、かえって弱い人たちへの優しい配慮と思いやりを「マグニフィカト」で歌っています。「強い者は、自分の重要さを実感するために、他者を虐げたりはしません」と教皇は指摘されます。

 そして「マグニフィカト」でマリアは、御父が成し遂げられようとしている業、すなわち「神の秩序の実現」とは具体的に何であるのかを、はっきりと宣言しています。

 「主はその腕を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き下ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良いもので満たし、富める者を空腹のまま追い返されます」

 教皇フランシスコが私たちに求めている教会のあるべき姿は、「出向いていく教会」です。教会は、貧しい人、困難に直面する人、社会の主流から外された人、忘れられた人、虐げられている人のもとへ出向いていかなくてはならない。この教会の姿勢は、聖母マリアの「マグニフィカト」にしっかりと根ざしています。

 私たちは、聖母マリアに導かれ、その生きる姿勢に学び、神の前に謙遜になりながら、自分のためではなく他者のためにその命を燃やし、「愛を持ち自己を与える」ことを通じて、神の平和を確立する道を歩んでいきたいと思います。聖母のように、「正義と優しさの力、観想と他者に向けて歩む力」を具体的に生きていきたいと思います。

 神の母聖マリア、あなたのご保護により頼みます。苦難のうちにある私たちの願いを聞き入れてください。栄光に輝く幸いなおとめよ、あらゆる危険から、いつも私たちをお救いください。

(編集「カトリック・あい」)

2020年8月15日

・「平和実現へ地道に取り組んでいく決意を新たにしよう」-菊地大司教「平和を願うミサ」

2020年平和旬間「平和を願うミサ」@東京カテドラル 8月8日

 8月に入り、東京はやっと梅雨も明け、一気に真夏となりました。新型コロナによる感染症の状況は終息せず、今年の平和旬間は、あらゆる行事を中止としました。毎年の恒例行事となっていただけに残念である反面、平和は一年の一時期だけ考え祈れば実現するものではなく、いつでも思い祈り行動しなくてはならない課題であることを考えるとき、平和への取り組みを振り返り、今後の取り組みを考えてみる機会を与えられたようにも思います。

 国際関係における政治や経済の様々な利害が複雑に絡み合い、そこに自然現象の変化も加わり、加えて歴史の歩みの中での様々な積み重ねがいまにのしかかり、簡単に世界の平和は実現しそうにありません。だからこそ、常に平和について考え祈り行動することは、ますます持って重要ですし、そもそも私たちは「平和」と言って何を目指しているのかを、信仰の立場からはっきりと自覚することも大切であると思います。

 教皇様は、8月6日の広島の原爆忌にメッセージを寄せ、昨年広島と長崎を「平和の巡礼者」として訪問したことを思い起こしながら、「私は、平和を強く希求し、平和のために自らを捧げようとする、今日の人々、特に若い人々の熱望を、今も心にとどめ続けています」と述べて、平和を祈り求め行動する人たちとの連帯を示されました。

 その上で、教皇様は改めて核兵器の廃絶を訴え、世界の人々に向かって、「原子力の戦争目的の使用は、倫理に反します。核兵器の保有は、それ自体が倫理に反しています」と、昨年広島から世界に向けて発信したメッセージを繰り返されます。

 さらに、「広島と長崎の被爆者の方々の預言的な声が、私たちと未来の世代への警鐘であり続けますように」と述べてメッセージを締めくくることで、広島と長崎から世界に向けて発信される核兵器廃絶と平和への願いにご自分も連帯して、自らの声を加えて世界に発信されることを誓われています。

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 さて、感染症の状況は流動的ですが、東京教区内においては、現在の感染症対策を緩めることなく守りながら、限定した形での活動を継続します。8月9日から16日までの一週間、現在の対応をこのまま継続いたします。感染症対策だけではなく、熱中症にも十分にご配慮ください。

 以下、8月8日夕方に行われた、今年の平和旬間の「平和を願うミサ」での、説教の原稿です。

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 東京大司教区「平和を願うミサ」(公開配信)2020年平和旬間 東京カテドラル聖マリア大聖堂 

 「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」

 主ご自身の、この言葉から励ましと勇気をいただき、私たちは平和の実現を目指しています。とりわけ、今年、2020年の夏は、1945年に広島と長崎で核兵器が使用され、多くの人命が奪われた悲劇と、それに続く太平洋戦争の終結をもって、第二次世界大戦が終わりを迎えてから75年という節目の年でもあります。

 「過去をふり返ることは、将来に対する責任を担うことです」と、教皇ヨハネパウロ二世は、1981年に広島で述べています。

 この75年の間、戦争の悲惨な現実が繰り返し多くの人によって語られてきたのは、戦争が自然災害のように避けることのできない自然現象なのではなく、まさしく教皇ヨハネパウロ二世が広島で指摘されたように、「戦争は人間のしわざ」であり、「人類は、自己破壊という運命のもとにあるものでは」ないからこそ、その悲劇を人間は自らの力で避けることが可能であるからに他なりません。

 教会はこの節目の年の平和旬間にあたり、教皇フランシスコの昨年の広島における言葉を引用して、こう主張します。

 「戦争のために原子力を使用することは、……これまで以上に犯罪とされます。人類とその尊厳に反するだけでなく、私たちの共通の家の未来におけるあらゆる可能性に反する犯罪です。原子力の戦争目的の使用は、倫理に反します。核兵器の所有は、それ自体が倫理に反しています」

 教皇ヨハネ23世は、回勅「地上の平和」を、次の言葉で始め、教会が考える「平和」の意味を明らかにしています。

 「すべての時代にわたり人々が絶え間なく切望してきた地上の平和は、神の定めた秩序が全面的に尊重されなければ、達成されることも保障されることもありません」

 教会が語る「平和」とは、神の定めた秩序が実現している世界、すなわち神が望まれる被造物の状態が達成されている世界を意味しています。

 教皇ヨハネ23世は「地上の平和」において、自然法に基づく人間の権利と義務について触れ、その権利がすべからく実現していることこそ、神の望まれる世界の実現である、と説きます。

 教皇が指摘する人間の権利とは「生存と尊厳ある生活水準への権利、倫理的および文化的価値に与る権利、良心に従って神を礼拝する権利、生き方を自由に選択する権利、経済における権利、集会と結社の権利、移住および移民の権利、政治に関連する権利」であります。

 そして教皇は、私たちには、他者の権利を尊重し互いにそれを実現していく義務があるのだと説かれます。すなわち、そうした様々な権利が実現していない限り、神の定めた秩序はこの世界に実現していないのであり、「平和」はもたらされていません。

 今年の初めから、私たちは経験したことのない事態のただ中におります。新型コロナウイルスの感染拡大のため、日常生活や仕事にも大きな影響が出る中、教会も今年の平和旬間行事を含め、その活動を中止せざるを得なくなりました。

 感染症は一つの国に留まらず、いまや世界中を巻き込んで拡大し、各地に多大な影響を与えています。多くの方が大切ないのちをなくされた国も多数存在し、今この時点でも、命の危機に直面している人は少なくありません。命を守るために努力を続ける医療関係者に、敬意を表したいと思います。

 世界を巻き込んで発生した命の危機は、その解決のためにも、世界全体の視点から連帯が必要であることを明確にしています。しかし残念なことに、世界的規模の連帯は、この事態にあっても実現せず、かえって、多くの国が自国の安全と利益だけを優先する事態にもなっています。資金的にも医療資源でも乏しい、いわゆる途上国の多くは、取り残されようとしています。

 教皇フランシスコの指示を受けて、この危機に総合的に対処するために、教皇庁には特別な委員会が設置されました。その責任者であるタークソン枢機卿は7月7日に会見を開き、次のように述べています。

 「現在の互いに関連した危機は、世界が互いに結びあわされている事実を反映して、連帯のグローバル化が緊急に必要であることを示している。私たちの世界には、一致のきずなを回復し、誰かをスケープゴートにせず、互いの批判合戦を止め、卑劣な国家主義を否定し、孤立化を否定し、そのほかの利己主義を否定するようなリーダーが必要だ」

 その上で、枢機卿は今回の感染症という命の危機は、教皇フランシスコが強調する、共通の家を守る必要性に改めて気づかせるとして、こう述べています。

 「(人類は)第二次世界大戦以降最大の人道的危機に直面している。現在、これまでにないような金額が軍事目的で支出されているもかかわらず、病人、貧困者、排除された人、紛争の犠牲者が、比較にならないほど現在の危機の影響を受けている。現在、健康、社会経済、環境において互いに関連した危機が、富める者と貧しい者の間だけでなく、平和、富、環境正義を享受している地域と、紛争、貧困、環境破壊に直面している地域の格差も広げ続けている」

 教皇フランシスコは回勅「ラウダート・シ」で、「あらゆるものは密接に関係し合っており、今日の諸問題は、地球規模の危機のあらゆる側面を考慮することのできる展望を求めています」(137項)と指摘し、総合的エコロジーへの取り組みを提唱します。

 総合的エコロジーは、単に環境問題への配慮だけではなく、貧困の解決、健康の確保、基本的人権の確立、武器の放棄、紛争の停止を包摂した概念であり、すなわち平和構築を目指す道の、別の名前に他なりません。

 すべては、私たちの共通の家の未来をどのように描き、それを私たちがどのように実現しようとするか、にかかっています。平和の問題は、複雑に絡み合った人間の生の営みと、被造物との関係、そして創造主である神との関係を、一つ一つ解きほぐして、神が望まれる有り様に紡ぎ直していく、途方もない作業であります。たまものである命に関わるすべての課題は、密接につながっており、複雑に絡み合っています。解決のための近道はありません。地道な取り組みが必要です。

 「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」

 私たちは、改めて主のこの言葉に励まされ、平和を実現するために、様々な課題に地道に取り組んでいく決意を、今日、戦後75年の平和旬間にあたり、新たにしたいと思います。

(ご本人の主旨を損なわず、かつ、文章として読みやすく、意味を取りやすくするために、表記は当用漢字表記にさせていただきました「カトリック・あい」)

2020年8月9日

・「福音の喜びを伝えることができるように、イエスに祈ろう」菊地大司教の第18主日ミサ説教

年間第18主日@東京カテドラル

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 毎年夏が始まるこの時期には、「あっという間に」月日が過ぎてしまった、などと実感させられることが多いのですが、今年はいつもと異なります。

 まず、8月が始まったのに、まだ梅雨の中にいるような毎日が続いており、暦の感覚と肌感覚が調和していません。加えて、新型コロナウイルス感染症の事態はいっこうに終息せず、毎日のように両極端の様々な意見が飛び交う中で、ただただ、時間だけが過ぎています。

 東京都で毎日報告される新規の感染者数は増加していますが、先週も触れたように、その増減に一喜一憂することなく、私たちは基本の感染症対策に徹して、互いの命を守ることを心したいと思います。密集・密接・密閉を避け、手指を消毒し、マスクを着用しながら、信仰生活を可能な範囲で続け、深めていきたいと思います。

 なお、現在のステージにおいて教会活動参加に大きな制約のある、特に高齢の信徒のみなさまへ、特別な司牧的配慮を、それぞれの小教区の事情と地域の事情に応じて考えてくださるように、小教区を担当する司祭方には依頼をしてあります。

 すべて一概に同じような対応をすることは難しいと思いますが、それぞれの事情に応じて、霊的な側面での司牧的配慮を講じていくことができるように、それぞれの現場で取り組まれていることと思います。ただし、どうか高齢の方にあっては、これまでのインフルエンザなどと異なり、今回の新型コロナウイルスにあっては解明されていないことが今の段階では多々ありますので、「健康に問題はないから」と過信されず、是非とも慎重に行動されますようにお願いいたします。

 現時点での東京や千葉における感染の報告は日々ありますが、幸いなことに教会活動を通じた感染の報告は今のところなく、教会の感染対策にも一定の効果があるものと思われますので、次の一週間、8月2日から9日まで、現在の制約を伴った活動状況を継続いたします。

 

 以下、本日の夕方6時から東京カテドラル聖マリア大聖堂で行われた、年間第18主日の公開配信ミサの説教原稿です。

【年間第18主日A 東京カテドラル聖マリア大聖堂 (公開配信ミサ) 2020年8月2日 前晩】

 人間の幸せとは、いったい本当はどういうことなのでしょう。私たちはそれをよく分かっているようで、その実、人間を幸せにしてくれるのは何か、考えれば考えるほど様々な課題が浮かび上がってきて、明確に定義づけることができません。

 一番の問題は、幸せというのが、何かを持って量ることのできる絶対的な概念ではなくて、一人ひとりでその中身が全く異なる相対的な概念であることです。

 そうであったとしても、少なくとも私たちは、決して「皆が不幸になるように」ではなく、「皆が幸せになるように」と、歴史の中で努力を続けてきたはずであります。

 第二次世界大戦の後、荒廃した世界の現実から立ち上がり、再び愚かな戦いをすることなく、幸せな世界を築き上げようとした国際社会は、世界人権宣言を採択します。

 その冒頭に、「全ての人間は生まれながらにして自由であり、かつ尊厳及び権利について平等である」と力強い宣言が記され、さらに第25条には「全ての者は、自己及び家族の健康及び福祉のための相当な生活水準についての権利、並びに失業、疾病、障害、配偶者の死亡、老齢そのほか不可抗力による生活不能の場合に保障を受ける権利を有する」と記されています。

 1966年に定められた社会権規約には「自己及びその家族のための相当な食糧、衣類及び住居を内容とする相当な生活水準についての並びに生活条件の不断の改善について全ての者の権利を認める(11条)」と記されていました。

 しかしながら、そういった理想と様々な努力にもかかわらず、現実の世界では貧富の格差が拡大し、世界銀行が定める一日1.9米ドル未満という極度の貧困ライン以下で生きる人たちは、改善されたとはいえ、いまでも世界人口の一割ほどを占めています。

 教皇ヨハネパウロ二世は、1991年に発表された回勅「新しい課題」に、こう記しています。

 「より良く暮らしたいと願うことは間違いではありません。間違っているのは、『あること、生き方』よりも『持つこと、所有』を目指すことが、より良い暮らしに繋がると決めてかかる生活様式であり、より良く生きるためではなく、快楽を人生の目的とし快楽のうちに人生を送るために、より多く持ちたいと願う生活様式なのです(36)」

 教皇フランシスコも、東京ドームでのミサ説教で、このように述べていました。

 「子としての自由が抑え込まれ弱まる時があることを知っています。それは、不安と競争心という悪循環に陥る時です。あるいは、息も切れるほど熱狂的に生産性と消費を追い求めることに、自分の関心や全エネルギーを注ぐ時です。まるでそれが、自分の選択の評価と判断の、また自分は何者か、自分の価値はどれほどかを定めるための、唯一の基準であるかのようにです。そのような判断基準は、大切なことに対して徐々に私たちを無関心、無感覚にし、表面的で、はかないことがらに、胸がときめくように仕向けるのです」

 その上で、教皇フランシスコは、「イエスにおいて私たちは、自分たちは神の子どもだと知って自由を味わう、新たな命を見い出すのです」と指摘されます。

 改めて言うまでもなく、神が与えようとされているのは、この世の幸福ではなく、神の言葉に聞き従うことによって、魂がその豊かさを楽しみ、命を得る心の糧であります。本当の幸せは「イエスに出会う人々の心と生活全体を満たす」福音の喜びである、と教皇フランシスコは「福音の喜び」の冒頭で指摘します。

 私たちには、その福音の喜びこそが真の幸福の源である、と主張し、それを多くの人に伝えていく義務があります。

 今日の福音は、五つのパンと二匹の魚の奇跡物語でありました。その奇跡が起こる前の、弟子たちとイエスとの会話に注目したいと思います。

 大勢の人がイエスの話を聞くために集まっている中で、当然、人間的な必要を満たしていくことを無視することはできません。そこで弟子たちは、それぞれが食事を求めるように、人々を解散させようとします。それぞれの思いのままに人々を散らしてしまおう、とする弟子たちに対して、イエスは、「あなた方が彼らに食べるものを与えなさい」と指示をします。

 集まっている大勢の人にとって必要なのは、真の幸せをもたらすイエスの福音であって、イエスから離れてこの世の充足を求めることではない、と指摘するイエスの弟子たちへの指示であります。もちろん、実際に空腹を満たすことの必要も否定しないイエスは、パンと魚の奇跡を起こしてそれに応えますが、この場面で重要なのは、その弟子とイエスのやりとりです。

 世間の常識に従って行動しようとした弟子たちに、イエスは「真の幸福の源はどこにあるのかを、もう一度見直すように」と求められました。

 その同じことを、現代に生きる弟子である私たちは、主イエスから同じように問いかけられています。本当の幸福は、この世の生み出す幸福にはあり得ないことを、そして、本当の幸福は、イエスの福音にあることを、多くの人に伝えるように求められています。福音に従ってより良く生きることこそが、本当の幸福の源であることを、私たち自身の生き方と、語る言葉で証ししながら伝える務めがあります。

 社会の現実の中で、福音を伝えようとすることには、当然さまざまな困難があります。パウロはそれを、「艱難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣」による抵抗と記していました。形を変えて、これらの抵抗は現代社会にも存在していますし、そのために私たちは福音を伝えることを躊躇してしまいます。しかしパウロは、そういった苦しみは、「キリストの愛からわたしたちを引き離すことはできない」と断言します。

 教皇フランシスコは「福音の喜び」に、「もし、イエスを伝えたいという強い思いを抱いていないなら、イエスに向かって、再びあなたに引き寄せてくださいと、もっと祈る必要があります(264)」と記しています。

 人間の真の幸福の源であるイエスの福音を、勇気を持って困難を乗り越え、多くの人に伝える思いを抱くことができるように、「再びあなたに引き寄せてください」と、さらに祈り続けましょう。

 私たちの「心と生活全体を満たし」てくれるのは、福音の喜びであって、それは「イエスに出会う人々」に与えられるからです。「罪と悲しみ、内面的なむなしさと孤独から解放」するのは、「イエスの差し出す救い」にあるからです。

 だから、すべての人の幸せを願いながら、イエスに向かって、「再びあなたに引き寄せてください」と、何度も何度も祈り続けましょう。

(表記は「カトリック・あい」で使用している当用漢字表記にさせていただきました(「カトリック・あい」)

 

 

2020年8月1日

・「たまものである命を共に生きる努力を」菊地大司教の17主日ミサ説教

年間第17主日@東京カテドラル

 このところ、毎日のように発表される感染の数にどうしても大きな関心が寄せられていますが、特に東京都の場合はその日に検査が陽性となった方ではなくて、当日朝までに保健所から都に報告され、内容が確認された件数と言うことのようですので、必ずしも、今日は多いとか少ないとか、数字の多寡に一喜一憂する必要はないものと考えています。とはいえ、感染が終息に向かっているようには見えませんし、日々状況が変化しますが重症者数も増減を繰り返していますので、まだまだ慎重に行動する必要があります。

 これまでのところ、小教区において感染の報告はありませんが、それが現在の各小教区の感染対策の結果なのか、それとも今般の感染症がそういった程度のことなのかは、残念ながら確証を持ってどちらかだと断定することは出来ません。ですから現時点では、教区としてはより慎重な判断を優先させる必要があると考えています。

 したがって、これまで同様の小教区における感染対策を、次週も継続していきたいと思います。原則として、7月26日から8月2日までの一週間は、教会活動にあってはこれまで同様、「感染しない・感染させない」ための対応を継続します。(現在の対応については、東京教区のホームページをご参照ください。また教区の大枠に基づいて、各小教区での独自の対応も定められていますので、ご不明の点は小教区の主任司祭にご確認ください)

 以下、年間第17主日ミサ、土曜日午後6時の関口教会でのミサ説教の原稿です。

【年間第17主日A 東京カテドラル聖マリア大聖堂 (公開配信ミサ) 2020年7月26日】

 「良き友は人生の宝だ」とか、「苦難は人生の宝だ」とか、「出会いは人生の宝だ」とか、私たちの人生には、さまざまな「宝」がつきものです。

 人間関係だとか、社会での体験だとか、そういった多くの宝は、誰かとの出会いの中で、自分の人生を豊かにしてくれる得がたい存在であります。

 もちろん、趣味で何かを集めている時などに、そういったコレクションが「宝」となることもあるでしょうが、いずれにしろ私たちが「宝」と言うときには、実際の貨幣的な富として私たちを経済的に豊かにしてくれる「宝」のことではなくて、貨幣的な価値では計ることのできない豊かさを与えてくれるものを指して、「宝」と呼んでいます。

 マタイ福音は、「持ち物をすっかり売り払って」でも、手に入れたくなるような「宝」を記しています。さらには、「持ち物をすっかり売り払い」手に入れようとするほどの、「良い真珠」の話を記しています。

 すなわち、何か経済的な付加価値を与えてくれるような「宝」ではなくて、自分の人生を決定的に決めるような「宝」であります。人生のすべてを賭けてでも手に入れたくなるような「宝」であります。

 この話は、ともすれば、非常に利己的な響きを持つ話、でもあります。「自分の人生の利益のために、隠し持っておこう」とする宝の話のようにも聞こえます。

 列王記には、ダビデ王を継いだソロモンが、「何事でも願うが良い」と神に言われた時に、自分のための様々な利益を求めることなく、「あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください」と願うことで、神からよしとされ、「知恵に満ちた賢明な心を」与えられた、と記されています。

 神から、それこそ人生の最高の宝を与えようと言われたときに、ソロモンは自分の利益のためではなく、自分に託された神の民のための宝を求めた。ここに福音に記された「すべてをなげうってでも手に入れたくなる宝」の意味が示されています。

 自分の利益のためではなく、他者の利益となるために、宝を手に入れる。すなわち私たちは、社会の共通善に資するために、宝を求め続けるー私たちの宝とは、いったい何でしょうか。

 昨年東京ドームでミサを捧げられた教皇フランシスコの説教の言葉を思い起こします。

 教皇はマタイ福音6章33節の「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」と言う言葉を引用した後に、次のように言われました。

 「主は、食料や衣服といった必需品が大切でない、とおっしゃっているのではありません。それよりも、私たちの日々の選択について振り返るよう招いておられるのです。何としてでも成功を、しかも命を懸けてまで成功を追求することにとらわれ、孤立してしまわないように、です。この世での己の利益や利潤のみを追い求める世俗の姿勢と、個人の幸せを主張する利己主義は、実に巧妙に私たちを不幸にし、奴隷にします」

 教皇フランシスコは、「無関心のグローバル化」という言葉を使って、現代社会に生きる私たちが、「利己主義を強めながら、むなしいシャボン玉の中に閉じこもって、はかない夢を見ながら、他者への関心を示さなくなっている」と、教皇就任直後から指摘を続けておられました。

 ドームミサの説教で教皇は、「孤立し、閉ざされ、息ができずにいる『私』に抗しうるものは、分かち合い、祝い合い、交わる『私たち』、これしかありません」と指摘されました。

 私たちは、社会という共同体の中で、孤立することなく、互いの交わりの中で、共同体全体の益、すなわち共通善、に資するよう、持っている宝を分かち合わなくてはならない。

 教皇ヨハネパウロ二世の「アジアの教会」に、次のように記されています。

 「イエスに対する教会の信仰は、いただいたたまものであり、分かち合うべきたまものです。その信仰こそ、教会がアジアに差し出すことのできる最大の贈り物なのです。イエス・キリストの真理を他の人々と分かち合うことは、信仰のたまものを与えられたすべての人にとって重要な義務です(10)」

 信仰は、私たちにとって宝であることは間違いがありません。そしてその宝は、自分の心に秘めて隠しておくためではなく、また自分だけの救いの鍵でもなく、共通善に資するように、多くの人と分かち合われなければなりません。私たちは、受けた信仰を分かち合うために、キリストに呼ばれています。

 教皇フランシスコは、昨年この場所で青年たちと出会ったとき、こう述べられました。

 「あなたが存在しているのは神のためで、それは間違いありません。ですが神はあなたに、他者のためにも存在してほしいと望んでおられます。神はあなたの中に、たくさんの資質、好み、たまもの、カリスマを置かれましたが、それらはあなたのためというよりも、他者のためのものなのです」

 私たちの宝である信仰は、命は、「神からの贈り物」であると教えます。教会は、神が愛を込めて創造されたすべての命は、例外なく、その始めから終わりまで大切にされ、守られ、その人間の尊厳が保たれなくてはならないと主張します。すなわち、命は最高の宝物です。

 その宝物である命は、自分だけのものではなく、他者のために与え尽くす命であるようにと、教皇は強調されました。

 相模原の障害のある方の施設で、19名の尊厳ある命が暴力的に奪われてから26日で4年となります。最高の宝物である命を、互いに与え尽くし、支え合うためではなく、 「価値がない」として暴力的に奪うことは、許されることではありません。事件の衝撃が残っているにもかかわらず、今でも、「命の価値の差異を強調して選別すること」をよしとする声が聞こえるのは、大変残念です。最高の宝物であるいのちは、互いの支え合いの中で、尊厳のうちに護られなくてはなりません。

 「世の終わりまでいつもあなた方と共にいる」と約束された主ご自身が、私たちのためにその命を分かち合い共に生き、支えてくださるように、その主に従う私たちも、兄弟姉妹との交わりの中で、互いに支え合う命を生きていかなくてはなりません。

 私たちの宝は、すべからく自分だけのものではなく、他者と分かち合うためにある。宝物である信仰を分かちう。たまものである命を共に生きる。互いに助け合い、思いやり、絆を深め、豊かな命を生きることができるように、努めてまいりましょう。

(「菊地東京大司教の日記」より」・表記を当用漢字表記にしてあります「カトリック・あい」)

 

 

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2020年7月18日 (土)

年間第16主日@東京カテドラル

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この数日間、東京では感染者数が拡大しています。このままミサを含めた小教区での活動を継続するべきなのか、それとも再び中止するべきなのか、判断に迷うところです。

これから先、少なくとも一年以上にわたって、感染者数が増減したりする状況は続くことでしょうし、有効な予防策や治療法が確立されるまでには、その程度か、それ以上の時間が必要なことと想定されます。従って、選択肢は二つで、安心安全が確立されるまですべてを中止するのか、または、そういった状況の変化に合わせて教会活動も強弱を付けながら行うことができる道を模索し続けるのか。

6月21日に教会の活動の再開を決めたときの選択は後者です。再開からそろそろ一ヶ月になりますから、それぞれの小教区では出来ることと出来ないことが明らかになりつつあると思います。またミサだけでなく、司牧的配慮の様々な道が模索されていることと思います。しばらくは、気を緩めることなく、常により慎重な道を選択しながら、感染しないことと感染させないことを念頭に、判断していきたいと思います。少なくとも、今週中(7月19日から25日)は、教会の活動を十分な感染対策をとりながら現状のように継続します。

2020年7月25日

・「今こそ、神との関わり、隣人との関わり、大地との関わりを大切にする時」菊地大司教の第16主日ミサ説教

年間第16主日@東京カテドラル

 この数日間、東京では感染者数が拡大しています。このままミサを含めた小教区での活動を継続するべきなのか、それとも再び中止するべきなのか、判断に迷うところです。

 これから先、少なくとも一年以上にわたって、感染者数が増減したりする状況は続くことでしょうし、有効な予防策や治療法が確立されるまでには、その程度か、それ以上の時間が必要なことと想定されます。従って選択肢は二つー「安心・安全」が確立されるまで、すべてを中止するのか、または、そういった状況の変化に合わせて、教会活動も強弱を付けながら行うことができる道を模索し続けるのか。

 6月21日に教会の活動の再開を決めた時の選択は後者です。再開からそろそろ一か月になりますから、それぞれの小教区では出来ることと出来ないことが明らかになりつつあると思います。またミサだけでなく、司牧的配慮の様々な道が模索されていることと思います。しばらくは、気を緩めることなく、常により慎重な道を選択しながら、「感染しない」ことと「感染させない」ことを念頭に、判断していきたいと思います。少なくとも、今週中(7月19日から25日)は、教会の活動を十分な感染対策をとりながら現状のように継続します。

年間第16主日のミサ説教の原稿です。

【年間第16主日A 東京カテドラル聖マリア大聖堂 (公開配信ミサ) 2020年7月19日】

「すべてに心を配る神はあなた以外におられない」と、知恵の書は記していました。
私たちはこの世界が、創造主である神によって支配されていることを信じています。神は「正義の源」であるその力を通じて「万物を支配することによって、すべてをいとおしむ方」である、と私たちは信じています。

 しかしながら、同時に私たちは、この世界が様々な矛盾に包まれていることも知っています。神が、その愛と慈しみをもって創造された世界であるにもかかわらず、そこに大きな矛盾が生じるのはなぜなのか。

 それは例えば、環境破壊もその矛盾の一つであります。いったいなぜ、そのような矛盾が生じるのでしょうか。

 教皇フランシスコの回勅「ラウダート・シ」には、こう記されています。

 「私たちがずうずうしくも神に取って代わり、造られたものとしての限界を認めるのを拒むことで、創造主と人類と全被造界の間の調和が乱されました。このことによって、私たちに賦与された、地を『従わせ』、『そこを耕し、守る』という統治の任にゆがみが生じたのです(66)」

 すなわち、人間の欲望や思い上がりが、あたかも人間が神の座を奪い取り、神の存在無しですべてをコントロールできるかのように勘違いをさせ、勝手な行動を続けてきたがために、この世界に矛盾を生じさせてしまったのだと、教皇は指摘されます。

 人間の生を成り立たせているのは、「神とのかかわり、隣人とのかかわり、大地とのかかわり」であるにもかかわらず、その三つのかかわりは、外面的にも内面的にも引き裂かれてしまった。その三つのかかわりが引き裂かれた状態こそ、罪であると、教皇は述べています。

 大きな災害に襲われるとき、大自然の脅威の前にたたずみ、わたしたちは人間の力や知恵がいかに小さな存在であるかを思い知らされてきました。同様に、今年の初めから続いている新型コロナウイルスによる感染症によってわたしたちは、目に見えない小さなウイルスの前で、人間の力がどれほど弱いものであるのか、人間のいのちがいかにもろい存在であるのかを、あらためて思い知らされました。

 思い知らされるとき、わたしたちは一時的に、謙遜に生きる決意を心に刻みます。思い上がりを正さなければと、心に誓います。残念なことに、その決意は長続きしません。長続きするのであれば、わたしたちは真摯に神の前で謙遜に生き、「神との関わり、隣人との関わり、大地との関わり」を、それぞれ大切にする世界を構築してきたことでしょう。しかし現実は異なります。すぐに忘れてしまう私たちは、繰り返し人間の欲望に負け続け、大きな矛盾は、私たちの共通の家の破壊につながりました。

 マタイ福音には厳しい言葉が記されていました。

 創造主である神は、良い麦も、後で蒔かれた毒麦も、共に育つことを容認するけれども、最終的には刈り入れの時に峻別する、と記されていました。一般的に、このたとえ話での刈り入れの時は、世の終わりの最後の審判です。

 今の世界は、まさしく神が創造された良い麦と、人間の欲望が生み出した悪い麦が、混じり合って共に育っているような状況です。刈り入れの時まで待っておられる主は、決して悪の存在を容認しているのではなく、峻別できるその時、を待っておられるのだ、と福音は記します。

 パウロはローマの教会への手紙に「人の心を見抜く方は、霊の思いが何であるかを知っておられます」と記します。その上で、聖霊が私たちの祈りを執り成してくださるとも記します。

 私たちは、「私たちに賦与された、地を『従わせ』、『そこを耕し、守る』という統治の任」を忠実に果たすように求められています。すなわち、この世にはびこる毒麦をしっかりと識別して、それを良い麦へと変えていくこと。そのために、良い麦と毒麦をしっかりと峻別できる識別の目を与えてくださるように、聖霊の取りなしと導きを祈ること。

 私たちは改めて、天地の創造主である神の前で謙遜になり、命を与えられているものとして、人間の欲望ではなく、神の導きに従って、この共通の家を「耕し、守る」務めを果たしていかなくてはなりません。刈り入れの時までに、力の限りを尽くして、悪い麦を減らし、良い麦へと変えていく努力を続けなくてはなりません。

 教皇フランシスコは、昨年11月に日本を訪問された際、首相官邸で政府や外交団の関係者に話をなさいました。その中で、次のように述べておられます。

 「地球は自然災害だけでなく、人間の手によって貪欲に搾取されることによっても、破壊されています。「被造物を守る」という責務を国際社会が果たすのは困難だ、と見なす時、ますます声を上げ、勇気ある決断を迫るのは若者たちです。若者たちは、地球を搾取のための所有物としてではなく、次の世代に手渡すべき貴重な遺産として見るよう、わたしたちに迫るのです。私たちは彼らに対し、むなしい言葉でではなく、誠実に応えなければなりません。まやかしではなく、事実によって応えるのです」

その上で教皇は、世界が共通の家を守るために連帯して取り組むようにと求め、次のように述べられました。

 「人間の尊厳が、社会的、経済的、政治的活動、それらすべての中心になければなりません。世代間の連帯を促進する必要があり、社会生活においてどのような立場にあっても、忘れられ、排除されている人々に思いを寄せなければなりません。・・・孤独に苦しむ高齢者や、身寄りの無い人のことも考えます。結局のところ、各国、各民族の文明というものは、その経済力によってではなく、困窮する人にどれだけ心を砕いているか、そして、命を生み、守る力があるか、によって測られるものなのです」

 知恵の書に「神に従う人は人間への愛を持つべきことを、あなたはこれらの業を通して御民に教えられた。こうして御民に希望を抱かせ、罪からの回心をお与えになった」と記されていました。

 人間のわがままな心の思いを主張し続けるのではなくて、愛を込めてこの世界を、私たちの命を創造された神の慈しみと愛に満ちた心に、耳を傾ける時です。すべての命を守るために、排除ではなく互いに支え合いながら、「神との関わり、隣人との関わり、大地との関わり」を大切にする時です。人間の尊厳を掲げて、連帯のうちに互いの命への思いを馳せる時です。

2020年7月18日

・仏カトリック協議会会長「将来は女性の枢機卿、シノドス投票権もありうる」(La Croix)

(2020.7.10 LaCroix  Claire Lesegretain)

Head of French bishops foresees women cardinals in future

             仏カトリック司教協議会のエリック・ド・ムーラン会長 ( ©PHOTOPQR/LA DEPECHE DU MIDI/MaxPPP)

 仏カトリック司教協議会(CEF)会長のエリック・ド・ムーラン大司教(58)は、将来、枢機卿団に女性が登場することがありうる、との考えを明らかにした。

 ティヤール・ド・シャルダン協会の機関誌Noosphère,との長時間のビデオ・インタビューに答えた。インタビューは5月18日に行われたが、10日にその内容が公開されたもの。ムーラン会長は、約2年前に教皇フランシスコからランス大司教区長に任命され、会長としては3年の任期の最初の年を追えたばかり。

 インタビューで、まず、教会の統治について問われた会長は「人は、手を引かれねばならない子供のように振る舞うことができない」とし、「それが、過去に教会が機能したやり方でした」と述べた。

 そのうえで、「多くの人々が高等教育を受けるようになった現代社会ー信仰が選択されるか、自由に受け入れるかの社会ーでは、そのようなことは可能でない」と語った。

 カトリック教会の神学によれば、洗礼を受けた人は皆、「神の啓示の前に平等。司教と司祭たちが、一般信徒よりも、神についてよく学んでいるとも、神に近いとも言えない」のは真実であり、受洗した一般信徒全員の声は、キリスト教を受け入れようとした瞬間から、聖職者と同じだけ、数えられることができるのです」と説明。

 教会における女性の役割については、「適所適材が求められる教会の仕事で、今より重要な役割を果たすのを妨げるものは、何もありません」と述べ、さらに「教会組織が今よりも非中央集権化し、友愛的になっていくという条件付きで、女性助祭制度の復元に反対しない、と言明した。

*シノダリティと友愛

 また会長は、教会改革に課せられた課題を、「私たちがすべてのレベルでシノダリティ(協働制)を生きることであり、それは友愛に根ざしている必要があります… 私たちの各統治組織は、常に男性と女性、司祭と一般信徒がいる、堅い友愛によって結ばれたものにならねばなりません」と語り、「友愛に進展がないなら、叙階の問題について扱いの仕組みが今よりも煩雑になり、進展が妨げられてしまう恐れがある」と警告した。

 こうした困難があるものの、会長は「教皇職は、女性がいる枢機卿団によって選ばれた教皇によって担われることになる」と展望を描く一方、「まず、友愛で形作られた教会組織で男女が共に働くようにしなければ、そのような展望は無駄になるでしょう」と述べた。

 さらに、「完全なシノドス様式をとるためには、使徒的継承が男性に限定されるなら、女性の声が特別に今以上に聴かれる必要があります」と語り、最近のシノドス(全世界代表司教会議)には女性の参加も認められたが、投票権は与えられなかったことを指摘し、そうした女性の扱いは、理解できないと感じた、と振り返り、こう述べた。「司教だけに投票権があるのは、理にかなっているように思われるかも知れませんが、司祭や司祭叙階されていない修道士たちが投票することを許されたら… どうして、女性の修道女が投票を認めれれないのか、私には理解できません」「驚きで口がきけなくなります」。

 

*イスラム原理主義への懸念

  イスラム教のフランスなど欧州での急拡大について会長は、主として「(イスラム教徒の欧州における)人口増加によるもの」とし、「彼らにはたくさんの子供がおり、それは彼らにとって良いこと」とする一方、彼らは「長い間、大きな危機的状況に置かれており、その原因の一つは、イスラム運動を通じた政治化にある」と指摘した。

 会長は、フランスの神学者で枢機卿と務めたイエズス会士、アンリ・ドゥ・リュバック(1896-1991)の著作の研究で博士号を取得しているが、一連の著作の解釈がイスラム教にとってほとんど不可能に思われることを、とくに懸念している。「それがイスラム教の内部で起きるのは、避けられない。キリスト教や不可知論の起源が、イスラム学者によって扱われているにもかかわらず、です… 修養を積んだイスラム教徒がコーランの解釈に身を入れると、多くの教義、特にコーランの創造されざる特質ーイスラムにおける啓示の考えに大きな影響を与えるものーが損なわれる」と述べた。

 さらに、西欧諸国にいるイスラム教徒は「個人的な自由を体験しているが、イスラム教にそれを完全に考慮に入れる度量があるとは思えない… 個人の自由は、イスラム教が唱道する家族、社会、宗教の枠組みを侵食することしかできません… イスラム教が、彼らの自由の体験を受け入れるのは、とても難しいでしょう」と述べた。

 そして、そのような理由から、「”イスラム国”を建設しようとする病的誘惑以上のものが、カリフ制(預言者ムハンマドの代理として、イスラム共同体の行政を統括し、信徒にイスラムの義務を遵守させる役割をもつカリフを指導者とする制度)への回帰を招く」ことを恐れている、と述べた。

 

*国際ルールを守らない中国を批判

 ムーラン会長は、世界が現在直面しているさまざまな危機(金融、気候、COVID-19)から統治、民主主義と民族主義にいたる問題について率直かつ大胆に語ったが、その中で、中国問題についても言及した。

 (注:会長のインタビューは、香港に中国国家安全維持法が導入された6月30日より一か月以上も前に行われたため、この問題には触れられていないが)、中国が世界貿易機関(WTO)のルールに長い間従っていないことを取り上げ、「私たちは、中国がWTOのルールを尊重していないことを、ずっと以前から知っていました。国際機関は、それを問題にすべきだったのに、そうしませんでした」と語った。そして、「民族主義、国家主義の台頭を避けたいなら、国際的なルールの受け入れを認めた国が、ルールを尊重することが不可欠です」と強調した。

 

2020年7月12日

・「言葉と行いは『神の命の言葉』の土壌肥やす最強の道具」菊地大司教15主日ミサ説教

年間第15主日@東京カテドラル

 この数日の豪雨によって、大きな被害を受けられた皆さまに、心からお見舞い申し上げます。被害の大きかった福岡教区では、すでに被災地支援のための募金が始まっています。。被災地では復旧のために人手が足りないことが報告されておりますが、このたびの感染症対策のため、ボランティアは県内の方だけに限られているようです。従って、全国に向けてのボランティア受付のようなことは難しいかと思います。まずは現地からの情報に耳を傾け、できることでの支援を、そして祈りをしていきたいと思います。

 この数日、東京都では新型コロナ感染者が100名を超え、さらにこの3日間は連続で200名を超えています。今の時点では、重症者が少ないことや、亡くなられる方が6月24日から出ていないことを踏まえて、即座に教会活動を停止するようなことはしておりません。現時点での感染対策をしっかりと守りながら、慎重に教会運営を続けてまいります。

 しかし今後は、仮に感染者数がこのまま増え続け、重症者が増加した場合などには、現在の対応を一段厳しいものに戻すことも念頭に、日々刻々と変化する状況を見つめております。これからかなり長期にわたって、現在のように「社会の現実として新型コロナウイルスがある」ということを前提として、その中で教会活動を続けていく方策を慎重に模索して行かざるを得ないものと思われます。

 改めて申し上げますが、教区の基本方針は三つです。(詳しくは、教区ホームページに掲載しているビデオを、是非一度ごらんください)

1: 教区内地域で新規感染者がいる限り、教会活動では「密接・密集・密閉」を避ける
2: 感染しない、感染させない
3: 秘跡にあずかる機会を提供し、霊的な一致を促す

 「教会活動を停止する」という歴史に残るような事態に、東京教区だけではなく、世界中の教会が直面しているのですが、その中で東京教区は6月21日に活動を再開して、まだまだ4回目の日曜日です。教区としての大枠はありますが、それぞれの小教区では事情が異なりますので、感染対策への対応もそれぞれ異なっています。

 なにぶん誰ひとり経験したことのない事態なのですから、当然、どの対応も完璧ではあり得ず、当分は試行錯誤の繰り返しにならざるを得ないでしょう。これからさらに何回かの日曜日の経験を通じて、徐々に改善していくしかありません。何といっても、感染症の事態が即座に終息するとは思われず、私たちは長期戦を心しなければなりません。 現時点での対応にはまだまだ不備もあることでしょう。大変申し訳ありませんが、しばらくはこの事態を一緒になって乗り越えるため、耐え忍んでくださるようにお願いいたします。教会内での意見の交換は歓迎しますが、あたかも「教会がすべて変わってしまった」かのように喧伝する行為は慎まれるように、心されることを希望します。 以下、年間第15主日、7月11日夕方6時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂から配信された公開ミサの説教原稿です。

 

【年間第15主日A(公開配信ミサ) 東京カテドラル聖マリア大聖堂 2020年7月12日】

 神の言葉は、受肉の神秘によって人となられたそのときから、今に至るまで、私たちとともに現存しています。人となられた神の言葉である主イエスを通じて直接語られたその言葉は、日々の聖書の朗読を通じて、教会の教えを通じて、典礼を通じて、祈りを通じて、繰り返し私たちに伝えられてきました。

 第二バチカン公会議の啓示憲章にこう記されています。

 「教会は聖書を聖伝と共につねに自らの信仰の最高の基準としてきたのであり、またそうしている。なぜなら、神の霊感を受け一度限り永久に文字に記された聖書は、神ご自身の言葉を変わらないものとして伝え、また預言者たちと使徒たちの言葉のうちに聖霊の声を響かせているからである(啓示憲章21項)」

 すなわち、様々な出来事が時の流れの中で刻まれ、歴史は形作られてきたのですが、その間、常に神の言葉は時の流れの中に現存していました。しかし世界の現実は、神の言葉に耳を傾けようとはしませんでした。

 時には耳を傾けようとしたこともあったのでしょうが、それは例外です。少なくとも今に至るまで、神が望まれる世界は実現しておらず、神が愛を込めて創造された命は危機にさらされ、人間の尊厳はないがしろにされ、神の似姿がその尊厳を暴力的に奪い取られる事例は、世界に数多く見られます。

 私たちの国にあっても、近年、数多くの命が孤独と孤立のうちに危機に直面しており、とりわけ、今般の感染症が拡大し、経済が混乱する中で、雇用の不安定が増大し、命をつなぐための十分な助けを得られることなく、孤立している人も少なくありません。

 もちろん社会には、教会の信徒をはじめとして、多くの善意の方々が積極的に助けの手を差し伸べており、そういったボランティア活動の団体も多く存在しています。東京教区の災害対応チームでも、そういった支援を提供する団体などの情報を集めて、インターネット上で提供していますが、「数多くの善意の方々が存在している」という心強い現実を、そういった情報収集から垣間見ることができます。善意の多くの方の存在を知り、その心配りに感謝するとともに、それでもまだ取り残されている命がたくさんあることを思わざるを得ません。

 また今般の事態にあって、特に医療関係者の皆さんには、常日頃、心にかけておられることであろうと思いますが、たまものである命を守るために、日夜尽力されておられることに、心から感謝申し上げたいと思います。

 神の十戒の第五の掟は、「殺してはならない」と定めています。

 この掟はすなわち、私たちに「人間の生命が神聖である」ことを教え、命を守ることの重要性を認識することも求めています。カトリック教会のカテキズムには、第五の掟の箇所に「道徳律は、重大な理由もなく誰かを死の危険にさらさせること、さらに、危険な状態にある人を見捨てることさえも、禁じています(2269項)」と記されています。

 今般の感染拡大の事態にあたって教会が取り入れている感染症対策は、「感染しない」ことだけではなく「感染させない」ことも重要視していると、常々申し上げてきた理由は、そこにあります。「殺してはならない」と神から命じられている私たちは、他者を命の危険にさらすことも、危険な状態にある人を見捨てることも、禁じられているからです。

 神の言葉は、この世界の現実のなかにあって、様々な方法を通じて幾たびも幾たびも繰り返され響き渡っているにもかかわらず、世界全体には浸透していません。

 ヨハネ福音の冒頭に、「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった(1章10-11節)」と記されているとおりであります。

 耳を傾けようとする人の心に蒔かれた神の言葉の種は豊かに実を結び、善意の人を駆り立てて、助けを必要としている命へ、危険な状態にある命へと、その思いを向かわせます。残念ながら、神の言葉の種は、まだ多くの人の心のうちで、豊かな実を結んではいません。

 この危機的な状況の中で、これから、今以上に、孤立を深めながら危機に直面する命が増えていく、と想定されます。ですから、私たちは、いただいている神の命の言葉の種を、蒔き続けなくてはなりません。さらには、蒔かれた種が豊かに実を結ぶように、その土壌を良いものとしておく努力も必要です。ただただ、ひたすらに、種を蒔き続けるだけではなく、まずは最初に種が蒔かれる土壌を良いものに変えて行く努力も必要です。種を蒔く前に、しなければならない準備もあります。

 その準備、すなわち土壌改良を成し遂げるのは、私たち一人ひとりの日々の生活における、言葉と行いによる神の愛と慈しみの証しであります。人との関わりの中で、私たちの言葉と行いは、神の言葉の種が蒔かれる土壌を良いものとしていくための、最も力のある道具であります。

 語られる言葉は、私たちの口から出る実際の言葉であるとともに、私たちが、例えばインターネットなどに残していく言葉でもあります。時にクリスチャンを標榜しながら、他者の命を守ることをないがしろにするような、極めて利己的な主張や攻撃的な主張を目にする時、いったい、どのような土壌を神の言葉の種のために備えようとされているのかと思い、悲しくなることがあります。私たちは「口から語る言葉、書き記す言葉、どちらにあっても自分の言葉が、神の言葉の種を蒔く土壌を準備するためなのだ」と、常に心しておきたいと思います。

 「雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。そのように、私の口から出る私の言葉も、むなしくは、私の元に戻らない。それは私の望むことを成し遂げ、私が与えた使命を必ず果たす」

 神は、自らの言葉が、その使命を果たさないままに、むなしく戻ってくることはない、と宣言されています。人となられた神の言葉である主イエスによって、神の言葉は私たちの間に現存されています。現存されているのですから、どのような困難にあっても、必ずその使命を果たされます。

 この神の約束に信頼し勇気をいただきながら、小さな歩みではありますが、私たちの言葉と行いを通じて、多くの人の心の土壌を改良し、そこに蒔かれる神の言葉の種が豊かに実を結び、それを通じて神が愛されるすべての命が大切にされ、守られ、その尊厳が尊重される世界が実現するように、努力を続けてまいりましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2020年7月11日

・「私たち1人ひとりが教会、社会が安らぐ存在になろう」菊地大司教の第14主日ミサ説教

年間第十四主日@東京カテドラル

 年間第十四主日のミサ、インターネット配信用に、前晩土曜日の18時に、カテドラルで捧げたミサの説教原稿です。

 この数日、東京では100人を超える感染者が相次いで報告されています。公開ミサをこのまま続けるべきか検討しましたが、感染者が重篤化することの少ない若年層に多いことと、この数日間重症者が少なく、亡くなられる方も出ていないことから、現時点での感染症対策(社会的距離、手指消毒、マスク着用、一斉に歌わない、高齢の方にお待ちいただく)を継続することで、お一人お一人の命を守りながら、もっとも大切な秘跡である聖体祭儀を続けることが可能だろうと判断しています。

 ただ、このまま状況を見守りますが、本日の日曜日も東京都の感染者は100名を超えていますし、今後数日間の感染者、重症者、死者、実効再生産数などに注意を払いながら、判断していきたいと思います。また、現在も、主日のミサにあずかる義務は東京教区のすべての方を対象に免除していますので、少しでも不安がある方には、ご自宅でお祈りを続けてくださるようにお願いいたします。

 以下、説教原稿です。

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【年間第14主日A 東京カテドラル聖マリア大聖堂 (公開配信ミサ) 2020年7月5日前晩ミサの説教】

 今年の初め頃から今に至るまで、感染症が拡大し、この数日は東京で感染者が増大傾向にあるものの、この混乱の中で、教会はどのように動いてきたのでしょうか。

 もちろん、当初から感染予防を心掛け、2月末からはミサも非公開となり、緊急事態宣言が出てからは、すべての活動が停止しました。ですから、今回の事態の中で、教会が全く動いていなかったと、表面的には見えてしまいます。

 今回の事態は、多くの人が命の危機に直面する、ということから、大災害の緊急事態に匹敵しています。私自身が担当している教会の援助団体「カリタスジャパン」でも、今の事態は災害の緊急事態と同等、と見なして、緊急募金と支援活動を行っています。

 とは言え、まずもって密接、密集、密閉を避けねばならない状況にあって、従来の大災害への対応のように、ボランティアを集めて一緒に行動することには、制約があります。実際、2011年以来、仙台教区に日本の教会が設置しているいくつかのボランティアベースでは、一時的に人を集めることを中止にせざるを得ませんでした。その意味で、感染症の下では、従来のような活動には限界があります。

 しかし、同時に、社会全体で自粛が続く中で、雇用環境も悪化し、また病院に出かけることもままならない人が出たり、住居を失14pa1ったり、職を失ったりと、助けを必要とする人は増加しました。

 教皇様は、教皇庁にCovid19委員会を設置され、今回の事態に教会がどのように対応できるのか、統合的人間開発の部署や国際カリタスが協力して取り組むように、と定められました。

 その発足を報告する記者会見で、責任者のタークソン枢機卿は「最初は単に健康問題だったが、経済、雇用、生活スタイル、食料安全保障、AIやインターネットのセキュリティ、政治、政府、政策、研究など、新型コロナ感染症が影響を与えなかった人間の生活の側面は何一つない。教皇フランシスコが教えるように『あらゆるものは、つながり合っている』ことを象徴している」と述べています。

 私たちの人生のすべての側面が影響を受け、常日頃から生活に困難を抱えている人たちが、さらに大きな困難に直面し、また、国によっては、感染症のためだけではなく、そのようにして生じた様々な側面の困難によって、命の危機に直面する人も多数おられます。

 そのような中で、活動に困難を抱えながらも、従来のような大きな活動としてではなく、小さな単位で、時には個人的に、時には隣近所で、助けを求めている人に手を差し伸べようとする活動が、水面下で広がっています。カリタスジャパンの緊急支援の対象も、従来のような組織的な活動もありますが、その多くは個人的な支援を中心とした小規模なものが増えています。

 すなわち、私たちは、この困難な状況の中にあって、隣人と互いに助け合うことの大切さを改めて認識しています。

 冒頭に触れたように、教会も、確かにすべての活動が停止していたものの、信徒の皆さんの個人レベルでは、様々な活動に取り組まれる人が多くいる、と聞いています。教区でも、食料支援や学習支援など、地道な支援活動を支えたり、従来から行っているCTICを通じた外国籍の方々への支援を継続しています。

 私たち教会の役割は、人と人との出会いの中にあって、安らぎを与えることです。福音に「重荷を負う者は、誰でも私のもとへ来なさい。休ませてあげよう」という主イエスの言葉が記されています。教会は、重荷を負わせる場ではなく、安らぎを与える場です。そして、それは「教会という建物が安らぎの場」ということにとどまらず、「私たち自身が安らぎを与える存在」という意味でもあります。

 なぜならば、いつも申し上げているように、教会とは、この「建物」のことではなくて、共同体を形作り主イエスの体を形作っている「私たち一人ひとり」のことだからです。私たち一人ひとりが「社会にあって、安らぎを与える存在」でありたい、と思います。

 残念ながら、教会にあっても、安らぎではなくて苦しみを生み出してしまっている事実が存在します。それは否定できない事実であります。教会に集まっているのは天使のような人ばかりではなく、私も含めてすべての人が、罪の重荷を抱え欠点を抱えた不十分な人間です。ですから、集まっているだけで、どうしても、そこには対立や争い、無理解や排除が生じてしまいます。

 しばしば私たちの思い、すなわち人間の知恵や賢さは、自己中心の世界を生み出し、まるで自分の周りに防御壁を築き上げるようにして、そこに近づいてくる人を傷つけている。ですから、私たちは常に、自分たちに与えられている使命を思い起こさなくてはなりません。

 教会は安らぎを与える場であり、重荷を与える場ではない。そして教会とは誰かのことではなく、自分こそがその教会である。

 感謝の祭儀の中でご聖体をいただいて主と一致するとき、私たちの心には神の霊が宿ります。その時、私たちは、どのような生きる道を選ぶのでしょうか。キリストに属する者として、私たちに与えられている務めは「キリストのように考え、キリストのように話し、キリストのように行い、キリストのように愛そう。力の限り(典礼聖歌390番)」ではないでしょうか。

 父である神がくださった最高のたまものである命を守ることは、最も大切な愛徳の業であります。残念ながら、この困難な時期にあって、教会の中でも、教会の外でも、その最も大切な愛徳の業を二の次に考えるような言動が見られました。「愛徳の業のうちに互いに支え合うこと」こそが、安らぎを与える教会として、今、必要な態度です。

 教皇フランシスコは、昨年訪日されて東北の被災者と会われた時、次のように話されました。

 「私たちに最も影響する悪の一つは、『無関心の文化』です。家族の一人が苦しめば家族全員がともに苦しむ、という自覚をもてるよう、力を合わせることが急務です。課題と解決策を総合的に引き受けることのできる唯一のものである『絆』という知恵が培われないかぎり、互いの交わりはかないません。私たちは、互いに『互いの一部』なのです」。

 私たちは、たまものである命を守ることを大切にする教会でありたい、と思います。教皇の呼びかけに応え、力をあわせ、互いの交わりの中で支え合い、重荷を負わせることなく、安らぎを提供する教会であることを目指しましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2020年7月5日

・「愛の証しである十字架を、自らの生き方、言葉、行いで証ししよう」菊地大司教13主日ミサ説教

(2020.6.27 菊地大司教の日記)

年間第十三主日ミサ@東京カテドラル

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 年間第十三主日です。前晩の6月27日土曜日夜6時から行われた、配信ミサの説教原稿を掲載します。

 東京では連日五十人ほどの感染者の報告があります。まだまだ感染症の終息からはほど遠いと感じております。ミサの再開と言っておりますが、実際には、まだまだ教会の活動を全面的に再開するには、ほど遠い状況であり、慎重に対応しなければなりません。教会はまだ普通の状態に戻っているわけではありません。

 先週よりミサを再開しましたが、これは「ミサの再開」と言うよりも、「再開に向けた段階的な試み」であるとご理解ください。2月27日以降、ミサはまだ完全には再開されておらず、今は完全な再開を目指して、様々な条件を定めて、教会のメンバーの安全を優先しながら、限定的にミサを行っている段階です。ですから、様々な制約があり、皆さまにはご迷惑をおかけしております。

「ミサが再開されたのに、自分は参加できない」という声があることも承知しております。申し訳ありません。それぞれの小教区で状況が異なりますから、全体の大枠方針に沿って、それぞれの対応をお願いしています、現在の状況や条件が、未来永劫続く制度改革なのではありませんから、状況に応じて制約の条件は変更されますので、今しばらくは、お互いのためにご協力いただきますようにお願いいたします。宣言自体は解除されていますが、現実にはいまだ緊急事態は継続していると考え、緊急避難的な制約にご協力いただけますようにお願いいたします。

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 以下、説教原稿です(写真は先週のミサです)。

東京カテドラル聖マリア大聖堂での公開収録ミサ説教 2020年6月28日の前晩

 教会活動の段階的な再開を始めてから一週間が過ぎました。ご存じのように、未だ感染者は毎日のように報告されており、以前のような完全な状態で安心してミサなどを再開できる状況ではありません。まず第一に、「まだ安全な状況ではないのだ」ということを念頭に置いていただければと思います。

 その状況下でも、なんとか一人でも多くの方に秘跡にあずかっていただきたいと考えて、様々な制約の中で、ミサなどを再開いたしました。とりわけ、感染した場合に重篤化し、命のリスクがある高齢の皆さまには、まだ今しばらく自宅に留まってくださるようにお願いしており、大変申し訳なく思っています。歴史に残る事態の荒波の中を、先へと進んでいる私たちは、互いに命を守るために、耐え忍びながら、支え合っていきたいと思います。

本日の、マタイ福音は、「自分の十字架を担って私に従わない者は、私にふさわしくない」という、主イエスの言葉を記しています。

「十字架を担って生きていく」と耳にすると、どのような状況を想像されるでしょう。苦しみを背負って耐え忍びながら、ひっそりと生きていくようなイメージでしょうか。「感染症が終息しない中で、様々な困難に直面し、教会でも様々な制約を課されてしまった。十字架を背負って、耐えて、生きていこう」と呼びかけている言葉でありましょうかーそうではないように、私は思います。

 そもそも、十字架とは、いったい何でしょう。重荷のことでしょうか。苦しみのことでしょうか。十字架が「重荷や苦しみだけ」であるならば、それはどう見てもマイナスのイメージでしかありません。しかし、ここでイエスが語る十字架は、「主にふさわしいものとされるための十字架」であり、すなわち、「神に良いものとして認められるため」の前向きな存在であります。十字架とは、いったい何でしょう。

 コリントの信徒への第一の手紙の1章17節に、パウロの言葉が記されています。

 「なぜなら、キリストが私を遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、「福音を告げ知らせるため」であり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、「言葉の知恵によらないで告げ知らせるため」だからです」

 コリントの教会にあって、誰から洗礼を受けたのかということで派閥争いが起きた時、パウロは、自らに与えられた使命は「洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせる」ことなのだ、と宣言します。

 もちろん、「救いのために洗礼が必要」であることは否定できませんが、洗礼よりも前に、まず大切なことがある。それは「イエス・キリストの福音を告げること」なのだと、パウロは宣言します。

 加えてパウロは、「しかも」と続けます。「しかも、キリストの十字架がむなしいものとなってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです」

 福音を、言葉の知恵に頼って告げていたのでは、「キリストの十字架がむなしいものとなる」というのです。ここで初めて、パウロが語る十字架の意味が明らかになります。すなわち、「言葉の知恵によらずに福音を告げ知らせている」のが、キリストの十字架そのものであります。

 言葉の知恵によらないとは、「具体的に目に見える行動をもっての証しが十字架だ」ということであります。十字架は、自らが創造された人間の救いのために、神ご自身がその愛と慈しみの充満として、積極的に行動した愛の証しであります。神ご自身の行いによる愛の証しそのものが、十字架です。十字架は、重荷や苦しみの象徴ではなく、積極的な愛の行動の象徴です。神の満ちあふれる愛と慈しみが、目に見える形となった時、イエスは十字架に自ら掛かり、その命をいけにえとして御父に捧げられました。これほど前向きで、積極的な、愛の証しはありません。

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 教会は、神がその似姿として創造された人間の命は、その始まりから終わりまで、例外なく尊重され守られなくてはならないと、繰り返し主張してきました。

 今、命を守るために世界が連帯しようとする時、政治体制の違いや経済的利益の追求などの壁を乗り越えて、優先すべき価値を見直す時に来ている、と感じます。

 教皇フランシスコは、人間の命の尊厳を守るために、その命が生きている地球全体を守ることの大切さを強調されています。

 教皇フランシスコは、5月24日のアレルヤの祈りの際に、このように宣言されました。

 「5月24日から来年(すなわち2021年)の5月24日までの一年間は、この回勅(「ラウダート・シ」)について考える特別な年となります。私たちが共に暮らす家である地球と、最も弱い立場にある兄弟姉妹を、大切にするために力を合わせるよう、私はすべての善意の人に呼びかけます」

 教皇はこの回勅「ラウダート・シ」の中で、現代社会についてこう指摘しています。

 「現在の世界情勢は『不安定や危機感を与え、それが集団的利己主義の温床』となります。人は、自己中心的にまた自己完結的になるとき、貪欲さを募らせます。」(204項)

 教皇は、世界に広がりつつある個人主義や利己主義を克服するために、新しいライフスタイルを生み出し、社会を変えていかなくてはならない、と呼びかけています。世界中で自粛生活が続いた今、私たちはライフスタイルを見直すチャンスを与えられているようにも思います。

 「神の作品の保護者たれ、との召命を生きることは、徳のある生活には欠かせないことであり、キリスト者としての経験にとっての任意の、あるいは副次的な要素ではありません」(217項)と教皇は呼びかけます。

 愛の証しである十字架を、私たちは自らの生き方で、言葉で、行いで証ししていきたいと思います。証しして生きることこそ、十字架を担って生きていくことです。そうすることで、神のふさわしいものとされることができます。神にふさわしいものは、当然、神が愛を込めて創造されたこの世界を大切にするものでもあります。

 今、私たちたちにとって必要な生きる道は、どこに向かって開かれているのかを、信仰の目をもって見極めてまいりましょう。

(文中の漢字表記は当用漢字表による表記に統一させていただきました=「カトリック・あい」)

2020年6月27日

・「勇気をもって出かけ、困難に立ち向かおう」菊地大司教の第12主日のミサ説教

(2020.6.20 菊地・東京大司教の日記)

年間第12主日ミサ@東京カテドラル 

 長い自粛期間を経て、公開ミサが再開されます。年間第12主日にあたる6月21日からの再開です。前晩のミサを捧げたところも多くあったと思います。関口教会では、日曜日の午前10時は主任司祭がささげますので、わたしの配信ミサは前晩土曜日の午後6時からといたします。当分は継続いたします。

 早速、先ほど、最初の公開ミサを捧げました。聖歌はいつもの通りイエスのカリタス会のシスター方にお願いしています。カテドラルの大聖堂は、他の教会と比べても空間が広いため、互いの距離を十分にとって、シスター方に歌っていただいています。

 しばらくは状況を見極めますので、ミサの公開に制約があり、申し訳ありません。この状況下では、いのちをリスクにさらさないことが最も重要かと思います。教会にとっても、互いに、感染しない、感染させないためにも、そして神のたまものである命を守ることを最優先にするためにも、慎重な行動をとってくださるようにお願いいたします。

以下、本日のミサの説教の原稿です。

【年間第12主日A 東京カテドラル聖マリア大聖堂 (公開配信ミサ) 2020年6月21日】

 四旬節から復活節に至る長い自粛期間を経て、やっとミサを公開で行うことができる状況になりました。ただ、感染には波があるとも指摘されており、完全に終息したわけではありませんから、しばらくの間、ミサを捧げることにも制約が伴います。その一つが、時間の短縮です。多くの聖堂は、どうしても密接・密集・密閉の状態を生み出しやすいものですから、なるべく集まっている時間を短くしよう、ということで、例えば説教も、通常よりも短くと言うことにしております。

 さて、命を守るためとはいえ、普段の活動が制限され、自粛ばかりを求められていると、どうしても思考が内向きになってしまいます。内向きになった思いは、自分の心の世界を中心に展開しますから、ともすればとても利己的になり、さらには、普段であれば心の奥底に秘めているような思いや、社会常識が盾となって表に出さない感情までも、あらわにしてしまいます。

 自分とは異なる存在との差異を強調して、自らの立場を有利にし、自尊心を保とう、とする行為は、差別を生み出す可能性があります。残念ながら人間の心には、自分と他者との相違をことさらに意識して、差別をする誘惑が存在しています。普段は理性や常識がそれをカバーしているのでしょうが、心が内向きになる時、そういった誘惑が顔を覗かせてしまいます。

 米国では、警察官の暴行が黒人男性の死を招き、人種差別への怒りが爆発してしまいました。日本でも、感染症が拡大してからインターネット上では、いつも以上に攻撃的な会話が展開されたり、具体的な差別的言動も耳にいたします。

 今さらのようですが、第二バチカン公会議の現代世界憲章から、次の言葉を引用します。

 「すべての人は理性的な霊魂を恵まれ、神の像として造られ、同じ本性と同じ根源をもち、さらにキリストによってあがなわれ、神から同じ召命と目的を与えられている。したがって、すべての人が基本的に平等であることは、よりいっそう認められなければならない(29)」

 私たちキリスト者にとっての人間の尊厳の根源は、創世記の記述にありますが、それを明確に記している公会議の言葉です。

 さらに現代世界憲章は、差別について、こう語ります。

 「社会的差別であれ、文化的差別であれ、あるいは性別・人種・皮膚の色・地位・言語・宗教に基づく差別であれ、基本的人権に関するすべての差別は神の意図に反するものであり、克服され、排除されなければならない。・・・人々の間に差異があるのは当然のこととはいえ、人格の尊厳は平等であり、このことから、より人間らしい公正な生活条件に届くことが要求される」(29)

 北半球での感染にようやく出口の希望が見え始めた今、今度は南半球で、特に南米やアフリカでの感染拡大が心配されています。とりわけ、もともと医療資源に乏しく経済的にも厳しい状況のアフリカ諸国では、現地の司教たちが、感染症後の世界のあり方について、国際社会に向かってのアピールを出しています。日本を含めた先進諸国でさえも、経済に大きな打撃を被ることは確かでありますから、アフリカ諸国の状況はさらに厳しくなることが想定され、感染症以上に、経済危機によって、多くの命が危機に直面することが予測されています。

 命の危機という不安の中に長期間を過ごし、活動の自由が制限される中で、殺伐とした雰囲気に包まれている世界は、今、連帯とはほど遠い状況に立ち位置を定めようとしています。

 ですから教会は、この世界に対して、ひるむことなく福音を告げしらせる義務があります。経済を優先して、あらためて以前のような世界に戻ろうとする流れに抗って、一人ひとりのいのちを大切にし、誰ひとりとして排除されない世界を、連帯の中で実現しようと、明るみで、そして屋根の上で、ひるむことなく、大きな声で告げなくてはなりません。

 教皇フランシスコの呼びかけを思い起こします。

 「自分にとって快適な場所から出ていって、福音の光を必要としている隅に追いやられたすべての人に、それを届ける勇気を持つよう招かれている」(福音の喜び20)

 改めて教会に集うことを始めようとしている私たちは、快適な場所を見つけて留まることなく、常に勇気を持って出かけなくてはなりません。それは、流れに逆らうことでもあるので、容易な挑戦ではありません。

 現代における宣教について教えるパウロ六世の使徒的勧告「福音宣教」には、次のような興味深い指摘があります。

 「人間は、たとえ私たちが福音をのべなくとも、神の憐れみによって、何らかの方法で救われうるのでしょう。しかし、もし私たちが、怠りや恐れ、または恥、あるいは間違った説などによって、福音をのべることを怠るならば、はたして私たちは救われうるのでしょうか。

 なぜなら、もし宣教しないならば、福音の種が宣教者の声をとおして実を結ぶことを望まれる神の呼びかけに背くことになるからです。種が木となり実を付けるかどうかは、私たち次第なのです』(使徒的勧告「福音宣教」80)

 愛するすべての命が救われるようにと、福音の種が、私たちの「声を通して実を結ぶこと」を神は望まれる。常に困難に向かって立ち向かうようにと、私たちは呼ばれています。

 世の終わりまで私たちと共にいてくださる主に力づけられ、改めて勇気をいただきながら、福音の種を蒔き続ける宣教者として、神が愛されるいのちの尊厳を、言葉と行いで告げ知らせてまいりましょう。

2020年6月21日

・新型コロナウイルス禍で児童性的虐待の危険が増大-バチカンの有力専門家が警告(Crux)

(2020.6.19 Crux  SENIOR CORRESPONDENT  Elise Ann Allen)

Expert warns child protection took ‘severe blow’ during pandemic

Jesuit Father Hans Zollner, a leading Vatican official dealing with clergy sexual abuse in the church, speaks about the crisis to an audience Jan. 29, 2020, at Villanova University in Pennsylvania. (Credit: Sarah Webb, CatholicPhilly.com via CNS.)

 ローマ発 – 「新型コロナウイルス禍におけるオンラインと児童保護」をテーマとするグレゴリアン大学児童保護センター、未成年保護のための教皇委員会、国際修道会総長連盟など共催のウエブ・セミナーが18日、世界の修道会やカトリック組織・団体の代表300人以上が参加して開かれた。

*児童に対する性的虐待・搾取の危険が大幅に高まっている

 講演に立ったカトリックを代表する児童保護専門家、ハンス・ゾルナー=グレゴリアン大学・児童保護センター所長(イエズス会士)は、現在の世界的大感染の中で「児童に対する性的虐待・搾取の危険が大幅に高まっている」と警告。

 「率直に申し上げて、教会と諸州、諸国での未成年者保護は、世間の関心という面でも、保護のための公的資金手当の面でも、大きな打撃を受けています」とし、自然災害、戦争、保健衛生危機、そして経済の動揺が新型コロナウイルスの世界的大感染と結びついて、児童保護への取り組みを、従来よりも二倍、難しくしている、と指摘した。

*未成年保護の優先順位を引き上げよう

 現在の状況の下で「社会と教会にとって、未成年の保護に注力することは、極めて難しいかもしれません。それは、新型ウイルス感染防止という差し迫った課題があり、それに加えて未成年保護にエネルギーを費やすのが人々にとって重荷となっており、まず生き延びることが先決なので考える余裕がないためです」と理解を示したうえで、「それは確かです。生き延びることが第一です。しかし、全ての人、とくに一番弱い人の尊厳を尊重し、保護することもまた、必要なのです」と述べた。

 そして、セミナー参加者たちに、「一緒に、未成年保護の優先順位を引き上げましょう」と訴えた。そして、大感染とそれが終結した後の後遺症だけでなく、「人々が容易に関わりたくない、難しくて厄介な課題」であるために、困難な作業になる、との考えを示し、「それを進めるには、私たちの決意の結集が必要ー抵抗に遭っても努力を続けることです」と強調した。

*”全面封鎖”でインターネットが特に”デジタル世代”にもたらすリスクは

 ゾルナー所長はまた、通常の状況と新型ウイルス感染防止の全面封鎖の下でインターネットがもたらすリスクを強調し、感染予防のための隔離から生じる可能性のある問題への対応について、いくつかのヒントを示した。

 インターネットは無限の可能性を秘めた「大きな機会」であり、現在の危機が前向きな成長と発達の触媒として役立つ可能性を持っている、とする一方、インターネットがもたらす身体的、性的、心理的、教育的、相関的、あるいは精神的な影響に懸念がある、と指摘。

 そうした懸念は、すべての人に当てはまるが、とりわけ若者たち、特に、インターネットやパソコン のある生活環境の中で育ってきた世代、いわゆる「デジタル・ネイティブ」の若者の間で、全面封鎖によって、孤独感や孤立し放棄されたという思いが生じる問題がでてきている、と分析した。

 また、インターネット漬けの若者たちには、何千回、何百万回も共有、閲覧されるビデオや画像を含めて、児童ポルノなどに容易にアクセスできるような危険がある、とし、こうしたことは「インターネットが普及していなかった時代には無かった、新たな形の心的外傷。実際になされる(注:児童性的虐待)とは異なるものです」と述べた。

*児童ポルノ氾濫と児童性的虐待の急増

 児童ポルノは、「デジタルで創作された画像も含めて、容易に手に入れることができ、インターネットではもっと簡単に、卑猥な画像、虐待の画像が手に入る。同じ危険が子どもたちだけでなく、弱い立場にある成人にも存在します」。画像の出し手の側から見れば、フィリピンなどの貧困地域で多く見られるように、親が金稼ぎのために自分の子供を性的なビデオに出演させたり、有料の動画配信で実際に子供たちが性的に虐待される、と残酷な実態を語った。

 インターネットを悪用した児童性的虐待の実態を調べている民間組織Internet Watch Foundationによると、英国の場合、虐待を受けた児童の平均年齢は7歳から13歳、9割が女児で占められている。内容は、わいせつ画像から、大人が児童を性的に暴行する不明瞭な画像まで様々だ。

 そして、このようなインターネットを通じた「児童性的虐待」は、新型コロナウイルス感染防止のため封鎖措置によって、急増している。英国では、4月の1か月だけでも児童ポルノのウェブサイトの閲覧は900万回試みられ、デンマークでは、児童虐待の画像類へのアクセスが、封鎖前の3倍に増えた。スペインでは、オンラインの児童ポルノが3月以降、それまでの月より2割増え、オーストラリアでは、3月21日の封鎖開始から3週間で、児童を含む虐待画像の閲覧が、それ以前に比べ86%増加した。

 米国では、「行方不明や搾取された子供のためのセンター」の調べて、3月の1か月だけで児童性的虐待の疑いの報告件数が前月比で106パーセントの増加を記録している。

*学校閉鎖で子供たちが”パソコン漬け”になる危険

 ゾルナー所長は、「新型ウイルス感染防止のための学校封鎖で、学校に行けない子供たちが、以前よりもずっと多くの時間を独りで過ごし、誰にも見とがめられずに、パソコンの画面の前に座り続けること」も含め、いくつもの要因が、そうした危険につながっている、と説明。「親たちが、育児や、子供たちの自宅学習と仕事のバランスを取ろうとすることが、子供たちの(注:単独の)行動への注意がおろそかにし、外出できないことが、家庭内虐待の可能性を高めている、と指摘した。

 悩みごと相談電話や情報配信のサービスも、新型ウイルスの影響で中断しており、気晴らしの手段が無くなっていることが、性犯罪者が衝動的に振る舞う可能性を高め、通常の状況なら適切に対応できるはずの子供たちが、性的暴力の話によって突然刺激を受け、自分自身の虐待の記憶を蘇らせてしまう可能性にも言及した。

 しかも、  新型ウイルス感染防止のための封鎖措置の下では、「健康や収入への影響を心配が強まり、それは個人だけでなく、あらゆるレベルの人間社会、あらゆる種類の政府機関にも共通する現象であることから、児童保護の優先順位が引き下げられる可能性が高い」と語った。

*インターネット児童虐待や非行を防ぐいくつかの方法

 以上のような問題を示したうえで、ゾルナー所長は、親や保護者、教職員のための児童虐待防止に役立つ方法をいくつか提案した。

 具体的には、子供たちの活動をモニターするソフトウェア用具の活用、電子機器の障壁のない領域の家庭内での設定、全ての電子機器がプライバシー設定になっていることの確認、子供たちが興味を持つ番組やゲームを親がチェックできるようにすること、などだ。また、教師が生徒と連絡を取り合えるようなシステムの構築は、困ったことが起きた時に、子供や家族が信頼して相談できるようにするために重要であり、学校でも、教師が児童・生徒にインターネットの適切な使い方について教える必要性を強調した。

*カトリック教会と修道会、諸団体に何ができるか

 では、「カトリック教会に何ができるでしょう。その広大な世界的ネットワークの潜在性を考えれば、他にはない強みが生かせる可能性があります」としつつ、 「残念ながら、私たちカトリック教会関係者には、十分な連携がなく、自分たちが持っている可能性を信頼していないため、その強みを活用できていない」と現状の問題を指摘。

 また、カトリックの組織・団体、修道会、神学校における注意深い見守りに関して、自身が滞在したアジアのある国の神学校で耳にしたこととして、神学生たちがインターネットでポルノを見ていたので回線を切ったが、彼らは代わりにスマホを使って見てしまい効果がなかった、という例を挙げた

 

*感染終息後に「インターネット虐待」はさらに深刻になる―必要な予防教育の徹底

 今後について、特に新型ウイルスの大感染が終息した後の世界で「インターネット性的虐待」がさらに深刻になる、とゾルナー所長は懸念している。

 「多くの人が、感染防止対策として始まったインターネットを活用した在宅勤務や在宅授業など社会のあらゆる場でのオンライン化が、感染終息後、さらに進む。スクリーンの前で費やされる時間とエネルギーの割合がさらに大きくなるでしょう… それは司祭や修道者にも当てはまる」と警告。

 そして、これからの大きな課題は、「小中高、大学、さらには神学校で、インターネットの適切な利用について、若者たちに教える共通の方法を見つけること」であり、「私たちは、これが自分たちの活動の中で極めて重要なものになっていることを認識する必要がある。誰もそれを気にかけていないかのように、放置しておくわけにはいきません」と強く訴えた。

「私たちは、インターネット上で人々と交流する時、何をすべきか、リスクは何か、そして私や他の人々が虐待に遭わないようにするにはどうすればよいかについて、倫理的対応と理解を深める必要があります」と改めて強調して、講演を締めくくった。

Follow Elise Ann Allen on Twitter: @eliseannallen

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

・・Cruxは、カトリック専門のニュース、分析、評論を網羅する米国のインターネット・メディアです。 2014年9月に米国の主要日刊紙の一つである「ボストン・グローブ」 (欧米を中心にした聖職者による幼児性的虐待事件摘発のきっかけとなった世界的なスクープで有名。映画化され、日本でも昨年、全国上映された)の報道活動の一環として創刊されました。現在は、米国に本拠を置くカトリック団体とパートナーシップを組み、多くのカトリック関係団体、機関、個人の支援を受けて、バチカンを含め,どこからも干渉を受けない、独立系カトリック・メディアとして世界的に高い評価を受けています。「カトリック・あい」は、カトリック専門の非営利メディアとして、Cruxが発信するニュース、分析、評論の日本語への翻訳、転載について了解を得て、掲載しています。

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2020年6月20日

・「ご聖体を受ける喜び、共にあずかれない兄弟姉妹にも思いをはせて」菊地・東京大司教の「キリストの聖体」ミサ説教

キリストの聖体@東京カテドラル 2020・6・14 

 梅雨入りして最初の日曜日がキリストの聖体の主日となりました。元来は木曜日とされていますが、多くの国で現在は、その次の主日に移動して祝われています。

 今日の配信ミサは、公開ミサの自粛を2月27日以降継続してきた中で、今のところは最後の「非公開ミサ」となります。四旬節から復活節と続いた「非公開」ミサにあって、配信ミサの作成のために協力してくださった、師イエズス修道女会、宣教ドミニコ会、女子パウロ会、ノートルダム・ド・ヴィのそれぞれの会員、毎回のミサで聖歌を選び、歌ってくださったイエスのカリタス会の志願者と会員の皆さまに、心から感謝申し上げます。また、映像を作成し配信してくださる田村さんを初め、関口教会の信徒のボランティアの方々に、感謝申し上げます。

 次の日曜日以降は、それぞれの小教区でも、限定的とはいえ、公開ミサを徐々に始めますので、関口教会でも同様に公開ミサが始まります。そのため、日曜日午前10時のミサの映像配信はいたしません。その代わり、当分の間は、前の晩、土曜日の午後6時から、東京カテドラルの主日ミサを配信します。司式は私です。土曜の午後6時からの中継です。その時間から後は、これまで同様、同じ関口教会のチャンネルから、録画映像を見ていただくことができます。(現時点では、7月中は配信ミサを土曜日の夜に続ける予定ですが、8月以降は未定です。)

 公開ミサが再開されるといっても、新型コロナウイルスの感染が終息したわけではなく、新規の感染者の報告は続いています。経済活動を優先させるために、社会の中の様々な制約が緩和され続けていますので、すべて解決したかような気分にされますが、まだまだ慎重であるべきかと思います。

 「緊急事態のただ中に、今もまだいる」と判断していますので、ミサの再開には様々な制約を設けています。命を守るための責任ある選択はどれかを、最優先でお考えいただきますように、改めてお願いいたします。

 もちろん、現在は緊急事態であり、様々な緊急避難的な判断をしていますが、それを固定化することのないように、できる限る早く、感染の状況に応じて、通常に戻す努力をしたいと思います。緊急事態に対応した制限が固定化されることを懸念する声もありますが、そのような不信を払拭できない私の力不足を自覚させられております。

 以下、本日のミサの説教の原稿です。

【キリストの聖体 東京カテドラル聖マリア大聖堂(配信ミサ) 2020年6月14日】

 東京教区では、緊急事態宣言の解除後、状況を見守ってきましたが、次の日曜日から、小教区における活動を段階的に再開することにしました。もちろん感染が終息したわけではありませんから、慎重に行動しなければなりません。当初の間は、感染対策をしたり、距離を保ったり、重篤化のリスクが高い高齢の方にはしばらくは我慢をお願いしたり、いろいろな制約の中での再開となります。

 四旬節第一主日に始まって三か月半に及ぶ長い期間、小教区でのミサや活動を中止してきました。霊的な渇きのうちにあっても、お互いの命を守るために耐え忍び、協力してくださった皆さまには、心から感謝申し上げます。

 今日もまたこのミサの中で、治療のために全力を尽くしておられる医療関係者と、病床にある皆さまのために、心からお祈りいたします。

 この長い自粛の期間を、キリストの聖体の主日で終わりとすることは、意義深いことです。何と言っても、この自粛は、「共に教会に集い、祈りの時を一緒にできなかった」というだけではなく、「聖体祭儀にあってご聖体のうちに現存されている主イエスと一致する」という、信仰にとって一番大切な秘跡から、私たちを遠ざけてしまいました。

 教会憲章において、聖体のいけにえは「キリスト教的生活全体の源泉であり頂点」であって、感謝の祭儀にあずかることで、キリスト者は「神的いけにえを神にささげ、そのいけにえとともに自分自身もささげる」と指摘されています(11)。

 また教皇ヨハネパウロ二世は、「教会に命を与える聖体」において、ご聖体の重要性を、こう述べておられます。

 「教会は過越の神秘から生まれました。まさにそれゆえに、過越の神秘を目に見える形で表す秘跡としての聖体は、教会生活の中心に位置づけられます。(3)」

 実際にミサにあずかることができず、教会共同体にとって一番大切なこの聖体の秘跡に共にあずかることができなかったことは、教会にとって大きな苦しみであり、悲しみでありました。

 お一人おひとりの「霊的な渇きを癒やす」という個人の信仰の充足という側面も、もちろん大事ですが、それ以上に、ご聖体は共同体の秘跡です。そもそもミサそれ自体が、共同体の祭儀です。聖体は一人で受けたとしても、霊的聖体拝領を一人でしたとしても、共同体の交わりのうちに私たちはご聖体をいただきます。

 それは司祭が一人でミサをささげても、個人の信心のためではなく、共同体の交わりのうちにミサをささげるのと同じであります。

 「教会に命を与える聖体」には、次のように記されています。

 「(司祭が祭儀を行うこと)それは司祭の霊的生活のためだけでなく、教会と世界の善のためにもなります。なぜなら『たとえ信者が列席できなくても、感謝の祭儀はキリストの行為であり、教会の行為だからです』」(31)

 パウロはコリントの教会への手紙で、「私たちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、私たちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです」と述べて、聖体祭儀が「共同体の秘跡」であることを強調されます。

 「聖体は交わりを造り出し、交わりを育みます」と指摘する教皇ヨハネパウロ二世は、聖アウグスチヌスの言葉を引いて、「主なるキリストは… ご自分の食卓に私たちの平和と一致の神秘をささげます。一致の絆を保つことなしに、この一致の神秘を受ける者は、神秘を自分の救いのために受けることができません」(40)とまで指摘しています。

 私たちの信仰は、共同体の信仰です。私たちの信仰は、「交わり」のうちにある信仰です。「交わり」とは、「共有する」ことだったり、「分かち合う」ことだったり、「あずかる」ことを意味しています。

 パウロのコリントの教会への手紙に、「私たちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。私たちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか」と記されていました。その「あずかる」が、すなわち「交わり」のことです。私たちの信仰は、キリストの体である共同体を通じて、キリストの体にあずかり、命を分かち合い、愛を共有する交わりの中で、生きている信仰です。

 これから段階的に公開ミサが再開されて、制約があるとはいえ、ご聖体をいただく機会があることでしょう。三か月の間、あずかれない状態が強制されていたのですから、そのときの喜びには大きいものがあることだと思います。でも、その霊的渇きの期間を過ごした私たちは、ご聖体を受ける意味を改めて理解してから、拝領したいと思います。

 自分がキリストと信仰において一致するという個人的な喜びと同時に、拝領は共同体の交わりのうちに、兄弟姉妹と共に一つの体にあずかるのであり、だからこそ、一緒にあずかることのできない方々へ思いを馳せ、様々な思いを心に抱いている兄弟姉妹に思いを馳せ、配慮と心配りの時としていただきたいのです。

 同時に、私たちはご聖体をいただくことで、「世の終わりまで、あなた方と共にいる」と言われた主イエスの約束を思い起こします。共にいてくださる主イエスは、その福音を世の終わりまで、世界の果てまで告げ知らせよと命じられた主です。ですから、ご聖体の秘跡にあずかる私たちは、福音を告げ知らせないわけには行きません。

 「教会に命を与える聖体」で、教皇ヨハネパウロ二世はこう記しておられます。

 「キリストとのこの一致によって、新しい契約の民は、自分たちだけで固まるのではなくて、人類一致のための『秘跡』となります。すなわち、すべての人のあがないのために、キリストによってもたらされる救いのしるしと道具、世の光、地の塩となるのです。教会の使命とキリストの使命は連続しています… 感謝の祭儀はあらゆる福音宣教の源泉であると同時に頂点でもあるのです。」(22)

 申命記に、「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」と記されていました。

 ご聖体を受ける私たちは、人となられた神のみ言葉を私たちのうちにいただくのですから、聖書に記された神の言葉に耳を傾け、それを通じて、イエスと日々出会うことも欠かせません。

 公開ミサがなかったことで、ご聖体を実際にいただくことに思いが集中しますが、ミサを形作っている言葉の祭儀において、まず神のみ言葉に耳を傾けることも、忘れてはなりません。

 共同体の交わりと一致のなかで、ご聖体と御言葉のうちに現存される主イエスと出会い、心のうちに一致し、愛の分かち合いから力をいただき、宣教への熱意を受け、聖霊に導かれながら、社会のただ中にあって、福音を証しし、告げてまいりましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2020年6月14日

・「ポスト・コロナの中国-学者たちが指摘する5つの問題」葛・復旦大学教授(東京カレッジ・ニュース)

(2020.6.2 東京大学国際高等研究所・東京カレッジ・ニュースレター)

 

 葛 兆光 GE Zhaoguang 中国・復旦大学教授

 今回の新型コロナウイルス危機は、世界を変えたのと同様に、中国にも深刻な影響を与えた。この4ヵ月、中国の学者の間では、コロナ危機後の中国について、幅広い議論と分析が行なわれた。学者たちの共通の認識をまとめると、次のとおりである。

 中国への影響として、まず指摘されているのは、経済退潮の可能性である。3ヵ月以上も(今もなお本格的に回復されていない)大規模な稼働が中断され、経済活動に深刻な影響をもたらした。もっとも重要なのは、以下の五つの問題である。

(1)コロナ危機は直接的に経済の退潮(ある分析によると、当初国内総生産(GDP)の成長率目標を6%に設定していたが、6%から引き下げるか、3%まで引き下げる可能性もあり得る)をもたらすだけではなく、高い失業率も招く(具体的な数値を予想するのは難しいが、広東沿岸デルタ地域の出稼ぎ労働者の仕事がなくなっていることからみて、厳しい状況に陥っていることは確かである)。

(2)コロナ後、中国政府は、経済の救済措置として「六保(6つの確保)」(「市場主体を保つ」、「雇用を保つ」、「国民生活を保つ」、「社会末端組織の運営を保つ」、「食料・エネルギーの安全を保つ」、「産業サプライチェーンの安定を保つ」)を打ち出したが、依然として「新しいインフラ整備」投資に期待している。投資によって経済を牽引する措置は、短期的に景気に刺激を与え、就業率を高め、出稼ぎ労働者や都市部住民の基本生活を安定させるのに有効である。しかし、これは「強心剤」にすぎない。「飲鴆止」(いんちんしかつ。喉の渇きを癒やすため、猛毒の酒を飲むこと)であると指摘する経済学者もいる。これによって、経済発展を牽引してきた「トロイカ」、すなわち投資・貿易・消費の間の不均衡さをさらに加速させるのである。

(3)経済の活性化のために政府が投入する資金の多くは、国営企業や中央企業に集中する。そのため、民営企業、特に中小企業は融資や現状維持が極めて難しくなり、すでに相当深刻な状況にある「国進民退」(国有経済の増強と民有経済の縮小という現象)の現象がさらに拡大し、ひいては民間企業の資金の海外流出に拍車がかかることが懸念されると多くの学者が指摘している。

(4)産業サプライチェーンの断裂と、中国における労働コストの上昇を懸念して、米国、日本などの国が自国企業を国内に撤退させるか東南アジアなどに移転させる政策をとったことが、中国、特に沿海経済の発展に影響を及ぼしている。

(5)今回のコロナ危機により、各国の政治・経済の状況が一層複雑となり、多くの国が債務を履行できず、中国政府が期待する「一帯一路」構想の実現は、さらに難しくなりそうである。

 コロナ危機が中国に与える二つ目の影響は、国際環境がさらに厳しくなることである。それはまず、世界の世論がコロナウイルス発生源の調査を求めていることと、それに伴ういろいろな「責任追及」のことである。 実際に中国政府に責任を負わせることができるはずはないが、コロナ危機に便乗したこのような世論は、もともとあったイデオロギーと政治制度の間の軋轢をさらにエスカレートさせ、衝突へと向かわせている。

 もう一つは、近年における中国の政治イデオロギーが強調する「強固さ」のことである。毛沢東が「侵略される」問題を解決し、鄧小平が「飢える」問題を解決した後、習近平によって「非難される」問題が解決されることが期待されているのだ。

 そのため、中国で新型コロナウイルスが最も早く流行し、かつ最も早く終息したということを背景に、外交と学術分野の一部の人たちが「戦狼式」(中国の人気映画『戦狼』をもじった表現)対外宣伝戦略を取り、国内の世論をコントロールし、国内の感情をなだめようとした。これが国際関係の悪化にさらに火に油を注いだ。

 米中間は、必ずしもいわゆる「トゥキディデスの罠」に陥るとは限らないが、ある程度の「脱線」は必ず生じる。多くの学者は、コロナ後の世界が、ある程度「脱中国化」の方向に発展するだろうと推測している。つまり、経済に「二つの市場」(それぞれアメリカと中国を中心とする)が現われ、政治に「新しい冷戦へ戻る」のである(政治制度の違いによって新しい連合体が形成される)。

 中国に与える三つ目の影響は、中国国内の政治状況が後退することである。ここ数年、中国国内の政治環境の変化は、改革開放以来、特に1992年に鄧小平が「南巡講話」以来のゆったりとした大趨勢とは逆に、法整備、政治の民主と言論の自由等の方面において、問題が現れている。

 コロナ後の時代においては、上に述べたような(1)ますます厳しい国際環境の圧力と、(2)国内経済の下降による民衆の不安(特に失業の出稼ぎ労働者)と世論の批判(特に自由派)、そして(3)新疆、チベット、台湾、香港などの厄介な問題を抱える当局は、直面している安全と安定の問題を考えれば、「管控(管理と制圧)」と「維穏(安定を維持する)」を強化するだろう。

 また、国際と国内の状況が急激に変化したことによって、中国国内の過激な思潮、民族感情、国家主義が刺激された。中国国内の改革開放の見通しについて、多くの学者は悲観的な見方を示している。

*復旦大学(ふくたんだいがく: Fudan University)は、上海市にキャンパスを持つ中国を代表する総合大学。1905年に創立され、115年の歴史がある。国家重点大学に指定され、学生数はs修士、博士課程も含め、約5万人。

 

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 *東京カレッジー次の2つの大きな目標を実現するために、2019年に設立された新しい組織。

1.東京大学が地球と人類社会の未来に貢献する『知の協創の世界拠点』となること
2.東京大学、さらには日本が、学術の分野において国際求心力を高めること

 これらの目標を達成するために、具体的には以下のような活動を行います。

1.国内外の卓越した研究者、将来有望な若手研究者、発言力のある知識人を受け入れ、本学の教員との共同研究事業を展開します。
2.カレッジに所属する研究者の間で分野を越えた研究会を定期的に開催し、先端的な研究成果を生み出します。
3.招聘研究者や知識人、所属研究者による講演会やシンポジウムなどの開催を通じて、先端的な知を学生や一般市民にいち早く伝えるとともに、学問の魅力や、未来社会の創造に果たす大学の役割の重要性を広く社会に伝えます。そして、研究者と学生や一般市民との間での対話を試みます。

 東京カレッジの中心理念は、「発見の喜び、知の力(Joy of Discovery and Power of Knowledge)の共有」です。この理念の下、「2050年の地球と人類社会」(The Earth and Human Society in 2050)というテーマに中長期的に取り組みます。そして、以下の重点テーマに基づいて理系・文系を超えた分野融合の研究を企画し、実行していきます。

1.デジタル革命と人類の未来(Digital Revolution and Future of Humanity)
2.学際的アプローチによる地球の限界への挑戦(Tackling the Planetary Boundaries through Interdisciplinary Approaches)
3.内から見た日本、外から見た日本(Japan Viewed from Inside and Outside)
4.2050年の人文学~世界哲学、世界史、世界文学~(Humanities in 2050 – World Philosophy, World History and World Literature -)

 

【東京カレッジ・国際ラウンドテーブル「パンデミックを生きる―あらためてコロナ危機を世界で考える」開催】 

 2020年6月2日、東京カレッジと関係の深い世界各地の研究者をオンラインで結び、コロナ危機に対する各国の対応や今後の世界のあり方について語り合う国際ラウンドテーブル「パンデミックを生きる-あらためてコロナ危機を世界で考える」が開催されました。 羽田正教授(カレッジ長)が司会を務め、ドイツからViktoria Eschbach-Szabo教授(テュービンゲン大学)、スウェーデンからSvante Lindqvist氏(スウェーデン王立科学アカデミー元会長)、アイルランドからBill Emmott氏(ロンドン日本協会会長)、アメリカからJeremy Adelman教授(プリンストン大学)、韓国からPark Cheol Hee教授(ソウル国立大学)、日本から星岳雄教授(東京大学)が登壇しました。ラウンドテーブル開催にあたり、登壇者は東京カレッジから送られた次の4つの質問に回答する動画を収録し、東京カレッジに送付しました。

 1. How is the coronavirus epidemic in your country at this moment? 2. What is the current political, economic and social situation in your country in connection with the corona crisis? 3. What is the particularity, according to you, of your country’s reaction vis-a-vis the corona crisis? 4. How do you envision the post-corona world? 

 登壇者は東京カレッジYouTubeチャンネルで公開されている互いの動画を視聴し、ラウンドテーブルに臨みました。当日は、各国の状況を踏まえ、一国では解決の難しいコロナ危機をどのように乗り越えるのか、グローバルな視野と協力の重要性が議論されました。また、大学という研究・教育の場が今後どのような役割を果たしていくべきなのかという課題も提起されました。日本時間夜の9時から11時までというタイムリミットや、途中回線の問題などもありましたが、今月後半から始まる連続シンポジウム「コロナ危機を越えて」に先立ち、貴重な第1回オンラインイベントとなりました。 動画は録画公開されています。当日ライブ配信をご覧になれなかった方も是非ご視聴下さい

【これから開催予定のイベント】

*Zoom Webinar 講演会/Event 2020.6.16

東京カレッジ・ワークショップ「コロナ危機を文化で考える―アイデンティティ、言語、歴史―」*YouTubeライブ配信 シンポジウム/Symposium 2020.6.17

連続シンポジウム「コロナ危機を越えて」①医学・疫学

*YouTubeライブ配信 シンポジウム/Symposium 2020.6.23

連続シンポジウム「コロナ危機を越えて」②暮らしと社会

*YouTubeライブ配信 シンポジウム/Symposium 2020.6.25

連続シンポジウム「コロナ危機を越えて」③価値

*YouTubeライブ配信 シンポジウム/Symposium 2020.6.26

連続シンポジウム「コロナ危機を越えて」④経済

*YouTubeライブ配信 シンポジウム/Symposium 2020.6.30

連続シンポジウム「コロナ危機を越えて」⑤SDGs

*YouTubeライブ配信 シンポジウム/Symposium 2020.7.3

連続シンポジウム「コロナ危機を越えて」⑥情報活用と管理

*YouTubeライブ配信 シンポジウム/Symposium 2020.7.8

連続シンポジウム「コロナ危機を越えて」⑦総括シンポジウム

 

 

 

2020年6月13日

・「新たなスタートの準備を始めよう!」菊地・東京大司教の三位一体の主日の説教

(2020.6.7  菊地東京大司教の日記)

 三位一体の主日@東京カテドラル

 6月に入っても、東京教区ではミサの非公開を続けております。東京都ではこの数日、毎日のように二桁の感染者が報告されていますので、慎重に判断したいと思います。

 さて本日は、三位一体の主日でした。昨日の土曜日には午後2時から、これも関係者だけで集まって二人の助祭叙階式がありましたが、これはまた別に投稿します。

 聖歌の選択は、イエスのカリタス会のシスター方にお任せなのですが、今日のミサ曲は、たぶん今日、初めて聞きました。今朝は高い方の音が出ず、ミサ前のシスター方の歌の練習にご一緒して、栄光の賛歌の歌い出しを何度か練習しましたが、いつもは軽く出る高い方の「レ」が出ない。ミサ曲のキーが「D」なので、当然、高いほうの「レ」が続出する歌です。朝の声出しが足りなかったかも知れません。

 シスター方のおかげで、新しい聖歌を、今年はいくつも知ることになりました。一番驚いたのは、5月17日、世界広報の日の閉祭の歌。自分が昔、神学生の頃に作曲したマリア様の聖歌が突然歌われて、びっくりでした。

 以下、本日の説教の原稿です。

【三位一体の主日 東京カテドラル聖マリア大聖堂(配信ミサ) 2020年6月7日】

 「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にありますように」(コリントの信徒への手紙2・13章13節)。

 パウロはコリントの教会に宛てた書簡を、この言葉で締めくくっています。コリントの教会共同体への様々な忠告や、教えに満ちあふれた書簡は、いつの時代にも立ち返るべき教会共同体のあり方を教える、パウロの心のこもった書簡です。愛情に満ちあふれた教えや、時に厳しい訓告をさまざまにしたためた言葉を、パウロはこの祝福の言葉で締めくくります。

 そして今を生きる私たち教会は、感謝の祭儀を始めるために、この言葉を司祭のあいさつの一つとしています。パウロが自らの教えの締めくくりとした言葉によって、私たちは感謝の祭儀を始めます。すなわち現代を生きる教会は、感謝の祭儀のために共同体として集まるごとに、パウロが締めくくった地点から、そのたびごとに新しいスタートを切っています。

 教会は、主イエスの恵みにあずかり、神の愛に満たされ、聖霊に導かれて、聖徒の交わりのうちに、日々新たに生かされていきます。主イエスの恵みにしても、神の愛にしても、人間の常識を越えたあふれるばかりの恵みであり愛であることを、ヨハネ福音は示唆しています。

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ福音書3章16節)。

 自ら創造した人間を、独りたりとも滅びの道に捨て置くことはない。愛に根ざした神の決意が伝わってくる福音の言葉です。三位一体の神とは、私たちに、これでもか、これでもかと、ありとあらゆる手を尽くして迫ってくる、神の愛の迫力を感じさせる神秘であります。

 「兄弟たち、喜びなさい」(コリントの信徒への手紙2・13章11節)

 パウロは、コリントの教会に向かって、呼びかけます。様々な試練があり、教会共同体には諸々の課題や難題があったとしても、その人間の限界を凌駕するほどの三位一体の神の愛に包まれていることを実感するなら、悲しんでいたり、怒っていたりする暇はない。その神の愛の迫力で、喜び以外には考えられないだろう、というパウロの呼びかけです。

 「完全な者となりなさい」(同)

 完全な者は神ご自身以外には考えられず、私たちは自分の力で完全になることはあり得ません。それなら、この言葉の意味は何でしょう。「初心に返りなさい」と訳している聖書(注:聖書協会・共同訳)もあるのですが、信仰の原点、すなわち、主イエスを初めて信じた時のように、自分の思いではなくて、神の心にすべてを委ね、任せよ、という呼びかけです。私たちは自分の弱さを自覚した時に初めて、自我の殻を捨て去り、神の力が存分に働く者となります。

 「励まし合いなさい」(同)

 私たちは、「励まし合う共同体」でしょうか。」「互いに牽制し合う共同体」になっていないでしょうか。一つの体の部分としての役割を果たすならば、裁きあったり、とがめ合ったりするのではなく、互いに励まし合うことで、自分の足りないところが支えられます。

 「思いを一つにしなさい」(同)

 私たちが語るキリストの体における一致は、「同じことを同じように考え」、「同じように行動する」ことではありません。一致は「一緒」ではありません。聖霊は私たち一人ひとりに異なる賜物を与えられた。その聖霊の賜物を忠実に生かし、聖霊の交わりの中に生きる時、私たちは異なる場で異なることをしていても、同じ聖霊に満たされ導かれることで、一致しています。

 「平和を保ちなさい」(同)

 平和は、しばしば指摘されるように、単に「争わないこと」ではありません。平和は、神の秩序の実現です。神が最初に世界を創造された時の、秩序の実現です。

 パウロは、私たちが共同体にあって、喜び、完全な者を目指し、励まし合い、思いを一つにし、平和を保つときに、愛と平和の神が共にいてくださると指摘します。

 ですから、私たちの共同体に、もし、仮に、愛と平和の充満が感じられないのであれば、「喜び」「完全な者を目指す」「励まし合う」「思いを一つにする」「平和を保つ」のどれか一つが、欠けているのかも知れません。

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 新型コロナウイルス感染症の蔓延で、私たちは、四旬節も復活節も、教会に集うことができませんでした。復活節が終わった今、少しばかりですが、希望が見えてきました。緊急事態宣言が解除され、しばらく様子を見極めていましたが、そろそろ教会に集まる準備を始めても良い時期になってきたと思います。

 もちろん感染症が終息したわけではなく、未知の危険が潜んでいますから、慎重に行動しましょう。教会に集まったり、ミサに出たりすることにも、しばらくはいろいろな制約を設けなくてはなりません。

 不満に感じること、面倒に感じることも多々あるでしょう。大変申し訳ないと思います。しかしそれは、自分の健康を守るためだけではなく、他の人たちの命を守るための積極的な行動です。それが、ひいては、「社会の一員としての教会の責任を果たすこと」にもつながります。

 長い自粛期間を経て、再び教会に集おうとしている私たちは、これからどのような共同体として存在しようとしているのでしょう。

 「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように」とコリントの信徒への手紙を締めくくったパウロの言葉を受けて、そこから新しいスタートを切ろうとするのです。灰の水曜日以前の教会に、そのまま戻ることを考えないでください。私たちを交わりに導く聖霊は、教会に常に新しい息吹を吹き込んでいます。私たちは、過去に戻りません。

 教皇フランシスコは、使徒的勧告「福音の喜び」に、こう書いておられます。

 「宣教を中心にした司牧では、『いつもこうしてきた』という安易な司牧基準を捨てなければなりません。皆さんぜひ、『自分の共同体の目標や、構造、宣教の様式や方法を見直す』というこの課題に対して、大胆かつ創造的であってください。」(33)

 教会に出かけることもできずに自粛生活を続けてきた結果として、何か新しい発見はあったでしょうか。大切にしなくてはならないものに、何か新しい気づきはあったでしょうか。

 これまで教会は、日曜日に集まってくることで、「共同体であるつもり」でいました。でも三か月以上も、実際に教会に集まれなくなっています。私たちは、共同体でしょうか。共同体であるならば、何が私たちをつないでいるのでしょう。私たちをつないでいるのは、オンラインのミサではありません。

 私たちは、「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わり」によって、つながれています。私たちに迫ってくる、迫力に満ちあふれた、神の愛で、つながっています。私たちは、24時間、その愛に包まれているのですから、どこにいても、常に、教会です。教会に行くから、教会になるのではなく、私たちそのものが教会なのです。

 私たちは今、教会共同体として新たなスタートを切るための準備を始めなくてはなりません。「三か月前の続き」を再開するのではなく、困難を乗り越えてきた今、新たなスタートを切ることを目指したいと思います。「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わり」に包まれて、心と思いを一つにした教会共同体で、信仰を深め、信仰に生き、信仰を伝えてまいりましょう。

(編集「カトリック・あい」=漢字表記は当用漢字表を原則としました)

 

 

2020年6月7日

・「バチカンの沈黙は、信仰軽視の”政治的迎合”」-陳枢機卿、香港国家安全維持法導入に(CRUX)

‘We need a miracle,’ retired Hong Kong cardinal says on security law

Retired archbishop of Hong Kong Cardinal Joseph Zen is pictured in Hong Kong, Feb. 9, 2018. (Credit: Vincent Yu/AP.)

  ROMEー香港の陳日君・枢機卿は、中国が導入しようとしている香港国家安全維持法が「香港人の自治を危険にさらしている」とし、この問題をバチカンが批判せず、黙っているのは、「キリストへの信仰を軽視した政治的迎合」と強く批判した。

*「天からの奇跡が必要」

    枢機卿は「私たちは心配しています。とても心配しています」と中国の国家安全法の香港への導入に強い懸念を示し、 「私たちには奇跡が必要。天からの奇跡が必要なのです」と訴えた。

    陳枢機卿は現在、88歳。2002年から2009年まで香港司教を務めた。中国本土での布教活動の経験を持ち、中国政府・共産党によるキリスト教など宗教弾圧、人権抑圧に対する最も率直な批評家の1人として世界的に知られている。

    香港はこの1年、民主化を求める大規模デモの現場であり続けてきた。中国政府とその指示を受けた香港政庁の”香港引き渡し”の法案が香港議会に上程されて激しさを増し、法案が最終的に撤回された後も、再上程などを警戒する抗議活動は続けられたが、今年の初めからの新型コロナウイルスの世界的大感染で一時、休止していた。

   だが、先月末に、中国の全国人民代表大会(全人代)が、香港を対象とする「国家安全法」の導入を決定。香港市民がかろうじて守ってきた自治や自由は決定的に侵害され、香港の英国から中国への返還の条件だった、言論と信教の自由などを保証する「一国二制度」は実質的な終焉を迎えかねない状況になっている。抗議行動は再開され、北京で民主化デモが弾圧され、大量の若者が殺害、逮捕された天安門事件から31年目となる4日には、香港のビクトリア公園で警察の禁止を振り切って数千人が集まる追悼集会が開かれた。

*香港返還の際に約束された自主権は完全破壊へ

  中国政府、香港政庁は2003年に今回の法律に類する立法を試み、市民の強い反対に遭って断念しているが、今回の法律は、「それよりもはるかに酷いものになる」と枢機卿は懸念する。「詳細な内容は、例えば、法律の執行主体はどこなのか、違法行為者とされた人は香港で裁かれるのか、それとも中国本土に連れて行かれるのか、など定かでないが、いずれにしても、中国政府が英国と香港返還の際に約束した自主権が完全に破壊されるのは、避けられそうにない」とし、「こうしたことすべてが、私たちを不安にさせています」。

 その一方で、枢機卿は、香港が重要な国際金融の結節点であり、内外の投資家たちが新法の影響を心配していることから、中国共産党内部にも同法について異論が出ている可能性がある、と指摘。党内の穏健派が「国際社会からの批判に注意を払い、国家安全法に内容に修正を加える」よう党指導部に進言するすることを期待したいが、その実現性は低いとし、「私たちは北京の判断にあまり影響を与えていない。彼らは私たちの言うことに耳を傾けず、私たちを敵だと考えています。それが問題なのです… ですから、実際には、とても酷いことになるでしょう」と述べた。

 

*バチカンの長い沈黙

 枢機卿は、かねてからバチカンの対中国政策について、とくにその主導権を握るピエトロ・パロリン国務長官の対応に異議を唱え、一昨年秋に中国政府の国内の司教任命について暫定合意しながら、いまだに詳細が公表されないことを批判してきたが、今回の国家安全法の導入にカトリック信徒も含め香港市民が抗議の声を上げていることに対して、バチカンが彼らを支えるどころか、沈黙を続けていることに、強い怒りを感じている。

 「残念ですが、バチカンに期待することは何もありません。過去数年間、彼らは中国に対し、迫害をいさめるようなことを何も言いませんでした… 教会を中国の支配者に”降伏”させてしまったのです」とし、「香港では今、多くの若者が警察当局の残虐行為に苦しめられているのです。それなのに、バチカンは中国政府を喜ばせようとしている」と訴え、「バチカンの中国への対応は愚かです。なぜなら共産主義者は、バチカンに何も与えるつもりはない。ただ教会を支配下に置きたいだけなのです」と批判した。

 そして、「香港は結局、中国本土の他の都市と同じようになり、特別な地位を失うでしょう。宗教的迫害と言論や集会の自由などの基本的権利のはく奪がすぐにされるはないとしても、徐々に、確実に、私たちの自由は侵食されていることになる」と、教会や世界の民主主義国に警告した。

*香港司教が空席一年半-政治的配慮を優先のバチカン

 バチカンは沈黙し、何もしないことで、すでに中国、香港における信教の自由や人権侵害に手を染めている、と批判する枢機卿は、実例として、昨年1月に楊鳴章・司教が急死したあと、バチカンが1年半にわたって香港の教会リーダーである香港司教を空席のままにしていることを指摘。「バチカンが後任として誰かを見つけるのは容易なはず」とし、すでに公認候補が決まっていたにもかかわらず、昨年の香港市民による抗議活動を巡って香港政庁に批判的立場をとり、市民の権利を支持することを明言、香港政庁に穏健な態度を取るよう求めていたことを理由に、バチカンが、この候補を司教に任命しようとしない可能性を示唆した。

 枢機卿はまた、中国政府・共産党にとって好ましい司教候補が現在、検討されているが、まだ任命に至っていないが、それは、北京が同意する司教の任命は「現時点で、カトリック教会に好ましくない」ということに、バチカンがある程度、気付いていることを示している、とも指摘。「司教の選択が政治的理由によってなされるべきではない。だから、私たちは心配しているのです… 恐らく、聖座は信仰を基準にせず、政治的配慮によって判断しようとしています。それは私たち香港教区にとって極めて危険なことなのです」とバチカン”首脳部”の姿勢を強く批判した。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

・・Cruxは、カトリック専門のニュース、分析、評論を網羅する米国のインターネット・メディアです。 2014年9月に米国の主要日刊紙の一つである「ボストン・グローブ」 (欧米を中心にした聖職者による幼児性的虐待事件摘発のきっかけとなった世界的なスクープで有名。映画化され、日本でも昨年、全国上映された)の報道活動の一環として創刊されました。現在は、米国に本拠を置くカトリック団体とパートナーシップを組み、多くのカトリック関係団体、機関、個人の支援を受けて、バチカンを含め,どこからも干渉を受けない、独立系カトリック・メディアとして世界的に高い評価を受けています。「カトリック・あい」は、カトリック専門の非営利メディアとして、Cruxが発信するニュース、分析、評論の日本語への翻訳、転載について了解を得て、掲載しています。

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2020年6月5日