・「新たなスタートの準備を始めよう!」菊地・東京大司教の三位一体の主日の説教

(2020.6.7  菊地東京大司教の日記)

 三位一体の主日@東京カテドラル

 6月に入っても、東京教区ではミサの非公開を続けております。東京都ではこの数日、毎日のように二桁の感染者が報告されていますので、慎重に判断したいと思います。

 さて本日は、三位一体の主日でした。昨日の土曜日には午後2時から、これも関係者だけで集まって二人の助祭叙階式がありましたが、これはまた別に投稿します。

 聖歌の選択は、イエスのカリタス会のシスター方にお任せなのですが、今日のミサ曲は、たぶん今日、初めて聞きました。今朝は高い方の音が出ず、ミサ前のシスター方の歌の練習にご一緒して、栄光の賛歌の歌い出しを何度か練習しましたが、いつもは軽く出る高い方の「レ」が出ない。ミサ曲のキーが「D」なので、当然、高いほうの「レ」が続出する歌です。朝の声出しが足りなかったかも知れません。

 シスター方のおかげで、新しい聖歌を、今年はいくつも知ることになりました。一番驚いたのは、5月17日、世界広報の日の閉祭の歌。自分が昔、神学生の頃に作曲したマリア様の聖歌が突然歌われて、びっくりでした。

 以下、本日の説教の原稿です。

【三位一体の主日 東京カテドラル聖マリア大聖堂(配信ミサ) 2020年6月7日】

 「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にありますように」(コリントの信徒への手紙2・13章13節)。

 パウロはコリントの教会に宛てた書簡を、この言葉で締めくくっています。コリントの教会共同体への様々な忠告や、教えに満ちあふれた書簡は、いつの時代にも立ち返るべき教会共同体のあり方を教える、パウロの心のこもった書簡です。愛情に満ちあふれた教えや、時に厳しい訓告をさまざまにしたためた言葉を、パウロはこの祝福の言葉で締めくくります。

 そして今を生きる私たち教会は、感謝の祭儀を始めるために、この言葉を司祭のあいさつの一つとしています。パウロが自らの教えの締めくくりとした言葉によって、私たちは感謝の祭儀を始めます。すなわち現代を生きる教会は、感謝の祭儀のために共同体として集まるごとに、パウロが締めくくった地点から、そのたびごとに新しいスタートを切っています。

 教会は、主イエスの恵みにあずかり、神の愛に満たされ、聖霊に導かれて、聖徒の交わりのうちに、日々新たに生かされていきます。主イエスの恵みにしても、神の愛にしても、人間の常識を越えたあふれるばかりの恵みであり愛であることを、ヨハネ福音は示唆しています。

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ福音書3章16節)。

 自ら創造した人間を、独りたりとも滅びの道に捨て置くことはない。愛に根ざした神の決意が伝わってくる福音の言葉です。三位一体の神とは、私たちに、これでもか、これでもかと、ありとあらゆる手を尽くして迫ってくる、神の愛の迫力を感じさせる神秘であります。

 「兄弟たち、喜びなさい」(コリントの信徒への手紙2・13章11節)

 パウロは、コリントの教会に向かって、呼びかけます。様々な試練があり、教会共同体には諸々の課題や難題があったとしても、その人間の限界を凌駕するほどの三位一体の神の愛に包まれていることを実感するなら、悲しんでいたり、怒っていたりする暇はない。その神の愛の迫力で、喜び以外には考えられないだろう、というパウロの呼びかけです。

 「完全な者となりなさい」(同)

 完全な者は神ご自身以外には考えられず、私たちは自分の力で完全になることはあり得ません。それなら、この言葉の意味は何でしょう。「初心に返りなさい」と訳している聖書(注:聖書協会・共同訳)もあるのですが、信仰の原点、すなわち、主イエスを初めて信じた時のように、自分の思いではなくて、神の心にすべてを委ね、任せよ、という呼びかけです。私たちは自分の弱さを自覚した時に初めて、自我の殻を捨て去り、神の力が存分に働く者となります。

 「励まし合いなさい」(同)

 私たちは、「励まし合う共同体」でしょうか。」「互いに牽制し合う共同体」になっていないでしょうか。一つの体の部分としての役割を果たすならば、裁きあったり、とがめ合ったりするのではなく、互いに励まし合うことで、自分の足りないところが支えられます。

 「思いを一つにしなさい」(同)

 私たちが語るキリストの体における一致は、「同じことを同じように考え」、「同じように行動する」ことではありません。一致は「一緒」ではありません。聖霊は私たち一人ひとりに異なる賜物を与えられた。その聖霊の賜物を忠実に生かし、聖霊の交わりの中に生きる時、私たちは異なる場で異なることをしていても、同じ聖霊に満たされ導かれることで、一致しています。

 「平和を保ちなさい」(同)

 平和は、しばしば指摘されるように、単に「争わないこと」ではありません。平和は、神の秩序の実現です。神が最初に世界を創造された時の、秩序の実現です。

 パウロは、私たちが共同体にあって、喜び、完全な者を目指し、励まし合い、思いを一つにし、平和を保つときに、愛と平和の神が共にいてくださると指摘します。

 ですから、私たちの共同体に、もし、仮に、愛と平和の充満が感じられないのであれば、「喜び」「完全な者を目指す」「励まし合う」「思いを一つにする」「平和を保つ」のどれか一つが、欠けているのかも知れません。

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 新型コロナウイルス感染症の蔓延で、私たちは、四旬節も復活節も、教会に集うことができませんでした。復活節が終わった今、少しばかりですが、希望が見えてきました。緊急事態宣言が解除され、しばらく様子を見極めていましたが、そろそろ教会に集まる準備を始めても良い時期になってきたと思います。

 もちろん感染症が終息したわけではなく、未知の危険が潜んでいますから、慎重に行動しましょう。教会に集まったり、ミサに出たりすることにも、しばらくはいろいろな制約を設けなくてはなりません。

 不満に感じること、面倒に感じることも多々あるでしょう。大変申し訳ないと思います。しかしそれは、自分の健康を守るためだけではなく、他の人たちの命を守るための積極的な行動です。それが、ひいては、「社会の一員としての教会の責任を果たすこと」にもつながります。

 長い自粛期間を経て、再び教会に集おうとしている私たちは、これからどのような共同体として存在しようとしているのでしょう。

 「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように」とコリントの信徒への手紙を締めくくったパウロの言葉を受けて、そこから新しいスタートを切ろうとするのです。灰の水曜日以前の教会に、そのまま戻ることを考えないでください。私たちを交わりに導く聖霊は、教会に常に新しい息吹を吹き込んでいます。私たちは、過去に戻りません。

 教皇フランシスコは、使徒的勧告「福音の喜び」に、こう書いておられます。

 「宣教を中心にした司牧では、『いつもこうしてきた』という安易な司牧基準を捨てなければなりません。皆さんぜひ、『自分の共同体の目標や、構造、宣教の様式や方法を見直す』というこの課題に対して、大胆かつ創造的であってください。」(33)

 教会に出かけることもできずに自粛生活を続けてきた結果として、何か新しい発見はあったでしょうか。大切にしなくてはならないものに、何か新しい気づきはあったでしょうか。

 これまで教会は、日曜日に集まってくることで、「共同体であるつもり」でいました。でも三か月以上も、実際に教会に集まれなくなっています。私たちは、共同体でしょうか。共同体であるならば、何が私たちをつないでいるのでしょう。私たちをつないでいるのは、オンラインのミサではありません。

 私たちは、「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わり」によって、つながれています。私たちに迫ってくる、迫力に満ちあふれた、神の愛で、つながっています。私たちは、24時間、その愛に包まれているのですから、どこにいても、常に、教会です。教会に行くから、教会になるのではなく、私たちそのものが教会なのです。

 私たちは今、教会共同体として新たなスタートを切るための準備を始めなくてはなりません。「三か月前の続き」を再開するのではなく、困難を乗り越えてきた今、新たなスタートを切ることを目指したいと思います。「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わり」に包まれて、心と思いを一つにした教会共同体で、信仰を深め、信仰に生き、信仰を伝えてまいりましょう。

(編集「カトリック・あい」=漢字表記は当用漢字表を原則としました)

 

 

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2020年6月7日