・「私たち1人ひとりが教会、社会が安らぐ存在になろう」菊地大司教の第14主日ミサ説教

年間第十四主日@東京カテドラル

 年間第十四主日のミサ、インターネット配信用に、前晩土曜日の18時に、カテドラルで捧げたミサの説教原稿です。

 この数日、東京では100人を超える感染者が相次いで報告されています。公開ミサをこのまま続けるべきか検討しましたが、感染者が重篤化することの少ない若年層に多いことと、この数日間重症者が少なく、亡くなられる方も出ていないことから、現時点での感染症対策(社会的距離、手指消毒、マスク着用、一斉に歌わない、高齢の方にお待ちいただく)を継続することで、お一人お一人の命を守りながら、もっとも大切な秘跡である聖体祭儀を続けることが可能だろうと判断しています。

 ただ、このまま状況を見守りますが、本日の日曜日も東京都の感染者は100名を超えていますし、今後数日間の感染者、重症者、死者、実効再生産数などに注意を払いながら、判断していきたいと思います。また、現在も、主日のミサにあずかる義務は東京教区のすべての方を対象に免除していますので、少しでも不安がある方には、ご自宅でお祈りを続けてくださるようにお願いいたします。

 以下、説教原稿です。

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【年間第14主日A 東京カテドラル聖マリア大聖堂 (公開配信ミサ) 2020年7月5日前晩ミサの説教】

 今年の初め頃から今に至るまで、感染症が拡大し、この数日は東京で感染者が増大傾向にあるものの、この混乱の中で、教会はどのように動いてきたのでしょうか。

 もちろん、当初から感染予防を心掛け、2月末からはミサも非公開となり、緊急事態宣言が出てからは、すべての活動が停止しました。ですから、今回の事態の中で、教会が全く動いていなかったと、表面的には見えてしまいます。

 今回の事態は、多くの人が命の危機に直面する、ということから、大災害の緊急事態に匹敵しています。私自身が担当している教会の援助団体「カリタスジャパン」でも、今の事態は災害の緊急事態と同等、と見なして、緊急募金と支援活動を行っています。

 とは言え、まずもって密接、密集、密閉を避けねばならない状況にあって、従来の大災害への対応のように、ボランティアを集めて一緒に行動することには、制約があります。実際、2011年以来、仙台教区に日本の教会が設置しているいくつかのボランティアベースでは、一時的に人を集めることを中止にせざるを得ませんでした。その意味で、感染症の下では、従来のような活動には限界があります。

 しかし、同時に、社会全体で自粛が続く中で、雇用環境も悪化し、また病院に出かけることもままならない人が出たり、住居を失14pa1ったり、職を失ったりと、助けを必要とする人は増加しました。

 教皇様は、教皇庁にCovid19委員会を設置され、今回の事態に教会がどのように対応できるのか、統合的人間開発の部署や国際カリタスが協力して取り組むように、と定められました。

 その発足を報告する記者会見で、責任者のタークソン枢機卿は「最初は単に健康問題だったが、経済、雇用、生活スタイル、食料安全保障、AIやインターネットのセキュリティ、政治、政府、政策、研究など、新型コロナ感染症が影響を与えなかった人間の生活の側面は何一つない。教皇フランシスコが教えるように『あらゆるものは、つながり合っている』ことを象徴している」と述べています。

 私たちの人生のすべての側面が影響を受け、常日頃から生活に困難を抱えている人たちが、さらに大きな困難に直面し、また、国によっては、感染症のためだけではなく、そのようにして生じた様々な側面の困難によって、命の危機に直面する人も多数おられます。

 そのような中で、活動に困難を抱えながらも、従来のような大きな活動としてではなく、小さな単位で、時には個人的に、時には隣近所で、助けを求めている人に手を差し伸べようとする活動が、水面下で広がっています。カリタスジャパンの緊急支援の対象も、従来のような組織的な活動もありますが、その多くは個人的な支援を中心とした小規模なものが増えています。

 すなわち、私たちは、この困難な状況の中にあって、隣人と互いに助け合うことの大切さを改めて認識しています。

 冒頭に触れたように、教会も、確かにすべての活動が停止していたものの、信徒の皆さんの個人レベルでは、様々な活動に取り組まれる人が多くいる、と聞いています。教区でも、食料支援や学習支援など、地道な支援活動を支えたり、従来から行っているCTICを通じた外国籍の方々への支援を継続しています。

 私たち教会の役割は、人と人との出会いの中にあって、安らぎを与えることです。福音に「重荷を負う者は、誰でも私のもとへ来なさい。休ませてあげよう」という主イエスの言葉が記されています。教会は、重荷を負わせる場ではなく、安らぎを与える場です。そして、それは「教会という建物が安らぎの場」ということにとどまらず、「私たち自身が安らぎを与える存在」という意味でもあります。

 なぜならば、いつも申し上げているように、教会とは、この「建物」のことではなくて、共同体を形作り主イエスの体を形作っている「私たち一人ひとり」のことだからです。私たち一人ひとりが「社会にあって、安らぎを与える存在」でありたい、と思います。

 残念ながら、教会にあっても、安らぎではなくて苦しみを生み出してしまっている事実が存在します。それは否定できない事実であります。教会に集まっているのは天使のような人ばかりではなく、私も含めてすべての人が、罪の重荷を抱え欠点を抱えた不十分な人間です。ですから、集まっているだけで、どうしても、そこには対立や争い、無理解や排除が生じてしまいます。

 しばしば私たちの思い、すなわち人間の知恵や賢さは、自己中心の世界を生み出し、まるで自分の周りに防御壁を築き上げるようにして、そこに近づいてくる人を傷つけている。ですから、私たちは常に、自分たちに与えられている使命を思い起こさなくてはなりません。

 教会は安らぎを与える場であり、重荷を与える場ではない。そして教会とは誰かのことではなく、自分こそがその教会である。

 感謝の祭儀の中でご聖体をいただいて主と一致するとき、私たちの心には神の霊が宿ります。その時、私たちは、どのような生きる道を選ぶのでしょうか。キリストに属する者として、私たちに与えられている務めは「キリストのように考え、キリストのように話し、キリストのように行い、キリストのように愛そう。力の限り(典礼聖歌390番)」ではないでしょうか。

 父である神がくださった最高のたまものである命を守ることは、最も大切な愛徳の業であります。残念ながら、この困難な時期にあって、教会の中でも、教会の外でも、その最も大切な愛徳の業を二の次に考えるような言動が見られました。「愛徳の業のうちに互いに支え合うこと」こそが、安らぎを与える教会として、今、必要な態度です。

 教皇フランシスコは、昨年訪日されて東北の被災者と会われた時、次のように話されました。

 「私たちに最も影響する悪の一つは、『無関心の文化』です。家族の一人が苦しめば家族全員がともに苦しむ、という自覚をもてるよう、力を合わせることが急務です。課題と解決策を総合的に引き受けることのできる唯一のものである『絆』という知恵が培われないかぎり、互いの交わりはかないません。私たちは、互いに『互いの一部』なのです」。

 私たちは、たまものである命を守ることを大切にする教会でありたい、と思います。教皇の呼びかけに応え、力をあわせ、互いの交わりの中で支え合い、重荷を負わせることなく、安らぎを提供する教会であることを目指しましょう。

(編集「カトリック・あい」)

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2020年7月5日