・「神の慈しみを、憐みを、愛を、具体的に生きる教会であるように」菊地大司教の復活節第二主日メッセージ

2023年4月15日 (土)週刊大司教第120回:復活節第二主日

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  復活節第二主日は、教皇ヨハネパウロ二世によって、「神の慈しみの主日」と定められています。聖ファウスティナに告げられた主イエスのお望みメッセージに基づいて、大聖年であった2000年から、復活の主日の次の日曜日(復活節第2主日)が「神の慈しみの主日」と定められ、この主日に神の慈しみに対する特別の信心を行うよう、教皇様は望まれました。2005年に帰天された時、最後に準備されていたのは、この神のいつくしみの主日のメッセージでした。

 なお東京カテドラルの地下聖堂には、聖ファウスティナに出現された主イエスの姿の絵が安置されています。教皇庁大使館を通じて聖ファウスティナと聖ヨハネパウロ二世の聖遺物とともに、東京教区に贈られたものです。こちらにそれについて触れた「慈しみの特別聖年」の際の岡田大司教様の説教があります。(上の写真は、ウクライナの平和のための祈祷会の時のものです)

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 今週は、12日の水曜日に、東京カトリック神学院において、哲学・神学課程を始める前に少なくとも一年間を過ごす予科のために、独立した建物ができあがり、司教様たちも東京と大阪の教会管区から8名の司教も参加して、竣工祝福式が行われました。新しい”予科棟”は、ぱっと見ると新潟の司教館とそっくりです。デザインと施工が新潟の司教館と同じだからです。施工は木造建築では定評のある、新潟の新発田建設でした。

 また土曜日15日の午後2時からは、ドミニコ会において司祭叙階式が行われ、ドミニコ会会員の佐藤了師が司祭に叙階されました。おめでとうございます。今年は東京では司祭叙階の多い年になりました。叙階式は渋谷教会で行われました。

 以下、本日午後6時配信の、週刊大司教第120回目のメッセージ原稿です。

( 復活節第二主日A  2023年4月16日)

 「弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」と福音に記されています。私たちはこの3年間、同じように、恐れの中で閉じこもっていました。

 その日、弟子たちに向けて語りかけられたように、主ご自身が今もまた、「あなた方に平和があるように」と語りかけてくださっていると、信じています。神の平和、すなわち神の支配の中に、私たちは生かされていることを心に留めたいと思います。

 復活節第二主日は、教皇ヨハネパウロ二世によって、「神の慈しみの主日」と定められました。聖ファウスティナが受けた主イエスの慈しみのメッセージに基づいて、神の慈しみに身をゆだね、互いに分かち合う大切さを黙想する日であります。

 よく知られていますが、2005年4月2日に帰天された教皇は、その翌日の「神の慈しみの主日」のためにメッセージを用意されていました。そこには、こう記されています。

 「人類は、時には悪と利己主義と恐れの力に負けて、それに支配されているかのように見えます。この人類に対して、復活した主は、ご自身の愛を賜物として与えてくださいます。それは、赦し、和解させ、また希望するために魂を開いてくれる愛です。」

 神の慈しみは、教皇ヨハネパウロ二世にとって重要なテーマの一つでした。1980年に発表された回勅「慈しみ深い神」には、「愛が自らを表す様態とか領域とが、聖書の言葉では『憐み・慈しみ』と呼ばれています。・・・慈しみは愛になくてはならない広がりの中にあって、言わば愛の別名です」(慈しみ深い神3/7)と記されています。

 神の慈しみ・憐みを目に見える形とするのは、愛の具体的な実践です。同時に教皇は、「人間は神の慈しみを受け取り経験するだけでなく、他の人に向かって、慈しみを持つように命じられている」としるします(慈しみ深い神14)。神の慈しみは一方通行ではありません。それをいただいた私たちは、互いに神の慈しみ・憐み、すなわち愛を分かち合うものでなくてはなりません。

 東京ドームでの教皇フランシスコの言葉を思い起こします。

「傷を癒し、和解と赦しの道を常に差し出す準備のある、”野戦病院”となることです。キリスト者にとって、個々の人や状況を判断する唯一有効な基準は、神がご自分のすべての子どもたちに示しておられる『慈しみ』という基準です」

 神の慈しみを、憐みを、愛を、具体的に生きる教会でありましょう。

2023年4月15日

・「互いに支え合い、希望を生み出す”シノドスの道”を歩もう」菊地大司教の復活の主日ミサ

(菊地大司教の日記 2023年4月 9日 ) 2023年復活の主日@東京カテドラル

 主イエスの御復活、おめでとうございます。

 聖週間中は肌寒く雨が降ったり風が吹いたりの、ちょっと荒れ気味の天気が続いた東京でしたが、復活の主日の今日は、朝からきれいに晴れ渡りました。

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 東京カテドラル午前10時のミサには、座席の後ろで立ってミサに与る人も出るほど、大勢の方に参加していただきました。入堂の制限をほとんどしなくなりましたので、久しぶりに大勢の方が参加する復活祭でした。たまたま東京におられたのでしょうが、海外から団体で来られていた方も30名以上おられました。

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 またミサ後には、これも2019年の復活祭以来、本当に久しぶりに、ケルンホールで復活の祝いの茶話会(食事会はまだ実現していません)が行われ、昨晩受洗した方々だけでなく、2020年、2021年、2022年の受洗者や転入者の方々も紹介され、お祝いのひとときとなりました。

 以下、本日のミサの説教原稿です。

【主の復活A 東京カテドラル聖マリア大聖堂 2023年4月9日)

 みなさん、主の復活おめでとうございます。

 昨晩の復活徹夜祭で洗礼を受けられた方、堅信を受けられた方、おめでとうございます。

 十字架における受難と死を通じて新しい命へと復活された主は、私たちが同じ新しい命のうちに生きるようにと招きながら、共に歩んでくださいます。

 改めて、コロナ感染症の世界的大感染の暗闇が始まった初期、3年前の9月に教皇様が謁見で語られた言葉を思い起こしたいと思います。

 「この危機から、以前よりよい状態で脱するためには、ともに協力しなければなりません… 協力するか、さもなければ、何もできないかです。私たち全員が、連帯のうちに一緒に行動しなければなりません」

 この3年間、教会は互いに支え合い連帯することの大切さを、繰り返し強調してきました。今、まさに全世界の教会が、進むべき道を模索して歩み続けているシノドスの道程のように、教会は、信仰を共同体の中で、互いに支え合って生きるのだ、と繰り返してきました。

 とりわけ、感染症の世界的大感染がもたらした暗闇は、物理的に集まることを難しくしてしまいましたが、その中にあって、教会は、「共に歩むことと、単に一緒にいることは異なっているのだ」と言うことをはっきりと自覚させられました。神の民はどこにいても、常に歩みを共にする共同体です。それぞれがどこにいたとしても、洗礼の絆で結ばれた兄弟姉妹は、連帯のうちに神に向かって歩みを進めます。私たちは、共に歩む神の民であります。

 主イエスが受難の道を歩まれた晩に、恐れから三度にわたって「イエスを知らない」と口にしてしまったペトロは、先ほど朗読された使徒言行録では、全くの別人となっていました。ペトロはイエスについて、「聖霊と力によってこの方を油注がれた者とされました」と語っていますが、ペトロ自身が、主の復活の体験によって力づけられ聖霊を受けたことによって、力強い宣教者に変えられました。

 ペトロはさかんに「自分は『証人』である」と強調します。すなわち彼自身が証しをする出来事そのものが、彼を変えた。だからこそ、ペトロはその出来事を語らざるを得ない。そうする力は、その体験から生み出されてくる力です。

 ペトロは、その体験が個人的体験なのではなく、共同体としての体験であることを、たとえば「ご一緒の食事をした私たち」というように語り、「私たち」が証人であることを強調します。復活の体験は個人の体験ではなく、共同体の体験です。力強く変えられるのは私一人ではなく、互いに歩む兄弟姉妹と共にであります。信仰は、共に体験し、共に学び、共に深め、共に歩む道であります。

 私たちは、創世記の2章18節にあるように、互いに助け合う者となるために命を与えられています。ですから、連帯の内に互いに支え合うことは、私たちの「優しい性格の賜物」なのではなく、賜物として与えられた命を生きる者にとっての務めです。

 しばしば引用していますが、2019年11月25日、東京で行われた東北被災者との集いでの教皇フランシスコの言葉を思い起こします。

 「食料、衣服、安全な場所といった必需品がなければ、尊厳ある生活を送ることはできません。生活再建を果たすために最低限必要なものがあり、そのために地域コミュニティの支援と援助を受ける必要があるのです。一人で「復興」できる人はどこにもいません。誰も一人では再出発できません。町の復興を助ける人だけでなく、展望と希望を回復させてくれる友人や兄弟姉妹との出会いが不可欠です」

 教会の愛に基づく様々な支援活動は、困難に直面する人たちが、「展望と希望を回復」するために、自らは出会いの中で「友人や兄弟姉妹」の役割を果たすことです。「展望と希望」を、外から提供することはできません。連帯における支え合いこそが、命を生きる希望を生み出します。

 私たちが共同体として信仰を生きる理由は、教会共同体が社会にあって命を生きる希望を証しする存在となり、神による救いの道を指し示す、闇に輝く希望の光として存在するためであります。信仰は、自分の宗教的渇望を満たすためではなく、神から与えられた命がその尊厳を守られ、与えられた使命を果たすためであり、その使命は共同体における連帯のうちに実現されます。

 教皇ベネディクト16世は回勅「神は愛」に、 「人をキリスト信者とするのは、倫理的な選択や高邁な思想ではなく、ある出来事との出会い、ある人格との出会いです」と記しています。

 私たちは、生きている主イエスと出会いたいのです。復活された栄光の主と出会いたいのです。その主イエスは、教会共同体の中におられます。ミサに与るとき、朗読される聖書のことばに主は現存されます。御聖体の秘跡のうちに主は現存されます。そしてともに歩む兄弟姉妹の一人ひとりのうちに、主はおられます。「私の兄弟であるこの最も小さな者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである」(マタイ福音書25章40節)と、イエスの言葉が福音には記されています。

 第二バチカン公会議は、教会とは、神との交わりと全人類の一致を目に見える形で表す存在として、また世の光、地の塩として、命と希望をもたらすためにこの世界に派遣されている神の民であると強調しています。

 私たちは一緒になって旅を続ける一つの民であり、その中心には主ご自身が常におられます。主と共に歩む神の民は、人類の一致の見えるしるしとして、命を生きる希望を生み出す存在であるはずです。この教会の姿を具体的に生きようとしているのが、教皇フランシスコが共に歩むことを呼びかけておられる「シノドスの道」であります。

 今回の「シノドスの道」においては、参加すること、耳を傾けること、識別することの三つが重要だと言われています。そのために教皇様は、教会全体が参加して耳を傾け合い、祈り合い、識別するための長いプロセスを選択されました。

 それは決して、下からの決議を積み重ねて、民主主義の議会のように多数決で何かを決めていくようなプロセスを定めることを目的としているのではなく、識別するための姿勢、耳を傾けあう姿勢、互いに連帯の内に支え合う姿勢を、教会の当たり前の姿勢にすることを一番の目的としています。

 教会がその姿勢を身に着けることができたのなら、それは聖霊の導きの識別へと自ずとつながります。ですから、「準備された様々なステージが終わったからもう関係がない」ではなくて、この「シノドスの道」で求められていることは、これからも続いて取り組まなくてはならないことです。

 共同体における連帯は、命を生きる希望を生み出します。共同体において共に歩むことで、私たちは聖霊の導きを識別します。互いに支え合うことで、主ご自身と出会います。共に御言葉と御聖体に生かされることで、復活を体験したペトロのように大きく変えられていきます。

 教会共同体が希望を生み出す存在であるように、互いに連帯のうちに、支え合いながら歩み続けましょう。

(菊地功=きくち・いさお=東京大司教、日本カトリック司教会議会長)

(編集「カトリック・あい」=表記は当用漢字表記に統一しました)

2023年4月10日

・「主の死と復活・私たちに求められているのは行動、前進すること 」菊地大司教、復活徹夜祭ミサ

(菊地大司教の日記 2023年4月 9日)

2023年復活徹夜祭@東京カテドラル

 主のご復活、おめでとうございます。

 8日本日午後7時からの、東京カテドラル聖マリア大聖堂での復活徹夜祭では、25名の方が洗礼を受けられました。おめでとうございます。また転会の方もあり、成人の受洗者と一緒に堅信を受けられました。心からお慶び申しあげます。

皆様の教会ではいかがでしたでしょうか。

毎年多くの方が洗礼を受けられますが、いつまで経っても聖堂がパンクすることはありません。確かに健康や年齢のために教会に足を運ぶことができなくなる方もおられるでしょうし、帰天された方もおられたでしょう。しかし、いつの間にか足が遠のいてしまう方がおられるのも事実です。時に「教会での様々なレベルでの人間関係がその要因だ」というお話しを伺って、残念に思うことがあります。

信仰生活は独りで孤独のうちに歩むのではなく、共同体で歩むものです。一緒に支える信仰です。と言っても、すべての人が同じように、例えば教会の活動に参加できるわけではないですし、「グループ活動はちょっと」と感じられる方もいるでしょう。共同体の絆は信仰における絆であって、具体的な活動によって生み出されるものではないと思うのですが、「それではどうするのか」と問われると、明確な答えを持っていません。「同じ信仰によって結び合わされているのだ」という確信が、お互いの心に芽生えるような教会共同体のあり方を、模索していきたいと思います。

以下、8日夜の東京カテドラル聖マリア大聖堂における復活徹夜祭の説教原稿です。

【聖土曜日復活徹夜祭 東京カテドラル聖マリア大聖堂 2023年4月8日】

 皆さん、御復活、おめでとうございます。

 復活徹夜祭は、小さなロウソクの光で始まりました。暗闇に光り輝く小さな炎は、私たちの希望の光です。すべてを照らして輝く太陽のような巨大な光ではなく、小さなロウソクの炎です。キリストがもたらす新しい命への希望は、その小さな炎にあります。暗闇が深ければ深いほど、たとえ小さな光であっても、その炎は不安をかき消す希望の力を秘めています。

 希望は、キリストがもたらす新しい命への希望です。暗闇の中で復活のロウソクの光を囲み、復活された主がここにおられることを心に留め、主によって新しい命に招かれ、主によって生きる希望を与えられ、主によって生かされていることを、改めて思い起こします。

 復活のロウソクにともされた小さな光は、「キリストの光」という呼びかけの声と共に、この聖堂の暗闇の中に集まっているすべての人に、分け与えられていきました。復活のロウソクにともされた、たった一つの小さな炎は、ここに集う多くの人のロウソクに分け与えられ、一つ一つは小さいものの、全体としては、聖堂を照らす光となりました。

 私たちは復活の命の希望の光を、兄弟姉妹と分かち合い、共にその光を掲げることで、皆で暗闇を照らす光となります。教会が呼びかける連帯の意味はそこにあります。

 死に打ち勝って復活された主イエスは、新しい命への希望を、私たちに与えています。私たちは孤独のうちに閉じ籠ることなく、連帯の絆をすべての人へとつなげていき、死を打ち砕き、命の希望を与えられるキリストの光を、一緒になってこの社会の現実の中で高く掲げたいと思います。教会は、命を生きる希望の光を掲げる存在です。絶望や悲しみを掲げる存在ではなく、希望と喜びを掲げる存在です。

 今夜、このミサの中で、洗礼と初聖体と堅信の秘跡を受けられる方々がおられます。キリスト教の入信の秘跡は、洗礼と聖体と堅信の秘跡を受けることによって完結します。ですから、その三つの秘跡を受ける方々は、いわば完成した信仰者、成熟した信仰者となるはずであります。どうでしょうか。大人の信仰者として教会に迎え入れられるのですから、成熟した大人としてのそれなりの果たすべき責任があります。それは一体なんでしょうか。

 先ほど朗読されたローマ人への手紙においてパウロは、洗礼を受けた者がキリストと共に新しい命に生きるために、その死にもあずかるのだ、と強調されています。そしてパウロは、「キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるため」に洗礼を受けるのだ、と指摘しています。洗礼を受けた私たちには、キリストとともに、新しい命の道を歩む務めがあります。

 先ほど朗読された出エジプト記には、モーセに対して語られた神の言葉が記してありました。

 「なぜ、私に向かって叫ぶのか。イスラエルの人々に命じて出発させなさい」

 モーセに導かれて奴隷状態から逃れようとしたイスラエルの民は、エジプトのファラオの強大な権力の前で恐怖にとらわれ、希望を失い、助けを求めて叫ぶばかりでありました。そこで神は、モーセに、行動を促します。「前進せよ」と求めます。しかも、ただ闇雲に前進するのではなく、「神ご自身が先頭に立って切り開く道を、勇気を持って歩め」と命じておられます。

 復活の出来事を記す福音書は、復活されたイエスの言葉をこう記しています。

 「恐れることはない。行って、私の兄弟たちにガリラヤに行くように言いなさい」

 イエスを失った弟子たちは、落胆と、不安と、恐れにとらわれ、希望を失っていたことでしょう。力強いリーダーが突然いなくなったのですから、ぼうぜんと立ちすくんでいたのかも知れません。

 恐れと不安にとらわれ、前に向かって歩むことを忘れた弟子たちに対して、「立ち上がり、ガリラヤへと旅立て」とイエスは告げます。立ち止まるのではなく、前進することを求めます。行動するようにと促します。ガリラヤは新しい命を生きる希望の原点です。最初にイエスが福音を告げ、弟子たちを呼び出したのはガリラヤでした。自らが教え諭した原点に立ち返り、「そこから改めて旅路を歩み始めるように」と弟子たちに命じています。

 主の死と復活にあずかる私たちに求められているのは、行動することです。前進することです。何もせずに安住の地にとどまるのではなく、新たな挑戦へと旅立つことです。そして苦難の中にあって闇雲に進むのではなく、先頭に立つ主への揺らぐことのない信頼を持ち、主が約束された聖霊の導きを共に識別しながら、御父に向かってまっすぐに進む道を見いだし、勇気を持って歩み続けることであります。

 とは言え、一人で旅路を歩むのは心細いものです。本当にそれが正しい道なのかどうか、分からないときも、しばしばでしょう。ですから私たちは、共にこの道を歩みます。教会は共同体であり、私たちは信仰の旅路を、共同体として共に歩みます。一人孤独のうちに歩むのではなく、互いに助け合いながら、歩み続けます。

 ちょうど今、教会は、シノドスの道を歩んでいます。そのテーマは「共に歩む教会のため-交わり、参加、そして宣教-」と定められています。シノドスは信仰の旅路の刷新を目指します。東京教区では、集まることが難しい中、定期的にビデオを作成し、公開していますが、ご覧になったことはありますでしょうか。

 一つ一つは短いものですので、是非ご覧になって、何人かの方々とその内容についてご自分の思いを話し合い、分かち合う機会を持ってくだされば、と願っています。「互いに信仰を深め、進むべき方向性の指針を再確認し、助け合い、支え合いながら、信仰の旅路を共にに歩み続ける教会となること」が目的です。

 シノドスの歩みを共にすることで、洗礼と堅信によって与えられた信仰者としての責務を、共に助け合いながら連帯のうちに果たす道を見いだしましょう。その歩みの中で、交わりを深め、ともに参加し、福音を告げる共同体へと豊かになる道を模索していきましょう。東京教区の宣教司牧方針の三つの柱、すなわち、「宣教する共同体」、「交わりの共同体」、「すべての命を大切にする共同体」の実現のために、福音を告げ知らせ、証しする道を共に歩み、暗闇の中に希望の光を燦然と輝かせる教会を実現していきましょう。

(菊地功=きくち・いさお=東京大司教、日本カトリック司教協議会会長)

 (編集「カトリック・あい」=表記を原則として当用漢字表記に統一させていただきました)

2023年4月9日

・「主イエスの苦しみにあずかり、栄光と希望への道を切り開こう」菊地大司教の聖金曜日・主の受難

(菊地大司教の日記 2023年4月 7日 )

2023年聖金曜日主の受難@東京カテドラル

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 主の受難を黙想する聖金曜日です。この日は、通常のミサは行われません。各教会では、それぞれの慣習に従って、十字架の道行きをされたところも多かったのではと思いますが、今年の東京は、猛烈に風の吹く聖金曜日となりましたので、参加が難しい方もおられたかと思います。このブログの一番下に、東京教区で作成した十字架の道行きのビデオを貼り付けておきます。

 また、本来、主の受難の典礼は、午後3時頃に行われ、夜には悲しみの聖母の崇敬式(スタバート・マーテルが歌われます)が行われたりしましたが、現在では、週日の金曜ということもあり、夕方に主の受難の典礼が行われることになっています。東京カテドラルの主の受難の典礼も、午後7時から行われました。

 (なお、東京カテドラル聖マリア大聖堂の正面に向かって右手側には、聖ペトロ大聖堂に置かれているミケランジェロのピエタ像のレプリカが安置されています。サンピエトロにあるものと全く同じものです。また東京カテドラルの聖櫃は、他の大聖堂などと同じく、正面祭壇ではなく、脇祭壇や小聖堂に置かれることになっているため、むかって左側のマリア祭壇に置かれています。)

 以下、本日午後7時の主の受難の典礼における、説教原稿です。

【聖金曜日・主の受難 東京カテドラル聖マリア大聖堂 2023年4月7日】

 私たちの信仰は、「道を歩み続ける信仰」です。時の流れの中で、どこかに立ち止まってしまうのではなく、常に歩みを続ける旅路です。時にはその歩みは遅くなったり、速くなったり、横にそれてみたり、後ろを振り返ってみたり、それでも、なんとか前進を続ける旅路です。

 その信仰生活の歩みの中でも、四旬節には特別な意味があります。今年は2月22日の灰の水曜日から、私たちは四旬節の旅路を共に歩んで来ました。

 四旬節は私たちの信仰の原点を見つめ直すときです。私たちの信仰の原点には、主の十字架があります。その十字架を背負い、苦難のうちに死に向かって歩まれる主の受難の姿があります。主イエスの苦難の旅路こそは、私たちの信仰の旅路の原点であります。

 すべての創造主である神は、ご自分がたまものとして創造し与えられたすべての命を、一人たりとも見捨てることなく、永遠の命における救いへと招くために、私たちの罪を背負い、自ら進んで苦しみの道を歩まれました。その苦しみは、嘆き悲しむ絶望に至る苦しみではなく、死から復活へと至る希望と栄光の旅路でもあります。

 私たちは、主の苦しみの旅路に心を合わせ、共に歩むように、と招かれています。主ご自身が悪との戦いの中で苦しみを受けられたように、私たちもこの世界の現実の中で、神の正義の実現を阻む悪との戦いで苦しみ、主ご自身がその苦難と死を通じて新しい復活の命の栄光を示されたように、私たちも苦しみの後に主の復活の神秘にあずかって、永遠の命にあずかる者とされます。十字架と共に歩む旅路は、私たちの信仰の原点です。

 「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである」(マタイ福音書25章40節参照)という主イエスの言葉を心に留める時、私たちは人生の歩みの中で、数多くの機会に、主御自身と出会って来たことに気がつきます。またこれからの旅路の中で繰り返し主と出会い続けることでしょう。主とともに歩む十字架の道は、また様々な現実の出会いを通じて、主ご自身と出会う旅路でもあります。ともに歩まれる主は、人生の様々な十字架を背負い、苦しい挑戦の中で、命を生きている多くの方を通じて、私たちをご自身との出会いへと招いておられます。

 私たちは、悲しみの中で希望を求める人に、慰めを与える者だったでしょうか。苦しみの中で絶望にうちひしがれる人に手を差し伸べる者だったでしょうか。あえぎながら歩む人と共に歩む者だったでしょうか。神の前で罪を悔いる人に寄り添い、赦しへと招く者だったでしょうか。自分自身の常識とは異なる存在の人たちを裁くことなく、共に歩もうとする者だったでしょうか。

 黙して語らず、ただただすべての人の罪を十字架として背負われ、あえぎながら歩みを進める主イエスのその傍らに立ちながら、他者の罪を裁こうとする自分の姿を想像するとき、自らの傲慢さに恥ずかしくなります。

 主の背負う十字架に、さらなる重さを加えているのは、傍らで傲慢な生き方をする私たち自身です。私たちにできるのは、苦しみを受け、耐え忍び、黙しながら歩みを続けた神の旅路に心を合わせ、すべてを包み込むその愛と赦しと慈しみに感謝し、苦しみの先にある復活の栄光を信じながら、主イエスと共に、ひたすら歩み続けることです。同じ思いを持つ信仰の仲間と共に、歩み続けることです。

 十字架を背負った苦難の道は、ゴルゴタで終わります。この世での旅路が終わり、復活を通じて新しい命の旅路が始まる転換点は、ゴルゴタです。そこには、私たちの母である聖母マリアがおられました。

 受難の朗読は、十字架の傍らに聖母マリアがたたずまれ、御子の苦しみに心を合わせておられたことを、私たちに伝えています。人類の罪を背負い、その購い贖いのために苦しまれる主イエスの傍らに立つ聖母マリアは、キリストと一致した生き方を貫き、十字架を背負いながら他者のために身をささげて黙して歩み続ける模範を、教会に示されています。

 教皇パウロ六世は「私は主のはしためです。お言葉通り、この身になりますように」という言葉を生涯にわたって生き抜いた聖母マリアは、「すべてのキリスト者にとって、父である神の御旨に対して従順であるように、との教訓であり、模範」であると指摘しています。(「マリアーリス・クルトゥス」21)

 主イエスは十字架上で、「女よ、見なさい。あなたの子です」「見なさい。あなたの母です」(ヨハネ福音書19章26‐27節参照)と聖母マリアと愛する弟子に語りかけることによって、聖母マリアを教会の母と定められました。

 聖母マリアは天使ガブリエルのお告げを通して神から選ばれた人生を、謙遜のうちに歩みましたが、このゴルゴタでの転換点を通じて、命を生きる模範を示すために、永遠にその母であるようにと、新しい歩みを始めるように主ご自身から招かれました。聖母マリアは、私たちイエスに従おうとする者の先頭に立つ、命を生きる道の模範です。教会は聖母マリアと共に主の十字架の傍らに立ち、その十字架を受け継ぎ、復活の栄光を目指して歩み続けます。

 聖母マリアは、私たち一人ひとりの信仰者にとっての模範でもあります。「お言葉通りにこの身になりますように」と天使に応えた聖母は、すべてを神に委ねる謙遜さの模範を示されました。黙して語らず、他者の罪を背負って十字架の道を歩まれた主の謙遜さを、その苦しみに心を合わせ生き抜いた聖母マリアの謙遜さに倣い、私たちも、神の計画に勇気を持って、そして謙遜に身を委ねる恵みを願いたいと思います。

 聖母マリアは、私たち一人ひとりの霊的な母でもあります。真の希望を生み出すために苦しみを耐え忍ばれたイエスに、身も心も合わせて歩みを共にされた聖母に倣い、私たちも、主イエスの苦しみにあずかり、真の栄光と希望への道を切り開いて行きたいと思います。

 主の十字架に心を合わせ、主の旅路を共に歩む私たちは、絶望と恐れではなく、希望と喜びを生み出す者であり続けたいと思います。

(菊地功=きくち・いさお=東京大司教、日本カトリック司教協議会会長)

(編集「カトリック・あい」=表記は原則として当用漢字表記に統一させていただきました)

 

2023年4月8日

・「聖体祭儀を通じて、共におられる主から力をいただこう」菊地大司教の聖木曜日・主の晩餐ミサ

(菊池大司教の日記 2023年4月 6日 (木) 2023年聖木曜日主の晩餐@東京カテドラル

 聖なる三日間は、主の晩餐のミサで始まります。このミサの終わりは聖体安置式で、いつものような派遣の祝福はありません。次に派遣の祝福があるのは、復活徹夜祭の終わりです。明日の聖金曜日、主の受難の典礼は、初めのあいさつもなければ終わりの祝福もありません。ですから、この三日間の典礼は連続しています。主の受難と死と復活の出来事に、心をあわせる典礼です。

337572720_921776345608506_74450733466742 以下、6日聖木曜日午後7時から、関口教会と韓人教会の合同で行われた、主の晩餐のミサの説教原稿です。

【聖木曜日主の晩餐 東京カテドラル聖マリア大聖堂 2023年4月6日】

 私たちの信仰生活は、キリストに倣って生きるところに始まり、キリストの死と復活を通じて永遠の命への道をたどる、キリストによって、キリストとともに、キリストのうちに歩み続ける道であります。

 新型コロナの世界的大感染に見舞われたこの3年間の暗闇が生み出したグローバルな不安体験が、国家のレベルでも個人のレベルでも利己主義を深め、寛容さを奪い去り、連帯の中で支え合うことよりも、様々な種類の暴力による対立が命に襲いかかる世界を生み出してしまいました。賜物である命を守ることよりも、異質な存在を排除することによって、自分の周囲を安定させ、心の不安から解放されようとする世界となってしまいました。

 最後の晩餐の席で主イエスは立ち上がり、弟子たちの足を洗ったとヨハネ福音に記されています。弟子たちの足を洗い終えたイエスは、「主であり、師である私があなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」と言われた、と記されています。弟子たちにとっては衝撃的な出来事であったと思いますが、衝撃的であったからこそ、こうして福音書に書き残された心に深く刻まれた出来事でありました。

 足を洗うためには、身を深くかがめなくてはなりません。相手の前に頭を垂れて、低いところに身をかがめなくては、他者の足を洗うことはできません。身をかがめて足を洗っている間、自分自身は全くの無防備な状態になります。すべてを相手に委ねる姿勢です。

 2019年4月、アフリカの南スーダンで続く内戦状態の平和的解決を求めて、教皇様は南スーダンで対立する政府と反政府の代表をバチカンに招待されました。その席上で、教皇様は突然、対立する二つの勢力のリーダーたちの面前で跪き、身を低くかがめ、両者の足に接吻をされました。

 この教皇様の姿は、弟子の足を洗う主ご自身の姿そのものでありました。暴力による対立ではなく、対話による解決を求めて、互いに信頼を深め、互いに無防備な状態になって、連帯のうちに支え合う道を見いだして欲しい、という、教皇様の強い願いの表れでありました。互いに足を洗い合うものであって欲しいという、教皇様の願いの表れでありました。

 今の世界で求められているのは、対立することではなく、互いに身をかがめあい、相手に信頼して身を委ね、足を洗う姿勢ではないでしょうか。

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 福音はその後に、「私があなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのだ」という主イエスの言葉を記しています。主に従うことを決意した私たちの人生の歩みは、キリストに倣って生きるところに始まり、キリストの死と復活を通じて永遠の命への道をたどり、キリストによって、キリストとともに、キリストの内に歩み続ける道程です。

 最後の晩餐で、聖体の秘跡が制定されたことを、パウロはコリントの教会への手紙に記しています。聖木曜日主の晩餐のミサは、御聖体の秘跡の大切さについて、改めて考える時であります。

 第二バチカン公会議の教会憲章には、次のように記されています。

 「(信者は)キリスト教的生活全体の源泉であり頂点である聖体のいけにえに参加して、神的いけにえを神にささげ、そのいけにえとともに自分自身もささげる。・・・さらに聖体の集会においてキリストの体によって養われた者は、この最も神聖な神秘が適切に示し、見事に実現する神の民の一致を具体的に表す(11項)。」

 またヨハネパウロ二世は、「聖体は、信者の共同体に救いをもたらすキリストの現存であり、共同体の霊的な糧です。それゆえそれは教会が歴史を旅するうえで携えることのできる、最も貴重な宝だと言うことができます」と述べて(回勅『教会にいのちを与える聖体』)、御聖体の秘跡が、個人の信仰にとってもまた教会共同体全体にとっても、どれほど重要な意味を持っているのかを繰り返し指摘されます。

 教皇ヨハネパウロ二世は、回勅「教会に命を与える聖体」で、「教会は聖体に生かされています。この『命のパン』に教会は養われています。すべての人に向かって、たえず新たにこのことを体験しなさいと言わずにいられるでしょうか(7)」と述べておられます。

 私たちイエスによって集められているものは、主ご自身の現存である聖体の秘跡によって、力強く主と結び合わされ、その主を通じて互いに信仰の絆で結び合わされています。私たちは、御聖体の秘跡によって生み出される絆において、共同体でともに一致しています。

 御聖体において現存する主における一致へと招かれている私たちは、パウロが述べるように、「このパンを食べこの杯を飲む度ごとに、主が来られる時まで、主の死を告げ知らせる」務めがあります。私たちは、聖体祭儀に与るたびごとに、あの最後の晩餐に与った弟子たちと一致して、弟子たちが主から受け継いだ主の願いを同じように受け継ぎ、それをこの世界において告げ知らせていかなくてはなりません。世界に向かって福音を宣教する務めを、私たち一人ひとりが受け継いでいくことが求められています。主の生きる姿勢に倣って、身をかがめ足を洗いあう姿勢であることが求められています。

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 教皇フランシスコは、回勅「兄弟のみなさん」の中に、こう記しておられます。

 「愛は最終的に、普遍的な交わりへと私たちを向かわせます。孤立することで、成長したり充実感を得たりする人はいません。愛はそのダイナミズムによって、ますますの寛容さ、他者を受け入れる一層の力を求めます(95項)。」

 私たちの福音宣教は、まず私たちの日々の生活の中での言葉と行いを通じて、福音を告知することに始まります。福音の告知は、直接に福音を語ることではなく、言葉と行いを通じた証しです。

 しかし、私たちに求められている福音宣教は、そこに留まるものではありません。私たちの内に宿る神の愛は、「普遍的な交わりへ、と私たちを向かわせ」るからであります。教会共同体における交わりへと、多くの人が招かれるようにすることは、神の愛が注がれているすべての命が、十全に生きられるようにするために必要です。

 教皇パウロ六世は使徒的勧告「福音宣教」において、「よい知らせを誠意を持って受け入れる人々は、その受容と分かち合われた信仰の力によって、イエスの名のもとに神の国を求めるために集まり、神の国を建て、それを生きます(13項)」と述べておられます。

 御聖体の秘跡にあずかることは、個人的なことではありません。御聖体を通じて、キリストによって、キリストと共に、キリストの内に歩み続ける私たちには、身をかがめ他者の足を洗う姿勢が求められ、福音を言葉と行いで証しすることが求められ、教会共同体における交わりに多くの人を招き入れることが求められています。難しいことです。どうすれば良いか悩みます。しかし、そこには常に、主ご自身が私たちと共におられ、導いてくださっています。

 御聖体の秘跡の内に主が現存されている、という神秘を、聖体祭儀を通じて、改めて心に刻み、共におられる主から力をいただきましょう。

(菊地功=きくち・いさお=東京大司教、日本カトリック司教協議会会長)

(編集「カトリック・あい」=表記は当用漢字に統一、聖書の引用は「聖書協会・共同訳」にさせていただきました)

2023年4月7日

・「すべての命が救いに与るように願う御父の御旨が成就するように」菊地大司教の受難の主日ミサ説教

2023年4月 2日 (日) 2023年受難の主日@東京カテドラル

 聖週間が始まりました。

336727023_599136092252529_70286848174796 2日は午前10時から関口教会の受難の主日のミサを、東京カテドラル聖マリア大聖堂で司式いたしました。そろそろ皆で集まることができつつあり、今日も大聖堂は定員まで一杯でしたが、以前のようにルルドからの行列を皆でするには、多少の躊躇が残ります。

 会衆のみなさんには聖堂内の席に留まっていただき、司祭団と、信徒の代表の方で、正面入り口からの入堂行列をいたしました。

 以下、本日のミサの説教原稿です。

【受難の主日 東京カテドラル聖マリア大聖堂(配信ミサ)2023年4月2日】

 熱狂は燃え立つ炎ですが、炎が燃えさかったあとに残されるのは、風に散らされる灰でしかありません。感動は水のように心に染み渡り、様々な感情を司る心の土台に深く刻み込まれ、時間を超えて残されていきます。

 四旬節を通じて霊的な回心の道程を歩んできた私たちは、受難の主日の今日から、聖週間を過ごし、十字架へと歩みを進められた主の心に思いをはせ、主と共に歩み続けます。その聖週間の冒頭で、主イエスのエルサレム入城が朗読され、そしてミサの中では主の受難が朗読されました。

 世界を支配される真の王は、立派な馬に乗って華々しくエルサレムに入城するのではなく、小さなロバに乗っ336946965_172934302283490_50662046128943て歩みを進めました。この王を群衆は、熱狂のうちに迎えます。群衆は熱狂に支配されています。熱狂は、時として心の目を塞いでしまいます。立派な馬に乗って従者を従えて華々しく入城する王なのではなく、ロバに乗って人々と共に入場するイエスの姿を見つめる群衆は、その心の目が熱狂に支配され、イエスが生涯を懸けて伝えた神の福音の真髄がロバに乗った謙遜な姿に凝縮されていることに気が付きません。

 心は自分たちの勝手な思いに支配されているからです。ですから福音の終わりに、群衆が「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と、見当外れのことを言い募る姿が記されています。もちろん神の子であるイエスは、単なる一地域に限定された一預言者ではなく、世界を支配する王であるキリストです。しかし、熱狂に支配された心の目には、この本当の姿が見えることはありません。

 一時的な熱狂は、炎のように燃え盛り、そこに灰が残されるだけであるように、イエスを熱狂のうちに迎えた群衆は、その数日後に、イエスを十字架につけるように要求する熱狂した群衆へと変身していきます。再び人々の心の目は、扇動された熱狂に支配され、そこにたたずんでいるのが、世界を支配する真の王であるキリストであることが分かりません。「十字架につけよ」と要求する人々の熱狂は、暴力的な力を生み出し、イエスを汚い言葉でののしり、死へと追いやります。

337042364_186684703682395_73899508492352 目の前の存在を、その人を見ることなく、自分が心に描いた勝手なイメージに支配されているのです。熱狂に支配された目には、自分の勝手な思いが生み出したイメージしか写りません。冷静になることもなく、思い込みでさらに興奮しながら、熱狂が生み出した暴力的な力に身を委ねます。その心の目には、目前に静かに苦しみを耐えながら、ただずまれる神の姿が見えていません。

 福音の終わりに、象徴的な言葉が記されています。一連の出来事を目の当たりにした百人隊長は、起こった出来事に恐れを感じることで、初めて熱狂から冷めやり、目の前の存在をしっかりと見ることができました。そこに初めてすべてを超越する神の存在を見出した彼は、大きな感動と共に、「本当に、この人は神の子だった」と言葉を発します。

 神との出会いを求める私たちこそは、この群衆のように熱狂に支配されて、熱狂が生み出す暴力的な力に身を委ね、自分の思い描くイメージを求めて過ちを犯すのではなく、実際に私たちと共にいてくださる目の前の主ご自身を、心の目で見つめる者でありたいと思います。熱狂から解放されて、暴力的な力から解放され、主ご自身との出会いに心の感動を求める者でありたいと思います。

 世界はいま暴力に支配されているかのようであります。容易に熱狂によって支配され、熱狂が生み出す暴力に簡単に身を委ねる世界であります。もちろん、スポーツなど健全な熱狂は、喜びや希望を生み出す源の一つとなり得ますが、同時に熱狂から生み出される力は、容易に利己的な思いと結びつき、簡単に暴力的な力へと変貌します。

 この3年間、感染症によって暗闇の中をさまよう中、私たちは恐れと共に、同時に熱狂していました。情報が拡散する手段が変わってしまったのです。インターネットは世界を狭い場所にして、あっという間に情報が共有できるようにしました。

 インターネットによる情報の拡散は、時にイエスをエルサレムに迎え入れた群衆を支配したような熱狂で、世界を包み込む力を持っています。善と悪の対立のような単純な構造の中で、すべてが決まっているかのような論調で他者を裁くとき、その裁きはネットから力を得て、あっという間に熱狂を生み出します。

 その裁きに基づく熱狂は、自分勝手なイメージを増幅し、そのイメージに支配される心の目は、そこに生身の人間の存在があることを、賜物であるいのちを生きている神から愛される人間の存在があることを、人の心があることを、見えなくしてしまいます。時としてその熱狂は、イエスを十字架の死に追いやったように、暴力的な負の力を持って賜物である命を破滅へと追いやることさえあります。主は、私たちの目の前に静かにただずまれているのに、私たちの心の目はそれを見ていません。

 私たちは何を見ているのでしょうか。私たちの姉妹教会であるミャンマーの人々が、2年前のクーデターのあと、今に至るまで、どれほど翻弄され、命の危機に直面しているのか。ウクライナで続いている戦争のただ中で、どれほど多くの人がいのちの危機に直面し、恐怖の中で日々の生活を営んでいることか。

 私たちは何を見ているのでしょうか。新型コロナの大感染による経済の悪化で職を失った人たち、経済の混乱や地域の紛争の激化によって住まいを追われ、家族とその命を守るために母国を離れ移り住む人たち。思想信条の違いから迫害され差別され、命の危機に直面する人たち。異質な存在だからと、共同体から、そして社会から排除される人たち。一人ひとりは、すべて、そこに存在する、賜物である命を生きているかけがえのない神の似姿です。

 私たちが目の当たりにしているのは、熱狂が生み出した力が、暴力として命に襲いかかる現実です。

 熱狂の力が生み出す暴力が支配するとき、一人ひとりは抽象的な存在となり、具体性を失って忘れ去られていきます。でも、そこには、一人ひとりの顔を持った人がいるのです。心を持った人がいるのです。命を生きる人がいるのです。そのすべての命を、神は救いに与らせるために、十字架への道を歩まれました。

 私たちは、その神の深い悲しみと慈しみの思いに触れるとき、あの日の群衆のように熱狂によって生み出された暴力的な力に支配されてはなりません。目の前にいる、一人ひとりの存在に目を向け、その心を思い、神が与えられた賜物である命を、心の目でしっかりと見つめなくてはなりません。思いやりではないのです。優しさではないのです。そこに神がおられるからに他なりません。私たちは、主ご自身を探し続け、主との出会いを求め続ける者だからに他なりません。すべての命が救いに与るように願う御父の御旨が成就するように、私たちの力を尽くさなくてはならないからに他なりません。私たちの務めです。

 この一週間、十字架の苦難と死と復活に向かって歩み続ける主と共に、私たちも歩み続けましょう。

(菊地功=きくち・いさお=東京大司教、日本カトリック司教協議会会長)

(編集「カトリック・あい」)

2023年4月2日

・「人と共に、人のために苦しむことが私たちに求められている」四旬節第五主日の菊地大司教メッセージ

2023年3月25日 (土)週刊大司教 第119回

334557289_199924155994901_21806034556209 四旬節も終盤となりました。

 今年は3月26日が四旬節第5主日で、年度が明けて4月に入ると最初の日曜日4月2日が受難の主日となり、聖週間です。そして復活の主日は4月9日となります。

 例年通り、受難の主日午前10時、聖木曜日、聖金曜日、聖土曜日午後7時は、関口教会で大司教司式ミサです。またそれに併せて、次の二回の土曜日、すなわち4月1日と4月8日は、週刊大司教の配信をお休みにします。

 週刊大司教の次回、120回目は4月15日の配信です。また関口教会の聖週間のミサは、すべてYoutubeの関口教会のチャンネルから配信されます。

 また聖木曜日の午前10時半には聖香油ミサが東京カテドラル聖マリア大聖堂で行われます。入堂制限は基本的にはありませんが、定員以上の収容はできませんので、状況によっては入堂をご遠慮いただく場合もあり得ることを、事前にご承知おきください。

 以下、25日午後6時配信の、週刊大司教第119回、四旬節第五主日のメッセージ原稿です。

【四旬節第五主日A 2023年3月26日】

 ヨハネ福音はラザロの死と復活の話を記しています。主こそが命の与え主であり、復活であり、永遠の命であることを、信仰において私たちに再確認させる福音の奇跡物語です。この数年のように、新型コロナウイルスの世界的大感染によって命の危機に直面してきた私たちも、マルタやマリアのように「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と叫びたい気持ちです。

 新型コロナウイルスの世界的大感染は、私たちに、すべての命を守るためには、自分の身を守ることだけではなく、同時に他者の命にも心を配る思いやりが必要なのだ、ということを思い起こさせています。すなわち、すべての命を守るための行動は、社会の中での連帯と思いやりを必要としています。

 教皇ベネディクト十六世は、回勅「希望による救い」の中で「苦しみは人生の一部」だ、と指摘されています。苦しみは、希望を生み出す力であり、人間が真の神の価値に生きるために、不可欠な要素です。苦しみは、神が私たちを愛されるが故に苦しまれた事実を思い起こさせ、神が私たちを愛して、この世で苦しむ私たちと歩みを共にされていることを思い起こさせます。

 本日の福音で、イエスは愛する友人であるラザロの死という苦しみと悲しみを通じて、初めて神の栄光を目に見える形で表します。

 そのイエスご自身が、自ら受難の道へと足を進められ、十字架上で命をささげられます。しかしその自己犠牲こそは、「永遠の命への復活」という栄光を生み出す苦しみでありました。

 この数年間、闇の中をさまよってきた私たちは、「命を守るための行動」をすることの必要性を痛感し、自分の身を守ることだけではなく、社会の中での連帯と思いやりの重要性に気付かされました。こういった気付きは、残念ながら、危機的状況が去ってしまうと、あっという間に忘れ去られてしまいます。

 今回の事態で、病気に苦しむ人、病気との闘いに苦しむ人、経済の悪化で苦しむ人、雇用を失う人。様々な状況で、命の危機に直面する人たちが社会には存在することでしょう。私たちには今、思いやりとともに「人と共に、人のために苦しむこと。真理と正義のために苦しむこと。愛ゆえに、真の意味で愛する人となるために苦しむこと」を生き抜くことが求められています。

(菊地功=きくち・いさお=東京大司教、日本司教協議会会長)

(編集「かとりっく・あい」)

2023年3月25日

・「人間の思いが生み出した枠を捨て、主をまっすぐ見つめる」菊地大司教の四旬節第四主日メッセージ

2023年3月18日 (土)週刊大司教第118回:四旬節第四主日A

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 四旬節も第四主日となりました。

 学校などの年度末の季節でもありますから、叙階式が各地で行われています。東京においては、先週の土曜日がイエズス会でお二人の助祭が誕生し(下の写真)、次の火曜日3月21日には、東京教区が二名、コンベンツアル会が二名、レデンプトール会が一名、パウロ会が一名と、六名の司祭が東京カテドラル聖マリア大聖堂で誕生する予定です。

 叙階式の模様は、いつものようにカトリック関口教会のyoutubeチャンネルから配信されますので、お祈りください。

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 また、私の出身母体でもある神言修道会も、18日土曜日に名古屋で司祭と助祭の叙階式が行われ、二名の司祭と三名の助祭が誕生しました。助祭のうちの一人、ファビオ神学生は、関口教会で一年間司牧実習をされたことがありました。

 また司祭叙階を受けた傍島神父様は、神学生時代にガーナで海外研修をされました。後に続く神学生が誕生するように、皆様のお祈りをお願いいたします。

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 本日、土曜日の午後には、東京教区の宣教司牧評議会の定例会がケルンホールで開催され、各宣教協力体からの代表が参加されました。

 今回は特に安房・上総宣教協力体から千葉県の教会に焦点を当て、また京葉宣教協力体から葛西教会の滞日外国人とのかかわりに焦点を当てて、お話をしていただき、それに基づいて、小グループでの分かち合いを行いました。

 以下、18日午後6時配信の週刊大司教第118回、四旬節第四主日のメッセージ原稿です。

四旬節第四主日A 2023年3月19日

 ヨハネ福音は、イエスが安息日にシロアムの池で、生まれつき目の見えない人の視力を回復するという奇跡を行った話を記しています。

 この物語には、「見える」と言うことについて二つの側面が記されています。それは、実際に目で見ることと心の目で見ることの違いです。

 それを象徴しているのは、今日の福音の終わりに記されている、目が見えるようになった人とイエスとの会話です。視力を回復した人には当然イエスの姿が見えていますが、それでもなおその人は、「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」とイエスに問いかけます。目の前に神の子は立っているにもかかわらず、見えても見えないのです。その心に向かってイエスは語りかけます。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ」。

 心の目を開かれたこの人は、「主よ信じます」と信仰を告白します。

 見えているのに見えない状態とはどのようなことなのか。福音はその少し前に、ファリサイ派の人たちと視力を回復した人とのやりとりを記しています。奇跡的出来事が起こったからこそ、この人を呼び出したにもかかわらず、ファリサイ派の人たちは、自分たちが作り出した枠を通してしか物事を見ることができていません。その枠からはみ出すものは、存在しないのです。

 ですから逆に、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と、いまの言葉で言えば逆ギレしたかのように裁きます。私たちは、自分の価値観に基づいた枠を作り出し、それを通じてのみ現実を知ろうとします。

 同様なことがサムエル記に記されています。ダビデの選びです。預言者サムエルに、「人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」と神は語りかけます。

 今年の四旬節メッセージでシノドスの歩みに触れた教皇様は、こう記されています。

 「四旬節のためのもう一つの道しるべです。それは、現実と、そこにある日々の労苦、厳しさ、矛盾と向き合うことを恐れて、日常と懸け離れた催しや、うっとりするような体験から成る宗教心に逃げ込んではならない、ということです」

 人間の思いが生み出した枠を通じてのみ現実を見つめることも、また、宗教に逃げ込むことにつながります。私たちは、心に語りかける主の声に耳を傾け、枠を捨てて主ご自身をまっすぐに見つめるように招かれる主に信頼し、主とともに歩んでいきたいと思います。

2023年3月18日

・「命を守り、人間の尊厳を守る教会の務めに終わりはない」-菊地大司教・四旬節第三主日メッセージ

2023年3月11日 (土)週刊大司教117回:四旬節第三主日A

2021_01_20_img_0319-2 東北の地を巨大な地震と津波が襲って、今日で12年となりました。改めて亡くなられた方々の永遠の安息を祈ります。また東北の地の日々の歩みを、命を生み出し、すべてを創造された御父の愛と慈しみに満ちあふれた御心が、守り導いてくださるようにと、改めて祈ります。

 日本の教会全体としての復興への取り組みは、10年をもって一区切りをつけましたが、現在でも、東北の各地で、復興の歩みの中で築き上げられた結びつきが、全国に広がって絆のように固く結ばれ、ともに歩む道程は続いています。考えてみれば、今、世界全体で教会が取り組んでいる”シノドスの道”の歩みは、東北の地では12年前から具体的に実践されていた、と言えるのかも知れません。その12年のあゆみを、ローマでのシノドス(世界代表司教会議)に伝えることができれば、と思います。

 なお11日午後2時から、聖イグナチオ麹町教会で、イエズス会の助祭叙階式が行われ、森晃太郎さんと渡辺徹郎さんのお二人のイエズス会士が助祭に叙階されました。おめでとうございます。この機会に、さらに司祭・修道者の召命のために祈りましょう。

 以下、本日午後6時配信の週刊大司教第117回、四旬節第三主日のメッセージ原稿です。

【四旬節第三主日A 2023年3月12日】

 ヨハネによる福音は、のどの渇きを癒す水について話すサマリアの女に対して、自らの存在がもたらす永遠の命について語るイエスの言葉を記します。

 「私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」

 永遠の命に至る水を与える、と語る主イエスに従う教会は「命の福音」を語り続けます。人間の命は、神から与えられた賜物であるが故に、その始まりから終わりまで例外なく守られ、神の似姿としての尊厳は尊重されなくてはならない、と教会は主張し続けます。

 教皇ヨハネパウロ二世は、人間のいのちを人間自身が自由意思の赴くままに勝手にコントロールできるのだという考えは、いのちの創造主である神の前での思い上がりだと戒めながら、社会の現実を「死の文化」とよばれました。そして教会こそは、蔓延する死の文化に対抗して、すべての命を守るため、「命の文化」を告げ知らせ、実現しなければならない、と強調されました。

 教皇ヨハネパウロ二世は、回勅「命の福音」に、「『殺してはならない』というおきては、人間の命を尊び、愛し、守り育てるといった、いっそう能動的な観点においても、一人ひとりに拘束力を持っています」と記しています。

 キリストに従う私たちの心には、「人間のいのちを尊び、愛し、守り育て」よという神の声が響き渡ります。私たちは、キリストの与える命の水を、この世界の現実の中で分け与えるものでなくてはなりません。

 先日3月10日は、「性虐待被害者のための祈りと償いの日」でした。率先して命を守り、人間の尊厳を守るはずの聖職者や霊的な指導者が、命に対する暴力を働き、人間の尊厳をないがしろにする行為を働いた事例が、相次いで報告されています。被害を受けられた方々に長期にわたる深い苦しみを生み出した聖職者や霊的指導者の行為を、心から謝罪いたします。

 教会全体として対応を進めていますが、命を守り、人間の尊厳を守るための務めに、終わりはありません。聖職者をはじめ教会全体の意識改革などすべきことは多々あり、教会の取り組みもまだ十分ではありません。ふさわしい制度とするため、見直しと整備の努力を続けてまいります。

 教会が命の水を生み出し分け与える存在となるように、これからも共に務めて参りましょう。

(菊地功=きくち・いさお=東京大司教、日本カトリック司教協議会会長)

(編集「カトリック・あい」=表記は、当用漢字表記に統一してあります)

2023年3月11日

・「牧者の声を聞き逃すことのないように、互いに助け合って”シノドスの道”を歩もう」菊地大司教、四旬節第二主日メッセージ

(2023年3月 4日 (土)週刊大司教第116回

 四旬節第二主日となりました。毎年、四旬節には教皇様のメッセージが発表され、カリタスジャパンからの献金の呼びかけと一緒に、カレンダーなどとして送付されてきました。今年は、担当する総合人間開発省からのメッセージ発表がずれ込み、翻訳が間に合わずに、四旬節が始まってからの邦訳発表となりました。

 四旬節第二週の金曜日は、教皇様の指示に従って、「性虐待被害者のための祈りと償いの日」と定められています。これについては、後日、別途触れたいと思います。なお司教協議会会長として発表したメッセージがあります。東京教区では、この金曜日、またはその直後の日曜日に、教皇様の意向に合わせてミサを捧げます。私も関口教会の主日ミサを司式します。

 以下、本日午後6時配信の週刊大司教第116回、四旬節第二主日のメッセージ原稿です。

 【四旬節第二主日A 2023年3月5日】

 創世記は、アブラムに対して、新しい土地へ出向いていくように、と呼びかける主の言葉、すなわち、「生まれ故郷、父の家を離れて、私が示す地に行きなさい」を記しています。 「生まれ故郷、父の家」とは、住み慣れた安心のできる場、いわば安住の地です。だが、「私が示す地」とは、いったいどこなのか、詳しいことは全くアブラムには知らされていません。一体この先どうなるのだろうかと、大きな不安があったことだと思います。

 しかしアブラムは、「主の言葉に従って旅だった」と記されています。主の呼びかけに信頼して、未知の旅路へと歩みだし決断は、神への信仰に基づいていました。 パウロはテモテへの手紙で、神が私たちを呼ばれているのは、「私たちの行いによるのではなく、ご自身の計画と恵みによる」のだと記しています。歩み始める旅路の主役は私たちではなく、主ご自身であるのだから、主の計画と恵みに身を委ねよ、という呼び掛けです。

 教皇フランシスコは、使徒的勧告「福音の喜び」において、「出向いていきましょう。すべての人にイエスの命を差し出すために出向いていきましょう」と呼びかけます。私たちもアブラムのように、またパウロが述べるように、主の計画と恵みに身を委ねて旅立たなくてはなりません。

 それでは私たちが身を委ねるべき神の計画はどこにあるのか。その神の計画は、福音書にあるように、御父が「私の愛する子、私の心に適うもの、これに聞け」と言われた御子イエスの言葉と行いによって、私たちに明示されています。弟子たちの前での御変容を通じて、神はイエスこそ神の子であり、その言葉と行いに神の栄光があることを、明示されました。

 教会は今、”シノドスの道”を歩んでいます。先週末には、アジアの大陸別シノドスも開催されたところです。連帯のうちに共に歩み続ける神の民は、主の計画と恵みに身を委ねるために、やみくもに歩き続けるのではなく、聖霊の導きを常に識別しなくてはなりません。そのためにも、共同体での祈りが必要です。互いの声に耳を傾け、共に祈り、ともに支え合う姿勢が大切です。 私たちは「神の民、その牧場の群れ」であります。牧者の声を聞き逃すことのないように、互いに助け合いましょう。

2023年3月4日

・「私たちは御聖体、御言葉の絆の中で一致へと招かれている」菊地大司教の四旬節第一主日メッセージ

2023年2月25日 (土)週刊大司教第115回:四旬節第一主日A

 四旬節が始まりました。第一主日には、多くの小教区で、今年の復活祭に洗礼を受ける準備をされている方の、洗礼志願式が行われたことだと思います。まだ次の日曜以降に行われる小教区もあるでしょう。四旬節は、一人ひとりの回心のときであると共に、教会共同体として、洗礼の準備をしている方々と歩みをともにする時でもあります。 

 「歩みを共にする」というと、実際に何かをしなければ、とお考えになるやも知れません。確かに直接に関わる方も、カテキスタだったり、代父母となる方だったり、司祭だったりと、いろいろ通られることでしょうが、そうではない多くの方も、祈りを持って歩みを共にすることができます。志願者は、四旬節を通じて、教会共同体の祈りに支えられながら、洗礼への道を歩み続けます。

 ちょうど今週末は、アジアの大陸別シノドスが、バンコクで開催されています。前後に移動日を加えますが、会議自体は24日から26日までの日程です。ここから10月のローマでの会議へとつながっていきます。これについては別途、現地からお知らせします。参加者のためにお祈りください。 以下、25日午後6時配信の週刊大司教第115回目、四旬節第一主日のメッセージ原稿です。

【四旬節第一主日A 2023年2月26日】

 四旬節は、私たちが信仰の原点を見つめ直し、慈しみに満ちあふれた御父の懐に改めて抱かれよう、と心を委ねる、回心の時です。創世記に記されているように、自由意志を与えられた人間は、自らの選択によって罪を犯し、パウロが記すように、「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するように」なりました。しかし、一人の人、すなわちイエスの「従順によって多くの人が正しい者とされ」、神からの恵みと賜物に豊かに満たされるようになりました。

 四旬節は、このあふれんばかりの神の愛、すなわち、人類の罪を贖ってくださった主ご自身の愛の行動を思い起こし、それによって永遠の命へと招かれていることを心に刻み、その愛の中で生きる誓いを新たにする時です。そのために教会の伝統は、四旬節において「祈りと節制と愛の業」という三点をもって、信仰を見つめ直すよう呼びかけています。また四旬節の献金は、教会共同体の愛の業の目に見える記しでもあります。この四十日の間、互いに支え合う心をもって、愛の業の内に歩み続けましょう。

 福音は主イエスが、その公生活を始めるにあたり40日の試練を受けられた、と記しています。この試練の中で、イエスは三つの大きな誘惑を受けたと、福音に記されています。

 まず空腹を覚えた時に、石をパンにせよとの誘惑。それは人間の本能的な欲望や安楽・安定ににとどまることへの内向きな願望です。次にすべての権力と繁栄を手にすることへの誘惑。それは権力や繁栄という現世的で利己的で排他的な欲望です。そして、神に挑戦せよ、との誘惑。それは自分こそがこの世界の支配者であるという謙遜さを欠いた思い上がりの欲望です。

 考えてみれば、その中味に大小の違いはあっても、私たちの人生はこういった欲望に支配されることの連続です。悪魔からの誘惑とは、神から離れる方向へと人をいざなう、さまざまな負の力のことです。そしてその誘惑は、実は、外からやってくるものではなく、結局のところ、私たち一人ひとりの心の中から生み出されています。他者へと目を向けず、徹底的に利己的かつ自己中心的になることへの誘惑です。

 この困難な時期、教会共同体において、御聖体や御言葉の絆でつながっている兄弟姉妹に思いを馳せ、その絆の中で一致へと招かれていることを改めて思い起こしましょう。

2023年2月25日

・「互いの命の尊厳を尊重しないところに神の正義はない」-菊地大司教、四旬節メッセージ

2023年2月22日 (水)四旬節のはじめにあたり

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 22日は灰の水曜日となり、関口のカテドラルでは朝のミサに加えて夜7時からのミサを大司教司式のミサとしてささげます。なおこの夜7時の灰の水曜日のミサは、関口教会のYoutubeチャンネルから、ご覧いただくこともできます。また同チャンネルでは、過去の関口教会ミサ映像も見ていただくことができます

 四旬節の始めにあたって、メッセージをビデオで公開しております。以下、メッセージ本文です。

2023年 四旬節の始まりにあたって

 四旬節が始まりました。毎日の時間はあっという間に過ぎ去り、様々なことに翻弄される生活の中で、教会は典礼の暦を用意して、立ち止まり、神とともに時間を過ごすことを勧めています。

 生活の現実の中で様々な決断を繰り返し行動する中で、神に向かってまっすぐ歩みを進めるはずの道からそれ、あらぬ方向を向いてしまっている私たちの心の軌道修正の時が四旬節です。

 毎年、四旬節は灰の水曜日で始まります。灰を頭に受け、人間という存在が神の前でいかに小さなものなのか、神の偉大な力の前でどれほど謙遜に生きていかなくてはならないものなのか、心に刻みたいと思います。

 司祭は、「回心して福音を信じなさい」、または「あなたはちりでありちりに帰っていくのです」と唱えます。前者は、四旬節の持っている意味、つまりあらためて自分たちの信仰の原点を見つめ直し、神に向かってまっすぐに進めるように軌道修正をするということを明示しています。後者は、神の前で人間がいかに権勢を誇ろうとも、小さなむなしい存在であることを自覚して謙遜に生きるようにと諭す言葉です。

 世界は今、人間の傲慢さにあふれかえっています。すべてを決定するのは人間だと思い込んでいます。しかしそれは幻想です。私たちは賜物である命を与えられたものとして、神の前に謙遜になり、神の導きを識別しながら歩み続けなくてはなりません。

 神の前での謙遜さは、同じ命を与えられた隣人の存在を尊重し、互いに支え合いながら歩むことを私たちに求めます。世界を今支配する暴力による敵対の誘惑を乗り越え、ともに助け合いながら道を歩みたいと思います。互いの命の尊厳を尊重しないところに、神の正義はありません。

 四旬節はまた、信仰の原点に立ち返る時として、洗礼を志願する人たちも歩みを共にし、復活祭に洗礼を受ける準備をするように勧められています。このことから四旬節第一主日には、その年の復活祭に洗礼を受けるために準備をしてきた方々の洗礼志願式が、多くの小教区で行われます。四旬節は、自らの信仰を見つめ直すとともに、洗礼への準備をする方々を心に留めて祈りをささげましょう。

 ウクライナの地を戦争という暴力が支配して一年となります。姉妹教会であるミャンマーの状況の不安定なままです。いのちが守られるように、平和を祈りましょう。四旬節にあたり、自分が信じている福音に従って生きるとはどういうことなのか、イエスの呼びかけに従って生きるとはどういうことなのか、祈りと黙想のうちに考える時にしたいと思います。

(菊地功=きくち・いさお=東京大司教、カトリック司教協議会会長)

2023年2月24日

・「悪で生じた空白を善なる行いで満たす者」に‐菊地大司教の年間第7主日メッセージ

2023年2月18日 (土) 週刊大司教第114回:年間第7主日

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 2月13日から16日まで、定例の司教総会が、東京江東区の潮見にあるカトリック中央協議会で行われました。

 司教協議会(日本での法人の組織名が「カトリック中央協議会」で、教会での組織的な位置づけは「日本カトリック司教協議会」)の会計年度が1月から12月ですので、毎年この時期には法人としての決算報告を総会で承認することになります。司教団の会議では、宗教法人としての議題と、部分教会の司教団としての議題の両方が取り扱われます。

 今回は、先に行われた若年教区司祭の研修会の報告などいくつかの報告事項と、決算以外にも、現在見直し作業が進められている日本語の典礼式文についての議題や、今後の司教協議会の委員会構成の見直しなどが取り上げられました。

 特に委員会構成では、「広報出版情報提供関連の一元化」や「青少年との関わり」、「福音宣教」に関連する組織の充実が必要、との認識で一致しました。議案以外にも一日を費やして、宗教活動に関連する法律の改定やカルト問題について学びを深め、間もなく開催されるアジアの大陸別シノドスの準備として、学びとともに具体的な分かち合いも行われました。

 なお中央協議会から、今回の司教総会を短く紹介するビデオが配信されています。こちらのリンクからYoutubeでご覧いただけます。

 いつものお願いなのですが、どうか、私たち司教が与えられた牧者としての務めをふさわしく果たすことができるように、皆様のお祈りください。

 以下、18日午後6時配信の年間第7主日のメッセージ原稿です。

【年間第7主日A 2023年2月19日】

 マタイ福音は山上の垂訓からの続きの部分で、敵に対する愛について述べるイエスの説教を記しています。「誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」という言葉は、よく知られていると同時に、あまりにも現実離れした考え方だ、と感じられる言葉でもあります。

 しかしそれは、「隣人を愛し、敵を憎め」という掟と同様、「目には目を、歯には歯を」という人間の常識から当たり前の掟を否定する言葉であり、その理由は、「正しい者にも正しくない者にも」太陽を昇らせ雨を降らせてくださる天の父、命の与え主である「天の父の子」になるためだ、とイエスは語ります。

 教皇フランシスコはこの箇所を、「キリスト教的な『変革』を最もよく表す箇所の一つ」と指摘し、「真の正義への道を私たちに示す言葉」であると述べています(2017年2月19日一般謁見)。

 教皇は「イエスは悪を辛抱するのではなく、それに対して行動するよう弟子たちに求めています。しかし悪に悪で返すのではなく、善い行いによって返すのです。これは、悪の連鎖を打ち破る唯一の方法です。この悪の連鎖が打ち破られると、物事は本当に変わり始めます」と述べて、私たちが「善の欠如である悪の状態」を改善するために、善をもってその空白を満たす以外に道はない、と積極的な行動を呼びかけます。

 同時に教皇は、「単に暴力を我慢することが求められているのではなく、正義を追求することを辞めてはならない」として、こう述べています。

 「イエスは『正義』と『報復』をはっきり区別するよう、私たちに教えています。正義と報復を見分けるのです。『報復』が正しいことは決してありません。私たちは『正義』を求めることができます。『正義』を行うことは私たちの責務です」

 私たちはしばしば、神に成り代わっているかのように他者を裁き、排除し、時に悪の行為を返してしまいます。裁いたり罰を与えようとする私たちは、いったい何者なのでしょうか。神の正義を追求し、それが確立されることを目指す者は「悪によって生じた空白を、善なる行いをもって満たす者」でありたい、と思います。

(菊地功=きくち・いさお=東京大司教)

(編集「カトリック・あい」)

2023年2月18日

・イエスは私たちに「いかに生きるか」を問われるー菊地大司教の年間第6主日メッセージ

2023年2月11日 (土)週刊大司教第113回:年間第6主日

2023_02_05_003 2月11日は「世界病者の日」です。毎年、この日には、午前中にボーイスカウトなどカトリックのスカウト東京連盟のBP祭のミサが東京カテドラル聖マリア大聖堂で行われ、午後には世界病者の日のミサが、同じくカテドラルで捧げられました。病者の日のミサの説教は、別途掲載します。

 来週は月曜日から定例の司教総会が行われます。全国の司教が集まります。司教たちのためにお祈りをお願いいたします。

 安次嶺神父様の葬儀ミサについても別途掲載します。また東京教区から公示されていますが、フィリピンで引退生活を営んでおられた東京教区の司祭ヨハネ満留功次神父様が帰天されました。現地で火葬され葬儀ミサがすでに執り行われました。後日、ご遺骨は東京で引き取り、府中墓地に埋葬するのに合わせて追悼ミサを行います。

 以下、11日午後6時配信の週刊大司教第113回、年間第6主日のメッセージ原稿です。

【年間第6主日A 2023年2月12日】

 マタイ福音は、イエスご自身の存在と律法や預言者、すなわち旧約聖書との関係を語ります。イエスは旧約の掟や預言と無関係ではなく、イエスがもたらす神の国は旧約に記されていることを完成すると、イエスご自身が述べておられます。

 律法は「殺すな」と定めています。しかし、イエスはさらにその根本にまで立ち入り、「腹を立てるものは誰でも裁きを受ける」と指摘します。すなわち、掟は様々な枠を定めることで、その枠と、どのように折り合いをつけて生きるのかという、いわば処世術と表裏一体の関係を生み出すのですが、イエスはそもそも根本にある「私たちは、いかに生きるか」という、生きる姿勢を問いかけます。

 つまり掟は、「どこまでなら許されるか」の枠組み基準ではなく、「いかに生きるか」を生み出す基礎となるべきものです。問題は、「掟をすべて守り、完全な者となるか」ではなく、「いかに生きるのか」であることは、福音の他の箇所、例えば金持ちの善なる青年へのイエスの言葉などにも表されています。

 2月11日は世界病者の日と定められています。

 2月11日は1858年に、フランスのルルドで、聖母マリアがベルナデッタに現れた日でもあります。聖母はご自分を、無原罪の聖母であると示され、聖母の指示でベルナデッタが洞窟の土を掘り、湧き出した水は、その後、70を超える奇跡的な病気の治癒をもたらし、現在も豊かに湧き出し、多くの人に希望と生きる勇気を与える源となっています。

 ルルドという聖地は、「疲れた者、重荷を負う者は、誰でも私のもとに来なさい。休ませてあげよう」というイエスご自身の言葉を具現化している場所となっています。ルルドの聖地が生み出す安らぎの雰囲気は、希望を失った人の心に希望を回復し、互いへの思いやりの心を思い起こさせる力があります。私たちすべての教会共同体が、その霊的な安らぎの雰囲気に倣い、それを生み出すものでありたいと思います。

 教皇様は今年の世界病者の日のメッセージで、「働ける人だけに価値があるのではなく、生産性のある人だけが大切なのでもありません。病者は神の民の中心であり、神の民は、人類の預言である彼らと共に前進するのです。一人ひとりに尊い価値があり、誰も切り捨ててはならないという預言です」と述べています。

 改めて、イエスに従う私たちは、いかに生きるべき存在であるのか、自らのあり方を振り返ってみましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2023年2月11日

・「地の塩、世の光として信仰を証し続ける責務が私たちにある」菊地大司教の年間第5主日メッセージ

2023年2月 4日 (土) 週刊大司教第112回:年間第5主日A


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 2月5日、年間第五主日の週刊大司教です。

 2月5日は日本26聖殉教者の祝日でもあります。当日は、墨田区の本所教会で、殉教祭のミサを捧げることになっていますが、これについてはまた記載します。

な お来週11日の午後2時からは、「世界病者の日」のミサがカリタス東京の主催で、東京カテドラル聖マリア大聖堂で行われます。

 ミャンマーでクーデターが発生してから、今月でもう2年です。軍事政権から民主化されたとか、平和が回復したという声は聞こえてきません。ボー枢機卿様はじめミャンマーの司教団は、対話による平和の確立を、繰り返し呼びかけておられますが、平和を叫ぶ宗教者への弾圧も続いています。ミャンマーのためにお祈りください。

 以下、4日午後6時配信の年間第5主日のメッセージ原稿です。

【年間第5主日A 2023年2月5日】

 マタイ福音は、「地の塩、世の光」としてよく知られているたとえ話を記しています。

 食物に味をつけたり腐敗を防いだり、塩には様々な役割があり、古代から貴重な存在とされていますが、塩が貴重な理由は、その存在それ自体ではなく、果たす役割にあることが指摘されています。

 同様なことが光についても指摘され、光それ自体の存在が貴重なのではなく、その果たす役割によって存在の重要性が与えられていることを、イエスは語ります。その上でイエスは、ご自分に従う弟子の心づもりに触れています。

 「あなた方の立派な行いを見て」褒めたたえられるべきは、その行いを実行する者ではなく、「あなた方の天の父をあがめる」ためだ、と述べるイエスは、弟子が与えられた務めを忠実に果たしているかどうかを、問いかけています。果たして、私たちはどうでしょうか。私たちが果たすべき役割に忠実であることによって、私たちに命を与え、救いへと招いてくださる主ご自身がたたえられるような、そういう弟子でありたいと思います。

 2月5日は日本26聖人殉教者の祝日でもあります。聖パウロ三木をはじめ26人のキリスト者は、1597年2月5日、長崎の西坂で主イエスの死と復活を証ししながら殉教されました。殉教者こそは自分の栄誉のためではなく、自らの存在と自らの受難と死を通じて、主イエスを証しするための道具となる道を選んだ人たちです。

 教皇ベネディクト十六世は回勅「希望による救い」の中で、 「人と共に、人のために苦しむこと。真理と正義のために苦しむこと。愛ゆえに、真の意味で愛する人となるために苦しむこと。これこそが人間であることの根本的な構成要素です。このことを放棄するなら、人は自分自身を滅ぼすことになります(「希望による救い」39項)」と苦しみの意味を記しておられます。

 苦しみは、希望を生み出す力であり、人間が真の神の価値に生きるために、不可欠な要素です。苦しみは、神が私たちを愛されるが故に苦しまれた事実を思い起こさせ、神が私たちを愛して、この世で苦しむ私たちと歩みを共にされていることを思い起こさせます。

 「殉教者の血は教会の種である」という言葉を、2世紀の教父テルトゥリアヌスは残しました。

 教会は殉教者たちが流した血を礎として成り立っていますが、それは悲惨な死を嘆き悲しむためではなく、むしろ聖霊の勝利、すなわち神の計らいの現実における勝利を、世にある教会が証しし続けていく、という意味においてであります。私たちには、同じ信仰の証しを続ける責務があります。

(菊地功=きくち・いさお=東京大司教、日本司教協議会会長)

(編集「カトリック・あい」=表記は当用漢字表記に揃えました。一部誤植を修正してあります)

2023年2月4日