・「すべての命が救いに与るように願う御父の御旨が成就するように」菊地大司教の受難の主日ミサ説教

2023年4月 2日 (日) 2023年受難の主日@東京カテドラル

 聖週間が始まりました。

336727023_599136092252529_70286848174796 2日は午前10時から関口教会の受難の主日のミサを、東京カテドラル聖マリア大聖堂で司式いたしました。そろそろ皆で集まることができつつあり、今日も大聖堂は定員まで一杯でしたが、以前のようにルルドからの行列を皆でするには、多少の躊躇が残ります。

 会衆のみなさんには聖堂内の席に留まっていただき、司祭団と、信徒の代表の方で、正面入り口からの入堂行列をいたしました。

 以下、本日のミサの説教原稿です。

【受難の主日 東京カテドラル聖マリア大聖堂(配信ミサ)2023年4月2日】

 熱狂は燃え立つ炎ですが、炎が燃えさかったあとに残されるのは、風に散らされる灰でしかありません。感動は水のように心に染み渡り、様々な感情を司る心の土台に深く刻み込まれ、時間を超えて残されていきます。

 四旬節を通じて霊的な回心の道程を歩んできた私たちは、受難の主日の今日から、聖週間を過ごし、十字架へと歩みを進められた主の心に思いをはせ、主と共に歩み続けます。その聖週間の冒頭で、主イエスのエルサレム入城が朗読され、そしてミサの中では主の受難が朗読されました。

 世界を支配される真の王は、立派な馬に乗って華々しくエルサレムに入城するのではなく、小さなロバに乗っ336946965_172934302283490_50662046128943て歩みを進めました。この王を群衆は、熱狂のうちに迎えます。群衆は熱狂に支配されています。熱狂は、時として心の目を塞いでしまいます。立派な馬に乗って従者を従えて華々しく入城する王なのではなく、ロバに乗って人々と共に入場するイエスの姿を見つめる群衆は、その心の目が熱狂に支配され、イエスが生涯を懸けて伝えた神の福音の真髄がロバに乗った謙遜な姿に凝縮されていることに気が付きません。

 心は自分たちの勝手な思いに支配されているからです。ですから福音の終わりに、群衆が「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と、見当外れのことを言い募る姿が記されています。もちろん神の子であるイエスは、単なる一地域に限定された一預言者ではなく、世界を支配する王であるキリストです。しかし、熱狂に支配された心の目には、この本当の姿が見えることはありません。

 一時的な熱狂は、炎のように燃え盛り、そこに灰が残されるだけであるように、イエスを熱狂のうちに迎えた群衆は、その数日後に、イエスを十字架につけるように要求する熱狂した群衆へと変身していきます。再び人々の心の目は、扇動された熱狂に支配され、そこにたたずんでいるのが、世界を支配する真の王であるキリストであることが分かりません。「十字架につけよ」と要求する人々の熱狂は、暴力的な力を生み出し、イエスを汚い言葉でののしり、死へと追いやります。

337042364_186684703682395_73899508492352 目の前の存在を、その人を見ることなく、自分が心に描いた勝手なイメージに支配されているのです。熱狂に支配された目には、自分の勝手な思いが生み出したイメージしか写りません。冷静になることもなく、思い込みでさらに興奮しながら、熱狂が生み出した暴力的な力に身を委ねます。その心の目には、目前に静かに苦しみを耐えながら、ただずまれる神の姿が見えていません。

 福音の終わりに、象徴的な言葉が記されています。一連の出来事を目の当たりにした百人隊長は、起こった出来事に恐れを感じることで、初めて熱狂から冷めやり、目の前の存在をしっかりと見ることができました。そこに初めてすべてを超越する神の存在を見出した彼は、大きな感動と共に、「本当に、この人は神の子だった」と言葉を発します。

 神との出会いを求める私たちこそは、この群衆のように熱狂に支配されて、熱狂が生み出す暴力的な力に身を委ね、自分の思い描くイメージを求めて過ちを犯すのではなく、実際に私たちと共にいてくださる目の前の主ご自身を、心の目で見つめる者でありたいと思います。熱狂から解放されて、暴力的な力から解放され、主ご自身との出会いに心の感動を求める者でありたいと思います。

 世界はいま暴力に支配されているかのようであります。容易に熱狂によって支配され、熱狂が生み出す暴力に簡単に身を委ねる世界であります。もちろん、スポーツなど健全な熱狂は、喜びや希望を生み出す源の一つとなり得ますが、同時に熱狂から生み出される力は、容易に利己的な思いと結びつき、簡単に暴力的な力へと変貌します。

 この3年間、感染症によって暗闇の中をさまよう中、私たちは恐れと共に、同時に熱狂していました。情報が拡散する手段が変わってしまったのです。インターネットは世界を狭い場所にして、あっという間に情報が共有できるようにしました。

 インターネットによる情報の拡散は、時にイエスをエルサレムに迎え入れた群衆を支配したような熱狂で、世界を包み込む力を持っています。善と悪の対立のような単純な構造の中で、すべてが決まっているかのような論調で他者を裁くとき、その裁きはネットから力を得て、あっという間に熱狂を生み出します。

 その裁きに基づく熱狂は、自分勝手なイメージを増幅し、そのイメージに支配される心の目は、そこに生身の人間の存在があることを、賜物であるいのちを生きている神から愛される人間の存在があることを、人の心があることを、見えなくしてしまいます。時としてその熱狂は、イエスを十字架の死に追いやったように、暴力的な負の力を持って賜物である命を破滅へと追いやることさえあります。主は、私たちの目の前に静かにただずまれているのに、私たちの心の目はそれを見ていません。

 私たちは何を見ているのでしょうか。私たちの姉妹教会であるミャンマーの人々が、2年前のクーデターのあと、今に至るまで、どれほど翻弄され、命の危機に直面しているのか。ウクライナで続いている戦争のただ中で、どれほど多くの人がいのちの危機に直面し、恐怖の中で日々の生活を営んでいることか。

 私たちは何を見ているのでしょうか。新型コロナの大感染による経済の悪化で職を失った人たち、経済の混乱や地域の紛争の激化によって住まいを追われ、家族とその命を守るために母国を離れ移り住む人たち。思想信条の違いから迫害され差別され、命の危機に直面する人たち。異質な存在だからと、共同体から、そして社会から排除される人たち。一人ひとりは、すべて、そこに存在する、賜物である命を生きているかけがえのない神の似姿です。

 私たちが目の当たりにしているのは、熱狂が生み出した力が、暴力として命に襲いかかる現実です。

 熱狂の力が生み出す暴力が支配するとき、一人ひとりは抽象的な存在となり、具体性を失って忘れ去られていきます。でも、そこには、一人ひとりの顔を持った人がいるのです。心を持った人がいるのです。命を生きる人がいるのです。そのすべての命を、神は救いに与らせるために、十字架への道を歩まれました。

 私たちは、その神の深い悲しみと慈しみの思いに触れるとき、あの日の群衆のように熱狂によって生み出された暴力的な力に支配されてはなりません。目の前にいる、一人ひとりの存在に目を向け、その心を思い、神が与えられた賜物である命を、心の目でしっかりと見つめなくてはなりません。思いやりではないのです。優しさではないのです。そこに神がおられるからに他なりません。私たちは、主ご自身を探し続け、主との出会いを求め続ける者だからに他なりません。すべての命が救いに与るように願う御父の御旨が成就するように、私たちの力を尽くさなくてはならないからに他なりません。私たちの務めです。

 この一週間、十字架の苦難と死と復活に向かって歩み続ける主と共に、私たちも歩み続けましょう。

(菊地功=きくち・いさお=東京大司教、日本カトリック司教協議会会長)

(編集「カトリック・あい」)

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2023年4月2日