・「聖体祭儀を通じて、共におられる主から力をいただこう」菊地大司教の聖木曜日・主の晩餐ミサ

(菊池大司教の日記 2023年4月 6日 (木) 2023年聖木曜日主の晩餐@東京カテドラル

 聖なる三日間は、主の晩餐のミサで始まります。このミサの終わりは聖体安置式で、いつものような派遣の祝福はありません。次に派遣の祝福があるのは、復活徹夜祭の終わりです。明日の聖金曜日、主の受難の典礼は、初めのあいさつもなければ終わりの祝福もありません。ですから、この三日間の典礼は連続しています。主の受難と死と復活の出来事に、心をあわせる典礼です。

337572720_921776345608506_74450733466742 以下、6日聖木曜日午後7時から、関口教会と韓人教会の合同で行われた、主の晩餐のミサの説教原稿です。

【聖木曜日主の晩餐 東京カテドラル聖マリア大聖堂 2023年4月6日】

 私たちの信仰生活は、キリストに倣って生きるところに始まり、キリストの死と復活を通じて永遠の命への道をたどる、キリストによって、キリストとともに、キリストのうちに歩み続ける道であります。

 新型コロナの世界的大感染に見舞われたこの3年間の暗闇が生み出したグローバルな不安体験が、国家のレベルでも個人のレベルでも利己主義を深め、寛容さを奪い去り、連帯の中で支え合うことよりも、様々な種類の暴力による対立が命に襲いかかる世界を生み出してしまいました。賜物である命を守ることよりも、異質な存在を排除することによって、自分の周囲を安定させ、心の不安から解放されようとする世界となってしまいました。

 最後の晩餐の席で主イエスは立ち上がり、弟子たちの足を洗ったとヨハネ福音に記されています。弟子たちの足を洗い終えたイエスは、「主であり、師である私があなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」と言われた、と記されています。弟子たちにとっては衝撃的な出来事であったと思いますが、衝撃的であったからこそ、こうして福音書に書き残された心に深く刻まれた出来事でありました。

 足を洗うためには、身を深くかがめなくてはなりません。相手の前に頭を垂れて、低いところに身をかがめなくては、他者の足を洗うことはできません。身をかがめて足を洗っている間、自分自身は全くの無防備な状態になります。すべてを相手に委ねる姿勢です。

 2019年4月、アフリカの南スーダンで続く内戦状態の平和的解決を求めて、教皇様は南スーダンで対立する政府と反政府の代表をバチカンに招待されました。その席上で、教皇様は突然、対立する二つの勢力のリーダーたちの面前で跪き、身を低くかがめ、両者の足に接吻をされました。

 この教皇様の姿は、弟子の足を洗う主ご自身の姿そのものでありました。暴力による対立ではなく、対話による解決を求めて、互いに信頼を深め、互いに無防備な状態になって、連帯のうちに支え合う道を見いだして欲しい、という、教皇様の強い願いの表れでありました。互いに足を洗い合うものであって欲しいという、教皇様の願いの表れでありました。

 今の世界で求められているのは、対立することではなく、互いに身をかがめあい、相手に信頼して身を委ね、足を洗う姿勢ではないでしょうか。

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 福音はその後に、「私があなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのだ」という主イエスの言葉を記しています。主に従うことを決意した私たちの人生の歩みは、キリストに倣って生きるところに始まり、キリストの死と復活を通じて永遠の命への道をたどり、キリストによって、キリストとともに、キリストの内に歩み続ける道程です。

 最後の晩餐で、聖体の秘跡が制定されたことを、パウロはコリントの教会への手紙に記しています。聖木曜日主の晩餐のミサは、御聖体の秘跡の大切さについて、改めて考える時であります。

 第二バチカン公会議の教会憲章には、次のように記されています。

 「(信者は)キリスト教的生活全体の源泉であり頂点である聖体のいけにえに参加して、神的いけにえを神にささげ、そのいけにえとともに自分自身もささげる。・・・さらに聖体の集会においてキリストの体によって養われた者は、この最も神聖な神秘が適切に示し、見事に実現する神の民の一致を具体的に表す(11項)。」

 またヨハネパウロ二世は、「聖体は、信者の共同体に救いをもたらすキリストの現存であり、共同体の霊的な糧です。それゆえそれは教会が歴史を旅するうえで携えることのできる、最も貴重な宝だと言うことができます」と述べて(回勅『教会にいのちを与える聖体』)、御聖体の秘跡が、個人の信仰にとってもまた教会共同体全体にとっても、どれほど重要な意味を持っているのかを繰り返し指摘されます。

 教皇ヨハネパウロ二世は、回勅「教会に命を与える聖体」で、「教会は聖体に生かされています。この『命のパン』に教会は養われています。すべての人に向かって、たえず新たにこのことを体験しなさいと言わずにいられるでしょうか(7)」と述べておられます。

 私たちイエスによって集められているものは、主ご自身の現存である聖体の秘跡によって、力強く主と結び合わされ、その主を通じて互いに信仰の絆で結び合わされています。私たちは、御聖体の秘跡によって生み出される絆において、共同体でともに一致しています。

 御聖体において現存する主における一致へと招かれている私たちは、パウロが述べるように、「このパンを食べこの杯を飲む度ごとに、主が来られる時まで、主の死を告げ知らせる」務めがあります。私たちは、聖体祭儀に与るたびごとに、あの最後の晩餐に与った弟子たちと一致して、弟子たちが主から受け継いだ主の願いを同じように受け継ぎ、それをこの世界において告げ知らせていかなくてはなりません。世界に向かって福音を宣教する務めを、私たち一人ひとりが受け継いでいくことが求められています。主の生きる姿勢に倣って、身をかがめ足を洗いあう姿勢であることが求められています。

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 教皇フランシスコは、回勅「兄弟のみなさん」の中に、こう記しておられます。

 「愛は最終的に、普遍的な交わりへと私たちを向かわせます。孤立することで、成長したり充実感を得たりする人はいません。愛はそのダイナミズムによって、ますますの寛容さ、他者を受け入れる一層の力を求めます(95項)。」

 私たちの福音宣教は、まず私たちの日々の生活の中での言葉と行いを通じて、福音を告知することに始まります。福音の告知は、直接に福音を語ることではなく、言葉と行いを通じた証しです。

 しかし、私たちに求められている福音宣教は、そこに留まるものではありません。私たちの内に宿る神の愛は、「普遍的な交わりへ、と私たちを向かわせ」るからであります。教会共同体における交わりへと、多くの人が招かれるようにすることは、神の愛が注がれているすべての命が、十全に生きられるようにするために必要です。

 教皇パウロ六世は使徒的勧告「福音宣教」において、「よい知らせを誠意を持って受け入れる人々は、その受容と分かち合われた信仰の力によって、イエスの名のもとに神の国を求めるために集まり、神の国を建て、それを生きます(13項)」と述べておられます。

 御聖体の秘跡にあずかることは、個人的なことではありません。御聖体を通じて、キリストによって、キリストと共に、キリストの内に歩み続ける私たちには、身をかがめ他者の足を洗う姿勢が求められ、福音を言葉と行いで証しすることが求められ、教会共同体における交わりに多くの人を招き入れることが求められています。難しいことです。どうすれば良いか悩みます。しかし、そこには常に、主ご自身が私たちと共におられ、導いてくださっています。

 御聖体の秘跡の内に主が現存されている、という神秘を、聖体祭儀を通じて、改めて心に刻み、共におられる主から力をいただきましょう。

(菊地功=きくち・いさお=東京大司教、日本カトリック司教協議会会長)

(編集「カトリック・あい」=表記は当用漢字に統一、聖書の引用は「聖書協会・共同訳」にさせていただきました)

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2023年4月7日