・愛ある船旅への幻想曲(41)”遺産”を大切にしないカトリック教会…そして正教会のミサで体験したこと

 私は今、戦前の教会聖堂についての情報を、信者でない方から頼まれて、集めている。そこで、驚いたことがあった。今の聖堂とは全く違う、繊細な作業が施された祭壇と壁画だ。

 教会創立100周年記念誌を準備作成した時にも、この写真は見ていない。私たちの小教区を担当してきた各宣教会に問い合わせたが、この写真はどこにも保管されていない。親が当時の信徒だったと思われる三組の家族にも問い合わせたが、期待した答えはなかった。「仕方ない」と諦めねばならないのか。

 過去の教会について、語り継ぐ作業ができてないこと、歴史を尊ぶ司祭が居なかった、ということか。「教会とは何か」、さらなる問題である。

 資料集めのために、聖ハリストス正教会を訪ねた。同級生のお父様がこの地での正教会設立に尽力されたこと、その時まで正教会の信者はカトリック教会で共にミサに与っていたこと、を聞いていたことから、「もしかしたら、、」と思ったからだ。

 また、彼女のご主人が、この丸いドームのビザンチン様式の聖堂を設計された、と聞いていたので、一度訪問したいと思っていた。せっかくならば、と日曜日のミサに与らせていただいた。以前、サンクトペテルブルクに留学していた長女の卒業式に出席した時、ロシア正教のミサも行われ、司祭方の祈祷する歌声はプロ級のテノール、バリトン、バスで構成された男性三部合唱となり、荘厳で美しいミサを今も覚えている。日本でのミサは、どのような流れなのかと興味津々であった。

 信徒は少なかったが、司祭はよく通る声で祈りを唱え続け、補佐する一人の青年との歌声は聖堂に響きわたり、終始立ったままの信徒も、答唱を続ける。有名画家のイコンとゆらゆら揺れる蝋燭の火が祈りを深めてくれる。私は、聖歌本やミサ祈祷小冊子のページの確認に必死であった。このようなテンポの速い、忙しい?ミサに与る信者方の忍耐、身に付いた祈りの姿勢、何よりも、司祭の前で跪き涙するロシア人女性の姿は、私に信仰の意味を改めて認識させた。彼女に終始、笑顔はない。

 いよいよ司祭の説教である。今までとは違い、穏やかな口調で始まった。気負いのない説教の中で「今日は、カトリック教会の方々も来て下さり…」と、共に祈る喜びを笑顔で述べられ、自然体でありながらも抑揚をつけた清々しい説教は、私にとって新鮮であった。日本人司祭の全く普通の感覚、正直な対応から「人間である司祭」を見た。そこに「人間イエス」を感じた。そして、初めてエキュメニズムの意味と必要性を私は受け入れたのである。身を持って経験せねば正しく理解する事も語る事もできないことを、神は私に教えてくださる… それを実感した。

 洗礼を受けていない中学一年生の男の子から「イエス・キリストって本当に生きていたの?」と聞かれた。即、「あなたにとってイエス・キリストはどんな人?」と聞き返した。彼は「“たまたま”預言が当たった人」と答えた。“たまたま”当たった預言を周りの人が“たまたま”広めたと言うのだ。実に面白い。彼にとって全て“たまたま”なのだ。

 社会の教科書で学ぶ各宗教への素直な疑問と感想を子供たちが持っていることを、私たちは知らねばならない。今の子供たちには、とんでもない知識があり、並大抵の知識では太刀打ちできない。一神教であるキリスト教にも教義の違う教派があること「なぜ?」と問う、小さな種をどう育てるのか。カナダ人の彼の母親は無宗教である。

 日本人に(勘違いの)プライドだけのカトリック信者がおられることは重々承知している。問題のある教会の動きにも見て見ぬふりをし、とにかく自分の楽園を教会に求めるだけの信者生活…。このような信者を”育てた”ことについて、一番反省せねばならないのは聖職者だと私は思っているのだが。

 平日は、サラリーマンをしている(彼の言葉から)という正教会の司祭との出会いを、心から神に感謝した。私は、前任の司祭だった彼のお父様のことは存じていた。こちらのカトリック教会創立100周年の式典にも喜んで参加して下さった。「父が残した6箱の写真整理がまだできていなくて…」と現司祭は言う。そのダンボール箱が“宝箱”であって欲しい、と願う私である。

 

(西の憂うるパヴァーヌ)

2024年7月1日

・カトリック精神を広める⑧ 映画がカトリックを広める・その2「クォ・ヴァディス」

 映画「クォ・ヴァディス」。ポーランドのノーベル文学賞作家、ヘンリク・シェンキェヴィチの同名小説を、壮大なスケールで描いた、今から70年前、1951年初上映の映画だ。ロバート・テイラー、デボラ・カー、ピーター・ユスチノフなど当時のハリウッドの人気俳優が多数出演しており、年配の方の中には、ご覧になった方も少なくないだろう。

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 「クォ・ヴァディス」はラテン語で「主よ!いずこに行き給うや」という意味だ。キリストがこの世を去り、残された弟子達が、当時の世界の中心であったローマにキリスト教を広めていく中で、暴君ネロにより迫害を被った。ネロが放った放火が、ローマの大火事となり、火事の責任をキリスト教徒に押し付けて、迫害されていく…。そのような中で、ローマの将軍とキリスト教徒の女性奴隷との恋愛をからめ、初期のキリスト教がどのようにして広まっていったのかが、この映画を通じて理解できる。

 地下の共同墓地(カタコンベと言い、ローマ観光旅行の定番見学地となっている)で、キリスト教徒の秘密の集会が行われた場面が出てきたり、ローマのコロッセオで、どう猛な野獣とキリスト教徒の戦いが、ローマ市民の見世物になっていたりと、ローマ時代の様子を直に視覚的に理解できる映画にもなっている。カタコンベでの集会では、新約聖書に出てくる聖ペトロによるキリストご受難についての有名な演説が見ものである。

 映画のタイトル「クォ・ヴァディス」は、大迫害の中、ペトロがローマから逃げていく途中で、キリストに出会う。その時、彼がキリストに発した言葉だ。この問いにキリストは、「おまえが行かないので、私は再度、十字架にかかりにローマに行く」と答え、それを聞いてペトロは、はっと我に返り、踵を返し、十字架の刑を受けにローマに赴く、というのが映画のストーリーになっている。いずれにしても、聖書には記述のない、シェンキェヴィチの創作ではあるが、私にとって、是非とも世の子供たちに見せたい映画の一つになっている。

 (この映画のブルーレイディスクは、JR四谷駅真向いの「サンパウロ」で購入できる。)

横浜教区信徒 森川海守(ホームページ:https://www.morikawa12.com

2024年6月29日

・神様からの贈り物⑫ 「広島での祈り」と「先生の母上のための祈り」-修学旅行で体験した2つの祈り

 

  京都、奈良、広島への修学旅行。高校での一大イベントで、準備の段階から楽しんでいた。私のグループでは、日本史の授業で習ったばかりの神社仏閣をめぐる計画を立て、教科書の写真と実物を見比べながら参拝したのが、とても楽しかった。

 修学旅行の行事として毎年、「広島での祈り」が必ず入っていた。原爆ドームを訪れ、平和祈念公園にて、クラスごとの『祈りの集い』をもち、その後に原爆の被爆者である語り部さんのお話を聞くのが恒例だった。私が修学旅行へ行ったのは、ちょうど、語り部さんたちが活動をやめてしまった年だったが、先生方が重ねてお願いをしてくださり、お話を聞くことができた。語りは冷静に淡々と進んだが、祈りは熱く強く、「決して繰り返さない」という思いで満ちていた。

  そして、もうひとつ忘れられない「祈り」がある。それは、旅行中に急遽、設けられた祈りの時間だ。旅行中、学年主任の先生の姿が見えず、私たち生徒は心配していた。夕食時、別の先生から説明があり、「学年主任の先生のお母様の体調が悪化し、今日は、ご実家へ帰られています」と。それに続けて「お母様のために、皆で祈りましょう」とおっしゃった。学年全員で沈黙の祈りを捧げた。未信者だった私は、正直なところどうしていいか、分からず、ただ、神様に話しかけるように「どうか守ってください。お願いします」と心の中で念じた。すると、生まれて初めて、日常生活とともに祈りがあることを感じ、胸に温かいものが広がった。

  翌日の夕食時、私たちが宿泊していたホテルに学年主任の先生が戻られた。「皆さんが、母のために祈ってくださったと聞きました。本当にありがとう」。そう言われた声の抑揚や、少し潤んだ瞳を、私は今でも覚えている。

   祈ることを、「生活から遠いもの」と勘違いしていた時期が長くあった。今の私は、身の回りの出来事を子どもが「ねえ、お父さん」と、話しかけるように祈る。朝起きると「寝ているあいだ、守っていただき、ありがとう!」と十字を切り、寝る前にも「今日もお恵みをありがとう!」と十字を切る。どうしても寝つけない夜は、ロザリオを一つひとつ数え、眠りが訪れるのを待つ。

  私には『敬虔な信者』から程遠い、という自覚があるが、それでも、神様に話しかけることをやめようとは思わない。今日も祈りを通して、神様と、世界中の皆とつながっていたい。

 

(東京教区信徒・三品麻衣)

2024年6月29日

(読者投稿)さっぱりの日本の”シノドスの道”-「霊による対話」を言う前に、故森司教の「信徒の霊性」を読んでほしい

 私の教区では、この2年間「シノドス」について広報活動を含めてほとんど取り組んできませんでした。ところが最近「霊における対話」という言葉がちらほら聞こえてきます。日本の他の教区での同様の動きがあると聞いていますが、残念ながら形式的なポーズに見えて仕方ありません。司教団は、バチカンが最近になって提案した「霊による対話」をそのまま、十分な説明も工夫もしないで日本の教会に適応させようとしているように思われます。

 

 日本では、全世界に向けて「開かれた教会」「共に歩む教会」となることを宣言した第二バチカン公会議の精神を受けて、約30年前に、全国福音宣教推進会議(NICE)という全国的な運動が進められ、教皇フランシスコが昌道される”シノドスの道”の原型ともいえる「共に喜びをもって歩む」分かち合いの実践が提唱されました。しかし、せっかく盛り上がりかけた運動は、その後の日本の教会、そのリーダーである司教団には、全く引き継がれず、運動を担った司祭、信徒も高齢化し、鬼籍に入られたりして、忘れ去られた状態のまま、現在に至っています。

 

 そうした中での、「霊による対話」。本来なら、”シノドスの道”を実践する有効な手段にもなり得るはずですし、教皇やバチカンの意向もそこにあるはずなのですが、日本の司教団はその意向を十分に理解しているとは思われず、教区レベル、小教区レベルの準備もないまま形だけの全国集会をもったりしてはいるものの、信徒一人ひとりに浸透させるような努力は全くされていないようです。

 

 なぜ、30年前の「共に喜びをもって歩む」NICEの運動が定着せず、消えてしまったのか。その反省もなく、教皇の意向を深く受け止め、末端の信徒一人ひとりに耳を傾け、心を開き、共に歩もうとする真剣な努力もなく、ただ、形だけ”シノドスの道”なのか。

 ここにこそ、日本の教会の抱える問題、危機があるはずですし、教会の指導者たちは気が付いているはずなのに、真正面から取り組もうとしていません。昨年の前駐日バチカン大使の司教団への講話「シノドスとシノダリティ」が良いヒントを提供していたのに、司教たちはスルー(無視)してしまいました。このような状態では、「霊による対話」も忘れ去られてしまうでしょう。

 

 NICEの推進役をされた故森司教は、著書「信徒の霊性」で、信仰の土台(根本)を分かりやすく説明されています。多くの司教や神学者に見られる、神学用語で煙に巻くやり方ではありません。今読んでも納得する箇所がたくさんあります。 その一つが

 「(祈りが)たった一瞬でもよい、魂が神に向けられているならば、それで十分なのである」。

 今の司教たちの中に、霊性を”冷静”に語る方がおられるのでしょうか。

 

(南のカトリック教会の信徒より)


2024年6月29日

・”シノドスの道”に思う⑬「ドイツの視点から考える」⑦「カトリケンターク(カトリック の日)」は平和を求める人々が共に歩む場

*カトリック新聞の記事「教皇、ドイツの信者に貧しい人を擁護する召命を説く」に違和感

 

 6月23日付けのこの記事は、「教皇がドイツの信者、特に若い信者に向けて貧しく阻害されている人を擁護するように」と説いたことになっています。それもドイツの「カトリケンターク(カトリックの日)」に向けてのメッセージでそのように語った、というのです。しかし、このメッセージ原文を読むと、この記事の書き方は違和感を禁じ得ないものでした。

 その理由の第一は、「カトリケンターク」は「信者による信者のためのもの」であって、教皇の意向を実施することを目的とはしていない。「平和な人には未来がある」というテーマは主催者が考えたものであって、教皇が出してきたものではない、ということ。第二に、「カトリケンターク」の主催者は、このコラムでも触れてきた信徒団体「ドイツカトリック者中央委員会ZdK」であって、教皇や司教の指揮・指導でなされるものではないこと。第三に、「カトリケンターク」はカトリック信仰を中心とした祭典であり、内容は講演、対話集会、討議集会、ミサなどであって、単なる「代表者会議」ではないこと。そして第四に、この記事が、ドイツの信者がこの数日間で何をしようとしているのかを微塵も伝えていないことです。教皇メッセージは、カトリケンタークの参加者をねぎらう挨拶にすぎないのです。

*「カトリケンターク」ができた背景・・・民主主義の芽生え

 

 フランス革命とナポレオンの登場以後、ドイツは「ドイツ連邦」という多くの王国や公国そして自由都市(それらを「邦国」という)からなる連邦国家になりました。1848年3月、フランス・パリの二月革命の影響を受けて、ドイツ各地でも市民、都市下層民、農民の蜂起によって三月革命が起きます。自由主義、身分的特権の廃止、出版の自由、議会の設立など「下から」の要求がなされます。各邦国で選挙が行なわれ、5月に650名の議員がフランクフルトのパウロ教会に集まります。

 これがドイツ史上最初の国民議会でした。民主主義の始まりです。フランクフルト議会にはカトリック者の1142件の嘆願と27万3000名の署名が提出され、10月3日からの4日間、「カトリケンターク」の起源となるカトリック市民の諸団体の総集会がマインツで開催されました。 カトリック教会と政府の関係向上のために。「カトリケンターク」の誕生は、信徒によるものであり、ドイツにおける民主主義の始まりの一部なのです。

*信者の自主運営の「カトリケンターク」・・・民の声

先に述べたように、「カトリケンターク」は、もともと、カトリック信仰を持った人々の諸団体、「宗教的自由を求める敬虔な団体」という名称であったとも言われ、彼らによって組織されて始まったもので、従って175年の歴史があります。最初は一般信徒のみのイベントであり、司教たちは除外されていました。そしてこの団体が変遷しながら現在の「ドイツカトリック者中央委員会ZdK」となっていきました。

 当時ローマ教皇はピウス9世(在位1846~1878年)で反近代主義、科学の否定、そして第一バチカン公会議(1869~1870年)で教皇の無謬を宣言しました。これに反対する自由主義者も当然、いました。

 先述した革命後、ドイツ帝国となり、宰相ビスマルクは帝国の統一事業に批判的なカトリック勢力(南ドイツ・バイエルン州等)を弾圧します。「文化闘争」と呼ばれます。しかしカトリック市民は政治的には中央党を結成し、ローマ教皇とのつながりも保っていきます。「カトリケンターク」の中心にあるのは、信仰を生きる人間の自由、人間の権利、責任ある市民の自覚といった民主主義への傾きでした。その中には、カトリックの社会教説の父であるオズワルド・フォン・ネルブロイニング(1890~1991年、神学者、社会学者)もおり、共通善、団結と補完性などの原理を説き、後のピウス11世教皇の回勅「クアドラジェシモ・アンノ」の草稿を書いています。

*前回2022年のシュツットガルトでの「カトリケンターク」について

「カトリケンターク」は隔年で、いろんな都市が持ち回りで開催されています。前回は2022年、「命を分かち合う」というテーマで、5日間シュツットガルトで開かれました。主催者、組織者たちは2万人の参加者を想定していましたが、最後の大イベントには約8万人が参加。教会問題だけでなく社会や政治問題についても、専門家を交えて話し合ったり議論したり、また信仰と文化を共に祝ったりしました。現実のドイツ社会や世界の発展に対する時代の潮流やビジョン、そして課題などを、分かち合ったようです。1500のイベント、パネルディスカッション、ワークショップ、文化的活動などが自主的に準備され、実行されていきました。主にカトリックの市民社会からのものですが、エキュメニカルな友人たちや諸専門家、シンクタンク、政党からのものもありました。

*今回はエアフルトで、テーマは「平和な人には未来がある」

今回のテーマは「平和な人には未来がある」でした。極右政党が躍進しウクライナ危機を抱えているドイツにおいて、ZdKは信徒団体として、「戦時における平和倫理」という立場で防衛政策のガイドラインを発行しました。防衛の権利と非暴力の命令の間の緊張の中で、どう生きるか考えているのです。

 「国際法の枠内での自己防衛、最後の手段としての武力、グローバルな正義なしに平和はない」「自由のない平和はない」「多国間での平和秩序、手段としての宗教間対話」などのテーマで思考を重ね、「平和な世界は個人から、平和の人から始まること」「人間の尊厳、平和と自由と正義を訴えていくこと」。そういったところからZdKの総会で、このテーマが決まったようです。もちろん聖書を分かち合う集会もありました。

*エキュメニカルな方向へ

今回はこれまで以上に、ドイツにおけるエキュメニカルな現状を反映したものが多かったようです。ワークショップ、パネル、礼拝など150余りのイベントが主催されました。

 昔は「領主の宗教が、その地の宗教」という原則もあり、他宗派との結婚もそんなに多くはなかったのでしょうが、今はカトリックもプロテスタントも混在しており、彼らは婚姻によって一緒に生活しているので、エキュメニカルな視点なしにキリスト教を考えることはできなくなっています。開催地となったエアフルトは、”カトリックの街”である以上に”プロテスタントの街”であり、その意味でも共に祝い、教会と社会と民主主義の未来を共に考えようという意識が強く働いたのだと思います。

*1989年の平和革命:東西ドイツの統一

第二次世界大戦後の東西分割で、エアフルトは東ドイツ領内に入れられました。自由、民主主義、人権を求める人々が西ドイツに逃れていくのを阻止するため、1961年から東ドイツ政権によるベルリンの壁の建設が始まります。1978年からは軍事教育が始められ、これを機に、エアフルトのカトリックの聖ロレンツ教会、プロテスタントの説教者教会Predigerkircheで平和を求めるエキュメニカルな祈りが捧げられるようになったそうです。

 それ以来、祈りが木曜日毎になされるようになり、1989年9月、ライプツィヒのニコライ教会での平和の祈りが「月曜デモ」となり、それに呼応してエアフルトで「木曜デモ」が起き、11月にベルリンの壁の崩壊、1990年10月の東西ドイツ統一と進んでいきました。両教会の信者そして市民たちによって平和裏になされた「平和革命」が、その端緒となったのです。

*フランシスコ教皇のメッセージに戻ると・・・

教皇が「カトリケンターク」に向けて出されたメッセージに戻りましょう。その最後のほうの一節を抄訳します。

 「『カトリケンターク』はエキュメニカルで、共に歩んで宗教間対話をする場であることは、素晴らしいことであり、重要なことです。なぜなら『平和な未来を築こう』という善意を持ったすべての人と一緒に協働することが必要だからです。平和の人々が手に手にロウソクを持って平和革命を引き起こした1989年の体験は、共通するキリスト者の力強い証しでした。ここエアフルトで平和のための祈りが聖ロレンツ教会とプロテスタントの説教者教会で起こりました。人々の祈りによって引き起こされたこの平和に満ちた<変革の奇跡>は、祈りが何をもたらしてくれるのかを私たちに示しています。このことを記念することは、今日の私たちを励ましてくれます!」

教皇のこのメッセージはドイツの歴史を踏まえた内容で、ドイツ人の心に響いたと思います。教皇が本心でこのメッセージを送ったのなら、自由民主主義の意義も、そしてご自分で発言された「逆さピラミッド」型の教会になるべきことも、もっと強調されていいのではないでしょうか。

*民主主義とキリスト者であることは一緒にやっていける

 エアフルトでの5日間にわたる「カトリケンターク」は約2万3000人の参加がありました。終了後の6月2日に、主催者であるZdKの議長の感想の一部を紹介します。

 「民主主義の危機の中で「カトリケンターク」は立ち上がり、国際紛争において平和を選択し、教会改革への意志を強めました。<他者のための教会>になっていくこと。制度的な教会に属していない多くの人々のためにも、私たちは開かれていなければならない。彼らは私たちにとって福音であり、神は彼らを通して私たちに語っている、だから新しい方法で福音を理解しようと努めよう。エアフルトでのカトリケンタークはエキュメニカルな『カトリケンターク』であった。プロテスタントの兄弟姉妹、他の宗派の友人、ユダヤ教徒とイスラム教徒、神を信じる人、世俗の人。皆が共に生きる。民主主義と自由の公的空間は、キリスト者の空間でもある。民主主義とキリスト者であることは一緒にやっていけるのだ」

*「カトリケンターク」が示唆するものは・・・

 このように、「カトリケンターク」の始まりから今日に至るまで続いている精神は「民主主義への傾向」と言えます。2022年のドイツ・シノドスの基本文書に「民主主義は国家統治の形式であるだけでなく、生活の道である」とありました。ドイツのカトリック市民の175年間の歩みが、キリスト信仰と民主主義的方向に進んできたことは、今後の教会がどうならなければならないかを示唆しています。

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 *2022年現在のエアフルト司教区のカトリック人口は13万7272人で全人口の5~9%程度。司祭数は33人。年間の受洗者は870人、初聖体は960人、堅信948人、結婚式は204件、葬儀1323件で、教会を離れた人は2413人に上っています。

 *今回の教皇メッセージは聖座のサイト、ドイツ司教協議会やドイツカトリック者中央委員会のホームページで見ることができます。ドイツ司教協議会www.dbk.de ドイツカトリック者中央委員会www.zdk.de

 *参考文献=坂井栄八郎『ドイツ史10講』岩波書店、石田勇治編著『図説ドイツの歴史』河出書房新社

(西方の一司祭)

2024年6月29日

・Sr.阿部の「乃木坂の修道院から」②「カミリアンセンター」のHIV/AIDE 患者たちの笑顔を胸に、日本でも宣教に励みたい

  タイを去るひと月前、HIV/AIDE 患者をケアする「カミリアンセンター」(ラヨン県)を訪問。120余の子供から大人の明るく笑いと思いやりが漲る大患者家族で、3人の神父が父母役で元気な人が炊事や洗濯など家事を担当、子供たちは学校(以前は拒絶)に通っています。

 カミリアン病院修道会の神父、修道士さん方とは、同じイタリアの創立で自国語の次に親しめ、タイ滞在30年の歩みの中でありがたい摂理の道連れでした。

 エイズ患者との出会いは、タイ語学校でソーニャさん(イタリアからのボランティア)に出会い、ジョバンニ神父を紹介されたのが始りです。当時郊外の駆け込み宿舎で患者の世話をしながら一緒に生活していました。

 タイ国は観光産業の勢いでエイズ感染死者急増、家族からも受け入れられず都心で悲惨な生活をしている人々に心を痛めたジョバンニ神父は『命を賭けてもエイズ感染者を救う』、会の使命を具体的に取り組み始めたのです。

 特に見捨てられた末期患者の看取り、治療、感染を防ぐため工場やコミュニティーの人々を招き予防学習を頻繁に開くなど。国立の病院、仏教寺院、カトリックやその他の関係施設とも連帯し大惨事と取り組みました。

 その頃、日本から『カトリックの機関にエイズと取り組む窓口を作りたい、1週間の予定でタイのカトリック内外の施設見学ツアー』をと、カトリック中央協議会から問い合わせがありました。関係するNGOで働いていた友人と要望に応える濃密な予定を組み、末期エイズ患者との出会い、各界の施設に案内しました。

 タイに行って間もない私にとって、直に実情に触れ現実を知る貴重な体験でした。特に感染死者の多いパヤオ県でのエイズ患者との出会いは、当時生気無く心身滅入っていた私の息を吹き返してくれました。「主よ、私がタイでの宣教を続ける事を思し召しでしたらもう一度生きる力を…」と、脱力状態で主の海原に身を任せて浮かんでいた私に『今を真剣に生きる』気力が湧いてきたのです。

 温かい理解のある関わりが何よりもの免疫力となる治療薬、正しい清潔な生活、栄養を摂り菌に侵されない様HIV治療をする等最善を尽くされていますが、2020年統計によると年間のHIV新規感染者数は150万人、AIDE感染死者は65 万人。生活と密接な感染の現実は厳然としています。

 カミリアンの笑顔いっぱいの患者、特に子供達を胸に、苦しむ人々をいつも心に留めながら日本での宣教に励もうと思います。愛読者の皆さん、どんな状況にあっても、いただいた今日、今を精一杯生きて輝いていましょう。

(阿部羊子=あべ・ようこ=聖パウロ女子修道会会員)

2024年6月7日

・Chris Kyogetuの宗教と文学 ⑭夏目漱石の「こゝろ」からみる愛と義 

 「しかしそれは特色のない唯の(ただの)淡話だから、今ではまるで忘れてしまった」「先生はまるで世間に名前を知られていない人であった」(夏目漱石「こゝろ」より)

 あらすじ:『こころ』は「先生と私」「両親と私」「先生と遺書」の3部構成である。若い「私」は海で「先生」という人物と出会う。まだ大して人を愛したことのない「私」に、先生は恋愛の罪悪と神聖さを説こうとするが、当時の「私」には理解できなかった。先生は過去を話すことを約束する。「私」の父親が死の間際だというのに、先生の手紙を受け取ると、父の元を離れて東京行きの列車に乗り、そこで先生の遺書を読む。遺書には、先生と奥さんの過去、そして幼なじみのKを助けるために連れてきたことが書かれていた。しかし、愛する女性を巡って先生はKを裏切り、お嬢さんとの結婚を勝ち取る。Kの自殺がその結果として起こる。物語は、明治天皇の崩御と乃木大将の自決という新時代の混乱と期待の時代背景とともに描かれている。

1 はじめに

 日露戦争の勝利に胸を熱くする現代人は少ないだろう。しかし、明治天皇の崩御と乃木大将の自決が当時の日本人と文学に与えた影響は計り知れない。夏目漱石の『こゝろ』の先生もまた、乃木大将の死の後に、自ら命を絶った。
 語り手である若い書生だった「私」は、鎌倉の海の掛茶屋にいる西洋人を連れている男と出会う。その男を「私」は、「先生」と呼ぶことにした。もしも読者の貴方が、十代そこらで何も知らずにこの本を手にしたら、乃木大将のことなどはあまり考えないだろう。まずは、この「先生」と「私」という書生の饒舌な語り口調にとりあえず吸い込まれるのだと思う
 漱石は巧みに、序盤で「私は寂しい人間です」と先生に語らせ、孤独な十代の読者を浜辺から、少しづつ「死」への深海へと誘い込むのかもしれない。それは生命の終わりを単純に意味するだけではなく、忠誠ということは何か、義とはなんだったのか、自死への謎、死生観というもので、言葉がうまく回らずに藻掻かせ、喪というものは、生きている者でしかできないという事を覚え、一旦は読者を現実世界に戻すのかもしれない。きっと読後はそのような気持ちになるだろう。
 そこに、いつの時代でも、若くても「愛」の証を人は求める。だからこの話は巧妙なのだ。「先生」は恋愛をあまり知らない「私」にこう語る。「しかし君、恋は罪悪ですよ。解っていますか?」と。「先生」のところに吸い寄せられるように来たのは、この若い青年が人を愛したいからであり、とっくに恋で動いているからであり、それの準備段階(恋に上る階段)なんだと先生は言った。そうすることによって「私」と読者は同じ立ち位置に来ることになるのだ。
 それで、手筈は揃った。ここから、読者は先生の「遺書」編へ下っていくだけなのだ。この小説は「先生と私」「両親と私」は若い書生の語りであり、「先生と遺書」の章で先生の若い頃に遡ることになる。先生は、両親が病気で亡くなり、叔父が横領し、人間不信となっていた。ここで先生は一つ、金が人を変えるということも言っている。その後に実家を処分し、両親の墓だけを残し、故郷には戻らないと決め、東京帝国大学へと進学し、若い頃に軍人の未亡人の家に下宿しに行った。その時のお嬢さんである「静」に対して、異性の香りがしたと記している。そこで奥さんと静さんに大事にされ、一番良い部屋を用意してもらっていた。
 疑い深かった彼は、そのうち彼女らの優しさに安定するようになり、静に対して、愛情を持つようになった。それは、性愛というよりも「信仰」に近いものだった。彼はお金に対しては疑いがあったが、「愛」に関しては希望を持ち疑わなかった。彼にはKという幼なじみがいた。お寺の息子だったが養子に出されて、医学部で医者になることを条件に大学に行かせてもらうことになっていたが、Kは「精進」という精神性と医学が噛み合わないと思っていたので、医学部ではない大学に進んでいたが、段々と嘘をつき続けることが辛くなり、養子先に本当のことを話した。
 当然ながら、Kは勘当される。学費も底を尽き、神経衰弱になっていくKを先生は同情し、自分の下宿先へと連れてきてしまう。Kは仏教徒の影響もあって、真面目で誠実な男だった。だからこそ、だんだんと静と仲良く話していることを疑うようになった。そして、Kはやはり静を好きになったと先生に告白をした。

 先生は、長年の幼なじみへの忠誠心や友情よりも、静が欲しかった。それで、彼は静に直接告白もせずに、彼女の母親にお嬢さんと結婚したいと申し出た。先生と、静の結婚が決まったが、彼はKには一向に言えなかった。しかし、とっくに彼女の母親がKに結婚の話をしていたのだった。Kはそれを知りながら、先生と話を普通にしていたのだ。

 そしてKは自殺した。

2 死と義

 「死」というものは、私達の意見を問わない。しかし、魂は私たちに語りかけては問いかける。Kのような取り消しえない一方的な「死」というものは、アドラー心理学でいうところの「復讐と告発」だったのか、それともプライドの高いハムレットが思い止まった「自殺」を遂行したのか、もしくはペレアスとメリザンドのメリザンドのように、小鳥でも死なない傷による死だったのか、Kは遺書を残して死んだ。
 先生は、サロメがヨカナーンの頭部を抱えるように、Kの死に顔を見ようとした。死を見つめるということは、ブッダの死を看取ったアーナンダがいたように、仏教にとっては重要なことだが、おそらくそういう意味で死に顔を見てはいないのだろう。終始、彼は義も礼も果たせなかったのである。先生にとっては残された遺書をKの本心だと思えなかった。遺書の内容から汲み取るだけなのなら、「自分は薄志弱行で到底行先の望みがないから、自殺する」というだけの内容だったが、先生は、Kの墨の余りで書き添えたらしく見える「もっと早く死ぬべきだったのに」という言葉を見つけてしまう。あたかも、遺書を通して、魂が「お前のせいだ」と、そう語っているかと思えば、敢えて書かれなかった事実によって、先生は自尊心が保てなかったのかもしれない。
 先生にしか聞こえなかった言語があったように、その死がずっと生きながらも首を絞めていた。乃木大将と重ねること自体が烏滸がましいことも分かっていて、違うからこそ、先生は自分の存在を無価値のように思いつづけていた。アーナンダはブッダの教えを後世に残したが、先生はKの死を、誰にも残せる術がなかった。ずっとそうだったが、迷い込んだように現れて、たった一人の書生に「遺書」として残すことにした。結婚した静でさえも、なぜ親友のKが死んだのか、その理由を知らなかった。その彼女の残された無垢な疎外感が、無常だったが、その中でも、たった一人だけの希望が残されていた。それこそ最後に列車に遺書を読んでいる若い書生の「私」なのかもしれない。そのことによって、漸く先生は、無名の存在から「師」となれたのかもしれない。

 日本語の「言葉」の語源は、神と共にあった(ヨハネによる福音書1章)のではなく、言=言の端であるという。日本の伝統にはキリスト教のような超越神は元々は存在しないことを意味している。それは闇の中から、絶対的な自立するような絶対者が存在しないということだ。
 それでも、西田幾多郎は日本の根底には、「形なきものの形を見、声なき者の声を聞く、といったようなものが潜んでいる」ともしたように、平家物語や曽根崎心中のように滅びゆくものや、移ろいゆくものを愛して美しいと思う文化がある。
 よって、夏目漱石を語る際は、このように現在あるものが知的に限定することのできない意義を持つことや、形なきもの、声なきものが意味することを踏まえて日本文学として捉えることが望ましいのかもしれない。
 確かに、目に見えないもの、声にならないもの、それを捉えようとするところはキリスト教と似ているところであるが、超越的な神を捉えようという点においては、表現のできない言語の壁があることは、キリスト教関連の翻訳をしていると常に感じていることである。しかし、それによって「違い」を「悪」としないことが、私は重要だと思っているし、海外が特段に優れているとも思っていない。(現に海外でも信仰心が薄まっているので)私たちは無いものを取り入れることであり、神に撒かれた種であり、それによってより日本人としての核を確認しなければならないと思う。
 むしろ、あちら側から見れば闇であるところの美を知っているということや、深淵をすでに私たちは知っているのかもしれない。私は、平家物語の八歳の安徳天皇と尼が後入水の悲哀の美しさを知っていることを誇りに思っている。その死は、何を伝えようとしているのか、時が忘却と共に過ぎ去っていくことを知らせている。大阪の曽根崎の神社に何度足を運んだが、心中した男女が何を思ったのか、その痕跡も残っていない。それは、その時に栄えた熱気は、どこにも残らないという現実を知らせている。それは美学と言える。
 死というものは、私達の意見や望みを考えずにやってくる不可避の出来事である。愛は個々人の感情や価値観によって多様な形をとり、時には罪悪感や葛藤をもたらせる。このように死は客観的に変わることでない存在である一方、愛は主観的に握られ、変化するものである。「こゝろ」には各々が背負った罪があり、Kにも医学部と偽ってきた罪や、そして自ら死を選んだというハムレット的な罪があった。先生がいつから罪を告白しようと思っていたのかどうかは、分からない。

 ここで、最後にルカによる福音書の18章9節から14節の話をして終わりにしようと思う。ファリサイ派は常に自分は正しいと思っていて、心の中でこのように祈った。「神様、私は他の人たちのように、奪い取るような者、不正な者、姦淫する者でもなく、また、この徴税人でもないことを感謝します… 」。それに対して、徴税人はこのように祈った。「神様、罪人の私を憐れんでください」。 イエスは、悔い改めた徴税人を「義」とした。

 先生の遺書の終盤は、明治天皇の崩御と、そして乃木大将の自殺について触れていた。彼は、乃木大将が生きながらに自殺を考えていた年げつを数えようとした。しかし、結局のところ先生は乃木大将の自殺する気持ちがわからなかった。そして自分自身の死を誰も理解できないだろうと遺書に残した。この一人称と三人称の死について、哲学者ジャンケレヴィッチは、死を一人称の死、二人称の死、そして三人称の死としたが、この話は、自殺を含め全ての死を描いている。
 二人称の死については、ユダヤ人の聖職者グロルマンは「私」の過去・現在・未来を奪うことがあるとしている。先生もまた、Kの死によって奪われてしまったのかもしれない。私たちにとっては、明治天皇の死も乃木大将の死も、三人称であり心的距離が遠い存在だが、それでも、漱石は「こゝろ」を通して、人間の内面の複雑さを映し出していた。先生の孤独や罪悪感、そして愛への希求は、時代背景が変わっても人間の本質は変わらないことを示している。明治時代という一つの時代そのものが、大きな変革期であり、人々の意識や価値観も大きく揺れ動いていた。
 その中で、嘗て武士道の道徳であった「義、勇、仁、礼、誠、名誉、忠義」を先生は何一つ果たせなかったようだ。結婚した手に入れたお嬢さんですら、彼は大切にはできなかった。現代の価値観で言えば、なんて身勝手なのだろうと思う。彼は働きもせず、資産だけ持っていて、奥さんに財産が残せると死んでしまった。
 彼は、この世で「無名」を生きているような存在だった。それが現代にとって、予言的にその「浮遊」した存在が遠い昔の人間のように思えない。なぜなら、存在意義や社会的責任がなんなのか今でも多くの人々にとって明確ではないからである。そして「恋は罪悪ですよ」という印象的な言葉は、明治天皇の崩御とともに自殺をした乃木大将に対し、恋ですらも義を果たせない「こゝろ」の在り方を表している。
 私はここで先生が徴税人のように、罪を自覚をして悔いあらためたと繋げるつもりはない。先生の「死」はそういったものではないのだ。Kへの義や、明治時代という終わりへの殉死ということを目指したようにも思えるが、明治天皇と乃木大将のようなものでもないことを充分に彼もわかっていた。妻にもKの話ができない彼は、一人迷い込んだような青年に自分の人生を書き残した。それは、跡形も残らない美学への最後の抗らいだったように私は思える。
 この抗らいこそが、最終的に美しいのだということを、この文学は伝えている。「恋は罪悪ですよ」と言いながらも、先生は青年に人を愛すことを諭したままだった。この話がよく表しているのは、謝罪したい対象が消えてしまうことである。
 よく多くのキリスト者が勘違いしている、「神に謝罪をすれば良い」ということなら、高みにいる気分になっているファリサイ派と同じなのである。あの箇所は、義を尽くせなかったものをイエスは望んでいない、と捉えるべきではないだろうか。先生は終始、卑怯だった。妻も残して自分のことばかりしか考えられない人だった。それでも、如実に表したのは、形あるものは全て消え去ってしまう、ということである。

3 現代の「こゝろ」とは

 現代のカトリック教会が抱える問題において重要なのは、「被害者の訴えに耳を傾けること」だが、たとえその被害が何十年前の出来事であっても、私たちはそれを軽視してはならない。謝罪を求める声は、共同体にとっては神と対話するためのものであり、優しさと理解を持って応じるべきだ。聖職者も、信者からの「批判」は回心の機会として受け入れるべきだろう。

 「こゝろ」の登場人物たちは、一人称から二人称、三人称へと愛と死が交差する中で描かれているが、本書と読者の関係にも第三者としての「共感」が重要だった。経験が伴う時もあれば、経験ではなく想像であったとしても、心を通わせなければならなかった。しかし、現実のインターネットではそういった第三者の言葉を共感するということが、必ずしも正しく受け取られない時代となった。

 かつて私は「私刑」を「mob justice」と訳したが、当時は誤訳とも思われたかもしれない。しかし、最近の事件や世論を見ると、これは間違いではなかったと実感している。日本ではカトリックに関心が薄いため、mobによる制裁は行われていないが、「学校の先生」が同様の行為をしていた場合、すでにmobによりネット上で身元や顔写真が明かされて「私刑」に遭っている。

 SNSの普及により、他者の死や痛みが身近に感じられる一方で、同情を装ったmobの暴力性が問題となっている。インターネットで仕事をしている人は、この暴力性を「トラフィック」という視点でしか見なくなっていき、将来的には、AIが不適切な投稿を制御する可能性があるが、誰か中心的な存在が、自制を求めることは不可能になっている。

 現代は、自分と他者を切り離して考える必要性が問われている。戦争や災害に関する情報もフェイクが混じるため、真偽を確認することが困難になった。被災者への同情の言葉が逆に傷つける場合もあり慎重さが求められ、誰かの「死」を知り、遺族に優しい言葉をかけたつもりが、誤解を招き誹謗中傷と捉えられた事例も存在する。このような中で、自制できる人は第三者と距離を置くことを学ぶようになるが、そうでない人はmobの一員として暴力を行使し続けていく。

 カトリック信者が困った末に、このようなmobの力に頼ることがないように、一同は過去の罪を認め、教義や教会法を見直し、自制と自戒を率先することが重要であると私は思う。この夏目漱石の「こゝろ」の先生が過去に苦しめられていたように、被害者の声を尊重し、過去の出来事を持ち出すことがいかに苦しいかを、理解していくこと、少なくとも私たちは、隠蔽に加担してはならない。

 先生を苦しめたKの影のように、私たちは良心を持ち続けることが大切なのだ。何故なら、心とは善悪の区別もつかない深淵があり、イエスが「義」ではないと指しているものがあるのだから。

 皆さま、自分の人生と大切な人への感謝を忘れないように。

*ハムレット的な死―ハムレットは父親の代わりに王位についた叔父とその妻になった母の不道徳に嫌気がさして自殺をしようと思うが、信仰があるが故にできない、というシーンがある。

(Chris Kyogetu)
2024年6月6日

・愛ある船旅への幻想曲(40) 真面目に向き合う仕事の流儀は、信仰生活にも当てはまる

 私の仲良しに84歳の果樹専門の農学博士がいる。彼は未信者であるが、りんごの話になった時にアダムとイブの話も出た。私へのサービスか。勿論、“知恵の木”についての話だった。私が“知恵の木”について数々の説を伝えると「その果実は、その時代にはなかっただろう。だから受け入れ難い説だ」など、専門的な視点から丁寧な説明を受け納得できることに真の導きを知る。

 彼が今も果樹に対してどんな些細なことにも興味を示し、知識を深めようとする姿勢は、その力説から隠すことはできない。そして、最後に必ず言うのが、「こんなくだらんことを、私は一生懸命にやってきたのです」だ。この謙遜の内容にこそ、私たちが大事にせねばならないヒントが隠されているのではないか

 私が「後輩の研究者たちには、先生の研究は大事な資料となり、ありがたいでしょうね」と言うと、彼は遠くを見つめ、「自分は講座の為に一生懸命に資料作りをし、喋る喋るだけだった… 今の若い者たちが既存の考え、資料をどう扱かおうと、それはそれで仕方ない」。そして「知識は過去のものであり、考えることで未来へと繋がる」と力を入れた。このネイティブ・アメリカンの教えであろう言葉を久しぶりに聞けたことに「えっ」と、そして新鮮だった。

 何気ない話から自分の背筋が伸びた時、私の心はウキウキし、宣教もこうでなければならない、と改めて今の教会を憂うるのである。

 人間は、考え続けることで結果を出す。データ処理からしか結果を出すことのできないAIと、自分の研究にとんでもない時間をかけ、その経験から丁寧に整理された分析結果を発表する人間とでは、大きな違いがある。どの分野であれ、その道一筋の専門家は、私にとって虚心坦懐に話し合える「思わぬ出会いの友」であり、態度や話す内容に揺らぎがない「安心」の友である。

 これは、組織のトップとして生きてきた優しさと厳しさを併せ持つ人特有の、自然体での付き合い方かもしれない。そして、無駄と思われることは簡単に排除し、人付き合いも”八方美人”から程遠い性格からは気品を感じる。

 私は、彼と同い年の奥様との付き合いの方が長い。二人の馴れ初めも存じている。「今は叱られてばかり」と彼は私に言うが、仲良く若々しいTシャツを着て笑顔でおしゃべりしながら散歩する夫婦の姿からは、そうでないことが一目瞭然である。生きた愛のメッセージを己を極めた人たちから学ぶことは、真実の愛を実感する瞬間であり、これこそが愛の宣教だろう。

 生きている愛は、聖書の教えをスムーズに理解するためにも必要だ。愛は頭で考えるだけでは味気ない。真実の愛は、人と人とが葛藤しながらも互いに信頼できる関係が築けた時に、神が示してくださるのではないだろうか。

 何の職種であれ、真面目に向き合う仕事の流儀は、恋愛そして信仰生活に当てはまることを84歳の友から学んだ私である。

(西の憂うるパヴァーヌ)

2024年6月4日

・神様からの贈り物⑪「私は、私であっていい」ー障害者グループホームでの出会い

   3年ほど前、障害者グループホームで、生活訓練をしていた時期があった。そこで同じ神様を信じている人に出逢った。

  いつものように、共有室(入居者たちが集まって、団らんを過ごすスペース)で、紅茶を飲み終えたところだった。洗ったカップを棚に戻そうとした時、聖書の言葉が書かれたマグカップを見つけた。「もしかしたら、ここに同じ信仰を持つ誰かが入居しているのかも知れない」と思い、わくわくした。もちろん、ここは一般の福祉施設なので、宗教の話は持ち込めない。ただ、そのマグカップが誰のものなのか、どうしても知りたかった。

  翌週、あのマグカップの持ち主は、Yさんというスタッフだと分かった。私は、はやる気持ちを抑え、皆がいなくなった頃合いを見計らって、そっと尋ねた。「スタッフさんは、信者さんなのですか?」「そうなんです。プロテスタントの教会に通っています」。カトリック教会ではなかったことに、少しがっかりしたのが、正直な気持ちだった。

  半月後、再びYさんと話す機会があった。「先日は立ち入ったことを聞いて、すみませんでした。しかも、私はカトリックなのに…」すると、彼女は穏やかな笑顔を浮かべた。「いいえ、同じ神様を信じているのを教えてくださって、うれしかったですよ」そう言われて、はっとした。同時に、彼女の人間性と魅力に引き寄せられた。

  私たちは、グループホームという場で出会ったので、神さまについて、多くを語らなかった。でも、Yさんの温かな眼差しや優しい声、料理する時の手つきから、神様への信頼の強さと従順さが、手に取るように感じられた。

  私が、「いつか、リカバリー・ストーリー(精神疾患からどのように立ち直ったかという体験談)を、みんなの前で話したい」と希望を打ち明けたら「麻衣さんが発表する時は、必ず行きますよ」と約束してくれた。

  訓練を終えてから約1年後、私がリカバリー・ストーリーを語る機会が実現した。その会場には、Yさんもいた。無事に発表を終えると、Yさんとグループホームの仲間たちが、私を客席で待っていた。みんなで抱き合い、喜び合った。Yさんは「 もう、言葉にしてしまったら、薄っぺらくなってしまうのよ。もったいなくて何も言えないわ」と誉めてくださった。そのYさんの声を聞きながら、グループホームの訓練を卒業する直前のことを思い出していた。

  あの日、Yさんからメッセージを受け取り、私は涙が止まらなくなってしまったのだ。そこに書かれていたのは「私は、私であっていい」という言葉が冒頭に加えられた『世界にひとつだけの信仰宣言』だった。

  彼女に出会ったことで、「神様に『I love you』を伝える時、私はどんな言葉を選ぶだろう?」と考えるようになった。Yさんの「私は、私であっていい」という言葉は、神様の愛をとても理解しやすく表現していると感じる。私も、相手に伝わる言葉や形で、イエス様の思いを表現し続けたい。

(東京教区信徒・三品麻衣)

2024年5月31日

・カトリック精神を広める⑦「映画がカトリックを広める!」

 筆者は二十歳前後の頃、フランシスコ会の修道院があった瀬田教会に所属していた。その頃はどこも、「青年会」の活動が活発で、神父様を交えた黙想会や、キャンプ等の催しがあり、所属する教会内での青年たちの交流が盛んだった。この時の青年会の面々は、50年経っても年に1回は集まり、懇親会を開いている。皆それぞれ、所属する教会で、会長になったりして、重鎮となっている。

 しかし最近では物故者も増え、葬儀ミサなどの関係で彼らの子供たちの教会との関わりも明らかになったのだが、どの人の子供も、主日のミサに出ていない。すなわち、このことで判断する限り、自分の子供たちにカトリック精神を広めることができていない、ということである。中学1年の我が息子も例外ではない。日曜日に教会に行くことを嫌がるようになり、最近、教会に行っていない。

 宗教を強制しないことがカトリックの良いところではあるが、このままでは、教会がじり貧となることは必定。そこで、どうやってカトリック精神を広めるかを考えてみた。筆者は、身寄りのない子や育児放棄された子供を預かって教育するサレジオ学園で小学から中学まで9年間を過ごし、色々なカトリックの教育を受けたが、その中で、カトリック精神豊かな映画を見せられ、感動した経験を持つ。それが、今の子どもたちにカトリック精神を伝える方策を考える場合のヒントになるかも知れない、と思い、学園で見て感動した映画を紹介することにする―「ベン・ハー」だ。

 「男の中の男」と称えられる俳優チャ-ルトン・ヘストンが、エルサレムのユダヤ人豪商の息子、ユダ・ベン・ハーとしてイエス・キリストのご受難に合わせて物語が進行するこの映画は、私にとって今もって最高である。

 映画の大筋は、次のようなものだ。

 ベン・ハーは、ローマ軍の百人隊長のメッサラと幼なじみで、ある日、2階からローマ軍の馬の隊列を見学していたが、ふと触れた瓦が隊列の前に落ち、ローマ軍の一人が落馬するという事件が起きた。故意の事故ではないのに、幼なじみのメッサラが彼を助けず、家族全員が捕えられ、母と妹は牢屋に、ベン・ハーはガレー船の奴隷として、鎖につながれ、オールをこぐ奴隷になった。その戦いの中で、ベン・ハーが乗った船が火災に包まれ、船が沈没するという中で、ベン・ハーは、窮地に陥ったローマ軍の将軍を救ったことで、将軍の養子となり、奴隷から解放されることになった。

 そんな中、たまたま、戦車レースがあり、幼なじみのメッセラと対戦することになった。この2頭の馬を操って競争する戦車レースが、CGを使う今と違い、本物を使っており、手に汗握る見応えのあるシーンとなっている。

 戦いの後、ベン・ハーは、大けがを負った幼なじみのメッサラに会い、牢屋に入れられた母と妹が、重い皮膚病となって、人里離れたところに暮らしているのを聞き出した。密かに母と妹を連れ出したところ、途中で、キリストが十字架を背負ってゴルゴタの丘に行く受難に遭遇する。そうして、キリストが十字架上で亡くなる時、重い皮膚病を患った母と妹の体がどうなるのか。最後のシーンは感動ものであった。

 この映画は、ユダヤ人とローマ人の友情と争い、それがキリストのご受難と重なり、なかなか見事なカトリック精神を広める娯楽映画となっている。作者は神様の助けを得て、この物語を着想したと、証言している。

(横浜教区信徒・森川海守=ホームページ:https://www.morikawa12.com

 

2024年5月31日

【2024年5月の巻頭言】  「アド・リミナ」で司教たちは何を得たのか、果たされない「説明責任」

        

 

4月の日本の教会の祈りは、ご案内の通り、「日本の司教団アド・リミナ」だった。そこでは「日本の司教団がペトロの後継者との絆をさらに深め、よい牧者として日本の教会を導いていくことができますように」と祈るよう求めていた。

 

そして、アド・リミナ終了後のカトリック中央協議会ホームページでは「今年は、Covid-19の影響もあって、2015年以来の訪問でした。司教たちは、この機会を利用して、関係する教皇庁各省庁にも訪問し、日本での宣教司牧のため、情報交換などを行いました。 このアド・リミナが豊かな実りをもたらすよう、皆さん共にお祈りください」とあった。

 

9年ぶりのアド・リミナ。このように、繰り返し、信徒たちに祈りを求めているにもかかわらず、司教たちが教皇と、教皇庁各省庁の責任者と、どのような意見のやり取りがあり、どのような受け止めがされ、どのような成果を持ち帰ることが出来たのか、それをこれからの教会活動にどのように生かしていこうとしているのか。私たちの知りたいことは何一つ報告されていない。

これで、「豊かな祈りをもたらす」ように、共に祈ることができるのだろうか。

 

下世話な話かも知れないが、補佐司教も入れて17人もの司教団が、遠路ローマまで往復し、5泊滞在するのには相当額の経費がかかっただろうし、その全額は日本の信徒たちの献金からまかなわれたであろう。昨今の急激な円安でさらに経費は膨らんだであろう。全国の信徒たちに、繰り返し祈るよう求め、そのうえ経費まで負担させ… それだけ考えても、社会の一般常識では、その恩恵を受けた方々は、説明責任を果たす必要があると考えるが、教会ではそれが通用しない、いや、通用しなくて当然、と考えておられるのだろうか。

 

菊地・カトリック司教協議会会長の「週間大司教」や、中央協議会ホームページ、そしてバチカン放送日本語版の形ばかりの報道は「カトリック・あい」でも転載したが、閲覧件数を見ても、かなりの読者が関心をもって見ていた。しかし、肝心の中身は、音声なしの動画も含めて、皆無と言っていいほど。そして、いまだにそうだ。

 

菊地会長の「週間大司教」には、教皇からは「公式なスピーチはいらないから、じっくりと話を聞かせてください」と言われ、「それから1時間以上をかけて、日本の教会の様々な出来事について、司教たちが順番に教皇様に報告し、教皇様からもいくつかの質問があり、非常にリラックスした雰囲気の中で、共に分かち合う時間をとることができたと思います」とあり、「内容について記すことはできませんが」と念を押したうえで、「教皇様は日本の教会について、詳しく情報を事前に把握されており、具体的な質問がいくつもありました。あれだけ激務の中で、どうやって準備をされているのか、教皇様のその配慮に感銘いたしました」とある。

 

「内容について記すことはできません」というのは、教皇から、かん口令を出されたのだろうか。そうでないなら、一字一句でなくとも、教皇と司教たちとのやり取りの概要、あるいはポイントの説明がなければ、その場にいない信徒・聖職者は「感銘」のしようもないではないか。

 

シノドスの歩みも満足にリードできず、聖職者による男女信徒への性的虐待が相次いで訴えられていても適切に対処できないばかりか、無視あるいは隠蔽さえも耳に入り、長崎、仙台のように裁判所に訴えられて、損害賠償の命令まで受け、司祭の減少、高齢化の中で本来なら療養させるべき司祭に複数の教会を担当させざるを得ず、魅力を失った教会に若者の姿は減り、司祭志願者もなかなか出て来ない…という現状を率直に報告したのだろうか。

 

そのような報告がなされない限り、教皇やバチカンの幹部たちから適切な助言を得られるはずもないが。それとも、教皇は「日本の教会について、詳しく情報を事前に把握されていた」というから、そのような問題をわざわざ司教団側から説明する必要がなかったのか。いずれにしても、教皇からどのような示唆、助言があったのか、今後の教会のためにも、日本の全信徒、全聖職者と共有する必要があるだろう。

 

差し迫った課題として、司祭による性的虐待への対応がある。菊地・東京大司教、成井・新潟司教を輩出している修道会「神言会」に対して、原告被害者が損害賠償を求める裁判は、5月8日の午後2時から東京地裁第606法廷で第3回口頭弁論が行われる。被告側はこれまで代理人弁護士のみで、神言会の代表者は出廷していない。提訴されたことに不服があるなら、出廷して、堂々と反論をすればいいではないか。いや出廷は義務ではないか。

 

「カトリック・あい」には、ほかにも東京教区の複数の修道会がらみの聖職者による性的暴行被害の相談が2件、寄せられている。これまでのように、被害の訴えにまともに対応せず、無視、あるいは隠蔽の動きさえも聞こえる状態を放置しておけば、ドイツの教会で起きているような、まともな信徒の教会離れを加速する恐れもなしとしない。

 

9年ぶりのアド・リミナで司教たちは何を学び取ったのか、そして、それをもとに、このような問題も含め、これからの教会のために何をなそうと”決意”したのか。是非とも聞かせていただきたい。読者諸兄姉のご意見もお待ちしています。

 

 

*追記(5月25日加筆)*

以上を執筆後、西日本の友人司祭から、5月1日付けのカトリック大分教区報「こだま」534号のトップで、教区長の森山信三司教が「9年ぶりのアド・リミナ」というタイトルの記事を載せられたことを教えられた。部分的ではあるが、ご本人がどのように今回の訪問を受け止めたか、教皇やバチカン幹部の印象に残った言葉などが率直に報告されている。福岡教区も6月号の教区報で報告がされると聞いている。森山司教の報告は、「カトリック・あい」の「特集」欄に、大分教区の了解を得たうえで転載した。

本来であれば、司教協議会として、単なる”日程報告”ではなく、公式な報告として、日本の信者が目を通すことのできるような形で、具体的なやり取りをまとめ、参加した17司教の、森山司教のような報告も併せて、全国の司祭、信徒が”成果”を共有できるようにするのが、当然だろう。その司教協議会会長で、アドリミナの司教団団長を務めた菊地・東京大司教も、若干遅れて、インターネットのホーム・ページ「週間大司教」で「アドリミナを振り返って」の不定期連載を始め、5月25日現在、第六回まで続いている。5月25日から「カトリック・あい」では、シノドスの項目にまとめて掲載している。

内容はともかく、伝えよう、と言う誠意は見られるものの、見出しもなく、極めて読みにくい。しかも、「週間大司教」という、半ば非公式なページでの掲載であり、どれほどの信者が掲載に気が付いているのか、加えて、特に高齢の信徒は、インターネットのホームページを開くことも多くない。大司教がご自分でなく、アドリミナの広報担当を決めて、受け手の読者、信者に幅広く、分かりやすく共有する努力を司教団としてすべきではないだろうか。このままではせっかくの9年ぶり、多額の人的、物的負担のもとになされたアドリミナの成果を共有するには程遠い。

 

(「カトリック・あい」代表・南條俊二)

 

【読者から】

 

+5月号巻頭言、読ませていただきました。司教団、アドリミナ、本当に無駄ですね。彼らは自分たちが信徒をバカにしていることがわかっているのか?

 カトリックの良さはその霊性が修道会によって担われ、霊的で静謐な点にあるでしょうが、教会の中で誰も彼もが「従順」であるべし、「従順」であるはずということが重んじられたのも、修道会の影響です。それ自体は悪いものではありません。日本の幾人かの司教は修道会の人です。彼らも悪人ではない・・。ヒエラルキーを神の意思とすれば、従順は尊し、と、自然そうなります。神から教皇へ、そして司教へ、司祭へ、信徒へと。上から下へ、従え、従えと…。
 「時のしるし」とは時代による人類の進化の中で、見方が大きく変化するということでしょう。従順を暗に要求するヒエラルキーを叩いていかないと、カトリック教会は変わり得ないでしょう。少なくとも教会論に関して悪の根源はヒエラルキーにあると思います。東大の藤崎衞さん等の中世研究はもっと注目されていくのかもしれません。
 残念ながら最初のフランシスコ教皇の講演やシノドス文書にあった「逆さピラミッド」という語は、たぶんどの司教も真剣に受け止めたことも、司祭たちに語ったこともないでしょう。無理解か危機感のなさか…。教会の力、権力が神からのものでないことを強く訴えていかないと教会は改革できないでしょうね。ドイツの司教団はKMUに参加することで「信徒の声」「時のしるし」を聞こうと、シノドスの精神でやっています。でもこのままでは、あと10年すれば、西欧の教会も日本の教会も今の3分の1も信徒はいなくなるでしょう。(南の、ある司祭)

 

 

+巻頭言を拝読しました。全く同感です。説明責任を果たそうとしない点については予想通りという気もしています。司教さんたちは都合の悪い情報は、今までと同様に公表しないだろうと思うからで   す。公表しなくても、司祭・修道者・信徒たちは何も言わないだろうと高をくくっているのでしょう。

「従順」の名の下に、司教には誰も意見を言わない(言えない)風潮が教区全体に蔓延しています。これが教会の衰退の始まりであり、やがてカトリック教会全体が泥船として沈没するだろうと危惧します。アドリミナの報告を公表する勇気ある司教さんが出てくることを期待しています。その前に、共に歩むシノドス的教会を望む信者たちで、アドリミナに関する情報公開を求めることが必要だと思います。(西方の一信徒より)

 

 

+私は、毎月の巻頭言を楽しみにしている一人です。 9年ぶりのアド・リミナに補佐司教も入れて17人の旅の様子の動画を一度だけ拝見しました。「楽しい観光旅行?」が率直な感想でした。

 日本では信徒の二極化が益々進み教区の運営もままならない状態では?と、思うのは私たち信徒だけなのでしょうか。司教団の方々は、どのくらい信徒の状態をご存知なのでしょうか。教皇フランシスコよりも日本の状態を知らないようでは、バチカンに行った意味がないでしょう。
 私自身は、「大阪高松教区合併劇のシナリオが、現在の日本のカトリック教会の問題の実態を、そのまま物語っている」との結論に至っています。どこに真実があるのか、誰が嘘をついているのか、今も何もわからない。大阪高松が発表し続けた内容や日付は、その式典で読み上げられた内容と日付とは違っていたことは実に不思議なことです。司教団が取り決めた茶番劇だったのでしょうか?または、勝手に好きなように動いた聖職者がいたのでしょうか?彼(ら)はカトリック教会を守ったつもりでしょうか?(結局は、自分を守った?)
 世間で”正しい”と思われている組織ほど、『組織防衛』に長けている、それは宗教組織を見たら分かる、とさえ言われています。おまけに、カトリック教会には位階制度を利用する“隠蔽体質”も、ハラスメント問題から公けに知れ渡っています。
 既に教会を離れている信徒は大勢いますが、心ない聖職者が存在するカトリック教会が衰退していくのだけは見たくない。未来の教会のために正々堂々と意見を述べて教会を追われた信徒たちですから。(今の教会に疑問しかない一信徒)
2024年5月31日

・“シノドスの道”に思う ⑫ ドイツの視点から考える・その6「教会員調査に見る教会離れと 信者団体の批判」

 前回はドイツの福音主義教会が発表している教会員調査から「教会への信頼」の点だけを紹介しましたが、不十分でした。そこで、今回は、調査結果に対する二人の司教のうちの一人Dr.Tobias Kläden(司教協議会宣教司牧部門議長代理)の声明の概略を紹介します。冷静な分析で、これによって、カトリック教会の現状を、今まで以上に客観的に司教や司祭たちも認めざるを得なくなったと思われます。最後に、信徒団体「Wir sind Kirche(我々が教会)」の批判もご紹介します。

*宗教に関心を持つ人は全人口の半分以下

まずドイツ全体では、宗教に関心を持つ人は全人口の半分以下で、世俗的な傾向の人が全体の56%を占めています。宗教に関心を持つ人の中でもその過半数は宗教的な組織や団体から距離を置いています。幼児洗礼の時に入れた籍はそのままでも、ミサ等には参加せず、自分の考えによる宗教・信条を生きている人々が25%。実際に宗教的な組織や団体につながっている人は少数派になっています。

 既存のカトリック、プロテスタントといったキリスト教会に所属する人は全体の13%。しかも、そうしたカトリック信者で「私にとって宗教は意義がなく、どうでもよい」という人は39%いますから、この点からも教会を離れる可能性の人が多数いるということになります。

*キリスト教離れの傾向が強まっている

「何を信じているのか」との問いに、「唯一の神、すなわちイエス・キリストにおいて自らを表わした神を信じる」と答えた人は、全回答者(カトリック者が32%、福音主義者が29%)
のうちのわずか19%。29%は「”より高次の存在”、あるいは”ある霊的力”を信じる」としています。10年前の調査と比べて、宗教の中でキリスト教を支持する割合は減っています。

 実際に、教会離れも進んでいます。自分を「信心深い、教会に近い・親しい者」と思っているのは、カトリック信者のわずか4%、福音主義の信者のわずか6%でしかありません。カトリック者、福音主義者いずれも、約3分の1が批判的に教会に結び付いているか、教会から距離を置くかしています。

 カトリック、福音主義の信者のそれぞれ6割が、”本質的、基本的”に教会との繋がりを持っていません。ただ、「教会との結びつきの感情が時が経つうちに変わったか」との問に対しては、カトリック信者の約3分の2が「以前はもっと強く結ばれていた」と言っているのに対し、福音主義者は3分の1足らずが同じ答えをしています。

 

*カトリック教会への信頼度が劇的に落ちている

 カトリック、福音主義それぞれへの結びつきが弱まるに従って、教会に対する信頼も低下していますが、とくにカトリック教会に対する信頼の”侵食”は劇的です。前回も述べましたが、カトリック教会は世間からも、福音主義教会員からも、そしてカトリック教会員からも、あまり信頼されていません。カトリック教会員は、「カトリック教会よりも福音主義教会のほうが信頼できる」、さらに「教会よりも、公的機関の方が信頼できる」と考えています。カトリック教会への信頼度はさらに低くなる傾向にあります。

 

*教会離れを考える人が増加、主因は「スキャンダルへの対応」

 教会離れの傾向は強まっており、43%のカトリック教会員と37%の福音主義教会員は教会を離脱する考えを持っています。すでに、何度か教会を離れることを考えた、と答えています。離脱を考えていない信者は、カトリックで27%、福音主義で35%に過ぎません。

 離脱しようと考える理由は「教会の”対応”の仕方」に関係するものが最も多く、具体的には、教会関係のスキャンダル、性的な虐待と、隠ぺいがあります。「教会の無頓着、冷淡」「教会がなくても私はキリスト者でいることができる」「私は教会の態度表明に怒りを感じる」「教会の内部構造がヒエラルキー的すぎ、非民主的」「教会は女性の扱いが不平等」なども主な理由に挙げられています。

*離脱を思いとどまる理由としては

 少なくとも今は、教会離脱を決意していない(あるいは、いなかった)と答えた人に、今後も離脱を踏みとどまる条件を聞くと、カトリック信者の場合、「 どれほどの罪過を自ら背負っているかを、教会が明らかに認める」が82%、「 教会において男も女も同等の権利を持つ」が77%、「 教会が根本的に改革される」が72%となっています。教会の今後の取り組み、改革が、信者の教会離れを食い止める鍵となることを示しています。

 

*根本的な改革への要望

 調査結果は、教会に対して、まだ「期待」が存在しており、「改革」を求めていることを示しています。カトリック信者の96%、福音主義教会員の80%が「教会が『将来』を持ちたいなら、根本的に変わらなければならない」と述べています。「教会改革が正しい方向に向かっている」と受け止めている人は、福音主義教会員では78%いますが、カトリック信者では49%と半数割れです。

*具体的な要望

 教会に対して具体的に求めるのは、カトリック信者の場合、「社会的なアドバイス・助言の場所を運営すること」(全体の92%)、「避難民の受け入れに尽力すること」(79%)、「気候保護をもっと頑張ること」(76%)など。

 カトリック者の84%以上が「司祭任命のための決定権」を要求しています。「同性愛者のパートナーシップの祝福」(86%)、「教会の指導的人物の民主的な選挙」(7%)、「独身制の廃止」(95%)。「カリック教会と福音主義教会の共同作業」「宗派の個性の強調ではなく、協同」も、93%が求めています。

*信者団体「Wir sind Kirche(我々が教会)」の主張と怒り

「Wir sind Kirche(我々が教会)」は1995年に発足し、一般信徒、聖職者約1800万人の署名を得ている組織で、うち1500万人はローマ・カトリックを信仰告白。以前このコラムでも紹介した倫理神学者ゲルハルト・ヘーリンクやハンス・キュンク(いずれも故人)などもメンバーです。

 ドイツの司教協議会と信徒組織ZdKは、双方による「共同統治」を前提とした「シノドス委員会」を設置、さらに2026年に「シノドス評議会」を設立することを決議しました。しかし、「シノドスの道に思う⑨」で述べたように、バチカンから書簡で「シノドス委員会の規約を司教協議会全体として承認・批准するための投票を、行わないように」との”指示”を受け、司教協議会は、これに従って投票をしませんでした。これに「Wir sind Kirche(我々が教会)」が反発。3月1日に、司教団に対して「議事予定から投票を除けというのは、ローマからの誤ったメッセージだ。このような脅しに負けてはならない!」と声明を出しました。

*バチカンの矛盾-”ヒエラルキー(位階制)”と”シノダリティ(共働制)”のはざまで

 ”シノドスの道”を進める教皇フランシスコはこれまで、繰り返し「シノダリティ(共働制)と対話」を励す一方で、シノダリティを具体的に実行しようとするドイツの教会の取り組みを事実上、妨げ、バチカンの幹部たちは対話にも応じようとしない、これは無責任ではないのか、と「Wir sind Kirche(我々が教会)」は指摘しています。そして、このようなバチカンの姿勢が、「ドイツにおけるローマカトリック教会の評価を低下させており、昨年10月に公表されたドイツの教会員調査KMUの結果はその表れ」と断言、バチカン教理省の長官を実名で批判しています。

 「バチカンはドイツ司教団にシノドス委員会の投票を中止させたことで、ドイツ司教たちを困難な立場に陥れた。教会法の下では司教たちはローマに従う義務があるとしても、司教たちから信徒組織ZdKに助けを求めて進めてきたのに、そのドイツの全カトリック信徒を代表するZdKを裏切るような事態に至らせたのは解せない」と。

*バチカンの対話拒否は”シノドスの道”から外れていないか

 「Wir sind Kirche(我々が教会)」また、ドイツ司教団の”シノドスの道”をその中途で拒否し「シノドス委員会」への財政的支出を拒んだ4人の司教たち(ケルン、アイヒシュタット、パッサウ、レーゲンスブルクの4司教区)の姿勢は、ドイツの将来の教会の生育を阻むものとして有罪だと非難しています。この保守的な4人がいなければ、ドイツ司教団は一つにまとまっていたのに、彼ら
の存在がバチカンに「No」と言わせる口実を与えたから、としています。

 さらに、教皇大使であるエテロビック大司教にも非難の矛先を向け、「外交の仲介者としてではなく、”バチカンの犬”として振舞っているのであり、彼もまた対話を拒絶するバチカンと共に非難されるべきだ」とし、「これらは信頼の欠如であり、力を失ったバチカンの高位職の単なる恐れを示すものでしかない。教皇フランシスコは、バチカンの人々は地方教会に仕えるべきだ、と言っておられるが、それも空しい言葉に過ぎない。対話を拒絶するバチカンのやり方は、”うつろなシノダリティ”に過ぎない」と批判。

 「シノドス委員会」の次の会合は6月に行われるが、「それまでにバチカンとの交渉など、前向きな動きが必要。さもないと、シノダリティのすべての言葉は、うつろなものにとどまるだろう」と言明しています。

筆者はこのコラム「シノドスの道に思う⑥」で、ZdKの副議長でもある神学者Thomas Södingの言葉から5つのことを共に考えるべきだ、と述べました。それは①聖書②伝統③時のしるし④神の民の声⑤教導職と神学-です。③と④を真剣に受け止めない限り、”シノドスの道”は、「Wir sind Kirche(我々が教会)」が危惧するような”うつろなシノダリティ ”に終わってしまうでしょう。

注*教会員調査(KMU)については https://kmu.ekd.de、司教の声明は https://www.dbk.de 、「Wir sind Kirche(我々が教会)」についてはhttps://www.wir.sind.kirche.de 参照。

(西方の一司祭)

2024年5月31日

・Sr.阿部の「乃木坂の修道院から」①タイの山村から東京に戻って気付いたことは

 タイ国での宣教の任務を終え、東京・乃木坂の修道院に帰りました。日本での福音宣教再開です。

 早速、「お帰りなさい!長きに渡るタイでの宣教、お疲れさまでした。日本は宣教においても司牧においても、ある意味で『上級者コース』ですので、難しいことも多いでしょうが、聖霊の導きのもとで、シスターの新たなミッションのためにお祈りします」との言葉をいただき、新たな気持で日本での生活に臨んでいます。祈りの声援に支えられ、霊の激励ナビに信頼し導かれて励む覚悟です。

 30余年の空白を埋める順応の日々、結構、新鮮で、楽しんでいます。日曜日は出来るだけ教会巡りを、道順を覚え、複雑な交通網を少しでも自在に利用できるようにし、信徒との触れ合い、教会生活に親しむように努めています。

 整然とした東京とバンコクとの差は大きい。発展途上の若々しい意気込みと元気には負けますが、東京には緑の空間もここかしこにあり、「空気も、空も、澄んでいるなぁ」と感じます。それと諸外国からの人々、特に同じアジアの仲間の多さ、道案内を請うにも確かめてからでないと、何度も空振りです。どこも同じ都会の風景の中で、ほとんどスマホのお世話になりっぱなし。バンコクでの日々の車内の様子が、東京でも…何とも言えない気持ちです。

 日本に帰る前に、タイの山岳の村に日本の仲間とホームステイをしました。電波の届かない、ソーラー電気を使っている村で「スマホ、バイバイ」の生活。顔と顔を合わせ、しっかり見つめ合って全身で語り合う醍醐味に、都会での「心ここに在らず」の在り方、スマホ依存の生き方に気付く機会になりました。「この体験を生かし、解放された自由な生き方を工夫しよう」と皆で語り合って山を下りました。

 ある日、車内で、目の前に座っている4歳ぐらいの男の子が、スマホ夢中の母親に「ねぇねぇ」と話しかけている光景に出会いました。母親は、子供の手を振り払い、「邪魔しないで」という仕草を繰り返し、男の子は立ち上がり、歌いながら踊り始めたのです。それがとても可愛らしく、車中の客は皆んなニコニコ顔で子供に注目しました。それで、とうとう母親も、笑いながら子供に目を向けたのです。

 わが身を振り返って、自分も知らず知らずにスマホに頼り、肝心な事への集中力が弱くなってきている、と自戒しています。スマホをスマートに利用する知恵を身に着け、AI 時代にあっても、成熟した感性と温もりを魂に漲らせて生きたいと思います。

 

(阿部羊子=あべ・ようこ=聖パウロ女子修道会会員)

2024年5月6日

(読者からの投稿)「カトリック・あい」のタイトルの意味を知って衝撃を受けた

 友人の司祭から届いた「カトリック・あい」を読んで衝撃を受けての感想です。まず、タイトルの意味を知って「なるほど!」と心が震えました。これが第一の衝撃でした。日本の教会でこんなにも誠実に思いを巡らす人がいたことに驚いたわけです。

 ボクにはこの数行を読んだだけで、飛んで行って語り合いたい衝動にかられました。あえて繰り返させてください。「先ず主体性を持った私がいて、」。司祭主導の現実を思うと極めて刺激的な言葉です。司祭主導が必ずしも正解とは思えない現実がいくつも思い浮かぶからです。こうした本質的な発想ができることに感動したわけです。

 「まわりに目を見開き」。「目を開き」と書いて本文に目をやって「見開き」となっていることに気が付いて慌てて修正しました。単に見るだけのだとぼんやり眺める雰囲気がありますが、「見開く」となると「ナンダコリャ!」と驚いて見つめる雰囲気です。「コラッ!」と肩をたたかれたようで思わずシャキッとなる感じです。

 「教会はイエス様が建てられた聖なるものだから、仰ぎ見ることこそ信者らしい」という雰囲気の中で育てられた自分としては、やはり刺激的です。ただ父親は、子供ほどの年の違う司祭たちへの辛口の評価を子どもたちの前でやっていたので、母親譲りの信仰の感性に浸された子供たちにしてみれば、「罪を犯している」感を免れませんでした。

 「神と人に出会い、」。そうなのだ、「やり手の司祭が、どれだけ信者を不幸にしているか」という嘆きの声は、あちこちで耳にしました。神様と出会っていれば当然、人とも出会えるはずなのに、と思います。そういう自分も大きい顔はできないのですが。乱暴な言い方でなんですが、あんまり祈っているようでもないのに、信者には大変評判がいい司祭は、たくさんいます。神様も「ワシが見えないのだから、まいいか」と片目をつぶって下さっているに違いない、と勝手に思っています。

 「愛でつながり、相ともに人生を歩む」。見事な結論!これに尽きるのだと思います。そのことなし、言葉で勝負しようと力を入れた従来の神学の正当性は揺るがないとしても、イエス様がお建てになった教会を堅固にすることが出来ないことは歴史が証明しています。

 飛躍しますが、かつて、「イエスはそんな教会を建てたのではない!」とルターが叫んだ時、「そうだな、少しやり過ぎたかも」と反省する声が教会側から上がっていたら、と悔やまれます。「いや、ワシらは間違っていない!」とばかりに対抗策を打ち出しことを、教会は検証する必要があるように思います。そうして、遅ればせながら、改めて和解の策を講じることが必要かと。

 そんな思いなのかどうか知る由もありませんが、教皇フランシスコの言動には、「教会は未熟でした。申し訳ありませんでした」と言葉にすることはなくても、そんな自戒の念を感じてなりません。

 随分前に「路傍の石が叫ぶ」という本の贈呈を受けたことがあります。「預言者の声だな」というのが率直な感想でした。今回の、「カトリック・あい」との出会いも同じ感想です。この度は「預言者集団」と言った方がいいかもしれません。神様は問題が起こると預言者を派遣されました。だから、ガタガタの教会を立て直すのに必要なのは、預言者の声に耳を傾けることだと思います。イエス様が建てたられた聖なる教会再建のために、頑張ってくださることを期待しています。

(pkenより)

2024年5月3日

・Chris Kyogetuの宗教と文学 ⑬エドガー・アラン・ポーの「アナベル・リー」と教会の「主の祈り」

It was many and many a year ago,

   In a kingdom by the sea,

That a maiden there lived whom you may know

   By the name of Annabel Lee;

And this maiden she lived with no other thought

  Than to love and be loved by me.

それはそれは昔のこと

 海際の王国に、

一人の乙女が住んでいた。

 その名はアナベル・リー。

彼女は、他に思いを馳せずに生きていた。

 私に愛し愛されるために。

(エドガー・アラン・ポー「アナベル・リー」より)

 この詩に出会ったのは幼い頃だったが、当時は意味は分かっていなかったのかもしれない。けれども、この「アナベル・リー」という響きが何故か好きだった。言語の壁は、経験と理解がなければ越えられないのかもしれないが、「音」は超えてくる。例えば、ルイス・キャロルの「鏡の国のアリス」のジャバウオッキーは、作者の造語(かばん語)で作られているので、支離滅裂な詩ではあるが、音の音程でイメージがつくことと、主人公アリスは、「しかし、誰かが何かを殺した」とだけ、その無意味な詩からこれだけのことが見分けられることを示した。

 アナベル・リーで印象に残る言葉は、「美しい」、「海際の王国」、「天使」、「悪魔」、 「私の美しいアナベル・リー」。それが日本語であっても、単語一つ一つには「共感覚」があるので、それだけでも充分だったが、英語がわかるようになると、この詩は誰か男性の視点で、美しいアナベル・リーという少女が死んでしまったことが伝わるようになる。そして、もっと文学に傾倒するようになると、この詩情の背景を知るようになる。これは、作者のポーの最初の妻、ヴァージニアへの愛だと知ったのだ。

 それを聞くと、夭折したドイツの作家で詩人であったノヴァーリスを連想する。彼も、若くて最愛の女性を失ってしまったが、この世を生きるために死と和解をし、死者より生きている人を優先して生きるという、彼はフロイトのいう「悲哀の仕事」(Trauerarbeit)を行えなかった。私はずっとこのアナベル・リーはそういう詩だと疑わなかった。しかし、更に時が進み、知らずに済めばよかったのだが、この詩が作られた年には、他の女性に求婚して婚約し、不審死で生涯をポーは終えていたを知ると、単純に、ノヴァーリス的ではないと思ってしまって、心の整合性が取れなくなって、私の中では、あまり重要な詩ではなくなっていった。 ある雨の中に、私は、いつもの英語ミサに行った。傘をさして行ったのに、服も濡れて髪も濡れてしまった。ミサが始まる前に、ロザリオの祈りがあるが、水滴が髪を伝っていくので気を取られてしまったのか、「水」というものに無意識に誘われたのか、Kingdomというところで、「Kingdom by the sea」と口を滑らせて間違えてしまった。Kingdom by the sea-これはポーの詩だったのだ。でもこの偶然になる間違えで、私は気づくことができた。あの詩のkingdomとは、キリスト教のもので間違いないんだな、と気づいた。

 「thy kingdom come」-thyとは、youの古い言い方ではあるが、ラテン語では、adveniat regnum tuum.と、adveniatとは接続詞で「私」でも「あなた」でもなく、「一つ」の何かがやってくることの願望を表している。regumとは、dominion、sovereignty、に該当する「支配」や「主権」を意味する。これは、日本語の価値観に合わせて「無難」に言い表すとするのなら、私たちの住む世界を、主によって行き届くことを祈る箇所である。

 死後は、私たちはこの世から消えて、天の国(heaven)に行くイメージがあるが、生きている人にとっては、「come」と神がこちらに向くように祈るのである。ポーの詩のkingdom とは、海際の墓地のことであり、神の視線を求めた場所だということがわかったのである。

 エドガー・アランポーのアナベル・リーの詩には、他にもこの詩にインスピレーションを与えたアメリカの実話があるようで、その関連性については、ポーの死後、二日後に新聞社によって発表されている。それはどんな話だったのか「身分違いの恋をした、船乗りとお嬢さんは周りの反対から逃れるために、こっそり墓場で会っていた。

 お嬢さんは病気で死んでしまったが、船乗りは墓の場所を教えてもらえなかった。船乗りは彼女の墓石を探すために、いつも待ち合わせの墓場に通い続けた」ポーはこの二人にも追悼の意があったと残っているようだ。そもそも愛する人から離れたくないというのはどう言う感覚なのだろう、「私は抱きつく魂がなくてはかなわないと思った」と日本の作家、倉田百三は「愛と認識との出発」でそう残している。倉田はこれを書いた時、まだ20代だったが、詩人の愛し方をよく表していると思う。

 しかし、愛は愛だけあっても仕方がない。愛を実践するにも「感覚」が必要であり、感受性がいるのだ。 私は、いつしか「感受性」と「賜物」を同列に考えるようになった。愛は、対象が必ずあるものだが、感受性は、手に取り合うことも、確かめることもできないものだ。ただ、ひたすら胸の内にあるもので、「世俗」か「賜物」とするか、という分岐点がある。勿論、二つは分裂できないものであるが、よく一般的に好まれる回答として、感受性とは「自分だけの神聖」と言ってしまうのであれば、それは多くの矛盾を孕む。何故なら、必ず、ポーの詩のように、感受性が生きると言うことは「他者」を必要とするからであり、もしも他者が見向きもしなければ、藻屑と化するだろう。

 キリスト教、特にカトリックではカテキズムや、バルタザール神学含め、信仰とは「個人」の感受性や経験のみではなく、教会及び、社会や共同体と根付いていくことを目的としている。そういうことを言われると、多くの人が勘違いすることかもしれないが、それは個人の感受性が奪われることとは、本来は違う。私が問うとするのなら、無宗教は本当に個人の感受性を保証しているのか、と言う壁があった。

 無宗教の利点として、「教会」に関わらなくて良いということが挙げられる。そして特に自分の「賜物」を神に返すことを考えなくて良い、という点では「自由」である。それでも、たとえイエスがいなかったとしても、他者からの評価が必要なこと、社会に貢献すること、どのみちどんな作家も社会に見せなければならないのだから、「収用」に関しては、何が違うのだろうか。世俗の基準で収用されるだけか、もしくは魂が結果を残して、神に返す(収用)-expropriationの違いは、信仰にとっては大きいのだ。

 ポーの詩の、終盤を見てほしい。

For the moon never beams, without bringing me dreams

 Of the beautiful ANNABEL LEE;

And the stars never rise, but I feel the bright eyes

 Of the beautiful ANNABEL LEE;

And so, all the night-tide, I lie down by the side

 Of my darling — my darling — my life and my bride,

In her sepulchre there by the sea,

 In her tomb by the sounding sea.

月の満ち欠けと共に、私は夢を見る。

 美しいアナベル・リーを星の輝きと共に私は思い出す

美しいアナベル・リーを夜が更けるまで私は横たわる

 私の愛しい人のそばに海際の墓地に眠る 渚の墓の中のアナベル・リー

 この詩の終盤に見られる文法的特徴は、主にリフレインと押韻(rhyme scheme)がある。リフレインは「Of the beautiful ANNABEL LEE;」と「Of my darling — my darling — my life and my bride,」のようなフレーズの繰り返しを指し、この繰り返しは詩のリズムや感情を強調し、詩の印象を深めている。押韻によって「dreams」と「Lee」、「rise」と「eyes」、「side」と「bride」、「sea」と「sea」のように協調した音のリズムが作られており、聴覚的な響きや詩の韻律を強調しています。これらの文法的特徴は、ポーの詩の特色であり、詩に独特の響きと韻律を与えている。

 そこには、この詩の語り手が「アナベル・リー」の墓地と共に「夜明けまで」横たわるとあるが、「海際の王国」と共に、「side」側に「bride」そして花嫁として詩の世界から海の満ち引きのように押し寄せては遠のいていく。何故、海際の墓は、「王国」だったのか。それこそ祈りの言葉のように、神が来てくれる「王国」であるとしたかったのではないか。この詩は悲しみであり、死と同じ音程のようだが、愛と幸福に満ちている。

 詩の中の少女も、語り手の存在も曖昧なのは、両者とも具体的に誰なのかわからない反面、それは一つの愛が忘却していくことも現実的に表している。「魂に抱きついている」状態では、このような詩は書けないのだと思う。明確にもっと、愛した彼女を書くだろう。これはIt was many and many a year ago(それはそれは昔のこと)と心的距離を置いてから始まるので、彼自身の薄らいでいる記憶を表していると思っている。

 最初の妻、ヴァージニアは、知的障害があり幼い13歳だった。彼はカトリックへの賛歌も書いている。それだけの情報で信仰がどうだったのかは語ることはできないが、新しい女性を愛し、求婚した最中、自分がもうすぐ死ぬことを知っていたのか、知らなかったのか、彼は謎を多く残していくことになるが、それでも詩に残そうとしたことは、一つの神秘的な「収用」と言えるのかもしれない。

 何故、私たちは、人の愛を語るのだろうか、人の愛の詩を朗読するのだろうか、人の愛から、なぜ、連想するのだろうか。二人のことは二人で手を取り合うことが、愛の存在の一番の証明だろう。神の介入もなしに、二人だけの小世界で生きられることも確かに甘美に満ちている。けれども、肉体は永遠ではなく、「存在」というものや、心は意識によって薄らいで、消えていく。その現実に火を灯すのが、また感受性なのかもしれない。そしてそんな貴族でも貧しい人でも、愛した二人はいつしか「昔、昔の話」になる。もしも、消えていくことを実感する最中で、二人で「王国」で眠るとするのなら、それは神とともに永遠ではないだろうか。まるでそれが「少女」の願いだったようにさえ思える。

 文学という作り話の中には、小世界の魂がある。たとえカトリックであっても、私たちの祈りの言葉は繰り返しながら、残された魂の痕跡と共にするのだと思う。多くの人たちに、この詩は朗読されることによって、それは神のところへかえる祈りになったのかもしれない。

*注釈

*アナベル・リーは最初の妻、ヴァージニアがモデルという話もあるが、それが一番の有力候補ではあるが、ポーはいろんな女性を喪失する運命であったので、確かなことはわからないのだそうです。

*ロンドンでのコンテストのときに、船乗りと少女の話は新聞に掲載されたという話があったが、現在、確かな出典は見つかりませんでした。同じく、ヴァージニアに知的障害があったかどうかも聞いたが、確かな出典が見つかりませんでした。

*バルタザール神学は、キリストへの従順を「神の権威はイエスの主張の中に現れている」としている。 claim – poverty – expropriation – obedience of the cross 主張-清貧-「収用」-十字架への従順、というのが彼の神学の軸となっている。

*「タラントン」のたとえは、マタイ福音書25章14~29節に。

** エドガー・アラン・ポー作「アナベル・リー」の全文と、カトリック教会の「主の祈り」の旧英文は以下の通り。

【Annabel Lee】 by. Edger Allan Poe

It was many and many a year ago,

   In a kingdom by the sea,

That a maiden there lived whom you may know

   By the name of Annabel Lee;

And this maiden she lived with no other thought

   Than to love and be loved by me.

 I was a child and she was a child,

   In this kingdom by the sea,

But we loved with a love that was more than love—

   I and my Annabel Lee—

With a love that the wingèd seraphs of Heaven

   Coveted her and me.

And this was the reason that, long ago,

   In this kingdom by the sea,

A wind blew out of a cloud, chilling

   My beautiful Annabel Lee;

So that her highborn kinsmen came

   And bore her away from me,

To shut her up in a sepulchre

   In this kingdom by the sea.

The angels, not half so happy in Heaven,

   Went envying her and me—

Yes!—that was the reason (as all men know,

   In this kingdom by the sea)

That the wind came out of the cloud by night,

   Chilling and killing my Annabel Lee.

But our love it was stronger by far than the love

   Of those who were older than we—

   Of many far wiser than we—

And neither the angels in Heaven above

   Nor the demons down under the sea

Can ever dissever my soul from the soul

   Of the beautiful Annabel Lee;

For the moon never beams, without bringing me dreams

   Of the beautiful Annabel Lee;

And the stars never rise, but I feel the bright eyes

   Of the beautiful Annabel Lee;

And so, all the night-tide, I lie down by the side

   Of my darling—my darling—my life and my bride,

   In her sepulchre there by the sea—

   In her tomb by the sounding sea.

【Our father in heaven(カトリック教会の主の祈り)】

Our Father, who art in heaven, hallowed be thy name.

Thy kingdom come, thy will be done, on earth, as it is in heaven.

Give us this day our daily bread

 and forgive us our trespasses as we forgive those who trespass against us;

   and lead us not into temptation, but deliver us from evil.

(Chris Kyogetu)

2024年4月30日