・愛ある船旅への幻想曲 ㉞待降節にー「若者たちが『喜びにあふれた主役』になる教会」とは程遠い現実

 待降節に入った。今の季節、夕暮れ時は家々の灯りが、たいそう愛おしく感じる。夕焼け空はオレンジ色のコントラストで彩られ一日の終わりを祝福してくれる。そこに神はおられる。

 しかし、激しい紛争を経験する国々に、このような夕暮れの平安はないのだろう。人間の残酷さがエスカレートし、『人命の尊重』は忘れ去られ、美しい自然は悲しみ色に染まる。そこに神はおられるのかと問い、祈り続けて一日を終えるに違いない。

 11月26日「世界青年の日」にイスラエルとパレスチナの間で停戦が実現し、人質の一部が解放されたことを教皇フランシスコは、神に感謝された。そして、若者たちに、「あなたがたは世界の現在と未来です。教会活動で『喜びにあふれた主役』となるように」と励まされた。(「カトリック・あい」より)

 先日、若者たちと詩篇を分かち合っていた時、「人間って、何なんでしょう」と質問があった。人としての自分の在り方が、上司や年長者たちから理解されず、自分の中で何もかもがストレスとなり、仕事も手につかない状態になってしまう、と言う。「今まで自分が出会った人の口は正しいことを語らなかった」と、ダビデの詩に思いを馳せる彼である。

 自分の受けた苦しみを共有できる聖書の箇所に出会い、飾りのない感想を語る。今、彼にとって聖書は救いであり、彼の代弁者でもある。いつの世であれ、生きている限り、人は同じような苦しみを経験することを、神は教えてくださる。

 彼は、高校時代からキリスト教に興味を持ち、プロテスタント教会にも足を運んでいたそうだが、なるべくしてカトリック信徒になった、という。キリスト教への憧れもあったのだろうが、癒しを求めて教会を訪れたことも事実である。キリストとの出会いに喜びを感じ、精神的にも弱い自分を信仰によって強めていこう、と思った若者の一人であろう。

 そのカトリック教会は、今、社会にだけでなく、教会内でもさまざまな不安や疑問の声が錯綜している。「教会とは何なのか」-まずは聖職者と修道者に伺いたい。余りにも次から次へと不祥事が明るみに出、「どういうこと?」と信徒として、訳が分からないことばかりが相次いで起きる。

 挙げ句の果てに、ある司祭からは「今の教会は、信徒の至らなさが原因だ」と説教台から一方的に非難される始末。ミサにあずかり、福音説教から糧を得て、祝福の喜びを感じ、派遣されようとする信徒を、見事に裏切り、見当違いの”説教”を聞かされ、その挙句に、「嫌なら教会にも来なくていい」と言い放つ司祭さえもいる。

 教皇フランシスコは「司祭は教会の一部でしかありません。私たち皆が教会です」(2014年6月18日の一般謁見で)と言われ、「祈らず、神の言葉に耳を傾けず、毎日ミサをささげず、定期的に赦しの秘跡を受けない司教も、司祭も、やがてイエスとの一致も失い、教会の役に立たない凡庸な者、となるのです」(2014年3月26日の一般謁見で)と注意されている。

 このような教皇の言葉をどれほどの聖職者が聴き、真剣に受け止めているのだろうか。

(西の憂うるパヴァーヌ)

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2023年12月1日