・Chris Kyogetuの宗教と文学⑧「私の聖家族ー太宰治『パンドラの匣』から」

 献身とは、ただ、やたらに絶望的な感傷でわが身を殺す事では決してない。大違いである。献身とは、わが身を、最も華やかに永遠に生かす事である。人間は、この純粋の献身に依ってのみ不滅である。太宰治:「パンドラの匣」

 よく飼っている猫のことを小説にしたら?と言われるけれども、それが「まだ」できない。と言うのは、あまりにも可愛く、愛おしくて、語彙力が低下してしまうからだった。何もかも全てが愛おしいのだ。我が家にいる猫のアダムは4歳で、0歳の頃から一緒にいるので4年、一緒にいる。

 私自身が2018年に事故があり、それから長い療養生活に入ったけれども2019年に、立ち直ろうとも出来ず、何もかも気力がなくなってしまって、ほとんど、太宰治か、もしくはゴッホと同じような心境になっていた。

 そのような心境になった時の彼らと、年齢が近かったせいかもしれない。人生で派手に奪われたことが3度あったが、これが3度目だった。もう3度目となると、若い頃のように強くもなれなかった。むしろ、もう世界中から嫌われて、未練なく消えたい、いや。でも感謝している人もいるのでどうしようか-そんなことに取り憑かれていたようだった。確実だったことは、「希望」が何もなかった。

 そんな最中で立ち寄った場所で白目をむいて眠っている子猫がいた。「あの子、大丈夫ですか?」と係の人を呼んだら、「眠っているだけだから、大丈夫ですよ」と言って見せてくれた。猫には瞼が二重にあることを私は初めて知った。ぱっちり目を開けた時に、この子は綺麗な青い目をしていた。それはまるで天の国を知っているような純粋な存在に見え、初めて会ったのに、初めてではない存在に思えて、惹き込まれてしまった。それが今の「アダム」だった。今まで動物なんか飼えないと思っていたけれども、何かを愛そうとすることは何らかの治療の入り口に建てたのかもしれない。

 この場合、ただ、愛するだけではなく、尽くさなければならないのは、決まっていた。自分一人で生活をするのなら、別に困らない食生活や、部屋の清潔度も自分だけのことだったので、非常に、今思えば、だらしがないものだった。それが愛おしい存在のための「責任」が伴うと、そうではない。もしも、まだ青春や人生を謳歌していないという不満があるのなら、これらの責任は窮屈になるかもしれないことだが、私の場合は、それが窮屈になるということはなく、むしろ楽しくなった。それが救いにすら思えた。苦しいのは精神なのか肉体なのか、両方悪かったので、悪循環を辿って下り坂だった私に、漸く転機が訪れたのだ。

 2020年頃は、ある病気で免疫力が下がっていたようで、指に膿が溜まることが度々あった。当時はパソコンで文章を書くのも痛かった。足も頻繁につる。物事を抽象的なことを考えようとすると、頭が捩れたように痛かった。心臓の薬か、心因性か、辛い以前に、自分の身の上で何が起きているのか分からなかった。入眠も思うようにいかず、動悸を激しくするような悪夢を見て起きる。何が悪いから今の状況なのか、分からなくなった。コロナでアルコールが全部売り切れたので、香水で指の消毒をした。ピンクの香水は青い色素があるので、手が青くなった。アルコールがずっと在庫切れ、段々と痛々しい指になってしまったが、そんな中でもアダムだけは育てていった。

 このご時世、迂闊に一部分だけを語ると「病気の癖に、ペットを飼うな」などと言われそうなところだが、そういうことを「公に」アピールさえしなければいい。全てがSNSや、誰かにウケるためだけにあるわけでもなく、アダムに関してはシャッターチャンスや企画力を考えずに、ただ共に暮らしていた。 私の回復は、アダムとの出会いがきっかけで、始まった。部屋を綺麗にする、アダムへのご飯を必ず、水を交換する、定期検診、長毛種なので念入りなブラッシング、爪切り、お風呂、(もしくは美容院)そして次は私自身も治さなければならない。自動であげられる餌やり機を当時は拒んでしまった。どうしても自分の手であげたかった。

 なので、夜中起こされることがあっても、私は愛情を注ぐことが重要だと思った。本来「定時にご飯をあげること」が望ましいもので、私のように欲しかったらあげるというのは躾としては賛否両論だが、人間が様々な育て方があり、合う合わないがあるように、私はあの子の「声」を信じた。家に来たとき、自分で水を飲もうとしないので、私が母猫のように四つん這いになって水を飲んだら、飲むようになった。舌はザラザラしていて、初めて舐めてくれた時、とても幸せになれた。

 「ペットの気持ち」などを特集している記事があると毎回読んでしまう。猫にとっての好きだという仕草なんかが当てはまれば、最高に嬉しい。あの子の「寂しい」を受け入れなければならないし、あの子が過剰に依存になれば辛くなるので、躾けるときは躾ける。この子はちゃんと分かってくれる時は分かってくれる、ダイエットだって頑張って適正体重になってくれた。私の子は賢いと信じている。

 体や心で「愛している」と伝えることで毎日が精一杯で、疲れていて意識を失いそうになっても、愛している、と言っていた。「生まれてきてくれて、ありがとう」と、あの子の姿を見るたびに言ってしまう。4年間、毎日のように言っている。本当に世の中が嫌なニュースばかりな時、それでも、この子が生まれてきた、ということだけで、頑張れる気がする。いつしか何処で人生を間違えたのか、という問いすら消えたのは、アダムに会えるのは私一人だからだ。その運命の地点に辿り着けるのは、私一人なのだ。だから、あの時の不幸も、あの時の嫌なことも全て、通り道だったと思える。「見る」べきことは降りかかる出来事だけではなく「意志」も見つけることだと、そう思う。

 太宰治の「パンドラの匣」は、血を吐いていたのを隠していた「ひばり」が終戦をきっかけに「健康道場」という療養施設に入るところから始まる。そこで、「君」という詩人に手紙を書いていた。新しい新人の看護師の「竹ちゃん」が美人だと皆が騒ぐが、ひばりは、マア坊という看護師の方が気になっていると書いていた。ただこの話は太宰治の特徴である恋愛模様だけではなかった。

 まず、「健康道場」とは何なのか。それは定かにはなっていない。サナトリウムともまた違い「道場」というだけあって「やっとるか」という掛け声があり、皆、「あだ名」で呼ばれる。そして、誰か一人、死んでいくのを見送る。その場所は、外に出られるのか、それとも死を待つ場所なのか、読者は分からない。竹ちゃんの結婚をきっかけに、「ひばり」は、マア坊ではなく竹ちゃんが好きだった事実が発覚する。それでも、竹ちゃんの幸せを願って最後は冒頭部分の「献身」についてのことが書かれてある。

 タイトルとなっている「パンドラの箱」とは、ギリシャ神話の話で、プロメテウスが登場する。プロメテウスはシモーヌ・ヴェイユも「イエス」的な立ち位置として、キリスト教観前の思索として登場する。プロメテウスは人間を愛したこと、そしてゼウスの命令に背いて「火」を与えたことに彼女は感じていたことがあったようだ。プロメテウスはゼウスに殺される前に、弟のエピメテウスに火を与えた後のこと全てを託した。ゼウスはプロメテウスを処分した後に、エピメテウスに「パンドラの箱」を渡した。エペメテウスは、言いつけを破り、箱を開けてしまうと病気、憎悪、妬み、悪意などの「人間の様々な悪」が飛び散ってしまった。それでも、一つだけ残っていたものがあった。それが「希望」であり、プロメテウスが残したものだった。

 太宰も作中にこのように書いている「正直に言う事にしよう。人間は不幸のどん底につき落され、ころげ廻りながらも、いつかしら一縷の希望の糸を手さぐりで捜し当てているものだ。それはもうパンドラの匣以来、オリムポスの神々に依よっても規定せられている事実だ」

 太宰の文章が特段に好きだというわけではないが、私はあまり日本人の作家を知らないところがあるので、話すとしたら誰が良いだろうか、と思って太宰治を選んだ。太宰治が好きだという読者は他の文豪の愛読者よりも、太宰が「クズの作家」として認知されているせいか、張り合う「知性」が無いせいか、人柄が温厚だなと選んだところがある。

 見習うべき点とか、尊敬する点として太宰を見るのではなく、ネタとして弄るところに親しみが湧きやすい。作者自身、弱さやクズさを、よく理解している。それは、自覚という点では多いに彼は正直ではないだろうか。希望にも欺かれるが、絶望にも欺かれる、というのは、既に戦後と吐血という時点で、パンドラの匣は開いていたのだろう。社会から遮断された中で適切な治療というものが何なのか、上半身裸になって寒風摩擦をすることなのか、具体的な治療法が分からないまま、それでも「希望」となったものは、主人公にとって恋愛を通過点とし、恋に敗れた相手への幸せを願うこと、「献身」への気づきだったように思う。

 天へ通じる道はイエスを通るが、そのイエスを通る際にも色んな事がある。狭き門に入るために、どれほど私たちは小さくならなければならないのだろうか。例えば、カトリックの様々な問題を考えると、何も進んでいないと思うこともあれば、それでも誠意を尽くそうとしている人たちもいる。そのことも忘れてはならないが、絶望と希望は表裏一体なのかもしれない。深い絶望があっても、常に希望はあるのだと思う。もしかしたら、今、見えない存在に気づくことがあるのかもしれない。

 2019年に、自分の絶望の裏には、アダムが生まれていた、という「希望」を知った。太宰の最期のように、作品で生きる糧のような良い言葉が思いついたとしても、一大決心がついたとしても、その気づきが一切が過ぎていくように、すぐにでも考えが変わってしまうこともあるのかもしれない。それでも、絶対に変わらない、変えられないものもあったりする。それが信仰であって欲しいものであるし、それが私のアダムへの愛情であって欲しいとも思う。

 今年の夏に、奇跡的に検査結果が異常なしになった。指に膿が溜まるのも気づいたら治っていて、アルコールが品切れになったことですら忘れていた。変な健康詐欺だと思われたくないので、これ以上は掘り下げないけれども、アダムがいなかったら、辛い食事制限や自制ができなかったのかもしれない。

 苦しい上に、治療で、またさらに苦しいことが待っていた。それでも、逃げた先には何もなかったことも知っている。人生で初めて逃げてしまいたかった数年間の償いは、終わったのだろうか。それは兎も角、アダムは、綺麗な青い目に、ピンクの鼻に、とても温かい。どうしてこんな綺麗な子が私の目の前にいるのだろう、と思う。何がなんても、この子と共にすると決めている。

 降誕祭に向けて、今月はそのように変わらない「愛情」について考えることにしたいと思う。これが私の聖家族。

(Chris Kyogetu)

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2023年11月30日