四旬節が過ぎ、復活節の到来とともに、なぜかT.S.エリオット(英国の詩人、1948年ノーベル文学賞受賞、1965年76歳没)の代表作の一つである『四つの四重奏 The Four Quartets』が頭をよぎり、再びそのページをめくりました。
『四つの四重奏』はT.S.エリオットが51歳の1943年に刊行され、7年間に亘って書かれた「バーント・ノートン Burnt Norton」(1936年発表)、「イースト・コーカー East Coker」(1940年)、「ドライ・サルビッジズ The Dry Salvages」(1941年)、「リトル・ギディング LittleGidding」(1942年)という、作者ゆかりの地名をそれぞれ題名とした4編の相互に関連した長編詩で構成されています。エリオットの最高傑作とも評されるこの作品は単なる長編詩集ではなく、それぞれの詩は、「時」の本質、贖い、人生の意義と神様の秘儀に関しての熟考と探求をしています。
キリスト教の象徴性と神秘主義への言及が濃厚なこの作品は、エリオット自身の聖公会への改宗(「(私の)宗教はアングロ・カトリック」と自分の立場を宣言していた)の道標でもあると言われるものの、そのテーマは普遍的に共鳴し、人間の体験を形作る意味の探求に触れています。
*エリオットとの出会い
エリオットの『四つの四重奏』に初めて出会ったのは、通っていたカトリック系中学校の図書館の静かな片隅でした。15歳の私にとって、エリオットの抽象的なテーマや複雑な表現は難しく理解し辛いものでしたが、その同時に彼の書かれた詩は神秘的な質に何とも言えない惹きつけられるものを感じました。そして文学の先生に指導をお願いしたところ、先生は私の突然の熱意に、驚きながら喜んでくださったことを今でも覚えています。
その後の長年にわたり、さらに2回ほども読み返したことがありますが、最後に読んでから十数年も経った今、復活節の始まりの光の中で再びエリオットの「四重奏」を聴き返すと、一種の霊的巡礼の旅に出るような気分になり、作品のより深い層を鑑賞するための新たなレンズを与えてくれました。「現代の宗教文学・瞑想詩の一秀作」 とも評されるこの作品を評論する資格もその意図も私にはありませんが、エリオットの四重奏にある、心に響き、考えさせられる数多いフレーズの中から、ほんの幾つかを引いて、簡単に分かち合いたいと思います。
*過去、現在、未来の絡み合い
エリオットは最初の詩「バーント・ノートン Burnt Norton」でこう書き始めました。
「Time present and time past 現在の時も過去の時も Are both perhaps present in time future、おそらく未来の時の中に存在し、And time future contained in time past. また未来の時は過去の時に含まれる」
この冒頭の一節は、内省と黙想の本質を捉えているのではないかと思います。「時」の絡み合い、折り重なり合う性質と、その中で私たちの存在を思いこさせます。四旬節の後、復活節の始まりに、これらの言葉を熟考していると、過去の罪の悔い改めと、復活節が象徴するキリストの御復活による刷新、そして過去、現在、未来が「今」という瞬間に収束すること、また、私たちの霊的な旅の連続体について、奥深く語ってくれています。何より、私たちの生活の中に神様の恵みが永遠に存在し続けることも思い起こさせてくれます。
*初めと終わりについての探求
第2編の「イースト・コーカー East Coker」では、エリオットは「初めと終わり」、「生と死」のテーマについて熟考し、詩の最初と最後のそれぞれの一節にこう書いています。
「In my beginning is my end… 我が初めこそ我が終わり… In my end is my beginning. 我が終わりこそ我が初め」
これらの言葉は、悔い改めと回心の過程を通じて、神様、すなわち私たちの原点に立ち戻る、という四旬節のテーマに共鳴し、私たち自身の死すべき運命と、主イエス・キリストの御復活を通じて永遠の命への希望とその新たな始まりを、思い巡らさせてくれます。
また、聖アウグスチヌスがその名著である『告白』の第1巻の冒頭に書いた「主よ、あなたが我々をお造りになりました。ゆえに我々の心は、あなたの内に憩うまで休まらない」をも思い出させてくれます。
*試練や艱難の中で神様の御臨在を見出すこと
「ドライ・サルビッジズ The Dry Salvages」は、人間の様々な苦しみとその中での意味の探求というテーマに共鳴しています。
「The river is within us, the sea is all about us; 川は私たちの中にあり、海は私たちの周り全体を囲む… The sea has many voices, 海には多くの声があり、Many gods and many voices. 多くの神々と多くの声がある」
私にとって「川」はヨルダン川と主イエスの洗礼、そして主と同じように洗礼を授かった私たちに対して、「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ福音書28章20節)と主が言われた御言葉を思い出させてくれます。エリオットは「海」を「時」の比喩として用い、私たちがこの「時」の中で生き、様々な遭遇や苦しみや体験など、人生の予測不可能性と不確実性に直面していますが、そんな中でも主が常に私たちと共におられることを示唆してくれます。
「We had the experience but missed the meaning,.. 私たちは経験をしたが、その意味を取り逃してしまった、… And approach to the meaning restores the experience その意味に近寄れば、その経験をIn a different form, beyond any meaning 私たちが幸福に与えるどんな意味をも超えた形で We can assign to happiness… 取り戻せるのに…」
エリオットのこれら言葉は、信仰が穏やかな庭園を散歩することよりも、嵐の中を旅するように感じられた時を思い出させてくれます。それは、人生の試練や艱難の中で神様の御臨在を見出すための闘いを反映しており、私たちの最も激動の時代においてさえ、神様の恵みの永続する御臨在についての熟考を促してくれます。
ちなみに、この作品は 1941 年、ロンドン大空襲の最中に書かれ、空襲は現地で講義をしていたエリオットの身を脅かす出来事でした。
*元の出発点に到着し、その場所を初めて知る
最後に、エリオットの「四重奏」の第4編である 「リトル・ギディング Little Gidding」 は、霊的真理、救い、神様との究極の交わりを追求する上での浄化、過去と現在の統一というテーマを語っています。エリオットは詩の最後の部にはこのように語ります。
「We shall not cease from exploration 我々は探求を止めない And the end of all of our exploring そしてすべての探求の終わりは Will be to arrive where we started 元の出発点に到着し And know the place for the first time… その場所を初めて知る… 」
復活祭の約束を踏まえて読むと、この箇所は私たちの信仰の旅について多くのことを語っていると思います。それは、私たちの信仰の核心に戻る四旬節の旅、信仰に対する新たな理解、そして復活節を祝う感謝の時を映し出しています。また、信仰と理解のレンズを通して、見慣れたものを新たに「観る」という、私たちの変容と原点回帰の継続的な霊的旅でもあります。
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エリオットの『四つの四重奏』を再び「聴く」ことは、旧友と再会することに似ている気がします。そこでは、新たな気づきや洞察があり、不変の真理を再認識することができます。豊かなテーマと絶妙な詩的表現を持つエリオットのこの傑作は、信仰の旅路と、私たちの人生における神様の恵みの永遠の存在を奥深く思い巡らすヒントを与えてくれます。
(注:詩の引用は英語原文のまま、日本語訳は筆者による)
(ガブリエル・ギデオン=シンガポールで生まれ育ち、現在日本に住むカトリック信徒)
When did you come back to Kyōto? How did you find your way here to me, through all those black rooms?(いつ京都へお帰りになりまして? あんな暗い部屋を通って、どうしてこのわたしのところへ、お出でなさいましたの?)小泉八雲「和解」(Shadowーthe reconciliation) 訳:田代三千稔
小泉八雲こと、ラフカディオ・ハーンの左目を失明については、色んな記録があるようだ。回転ブランコでロープが目に当たった、もしくはクリケットのせいだった、という話がある。
ただ、はっきりしていることは、彼は父親を若く失い、カトリック学校にも馴染めず、常に俯いて失明した左目を隠しているということだった。彼の書いた話にこんな話がある。
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ある若侍は、主君の没落によって貧乏になった。その時に嫁にもらった女は美人で優しかったが、彼はもっと家柄の立派な女性と結婚して、出世したいと思うようになってしまった。それで妻を捨てて新しい嫁を貰って、念願の地位に辿り着いたが、思い返すのは京都にいた前の妻のことばかりだった。何年も時が過ぎ、主君である国守の任期が満ちたので、この男は、また自分勝手に新しい嫁さえも捨て、前の妻に会いにいくために京都に行った。前の妻の家は人が住んでいるとは思えないほど荒れ果てていたが、妻が気に入っていた部屋にたどり着いたら、あかりが灯っていて妻は縫い物をしていた。
「いつ京都へお帰りになりまして? あんな暗い部屋を通って、どうしてこのわたしのところへ、お出でなさいましたの?」と女は昔の思い出と変わらない美しさのまま、自分を捨てた男を出迎えた。
男は、今までの自分の過ちを認め、女に許してもらうように懇願した。女は、一切怒る様子も見せず、男が出て行った理由が「貧乏」だったことや、一緒にいてくれた時間が仕合わせだったと男をすぐに受け入れた。男は、もう彼女と以外は一緒にならないと決めて、床に横になった。
一晩中、男と女は語り合って満足をしたのか眠ってしまった。朝になり、男が目を覚ますと広がるのは、荒れている廃墟でしかなかった。一緒に隣で寝ていると思っていた女は、悲しいことに朽ち果てていた亡骸になっていた。
男は、近所の人に他人のふりをして妻の家がどうなったのかを尋ねたら、その人は言った。
「もとは、数年まえに都を去ったお侍の、奥方のものでした。そのお侍は、出かけるまえに、ほかの女をめとるため、その奥方を離別したのです。それで、奥方はたいそう苦にされ、そのため病気になりました。京都には身寄りの人もなく、世話してくれる者もありませんでした。そして、その年の秋-九月十日に亡くなられました…」
・・・・・・・
妻の死はこの世の無常を表している。批評家の小林秀雄は「思い出が、僕等を一種の動物である事から救うからだ」と書き記したが、この若侍も、出世のために妻を捨てるなど、自己中心的であるが、それゆえに苦しみ、美しい思い出を懐かしみ、また取り返せると思ったが、妻はとっくの昔に朽ち果てた死骸となったことによって、無常を知ったのである。世には自戒の機会を与えられず死んでいく人もいるのだから、知ることができた、というのは無常と対照的となってしまうが、キリスト教でいえば恩寵とも言えるのかもしれない。
仏教にある逸話がある。ブッダはヴェーサーリーに入ると、生命の急速な衰えを自覚した。それでも彼は、弟子や人々が望むならば、神通力によって寿命を超えてでも生きぬこうと考えていた。もっと長く、人のために尽くして生きていこうとアーナンダに伝えた。しかし、アーナンダはなんだか上の空のようだった。彼はブッダの真意を汲み取ることができなかった。どうやら、アーナンダに「悪魔」がとりついていて、アーナンダの心は悪魔によって惑わされていたのだ。 ブッダは、アーナンダの態度をみて、三ヶ月後に入滅しよう、と決意してしまう。
物語の若侍が自分の利益のために最愛の妻を捨て去る選択をしてしまったように、アーナンダも自分勝手であり続けたために、ブッダの本意を理解しようしなかった。それは無常への理解を妨げる、私利私欲的なものなのだ。小泉八雲の左目の失明は、欠落や喪失を意味し、同時に物事の常に変動する本質を思い起こす。彼はきっと、最初の妻が生きていた「瞬間」を大切にしなければならなかったことを残したかったのかもしれない。人は大切なものを失ってから気付き、責任を忘れがちである。そして他者への裏切りがどれほどのものか覚悟しておかなければならない。
ただ、私がこの話を選んだのは、この妻が「妖」(あやかし)というのか、そうまでしても夫を待っていたところである。八雲の「怪談・奇談」に出てくる妖は、悪霊になってしまった話もある。この妻は、ゲーテの「ファウスト」のグレートヒェンや、シェークスピアの「ハムレット」のオフィーリアのような悲劇的な運命を持ち合わせ、精神的に追い詰められながらも、献身的だった。
旧約聖書で主がサムエルに「人は目に映るところを見るが、私は心を見る」(サムエル記上16:7)と言ったように、真の美しさと永遠の愛は魂の中に存在するというのは本当なのかもしれない。 妖となった存在は「時間」というものに美化されることも、毒されることもなく、温存された状態で、自分を捨てた男とこの世に留まったまま「和解」をした。妖という影は、侍にとっての無常を気づかせるために存在していた。愛というのは理屈でないものも含んでいる。他人から見れば、この妖は哀れだと思うのかもしれない。愛は良くも悪い方にも動いてしまうが、それは愛とは静止することができないということだろう。だからこそ、愛は魂にとって重要なものを担って常に方向を探している。
嫉妬に、執着、それは色々あるが、それでも愛は単に利益だけで動かないものでもあるからこそ、人間の目では見落としてしまうところにも、恩寵を運ぶことがあるのかもしれない。
これは私にとって美しい、愛だと思った。(Chris kyogetu)
前回、ドイツ司教協議会と信徒組織ZdKが共同で進めてきたドイツ固有の「シノドスの道」での決定がそのままではバチカンに容認されなかったため、シノドス評議会の設立は難しくなったこと、バチカンの主張は、叙階の秘跡によって「統治の権能」を持っている司教が一元的かつ最終的に教会の統治の権限を持っているので、一般信徒をそこに平等に加えることはできない、共同統治は不可であるとのバチカンの主張について若干考察しました。
いずれにせよ、司教協議会はバチカンによる世界シノドスに合わせながら、ドイツ固有のシノドスを進めていこうとしています。今回は、ドイツ司教協議会春季総会最終日、2月22日付けドイツ司教協議会のプレスリリースから、 協議会議長ベッティングによる「報告書」の言葉を順に追っていきます。司教たちがどこに重点を置いているかが、垣間見えると思うからです。
*総会のシノドス関連のテーマは・・
総会の議題の中でシノドスに関しては、「シノダルな教会その一:世界シノドス」、「シノダルな教会その二:ドイツの教会のシノドスの道」と2回に分けて議論されました。まず世界シノドスに関して検討されたテーマは3つ。①(司教の)統治の全権をどう取り扱うか。責任重大なかつ構造的に確認・保証されるような取り扱いrückgebundene Umgangをすること。②教会において権力をさらに分散すること。⓷役務担当者は説明責任を実践すべきこと。
*『総括文書』における司教・・
昨年10月の世界代表司教会議(シノドス)第16回通常総会第1会期の『総括文書』Nr.12(シノダルな教会における司教のあり方について)、Nr.18(参加の構造について)から引用がなされています。昨年11月のこのコラムで筆者はNr.12を取り上げましたが、それはシノダルな教会になるか否かは司教にかかっているからでした。先ほど司教の「統治の全権」とあったように、総括文書においても、すべては司教にかかっているのです。
さて、引用箇所の一つは「この役務は、統治が共同責任においてなされ、宣教・告知が敬虔な神の民に聴くことによってなされ、謙虚さと回心を通して聖化と典礼的祝いがなされる時、シノダルな姿で
現実化する(Nr.12.b)」。すなわち、統治が共同責任によって、宣教が聴くことによって、聖化と典礼的祝いが謙虚さと回心によって、この3点が実践されるなら、司教の統治はシノダルなものになるだろうというのです。
宣教や典礼はさておき、「統治が共同責任によって」なされるのがシノダルである、というのが重要ですが、では司教の全権を、誰が、どのように「共同で」行使するのかは、まだ明らかではありませんし、十分な試みもされていないでしょう。
*ヒエラルキーとシノダリティ
以上に続けてベッティング司教は「世界シノドスの重要なテーマの一つであり、また次回の審議のため重要なテーマは、ヒエラルキー的に作られている教会の役務とシノダリティの相互性の問題である」と述べています。ヒエラルキーとシノダリティの関係をどう考えるか、です。2015年のフランシスコ教皇によるシノドス設立50周年記念講演で「教会の構成的要素としてのシノダリティは、ヒエラルキー的奉仕自体を理解するための最も適切な解釈の枠組みをわれわれに提供している。聖ヨハネ・クリソストムが言っているように教会とシノドスは同義語である・・」とありました。
従って、少なくともシノダルなやり方でヒエラルキーは運営されなければならないことは確定していると言えますが、一般信徒との共同統治ができないとすると、どの程度までの共同ができるのか、極めて曖昧になりそうです。第2会期の審議の大きなテーマでしょう。
*司教と共同責任のありかた
もう一つ引用されているのは「司教は<すべての、ある人々の、一人の>間の循環を促進することで、地方教会のシノダルなプロセスを主導し活性化するという重要な役割を持っている。すなわち、この司教職(「一人の」)は「すべての」信者の参加を、直接的に識別プロセスと意思決定プロセスに携わる「ある人々」の貢献によって、促進するのである。司教が理解するシノダルな観点の確信と、彼が権威を行使する際のスタイルは、司祭、助祭、一般信徒、修道者・修道女がシノダルなプロセスにどのように参加するかに決定的に影響する。全員のために司教はシノダリティの模範となるように召されている」(Nr.12c)。先ほど出ていた統治の「共同責任」を司教がどのように捉え現実化していくのか、第2会期でどこまで議論がされるか、一つの焦点となります。
*共同責任の担い手はシノダルな諸委員会
続けてベッティング司教は「核心において、世界シノドスの考えは、ドイツの<シノドスの道>の基本文書『権力と教会における権力の分散—宣教の任務における共同参加、共同参与—』の観点と一致している。司教の統治はシノダルな諸委員会での信頼でき、構造的に確認・保証される作業Rückbindungを必要とする。このことは司教の最終責任に矛盾するものではなく、司教の全責任の存立に必須の重要な部分である。」と述べています。
これは重要な言明です。以下に説明していきます。
初めに述べた3つのテーマのうち、最初のものは「司教の統治全権の取り扱いについて<責任重大な、構造的に確認・保証されるような取り扱い>をすること」でした。そして「シノダルな諸委員会における信頼でき、構造的に確認・保証される作業を必要とする」と言います。つまり司教の<共同責任>の担い手は「シノダルな諸委員会」であると。
バチカンの総括文書(Nr.12.b)の「共同責任」の担い手は「シノダルな諸委員会」であるというのがドイツ司教たちの考えです。重い責任を負い、構造的組織的に確認しながら、司教のすることの是非を判断・保証しながら統治の任を分け持つ。あえて敷衍すれば、司教の働きを絶えず監視しながら同行すること。司教が何かを考えたり決めたりするとき、諸委員会もその側にあって同じ問題を考え、 助言し、決定への承認もする。そのためには司教と「シノダルな諸委員会」は信頼関係を持ち、互いに見える距離を保ちながら司教の行為を確認・保証していくということでしょうか。
*カウンターパートとしてのシノダルな諸委員会
ちなみに、2022年2月3日のシノドス集会で決議された基本文書『権力と教会における権力の分散—宣教の任務における共同参加、共同参与—』の中に、「教区レベルで司教にとってのカウンターパート(対応するもの、相補的なもの)を組織し、彼らがどう働くかを決めるシノダルな構造が必要である」とあります。統治者が司教一人だと君主制になりますが、そうではなく司教と対になるような、司教に相対する存在、カウンターパートが存在すれば、もっと民主的になります。
先に述べた「シノダルな諸委員会」を設けることがカウンターパートとなり「シノダルな構造」ができるでしょう。そして彼らが司教の働きを監視しつつ、それを是認するなら、司教は確信を持って自分の権威を行使できるようになるでしょう。
次に2つ目の「権力分散」について。一例として虐待問題の取り扱いに関して総括文書は、多くの司教は父親の役割と裁判官の役割の両方を受け持つのは難しいので、裁判官の任務を別の機関に委ねるべきとしている(Nr.12.i)。同様に、関係所管庁間での<チェックアンドバランス>の原理、<コントロール・調整・協働のメカニズム>が、権力分散のため必要である、とドイツ司教たちは言っています。
3つ目、役務の担当者の説明責任について。総括文書で「参加する組織体・団体は・・・共同体に対して説明責任の文化を実践するように勧めます」(Nr.18i)。教会を透明な組織・構造にして、説明責任も持たせないと、もはや人々は納得しないということでしょう。
以上、3つのテーマは第1の「司教全権が共同責任で」という点が具体化できれば、第2「権力分散」、第3「説明責任」もクリアできそうに思います。
次にドイツのシノドスの道を今後どう進めていくかに関しては、これまで司教たちとZdKで進めてきたイニシアティブをさらに発展させること、そして「教会法の条件に合致したシノドス評議会を準備すること」が決議されたことを特に述べておきたいと思います。「シノドス評議会」設立を諦めたわけではありません!なお6月に司教とZdKの、シノドス委員会(代表者会議)開催予定です。
*秋のシノドス総会第二会期に向けた作業
ところで、1月23日付け司教協議会のプレス報道で、協議会の常任委員会は、世界シノドス第二会期に向けた今後の準備として、各教区に、以下のような質問に対して最大5ページの「省察報告書」(司教協議会事務局による)を3月31日までに提出するよう求めています。シノダルで宣教的な教会になるため、どうすれば教区レベルで神の民全員が連携して「異なった共同責任」を強化できるか、またどうすれば地方教会の諸関係を創造的に形作っていけるか、そのためには教会の全構成員の共同責任を中心に置いて地方教会は具体的な変換が求められているが・・・。
「異なった」とは様々な次元や側面での奉仕・職務があるという意味です。その後、それらについて4月に常任委員会で司教たちによって話し合いがなされ、8ページの要約が作られ、5月15日までにローマに提出されることになっています。バチカンが第二会期の準備文書を用意するためです。
最後に、シノダリティを進める上で「共同責任」をどのように捉えるかが、大きな問題となることが、ドイツの例で理解されると思います。
:ドイツ司教協議会www.dbk.de
(西方の一司祭)
昭和20年代生まれで、彼らが高校生時代に流行ったザ・フォーク・クルセダーズの「帰って来たヨッパライ」(おらは死んじまっただ!)を知らない人はいないだろう。確か、詩の話しは、交通事故で死んだ人が、天国で、酒だ!女だ!で遊び惚け、神様から天国から追放されてしまい、挙句の果て、遺体の前で読経を読んでいたお坊さんの前で蘇るという話だった。当時は、余りにも荒唐無稽で、仏様を軽んじていると非難されたものだった。
ことほど左様に、人が蘇って、この世に戻ってくるという話は、小説でも、テレビや映画でも盛んに取り上げられている。しかし、実際に蘇って、多くの人に目撃され、信じるに値する人というのは、人類の歴史上、今まで誰もいない。唯一の例外が、イエス・キリストである。あなたは、イエス・キリストが蘇った、復活したという事実を信じるだろうか?
聖書にある事の次第は面白いので、ご一読をお勧めするが、本稿では、ヨハネによる福音書 20章(新共同訳)の概要を記す。
「イエス・キリストは、金曜日に十字架に付けられて死んだ後に葬られている。下記の話しは、3日後の日曜日に起こった出来事を記している。
「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」 そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。 二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。」
この後、イエス・キリストは、マグダラのマリアや鍵のかかった部屋にいた弟子たちに現れ、さらにその場にいなかった、トマスにも現われている。
引用が長くなったが、このように、イエス・キリストを目撃した人は、枚挙に暇がない。12人の弟子の他に、付き従っていた多くの弟子たちが目撃した。それだけではない、イエスが天に上げられた後には、ローマの皇帝ネロによる大迫害で多くの弟子たちが、キリストが蘇ったという信仰を捨てずに殉教していった。ただ一人の人が目撃しただけではないのだ。多くの人が目撃し、そうして、死をも恐れず、キリストの復活を信じて止まなかった。ただ一人の人の妄想ではないのだ。これは信じるに値するのではないか。
もうすぐカトリック教会では、復活祭が執り行われる。興味がある方は、3月30日土曜日の復活徹夜祭、大方、午後7時とか8時に開かれるので、近くのカトリック教会に行かれてはどうだろうか。教会では、未信者の方も、中に入ることができる。
ところで、上記、引用した聖書の中で、「身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。」の布が、なんと、2千年の数奇な時を経て、今も現存し、聖骸布(せいがいふ)と呼ばれて、崇敬されている。現在は、イタリア、トリノの大聖堂に安置され、公開されている。聖パウロ女子修道会の聖骸布についての記述を紹介しよう。
「聖骸布は、聖書に、十字架に釘付けられ亡くなられたイエス・キリストの遺骸を亜麻布で包んで、墓に葬られたという記述がありますが、そのイエスの遺骸を包んだ亜麻布だと言われているものです。長さ4.36メートル、幅1.1メートルあり、この布には、1メートル80センチの男性の前面と背面の画像が映し出されています。イエスの遺体には、当時の埋葬の習慣に従って、持ってきた「没薬と沈香を混ぜた物を百リトラ」(ヨハネ 19.39)塗り、亜麻布で包んだのですが、パレスチナ地方の乾燥した風土と、岩に掘られた墓穴というよい条件に恵まれ、イエスの遺体の画像が反転画像で、その布に映し出されたのだと言われています。この画像の男性には、確かに十字架に釘付けられた傷跡や血の流れた跡などがあるので、イエスの姿だと言う人と、そうではないと言う人がいます。この真偽については、現在も調査中であり、論争中ですが、聖骸布の存在が発見されて以来、大変な尊敬を払われています」
(横浜教区信徒 森川海守 ホームページ:https://www.morikawa12.com)
「カトリック・あい」の評論を読んで、ハラスメント問題に関し「司法的任務を、教会法により規定される他の機関に委ねることの妥当性を検討すべき」との意見に同感です。
私は主任司祭から受けたハラスメントについて、教区のハラスメント窓口に助力を求めました。教区ハラスメント対応チームは信徒、シスター、神父の三名で構成され、司教は含まれていません。面談には私について証言できる第三者を同伴するよう依頼され、「純粋で神聖な教会を求める共同体」において非常にハードルが高い要望だと感じましたが、幸いにも協力者を得て面談が実現しました。
対応チームは「司教に報告するかどうかはこちらで検討し、結果は後日、連絡する」と約束してくれたのですが、その後、随分たった今も、連絡がありません。私に対するケアや謝罪等をどうするか決定できていないからだと考えられますが、問題となっていた司祭は異動人事がされています。
ハラスメント対応チームの困難は、訴える人の証言が事実かどうか判断することにあるようです。私が受けたハラスメントで、労務問題に関するものが事実かどうかは、教区も確認できますが、誰も見ていない所で行われた行為は、当然ながら、第三者が直接目撃した事実として証言することはできず、物証など決定的な証拠を挙げることもできません。
対応チームが「被害者に寄り添って耳を傾ける」ためには、相談してきた相手を「被害者」と認識する事が前提となりますが、その前段階の確認のための面談での私への聞き取りは、「司祭に対する従順に、あなたは信徒として反していなかったか」という事に重点が置かれていました。加害者の司祭が、私について「証言は全て嘘。思い込みの激しい人だ」と、まるで気がふれた信徒のように吹聴していたためと思われますが、こうした教区の姿勢に「寄り添い」を実感できませんでした。
何の反省もなく暴言や偽りを繰り返した司祭を回心させ、その行動を改めさせるためには、被害者が孤独に心引き裂かれながらも、その全てに耐えて冷静に行動することが必要なのだ、と今、改めて感じています。これは非常にハードな作業です。心の内で応援して下さる信徒もいましたが、教区の窓口に訴えた当初は、「嘘つき」呼ばわりされる私を表立って擁護して下さる人はなく、教会から離れようと何度、思ったかわかりません。
問題の司祭はささいな事でも気にいらないと瞬間的に激高するため、完全に「恐怖支配」の状態でした。間違った権力の行使を抑えるシステムが教会に存在しません。司祭の聖性はいつも特別視されますが、信徒の聖性が無視されているのではないかと感じます。このような教会で、特にハラスメントという問題に対して、「誰が」ではなく「何が」正しいか、司教職とは別に、現実的で司法的な視点も持った第三者の機関が教区にあれば、もっと公正で迅速な対応が期待できるでしょう。
多くの信徒に対する聖職者のハラスメント、司祭の「絶対的支配」、言い換えれば「聖職者主義」がまかり通る、という現実を見せつけられて、そのようなことを放置している教会に絶望し、離れていく信徒たちを、私は実際にたくさん見ています。このような流れを食い止め、教会が、教皇フランシスコが繰り返し訴えておられる、「聖職者主義」を排し、司祭も信徒も、弱者とされている人も、心からの愛をもって「共に歩む」教会となるために、”文化”と”仕組み”を抜本的に改めることが求められているのではないでしょうか。
(西日本にある教区の女性信徒、2024.3.8記)
春の訪れを感じる3月、日本には女性のために制定された日が2つある。3月3日の『ひな祭り』と3月8日の『国際女性の日』である。
『ひな祭り』は、日本において、幼い女子の健やかな成長を祈る節句の年中行事である。女の子が生まれて初めて迎える”初節句“は、ひな人形の前で縁起物満載の祝い善を囲み家族全員で祝う日本独特の習わしである。我が家も2人の娘のひな人形を選ぶために「あの作家さんの人形がいい、いや、こちらのほうがいい」と、生まれたすぐに相談せねばならなかった。お節句にも日本人として先ずは形から入るのである。
『国際女性の日』は、国際婦人年である1975年3月8日に国連で提唱され、その後1977年の国連総会で議決された。日本ではまだまだ認知度が低い『国際女性の日』であるが、私の地域の女子高校生たちはジェンダー格差に関する考えをまとめ、新聞に発表している。
ある女子生徒は、「女の子のおもちゃはぬいぐるみ、男の子はミニカー。幼少期から刷り込まれる男女差が積み重なり、成長後の進路選択や収入格差にもつながっている」ことから「性別による文系・理系選択の差」をテーマに選び「男子は理系、女子は文系」といった傾向の不思議さから「理系のほうが平均年収は高いと知り、進路選択の理由を考えることが、男女の収入格差を縮めることにつながるかもしれない、と思った」と言う。
ある高校では、校歌の歌詞の中に男女差があると思われるような表現の箇所は歌われていない。一部とはいえ校歌を歌わないことに賛否はあるが、昨年発行されたその学校の創立100周年記念誌で「(該当の歌詞は)性による人間の在り方の決めつけや役割の固定と受け取られかねない」と記し、男女平等の理念を示した上で、女性解放運動に参加したこの女性作詞家は、本校の措置をおおらかに受け止めてくださるのではないか」と結ばれている。
別の高校では、「女性国会議員を増やす方策」をテーマにし、高齢男性ばかりの国会議員に違和感を持つと意見し、「海外では女性議員がたくさんいるのに日本にはほとんどが男性。社会の男女
格差を知るほど、女性であることがこの社会で不利になるのでは感じ、社会に出るのが怖くなる」とした。
若い世代のジェンダーを巡る問題への関心の高さと率直な意見を知り、ジェンダー平等を目指して取り組みを進める教育現場に変化があることがわかる。教育現場では変わりつつある男女平等の理念を
学ぶ生徒たちだが、ポーズばかりで変わらない日本社会の現状に不安を持っていることも確かだ。
このように、変わりつつある若者の世界にカトリック教会は対応できるだろうか。宗教が、これから先も、現代社会と遊離し続ければ、宗教組織としての共同体の“形態”が確立できない状態に陥るのではないか、と私は危惧しているのだが、いかがであろうか。
先日、今年から社会人になる大学院生と話をしている時、地方のカトリック教会への感想があった。「この教会に感じるのは、イデオロギーが強すぎる、ということなんですよね。」と、率直な的を射た感想に私は驚き、そして喜んだ。彼には、「毎週熱心にミサに与る信者たち」とは別な観点が、しっかり備わっている。そして、何よりも、彼から揺るがないカトリックの信仰を持つ自分に誇りを持
っていることを感じた。
彼の家庭は曽祖父の時代からカトリックであるが、身内にいらっしゃる高齢司祭からさえも、教会に行くことを強制されたことがない、という。私は感動した。今までに聞いた「親戚に司祭や修道者がいらっしゃる知り合い」の話とは、随分と違いがあったからだ。
宗教には、マニュアルからの”圧力”は必要ないのかもしれない。だが、どこの組織も「マニュアルに従ったほうが活動しやすい」という事実があることも承知している。カトリック教会はその傾向が今や一層強くなっている、と感じている。
私が知る教会のトップ集団(と本人たちが思っている)は、女性信徒からの自分たちの意に沿わない意見や質問には、手っ取り早いのだろうか、位階制度を駆使して話し合いもなく胸に突き刺さるパワハラを持って、それを封じようとする。その言葉の後ろには「女(性)は意見を言うな」があると思われる。普段から、そう感じさせる意識があることを、私たち女性は知っている。
なぜ、教会トップ集団の方々は、自然でまともな対応ができないのだろうか。これが、カトリック教会での生き方とやり方なのか、と思わざるを得ない言動が近ごろとみに増えている、と感じる。「人間として考え、人間としての言葉と行動を持って、人間の私たちに丁寧にお示しください」とまで言わねばならないようである。
現実の社会で生活している私たちは、日々そこにある大小の問題に試行錯誤の連続である。自分自身で考えねばならないことが山ほどであり、マニュアル通りにいくことは、ほぼないに等しい。世の中は変わっていくし、自分の考えも変わるし、相手の考えも変わる。一番身近な家庭生活も毎日、万事順調とは言い難く、そうかといって納得がいかないことに、「はいはい」と安易に従うわけにはいかない。「とことん話し合うのが夫婦円満、家庭円満の秘けつ。そこに、大喧嘩は付き物」というのが私のこれまでの人生から導き出した生活信条である。
それでも、相手の言い分、置かれている立場を知り、どう変化するのかを予想しながら、相手を認めていく努力をし、たまに力を抜いて相手を見たら、怒っている自分が馬鹿らしくなる時があるわけだ。とにかく、相手を知るためには頻繁に会話を重ねる必要があり、そこに「嘘と言い訳」という”飾り”を私は求めていない。私自身ありのままの私を相手に知ってもらうことで、私自身が私を知る
ことにもなっているのだ。
何度、自分の至らなさに気持ちが落ち込んだことか。こんな私であるから、未だに人生損をしているようだが仕方ない。しかし、人間として、互いの心に共通の「愛」があれば、問題も短時間で丸く収まり、信頼関係も、より深まるだろう。それを教え学ぶのが、カトリックではないのだろうか。
故松下幸之助氏は、「人間の本能は自然に備わっているもので、これをなくすることは絶対にできません。これを無視した政治、経済、宗教は、ムダであるばかりではなく、かえって人間を苦しめることになります」と語っておられる。人間としての本能を生かせないシステムは成り立たない、ということ、その上で人間の本能をコントロールする人間の理性がうまく機能すること、が人間の幸福につながる、と言われているのだ。
私たちは、人間社会で人間として生きている。人間として「当たり前に」自然に生きていきたい。
(西の憂うるパヴァーヌ)
筆者が物心付いたころ、家族は既に離婚していて、姉2人は母親が引き取り、筆者は父親に引き取られた。だが、その実の父親がある日、養育を放棄して、借りていたアパートの部屋から、筆者を一人残して出奔してしまった。慌てたのは、アパートに住む隣人たちである。警察が呼ばれて、児童相談所に預けられることになった。ここで行き先が決まり、小平にある東京サレジオ学園に行くこととなった。
カトリックとの関わりは、この時からである。筆者が小学1年の時の話である。学園を運営しているサレジオ修道会は、聖ドン・ボスコが創始した、カトリックの青少年教育に特化した修道会の一つで、 「ドン・ボスコ(1815~1888年)の原点は、イタリア統一運動と産業革命のただ中で、誰からも相手にされずにいた少年刑務所の青少年であり、ひどい労働条件の下で働いている青少年、また仕事もなく悪に染まっていく路上の青少年だった。彼はこの目の前にある現実から出発し、永遠の視点から一人ひとりの幸せを実現しようとした。
日本では第二次大戦後の混乱の中にあって、身寄りがない子供や、子供を養育できない家族の子供を引き取り、子供の教育を
施したのが東京サレジオ学園である。サレジオの名前は、聖フランシスコ・サレジオから取られている。「熱意あふれる司牧者、慈愛の教会博士として有名な聖人で、人々への深い愛情と柔和な聖性は、聖ドンボスコにも大きな影響を与えた」という。
現在、サレジオ会の学校は世界130か国にあり、日本では、工業高等専門学校が1つ、中高一貫校が3つ、小中一貫校が1つ、6つの幼稚園、筆者がいた東京サレジオ学園を含め3つの児童福祉施設がある(https://salesio.jp/about/education)。
本稿は、筆者の生い立ちを書き並べるために筆を起こした訳ではなく、一切身寄りのない筆者が接した大人たちから、いかに恩恵を被ったか、そのことがいかに情操面で良い思い出を作ったかを言い表したいためである。
まず、なんと言っても、六本木にあった「ニコラス」というイタリア料理店に感謝申し上げたい(1954年誕生の老舗店で、日本で初めてアメリカンスタイルのピザを提供した店として有名。現在六本木店は閉店、新橋、横浜馬車道、品川に店がある)。
中学生の頃、毎年のクリスマス期間中に、六本木の店まで学園在校生100名ほどを、バスに乗せて招待し、ピザなどを振舞ってくれた。店への招待が難しい場合は、料理人を学園まで派遣し、パンに温かいソーセージを挟んだホットドックを振舞ってくれた。
以来イタリア料理が好きになった。筆者は当時、聖歌隊に所属し、薄暗い店内でクリスマスソングを歌った記憶がある。ボトルをわら(トウモロコシの皮)で包んだ「キャンティ・フィアスコ」というワインも置いてあり、店内はイタリア一色の雰囲気。当時六本木で羽振りを利かせていたようで、「東京アンダーワールド」(角川出版、著者:ロバート ホワイティング、翻訳:松井 みどり)では、ニコラス創立者のニコラ・ザペッティのことを、東京のマフィア・ボスと呼ばれ、夜の六本木を支配した男と紹介している。
彼は、「東京のヤミ社会、日本の暗部と深くかかわったこの男は、マフィア牛耳るイースト・ハーレムに産まれ、ボロもうけをもくろみGIとして東京に上陸した。つぎつぎと闇のベンチャーで成功するニコラのもとには、ありとあらゆる人種が集まった…政治家、ヤクザ、プロレスラー、高級娼婦、諜報部員」などなど。力道山とも関わっていることにも言及している。大儲けしたが故に、罪滅ぼしとして、学園への慈善事業を行ったのだろうか。
イタリア系アメリカ人だけではない、日本の蕎麦屋さんの組合の有志が、学園にやってきて、全校生徒にそばを振舞ってくれたこともある。だしの風味が効いていて、当時はこんなにおいしい食べ物があるんだと思ったものである。この時の味を超えるそばには、今に至るも出合ったことがない。
食べ物だけではない。学園の近くには、学芸大学があり、幼児教育を学ぶ若い女学生さんが、学園に慰問にやってきて、歌を教えてくれたこともある。この時に教わった「どじょっこ」の歌などは、今に至るも忘れないでいる。「女心の唄」で250万枚のレコードを売った歌手として、当時大人気だったバーブ佐竹氏が、慰問に来てくれたこともある。重い機材を学園に運び込み、低温の美声を披露してくれた。
学園卒業後は、昼間働き、夜は定時制に通ったが、勤めた会社は温度計を作る精密機械会社で、大学出たての社長の息子が働いていた。彼は、筆者が「大学に行きたい」と言うと、数学を教えてくれた。まだ、新婚ほやほやなのに、家に招き、数学を教えてくれたのだ。
社会では、いろんな方々が、ボランティアをしているが、子供にとっては、日常の生活から離れるために、記憶に仕舞い込まれ、いろんなときに思い出されて、そうだ、あの時はこんな美味しい物を施してくれた、いろんな歌を教えてくれたと思い出され、自分も、施されるだけではなく、施す側に付きたいと思うことにもなっている。筆者がレジ袋等のごみ問題から、社会を変える運動に携わっているのは、サレジオ学園を始め、そんな恩人たちのお陰と思っている。
横浜教区信徒 森川海守(ホームページ:https://www.morikawa12.com)