・神様からの贈り物 ⑨ご復活祭を機に、私も新たな出発!

  ご復活祭おめでとうございます!私たちにとって大切な記念日を今年も無事にお祝いできることが嬉しいです。このご復活祭を機に、私も新たな出発です。

  私たちの健康を守り、新たな出発へのお手伝いをしてくださる医療従事者の皆さまに、心からの祈りを捧げます。彼らを通してイエスさまが私を訪問しているのが実感でき、感謝でいっぱいです。私の家にも、毎週、精神科の訪問看護師が来てくださっていましたが、この春、私が次のステップへ進むため治療関係を終えることになりました。

  私は別れを人一倍恐れてしまうタイプです。理由は、複数ある私の障害のひとつに『人を顔で認識できない』というものがあるからです。このような障害を専門用語では「アファンタジア」と呼び、『心の目が見えない』を意味します。

  毎日会っている障害者施設のスタッフや、仲間たちの顔を見ても、それが誰なのか分かりませんし、友達や家族の顔も判別できません。「かわいいお姉さんが手を振っている」と思ったら、それが待ち合わせていた友人だった、というのが日常です。

  顔を見て家族や友人を見分けることができる方たちが、この世界のほとんどだと知った時の衝撃は、今でも鮮明に覚えています。私もそんな世界を見てみたい、と憧れます。

  3年前の冬、私はとても体調が悪く、たった2週間で5キロ以上やせてしまうほどでした。その時、保健師から「今のあなたには週に6日の精神科訪問看護が必要だ」と言われてしまいました。それは、「入院寸前だ」ということを意味し、絶体絶命のピンチでした。

 その時、訪問看護師は主治医から特別な指示を出してもらい「14日間、月曜日から土曜日まで毎日看護に来る」と約束してくれました。

  それは、当時の私にとって、最も豊かな時間でした。私には、充分に愛情を注がれずに、度の過ぎた厳しさを受けて育った過去があります。なので、一人暮らしの家で優しい看護をしてもらえたのは、心の癒しに繋がりました。

  私は看護師を母親のように思うあまりに、甘えすぎてしまうことが多々ありました。何度も迷惑をかけてしまいました。それでも私のすべてを受け止め続けてくれました。

  そうやって濃密なケアをして重ね、その段階を終え、「自立した生活がしたい」という思うようになりました。

  しかし、別れの際には、私特有の悲しみが訪れます。冒頭で伝えたように、私は顔を見てもその人だとわかりません。別れた後は、たとえ彼女が目の前を通ったとしても、私はその存在には気づけないのです。想像するだけで、とても切ない気持ちになります。

  けれども、私は、看護師が我が家に訪れていた期間を、決して忘れることはありません。それは、単に看護師が来ていた期間というだけではありません。神さまが私の家にいらして、優しく看病してくださった日々でもありました。たしかに病気は辛いけれど、神さまの愛が降り注がれる機会でもあると思います。

  今の私は、まるで小さなヨットで大きな海へ漕ぎ出すような気持ちです。心細く、頼りないけれども、ずっと港にいては、嵐に遭わないかわりに何も冒険ができません。感謝という追い風を帆にはらませ、航海を始めたい―そう決意しています。

(東京教区信徒・三品麻衣)

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2024年3月31日