■6月の教皇と日本の教会の祈りの意向
*教皇の意向: 拷問の廃止のために
国際社会で拷問廃止が実現され、被害者とその家族への支援を、具体的な方法で保証することができますように。
(2023.5.30 バチカン放送)
教皇フランシスコは、この祈りの意向について、ビデオメッセージで次のように語られた。
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・拷問。何ということでしょう、拷問とは! 拷問は過去の歴史ではありません。残念ながら、今日のわたしたちの歴史の一部です。いったいどうして人間の残酷な力はここまで大きいのでしょうか。
・非常に暴力的な形の拷問がある一方で、たとえば、屈辱的な扱いをしたり、意識を失わせたり、非人間的な状況の中で多人数を拘留するなど、人から尊厳を奪い去る、他の複雑な形のものもあります。しかし、これらは新しいものではありません。イエスご自身がどのように拷問を受け、十字架につけられたかを考えてみましょう。
・この拷問の恐怖を終わらせましょう。あらゆるものの上に人間の尊厳を置くことは根本的なことです。 さもなければ、拷問の犠牲者は人ではなく「物」になってしまいます。そして、無情な虐待によって、死を招いたり、一生残る心理的・肉体的ダメージをもたらす可能性があります。
・祈りましょう。国際社会で拷問廃止が実現され、被害者とその家族への支援を、具体的な方法で保証することができますように。
*日本の教会の意向: 聖霊の恵みのために
聖霊に満たされ、聖体に養われて、神の言葉をいつも守っていくことができますように。
■5月の教皇と日本の教会の祈りの意向
教皇の意向: 教会の諸活動と諸団体のために
教会の諸活動や諸団体が、宣教の使命を日々新たにし、世の中の求めに応じた奉仕に、そのカリスマを捧げることができますように。
(2023.5.2 バチカン放送)
教皇フランシスコの5月の祈りの意向についてのビデオメッセージは次の通り。
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教会の諸活動は一つの恵み、教会の豊かさです。それは皆さんです。これらの活動は、その対話の力をもって、福音宣教の使命の奉仕に向かって、教会を新たにします。そのカリスマにおいて、福音の魅力と新しさを示す新しい方法を日々見出します。
どのようにしてでしょうか? 異なる言語を話しながら、− それは異なるものに見えても、実際には違いを作り出している創造力なのですが – 常に理解し、理解させることによってです。そして、司教や小教区の奉仕のために働くことで、自分の中に閉じこもろうとするあらゆる誘惑を避けるのです。なぜなら、それは危険になりうるからです。
聖霊の力に、挑戦に、今日の世界の変化に答えながら、常に活動の中に留まってください。教会の調和の中に留まってください。なぜなら、調和は聖霊の賜物だからです。
祈りましょう。教会の諸活動や諸団体が、宣教の使命を日々新たにし、世の中の求めに応じた奉仕に、そのカリスマを捧げることができますように。奉仕のために…。
日本の教会の意向: 子どもたちのために
子どもたちが、聖母マリアの心を心とすることができますように。
■4月の教皇と日本の教会の祈りの意向
教皇の意向: 平和と非暴力の文化のために
「国家としても、また市民としても、武器の使用を控え、平和と非暴力を推進していけますように」
(2023.3.30 バチカン放送)
教皇フランシスコは、この祈りの意向について、ビデオメッセージで次のように話された。
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・暴力なしで、生き、話し、行動することは、屈することでも、負けることでも、何かをあきらめることでもありません。それはすべてを熱望することです。
・60年前、聖ヨハネ23世が回勅『地上の平和』の中で言われたように、戦争は狂気、道理を外れたものです。あらゆる戦争、すべての武力衝突は、常にすべての人の敗北のうちに終わります。
・平和の文化を育てましょう。正当防衛の場合でも、目標は平和であることを忘れないようにしましょう。恒久的平和は、武器を用いない平和でしかありえません。
・日常生活においても、国際関係においても、非暴力を私たちの行動の基準にしましょう。祈りましょう。国家としても、また市民としても、武器の使用を差し控え、非暴力の文化を推進していくことができますように。
日本の教会の意向: カトリック学校のために
「カトリック教育のすばらしさを伝えるものとなりますように」
【3月の教皇と日本の教会の祈りの意向】
教皇の意向: 虐待の犠牲者のために
*教会のメンバーによって傷つけられた人々が、その教会の中で、痛みと苦しみに対する具体的な方策を見出すことができますように。
教皇フランシスコは、この祈りの意向について、ビデオを通し次のように述べられた。(2023.3.2 バチカン放送)
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「虐待、特に教会のメンバーによって行われた虐待を前に、赦しを乞うだけでは十分ではありません。赦しを乞うことは必要ですが、それだけでは足りません。赦しを願うことは被害者にとってよいことですが、被害者こそがすべての中心であるべきです。被害者たちの苦しみや心理的な損害は、答えを見出した時に、癒しが始まります。それには、彼らが経験した恐怖に対して償い、このようなことが二度と起きないように予防する具体的な行動がなくてはなりません。
教会は虐待の悲劇を、それがいかなる種類のものであっても、隠そうとすることはできません。それが家庭や、クラブや、その他の組織の中の虐待であってもです。教会は、家庭や社会において、その問題を解決し、明るみに出すことを助けるための、模範であるべきです。そして、教会は被害者の話を聞き、心理的に寄り添い、保護するための確かな場を提供しなくてはなりません。
祈りましょう。教会のメンバーによって傷つけられた人々が、その教会の中で、痛みと苦しみに対する具体的な方策を見出すことができますように」
日本の教会の意向:性虐待被害者のために
*無関心から解放され、被害を受けられた人たちが神の慈しみの手による癒やしに包まれますように。
【2月の教皇と日本の教会の祈りの意向】
*教皇の祈りの意向:小教区の教会のために
「交わりを中心に据えた小教区の教会が、信仰と友愛の共同体として成長し、最も困窮している人々を招き入れることができますように」
(2023.1.30 バチカン放送)教皇フランシスコは、この祈りの意向について、ビデオメッセージで次のように述べられた。
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「小教区の教会に「ご自由にお入りください」という貼り紙をすべきではないか、と思うことがよくあります。小教区の教会は、身近な共同体であるべきです。お役所的でない、人間を中心に据え、そこで人が秘跡の恵みに与ることができる場所でなくてはなりません。小教区は、奉仕と寛大さの学び舎に戻る必要があります。疎外された人々に、また共同体の人、すべての人に常に扉を開いたものであるべきです。小教区は、ある種の社会的地位を保証する、一部の人々のクラブではありません。お願いします。どうか大胆であってください。私たちの小教区のあり方を皆で考え直そうではありませんか。祈りましょう。人々の交わり、教会的交わりを中心に据えた小教区の教会が、信仰と友愛の共同体として成長し、最も困窮している人々を招き入れることができますように」。
*日本の教会の意向: 難民のために
「難民の人たちが、困難の中にも将来に対する希望を持ち続けられますように」
■2023年1月の教皇と日本の教会の祈りの意向
教皇の意向: 教育に携わる人たちのために
*教育に携わる人たちが、信頼される証し人となって、競争ではなく友愛を育みながら、とりわけ幼く傷つきやすい者の助けとなることができますように。
(2023.1.10 バチカン放送)
教皇フランシスコは、2023年1月の祈りの意向について、次のビデオメッセージをおくられた。
「私は教育に携わる人たちに新しい教育科目を加えるよう提案したいと思います。それは友愛です。教育は、最も弱い立場の人たちを無視することがないよう、私たちが友愛の意味を取り戻すための、その歩みを照らす愛の行為です。教育者は、自分の知識だけでなく、自分の信念、生きた関わりを証しする人です。教育者とは、頭と、心、手の、3つの言語をうまく扱える人です。そして、より注意深く耳を傾けられ、共同体の作り手となる人々です。なぜでしょうか。なぜなら、彼らはこの証しの種をまいているからです。祈りましょう。教育にたずさわる人たちが、信頼される証し人となって、競争ではなく友愛を育みながら、とりわけ幼く、傷つきやすい人たちの助けとなることができますように。
日本の教会の意向: 世界の平和のために
*聖ヨハネ・パウロ二世が教えてくださった「戦争は人間のしわざ」を思い起こさせてくださいますように。
【12月の教皇と日本の教会の祈りの意向】
教皇の意向: 非営利団体のボランティアのために
*人間開発に携わる非営利団体のボランティアが、共通善に献身する人々に出会い、国際協力の新しい道を常に探し出すことができますように。
教皇フランシスコは、この祈りの意向をめぐり、ビデオメッセージで次のように話された。(2022.12.1 バチカン放送)
「世界は、共通善の追求に取り組むボランティアや組織を必要としています。そうです。今日、多くの人が消し去ろうとしている言葉、それは『献身』です。連帯に満ちたボランティアとなることは、私たちを自由にします。私たちを他者の必要、正義の要求、貧しい人の擁護、被造物の保護へと開きます。それは、眼差しや、注意深い傾聴、寄り添いをもって『慈しみを作り出す人』になるということです」
「ボランティアであるとは、あなたが奉仕する人々と一緒に働くということです。人々のためだけではなく、人々と共にです。人々と共に働くということです。ボランティア組織の仕事は、組織間や国々との協力のもとに働く時、より効果を発揮します。共に働くことで、限られたリソースにもかかわらず、最良を尽くし、希望を増やす、という奇跡を実現できるのです。私たちには希望を増やしていくことが大いに必要です」
「祈りましょう。人間開発に携わる非営利団体のボランティアが、共通善に献身する人々に出会い、国際協力の新しい道を常に探し出すことができますように」
日本の教会の意向: 苦難の中にある子どもたちのために
*いじめやさまざまな虐待の犠牲となった子どもたちに、幼子イエスの愛と恵みが注がれ、ふさわしい援助を得ることができますように。
■11月の教皇と日本の教会の祈りの意向
教皇の意向: 苦しんでいる子どもたちのために
*苦しんでいる子どもたち、とりわけ家を失ったり、孤児となったり、戦争の犠牲となった子どもたちが、教育を受けることを保証され、また家庭の愛に触れる機会に恵まれますように。
(2022.11.1 バチカン放送)
教皇フランシスコは、2022年11月の祈りの意向について、ビデオメッセージをおくられ、次のように語られた。
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いまだに無数の少年少女たちが奴隷に近い状態を生き、苦しんでいます。
彼らは単なる数字ではありません。それぞれの名前と顔、神から与えられたアイデンティーを持った人間です。
あまりにもしばしば、私たちは自らの責任を忘れ、搾取されるこれらの子どもたちを前に目を背けてしまいます。彼らには遊び、勉強し、夢を見る権利もありません。家庭の温かささえ知ることがありません。
疎外され、家族から見捨てられ、教育も医療ケアも受けられない子どもたち一人ひとりが、一つの叫びです。その叫びは神に上げられ、私たち大人が築き上げたシステムを訴えています。
見捨てられた子どもは、私たちの責任です。
子どもたちが一人ぼっちで見捨てられたように感じることがこれ以上あってはなりません。神が彼らを決してお忘れにならないことを知るために、教育を受け、家族の愛を感じる必要があります。
祈りましょう。苦しんでいる子どもたち、とりわけ家を失ったり、孤児となったり、戦争の犠牲となった子どもたちが、教育を受けることを保証され、また家庭の愛に触れる機会に恵まれますように。
(編集「カトリック・あい」)
日本の教会の意向: 海外宣教者のために
*海外で宣教活動に従事する司祭、修道者、信徒が、厳しい状況にあっても、主に対する信頼と希望に支えられて、奉仕する力を保ち続けることができますように。
■10月の教皇と日本の教会の祈りの意向
教皇の意向: すべての人に開かれた教会であるように
*信仰にあふれ、福音を宣べ伝える力に満ちた教会が、連帯、友愛、歓待の共同体として、常にシノドス(世界代表司教会議)の雰囲気のうちに生きることができますように。
(2022.10.3 バチカン放送)教皇フランシスコは、この祈りの意向について、ビデオメッセージで次のように話された。
・「シノドスをする」とはどういうことでしょうか。それは「共に歩む」ということです。「シノド」とは、ギリシア語で「共に歩む」こと、「同じ道を歩む」ことを意味します。 そして、これが第三千年期の教会に神が望まれていることです。歩む民として、共に旅する自覚を取り戻すことです。
・シノドス的なスタイルを持った教会は、耳を傾ける教会、ただ聞くのではない、傾聴する教会です。 多様性のうちに互いに耳を傾け合い、教会の外にいる人に扉を開くことです。 それは意見を集めることでも、議会を設けることでもありません。シノドスは調査ではありません。「主役である聖霊に耳を傾けること」「祈ること」です。祈ることなしに、シノドスはありえません。
・寄り添う教会となるために、この機会を有効に用いましょう。「寄り添い」とは神のスタイルです。そして、注意深く耳を傾け、”シノドスの道”を歩んでいるすべての神の民に感謝しましょう。
・祈りましょう。信仰にあふれ、福音を宣べ伝える力に満ちた教会が、連帯、友愛、歓待の共同体として、常にシノドス(世界代表司教会議)の雰囲気のうちに生きることができますように。
(編集「カトリック・あい」)
日本の教会の意向: 医療従事者のために
*医療従事者のために祈ります。コロナ禍の中で、病床にある人や高齢者のために働く人々が、看護や介護を通して神の愛を伝えることができますように。
■9月の教皇と日本の教会の祈りの意向
教皇の意向: 死刑の廃止のために
人間の尊厳を侵害している死刑制度が、すべての国で法的に廃止されますように。
(2022.9.1 バチカン放送)
教皇フランシスコは、この祈りの意向をめぐり、ビデオの中で次のように述べられた。
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世界では、死刑制度への反対が日々広がっています。教会にとって、これは希望のしるしです。
法的に見て、死刑制度は必要ではありません。社会は、犯罪者が自らの罪をあがなう可能性を完全に取り上げることなしに、犯罪を効果的に抑制することができます。
すべての法的判決は、希望の窓であるべきです。死刑は犠牲者に正義をもたらすことなく、むしろ復讐を促します。そして、起こりうる誤審を償うあらゆる可能性を妨げてしまいます。
また、別の面から言えば、死刑は、生命という私たちが受け取った最も大切な賜物を壊してしまう意味で、倫理的に受け入れられません。
最後の瞬間まで、人は回心、し変わることができる、ということを忘れないようにしましょう。福音の光に照らして、死刑制度は認めがたいものです。「殺してはならない」という戒めは、無実の人にも、罪のある人にも言えることなのです。こうしたことから、全世界における死刑制度廃止のために力を合わせるよう、すべての善意の人にお願いします。
祈りましょう。人間の尊厳を侵害している死刑制度が、すべての国で法的に廃止されますように。
日本の教会の意向: 高齢者について
高齢者が、社会でも、教会の中でも、それぞれの役割を通して、生き生きと生活できますように。