◎教皇の連続講話「山上の説教」⑧「”平和を造る人”は常に和解を求める」

2020年4月15日

♰「主の復活は、最後に勝つのは『死』ではなく『生』だ、と告げている」復活の月曜日に

 

教皇フランシスコ、2020年4月13日、「復活の月曜日」の正午の祈り教皇フランシスコ、2020年4月13日、「復活の月曜日」の正午の祈り  (Vatican Media)

(2020.4.13 バチカン放送)

 教皇フランシスコは13日の「復活の月曜日(天使の月曜日)」、バチカン宮殿図書室からビデオを通して正午の祈りを唱えられた。カトリックの教会暦では、「復活の主日」から「聖霊降臨」までの50日間を「復活節」とし、特に「復活の主日」から次の主日(日曜日)までを「主の復活の8日間」と呼ぶ。

 祈りに先立つ説教で、教皇は「イエスの復活は、最後に勝利するのは『死』ではなく『命』だ、と告げています」とされたうえで、御子の復活を通して「神なる御父は、ご自身の満ち満てる愛と慈しみを、あらゆる時代の人類に表された」とし、「復活の主における信仰に強められ、苦しみや試練の中にも力を得ることができるように」と願われた。

 そして、復活節の聖母賛歌「レジーナ・チェリ(天の元后)」を唱えられた。

 教皇の説教は以下のとおり。

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親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 今日、天使の月曜日に、キリストの復活の喜ばしい知らせが再び響きます。今日の福音書の朗読箇所(マタイ28章8-15節)で、イエスの空の墓を見た婦人たちが、恐れながら立ち去る場面が語られます。しかし、そこにイエスご自身が現れ、「恐れることはない。行って、兄弟たちにガリラヤへ行くように告げなさい。そこで私に会えるだろう」(同28章10節)と言われました。

 こうして復活の主は、使徒たちへの宣教者としての委任の言葉を婦人たちに託しました。婦人たちは、キリストに対する忠実と献身、愛の模範を、イエスの公生活の間も、またその受難の時も、賞賛すべき形で示しました。そして、今、婦人たちは、復活の主からの特別な配慮をもって、報いられたのです。

 最初に婦人たちが、そしてペトロを始めとする弟子たちが、復活の現実を確認することになりました。イエスは、受難と十字架を経て復活すると、彼らに何度も予告していました。しかし、弟子たちにはまだ用意ができていなかったために、それが理解できませんでした。彼らの信仰はさらに深められる必要がありました。復活の主の賜物である、聖霊だけが、それを促すことができたのです。

 「使徒言行録」の初めの部分で、私たちは、ペトロが率直さをもって、このように宣言するのを聞きます-「神はこのイエスを復活させられたのです。私たちは皆、そのことの証人です」(使徒言行録2章32節)。その瞬間から、復活したキリストの知らせは、あらゆる場所、地上の隅々まで広がり、すべての人の希望のメッセージとなりました。

 イエスの復活は、最後に勝利するのは『死』ではなく『命』であると告げています。御一人子を復活させることで、神なる御父は、ご自身の満ち満てる愛と慈しみを、あらゆる時代の人類のために表されました。

 キリストが復活したなら、人生のあらゆる出来事、たとえ最も困難や苦悩、不確実性に満ちたものであっても、私たちはそれを信頼をもって見つめることができます。これが、言葉と、また特に生活の中の証しを通して、私たちが宣言するよう招かれている復活祭のメッセージです。私たちの家に、心に、この喜びの知らせが響きますー「私の希望である、キリストは復活されました!」。この確信が一人ひとりの信者の信仰を強め、特に大きな苦しみと試練にある人々を力づけますように。

 御子イエスの死と復活の沈黙の証人であるマリアよ、この救いの神秘を確信することができるよう、私たちをお助けください。この神秘を信仰のうちに受け入れるならば、人生を変えることができるでしょう。これを復活祭のお祝いのメッセージとして、すべての人に送ります。私たちの御母よ、この願いをあなたに託します。さあ、レジーナ・チェリの祈りを唱えましょう。

 

*新型コロナウイルスの感染と戦う世界の女性たちのために祈る

 また、バチカン広報局発表によると、教皇は、祈りの後、新型コロナウイルスによる世界的危機の中での、女性たちの活躍に感謝して次のように語られた。

 私たちは福音書で、女性たちがイエスの復活を弟子たちに告げたことを聞きました。今日、私は世界中の数多くの女性たちが人々のケアに努めておられることを改めて思い起こします-現在起きている危機の中にあってさえも、女性の医師、看護師、治安部隊の兵士、刑務所の看視、生活必需品を供給している店舗の従業員…そして家の中で家族、子供たち、お年寄り、身体の不自由な方の世話をされている多くの母親、姉妹たちに… 彼女たちは時には、過度な重荷を負う過酷な環境で戦っているのです。

 彼女たちの為に祈りましょうー主が彼女たちを力づけてくださいますように、そして私たちの共同体が、彼女たちを、その家族とともに支えますように。

(編集・翻訳「カトリック・あい=聖書の引用箇所の日本語訳は「聖書協会共同訳」を使用。「わたし」「いのち」などの表記は原則として、当用漢字表に基づいて改めました)

 

2020年4月14日

♰「世界の人々に訴える-危機の中で無関心、自己中心、分裂、 忘却があってはならない」教皇、主のご復活のメッセージ

Pope Francis delivers his 'Urbi et Orbi' message on Easter Sunday

(2020.4.12 VaticanNews Seàn-Patrick Lovett)

    カトリック教会は12日、主の復活の主日を迎え、教皇フランシスコが全世界に向けたメッセージ’”Urbi et Orbi”を発出された。その中で教皇は、新型コロナウイルスの感染危機の中で、私たちには無関心、自己中心、分裂、そして 忘却が絶対にあってはならない、希望の”感染”を「心から心へ」広げるように、と強く訴えた。

(2020.4.12 バチカン放送)

教皇フランシスコの、2020年度復活祭メッセージは、以下のとおり。

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 親愛なる兄弟姉妹の皆さん、復活祭おめでとうございます。

 今日、全世界に教会の告げ知らせる声が響きます。「イエス・キリストは復活された!」「本当に復活された!」

 新しい炎のように、この良き知らせは、暗闇の中で、燃え上がっています。世界が、歴史的ともいえる危機に直面し、私たち全人類の家族に厳しい試練にさらす感染症の大流行によって押しつぶされそうになっている暗闇です。この暗闇の中で、教会の声が響き渡りますー「キリスト、私の希望は復活された!」(復活祭の連祷)

 

*新型ウイルスではなく、「希望」の”感染症”

 これは、(注:新型コロナウイルス)とは異なる”感染症”、この良き知らせを待つ全ての人へ心から心へ伝えられるメッセージです。これは”希望”-「キリストは復活された」の”感染症”です。これは問題を消し去るマジックではありません。違います。キリストの復活はそうではないー悪の根源に対する愛の勝利、苦しみと死を”避け”ず、通り抜ける勝利、どん底の危機に道を開き、悪を善に変容させるー他に類を見ない神の力なのです。

  復活の主は、十字架につけられた方です。その栄光ある体は消しがたい傷を持っています。その傷は「希望」を通す場所となりました。復活の主に眼差しを上げましょう。苦しむ人類の傷を癒してくださるようにと。

*感染で試練にある方々に慰めを

 今日、私の思いは、特に新型コロナウイルスによって直接の被害を受けた人々、患者の方々、亡くなられた方々、家族を失い悲しむ遺族の方々に向かいます。その中には、亡くなられた家族に最期の別れもできなかった人々もいます。いのちの主が亡くなった方々を御国でご自身に引き寄せ、お年寄りや身寄りのない人をはじめ、試練にある人々に慰めと希望を与えてくださいますように。

 高齢者施設で働く人々、兵舎や刑務所で生活する人々など、特に危険に晒されやすい環境に置かれた人々に、主の慰めと必要な助けが欠けることがありませんように。この復活祭は多くの人々にとって、喪に服すと共に、肉体的苦痛から経済問題に至るまでパンデミックが引き起こした様々な災難に見舞われた、孤独な復活祭となりました。

 この感染症は、私たちから愛情だけでなく、特に聖体の秘跡や赦しの秘跡をはじめ、秘跡からわき出る慰めを人々に与える可能性を奪いました。多くの国で、秘跡にあずかることができなくなりましたが、主は私たちを一人ぼっちにはされませんでした。祈りのうちに一致しながら、主が私たちの上に手を置き、力強く「恐れることはない。私は復活した、そして、いつもあなたと共にいる」と繰り返されるのを確かに聞きました。

*必要な奉仕をされている方々に感謝を

 私たちの復活であるイエスよ、時には自身の健康までも犠牲にし、あらゆる場所で力の続く限り隣人へのいたわりと愛を証ししている医師や看護師たちに、力と希望をお与えください。また市民の共存に必要不可欠なサービスを保証するために絶えず働く人々、また多くの国々で市民の困難と苦しみを和らげるために貢献する警察や軍の人々に、私たちの親愛と感謝を込めた思いを向けます。

 

*共通善のために働く責任者たちに励ましを

 ここ数週間、たくさんの人々の生活が突然変わりました。多くの人にとって、家に留まることは、思索し、生活のあわただしいリズムから抜け出し、親しい人々と共にいる時を味わうための機会となりました。しかし、一方で、多くの人々には、仕事を失うリスクや、この危機の影響がもたらす未来の不確かさに不安を感じる時にもなりました。人々の尊厳ある生活に必要な手段を供給し、この状況が改善した際の日常生活の再開に配慮し、市民の共通善の推進のために熱心に働く、公的機関の責任者たちを励ましたいと思います。

*無関心でいる時ではない

 今は無関心でいる時ではありません。全世界が苦しむ中、パンデミックに立ち向かうために一致しなければならないからです。復活されたイエスが、すべての貧しい人々、社会の辺境に生きる人々、難民やホームレスの人々に希望を与えてくださいますように。世界各地の都市や郊外に生きる、これらの最も弱い立場にある兄弟姉妹たちを、孤立させてはいけません。

 特に今、社会で多くの活動が停止している中、彼らに生活のための必需物資や、薬・医療支援などが欠けることがありませんように。現在の状況に配慮し、国々に必要な支援の供給を妨げている国際制裁を緩和し、現在の大きな困窮を前に、収支を悪化させている負債を軽減または帳消しにするなど、最貧国はもとより、すべての国々の立場に身を置くことができますように。

*自己中心でいる時ではない

 今は自己中心主義でいる時ではありません。私たちが直面している試練は、皆を結集させ、誰をも区別しないからです。新型コロナウイルスの影響を受けている世界の多くの地域の中でも、特にヨーロッパに特別な思いを向けます。第二次世界大戦後、この愛する大陸は、具体的な連帯精神のおかげで再興し、その精神は過去の対抗意識を克服させることになりました。特に現在の状況下で、かつてのライバル意識に後戻りすることなく、皆が一つの家族の一員として、互いに支え合うことが急務となっています。

 今日、欧州連合(EU)は、歴史的な挑戦の前に立っています。それにEUだけでなく、全世界の未来がかかっています。革新的な解決策をも含め、いっそうの連帯の証しを与える機会を失ってはなりません。他の道は、一部の利害関係によるエゴイズムと、過去に舞い戻る誘惑です。それは未来の世代の平和的共存と発展を重大な試練に立たせるリスクを帯びています。

*分裂している時ではない

 今は分裂している時ではありません。私たちの平和である主が、世界各地の紛争における責任者たちに、グローバルな即時停戦へのアピールに応じる勇気を与えてくださいますように。今は武器の製造と取引を続けている時ではありません。そこで使われる膨大な資本は、人々の治療と救命のために使われるべきです。

 シリアの長い流血の戦争、イエメンの紛争、イラクやレバノンにおける緊張を、終わらせることができますように。今この時、イスラエルとパレスチナの人々が対話を再開し、双方が平和に暮らすための、安定した恒久の解決を見出すことができますように。ウクライナ東部に生きる人々の苦しみが終わりますように。アフリカの国々で、多くの無実の人を狙うテロ攻撃がなくなりますように。

*忘却している時ではない

 今は忘却の時ではありません。私たちが直面しているこの危機が、多くの人々を苦しめている他の様々な緊急事態を忘れさせることがありませんように。命の主が、モザンビーク北部カーボ・デルガード州のように、重大な人道危機の中にあるアジアやアフリカの人々に寄り添ってくださいますように。戦争や、干ばつ、飢餓のために、難民や避難者となった多くの人々の心を温めてください。特にリビアや、ギリシャとトルコの国境における、たくさんの移民・難民たちを守ってください。彼らの多くは子どもたちで、耐えがたい環境で生活しています。ベネズエラが具体的で即効性のある解決にたどり着くと共に、政治・社会経済・医療上の深刻な状況に苦しむ同国民への国際社会の支援が可能となりますように。

*主は苦しみの闇を取り去られる

 親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 無関心、自己中心主義、分裂、忘却、これらは、この時期、実に耳にしたくない言葉です。これらの言葉をすべての時代から締め出したいと思います。私たちの中で怖れと死が勝る時、すなわち、私たちの心と生活を主イエスの勝利に任せない時、これらの態度が優勢に思われるのです。死にうち勝った復活の主が、私たちに永遠の救いの道を開き、哀れな人類の闇を払い、終わることのないご自身の栄光の日に、私たちを導いてくださいますように。

(編集「カトリック・あい」・冒頭はバチカン広報局発表の公式英語訳を使用しました)

 

2020年4月12日

♰「復活されたイエスは私たちに『希望』と『勇気』をくださる」聖土曜日・復活徹夜祭ミサで

  教皇フランシスコが11日夜、聖ペトロ大聖堂で復活徹夜祭ミサを司式され、ミサ中の説教で、「神はすべてのものを善きものにしてくださる」といく確信から生まれる希望と勇気の賜物のイエスのメッセージを中心に話された。

 ミサはこの日も、新型コロナウイルスの大感染が続く中で、インターネットやテレビ、ラジオなどを通して全世界の人々に動画配信され、多くの信徒たちがミサに参加した。

 説教では、復活されたキリストが、あらゆる歳の、全ての弟子に贈られた二つの賜物ー希望と勇気ーについて語られた。

 

*イエスを信じる者たちが迎えた最初の聖土曜日

 教皇はまず、弟子たちが迎えた最初の聖土曜日に、活発に動いたのは女​​性だったことを強調され、私たちは、今年、特別な仕方で、彼女たちと関わりを持つことができる、とされた。

 「彼女たちは、私たちと同じように、突然起きた予期しない悲劇を目のあたりにしました。死を目撃し、彼女たちの心に重くのしかかりました」。

  だが、そのような状況が、彼女たちの体を麻痺させることはなかった。そのかわりに、「単純だが、並外れた」ことをしたー彼らはイエスの体に塗る油と香料を用意した。

 「彼女たちはイエスを愛することをやめませんでした。心の暗闇の中に、慈しみの火をともしたのです」。

  もう一人の女性、聖母マリアはその日を祈りの中で過ごした。

 教皇は「その日は、彼女を称える日として捧げられることになりました」とされ、「イエスは、大地に埋められた種のように、この世界に新しい生命を花開かせようとしておられました。そして、ここに登場した女性たちは、祈りと愛によって、その希望を花にするのを助けたのです」と説かれた。

 

*夜明けとともに希望が訪れる

 夜明けとともに希望が訪れるーイエスに彼女たちが会うのだ。

 「恐れてはならない、恐怖に屈しないようにーこれが希望のメッセージです。このメッセージは今日、私たちに向けられています。まさに今夜、神が私たちに食べさせてくださる言葉なのです」と教皇は言われた。

 「希望は私たちの権利」と教皇は宣べられた。それは神から来る希望。楽観主義とは違う。「私たちが自分で手に入れるものではなく、天国からの贈り物です」とされた。「すべては良くなる」はこれまで数週間歌われた聖歌だが、何週間も経つうちに「最も大きな希望が雲散霧消する可能性があります」と語られたうえで、「だが、『イエスの希望』は違います。イエスは私たちの心に確信を植え付けられますー神は、墓の中からさえも命をもたらされるのだから、全てのこと善きものにされるとこが、おできになるーという確信です」と指摘。

 私たちの希望は、誰も現れ出たことのない所ーつまり墓から出てきた人、にある。教皇は「墓の入り口をふさいだ石を転がした方は、私たちの心の石も取り除くことができます…。イエスは私たちを見捨てませんでした。私たちを訪ね、私たちの痛み、苦悩、そして死にお入りになりました。イエスの光は墓の闇を取り払いました。今日、イエスはその光が私たちの暮らしの最も暗い隅まで及ぶことを望んでおられるのです」と強調された。

 

*勇気

 主の勇気の賜物は、私たちが心の前に置いたわずかな石さえも転がしてのみ、受け取ることができる。復活した主の光は、このように私たちの最も深い恐怖にも達することができる。イエスが、弟子たちよりもガリラヤにおいでになったように、「主は私たちの前をお進みになる」ことを教皇は思い起こされ、次のように語られた。

 「イエスが生と死において、私たちの前を歩まれることを知ることは、励みになります。イエスは私たちの前に、ガリラヤーつまり、イエスと弟子たちにとって、日々の暮らし、家族、そして仕事を思い起こす場所ーにおいでになるのです。イエスは私たちがそこに、日々の暮らしに、希望をもたらすことを望んでおられます。カリラヤは、弟子たちにとって思い出深い場所でした。そこでイエスに最初に呼ばれたからです。ガリラヤに帰ることは、私たちが神に愛され、呼ばれたことを思い起こすことを意味します」。

 

*希望のメッセージを発散する

 ガリラヤはまた、「聖なる都の神聖さ」から最も離れた場所を意味している。異教徒が住んでいた場所、イエスは復活された直後に弟子たちを向かわせた場所だ。教皇はこれを、「希望のメッセージは聖なる場所に限定されるべきではない」ということを象徴している、と解釈される。

 希望のメッセージは、どこに住んでいるかに関係なく、すべての人を対象としている。教皇は、私たちキリスト教徒は、自分たちの周りの「ガリラヤ」があるところならどこにでも、「命の歌を届ける」必要があるとされ、「『命の言葉』に触れた私たちが『命の歌』を歌わないなら、誰が歌うのでしょう?」と問いかけ、次のように訴えられた。

 「死の叫びを黙らせましょう、戦争を繰り返さないように!私たちが武器の生産と取引を止めますように。私たちには銃ではなく、パンが必要です。堕胎と無実の命を奪うのを終わらせましょう。物に満たされている人の心が、生きるために欠かせない物を持たない人を満たすために開かれますように」。

 

*イエスの足をかき抱く

 女性たちは、墓に入られ、そこからお出になった方の足ー「死を踏み潰し、希望の道を開かれた足」を、かき抱いた。

 教皇は説教の締めくくりに、こうイエスに呼びかけられた。「今日、希望を求める巡礼者として、私たちは復活されたイエス、あなたに、しがみつきます。私たちは死に背を向け、心をあなたに開きます。あなたが命そのもの、だからです」。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

 

 

2020年4月12日

*教皇の聖金曜日の祭儀・主の受難と現在のウイルス危機を観想する

 ある日、ラザロの死を嘆き悲しんだ人は、今日、人類を襲った災難を嘆き悲しみます。そうです、神は、すべての父親と母親のように、嘆き悲しんでおられます。私たちは、このことを知ると、これまでの人生で神に対して行った、あらゆる非難を恥じることになります。神は、災難を克服するために、私たちの痛みに参加されます。聖アウグスチヌスは書いていますー 「至高の善-神は御業において、いかなる悪もお認めにならないだろう。ご自身の全知全能と善意において、悪から善を生み出すことができないなら」と。

 父なる神は、息子から善を引き出すために、彼の死を望んだのでしょうか?いいえ、単に人間が進路を選ぶ自由をお許しになっただけですー人類のではなく、ご自身の目的に役立つように。これは、地震や疫病などの自然災害の場合にも当てはまります。神は、そのような災難をもたらしません。

 ただ、自然にも一種の自由をお与えになりました。もちろん、それは人間のそれと質的には異なりますが、それでも一種の自由—それ自体の発展の法則に従って進む自由です。神は、ほんのわずかな動きしか予測されない、プログラムされた時計としては世界をお創りになりませんでした。それを「チャンス」と呼ぶ人もいますが、聖書は「神の知恵」と呼びます。

*多くの痛み、多くの死、医療従事者たちの英雄的働きを無駄にしないように

 現在の人類の健康上の危機がもたらしているプラス効果は、「連帯感」です。人類の歴史の中で、すべての国の人々が、この痛みの瞬間に、以前よりも紛争が少なくなっており、皆が団結し、平等だと感じたことがあったでしょうか? 偉大な詩人の1人の言葉がもつ真理を、今ほど私たちが体験したことはありませんー「平和だ、人々よ!打ちひしがれた地球の神秘はあまりに奥深い」。

 私たちは防護壁を作るのを忘れていました。このウイルスは国境を知りません。一瞬で、人種、国家、宗教、富、権力のすべてを区別する壁を打ち破りました。今の瞬間が過ぎ去った時に、私たちは以前の時に戻るべきではありません。教皇が私たちにお勧めになったように、この機会を無駄にすべきではありません。あまりにも多くの痛み、多くの死、そして医療従事者たちの多くの英雄的な働きが、無駄にならないようにしましょう。元の状態に戻ることは、私たちが最も恐れるべき「後退」です。

 「彼らはその剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直す。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦いを学ぶことはない」(イザヤ書2章4節)

 今や、人類が実現を長く待ち望んできた、このイザヤの預言の箇所を、実践する時です。 悲惨な軍備競争に「もう十分だ」と言いましょう。できるかぎりの力を振り絞って、あなたが若い人たちとともに。危機に瀕しているのは、何よりもあなたがたの運命だからです。健康、衛生、食料の確保、貧困との闘い、神から預かったものの適正な管理など、私たちが今、最も緊急に必要だと認識している目標に向けて、あらゆる人的、物的資源を投入しましょう。次の世代に、物や金はわずかでも、人間性豊かな世界を残しましょう。

 

*信じる心をもって、十字架に掛けれらた方に目を凝らし、祈ろう

 神のみ言葉は私たちにこのように告げますー「私たちが時としてまずすべきことは、神に向かって叫び声をあげることだ」と。神ご自身が、人々の唇に、ご自分に向かって叫び声を上げるための言葉をのせる方なのです。それは時として、激しい嘆きの言葉、ほとんど非難するような言葉になります-「我らの主よ、目覚めてください。なぜ、眠っておられるのですか。私たちを永遠に捨て置かず、起き上がってください」(詩編44章24節)「立ち上がり、私たちを助けてください!あなたの慈しみのゆえに私たちを贖ってください」(同27節)「先生、私たちが溺れ死んでも、かまわないのですか」(マルコ福音書4章38節)。

 神は、便益を与えることができるように、嘆願されることを望んでおられるでしょうか?私たちの祈りは、神のご計画を変えさせることができるでしょうか?できません。しかし、神が私たちに、ご自身の恵みと私たちの祈りの両方の果実として、私たちにお与えになると決められたことがあります。まるで、ご自身の創られた者と便益の褒賞を分かち合うかのように。神は、私たちにそうするように促す方ですー 「叩きなさい。そうすれば、開かれる」(マタイ福音書7章7節)のです。

 イスラエルの民が砂漠の毒蛇に噛まれた時、神はモーセに青銅の蛇を造り、竿の先に掛けるように命じました、そして、その青銅の蛇を見た人は誰も死ぬことがありませんでした(民数記21章9節参照)。イエスは、(注:ファリサイ派の1人で、ユダヤ人たちの指導者だった)ニコデモが論争を挑んだ時、この蛇をご自分に譬えてこう話されましたー「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」(ヨハネ福音書3章14 -15節)と。

*危機が去った後、もっと兄弟愛に溢れ、人間らしい、キリスト教徒にふさわしい生活を始められるように

 私たちもまた、今のこの時、目に見えない「毒蛇」に噛まれています。私たちのために十字架に掛けられた方に目を凝らしましょう。私たち自身と人類全体のためにイエスを崇敬しましょう。信じる心をもってイエスを見る人は死ぬことがありません。仮に死んだとしても、永遠の命に入ることになるのです。

 イエスは「自分は三日後に復活する」(マタイ福音書27章63節参照)と予告されました。私たちもまた、短いことを願う現在の日々が終わった後に、起き上がり、私たちの家の”墓”からでることでしょう。ただし、ラザロのように、以前の生活に戻るのではなく、イエスのように新しい生活に入るために、ですー以前よりも、もっと兄弟愛に溢れ、もっと人間らしく、もっとキリスト教徒にふさわしい生活に!

(公式英語訳より翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

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Translated  from Italian to English by Marsha Daigle-Williamson, Ph.D.

[1] Moralia in Job, XX, 1.
[2] John Paul II, Salvifici doloris [On the Meaning of Human Suffering], n. 23.
[3] https://blogs.timesofisrael.com/coronavirus-a-spiritual-message-from-brooklyn (Yaakov Yitzhak Biderman).
[4] See St. Augustine, Enchiridion 11, 3; PL 40, 236.
[5] Giovanni Pascoli, “I due fanciulli” [“The Two Children”].
[6] See St. Thomas Aquinas, Summa Theologicae, II-IIae, q. 83, a. 2.

 

2020年4月11日

♰「感染対策で命を落とす司祭、医師、看護師は私たちの身近な聖人」聖木曜日のミサ説教で

  「過ぎ越しの聖なる三日間」に入った9日の「聖木曜日」、教皇フランシスコはバチカンの聖ペトロ大聖堂で、「主の晩餐の夕べのミサ」を司式された。このミサは、イエスが最後の晩さんで、聖体とミサ聖祭、司祭職を制定したことを記念するもの。

 教皇は同日午後6時(日本時間10日午前一時)から、聖ペトロ大聖堂の「司教座の祭壇」で、新型コロナウイルス感染による世界的危機から、教皇とミサに仕える人々、そしてごくわずかな会衆によって特別な形をとりつつ、厳かな雰囲気のうちにミサをなさった。

 ミサ中の説教で、教皇は、「御体と御血に与るように私たちを招かれるイエス、パンとぶどう酒の形態をもって、私たちと共におられ、私たちの中に留まり、働かれる主の神秘」を観想された。

 まず、最後の晩さんでイエスがペトロの足を洗った出来事とその時に交わされた言葉に注意を向けられ、「このエピソードは、『天国に入るための条件は、奉仕すること』であると示す一方で、神の僕、私たちの僕となられた主に、自らを洗っていただき、それによって成長させられ、また赦される必要をも示しています」と説かれた。

 さらに、「このミサで、主のために自らを捧げ、人々に奉仕するすべての司祭たちを心に留めずにはいられません」とされ、特に「この新型コロナウイルスの世界的大感染の危機の中で、病者への配慮のために命を落とした多くの司祭たち、また医師や看護師たち」を思い起こして、「これらの人々は、私たちの身近にいる聖人たちなのです」と強調された。

 また、「他の司祭たちの酷い行いのために、人々から心無い言葉で傷つけられている司祭や、何をすべきか悩み、壁に突き当たり苦悩する司祭たち」を励まされた。

 そして、すべての司祭に対する恵みを主に感謝され、「ペトロのように頑なにならずに、主に足を洗っていただき、赦されることで、赦すための大きな心を得るように」と司祭たちを促された。

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 聖木曜日・主の晩さんミサの特徴の一つとして、イエスが自ら弟子たちの足を洗い、愛と奉仕の模範を示したことを思い起こす「洗足式」がある。教皇はこれまでこの日に刑務所や移民センターなどでミサを捧げ、洗足式をなさっていたが、今年は、感染防止に配慮して中止された。また、このミサのもう一つの特徴である、聖別された聖体を安置所に運ぶための聖堂内の行列と安置後の聖体の前での礼拝(聖体安置式)も中止された。また、聖木曜日の午前に教皇がローマ教区の主任司祭らと捧げる「聖香油」のミサは、延期された。

(編集「カトリック・あい」)

2020年4月10日

♰「私たちは愛されている、主は私たちを見捨てず、お忘れにならない」-受難の水曜日に

教皇フランシスコ、一般謁見で、イエスの受難を観想 2020年4月8日教皇フランシスコ、一般謁見で、イエスの受難を観想 2020年4月8日  (Vatican Media)

(2020.4.8 バチカン放送)

 教皇フランシスコは8日、復活祭を目前に控えた「聖週間」中の「受難の水曜日(聖水曜日)」の一般謁見を、バチカン宮殿からビデオを通して行われ、カテケーシス(教会の教えの解説)で、イエスの受難をテーマに、次のように講話された。

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 親愛なる兄弟姉妹の皆さん ここ数週間、世界を苦しめる新型コロナウイルスの世界的大感染の不安の中、人々が投げかける多くの問いの中には、神に対する問いかけもあります-神は私たちの苦しみを前に何をしておられるのか、すべてがうまくいかないこの時、神はどこにおられるのか、なぜ急いでこれらの問題を片づけてくださらないのかーなどです。

 今、「聖週間」において、私たちが共に歩んでいるイエスの受難のストーリーに、こうした問いかけに対する助けを見出すことができます。実際、イエスの受難の道のりには、多くの問いがひしめいています。

 イエスのエルサレム入城を歓呼で迎えた後、人々は「この方こそ自分たちをやっと敵から解放してくれるのだろうか(参照:ルカ福音書24章21節」と自らに問いました。人々は「剣を持った強い勝利者」としてのメシアを待ち望んでいたのです。

 それに対して、実際に現れたのは柔和で心の謙遜な人。皆に回心と憐みを呼びかけていました。

 最初、イエスを賛美したこれらの群衆こそが、後に「十字架につけろ!」(マタイ福音書27章23節)と叫ぶことになりました。イエスに従っていた者たちは、とまどい驚き、イエスを見捨てることになりました。彼らはこう考えたのですー「これがイエスの成れの果てなら、彼はメシアではない、なぜなら神は強く無敵だからだ」と。

 しかし、イエスの受難の物語を読み進めば、そこで驚くべきことに出会います。「イエスが十字架上で苦しむのを見、イエスが皆を赦すのを聞き、イエスの無限の愛にじかに触れた」ローマ軍の百人隊長は、イエスが息を引き取られた時、こう言いましたー「本当に、この人は神の子だった」(マルコ福音書15章39節)。百人隊長は、皆とは反対のことを言うのです。「そこに本当に神がいる」と。

 今日、私たちも自分に問いかけますー「神の本当の御顔とは何だろうか」と。普段、私たちは神の中に自分の姿を最大限に投影します。私たちの成功、正義感、また義憤など。しかし、福音は「神はそうではない」と私たちに言います。神は私たちの考える方とは異なり、私たちの力では神を知ることはできません。 それゆえ、神は私たちのもとに来られました。神は私たちに会いに来られ、復活祭においては完全にその姿を啓示されます。それはどこにでしょう?ー十字架の上です。そこに私たちは神の御顔の輪郭を学びます。なぜなら十字架は「神の教壇」だからです。

 十字架を沈黙のうちに見つめ、私たちの主がどういう方であるかを知ることは、私たちにとって有益なことです。

 主は誰かを非難するために指差すのではなく、すべての人に対して両腕を開いておられます。ご自身の栄光で私たちを押しつぶすことなく、私たちのためにそれを脱ぎ捨てられました。私たちを言葉の上で愛するのではなく、沈黙のうちに私たちのために命を捧げられました。私たちに強いず、私たちを解放されます。私たちを見知らぬ者として扱わず、私たちの悪と罪をご自身に背負ってくださいます。

 神に対する先入観から解放されるために、十字架を見つめましょう。そして、福音書を開きましょう。福音書の中では、たとえばパンを増やした奇跡の後のように、人々がイエスを王にするために連れて行こうとした時、イエスは立ち去りました(ヨハネ6章15節参照)。イエスの神としての威厳を悪霊たちが口にした時、イエスは黙るように命じました(マルコ1章24-25節)。

 なぜでしょうか。それはイエスが人々の誤解を望まれないからです。人々が「謙遜な愛である真の神」を、「派手な見世物と力で圧倒する世俗的な偽の神」と混同して欲しくないからです。

 これに対し、福音書で、イエスの本質が荘厳に宣言されたのは、いつだったでしょうか。それは百人隊長が「本当に、この人は神の子だった」と言った時です。百人隊長は、イエスが息を引き取ったばかりの場所で、そう言いました。もう間違うことはできません。神は愛において全能の方です。それが神の本質、神は愛だからです。

 皆さんは反論するかもしれません。「こんなに弱い神では仕方がない、もっと強く、力ある神の方がよい」と。しかし、この世の権力は過ぎ去りますが、愛は留まります。愛だけが私たちの命を守ります。愛は私たちの弱さを抱擁し、変容させるからです。過ぎ越しに、私たちの罪を赦しによって癒したのは、死を命へと移る道としたのは、私たちの恐れを信頼に、苦悩を希望に変えたのは、神の愛です。

 復活祭は「神はすべてを善に変えることがおできになる」と私たちに教えます。「神が一緒にいてくださるなら、すべては大丈夫だ」と、本当に信頼することができるのです。そうです。復活の朝、「恐れることはない」(マタイ福音書28章5節参照)という言葉を私たちが聞くのは、そのためなのです。

 悪をめぐる苦悩に満ちた問いかけは、一瞬にして消えるわけではありません。しかし、復活の主の中に私たちが深淵に陥らないための、確かない礎を見出すことができるのです。

 親愛なる兄弟姉妹の皆さん、イエスは私たちに寄り添いながら歴史を変えられました。そして、たとえまだ、悪に傷つけられているとしても、それを救いの歴史とされました。ご自身の命を十字架上で捧げながら、イエスは死に打ち勝たれました。十字架につけられたイエスの胸の傷から、神の愛は私たち一人ひとりに届きます。イエスに近づき、与えられる救いを受け入れながら、私たちは歴史を変えていくことができます。

 祈りの中でイエスに私たちの心のすべて開きましょう。イエスの眼差しに見つめていただきましょう。私たちは孤独ではなく、愛されていることが分かるでしょう。主は私たちを決して見捨てず、お忘れにならないからです。

2020年4月9日

♰「キリストが示された愛にひたすら『はい』と言おう」受難の主日のミサで

(2020.4.5 バチカン放送)

 「受難の主日」と共に、4月5日(日)、カトリック教会の典礼暦は「聖週間」に入った。「聖週間」は、復活祭直前の一週間を指す。キリストの受難を記念する「聖週間」は、キリストのエルサレム入城と受難への歩みの開始を観想する「受難の主日」に始まる。そして、「聖木曜日」午後の「主の晩餐」のミサから、「聖金曜日」の「主の受難の儀式」、「聖土曜日」の「復活の聖なる徹夜祭」に至る、「過ぎ越しの聖なる三日間」によって、教会の典礼は一年間の頂点を迎える。

 新型コロナウイルスの世界的感染拡大を背景に記念された今年の「聖週間」初日の5日、教皇フランシスコはバチカンの聖ペトロ大聖堂で「受難の主日」のミサを、ごく少人数の協力者と共に捧げられた。

 「受難の主日」は「枝の主日」とも呼ばれ、ろばの子に乗りエルサレム入りしたイエスを、人々が服や枝を道に敷き、歓呼して迎えたことにちなみ、ミサの前に、参加者らは枝を掲げて宗教行列を行うのが習わしとなっている。教皇と参加者たちは、大聖堂奥の、オリーブやヤシを飾った「司教座の祭壇」前で、小さな宗教行列を行った。

 福音朗読では、マタイによる福音書から、イエスの受難(26章14節-27章66節)が朗読され、教皇は説教で、「私たちの救いのために自ら僕となられた神の御前で、奉仕するために生きる恵みを祈り求めるように」と促された。そして、新型コロナウイルスの世界的感染の危機を生きる人々に、「足りない物事だけにとらわれず、自分たちに可能な善いことを考えるように」と励まされた。

「受難の主日」のミサの教皇の説教は以下のとおり。

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 イエスは「自分を無にして、僕の形」(フィリピの信徒への手紙2章7節)をとられました。この聖なる日々を、使徒パウロの言葉によって導いてもらいましょう。

 聖書は反復句のように、僕としてイエスを扱いますー聖木曜日には、弟子たちの足を洗う僕、そして聖金曜日は苦しみと勝利の僕(イザヤ書52章13節参照)として。そして、それより前、明日、イザヤは彼のことを「見よ、私が支える僕』(同42章1節)と預言します。

 神は、私たちに仕えることによって、私たちを救われました。普通、私たちは、「神に仕えるのは自分たちだ」と考えます。いいえ、神はご自分の意思で、私たちに仕えられたのです。なぜなら、神が先に私たちを愛されたからです。愛されることなく愛するのは難しい。そして、私たち自身が神に仕えられるのを受け入れないなら、仕えることはもっと難しくなります。

 ここで一つ質問です。主はどのように私たちに仕えられたのでしょう?神は、ご自分の命を私たちのために差し出されます。神にとって、私たちは大切な存在であり、大きな犠牲を払うべき存在なのです。フォリーニョの聖アンジェラは、イエスからこのような言葉を聴いたと証言しました-「私は冗談であなたを愛したことはなかった」と。

 イエスの愛は、彼を私たちのために、ご自身を犠牲にし、私たち全員の悪を、ご自分に負わせました。それは言葉では言い表せません。神は、私たちの悪を、ご自分に対して怒り狂わせることで、私たちを救ってくださいました。歯向かわず、僕の謙遜、忍耐、従順だけで、そして何よりも愛の力で、です。そして、天の父はイエスのそうした行為を支え続けられました。イエスはご自分に降りかかった悪を打ち負かしませんでしたが、ご自分の苦しみを貫くことで、ただ善をもって私たちの悪を克服され、愛によって完全に阻止されるでしょう。最後まで。

 このイエスの奉仕を支えられたのは御父でした。イエスはご自分を攻撃する悪に対して逃げることなく、その苦しみに耐えられました。それは、私たちの悪が善によってのみ打ち負かされるため、愛を隅々まで行きわたらせるためでした。主は私たちに仕えてくださいました。そして、裏切られ、見捨てられるという、最も辛い状態を体験されました。

 「裏切り」ーイエスは、ご自分を売り渡した弟子から裏切りを受け、またご自分を重ねて否定した弟子からの裏切りも受けました。イエスは人々からの裏切りを受けました。

 イエスに向かって上がっていた人々の歓声は、やがて「十字架につけろ」(マタイ福音書27章22節)という叫びに変わりました。イエスは宗教家たちから不当に罪に定められ、政治家たちからは責任逃れをされるという裏切りを受けました。

 私たちの人生で受けた、大小の裏切りを考えましょう。堅固な信頼が裏切られたのを知ることは恐ろしいことです。それによって心の底に生まれる失望は、人生の意味さえ失わせるほどです。こうしたことが起きるのは、私たちが愛され、愛するために生まれたからです。中でも最も辛いのは、「誠実でいること、近くにいることを約束した人」から裏切られることです。愛である神にとって、裏切りがいかに辛いものであったか、私たちには想像もできません。

 私たちの内面を見つめてみましょう。私たちが自分自身に正直ならば、自分の不誠実さを見い出すことができるでしょう。どれほどの欺瞞、偽善、不忠実があることでしょう。どれほどの良い考えが葬られ、どれほどの約束が守られなかったことでしょう。どれだけの決意を無駄にしたことでしょう。

 主は、私たちの心を私たち以上に知っておられます。私たちがいかに弱く、気まぐれで、何度もあきらめ、立ち直るのにどれだけ苦労し、ある種の傷を癒すのがどれだけ難しいかを、主はご存じです。

 主は私たちを助け、私たちに仕えるために、どうされたでしょうか。それは主が預言者を通して言われたとおりですー「私は、背いた彼らを癒し、喜んで愛する」(ホセア書14章5節)。

 主は私たち癒し、ご自分で私たちの不誠実を引き受け、私たちの背信を取り去ってくださいました。私たちは、自分には無理だという恐れに意気消沈する代わりに、眼差しを十字架に向けて上げ、その抱擁を受けて、言うのですー「私の不誠実はあの十字架の上にあるのだ。イエスよ、あなたはそれを御身に引き受けてくださいました。あなたの御腕を広げてください。あなたの愛でわたしを支え続けてください…そうして、私は前に進むことができます」。

 「見捨てられるということ」ー今日のミサで読まれたマタイ福音書で、イエスは十字架上で、ただ一つの言葉を発します。「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」(27章46節)。

 これは力強い言葉です。イエスは、逃げた弟子たちから見捨てられたことに苦しまれました。しかし、そこには御父がおられました。孤独の深淵の中で、イエスは初めて御父を「神」と呼びます。そして、御父に向かって大声で、最も深い苦しみと共に「なぜ」と叫ばれました。「なぜあなたまで、私をお見捨てになったのですか」。

 実際には、この言葉は詩編の言葉です(詩編22章2節参照)。イエスはこの祈りの中に、究極の苦悩を込めた、とも言われます。実際、イエスはその苦悩を体験されました。それは最も深い苦悩でした。その時、イエスが発したその言葉を、福音書は証ししているのです。

 これらの全ての理由は何でしょうか。それは、私たちの救いです。私たちが行き詰っても、追い詰められても、光や出口が見えなくても、神が応えてくださらないように見える時でさえも、私たちが独りではないことを思い出すように、それが理由なのです。

 イエスは完全に見捨てられるという体験をされました。しかし、それはこの最も疎外された状況の中で、私たちにあまねく連帯されるためでした。それは、私のために、あなたのために、「恐れるな。あなたは独りではない。私は常にあなたのそばにとどまるために、あなたの苦悩のすべてを体験した」と言われるためでした。裏切りと放棄に至るまで、私たちの最も激しい苦悩の深淵に降りて来られるまで、イエスはこれほどまでに私たちに仕えられたのです。

 今日、新型コロナウイルスの世界的感染の悲劇において、崩れ去った多くの確実性、裏切られた多くの期待を前に、見捨てられた思いに苦しむ中で、イエスは私たち一人ひとりに呼びかけます。「勇気を出しなさい。私の愛に心を開きなさい。あなたを支える、神の慰めを感じるでしょう」と。

 愛なる兄弟姉妹の皆さん、裏切りと放棄を味わうまでに私たちに仕えられた神の御前で、私たちには何ができるでしょうか。それは、私たちが創造されたその訳に背かず、本当に大切なことを放棄しないことです。私たちは、神を愛し、隣人を愛するためにこの世にいます。他は過ぎ去り、愛だけが残ります。

 私たちが体験しているこの危機は、私たちに促しますー「本当に大事なこと」に真剣に向き合い、そうでないことに捕らわれないように、「奉仕のない人生は意味がない」ということを再発見するように、と。なぜなら、人生は愛によって量られるからです。

 この聖週間、私たちは自宅にいて、イエスの十字架を前にしています。それは神の私たちに対する愛の大きさを表しています。命を捧げるほどに私たちに仕えることを望まれた神の御前で、奉仕するために生きる恵みを祈り求めましょう。苦しむ人、助けを必要とする人とつながりを持つよう努めましょう。足りないものだけを考えず、私たちにできる善いことを考えましょう。

 「見よ、私の僕、私が支える者を」ー受難においてイエスを支えられた御父は、奉仕において私たちをも支えてくださいます。もちろん、家庭において、また社会において、愛すること、祈ること、他者の世話をすることは、時に犠牲を伴うでしょう。それは十字架の道行に思われることもあるでしょう。しかし、奉仕の道は、勝利への道です。それは私たちを救い、命を救う道です。

 今日5日、創設から35年目を迎える今年の「世界青年の日」にあたって、特に若者たちに呼びかけたいと思います。親愛なる友の皆さん、この日々、光を浴びた真の英雄たちを見つめてください。彼らは名声も富も成功も求めず、隣人に奉仕するために自分自身を捧げる人たちです。

 神と人々のために人生を捧げることを恐れてはなりません、むしろ、そうすることで、それを得るのです。なぜならそれは与えることで、受け取る恵みだからです。なぜなら最も大きな喜びは、愛にためらいなく「はい」と答えることだからです。それは、イエスが私たちのためになさったように。

(編集「カトリック・あい」・前半は南條俊二訳、文中の聖書の引用は「聖書協会 共同訳」を使用)

バチカン広報局発表の英語訳全文は以下の通り。

CELEBRATION OF THE SUNDAY OF THE PALMS AND THE PASSION OF THE LORD HOMILY OF THE HOLY FATHER FRANCIS


Jesus “emptied himself, assuming a condition of servant ” ( Phil 2: 7). Let us allow ourselves to be introduced by these words of the apostle Paul in the holy days, where the Word of God, like a refrain, shows Jesus as a servant : Holy Thursday is the servant who washes the feet of the disciples; Good Friday is presented as the suffering and victorious servant (cf. Is 52:13); and already tomorrow Isaiah prophesies of him: “Here is my servant whom I support” ( Is 42: 1). God saved us by serving us. Generally we think it is we who serve God. No, it is He who served us freely, because he loved us first. It is difficult to love without being loved. And it is even more difficult to serve if we do not allow ourselves to be served by God.

But – one question – how has the Lord served us? Giving his life for us. We are dear to him and cost him dear. Saint Angela of Foligno testified that she heard these words from Jesus: “I didn’t love you as a joke”. His love led him to sacrifice himself for us, to take all our evil upon himself. It is something that leaves you speechless: God saved us by letting our evil rage on Him. Without reacting, only with the humility, patience and obedience of the servant, exclusively with the strength of love. And the Father sustained the service of Jesus: he did not defeat the evil that fell upon him, but he supported his suffering, so that our evil could be overcome only with good, so that it would be completely crossed by love. Until the end.

The Lord has served us up to try the most painful situations for those who love: betrayal and abandonment .

 Betrayal . Jesus suffered the betrayal of the disciple who sold him and the disciple who denied him. He was betrayed by the people who praised him and then shouted: “Be crucified!” ( Mt 27,22). He was betrayed by the religious institution that wrongfully condemned him and by the political institution that washed his hands. Think of the small or large betrayals that we have suffered in life. It is terrible when it turns out that well-placed trust is deceived. Such disappointment arises at the bottom of the heart, so that life seems to make no sense. This happens because we were born to be loved and to love, and the most painful thing is to be betrayed by those who have promised to be loyal and close to us. We can’t even imagine how painful it was for God, who he is love.

Let’s look inside. If we are sincere with ourselves, we will see our infidelities. How many falsehoods, hypocrisy and duplicity! How many good intentions betrayed! How many broken promises! How many resolutions left to vanish! The Lord knows our heart better than we do, he knows how weak and inconstant we are, how many times we fall, how hard we get up and how difficult it is to heal certain wounds. And what did he do to meet us, to serve us? What he said through the prophet: ” I will heal them from their infidelity, I will love them deeply” ( Os14.5). He healed us by taking upon ourselves our infidelities, removing our betrayals. So that we, instead of being discouraged by the fear of not making it, we can look up to the Crucifix, receive his embrace and say: “Here, my infidelity is there, you took it, Jesus. You open my arms, serve me with your love, continue to support me … Then I go on! “.

 The abandonment . On the cross, in today’s Gospel, Jesus says one sentence, one only: “My God, my God, why have you abandoned me?” ( Mt 27.46). It’s a strong phrase. Jesus had suffered the abandonment of his own, who had fled. But the Father remained. Now, in the abyss of solitude, for the first time he calls him by the generic name of “God”. And the ” why? ” Shouts out loud “, the reason why?” more lacerating: “Why did You also abandon me?”. They are actually the words of a Psalm (cf. 22: 2): they tell us that Jesus also brought extreme desolation to prayer. But the fact remains that he proved it: he experienced the greatest abandonment, which the Gospels testify by bringing back his original words.

Why all this? Once again for us, to serve us. Because when we feel our backs to the wall, when we find ourselves in a dead end, with no light and no way out, when it seems that even God is not responding, we remember that we are not alone. Jesus experienced total abandonment, the situation most extraneous to Him, to be in solidarity with us in everything. He did it for me, for you, for all of us, he did it to tell us: “Don’t be afraid, you are not alone. I have tried all your desolation to always be by your side ”. This is how far Jesus has served us, descending into the abyss of our most atrocious sufferings, up to betrayal and abandonment. Today, in the drama of the pandemic, in the face of so many certainties that crumble, in the face of so many betrayed expectations, in the sense of abandonment that holds our hearts, Jesus says to each one: “Courage: open your heart to my love. You will feel the consolation of God,

Dear brothers and sisters, what can we do before God who has served us until we experience betrayal and abandonment? We can not betray what we were created for, not abandon what matters. We are in the world to love Him and others. The rest passes, this remains. The drama we are going through at this time pushes us to take seriously what is serious, not to get lost in trivial things; to rediscover that life is of no use if it is not served . Because life is measured on love. So, in these holy days, at home, we stand before the Crucifix – look, look at the Crucifix! -, measure of God’s love for us. Before God who serves us to the point of giving life, we ask, looking at the Crucifix, the grace of living to serve. We try to contact those who suffer, those who are alone and in need. We don’t just think about what we are missing, we think about the good we can do.

 Here is my servant whom I support . The Father, who supported Jesus in the Passion, also encourages us in the service. Of course, loving, praying, forgiving, taking care of others, in the family as in society, can cost. It may seem like a via crucis . But the way of service is the winning way, which saved us and which saves us, saves us life. I would like to say this especially to young people, on this Day which has been dedicated to them for 35 years. Dear friends, look at real heroes, which in these days come to light: they are not those who have fame, money and success, but those who give themselves to serve others. Feel called to put your life on the line. Do not be afraid to spend it for God and for others, you will earn it! Because life is a gift that is received by giving oneself. And because the greatest joy is to say yes to love, without if and without but. Say yes to love, without if and without but. As Jesus did for us.

2020年4月5日

♰「愛と忍耐を通して、より良い時の準備をしよう」-聖週間に

(2020.4.3 バチカン放送)

 教皇フランシスコは3日、5日から始まる「聖週間」を前にビデオメッセージをおくられた。

 カトリック教会の典礼暦は、12日(日)に祝う「復活の主日」に先立ち、5日(日)から復活祭直前の一週間「聖週間」に入る。 新型コロナウイルス感染の世界的な危機の下で迎える今年の「聖週間」について、教皇はビデオを通し、次のように語りかけられた。

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親愛なる友である皆さま、こんばんは。

 今晩、私は皆さまのお宅に、いつもとは違う方法でお伺いします。できれば、困難にある今この時期について、またその苦しみについて、皆さまとお話ししたいと思います。

 私は、ご家庭の中で、感染を避けるために、いつもと異なる生活をしておられる皆さまを想像しています。外に出られず、通学もできず、自分たちの暮らしができない、小さな子どもや青少年の元気あふれる姿を思い浮かべます。

 私はすべての家庭を心に留めます。特に病人のいるご家庭、残念なことに、新型コロナウイルスや他の原因のために喪に服すことになったご家庭を思います。また、この日々、一人暮らしのために、こうした状況に最も困難を感じている方々、特に愛するお年寄りたちのことを考えています。

 新型コロナウイルスの患者の方々、病院に入院している方々を忘れることはできません。私は、この深刻な感染者の治療のために、あるいは社会に必要な機能を保証するために、自らを捧げる方々の心の広さを知っています。毎日、一日を通して、どれだけの英雄がいることでしょう。

 経済的に苦しい思いをしておられる方々、仕事や将来を心配しておられる方々をも思い起こします。自分や家族たちのために感染症を恐れる、刑務所の受刑者たちの苦しみを思います。自分を守る家もない、ホームレスの方々を思います。

 今はすべての人にとって困難な時です。多くの方々にとっては、かなり困難な時です。わたしはそれを知っています。そして、この言葉をもって、私の寄り添いと愛情をお伝えしたく思います。もし、できることなら、今この時を、より良く使うようにしましょう。広い心で、近くにいる困窮した人を助けましょう。

 電話やソーシャルメディアで、最も孤独な人たちに声をかけましょう。イタリアや世界で苦しんでいる人々のために、主に祈りましょう。私たちは互いに離れていても、思いと精神は、愛の創造性をもって遠くまで及ぼすことができます。今日必要とされること、それは「愛の創造性」です。

 私たちはいつもとまったく異なる方法で、聖週間を祝います。

 聖週間は、「限りない神の愛」という、福音のメッセージを表し、集約するものです。私たちの町の沈黙の中で、復活の福音が、再び響くでしょう。使徒パウロはこう言います。「その方はすべての人のために死んでくださいました。生きている人々が、もはや自分たちのために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きるためです」(コリントの信徒への手紙2・5章15節)。

 復活したイエスにおいて、命は死に勝利しました。この復活の信仰は、私たちの希望を育むものです。今晩、私はそれを皆さまと分かち合いたいと思います。それはより良い時への希望です。その時、私たちはより良い状態にあり、ようやく悪とこの新型ウイルスの大感染から解放されるのです。それは、一つの希望です。希望は欺くことがありません。それは、幻想ではなく、希望です。

 他の人々と一緒に、愛と忍耐を通して、この日々、より良い時への準備をいたましょう。私を皆さまのお宅に招き入れてくださり、ありがとうございました。苦しむ人々、子どもたち、お年寄りたちに、優しく接してください。そして、「教皇がそばにいて、主がこの悪からすべての人を解放してくださるようにと、祈っている」とお伝えください。そして、私のために祈ってください。よい夕餉(ゆうげ)を。近くまたお会いいたしましょう。

(編集「カトリック・あい」)(聖書の日本語は「聖書協会共同訳」を使用)

 

2020年4月4日

◎教皇連続講話「山上の説教」⑦「心の清い人は幸いーどんなに苦しい時も、希望を失わないように」

 

Pope Francis during his weekly General AudiencePope Francis during his weekly General Audience  (Vatican Media)

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

 

 

 

2020年4月1日

♰「新たな命へ、あらゆる”石”を取り除こう」-日曜正午の祈りで

Pope during the Sunday AngelusPope during the Sunday Angelus  (ANSA)

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

 

 

2020年3月29日

・教皇、新型ウイルスの危機終息と人々の救いを願う祈り、聖体奉献、特別の祝福を挙行

 なお、この祈りの式に、さまざまなメディアを通して、霊的な一致の下に参加し、祈りを捧げたすべての信徒は、バチカン内赦院が先に出した教令で示した条件を満たすことで、全免償が与えられる。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二・聖書の日本語訳は「聖書協会 共同訳」を使用)

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*教皇のお話の全文

(2020.3.27 バチカン放送)

「主よ、嵐の中に私たちを見捨てないでください」

 「その日の夕方になって」(マルコ福音書4章35節)。私たちが耳を傾けた福音は、このように始まります。この数週間は夕闇が降りてきたかのようです。深い闇が私たちの広場や道や町に満ちていきました。闇は私たちの生活を奪い、すべてを沈黙と虚無で覆いました。闇はそれが触れるすべてのものを麻痺させました。空気が、人々の態度や眼差しが、それを語っています。

 私たちは怖れ、怯えています。福音書のエピソードにある、突然の激しい突風に襲われた時のイエスの弟子たちのように。私たちは皆、同じ船に乗り合わせているということに気づきました。皆、弱く混乱し、しかし同時に、一人ひとりが大切でかけがえのない存在であり、皆が一つになるよう招かれ、互いの慰めを必要としています。この船の上に…私たちは皆一緒にいるのです。「私たちは溺れそうです」(同4章38節参照)と不安の中で声を合わせるあの弟子たちのように、私たちも、一人ひとりがもう勝手にふるまうことはできず、皆が一つになってこそ乗り越えられると気づいています。

 この福音のエピソードに自分たちを重ねることは簡単です。しかし、難しいのはイエスの態度を理解することです。弟子たちが嵐の中で、当然のことながら、怯え、絶望している時、イエスは今にも沈みそうな舟の舳先で、騒ぎにもかかわらず、御父に信頼して眠っておられました。イエスが眠っておられるのを福音書の中で見るのはこの時だけです。イエスは起き上がって、風と水を静めた後、「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」(4章40節)と弟子たちに向かって言われました。

 イエスが持つ信頼とは対照的な、弟子たちの信仰の欠如は何によるものでしょうか。弟子たちはイエスに対する信頼を捨てたわけではありません。それゆえ、彼らはイエスに訴えます。「先生、私たちが溺れ死んでも、かまわないのですか」と訴えるのです。「かまわないのですか」という言葉に見られるように、弟子たちはイエスが彼らに対し無関心で、彼らを放置していると思っています。

 私たちの家庭において、一番つらいことの一つは、「あなたにとって、私のことなど、どうでもいいのだ」という言葉を聞くことです。これは心を傷つけ、動揺させる言葉です。この言葉はイエスにとっても心を動かすものだったでしょう。なぜなら、イエスほど私たちを思ってくださる方はいないからです。実際、イエスはその言葉を聞き、落胆した弟子たちを救われました。

 嵐は、私たちの弱さをあばき出し、私たちが計画的、習慣的に築き上げた安心は、偽物で表面的なものであったことを明るみに出します。私たちは眠り込み、社会や共同体を支え、力を与えていたものを、放棄してしまったことを悟らせます。嵐は、皆の魂を育んでいたもの、私たちがしまい込み、忘れかけたものを発見させます。

 嵐によって、私たちのエゴを隠し、自分の外面だけを繕っていた、ステレオタイプの仮面ははずれました。そして、再び、兄弟としての所属、祝福された共通の所属を再発見しました。

 「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」。主よ、あなたの言葉は今夜、私たちの胸を打ち、私たちすべてに向けられています。この世界、私たちが愛する以上にあなたが愛しておられるこの世界を、私たちは強く万能だ、という自信に満ちて、全力で駆けていました。利益を追求し、物事に没頭し、多忙の中で何も考えられなくなっていました。

 私たちはあなたの呼びかけに止まることも、戦争や世界的な不正義に目を覚ますことも、貧しい人の叫びや深く病んだ地球の声に耳を傾けることもありませんでした。病んだ世界の中で自分たちは常に病まずにいられると、無関心のまま突き進んでいきました。そして今、私たちは荒れた海にいて、あなたに哀願しています「主よ、目を覚ましてください」と。

 「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」。主は私たちに呼びかけます。それは信仰への呼びかけです。それは主をただ信じるだけでなく、主のもとに行き、主により頼めとの招きです。この四旬節、主の差し迫った呼びかけが響きます。「悔い改めよ」「今こそ、心から私に立ち帰れ」(ヨエル書2章12節)。

 主はこの試練の時を「選びの時」とするよう呼びかけます。それは、主の裁きの時ではなく、私たちの裁きの時です。何が重要で、何が過ぎ去るものか、必要なものとそうでないものを区別する時です。人生の指針を、主と、他の人々に向けて定めなおす時です。

 私たちはこの旅において、怖れに対し、自らの命を捧げるという行為をもって反応した、多くの模範的な仲間たちを目にしました。その勇気があり、惜しみない献身は、人々の中で働く聖霊の力の注ぎによって形作られたものです。

 聖霊の命は、私たちの生活が普通の人々、普段は目立たない人々によって織りなされ、支えられていることを見せてくれます。こうした人たちは、新聞や雑誌のタイトルを飾ったり、目立つ舞台に立つことはなくとも、私たちの歴史上の重大な出来事を今刻んでいる人たちです。それは医師や、看護師、スーパーマーケットの職員、清掃員、介護職の人々、交通関係者、公安関係者、ボランティア、司祭、修道者、そして、自分の力だけでは救われないことを知っている他の多くの人々のことです。

 この苦しみを前に、私たちは「すべての人を一つにしてください」(ヨハネ福音書17章21節)という、イエスの祭司的祈りを見出し、体験します。

 毎日どれだけ多くの人たちが、パニックを広めることなく、共同責任を自覚し、忍耐を示しながら、希望を皆に伝えっていることでしょう。どれだけ多くの両親や、祖父母、教師たちが、子どもたちに日常の小さな行為を通して、習慣を変え、眼差しを上げ、祈るよう招きながら、この危機に対応し、過ごす方法を教えていることでしょう。どれだけ多くの人々が、皆のために犠牲を捧げ、取りなしを祈っていることでしょう。祈りと沈黙の奉仕、それは私たちを勝利に導く武器です。

 「なぜ怖がるのか。まだ信仰がないのか」。信仰の一歩は、自分が救いを必要とする者であると知ることです。私たちは自分だけでは何もできません、一人では沈んでしまいます。星を見つめたいにしえの航海者のように、私たちは主を必要としています。イエスを私たちの命の船の中に招きましょう。私たちの怖れをイエスに託しましょう。イエスがそれを打ち負かしてくださるようにと。弟子たちのように、船の上のイエスと共に私たちは遭難することはないでしょう。なぜなら、これは神の力、起きるすべてのこと、たとえ良くない出来事をも善へと変える、神の力だからです。イエスは私たちの嵐を鎮めてくださいます。神と共にいるならば、命は死ぬことがないからです。

 主は、この嵐のさなか、私たちに話しかけます。目覚め、連帯の精神と希望を持ち、連帯と支援を与え、すべてが挫折に見えるこの時に意味を見出すようにと呼びかけます。主は私たちの信仰を目覚めさせ、生かすために、復活されます。

 私たちには、錨(いかり)があります。十字架において私たちは救われました。私たちには舵(かじ)があります。十字架において私たちは贖われました。私たちには希望があります。十字架において私たちは贖われました。私たちには希望があります。十字架において私たちは再び癒され、抱擁されました。何ものも、誰も、私たちを贖い主の愛から引き離すことはできません。

 愛情や出会いの欠如に苦しみ、多くの物の不足を経験しつつある、この隔離された生活の中で、私たちは再び救いのメッセージを聞きます。主は復活され、私たちの近くにおられます。主は十字架上から私たちに呼びかけます。未来に待つ生活を見出し、私たちを必要とする人々に向き直り、私たちが持つ恵みを知り、強め、活かすようにと招きます。「暗くなっていく灯心を消すことなく」(イザヤ書42章3節参照)、希望の灯を再び灯しましょう。

 イエスの十字架を抱きしめることは、今の災難を抱きしめる勇気を得ることです。全能であろうとする喘ぎ、所有への焦りを捨て、聖霊だけが促すことのできる創造性に開くことです。それは、すべての人が新しい形の受け入れと兄弟愛と連帯に招かれていると感じられる社会を築く勇気を見出すことを意味します。

 イエスの十字架において私たちは救われました。それは希望を受け入れ、その希望によって私たちを守るための可能な限りの手段を強め支えるためでした。希望を抱きしめるために、主を抱きしめること。これが、怖れから解放し、希望を与える信仰の力です。

 「なぜ怖がるのか。まだ信仰がないのか」。

 「親愛なる兄弟姉妹の皆さん、聖ペトロの揺らぐことのない信仰を告げるこの場所から、今夕、私は神の民の救いであり、嵐の海の星である聖母マリアの執り成しを通して、あなた方すべてを、主に委ねたいと思います。ローマと全世界を包む、この(聖ペトロ大聖堂の)列柱から、神の祝福が、慰めの抱擁として、あなた方に降りてきますように。

 主よ、世界を祝福し、私たちの体に健康を与え、私たちの心に安らぎをくださいますように。あなたは私たちに、恐れるな、とおっしゃいました。それでも、私たちの信仰は弱く、私たちは、恐れおののいています。しかし、主よ、あなたは、私たちを嵐のなすがままにしてはおかれません。もう一度、おっしゃってください-『恐れることはない』(マタイ福音書28章5節)と。そして、私たちは聖ペトロと共に『一切の思い煩いをお任せします… 神が‥心に欠けていてくださるからです』(ペトロの手紙1・5章7節)」。

(編集「かとりっく・あい」)

*バチカン広報局発表の公式英語訳全文

Pope at Urbi et orbi: Full text of his meditation

 Pope Francis meditated on the calming of the storm from the Gospel of Mark during the prayer service over which he presided on the steps of St Peter’s Basilica on Friday evening. Here is the full text.

 “When evening had come” (Mk 4:35). The Gospel passage we have just heard begins like this. For weeks now it has been evening. Thick darkness has gathered over our squares, our streets and our cities; it has taken over our lives, filling everything with a deafening silence and a distressing void, that stops everything as it passes by; we feel it in the air, we notice in people’s gestures, their glances give them away. We find ourselves afraid and lost. Like the disciples in the Gospel we were caught off guard by an unexpected, turbulent storm. We have realized that we are on the same boat, all of us fragile and disoriented, but at the same time important and needed, all of us called to row together, each of us in need of comforting the other. On this boat… are all of us. Just like those disciples, who spoke anxiously with one voice, saying “We are perishing” (v. 38), so we too have realized that we cannot go on thinking of ourselves, but only together can we do this.

It is easy to recognize ourselves in this story. What is harder to understand is Jesus’ attitude. While his disciples are quite naturally alarmed and desperate, he stands in the stern, in the part of the boat that sinks first. And what does he do? In spite of the tempest, he sleeps on soundly, trusting in the Father; this is the only time in the Gospels we see Jesus sleeping. When he wakes up, after calming the wind and the waters, he turns to the disciples in a reproaching voice: “Why are you afraid? Have you no faith?” (v. 40).

Let us try to understand. In what does the lack of the disciples’ faith consist, as contrasted with Jesus’ trust? They had not stopped believing in him; in fact, they called on him. But we see how they call on him: “Teacher, do you not care if we perish?” (v. 38). Do you not care: they think that Jesus is not interested in them, does not care about them. One of the things that hurts us and our families most when we hear it said is: “Do you not care about me?” It is a phrase that wounds and unleashes storms in our hearts. It would have shaken Jesus too. Because he, more than anyone, cares about us. Indeed, once they have called on him, he saves his disciples from their discouragement.

The storm exposes our vulnerability and uncovers those false and superfluous certainties around which we have constructed our daily schedules, our projects, our habits and priorities. It shows us how we have allowed to become dull and feeble the very things that nourish, sustain and strengthen our lives and our communities. The tempest lays bare all our prepackaged ideas and forgetfulness of what nourishes our people’s souls; all those attempts that anesthetize us with ways of thinking and acting that supposedly “save” us, but instead prove incapable of putting us in touch with our roots and keeping alive the memory of those who have gone before us. We deprive ourselves of the antibodies we need to confront adversity.

In this storm, the façade of those stereotypes with which we camouflaged our egos, always worrying about our image, has fallen away, uncovering once more that (blessed) common belonging, of which we cannot be deprived: our belonging as brothers and sisters.

 “Why are you afraid? Have you no faith?” Lord, your word this evening strikes us and regards us, all of us. In this world, that you love more than we do, we have gone ahead at breakneck speed, feeling powerful and able to do anything. Greedy for profit, we let ourselves get caught up in things, and lured away by haste. We did not stop at your reproach to us, we were not shaken awake by wars or injustice across the world, nor did we listen to the cry of the poor or of our ailing planet. We carried on regardless, thinking we would stay healthy in a world that was sick. Now that we are in a stormy sea, we implore you: “Wake up, Lord!”.

 “Why are you afraid? Have you no faith?” Lord, you are calling to us, calling us to faith. Which is not so much believing that you exist, but coming to you and trusting in you. This Lent your call reverberates urgently: “Be converted!”, “Return to me with all your heart” (Joel 2:12). You are calling on us to seize this time of trial as a time of choosing. It is not the time of your judgement, but of our judgement: a time to choose what matters and what passes away, a time to separate what is necessary from what is not. It is a time to get our lives back on track with regard to you, Lord, and to others.

We can look to so many exemplary companions for the journey, who, even though fearful, have reacted by giving their lives. This is the force of the Spirit poured out and fashioned in courageous and generous self-denial. It is the life in the Spirit that can redeem, value and demonstrate how our lives are woven together and sustained by ordinary people – often forgotten people – who do not appear in newspaper and magazine headlines nor on the grand catwalks of the latest show, but who without any doubt are in these very days writing the decisive events of our time: doctors, nurses, supermarket employees, cleaners, caregivers, providers of transport, law and order forces, volunteers, priests, religious men and women and so very many others who have understood that no one reaches salvation by themselves.

In the face of so much suffering, where the authentic development of our peoples is assessed, we experience the priestly prayer of Jesus: “That they may all be one” (Jn 17:21). How many people every day are exercising patience and offering hope, taking care to sow not panic but a shared responsibility. How many fathers, mothers, grandparents and teachers are showing our children, in small everyday gestures, how to face up to and navigate a crisis by adjusting their routines, lifting their gaze and fostering prayer. How many are praying, offering and interceding for the good of all. Prayer and quiet service: these are our victorious weapons.

 “Why are you afraid? Have you no faith”? Faith begins when we realise we are in need of salvation. We are not self-sufficient; by ourselves we flounder: we need the Lord, like ancient navigators needed the stars. Let us invite Jesus into the boats of our lives. Let us hand over our fears to him so that he can conquer them. Like the disciples, we will experience that with him on board there will be no shipwreck. Because this is God’s strength: turning to the good everything that happens to us, even the bad things. He brings serenity into our storms, because with God life never dies.

The Lord asks us and, in the midst of our tempest, invites us to reawaken and put into practice that solidarity and hope capable of giving strength, support and meaning to these hours when everything seems to be floundering. The Lord awakens so as to reawaken and revive our Easter faith. We have an anchor: by his cross we have been saved. We have a rudder: by his cross we have been redeemed. We have a hope: by his cross we have been healed and embraced so that nothing and no one can separate us from his redeeming love. In the midst of isolation when we are suffering from a lack of tenderness and chances to meet up, and we experience the loss of so many things, let us once again listen to the proclamation that saves us: he is risen and is living by our side. The Lord asks us from his cross to rediscover the life that awaits us, to look towards those who look to us, to strengthen, recognize and foster the grace that lives within us. Let us not quench the wavering flame (cf. Is 42:3) that never falters, and let us allow hope to be rekindled.

Embracing his cross means finding the courage to embrace all the hardships of the present time, abandoning for a moment our eagerness for power and possessions in order to make room for the creativity that only the Spirit is capable of inspiring. It means finding the courage to create spaces where everyone can recognize that they are called, and to allow new forms of hospitality, fraternity and solidarity. By his cross we have been saved in order to embrace hope and let it strengthen and sustain all measures and all possible avenues for helping us protect ourselves and others. Embracing the Lord in order to embrace hope: that is the strength of faith, which frees us from fear and gives us hope.

 “Why are you afraid? Have you no faith”? Dear brothers and sisters, from this place that tells of Peter’s rock-solid faith, I would like this evening to entrust all of you to the Lord, through the intercession of Mary, Health of the People and Star of the stormy Sea. From this colonnade that embraces Rome and the whole world, may God’s blessing come down upon you as a consoling embrace. Lord, may you bless the world, give health to our bodies and comfort our hearts. You ask us not to be afraid. Yet our faith is weak and we are fearful. But you, Lord, will not leave us at the mercy of the storm. Tell us again: “Do not be afraid” (Mt 28:5). And we, together with Peter, “cast all our anxieties onto you, for you care about us” (cf. 1 Pet 5:7).

2020年3月28日

♰「聖ヨハネ・パウロ二世の 『いのちの福音』を証ししよう」-一般謁見で

(2020.3.25 バチカン放送)

教皇フランシスコ、2020年3月25日の一般謁見教皇フランシスコ、2020年3月25日の一般謁見  (ANSA)

 教皇フランシスコは25日の水曜恒例の一般謁見をバチカン宮殿図書室から動画配信の形でなさり、カテケーシス(教会の教えの解説)で、発布25周年を迎えた聖ヨハネ・パウロ2世の回勅「いのちの福音」をテーマに、次のように講話された。

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 親愛なる兄弟姉妹の皆さん。25年前、今日と同じように、教会が「神のお告げ」を祝う3月25日、聖ヨハネ・パウロ2世は、人間のいのちの侵すことのできない価値を説く、回勅「いのちの福音」を発布されました。

 「神のお告げ」と「いのちの福音」との関係は、聖ヨハネ・パウロ2世が強調したように、堅固で深いものです。今日、新型コロナウイルスの世界的感染が人命と世界経済を脅かしている現状を背景に、この教えを再び掲げたいと思います。

 回勅はこのような言葉で始まります。「いのちの福音は、イエスのメッセージの中心です。それは、毎日、教会によって愛をもって受け入れられ、あらゆる時代と文化の人々に善き知らせとして勇気ある忠実をもって告げられるべきものです」 (n. 1)。

 すべての福音の告知と同じように、このメッセージも、何よりもまず証しされなくてはなりません。私はここで、病者や、お年寄り、孤独な人、助けを必要とする人に、様々な形で奉仕しておられる多くの方々の静かな証しを、感謝と共に思い起こします。これらの方々は、天使のお告げを受け、「助けを必要としている従妹エリザベトのもとにすぐに出かけたマリア」のように、いのちの福音を実践しておられる人々です。

 実際、私たちが守り、支えるように召されている「いのち」は、抽象概念ではなく、生身の人間を通して表わされるものです。受胎したばかりの胎児、疎外された人、孤独と失望の中あるいは終末期にある病者、仕事を見つけられない失業者、拒否され隔離された移民など、「いのち」は具体的な人々の中にあります。

 すべての人間は、いのちの充満を享受するよう神から召されています。いのちの大切さは、教会の母なる配慮にゆだねられているために、教会は、いのちに対するあらゆる脅威を前に、手をこまねいていることはできません。

 教会にとって、いのちを守ることは、イデオロギーではなく、すべてのキリスト者に関わる「人間としての現実」です。

 人間の尊厳といのちへの攻撃は、残念ながら、この普遍的人権の時代においても続いています。それどころか、むしろ、私たちは新しい脅威、新しい隷属制度を前にし、最も弱く傷つきやすい人間のいのちの法的保護が常にあるわけではなりません。

 回勅「いのちの福音」のメッセージは、今日これまでになく私たちに訴えるものです。私たちが直面している現在のような危機においてはもとより、連帯、ケア、受容などの態度を未来の世代に伝えるように、文化・教育面で取り組まねばなりません。

 そして、いのちの文化とは、キリスト教だけに特有の遺産ではなく、兄弟愛の構築のために働き、弱く苦しんでいる人々をはじめ、一人ひとりの人間が持つ価値を認めている、すべての人々のものであることを忘れてはなりません。

 親愛なる兄弟姉妹の皆さん、すべてのいのちは、唯一、かけがえのないものです。それははかり知れない価値を持つものです。このメッセージは、常に、あらたに、勇気ある言葉と行動をもって伝えられるべきです。これは大きな人類家族とその一人ひとりのメンバーを連帯と兄弟愛に導くものです。

 このような理由から、聖ヨハネ・パウロ2世は、この回勅を記しました。私は聖ヨハネ・パウロ2世と共に、彼が25年前にすべての人に向けたアピールを、今、新たな確信をもって繰り返します。「いのち、すべてのいのち、あらゆる人間のいのちを、尊重し、守り、愛しましょう!この道の上にのみ、正義と、発展、自由、平和、幸福を見出すことができるでしょう!」(回勅「いのちの福音」 5)

(編集「カトリック・あい」)

2020年3月26日

♰「受胎告知」の25日正午、新型ウイルス世界的危機の中で「主の祈り」をともに捧げる

(2020.3.25 VaticanNews)

 教皇フランシスコは25日の「受胎告知」の正午から、バチカン宮殿図書館からの動画配信の形で、世界の信徒たちと共に、新型コロナウイルスの世界的感染危機の中で、父なる神への祈りー「主の祈り」-を捧げられた。

 「主の祈り」に先立って、教皇は冒頭、「親愛なる兄弟姉妹の皆さん。今日、私たち世界中のキリスト教徒がともに集まり、イエスが教えてくださった『主の祈り』を捧げます」とされたうえで、次のように祈られた。

 信頼する子供として、私たちは父に目を向けます。私たちは毎日、何度もそうしています。しかし今、私たちは、新型コロナウイルスの世界的大感染という試練を受けている人類のために、憐れみを願います。そして、私たちはこれを、すべての教会と共同体、あらゆる文化伝統の、年齢層の、言語の、そして国のキリスト教徒が、心を一つにしていたします。私たちは感染者とその家族のために、医療に携わる人々と支援者のために、政府当局、治安当局、そしてボランティアのために、私たちの教会共同体の司牧者たちのために、祈ります。今日、私たちの多くは、聖母マリアが胎内に主が宿られることを告げられた日を祝っています。告知を受けた時、彼女は謙虚に、すべて受け入れました。私たちも、全てを信じ、自らを神の手に委ね、心と魂を一つにして、祈りますー天におられる私たちの父よ…。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

 

2020年3月25日

♰「25日『受胎告知』の日正午(日本時間午後8時)に共に『主の祈り』を」教皇が呼びかけ

(2020.3.23 バチカン放送)

 教皇フランシスコが、「受胎告知」の祝日である3月25日正午(日本時間同日午後8時)に「主の祈り」を共に唱えるよう、すべてのキリスト者に一致した祈りを呼びかけられた。

 教皇は22日の正午の祈りの中で、以下のように語られている。

 「新型コロナウイルスの世界的感染の脅威に人類が揺さぶられるこの試練の日々、天に向けて一致した祈りを捧げるようすべてのキリスト者に呼びかけたいと思います。全キリスト教教会と共同体の指導者の方々に、教派の異なるすべてのキリスト教徒と共に、私たちの主イエスが教えてくださった祈りを、いと高き全能の神に向かい、一緒に唱えてくださるようお招きします。『主の祈り』を毎日、何度も唱えることはもちろんですが、3月25日の正午、この祈りを共に唱えてくださるよう、すべての皆さまをお招きいたします。多くのキリスト者が、乙女マリアへの受胎告知を思い起こすこの日、復活された主の勝利を祝う準備をしているご自身の弟子たちの一致した祈りを、主が聞き入れてくださいますように」

(編集「カトリック・あい」)

2020年3月24日