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♰「主の復活は、最後に勝つのは『死』ではなく『生』だ、と告げている」復活の月曜日に
♰「世界の人々に訴える-危機の中で無関心、自己中心、分裂、 忘却があってはならない」教皇、主のご復活のメッセージ
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(2020.4.12 バチカン放送)
教皇フランシスコの、2020年度復活祭メッセージは、以下のとおり。
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親愛なる兄弟姉妹の皆さん、復活祭おめでとうございます。
今日、全世界に教会の告げ知らせる声が響きます。「イエス・キリストは復活された!」「本当に復活された!」
新しい炎のように、この良き知らせは、暗闇の中で、燃え上がっています。世界が、歴史的ともいえる危機に直面し、私たち全人類の家族に厳しい試練にさらす感染症の大流行によって押しつぶされそうになっている暗闇です。この暗闇の中で、教会の声が響き渡りますー「キリスト、私の希望は復活された!」(復活祭の連祷)
*新型ウイルスではなく、「希望」の”感染症”
これは、(注:新型コロナウイルス)とは異なる”感染症”、この良き知らせを待つ全ての人へ心から心へ伝えられるメッセージです。これは”希望”-「キリストは復活された」の”感染症”です。これは問題を消し去るマジックではありません。違います。キリストの復活はそうではないー悪の根源に対する愛の勝利、苦しみと死を”避け”ず、通り抜ける勝利、どん底の危機に道を開き、悪を善に変容させるー他に類を見ない神の力なのです。
復活の主は、十字架につけられた方です。その栄光ある体は消しがたい傷を持っています。その傷は「希望」を通す場所となりました。復活の主に眼差しを上げましょう。苦しむ人類の傷を癒してくださるようにと。
*感染で試練にある方々に慰めを
今日、私の思いは、特に新型コロナウイルスによって直接の被害を受けた人々、患者の方々、亡くなられた方々、家族を失い悲しむ遺族の方々に向かいます。その中には、亡くなられた家族に最期の別れもできなかった人々もいます。いのちの主が亡くなった方々を御国でご自身に引き寄せ、お年寄りや身寄りのない人をはじめ、試練にある人々に慰めと希望を与えてくださいますように。
高齢者施設で働く人々、兵舎や刑務所で生活する人々など、特に危険に晒されやすい環境に置かれた人々に、主の慰めと必要な助けが欠けることがありませんように。この復活祭は多くの人々にとって、喪に服すと共に、肉体的苦痛から経済問題に至るまでパンデミックが引き起こした様々な災難に見舞われた、孤独な復活祭となりました。
この感染症は、私たちから愛情だけでなく、特に聖体の秘跡や赦しの秘跡をはじめ、秘跡からわき出る慰めを人々に与える可能性を奪いました。多くの国で、秘跡にあずかることができなくなりましたが、主は私たちを一人ぼっちにはされませんでした。祈りのうちに一致しながら、主が私たちの上に手を置き、力強く「恐れることはない。私は復活した、そして、いつもあなたと共にいる」と繰り返されるのを確かに聞きました。
*必要な奉仕をされている方々に感謝を
私たちの復活であるイエスよ、時には自身の健康までも犠牲にし、あらゆる場所で力の続く限り隣人へのいたわりと愛を証ししている医師や看護師たちに、力と希望をお与えください。また市民の共存に必要不可欠なサービスを保証するために絶えず働く人々、また多くの国々で市民の困難と苦しみを和らげるために貢献する警察や軍の人々に、私たちの親愛と感謝を込めた思いを向けます。
*共通善のために働く責任者たちに励ましを
ここ数週間、たくさんの人々の生活が突然変わりました。多くの人にとって、家に留まることは、思索し、生活のあわただしいリズムから抜け出し、親しい人々と共にいる時を味わうための機会となりました。しかし、一方で、多くの人々には、仕事を失うリスクや、この危機の影響がもたらす未来の不確かさに不安を感じる時にもなりました。人々の尊厳ある生活に必要な手段を供給し、この状況が改善した際の日常生活の再開に配慮し、市民の共通善の推進のために熱心に働く、公的機関の責任者たちを励ましたいと思います。
*無関心でいる時ではない
今は無関心でいる時ではありません。全世界が苦しむ中、パンデミックに立ち向かうために一致しなければならないからです。復活されたイエスが、すべての貧しい人々、社会の辺境に生きる人々、難民やホームレスの人々に希望を与えてくださいますように。世界各地の都市や郊外に生きる、これらの最も弱い立場にある兄弟姉妹たちを、孤立させてはいけません。
特に今、社会で多くの活動が停止している中、彼らに生活のための必需物資や、薬・医療支援などが欠けることがありませんように。現在の状況に配慮し、国々に必要な支援の供給を妨げている国際制裁を緩和し、現在の大きな困窮を前に、収支を悪化させている負債を軽減または帳消しにするなど、最貧国はもとより、すべての国々の立場に身を置くことができますように。
*自己中心でいる時ではない
今は自己中心主義でいる時ではありません。私たちが直面している試練は、皆を結集させ、誰をも区別しないからです。新型コロナウイルスの影響を受けている世界の多くの地域の中でも、特にヨーロッパに特別な思いを向けます。第二次世界大戦後、この愛する大陸は、具体的な連帯精神のおかげで再興し、その精神は過去の対抗意識を克服させることになりました。特に現在の状況下で、かつてのライバル意識に後戻りすることなく、皆が一つの家族の一員として、互いに支え合うことが急務となっています。
今日、欧州連合(EU)は、歴史的な挑戦の前に立っています。それにEUだけでなく、全世界の未来がかかっています。革新的な解決策をも含め、いっそうの連帯の証しを与える機会を失ってはなりません。他の道は、一部の利害関係によるエゴイズムと、過去に舞い戻る誘惑です。それは未来の世代の平和的共存と発展を重大な試練に立たせるリスクを帯びています。
*分裂している時ではない
今は分裂している時ではありません。私たちの平和である主が、世界各地の紛争における責任者たちに、グローバルな即時停戦へのアピールに応じる勇気を与えてくださいますように。今は武器の製造と取引を続けている時ではありません。そこで使われる膨大な資本は、人々の治療と救命のために使われるべきです。
シリアの長い流血の戦争、イエメンの紛争、イラクやレバノンにおける緊張を、終わらせることができますように。今この時、イスラエルとパレスチナの人々が対話を再開し、双方が平和に暮らすための、安定した恒久の解決を見出すことができますように。ウクライナ東部に生きる人々の苦しみが終わりますように。アフリカの国々で、多くの無実の人を狙うテロ攻撃がなくなりますように。
*忘却している時ではない
今は忘却の時ではありません。私たちが直面しているこの危機が、多くの人々を苦しめている他の様々な緊急事態を忘れさせることがありませんように。命の主が、モザンビーク北部カーボ・デルガード州のように、重大な人道危機の中にあるアジアやアフリカの人々に寄り添ってくださいますように。戦争や、干ばつ、飢餓のために、難民や避難者となった多くの人々の心を温めてください。特にリビアや、ギリシャとトルコの国境における、たくさんの移民・難民たちを守ってください。彼らの多くは子どもたちで、耐えがたい環境で生活しています。ベネズエラが具体的で即効性のある解決にたどり着くと共に、政治・社会経済・医療上の深刻な状況に苦しむ同国民への国際社会の支援が可能となりますように。
*主は苦しみの闇を取り去られる
親愛なる兄弟姉妹の皆さん
無関心、自己中心主義、分裂、忘却、これらは、この時期、実に耳にしたくない言葉です。これらの言葉をすべての時代から締め出したいと思います。私たちの中で怖れと死が勝る時、すなわち、私たちの心と生活を主イエスの勝利に任せない時、これらの態度が優勢に思われるのです。死にうち勝った復活の主が、私たちに永遠の救いの道を開き、哀れな人類の闇を払い、終わることのないご自身の栄光の日に、私たちを導いてくださいますように。
(編集「カトリック・あい」・冒頭はバチカン広報局発表の公式英語訳を使用しました)
♰「復活されたイエスは私たちに『希望』と『勇気』をくださる」聖土曜日・復活徹夜祭ミサで
*教皇の聖金曜日の祭儀・主の受難と現在のウイルス危機を観想する
♰「感染対策で命を落とす司祭、医師、看護師は私たちの身近な聖人」聖木曜日のミサ説教で
(2020.4.9 バチカン放送)
♰「私たちは愛されている、主は私たちを見捨てず、お忘れにならない」-受難の水曜日に

教皇フランシスコ、一般謁見で、イエスの受難を観想 2020年4月8日 (Vatican Media)
(2020.4.8 バチカン放送)
教皇フランシスコは8日、復活祭を目前に控えた「聖週間」中の「受難の水曜日(聖水曜日)」の一般謁見を、バチカン宮殿からビデオを通して行われ、カテケーシス(教会の教えの解説)で、イエスの受難をテーマに、次のように講話された。
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親愛なる兄弟姉妹の皆さん ここ数週間、世界を苦しめる新型コロナウイルスの世界的大感染の不安の中、人々が投げかける多くの問いの中には、神に対する問いかけもあります-神は私たちの苦しみを前に何をしておられるのか、すべてがうまくいかないこの時、神はどこにおられるのか、なぜ急いでこれらの問題を片づけてくださらないのかーなどです。
今、「聖週間」において、私たちが共に歩んでいるイエスの受難のストーリーに、こうした問いかけに対する助けを見出すことができます。実際、イエスの受難の道のりには、多くの問いがひしめいています。
イエスのエルサレム入城を歓呼で迎えた後、人々は「この方こそ自分たちをやっと敵から解放してくれるのだろうか(参照:ルカ福音書24章21節」と自らに問いました。人々は「剣を持った強い勝利者」としてのメシアを待ち望んでいたのです。
それに対して、実際に現れたのは柔和で心の謙遜な人。皆に回心と憐みを呼びかけていました。
最初、イエスを賛美したこれらの群衆こそが、後に「十字架につけろ!」(マタイ福音書27章23節)と叫ぶことになりました。イエスに従っていた者たちは、とまどい驚き、イエスを見捨てることになりました。彼らはこう考えたのですー「これがイエスの成れの果てなら、彼はメシアではない、なぜなら神は強く無敵だからだ」と。
しかし、イエスの受難の物語を読み進めば、そこで驚くべきことに出会います。「イエスが十字架上で苦しむのを見、イエスが皆を赦すのを聞き、イエスの無限の愛にじかに触れた」ローマ軍の百人隊長は、イエスが息を引き取られた時、こう言いましたー「本当に、この人は神の子だった」(マルコ福音書15章39節)。百人隊長は、皆とは反対のことを言うのです。「そこに本当に神がいる」と。
今日、私たちも自分に問いかけますー「神の本当の御顔とは何だろうか」と。普段、私たちは神の中に自分の姿を最大限に投影します。私たちの成功、正義感、また義憤など。しかし、福音は「神はそうではない」と私たちに言います。神は私たちの考える方とは異なり、私たちの力では神を知ることはできません。 それゆえ、神は私たちのもとに来られました。神は私たちに会いに来られ、復活祭においては完全にその姿を啓示されます。それはどこにでしょう?ー十字架の上です。そこに私たちは神の御顔の輪郭を学びます。なぜなら十字架は「神の教壇」だからです。
十字架を沈黙のうちに見つめ、私たちの主がどういう方であるかを知ることは、私たちにとって有益なことです。
主は誰かを非難するために指差すのではなく、すべての人に対して両腕を開いておられます。ご自身の栄光で私たちを押しつぶすことなく、私たちのためにそれを脱ぎ捨てられました。私たちを言葉の上で愛するのではなく、沈黙のうちに私たちのために命を捧げられました。私たちに強いず、私たちを解放されます。私たちを見知らぬ者として扱わず、私たちの悪と罪をご自身に背負ってくださいます。
神に対する先入観から解放されるために、十字架を見つめましょう。そして、福音書を開きましょう。福音書の中では、たとえばパンを増やした奇跡の後のように、人々がイエスを王にするために連れて行こうとした時、イエスは立ち去りました(ヨハネ6章15節参照)。イエスの神としての威厳を悪霊たちが口にした時、イエスは黙るように命じました(マルコ1章24-25節)。
なぜでしょうか。それはイエスが人々の誤解を望まれないからです。人々が「謙遜な愛である真の神」を、「派手な見世物と力で圧倒する世俗的な偽の神」と混同して欲しくないからです。
これに対し、福音書で、イエスの本質が荘厳に宣言されたのは、いつだったでしょうか。それは百人隊長が「本当に、この人は神の子だった」と言った時です。百人隊長は、イエスが息を引き取ったばかりの場所で、そう言いました。もう間違うことはできません。神は愛において全能の方です。それが神の本質、神は愛だからです。
皆さんは反論するかもしれません。「こんなに弱い神では仕方がない、もっと強く、力ある神の方がよい」と。しかし、この世の権力は過ぎ去りますが、愛は留まります。愛だけが私たちの命を守ります。愛は私たちの弱さを抱擁し、変容させるからです。過ぎ越しに、私たちの罪を赦しによって癒したのは、死を命へと移る道としたのは、私たちの恐れを信頼に、苦悩を希望に変えたのは、神の愛です。
復活祭は「神はすべてを善に変えることがおできになる」と私たちに教えます。「神が一緒にいてくださるなら、すべては大丈夫だ」と、本当に信頼することができるのです。そうです。復活の朝、「恐れることはない」(マタイ福音書28章5節参照)という言葉を私たちが聞くのは、そのためなのです。
悪をめぐる苦悩に満ちた問いかけは、一瞬にして消えるわけではありません。しかし、復活の主の中に私たちが深淵に陥らないための、確かない礎を見出すことができるのです。
親愛なる兄弟姉妹の皆さん、イエスは私たちに寄り添いながら歴史を変えられました。そして、たとえまだ、悪に傷つけられているとしても、それを救いの歴史とされました。ご自身の命を十字架上で捧げながら、イエスは死に打ち勝たれました。十字架につけられたイエスの胸の傷から、神の愛は私たち一人ひとりに届きます。イエスに近づき、与えられる救いを受け入れながら、私たちは歴史を変えていくことができます。
祈りの中でイエスに私たちの心のすべて開きましょう。イエスの眼差しに見つめていただきましょう。私たちは孤独ではなく、愛されていることが分かるでしょう。主は私たちを決して見捨てず、お忘れにならないからです。
♰「キリストが示された愛にひたすら『はい』と言おう」受難の主日のミサで
(2020.4.5 バチカン放送)
「受難の主日」と共に、4月5日(日)、カトリック教会の典礼暦は「聖週間」に入った。「聖週間」は、復活祭直前の一週間を指す。キリストの受難を記念する「聖週間」は、キリストのエルサレム入城と受難への歩みの開始を観想する「受難の主日」に始まる。そして、「聖木曜日」午後の「主の晩餐」のミサから、「聖金曜日」の「主の受難の儀式」、「聖土曜日」の「復活の聖なる徹夜祭」に至る、「過ぎ越しの聖なる三日間」によって、教会の典礼は一年間の頂点を迎える。
新型コロナウイルスの世界的感染拡大を背景に記念された今年の「聖週間」初日の5日、教皇フランシスコはバチカンの聖ペトロ大聖堂で「受難の主日」のミサを、ごく少人数の協力者と共に捧げられた。
「受難の主日」は「枝の主日」とも呼ばれ、ろばの子に乗りエルサレム入りしたイエスを、人々が服や枝を道に敷き、歓呼して迎えたことにちなみ、ミサの前に、参加者らは枝を掲げて宗教行列を行うのが習わしとなっている。教皇と参加者たちは、大聖堂奥の、オリーブやヤシを飾った「司教座の祭壇」前で、小さな宗教行列を行った。
福音朗読では、マタイによる福音書から、イエスの受難(26章14節-27章66節)が朗読され、教皇は説教で、「私たちの救いのために自ら僕となられた神の御前で、奉仕するために生きる恵みを祈り求めるように」と促された。そして、新型コロナウイルスの世界的感染の危機を生きる人々に、「足りない物事だけにとらわれず、自分たちに可能な善いことを考えるように」と励まされた。
「受難の主日」のミサの教皇の説教は以下のとおり。
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イエスは「自分を無にして、僕の形」(フィリピの信徒への手紙2章7節)をとられました。この聖なる日々を、使徒パウロの言葉によって導いてもらいましょう。
聖書は反復句のように、僕としてイエスを扱いますー聖木曜日には、弟子たちの足を洗う僕、そして聖金曜日は苦しみと勝利の僕(イザヤ書52章13節参照)として。そして、それより前、明日、イザヤは彼のことを「見よ、私が支える僕』(同42章1節)と預言します。
神は、私たちに仕えることによって、私たちを救われました。普通、私たちは、「神に仕えるのは自分たちだ」と考えます。いいえ、神はご自分の意思で、私たちに仕えられたのです。なぜなら、神が先に私たちを愛されたからです。愛されることなく愛するのは難しい。そして、私たち自身が神に仕えられるのを受け入れないなら、仕えることはもっと難しくなります。
ここで一つ質問です。主はどのように私たちに仕えられたのでしょう?神は、ご自分の命を私たちのために差し出されます。神にとって、私たちは大切な存在であり、大きな犠牲を払うべき存在なのです。フォリーニョの聖アンジェラは、イエスからこのような言葉を聴いたと証言しました-「私は冗談であなたを愛したことはなかった」と。
イエスの愛は、彼を私たちのために、ご自身を犠牲にし、私たち全員の悪を、ご自分に負わせました。それは言葉では言い表せません。神は、私たちの悪を、ご自分に対して怒り狂わせることで、私たちを救ってくださいました。歯向かわず、僕の謙遜、忍耐、従順だけで、そして何よりも愛の力で、です。そして、天の父はイエスのそうした行為を支え続けられました。イエスはご自分に降りかかった悪を打ち負かしませんでしたが、ご自分の苦しみを貫くことで、ただ善をもって私たちの悪を克服され、愛によって完全に阻止されるでしょう。最後まで。
このイエスの奉仕を支えられたのは御父でした。イエスはご自分を攻撃する悪に対して逃げることなく、その苦しみに耐えられました。それは、私たちの悪が善によってのみ打ち負かされるため、愛を隅々まで行きわたらせるためでした。主は私たちに仕えてくださいました。そして、裏切られ、見捨てられるという、最も辛い状態を体験されました。
「裏切り」ーイエスは、ご自分を売り渡した弟子から裏切りを受け、またご自分を重ねて否定した弟子からの裏切りも受けました。イエスは人々からの裏切りを受けました。
イエスに向かって上がっていた人々の歓声は、やがて「十字架につけろ」(マタイ福音書27章22節)という叫びに変わりました。イエスは宗教家たちから不当に罪に定められ、政治家たちからは責任逃れをされるという裏切りを受けました。
私たちの人生で受けた、大小の裏切りを考えましょう。堅固な信頼が裏切られたのを知ることは恐ろしいことです。それによって心の底に生まれる失望は、人生の意味さえ失わせるほどです。こうしたことが起きるのは、私たちが愛され、愛するために生まれたからです。中でも最も辛いのは、「誠実でいること、近くにいることを約束した人」から裏切られることです。愛である神にとって、裏切りがいかに辛いものであったか、私たちには想像もできません。
私たちの内面を見つめてみましょう。私たちが自分自身に正直ならば、自分の不誠実さを見い出すことができるでしょう。どれほどの欺瞞、偽善、不忠実があることでしょう。どれほどの良い考えが葬られ、どれほどの約束が守られなかったことでしょう。どれだけの決意を無駄にしたことでしょう。
主は、私たちの心を私たち以上に知っておられます。私たちがいかに弱く、気まぐれで、何度もあきらめ、立ち直るのにどれだけ苦労し、ある種の傷を癒すのがどれだけ難しいかを、主はご存じです。
主は私たちを助け、私たちに仕えるために、どうされたでしょうか。それは主が預言者を通して言われたとおりですー「私は、背いた彼らを癒し、喜んで愛する」(ホセア書14章5節)。
主は私たち癒し、ご自分で私たちの不誠実を引き受け、私たちの背信を取り去ってくださいました。私たちは、自分には無理だという恐れに意気消沈する代わりに、眼差しを十字架に向けて上げ、その抱擁を受けて、言うのですー「私の不誠実はあの十字架の上にあるのだ。イエスよ、あなたはそれを御身に引き受けてくださいました。あなたの御腕を広げてください。あなたの愛でわたしを支え続けてください…そうして、私は前に進むことができます」。
「見捨てられるということ」ー今日のミサで読まれたマタイ福音書で、イエスは十字架上で、ただ一つの言葉を発します。「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」(27章46節)。
これは力強い言葉です。イエスは、逃げた弟子たちから見捨てられたことに苦しまれました。しかし、そこには御父がおられました。孤独の深淵の中で、イエスは初めて御父を「神」と呼びます。そして、御父に向かって大声で、最も深い苦しみと共に「なぜ」と叫ばれました。「なぜあなたまで、私をお見捨てになったのですか」。
実際には、この言葉は詩編の言葉です(詩編22章2節参照)。イエスはこの祈りの中に、究極の苦悩を込めた、とも言われます。実際、イエスはその苦悩を体験されました。それは最も深い苦悩でした。その時、イエスが発したその言葉を、福音書は証ししているのです。
これらの全ての理由は何でしょうか。それは、私たちの救いです。私たちが行き詰っても、追い詰められても、光や出口が見えなくても、神が応えてくださらないように見える時でさえも、私たちが独りではないことを思い出すように、それが理由なのです。
イエスは完全に見捨てられるという体験をされました。しかし、それはこの最も疎外された状況の中で、私たちにあまねく連帯されるためでした。それは、私のために、あなたのために、「恐れるな。あなたは独りではない。私は常にあなたのそばにとどまるために、あなたの苦悩のすべてを体験した」と言われるためでした。裏切りと放棄に至るまで、私たちの最も激しい苦悩の深淵に降りて来られるまで、イエスはこれほどまでに私たちに仕えられたのです。
今日、新型コロナウイルスの世界的感染の悲劇において、崩れ去った多くの確実性、裏切られた多くの期待を前に、見捨てられた思いに苦しむ中で、イエスは私たち一人ひとりに呼びかけます。「勇気を出しなさい。私の愛に心を開きなさい。あなたを支える、神の慰めを感じるでしょう」と。
愛なる兄弟姉妹の皆さん、裏切りと放棄を味わうまでに私たちに仕えられた神の御前で、私たちには何ができるでしょうか。それは、私たちが創造されたその訳に背かず、本当に大切なことを放棄しないことです。私たちは、神を愛し、隣人を愛するためにこの世にいます。他は過ぎ去り、愛だけが残ります。
私たちが体験しているこの危機は、私たちに促しますー「本当に大事なこと」に真剣に向き合い、そうでないことに捕らわれないように、「奉仕のない人生は意味がない」ということを再発見するように、と。なぜなら、人生は愛によって量られるからです。
この聖週間、私たちは自宅にいて、イエスの十字架を前にしています。それは神の私たちに対する愛の大きさを表しています。命を捧げるほどに私たちに仕えることを望まれた神の御前で、奉仕するために生きる恵みを祈り求めましょう。苦しむ人、助けを必要とする人とつながりを持つよう努めましょう。足りないものだけを考えず、私たちにできる善いことを考えましょう。
「見よ、私の僕、私が支える者を」ー受難においてイエスを支えられた御父は、奉仕において私たちをも支えてくださいます。もちろん、家庭において、また社会において、愛すること、祈ること、他者の世話をすることは、時に犠牲を伴うでしょう。それは十字架の道行に思われることもあるでしょう。しかし、奉仕の道は、勝利への道です。それは私たちを救い、命を救う道です。
今日5日、創設から35年目を迎える今年の「世界青年の日」にあたって、特に若者たちに呼びかけたいと思います。親愛なる友の皆さん、この日々、光を浴びた真の英雄たちを見つめてください。彼らは名声も富も成功も求めず、隣人に奉仕するために自分自身を捧げる人たちです。
神と人々のために人生を捧げることを恐れてはなりません、むしろ、そうすることで、それを得るのです。なぜならそれは与えることで、受け取る恵みだからです。なぜなら最も大きな喜びは、愛にためらいなく「はい」と答えることだからです。それは、イエスが私たちのためになさったように。
(編集「カトリック・あい」・前半は南條俊二訳、文中の聖書の引用は「聖書協会 共同訳」を使用)
バチカン広報局発表の英語訳全文は以下の通り。
CELEBRATION OF THE SUNDAY OF THE PALMS AND THE PASSION OF THE LORD HOMILY OF THE HOLY FATHER FRANCIS
Jesus “emptied himself, assuming a condition of servant ” ( Phil 2: 7). Let us allow ourselves to be introduced by these words of the apostle Paul in the holy days, where the Word of God, like a refrain, shows Jesus as a servant : Holy Thursday is the servant who washes the feet of the disciples; Good Friday is presented as the suffering and victorious servant (cf. Is 52:13); and already tomorrow Isaiah prophesies of him: “Here is my servant whom I support” ( Is 42: 1). God saved us by serving us. Generally we think it is we who serve God. No, it is He who served us freely, because he loved us first. It is difficult to love without being loved. And it is even more difficult to serve if we do not allow ourselves to be served by God.
But – one question – how has the Lord served us? Giving his life for us. We are dear to him and cost him dear. Saint Angela of Foligno testified that she heard these words from Jesus: “I didn’t love you as a joke”. His love led him to sacrifice himself for us, to take all our evil upon himself. It is something that leaves you speechless: God saved us by letting our evil rage on Him. Without reacting, only with the humility, patience and obedience of the servant, exclusively with the strength of love. And the Father sustained the service of Jesus: he did not defeat the evil that fell upon him, but he supported his suffering, so that our evil could be overcome only with good, so that it would be completely crossed by love. Until the end.
The Lord has served us up to try the most painful situations for those who love: betrayal and abandonment .
Betrayal . Jesus suffered the betrayal of the disciple who sold him and the disciple who denied him. He was betrayed by the people who praised him and then shouted: “Be crucified!” ( Mt 27,22). He was betrayed by the religious institution that wrongfully condemned him and by the political institution that washed his hands. Think of the small or large betrayals that we have suffered in life. It is terrible when it turns out that well-placed trust is deceived. Such disappointment arises at the bottom of the heart, so that life seems to make no sense. This happens because we were born to be loved and to love, and the most painful thing is to be betrayed by those who have promised to be loyal and close to us. We can’t even imagine how painful it was for God, who he is love.
Let’s look inside. If we are sincere with ourselves, we will see our infidelities. How many falsehoods, hypocrisy and duplicity! How many good intentions betrayed! How many broken promises! How many resolutions left to vanish! The Lord knows our heart better than we do, he knows how weak and inconstant we are, how many times we fall, how hard we get up and how difficult it is to heal certain wounds. And what did he do to meet us, to serve us? What he said through the prophet: ” I will heal them from their infidelity, I will love them deeply” ( Os14.5). He healed us by taking upon ourselves our infidelities, removing our betrayals. So that we, instead of being discouraged by the fear of not making it, we can look up to the Crucifix, receive his embrace and say: “Here, my infidelity is there, you took it, Jesus. You open my arms, serve me with your love, continue to support me … Then I go on! “.
The abandonment . On the cross, in today’s Gospel, Jesus says one sentence, one only: “My God, my God, why have you abandoned me?” ( Mt 27.46). It’s a strong phrase. Jesus had suffered the abandonment of his own, who had fled. But the Father remained. Now, in the abyss of solitude, for the first time he calls him by the generic name of “God”. And the ” why? ” Shouts out loud . “, the reason why?” more lacerating: “Why did You also abandon me?”. They are actually the words of a Psalm (cf. 22: 2): they tell us that Jesus also brought extreme desolation to prayer. But the fact remains that he proved it: he experienced the greatest abandonment, which the Gospels testify by bringing back his original words.
Why all this? Once again for us, to serve us. Because when we feel our backs to the wall, when we find ourselves in a dead end, with no light and no way out, when it seems that even God is not responding, we remember that we are not alone. Jesus experienced total abandonment, the situation most extraneous to Him, to be in solidarity with us in everything. He did it for me, for you, for all of us, he did it to tell us: “Don’t be afraid, you are not alone. I have tried all your desolation to always be by your side ”. This is how far Jesus has served us, descending into the abyss of our most atrocious sufferings, up to betrayal and abandonment. Today, in the drama of the pandemic, in the face of so many certainties that crumble, in the face of so many betrayed expectations, in the sense of abandonment that holds our hearts, Jesus says to each one: “Courage: open your heart to my love. You will feel the consolation of God,
Dear brothers and sisters, what can we do before God who has served us until we experience betrayal and abandonment? We can not betray what we were created for, not abandon what matters. We are in the world to love Him and others. The rest passes, this remains. The drama we are going through at this time pushes us to take seriously what is serious, not to get lost in trivial things; to rediscover that life is of no use if it is not served . Because life is measured on love. So, in these holy days, at home, we stand before the Crucifix – look, look at the Crucifix! -, measure of God’s love for us. Before God who serves us to the point of giving life, we ask, looking at the Crucifix, the grace of living to serve. We try to contact those who suffer, those who are alone and in need. We don’t just think about what we are missing, we think about the good we can do.
Here is my servant whom I support . The Father, who supported Jesus in the Passion, also encourages us in the service. Of course, loving, praying, forgiving, taking care of others, in the family as in society, can cost. It may seem like a via crucis . But the way of service is the winning way, which saved us and which saves us, saves us life. I would like to say this especially to young people, on this Day which has been dedicated to them for 35 years. Dear friends, look at real heroes, which in these days come to light: they are not those who have fame, money and success, but those who give themselves to serve others. Feel called to put your life on the line. Do not be afraid to spend it for God and for others, you will earn it! Because life is a gift that is received by giving oneself. And because the greatest joy is to say yes to love, without if and without but. Say yes to love, without if and without but. As Jesus did for us.
♰「愛と忍耐を通して、より良い時の準備をしよう」-聖週間に
◎教皇連続講話「山上の説教」⑦「心の清い人は幸いーどんなに苦しい時も、希望を失わないように」
♰「新たな命へ、あらゆる”石”を取り除こう」-日曜正午の祈りで
・教皇、新型ウイルスの危機終息と人々の救いを願う祈り、聖体奉献、特別の祝福を挙行
♰「聖ヨハネ・パウロ二世の 『いのちの福音』を証ししよう」-一般謁見で
(2020.3.25 バチカン放送)

教皇フランシスコ、2020年3月25日の一般謁見 (ANSA)
教皇フランシスコは25日の水曜恒例の一般謁見をバチカン宮殿図書室から動画配信の形でなさり、カテケーシス(教会の教えの解説)で、発布25周年を迎えた聖ヨハネ・パウロ2世の回勅「いのちの福音」をテーマに、次のように講話された。
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親愛なる兄弟姉妹の皆さん。25年前、今日と同じように、教会が「神のお告げ」を祝う3月25日、聖ヨハネ・パウロ2世は、人間のいのちの侵すことのできない価値を説く、回勅「いのちの福音」を発布されました。
「神のお告げ」と「いのちの福音」との関係は、聖ヨハネ・パウロ2世が強調したように、堅固で深いものです。今日、新型コロナウイルスの世界的感染が人命と世界経済を脅かしている現状を背景に、この教えを再び掲げたいと思います。
回勅はこのような言葉で始まります。「いのちの福音は、イエスのメッセージの中心です。それは、毎日、教会によって愛をもって受け入れられ、あらゆる時代と文化の人々に善き知らせとして勇気ある忠実をもって告げられるべきものです」 (n. 1)。
すべての福音の告知と同じように、このメッセージも、何よりもまず証しされなくてはなりません。私はここで、病者や、お年寄り、孤独な人、助けを必要とする人に、様々な形で奉仕しておられる多くの方々の静かな証しを、感謝と共に思い起こします。これらの方々は、天使のお告げを受け、「助けを必要としている従妹エリザベトのもとにすぐに出かけたマリア」のように、いのちの福音を実践しておられる人々です。
実際、私たちが守り、支えるように召されている「いのち」は、抽象概念ではなく、生身の人間を通して表わされるものです。受胎したばかりの胎児、疎外された人、孤独と失望の中あるいは終末期にある病者、仕事を見つけられない失業者、拒否され隔離された移民など、「いのち」は具体的な人々の中にあります。
すべての人間は、いのちの充満を享受するよう神から召されています。いのちの大切さは、教会の母なる配慮にゆだねられているために、教会は、いのちに対するあらゆる脅威を前に、手をこまねいていることはできません。
教会にとって、いのちを守ることは、イデオロギーではなく、すべてのキリスト者に関わる「人間としての現実」です。
人間の尊厳といのちへの攻撃は、残念ながら、この普遍的人権の時代においても続いています。それどころか、むしろ、私たちは新しい脅威、新しい隷属制度を前にし、最も弱く傷つきやすい人間のいのちの法的保護が常にあるわけではなりません。
回勅「いのちの福音」のメッセージは、今日これまでになく私たちに訴えるものです。私たちが直面している現在のような危機においてはもとより、連帯、ケア、受容などの態度を未来の世代に伝えるように、文化・教育面で取り組まねばなりません。
そして、いのちの文化とは、キリスト教だけに特有の遺産ではなく、兄弟愛の構築のために働き、弱く苦しんでいる人々をはじめ、一人ひとりの人間が持つ価値を認めている、すべての人々のものであることを忘れてはなりません。
親愛なる兄弟姉妹の皆さん、すべてのいのちは、唯一、かけがえのないものです。それははかり知れない価値を持つものです。このメッセージは、常に、あらたに、勇気ある言葉と行動をもって伝えられるべきです。これは大きな人類家族とその一人ひとりのメンバーを連帯と兄弟愛に導くものです。
このような理由から、聖ヨハネ・パウロ2世は、この回勅を記しました。私は聖ヨハネ・パウロ2世と共に、彼が25年前にすべての人に向けたアピールを、今、新たな確信をもって繰り返します。「いのち、すべてのいのち、あらゆる人間のいのちを、尊重し、守り、愛しましょう!この道の上にのみ、正義と、発展、自由、平和、幸福を見出すことができるでしょう!」(回勅「いのちの福音」 5)
(編集「カトリック・あい」)
♰「受胎告知」の25日正午、新型ウイルス世界的危機の中で「主の祈り」をともに捧げる
(2020.3.25 VaticanNews)
教皇フランシスコは25日の「受胎告知」の正午から、バチカン宮殿図書館からの動画配信の形で、世界の信徒たちと共に、新型コロナウイルスの世界的感染危機の中で、父なる神への祈りー「主の祈り」-を捧げられた。
「主の祈り」に先立って、教皇は冒頭、「親愛なる兄弟姉妹の皆さん。今日、私たち世界中のキリスト教徒がともに集まり、イエスが教えてくださった『主の祈り』を捧げます」とされたうえで、次のように祈られた。
信頼する子供として、私たちは父に目を向けます。私たちは毎日、何度もそうしています。しかし今、私たちは、新型コロナウイルスの世界的大感染という試練を受けている人類のために、憐れみを願います。そして、私たちはこれを、すべての教会と共同体、あらゆる文化伝統の、年齢層の、言語の、そして国のキリスト教徒が、心を一つにしていたします。私たちは感染者とその家族のために、医療に携わる人々と支援者のために、政府当局、治安当局、そしてボランティアのために、私たちの教会共同体の司牧者たちのために、祈ります。今日、私たちの多くは、聖母マリアが胎内に主が宿られることを告げられた日を祝っています。告知を受けた時、彼女は謙虚に、すべて受け入れました。私たちも、全てを信じ、自らを神の手に委ね、心と魂を一つにして、祈りますー天におられる私たちの父よ…。
(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)



