*教皇の聖金曜日の祭儀・主の受難と現在のウイルス危機を観想する

 ある日、ラザロの死を嘆き悲しんだ人は、今日、人類を襲った災難を嘆き悲しみます。そうです、神は、すべての父親と母親のように、嘆き悲しんでおられます。私たちは、このことを知ると、これまでの人生で神に対して行った、あらゆる非難を恥じることになります。神は、災難を克服するために、私たちの痛みに参加されます。聖アウグスチヌスは書いていますー 「至高の善-神は御業において、いかなる悪もお認めにならないだろう。ご自身の全知全能と善意において、悪から善を生み出すことができないなら」と。

 父なる神は、息子から善を引き出すために、彼の死を望んだのでしょうか?いいえ、単に人間が進路を選ぶ自由をお許しになっただけですー人類のではなく、ご自身の目的に役立つように。これは、地震や疫病などの自然災害の場合にも当てはまります。神は、そのような災難をもたらしません。

 ただ、自然にも一種の自由をお与えになりました。もちろん、それは人間のそれと質的には異なりますが、それでも一種の自由—それ自体の発展の法則に従って進む自由です。神は、ほんのわずかな動きしか予測されない、プログラムされた時計としては世界をお創りになりませんでした。それを「チャンス」と呼ぶ人もいますが、聖書は「神の知恵」と呼びます。

*多くの痛み、多くの死、医療従事者たちの英雄的働きを無駄にしないように

 現在の人類の健康上の危機がもたらしているプラス効果は、「連帯感」です。人類の歴史の中で、すべての国の人々が、この痛みの瞬間に、以前よりも紛争が少なくなっており、皆が団結し、平等だと感じたことがあったでしょうか? 偉大な詩人の1人の言葉がもつ真理を、今ほど私たちが体験したことはありませんー「平和だ、人々よ!打ちひしがれた地球の神秘はあまりに奥深い」。

 私たちは防護壁を作るのを忘れていました。このウイルスは国境を知りません。一瞬で、人種、国家、宗教、富、権力のすべてを区別する壁を打ち破りました。今の瞬間が過ぎ去った時に、私たちは以前の時に戻るべきではありません。教皇が私たちにお勧めになったように、この機会を無駄にすべきではありません。あまりにも多くの痛み、多くの死、そして医療従事者たちの多くの英雄的な働きが、無駄にならないようにしましょう。元の状態に戻ることは、私たちが最も恐れるべき「後退」です。

 「彼らはその剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直す。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦いを学ぶことはない」(イザヤ書2章4節)

 今や、人類が実現を長く待ち望んできた、このイザヤの預言の箇所を、実践する時です。 悲惨な軍備競争に「もう十分だ」と言いましょう。できるかぎりの力を振り絞って、あなたが若い人たちとともに。危機に瀕しているのは、何よりもあなたがたの運命だからです。健康、衛生、食料の確保、貧困との闘い、神から預かったものの適正な管理など、私たちが今、最も緊急に必要だと認識している目標に向けて、あらゆる人的、物的資源を投入しましょう。次の世代に、物や金はわずかでも、人間性豊かな世界を残しましょう。

 

*信じる心をもって、十字架に掛けれらた方に目を凝らし、祈ろう

 神のみ言葉は私たちにこのように告げますー「私たちが時としてまずすべきことは、神に向かって叫び声をあげることだ」と。神ご自身が、人々の唇に、ご自分に向かって叫び声を上げるための言葉をのせる方なのです。それは時として、激しい嘆きの言葉、ほとんど非難するような言葉になります-「我らの主よ、目覚めてください。なぜ、眠っておられるのですか。私たちを永遠に捨て置かず、起き上がってください」(詩編44章24節)「立ち上がり、私たちを助けてください!あなたの慈しみのゆえに私たちを贖ってください」(同27節)「先生、私たちが溺れ死んでも、かまわないのですか」(マルコ福音書4章38節)。

 神は、便益を与えることができるように、嘆願されることを望んでおられるでしょうか?私たちの祈りは、神のご計画を変えさせることができるでしょうか?できません。しかし、神が私たちに、ご自身の恵みと私たちの祈りの両方の果実として、私たちにお与えになると決められたことがあります。まるで、ご自身の創られた者と便益の褒賞を分かち合うかのように。神は、私たちにそうするように促す方ですー 「叩きなさい。そうすれば、開かれる」(マタイ福音書7章7節)のです。

 イスラエルの民が砂漠の毒蛇に噛まれた時、神はモーセに青銅の蛇を造り、竿の先に掛けるように命じました、そして、その青銅の蛇を見た人は誰も死ぬことがありませんでした(民数記21章9節参照)。イエスは、(注:ファリサイ派の1人で、ユダヤ人たちの指導者だった)ニコデモが論争を挑んだ時、この蛇をご自分に譬えてこう話されましたー「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」(ヨハネ福音書3章14 -15節)と。

*危機が去った後、もっと兄弟愛に溢れ、人間らしい、キリスト教徒にふさわしい生活を始められるように

 私たちもまた、今のこの時、目に見えない「毒蛇」に噛まれています。私たちのために十字架に掛けられた方に目を凝らしましょう。私たち自身と人類全体のためにイエスを崇敬しましょう。信じる心をもってイエスを見る人は死ぬことがありません。仮に死んだとしても、永遠の命に入ることになるのです。

 イエスは「自分は三日後に復活する」(マタイ福音書27章63節参照)と予告されました。私たちもまた、短いことを願う現在の日々が終わった後に、起き上がり、私たちの家の”墓”からでることでしょう。ただし、ラザロのように、以前の生活に戻るのではなく、イエスのように新しい生活に入るために、ですー以前よりも、もっと兄弟愛に溢れ、もっと人間らしく、もっとキリスト教徒にふさわしい生活に!

(公式英語訳より翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

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Translated  from Italian to English by Marsha Daigle-Williamson, Ph.D.

[1] Moralia in Job, XX, 1.
[2] John Paul II, Salvifici doloris [On the Meaning of Human Suffering], n. 23.
[3] https://blogs.timesofisrael.com/coronavirus-a-spiritual-message-from-brooklyn (Yaakov Yitzhak Biderman).
[4] See St. Augustine, Enchiridion 11, 3; PL 40, 236.
[5] Giovanni Pascoli, “I due fanciulli” [“The Two Children”].
[6] See St. Thomas Aquinas, Summa Theologicae, II-IIae, q. 83, a. 2.

 

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2020年4月11日