☩「司教たち自身も、平和構築の”建築家”、”職人”となれ」ー”ウクライナ戦争”下の欧州の司教たちに

教皇フランシスコ、欧州連合司教委員会の関係者と  2023年3月23日 バチカン宮殿教皇フランシスコ、欧州連合司教委員会の関係者と  2023年3月23日 バチカン宮殿  (ANSA)

 教皇フランシスコは23日、欧州連合司教委員会(COMECE)の定例総会参加者とお会いになり、欧州連合(EU)創立の父たちが抱いていた二つの偉大な夢―「一致の夢」と「平和の夢」であったことを指摘された。

 そして「欧州が目指す『一致』は『画一性』を意味するものではありません。欧州を構成する様々な民族と文化の独自性や特性を尊重し価値づけるものであり、『多様性の中の一致』にこそ、欧州の未来があるのです」と訴えられた。

 さらに、多様性の中の一致は、「一人ひとりの心や考えから始まるものであり、違いを形作るのは人間です… 教会は時代のしるしを読み、今日の歴史の中で欧州の目指すべきものは何であるのかを考えながら、人々の育成を行うように」と願われ、「まさにこの現代にこそ、『一致して平和に奉仕する欧州』という夢に沿って働く人たちが必要です」と強調された。

 また、「欧州は、第二次世界大戦後、長きにわたって平和を享受してきましたが、その間にも世界では様々な紛争が続き、特に今、起きているウクライナでの戦争は欧州の平和を強く揺さぶるもの」とされ、「この戦争のために、ウクライナの近隣国では避難民の受け入れが広がり、欧州中の人々がウクライナ国民への連帯の行為に加わっています。この一致した慈愛の業に、さらに一致した平和への取り組みが伴う必要があります」と指摘。

 「戦争を『紛争の解決手段と見なすことはできず、また見なすことがあってはならない』という倫理的・政治的原則を分かち合うなら、現代の状況がもたらす複雑さの中においても、あらゆる努力をもって、この原則を実現しなければなりません」と説かれた。

 そして、「戦争は、政治と人類の敗北です」と語られた教皇は、司教たち自身も、平和構築のための”建築家”かつ”職人”となって、「預言性、先見性、創造性をもって、それぞれのカリスマを活かしながら、平和のために貢献して欲しい」と強く求められた。

(編集「カトリック・あい」)

2023年3月24日

◎教皇連続講話「使徒的熱意について」⑧ 福音を宣べ伝える教会は、まず自身を”福音化”する必要

 

2023年3月23日

☩教皇、「ロシアとウクライナを聖母マリアに捧げる祈りを新たにしよう」

The Act of Consecration to the Immaculate Heart on the 25th March 2022The Act of Consecration to the Immaculate Heart on the 25th March 2022  (Vatican Media)

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 教皇の「マリアの穢れなき御心への奉献の祈り」は以下の通り。

 神の御母、私たちの母、マリアよ、この懊悩の時、あなたにより頼みます。母であるあなたは、私たちを愛し、私たちをご存知です。私たちが心に抱くいかなるものも、あなたに隠すことはありません。慈しみ深い母よ、私たちは何度も、あなたの配慮ある優しさ、平安に導くあなたの存在を体験しました。なぜなら、あなたは、私たちをいつも、平和の君であるイエスに導く方だからです。

 しかし、私たちは平和の道を見失いました。私たちは前世紀の悲劇の教訓を、世界大戦の無数の死者たちの犠牲を忘れました。国々の共同体としての義務を尊重せず、人々の平和への夢と、若者たちの希望を裏切りました。私たちは強欲に取りつかれ、国益の中に閉じこもり、無関心によって心はひからび、エゴイズムによって麻痺してしまいました。

 神を無視することを選び、欺瞞と共に生き、攻撃性を増し、人命を殺め、軍拡に走り、自分たちが隣人と共通の家を守るべき者であることを忘れました。地上の園を戦争によって破壊し、私たちが兄弟姉妹として生きることを望まれる、御父の御心を罪によって傷つけました。自分たち以外の、すべての人、すべての箏に対し無関心になりました。私たちは恥をもって言います。主よ、お赦しください!

 罪の惨めさの中で、疲れと弱さの中で、悪と戦争の不条理の中で、聖なる母よ、あなたは、神は私たちを見捨てられず、愛の眼差しを注ぎ続け、私たちを赦し、再び立ち上がらせたいと望んでおられることを思い出させてくださいます。神はあなたを私たちにお与えになり、あなたの穢れなき御心を教会と人類のよりどころとしてくださいました。神の善によって、あなたは私たちと共におられ、歴史の最も暗い曲がり角においても、私たちを優しく導いてくださいます。

 私たちは、あなたにより頼み、あなたの御心の扉をたたきます。あなたは、愛する子である私たちをいつも見守り、回心へと招かれます。この闇の時、私たちを救い、慰めに来てください。私たち一人ひとりに繰り返してください。「あなたの母である私が、ここにいないことがあるでしょうか」と。あなたは私たちの心のもつれと、時代の困難を解くことがお出来になります。私たちはあなたに信頼します。特に試練の時、あなたは私たちの祈りを蔑まず、助けに来てくださる、と確信しています。

 ガリラヤのカナで、あなたはイエスの助けを促され、イエスの最初のしるしを世界にもたらしました。婚礼の祝いが悲しみに変わった時、「ぶどう酒がなくなりました」(ヨハネ福音書2章3節)と、あなたはイエスに言われました。

 御母よ、神にその言葉をもう一度繰り返してください。今日、私たちに希望のぶどう酒はなくなり、喜びは消え去り、兄弟愛は薄められたからです。私たちは人間性を見失い、平和を壊してしまいました。あらゆる暴力と破壊をしうる者となってしまいました。私たちはあなたの母なる助けを急いで必要としています。

 御母よ、どうか、私たちの願いを聞き入れてください。
海の星であるあなたよ、戦争の嵐の中で私たちを遭難させないでください。
新しい契約の櫃であるあなたよ、和解の計画と道を呼び起こしてください。
「天の大地」であるあなたよ、神の調和を世界にもたらしてください。
憎しみを消し、復讐を宥め、赦しを教えてください。
戦争から私たちを解放し、核兵器の脅威から世界を守ってください。
ロザリオの元后、祈り、愛することの必要を呼び覚ましてください。
人類家族の元后、人々に兄弟愛の道を示してください。
平和の元后、世界に平和をお与えください。

 御母よ、あなたの嘆きが、私たちの頑な心を動かしますように。あなたが私たちのために流した涙が、憎しみで干上がった谷に再び花を咲かせますように。武器の音が止まぬ中、あなたの祈りが、私たちを平和に向かわせますように。あなたの母なる手が、爆撃の下で苦しみ、逃げまどう人々に優しく触れますように。あなたの母なる抱擁が、家と祖国を後にせざるを得ない人々に慰めを与えますように。あなたの苦しむ御心が、私たちに憐れみの心を動かし、扉を開けさせ、傷つき、見捨てられた人類の世話にあたらせますように。

 聖なる神の御母よ、あなたが十字架の下におられた時、イエスはあなたのそばの弟子を見て、「御覧なさい、あなたの子です」(ヨハネ福音書19章26節)とあなたに言われました。こうしてイエスは、私たち一人ひとりをあなたに委ねられました。それから、イエスは弟子に、つまり私たち一人ひとりに、「見なさい、あなたの母です」(同19章27節)と言われました。

 御母よ、今、私たちの人生、私たちの歴史の中に、あなたをお迎えしたいと思います。今この時、疲れ切り、動揺した人類は、あなたと共に十字架の下にいます。そして、あなたに信頼し、あなたを通して、キリストに自らを奉献したい、と望んでいます。愛をもって、あなたを崇敬するウクライナの民とロシアの民は、あなたにより頼んでいます。それに対し、あなたの御心は、彼らのために、そして戦争、飢餓、不正義、貧困によって殺されたすべての人々のために鼓動しています。

 神と私たちの御母よ、私たちは、あなたの穢れなき御心に、私たち自身を、教会を、全人類を、特にロシアとウクライナを、厳かに託し、奉献いたします。私たちが信頼と愛を込めて唱えるこの祈りを聞き入れてください。戦争を止め、世界に平和を整えてください。

 あなたの御心から出た「はい」という言葉は、平和の君に歴史の扉を開きました。あなたの御心を通して、再び平和が訪れることを信じています。あなたに全人類の未来と、人々の必要と願い、世界の苦悩と希望を奉献いたします。あなたを通して、地上に神の慈しみが注がれ、平和の穏やかな鼓動が私たちの日常に再び響きますように。

 「はい」と答えた乙女よ、あなたの上に聖霊は訪れました。私たちに神の調和を再びもたらしてください。「ほとばしる希望の泉」である方、渇いた私たちの心を癒やしてください。人類をイエスに織り込んだ方、私たちを交わりを作り出す者にしてください。私たちの道を歩まれた方、平和の小径を導いてください。

アーメン。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2023年3月23日

☩「目を見開き、神の賜物に驚くことができるように」四旬節第四主日の正午の祈り

(2023.3.19 Vatican News   Thaddeus Jones)

  教皇フランシスコは19日、四旬節第四主日の正午の祈りの説教で、この日のミサで読まれたヨハネス福音書の箇所(9章1‐41節参照)にあるイエスに視力を取り戻してもらった生まれつき目の見えない人のように、私たちも目を見開き、暮らしの中で他者に善を行うことで神からいただく賜物に驚くことができるように、と勧められた。

 

*「驚くべきこと」が見えず、心を閉ざす人々

 教皇はまず、この福音書の箇所で描かれた、目が見えるようになった男の人に対する人々の様々な反応に注目。生まれつき目が見えなかったのは彼、あるいは両親の罪に原因があるかどうか、原因を見つけようとするイエスの弟子たち…  教皇は「それよりも、私たちの暮らしの中で、目の見えない人の存在が、私たちにとって何を意味するのか、そして、主が私たちに何を求めておられるのかを問う必要があります」と語られた。

 また、教皇は「弟子以外の人々の反応は様々でした」と指摘。目が見えなかったのに見えるようになったのを信じない人、安息日を守らないイエスの癒しに異議を唱える律法学者やファリサイ派の人、このことを何も聞きたくないユダヤ教の長老たちを動揺させるのを恐れて、この驚くべき真実を語ろうとしなかった彼の両親などを挙げられた。そして「これらの人々の反応に共通するのは、「イエスがなさったしるしの前で、心が閉ざされている、ということ。彼らは”犯人”を探しているから、驚くことを知らないから、変わりたくないから、恐怖で心がふさがれているから、です」と述べられた。

 

 

*「目が見えるようになった」と驚き、感謝し、証しする

 そして「これに対して、目が見えなかった男の人の反応は『私は目が見えるようになった』と言って、驚き、感謝し、そして喜びをもって何が起こったのかを率直に証しすることでした。 身も心も自由で、恐れることなくイエスを公けに証します。他の人々から『彼は物乞いではないか』とか『呪われた浮浪者ではないか』などと言われるのを恐れずに、です」と指摘。

 さらに、「彼は癒された今、そうした自分を馬鹿にするような人々の振る舞いを恐れません。それは、イエスから完全な尊厳を与えられたからです。 安息日に群衆の面前で、自由にされ、何も、感謝の言葉さえも求められないまま、視力を与えられました。そうして、彼はそのことを証します」とされた。

 

*「自分だったら、どのように反応するか、考えよう」

 

 続いて教皇は、「自分がこの目が見えなかった男の人だったら、どのように反応したか、今、(同じことが起きたら)どうするか、考える必要があります」とされ、次のように問いかけられた。

 「 神が賜物をくださるとき、感謝することができますか?イエスの愛と憐れみを証していますか、それとも恐れと弱さから、批判したり、否定したりしていますか?神が日々くださる賜物に対する喜びを進んで他の人と分かち合おうとしていますか、それとも、人々の反応を恐れに、心の内に納めてしまっていますか?  そして最後に―私たちは他の人々の苦しみを『煩わしいこと』と見なしていますか、それとも『慰めと愛をもって彼らに近づく機会』と見なしますか?

 そして、最後に次のように祈られた。

 「神の賜物に毎日驚かされ、イエスが目の見えない人を見えるようにされたように、私たちが人生でさまざまな状況に置かれ、たとえそれが、ひどく受け入れがたいものであっても、善を行う機会として見ることができるように、主の恵みを願いましょう。 聖母マリアが、公正で忠実な方、聖ヨセフと共に、私たちを助けてくださいますように」

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2023年3月19日

☩「悔い改めと信頼の心で、私たちは神の慈しみの賜物を受ける」ー「主のための24時間」で

(2023.3.17  Vatican News staff writer)

  教皇フランシスコは17日夕、ローマ市内の教会Santa Maria delle Grazie al Trionfaleにおいでになり、四旬節恒例の祈りと和解の「主のための 24 時間」の開始を告げられ、ミサ中の説教で、すべての人に、悔い改め、主を信頼する心をもって、私たちの罪を認め、神の憐れみの賜物、神の慰めと喜びの抱擁を求めるように勧められた。

*「罪人の私を憐れんでください」

 

 今年の「主のための24時間」の主題は「罪人の私を憐れんでください」(ルカ福音書18章13節)。 教皇はミサ中の説教で、(パウロがフィリピの信徒への手紙に書いているように)「私たち自身のエゴとプライドが主との対話の妨げになり得ること」を強調され、パウロは「律法に関してはファリサイ派、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義に関しては非の打ちどころのない者」(3章5‐6節)と自己の”宗教的業績”を誇りに思い、神に対して心を閉じていたことを示された。

 そして、旧約聖書に「身分の低い者の祈りは、雲を突き抜けて行く」(シラ書35章21節)とあるが、それは、「霊において貧しく、救いと赦しの必要性を自覚している人だけが神の前に来るからです。 彼らは、自分の功績を自慢したり、見せかけや思い込みをしたりせずに、主の前に来る。何も持っていないから、すべてを見つける、神を見つけるからです」と説かれた。

*常に謙虚であれ

 教皇は、また、ルカ福音書の「ファリサイ派の人と徴税人のたとえ話」(18章10‐13節)を思い起こされ、神殿に上った二人のうち、遠く離れて立って、「神様、罪人の私を憐れんでください」と願った徴税人の祈りだけが、神の心に届くことを指摘。「彼は前に出ようとはしない。後ろにとどまります。 しかし、神の前で自分の罪深さを告白するその”距離”が、父の愛と憐れみに満ちた抱擁を体験することを可能にするのです。 神が彼のところに来ることができたのは、彼が遠くに立ち、神のための場所を空けたからです」と強調された。

 

 

*真の対話を可能にするのは

 そして、「真の対話は、私たちが自分と他者の間に一定の空間を保つことができるときに、成立します。私たちが物事がどのようなものであるか、『対話と出会い』がどのように橋渡しし、親密さを生み出せるか気づくことができます。 福音書にあるように、徴税人は自分が神の前にどのように立っているかの真実を認識し、神殿の後ろの方に立ている。そしてこのことが、神が彼のそばに来られることを可能にするのです」と語られた。

 

*心を開いて

 さらに教皇は、信徒たちに、「兄弟姉妹の皆さん、このことを思い出しましょう。私たちが傲慢なエゴから一歩、距離を置いたとき、主は私たちのところに来てくださいます。 私たちが正直さと誠実さをもって、自分の弱点を彼の前にさらすとき、主は私たちとの距離を埋めることができるのです… 神は私たちを待っておられます。特に告解の秘跡で私たちを待っておられます」と述べられた。

 そして、ファリサイ派の人と徴税人の神の前での振る舞いが、いずれも「私たちの心の奥深くにある可能性」があることから、良心の糾明を勧められ、「 私たちは見せかけの偽善を避け、私たちの心の闇、過ち、惨めさを主の憐れみに委ねなければなりません。 そうすることで、私たちの人生に対する神の夢と、私たちの日々の現実の姿との間の”距離”を認識することができるのです」と説かれた。

 さらに、「赦しの秘跡の意味、それは、心を癒し、内なる平和を私たちにもたらす出会い。 恐れを持って近づく”法廷”ではなく、慰めを見いだす”神の抱擁”です」とされ、告解を聴く司祭たちに向けて、「告解する信徒たちが求める赦しをすべて赦すように、彼らの言葉に理解をもって、率直に耳を傾けるように、そうすることで、赦しの秘跡が彼らに誠の平和を与えられますように」と励まされた。

 

 

*「神よ、罪人の私を憐れんでください!」

 最後に教皇は、「特に四旬節のこの時期に、徴税人のように悔い改めの心で、静かに『神よ、罪人である私を憐れんでください!』と願うこと。何度も繰り返し、日々の暮らしでの過ちを思い起こし、赦しを求めましょう… 悔い改め、主に信頼する心で、繰り返しましょう―『神よ、罪人である私を憐れんでください!』と。 そして、この悔い改めと主に信頼する祈りの中で、大きな賜物である神の憐れみをいただく喜びに心を開きましょう」と呼び掛けられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2023年3月18日

☩「伝統宗教が持つ叡智と人間性が世界に兄弟愛を育てるように」台湾の仏教僧侶たちに

教皇フランシスコ、台湾の仏教関係者と 2023年3月16日 バチカン宮殿教皇フランシスコ、台湾の仏教関係者と 2023年3月16日 バチカン宮殿  (VATICAN MEDIA Divisione Foto)

 教皇フランシスコは16日、台湾から訪れた仏教の僧侶たちとお会いになった。

 お会いになったのは、諸宗教対話と教育的な「巡礼」を目的にバチカンを訪れた台湾の仏教関係者とカトリック教会関係者のグループ。

 教皇は、同グループのバチカン訪問は、「仏教とキリスト教のそれぞれの信者が自らの信仰に根差しつつ育んだ、友愛と協力の精神を証しするもの」と述べられた。

 また、台湾の「人間仏教」の推進者で、先日亡くなった仏光山の創始者、星雲法師の諸宗教対話への貢献を思い起こされるとともに、それを受け継ぐグループのバチカン訪問は「『出会いの文化』を育むまたとない機会。出会いを通して他者に自らを開くことで、その中に友情や兄弟愛を見出し、それによって自分自身をもより良く知ることができます」と語られた。

 さらに、「出会いの文化は橋を築き、他者が精神的な拠り所としている宗教的価値や原則に対し、窓を開かせます… 人類と地球がスピードをもって変化し続ける今日、出会いのオアシスがより必要となっています」と指摘され、「かつてそうであったように、今日もまた、伝統宗教が持つ叡智と人間性をもって、新たな教育活動に刺激をもたらし、世界に普遍的な兄弟愛を育てることができますように」と願われた。

(編集「カトリック・あい」)

2023年3月18日

◎教皇連続講話「使徒的熱意について」⑦「私たちは皆、使徒となるように呼ばれている」

Pope Francis at this Wednesday's General AudiencePope Francis at this Wednesday’s General Audience  (VATICAN MEDIA Divisione Foto)

(2023.3.15 Vatican News   Joseph Tulloch)

 教皇フランシスコは15日、水曜恒例の一般謁見で、「使徒的熱意」についての連続講話とお続けになり、「キリストは司祭、修道者、一般信徒、すべての人を『使徒』と呼ばれること」を強調された。

 教皇の講話は、新約聖書と第二バチカン公会議の文書からいくつかの箇所を引用して考察する形をとっておられ、それらは一つにまとまって、福音宣教への普遍的な呼びかけのビジョンを提供している。

 

*「使徒」とは何か?

 教皇は、この日の講話を「使徒」であることの意味から始められた。

 「使徒」という時、私たちはイエスによって選ばれた十二使徒の一団を思い浮かべます。時には、ある聖人や、あるいは一般的に司教たちを、「使徒」と呼ぶこともあるでしょう。しかし、私たちは「すべてのキリスト者が使徒である」と自覚しています。そして、私たちは使徒信条にもある「使徒的」教会において、「使徒」となるよう呼ばれているのです。

 

*「宣教に派遣された者」

 では、「使徒」とはどういうことを意味するのでしょうか―それは「宣教に派遣された者」ということです。復活されたキリストは、使徒たちを世界に派遣するにあたって、聖霊を与え、ご自身が御父から受けた権能を授けられました。

 これについてヨハネ福音書は次のように記しています。「イエスは重ねて言われた。『あなたがたに平和があるように。父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす』。そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい…』」(20章21-22節)と。

 

*「召し出し」

 「使徒」のもう一つの本質的な点は、「召命」、つまり「召し出し」です。主イエスが「これと思う人を呼び寄せられると、彼らは御もとに来た」(マルコ福音書3章13節)と福音書にあるように、使徒たちが形成される初めから召し出しがありました。イエスは弟子たちをグループにし、彼らを「使徒」と名付けられた。それは「彼らを自分のそばに置くため、また、宣教に遣わす」ためでした。(参照 マルコ福音書3章14節、マタイ福音書10章1-42節参照)。

 聖パウロは、信徒たちに送った手紙の中で、「神の御心によってキリスト・イエスの使徒として召されたパウロ」(コリントの信徒への手紙1・1章1節)、「キリスト・イエスの僕、使徒として召され、神の福音のために選び出されたパウロ」(ローマの信徒への手紙1章1節)と自己紹介をしています。また、パウロは、自身が「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、この方を死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされた」(ガラテヤの信徒への手紙1章1節)ことをも強調しています。

 12使徒の体験とパウロの証しは、「すべては神の無償の召命による」という動かせない観点から、自分たちの態度や選択を見つめ直すよう、今日の私たちに問いかけています。神は、時には私たちの能力や期待をはるかに超えた奉仕のために私たちを選ばれます。無償で受けた召命には、無償で応えなくてはなりません。

 第2バチカン公会議はこのように述べています―「キリスト者としての召し出しは、その本質上、使徒職への召し出しである」(「信徒使徒職に関する教令」2項)。そして、「各構成員の品位はキリストにおける再生によって共通、神の子らの恩恵も共通である」ように、その召し出しは共通である(「教会憲章」32項)。

*召し出しは、聖職者、修道者、信徒にも

 その召し出しは、聖職者に叙階された者、修道者、また信徒にも与えられます。「教会の中には様々な役職があるが、使命は一つである。使徒とその後継者は、主の名によって教え、聖化し、治める任務をキリストから受けた。しかし、キリストの司祭職、預言職、王職に与る者となった信徒もまた、教会と世間において、神の民全体の使命における自分の役割を果たすのである」(「信徒使徒職に関する教令」2項)。

 こうしたことを背景に、公会議は、教会の聖職位階制と信徒との協力関係をどのように捉えているのでしょうか。

 唯一の使命のもとに集うカリスマや役務の多様性が、教会の体の中に優越的な部分を設けることはありません。「ある人々はキリストの意志によって他の人々のための教師、秘儀の分配者、牧者に定められているが、キリストの体の建設に関しては、すべての信者に共通の尊厳と働きの真実の平等性がある」(「教会憲章」32項)からです。

*召命の生き方、使徒としてのありかたを考え直す

 この尊厳における平等の問題は、福音宣教において大切な役割を果たす私たちの関係の多くの面について、再考を促しています。たとえば、私たちの言葉が人の尊厳を傷つけ、その関係を壊していることに気づいているでしょうか。世界と対話する一方で、信者間の対話ができているでしょうか。他者の考えを理解するために耳を傾けているでしょうか。自分の考えを押し付けてはいないでしょうか。

 こうした問いを恐れてはなりません。これらの問いは、私たちキリスト者の召命の生き方、使徒的教会の中での使徒としてのあり方を、考え直すきっかけとなるものだからです。

 

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二=聖書の引用は「聖書協会・共同訳」による)

2023年3月15日

☩バチカンが着座10周年を記念して「Popecast」を発刊ー「欲しいのは平和」と教皇

Pope FrancisPope Francis  (VATICAN MEDIA Divisione Foto)

 「戦争の背後には武器産業の存在がある。ひどいことです」と教皇フランシスコは言われる。

 そして、「”地球の果て”から来た司教である自分が、よりによって、”第三次世界大戦”が起きている時に、世界の教会を導く教皇になるとは思っていませんでした」と言われる。さらに「 シリアは独自の道を歩むと思っていましたが、他の国々が来てしまった」と。

 「ロシア人であろうとウクライナ人であろうと、若い男性が死んでいくのを見るのはつらい。彼らは、戻ってこないのです。 それはどうにもなりません」

 ホルヘ・マリオ・ベルゴリオが教皇在位10年の記念日に、世界からの贈り物として何が欲しいと思っているか。それは疑いもなく、「平和、私たちは平和を必要としています」。

 だから、教会、世界、そして世界を統治する人々に、そして人類に、教皇が望む「3つの夢」は… 「友愛、涙、微笑み…」。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2023年3月14日

☩「主のための24時間」は17日金曜日の夕刻からー「世界中で戦火に苦しむ人たちと信仰と連帯を示そう」と教皇

In Ukraine, an elderly woman stands in her home, which was damaged by shellingロシア軍の爆撃で破壊された自宅に呆然としてたたずむ年老いた女性  (AFP or licensors)
(2023.3.12   Vatican News   Christopher Wells)

   教皇フランシスコは12日、四旬節第3主日の正午の祈りの中で、17日金曜日の夕方から「24 Hours for the Lord(主のための24時間)」の祈りを行うことを発表された。

 教皇は17日夕刻にローマ市内の教会Santa Maria delle Grazie al Trionfaleを訪問され、「24 Hours for the Lord(主のための24時間)」の開始を告げられる予定だ。

 12日にこの予定を発表された際、教皇は、昨年3月25日の聖ペトロ大聖堂での共同回心式でおこわなわれた、ロシアとウクライナの「マリアの穢れなき御心への奉献の祈り」を思い起こされ、世界の信者たちに、戦火に苦しむすべての人々、中でも残虐な攻撃にさらされ続けているウクライナの人々と「信仰と連帯で団結し続けるように」と呼び掛けられた。

 「24 Hours for the Lord(主のための24時間)」はフランシスコが2013年の教皇就任の最初の年から始められたもので、 この時間中、世界中の教会を原則として開放したままとし、信者と巡礼者が祈り、和解と告解の機会を提供することになっている。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

 

 

2023年3月12日

☩「主は”永遠の命の生ける水”を私たちに約束してくださる」四旬節第3主日の正午の祈り

(2023.3.12  Vatican News  Thaddeus Jones)

 教皇フランシスコは12日、四旬節第 3 主日の正午の祈りの説教で、この日のミサで読まれたヨハネ福音書の箇所-のどの渇きを覚えたイエスと、井戸に水をくみにきたサマリアの女性について述べた箇所-を取り上げ、「この場面で、主が私たちの愛を渇望され、私たちの内に永遠の命が溢れる生きた水をくださると約束されていること」を示している、と語られた。

 教皇は説教の中で、この箇所で描かれた「井戸のそばでのサマリアの女性と出会い」は、イエスにとって「最も美しく、魅力的な出会いの1つ」と語られた― 真昼の太陽が照りつける中で、のどが渇き、疲れ、井戸のそばに座られたイエスが、彼女に「水を飲ませてください」と願われる。

*主が私たちのように水を求められたのは

教皇は、イエスのこの行為は「神ご自身を私たちの一人にされ、私たちのように喉が渇かれたイエスを通して、私たちの人間が置かれた状態、必要とするもの、苦しみを分かち合われたことを示しています」と指摘。

 さらに、「イエスの”渇き”は肉体的なものにとどまりません。私たちの命の最も深い渇き、何よりも私たちの”愛への渇き”を表現しています。. そして、それは、十字架上でイエスが亡くなる直前の言葉、「私は渇く」で最高潮に達するのです」と説かれた。

*愛は喉の渇きを癒す

 水を求められたイエスは、サマリヤの女性に、ご自分が提供できる飲み物-永遠の命を私たちの内にあふれさせる「聖霊の生ける水」について語られる。

 教皇は「愛に渇いておられるイエスは、愛で私たちの渇きを癒してくださいます… 日々の暮らしの中で私たちと出会い、渇きを分かち合い、永遠の命の生ける水を約束してくださったのです」と語られた。

*他の人に飲み物を与える

 また教皇は「私たちは、イエスの模範に従う必要があります。 私たちの家族、友人、同僚は、しばしば”飲み物”を求めますが、それは、親しい関係、注意を向けること、耳を傾けることを、渇望しているからです」とされた。

 さらに、「彼らはまた、神の言葉を渇望し、そこから飲むことのできる教会の”オアシス”を必要としているかも知れません。 このような渇きは、無関心と心の内面的な空虚さで特徴付けられる”灼熱の砂漠”のような社会の中でますます激しくなります」とされ、「この渇きは、文字通り私たちの『生存に欠かせない水』への渇きでもある。世界中の非常に多くの人々が、干ばつや汚染のために、きれいな水を手に入れられなくなっています。 私たちの『共通の家』である地球が水不足や汚染による喉の渇きに悩まされています」と警告された。

*生きた水

 説教の最後に、教皇は、「今日のミサで読まれた福音は、私たちに『生ける水』を約束し、私たち一人ひとり自身が兄弟姉妹にとって”さわやかな泉”になるよう呼びかけています」とされ、「私は、神を渇望しているか」「生きるための水のような神の愛が必要だと気づいているか 」、そして、「私は、他の人の喉の渇きを気遣っているか 」と自らに問いかけるように、信徒たちに求められた。 そして、「聖母マリアが、私たちのために執り成し、人生の歩みの中で私たちを支えてくださいますように」と祈られた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2023年3月12日

☩「教会は一部の人の家ではない、すべての人のための家だ」スイス公共放送の在位10年インタビューで

Pope Francis celebrates Holy Mass at Casa Santa MartaPope Francis celebrates Holy Mass at Casa Santa Marta 

 インタビューでの主なやり取りは次の通り。

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*「耐久力は落ちているが、膝は順調に回復している」

 

問:教皇になられて10年。あなたはどれくらい変わられましたか?

教皇:歳を取りました。 持久力が落ちている。膝のけがは、肉体的な屈辱でしたが、今は順調に回復しています。

問:車いすに乗るのは大変でしたか?

教皇:ちょっと恥ずかしかったです。

*「教会は一部の人のための家ではない、来る人を選ばない」

問:多くの人があなたを「最も小さな教皇」と呼んでいます。 あなたもそう感じでおられますか?

教皇:「捨てられる人」を私が歓迎するのは事実ですが、それは私が、「それ以外の人を捨てる」ことを意味しません。 貧しい人々はイエスのお気に入りですが、金持ちを追い出すことはなさいません。

問:イエスは、すべての人を自分の食卓に連れてくるように求めますが、 これは何を意味するのでしょうか?

教皇:それは、「誰も除外されないこと」を意味します。 招待客が婚宴への出席を拒んだとき時、金持ちも貧しい人も、すべての人を招いて席をいっぱいにする、というたとえ話を、イエスはなさいました。 忘れてはなりません―教会は一部の人にとっての家ではなく、来る人を選びません。 神の聖なる信者たち… どの人もそうなのです。

問:生活状態が原因で教会から疎外されている、と感じる人がいるのはなぜでしょうか?

教皇:罪はいつもそこにあります。 世の中には少しばかり虚栄心が存在し、自分は他の人より素晴らしいと感じることがありますが、それは正しくありません。 私たちは皆、罪人です。 「真実の時」に、あなたの真実を表に出してください。そうすれば、自分が罪人であることが分かるでしょう。(「カトリック・あい」注:「真実の時」は1945年作成のメキシコ映画。貧しい家庭がお金のために翻弄され、数十万ドルのために犯罪に加担する、という内容)

*死後の世界、聖マルタの館、そしてアルゼンチンの思い出

問:死後の世界をどのようにお考えですか?

教皇:想像できません。 どうなるか分からない。共にいてくださるように、聖母にお願いすることしかできません。

問:教皇になられた時、なぜバチカン宮殿でなく、聖マルタの館にお住まいになることを選ばれたのですか?

教皇:教皇選挙で就任が決まった2日後に、私はバチカン宮殿の教皇の住まいに出かけました。 それほど豪華ではないが、 作りはしっかりしていて、スペースも大きい。 私が、自分が住むところについて持っていた感覚は真逆でした。 精神的に受け入れられない。それから、 私が今住んでいて、貴方のインタビューを受けている聖マルタの館の前をたまたま通った時、「私はここに住む」と言う言葉が出たのです。 ここは、教皇庁で働く40人が住む宿舎です。 そして、彼らは世界のあらゆる所から来ています。

問:教皇になられる前のアルゼンチンでの暮らしで今でも恋しく思うことはありますか?

教皇:町中を歩いて、通りを下って… よく歩いていました。 私はいつも人々と一緒に、地下鉄、バスに乗っていました。

問:欧州の暮らしはどうですか?

教皇:非常にたくさんの政治家、政府の長、または若い閣僚がいます。 私はいつも彼らに言います―「互いに話をしてください。 あれは左、あなたは右、どちらも若い。話しかけて。 若者同士で対話をする時です」と。

問:”地の果て”(アルゼンチン)出身の教皇がもたらすことのできるものは?

教皇:アルゼンチンの哲学者アメリア・ポデッティの言葉を思い出します。「 遠く離れた所から普遍性を理解する」- それは社会的、哲学的、政治的な原則です。

*コロナ禍で閉鎖された聖ペトロ広場での孤独の祈りでの体験は

問:(新型コロナの世界的大感染で)何か月にもわってバチカンの聖ペトロ広場が閉鎖されました。その広場で”孤独な祈り”を捧げられましたが、覚えておられることはありますか?

教皇: あの時は、雨が降っていて、人はいなかった。 私は、「主がそこにおられる」と感じました。 主が私たちに悲劇、孤独、闇、疫病を理解させようとしておられたのでした。

*”世界大戦”の中にあるウクライナ、武器市場、帝国の利害…

問:世界にはいくつもの戦争が起きています。

教皇:これまで100 年余りの間に、3 回の”世界大戦”がありました。14 ~ 18 年、39 ~ 45 年、そして今起きている大戦です。 今の大戦は、断片的な形で始まりましたが、今では誰もそれが「世界的ではない」とは言えません。 強大な力はすべてそれに巻き込まれています。 戦場はウクライナ。 そこでみんなが戦っている。 それは、武器産業を連想させます。 ある専門家は私にこう言いました―「兵器が1年、生産されなければ、世界の飢餓の問題は解決されるでしょう」と。 世界的な武器市場…  戦争が行われ、そこに古い武器が売り込まれ、新しい武器がテストされるのです。

問:ロシアによるウクライナ軍事侵略が始まる前に、あなたはプーチン大統領に何度かお会いになりました。 もし今日、大統領にお会いになったら、何と言われますか?

教皇:公の場で話すのと同じくらい、はっきりと彼に言うつもりです。 彼は教養のある人です。 侵略が始まって2日目に、私は在バチカンのロシア大使館に行き、「大統領が話し合いの機会を設けてくれるなら、喜んでモスクワに行く」と言いました。 ラブロフ外相は私の申し出に感謝する手紙をくれましたが、「今は、その時ではない」と書いてありました。 プーチンは私がいつでもモスクワに行く用意があることを知っています。 しかし、この戦争には、ロシア帝国だけでなく、他の帝国の利益も絡んでいます。 国民の利益を二番目に置くのは、帝国の典型です。

問:ウクライナの他に強い関心を持たれているのは?

教皇:イエメンの紛争、シリア、ミャンマーの貧しいロヒンギャ… どうして人々がこのような苦しみを受けねばならないのですか。 戦争は酷い。そこに 神の霊は存在しない。 私は聖戦を信じていません。

*ベネディクト16世が開いた「教皇生前辞任」の扉―自身の辞任の要件は

問:教皇職を退かれ、亡くなるまで Mater Ecclesiae Monastery(教会の御母の修道院)で10年間過ごされたベネディクト 16 世との交流は?

教皇:良い交流を持てました。 彼は神の人です。 私は彼をとても愛しています。 最後にお会いしたのは昨年のクリスマスでした。 その時は、ほとんど話すことができませんでした。 とても低い声で話されたので、”翻訳”されないと分からなかったのですが、頭脳は明晰でした―これはどうなっていますか、その問題はどうですか、など問いかけられた。その内容はすべて新鮮なものでした。 彼はいつもバランスが取れていて、前向きで、賢い人でした。 しかし、クリスマスにお会いした時、人生の終わりに近づいていることが分かりました。

問:ベネディクト16世の葬儀は地味なものだったのは、なぜでしょう?

教皇:現職でない前教皇の葬式を計画・準備するのは、儀典担当者にとって難しいことでした。現職の場合と異なるのはどこにあるのか。 違いを生み出すのは困難でした。 私は、将来の教皇の葬式の儀式を研究するように担当者に言いました。 彼らは物事を研究し、少し単純化し、典礼的に正しくないものを取り除いています。

問:ベネディクト16世は、教皇の生前辞任の扉を開きました。 あなたは、ご自分にもその可能性があると言われたことがありますが、現時点では考えておられない。 将来、生前辞任するとした場合、理由は何でしょうか?

教皇:物事がはっきりと分からないような疲労を感じる、 頭脳の明晰さが欠如する、状況を判断する方法が分からなくなる…  おそらく、物理的な問題もその理由になるでしょう。 私はいつもこのことを他の人に聞き、アドバイスをもらっています―「 最近の私はどうですか? 私はそうすべきだと思いますか?…」。私を知っている人や(その方面に知識や経験のある)枢機卿に聞いてみます。 そして彼らは真実を話してくれます―「教皇職を続けてください、大丈夫です…」と。 でもお願いします。間に合ううちに声をかけてください。

問:人に挨拶される時、あなたはいつも「私のために祈ってください」と願われますが、なぜでしょう?

教皇:誰もが祈ると思います。 信者でない人たちにも私はお願いします―「私のために祈ってください」と。 無神論者の友人が私への手紙の末尾に、次のように書いています―「… あなたにgood vibes(良い感じ)を送ります」。 それは異教の祈り方ですが、愛情深いやり方です。 そして誰かを愛することは、祈りです。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2023年3月12日

☩「司祭の独身制は”当座の処方箋”」-教皇、在位10周年を前にアルゼンチンのメディアと会見

Pope Francis' interview to InfobaePope Francis’ interview to Infobae 

(2023.3.10 Vatican News   Salvatore Cernuzio)

 教皇フランシスコが、3月19日の教皇着座 10 周年を前に、母国アルゼンチンのウェブサイト Infobae のインタビューに応じ、ロシアによるウクライナ軍事侵略の継続、ベネズエラやニカラグアの状況、司祭独身制、女性の教会における役割などの質問に答えられた。

 

*ニカラグアの現状は「残虐な独裁」

 ニカラグアでは、独裁体制の様相を強めるオルテガ大統領の下で、カトリック教会が絶え間ない攻撃にさらされ、政権を批判したアルバレス司教が懲役26年の刑に処せられるなど危機的状況が続いている。教皇はこの現状を「共産主義独裁政権やヒトラー独裁政権を持ち込んでいるような状態。これらは皆、残虐な独裁-アルゼンチンの言葉で言えば”guarangas (粗暴)”です」と強く批判された。

 また、政治的混乱と経済危機が続くベネズエラについて、体制が変わることへの希望を示された。

 

*アルゼンチン訪問の可能性

 母国アルゼンチン訪問の可能性については、 「訪問は、2017年12月に計画されていました。まず12月にチリに行き、翌年1月にアルゼンチンとウルグアイに行く計画でしたが、 その後、チリとペルーを訪問し、アルゼンチンとウルグアイは後で… ということになった。ですから、アルゼンチン訪問を拒むことはない。訪問の機会を待っています…私はアルゼンチンに行きたいのです」と語られた。

 

*ウクライナの和平実現は

 すでに1年を超えて続いているロシアのウクライナ軍事侵略については、「いくつかの国のリーダーたちが、(和平実現へ)動き、働いています」と期待を表明しつつ、和平の早期実現には慎重な見方を示した。

 

 

*「私たちはみな罪人です」

 同性愛者、離婚して再婚したカップル、教会での女性の役割、司祭の独身制についても、教皇は質問に答えられた。 同性愛者に対する教会の対応について聞かれた教皇は、福音書のイエスの例え話を引用され、「 すべての人。すべての人。すべての人を迎え入れる。婚宴に招かれた客が出席を断った時、主人は召使に『表の通りに出て、善い人にも、悪い人にも、老人にも、若者にも、子供たちにも、すべての人に来るように』と言いました。すべての人。教会はすべての人のためのものです。罪人たちの教会なのです」と述べられた。

 さらに、「私は、聖人たちの教会がどこにあるのか知らない。私たちは皆、罪人です」と語られ、教皇になられた2013年にリオデジャネイロを訪問された際に語られた言葉を繰り返された―「善意のある人を裁こうとする私は誰なのですか?その人が悪魔の一団の一人だとしたら、少しばかり彼を守りましょう。 しかし、今日、この問題にはとても注目が集まっています。 イエスはすべての人に呼びかけ、誰もが彼と神との関係を解決します。彼あるいは 彼女がそうできる、あるいは彼または彼女がそうしたい、そうしたいと思う時もあれば、そうできないときもありますが、主は常に待っていてくださるのです」と強調された。

 同様に、離婚して再婚したカップルに聖体の秘跡を授けること― 2014-15 年の家庭をテーマとした世界代表司教会議の中心課題だった―について、「司教の良心」を思い起こされ、カップルに「自分たちの司教のところに行き、 自分たちの状況を説明するように」と勧められた。

*「男性と女性は互いに補完し合うものだ」

 教会における女性の役割について、教皇は「教会で働く女性が増えている」という事実を強調され、「”男性優位主義”は悪いことであり、こうした傾向は歓迎すべきことです」と指摘。

 そして、 「時として、独身制が男性優位主義につながることもある。女性との接し方を知らない司祭には何かが欠けており、成熟していません。バチカンは非常に男性優位でしたが、それは”文化”の一部であり、誰のせいでもありません。これは常に行われてきましたが、 今、状況は変わりつつあります」とされ、 「女性には、男性と異なる時の感覚、待つ感覚、忍耐力があります。男性を軽視しているわけではない。男性と女性は、互いを補完せねばなりません」と強調された。

*ローマ・カトリック教会の司祭独身制は不変ではない、”修正”可能

 

 また、ローマ・カトリック教会における司祭の独身制について、教皇は、「これは当座の”処方箋”であり、司祭叙階のように不変のものではありません…  独身制は”規律”です」とされた。そして、 「それなら、”修正”は可能ですか?」との問いに、 「はい」と答えされた。

 

 

*教会内の分裂

 スペインのフリアン・ヘランツ枢機卿(92)の言葉を引用し、「『自身が協力した 6 人の教皇のうち、おそらくパウロ 6 世とフランシスコの 2 人と悪魔が協力し、教会を分裂させ、福音を広げるのを妨げてきた』と言う枢機卿がいますが」との質問者の問いには、「私には、それが真実かどうかは判断できません」とされたうえ、 「時には、悪い種類の抵抗があります。”良い抵抗”ではありません。なぜなら、私が良い計画を実行する場合、注意が払われ、議論されるのが、”良い抵抗”だからです。ここで言う”悪い抵抗”とは、裏切るために後戻りすることです。しかし、私は無警戒なのか、それとも耳を傾けないのか、どちらかです。教会にはそのようなことがある。教会の隅に、隠されています」と語られた。

 さらに、「私たちが分裂の瀬戸際に立たされたら、それは悪いことでしょう… 例えば、教皇大使を務めた非常に高名な米国人の司教。彼がカトリックかどうかは分かりません。そうかどうかの瀬戸際にいます。 抵抗はうまく扱われない。 教会では、最初から抵抗が存在したのです」とされ、「彼らが正面から私を批判するとき、私はそのことを感謝します。時として私はそれを好まないことがありますが、感謝しています」と述べられた。

 

 

*テレビなし!

 最後に、33 年前にカルメルの聖母に対してなされた「テレビを見ない」という誓いについて聞かれた教皇は、「 それは 1990 年 7 月 15 日のことでした。教会の人々と一緒にテレビを見ている時、心臓に良くないことが放送されました。テレビを見るのは、罪深いことではありませんが、心臓にいいことではない。 それで翌日、カルメルの聖母に捧げるミサで、『何の問題もなく、テレビを見るべきではない』と感じました。 それで、いくつか譲歩をする以外は、もう十分なのです」と答えられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2023年3月11日

◎教皇連続講話「使徒的熱意について」⑥「洗礼を受けた全員が教会の福音宣教の使命で独自の役割を果たしている」

Pope Francis holds weekly audiencePope Francis holds weekly audience 

(2023.3.8 Vatican Newes  Deborah Castellano Lubov)

 教皇フランシスコは8日、水曜恒例の一般謁見での説教で、「使徒的熱意につい」の連続講話をお続けになり、今回は「洗礼を受けた一人一人が、教会での立場や信仰教育のレベルに関係なく、教会の使命において独自の役割を果たしていること」を強調された。

 教皇は講話でまず、「教会の使命である福音宣教は、個人がばらばらに行うものではない。教会の使徒的信仰への共同の勤めです。しっかりと、どの世代にも伝えられねばなりません」と語られた。

 そして、「福音を広く伝えようとする熱意は、『キリスト教のメッセージを、歪曲したり、世俗的な興味や考え方におもねたりすることから守る』という教会の重要な役割と切り離すことはできないのです」と指摘。

 さらに教皇は、「第二バチカン公会議が公布した『教会の宣教活動に関する教令』は、すべての福音宣教が、父なる神の計り知れない愛に源を持ち、御子と聖霊の使命を通して世界に注がれ、教会の使命の中で救いの愛を地の果てまで広げていくもの、と述べています」とされ、「洗礼を受けたすべての人は、『宣教する弟子』として、キリストの自己犠牲的な愛に見倣うように、キリストの御言葉と和解の力が真実であることを創造的、説得力をもって証しをするように、求められているのです。個々の人のためだけでなく、私たち人間家族全体のためにです」と強調された。

 続けて、「『宣教する弟子』一人ひとりの使徒的熱意は非常に重要です。なぜなら、巡礼者であり宣教者である神の民には、能動的で受動的な主体が存在しないからです」とも語られた。

 また、教皇は、今日の世界における福音宣教についての使徒的勧告 「福音の喜び」の言葉を引用し、「教会での地位や信仰の指導レベルに関係なく、洗礼を受けた一人ひとりが福音宣教者です」(120項参照)とされ、「洗礼を受け、その結果として教会の一員となったすべての人は、教会の使命に参加し、王、司祭、預言者であるキリストの使命に参加するのです」と強調。

 その使命は、「状況に応じて異なる方法で実行される可能性があるとしても、どこでも、どのような状況でも使命そのものは変わることがない(「教会の宣教活動に関する教令」)。」”化石”化したり、感情を無くしたりしてはなりません。福音宣教の熱意は、信仰を宣言し、証しする新たな方法、福音と人々にご自身を捧げたキリストが引き受けられた傷ついた人に出会う、新たな方法を創造的に探究する力となるものです」と説かれた。

 さらに、「御父の愛と御子と聖霊の使命に立ち戻ることは、静的な個人的な静けさの空間に私たちを閉じ込めはしません。私たちが召されている『命の充満』という賜物―神を賛美し、感謝する賜物―が無償であることを認識するように、私たちを導きます」とさら、すべての信徒たちに、「私たちがいただいた賜物を、これまで以上に十分に生かし、他の人々と分かち合うように」と強く促されて講話を締めくくられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

 

2023年3月8日

☩「光り輝く神の愛の素晴らしさを分かち合おう」‐四旬節第二主日の正午の祈りで

 そして、この変容の素晴らしさに圧倒され、計り知れない喜びがもたらされたとき、畏怖と驚きがどのように弟子たちの心をを揺さぶったか、を思い起こされ、「この体験は、イエスが十字架につけられ、傷つけられた時に、無限の愛のこの素晴らしさを認識せねばならないー弟子たちにとって、その準備の一歩となりました」と説かれた。

 また、ペトロは、変容が長く続くように願ったが、イエスはそれをお許しにならなかった。教皇は、「なぜなら、そうすることで、変容が『魔法のような瞬間』あるいは『一時の感情』に帰されてしまうことを懸念されたからです」とされ、弟子たちのこの体験は、信仰、そして人生の現実と始めねばならない旅の基礎となるものを、彼らに教えることとなったのです」と語られた。

 そして、「キリストは、荒れ野にいる人々にとっての火柱のように、私たちの旅を導く光。イエスの素晴らしさは、弟子たちを現実の人生から引き離すのではなく、エルサレムに至る十字架への道をひたすら主に従った歩む力を、彼らに与えるのです」と強調された。

 さらに教皇は、福音が私たち自身の道をいかに描くのか、私たちの旅で、「イエスが語られ、私たちのためになさることすべてを理解することが難しいときでさえも」常にイエスに頼ることが、いかに重要なのか、説明された。

 「そうすることで、さまざまな仕方で私たちを気遣ってくれる家族、友人、同僚の顔の中に、神の素晴らしさを見ることも学ぶのです… いくつもの明るい顔、いくつもの笑顔、いくつもの皺、いくつもの涙と傷跡が、私たちを囲む愛を表しています。 そのことを認識し、心を満たすことを学びましょう。 そして、具体的な愛の行為を通じて、私たちが受けた光を他の人にも届けるために、旅に出ましょう!」と信徒たちに呼びかけられた。

 そして、「もっと真剣に、もっと進んで愛し、奉仕し、赦すことによって、日々の暮らしの中で、もっと広い心で人々に接するように」とすべての人に勧められ、「神がなさる驚くべきこと、その御顔を深く思うことは、兄弟姉妹への奉仕において私たちを動かし、鼓舞するに違いありません」と付け加えられた。

 また教皇は、「私たち自身の偶像の”偽りの人工的な光”よりも、私たち自身の暮らしの中にある”神の愛の光”を認識するためには、努力が必要です」とされたうえで、 「私たちを愛してくれる人々の中にその光を見ることによる喜びと感謝をもって、”神の愛の光”に目を見開くことで、それを始めることができるのです」と語られ、次の祈りで説教を締めくくられた。

 「ゴルゴダの丘の闇の中にあっても、御子の光を心に留めておられたマリアが、いつも私たちと共に愛の道を歩んでくださいますように」

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

「希望の旅が、死の旅にならないように」教皇、移民船転覆に

(2023.3.5 バチカン放送)

 教皇はまた、正午の祈りの中で、直前に発生したギリシャの鉄道事故とイタリア南部沿岸での移民船転覆事故の犠牲者らのための祈りを新たにされた。

 「ギリシャで起きた列車衝突事故の、多くの若者たちをはじめとする犠牲者たちを思わずにはいられません」と述べられた教皇は、犠牲者の冥福を祈り、遺族と負傷者に精神的な寄り添いを示された。また、イタリア南部クロトーネに近い、ステッカート・クトロ沿岸での移民船の難破・転覆事故の悲劇を思い起こさら、数多くの犠牲者と、その遺族たち、また助かった人々のために祈られた。

 教皇は、これらの兄弟姉妹たちに対する地元市民と行政当局の連帯と受け入れに感謝と敬意を表明するとともに、「このような悲劇が二度と繰り返されることがないよう、また、人身取引を行う者たちを止め、多くの無実の人々の命を思いのままに扱わせないように」と訴えられた。さらに、「希望の旅が、”死の旅”に二度とならないように」、「地中海の澄んだ水が、悲劇的事故によって血に染まることが二度とないように」と願われ、「主が私たちに、理解し、悲しむ力を与えてくださいますように」と祈られた。

2023年3月5日

☩「慈悲深い神の御言葉が、心の中で鳴り響くように」四旬節第一主日の正午の祈りで

Angelus in St. Peter's SquareAngelus in St. Peter’s Square  (Vatican Media)

(2023.2.26    Vatican News staff writer)

 四旬節の第一主日の26日、教皇フランシスコは正午の祈りの説教で、この日のミサで読まれたマタイ福音書の箇所(4章1-11節)を取り上げ、荒れ野でイエスが「分断者」である悪魔の誘惑をどのように打ち負かされたか、に注意を向けられ、「神の言葉」をもって「私たちの信仰の旅をいつも助けてくださる主に信頼を置くことで、罪の誘惑にどのように対応するか」についてお話になった。

 教皇はまず、「四旬節の最初の主日のミサで読まれる福音書の箇所は、イエスと私たち皆が、神への信頼と神の言葉の知識の助けを借りて、日々の暮らしの中で直面する誘惑との霊的な闘いを浮き彫りにしています」と語られた。

 そして、悪魔がどのようにイエスを誘惑し、父の絆を断ち切ろうとしているのかに注目されるとともに、イエスが誘惑を受ける直前に、ヨハネから洗礼を受け、父から「私の愛する子」と呼ばれ、聖霊が鳩の形で彼の上に降りてきたことを指摘され、「父と子と聖霊の3つの神格が愛で結ばれている」ことを強調。

 続けて教皇は、「イエスは、私たちがこの愛の結合に参加するのを助けるために、この世に来られましたが、これに対して悪魔は、この父と子と聖霊の愛の結合、その結合に私たちを参加させる使命から、イエスを引き離そうとするのです」と指摘された。

*執着、不信、権力の3つの「毒」に挑戦する

 具体的に、「悪魔がイエスの40日間の断食の後、空腹を覚えられたのを利用して3つの『毒』を投与し、イエスの『愛の結合』の使命を危険にさらそうとしました。その 『毒』とは、執着、不信、権力ですーそれは、食物に代表されるモノへの『執着』、神殿の最高点から身を投げ出すことでイエスに抱かせようする御父への『不信』。 そして、悪魔をひれ伏して拝むなら『全部与えよう』と誘った『権力』。このような危険な誘惑がいかに陰湿なものか」と語られた。

 そして「物質的なものへの執着、不信、権力への渇望は、悪魔が私たちを御父から引き離し、兄弟姉妹のように感じさせないようにするために利用する、どこにでも存在する危険な 3 つの誘惑です。 孤独と絶望に導くために、悪魔はイエスに誘いをかけたのです。私たちにも、それをしようとしているのです!」と忠告された。

*誘惑に打ち勝つ

 「イエスは、悪魔との議論を避け、神の言葉で答えることによって、3 つの誘惑を拒絶し、打ち負かします。旧約聖書の申命記では、モノからの自由(8章 3節参照)、信頼(6章16節 参照)、神への奉仕( 6章13節を参照)について語られています」と指摘された教皇は、「イエスは悪魔と対話しません。私たちも悪魔と口論をしてはなりません! 悪魔と交渉で打ち負かすのではなく、神の言葉で、信仰をもって、打ち負かすのです。イエスは私たちに、神との一致、そして私たちの間の一致を”分断者”の攻撃から守ることを教えているのです」と説かれた。

 そして説教の最後に教皇は、「神の言葉が私たち自身の人生をどのように導き、それが私たちの霊的闘争にどのように役立つかを熟考するように… そして、 繰り返される誘惑に対して、キリストの恵みを信頼と共に思い起こし、暗唱し、祈ること。神の言葉に助けを求めるべきです」と信徒たちに勧められた。

 「試してみましょう。私たちの心の中で、慈悲深い神の御言葉が鳴り響くように。そうすれば、私たちを誘惑から助けてくれるでしょう。 神の言葉を受け入れ、謙虚さをもって”分断者”を打ち負かした聖母マリアが、四旬節の霊的闘争の道を、私たちと共に歩んでくださるように」と締めくくられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2023年2月26日