◎教皇連続講話「使徒的熱意について」⑦「私たちは皆、使徒となるように呼ばれている」

Pope Francis at this Wednesday's General AudiencePope Francis at this Wednesday’s General Audience  (VATICAN MEDIA Divisione Foto)

(2023.3.15 Vatican News   Joseph Tulloch)

 教皇フランシスコは15日、水曜恒例の一般謁見で、「使徒的熱意」についての連続講話とお続けになり、「キリストは司祭、修道者、一般信徒、すべての人を『使徒』と呼ばれること」を強調された。

 教皇の講話は、新約聖書と第二バチカン公会議の文書からいくつかの箇所を引用して考察する形をとっておられ、それらは一つにまとまって、福音宣教への普遍的な呼びかけのビジョンを提供している。

 

*「使徒」とは何か?

 教皇は、この日の講話を「使徒」であることの意味から始められた。

 「使徒」という時、私たちはイエスによって選ばれた十二使徒の一団を思い浮かべます。時には、ある聖人や、あるいは一般的に司教たちを、「使徒」と呼ぶこともあるでしょう。しかし、私たちは「すべてのキリスト者が使徒である」と自覚しています。そして、私たちは使徒信条にもある「使徒的」教会において、「使徒」となるよう呼ばれているのです。

 

*「宣教に派遣された者」

 では、「使徒」とはどういうことを意味するのでしょうか―それは「宣教に派遣された者」ということです。復活されたキリストは、使徒たちを世界に派遣するにあたって、聖霊を与え、ご自身が御父から受けた権能を授けられました。

 これについてヨハネ福音書は次のように記しています。「イエスは重ねて言われた。『あなたがたに平和があるように。父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす』。そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい…』」(20章21-22節)と。

 

*「召し出し」

 「使徒」のもう一つの本質的な点は、「召命」、つまり「召し出し」です。主イエスが「これと思う人を呼び寄せられると、彼らは御もとに来た」(マルコ福音書3章13節)と福音書にあるように、使徒たちが形成される初めから召し出しがありました。イエスは弟子たちをグループにし、彼らを「使徒」と名付けられた。それは「彼らを自分のそばに置くため、また、宣教に遣わす」ためでした。(参照 マルコ福音書3章14節、マタイ福音書10章1-42節参照)。

 聖パウロは、信徒たちに送った手紙の中で、「神の御心によってキリスト・イエスの使徒として召されたパウロ」(コリントの信徒への手紙1・1章1節)、「キリスト・イエスの僕、使徒として召され、神の福音のために選び出されたパウロ」(ローマの信徒への手紙1章1節)と自己紹介をしています。また、パウロは、自身が「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、この方を死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされた」(ガラテヤの信徒への手紙1章1節)ことをも強調しています。

 12使徒の体験とパウロの証しは、「すべては神の無償の召命による」という動かせない観点から、自分たちの態度や選択を見つめ直すよう、今日の私たちに問いかけています。神は、時には私たちの能力や期待をはるかに超えた奉仕のために私たちを選ばれます。無償で受けた召命には、無償で応えなくてはなりません。

 第2バチカン公会議はこのように述べています―「キリスト者としての召し出しは、その本質上、使徒職への召し出しである」(「信徒使徒職に関する教令」2項)。そして、「各構成員の品位はキリストにおける再生によって共通、神の子らの恩恵も共通である」ように、その召し出しは共通である(「教会憲章」32項)。

*召し出しは、聖職者、修道者、信徒にも

 その召し出しは、聖職者に叙階された者、修道者、また信徒にも与えられます。「教会の中には様々な役職があるが、使命は一つである。使徒とその後継者は、主の名によって教え、聖化し、治める任務をキリストから受けた。しかし、キリストの司祭職、預言職、王職に与る者となった信徒もまた、教会と世間において、神の民全体の使命における自分の役割を果たすのである」(「信徒使徒職に関する教令」2項)。

 こうしたことを背景に、公会議は、教会の聖職位階制と信徒との協力関係をどのように捉えているのでしょうか。

 唯一の使命のもとに集うカリスマや役務の多様性が、教会の体の中に優越的な部分を設けることはありません。「ある人々はキリストの意志によって他の人々のための教師、秘儀の分配者、牧者に定められているが、キリストの体の建設に関しては、すべての信者に共通の尊厳と働きの真実の平等性がある」(「教会憲章」32項)からです。

*召命の生き方、使徒としてのありかたを考え直す

 この尊厳における平等の問題は、福音宣教において大切な役割を果たす私たちの関係の多くの面について、再考を促しています。たとえば、私たちの言葉が人の尊厳を傷つけ、その関係を壊していることに気づいているでしょうか。世界と対話する一方で、信者間の対話ができているでしょうか。他者の考えを理解するために耳を傾けているでしょうか。自分の考えを押し付けてはいないでしょうか。

 こうした問いを恐れてはなりません。これらの問いは、私たちキリスト者の召命の生き方、使徒的教会の中での使徒としてのあり方を、考え直すきっかけとなるものだからです。

 

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二=聖書の引用は「聖書協会・共同訳」による)

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2023年3月15日