そして、この変容の素晴らしさに圧倒され、計り知れない喜びがもたらされたとき、畏怖と驚きがどのように弟子たちの心をを揺さぶったか、を思い起こされ、「この体験は、イエスが十字架につけられ、傷つけられた時に、無限の愛のこの素晴らしさを認識せねばならないー弟子たちにとって、その準備の一歩となりました」と説かれた。
また、ペトロは、変容が長く続くように願ったが、イエスはそれをお許しにならなかった。教皇は、「なぜなら、そうすることで、変容が『魔法のような瞬間』あるいは『一時の感情』に帰されてしまうことを懸念されたからです」とされ、弟子たちのこの体験は、信仰、そして人生の現実と始めねばならない旅の基礎となるものを、彼らに教えることとなったのです」と語られた。
そして、「キリストは、荒れ野にいる人々にとっての火柱のように、私たちの旅を導く光。イエスの素晴らしさは、弟子たちを現実の人生から引き離すのではなく、エルサレムに至る十字架への道をひたすら主に従った歩む力を、彼らに与えるのです」と強調された。
さらに教皇は、福音が私たち自身の道をいかに描くのか、私たちの旅で、「イエスが語られ、私たちのためになさることすべてを理解することが難しいときでさえも」常にイエスに頼ることが、いかに重要なのか、説明された。
「そうすることで、さまざまな仕方で私たちを気遣ってくれる家族、友人、同僚の顔の中に、神の素晴らしさを見ることも学ぶのです… いくつもの明るい顔、いくつもの笑顔、いくつもの皺、いくつもの涙と傷跡が、私たちを囲む愛を表しています。 そのことを認識し、心を満たすことを学びましょう。 そして、具体的な愛の行為を通じて、私たちが受けた光を他の人にも届けるために、旅に出ましょう!」と信徒たちに呼びかけられた。
そして、「もっと真剣に、もっと進んで愛し、奉仕し、赦すことによって、日々の暮らしの中で、もっと広い心で人々に接するように」とすべての人に勧められ、「神がなさる驚くべきこと、その御顔を深く思うことは、兄弟姉妹への奉仕において私たちを動かし、鼓舞するに違いありません」と付け加えられた。
また教皇は、「私たち自身の偶像の”偽りの人工的な光”よりも、私たち自身の暮らしの中にある”神の愛の光”を認識するためには、努力が必要です」とされたうえで、 「私たちを愛してくれる人々の中にその光を見ることによる喜びと感謝をもって、”神の愛の光”に目を見開くことで、それを始めることができるのです」と語られ、次の祈りで説教を締めくくられた。
「ゴルゴダの丘の闇の中にあっても、御子の光を心に留めておられたマリアが、いつも私たちと共に愛の道を歩んでくださいますように」
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)