・「タグレ福音宣教省長官」は現教皇が就任して以来の最重要人事(LaCroix)

(2019.12.12 LaCroix  Robert Mickens)

   教皇フランシスコと彼のカトリック教会改革への努力の熱心な支持者なら、ルイス・アントニオ・タグレ枢機卿を、あなたの祈りのリストの筆頭に置くように。

 62歳のマニラ大司教は間もなく、教皇庁で最も重要かつ強力な役所の1つを担当する。そして、そこでのトップとしての任務は、彼にとって、これまでで間違いなく彼の最も困難なものであり、得られる限りの祈りを必要としているのだ。

 12月8日、教皇は1622年に “Propaganda Fide”として創設された福音宣教省の長官に、実際の歳より若く見えるタグレ枢機卿を任命した。彼は1月中旬に、73歳のイタリア人、フェルナンドフィロニ枢機卿ーバチカン外交官として長い経歴を持ち、2011年から長官を務めていたーの後任として長官のポストに就く。

 福音宣教省の長官は、よく「 Il Papa Rosso(赤い教皇)」と呼ばれる。それは、世界の全教会の教区の4分の1にあたる教区を管轄し、膨大な金融資産と不動産を管理・運営しているためだ。

 予想通り、タグレ枢機卿の長官選任は、バチカン・ウオッチャーの間に、多くの論議と憶測を呼んだ。ある者は、次期教皇となるのに必要な味付けと体力強化の機会を与えるために、彼をバチカンに呼んだのだ、とまで言い切った。この種の憶測は脇に置いておいて、この重要な人事の裏に、実際、何があるのか、バチカンと全世界の教会にとって、どのような意味を持つのか、一瞥してみよう。

 

*意表をついた新長官任命のタイミング

 この時期のタグレ新長官任命は誰もが予想していなかった。彼がローマでトップクラスの地位に就く道を走っている、という噂は出ていたが、その発表が日曜日にされるとは誰も予想していなかった。教皇による任命(または指名)が主日に発表されることは、ほとんどない。しかも、この日、8日は無原罪の聖マリアの祝日でもあった。

 毎年、この日は教皇が午後に、聖母像に花を捧げるためにローマの街中にお出かけになるのが恒例になっている。聖母像は、スペイン階段近くにある。その正面の大きな建物はジャン・ロレンツォ・ベルニーニ設計による福音宣教省のビル。タグレ新長官が指揮を執る本部だ。そして、教皇が、その場に到着する4時間前に、バチカン広報が、同省の長官、フィローニ枢機卿が転出し、教皇が後任にタグレ枢機卿を選んだことを発表したのだった。

 聖母像の前で、(長官の座を去ることになった)73歳のイタリア人は自信に満ちた表情で教皇を迎えたが、その笑顔の裏には、何がしかの苦痛、おそらくは憤りが隠されていたようだ。

 定年とされる75歳にはまだ2年を残して、聖墳墓騎士団(The Equestrian Order of the Holy Sepulchre of Jerusalem=教皇庁の保護の下に置かれた信徒の組織。会員らのキリスト教生活の実践を高め、主に聖地におけるカトリック教会の事業と組織を支え助けるのが目的。現在、世界のおよそ40カ国に約3万人の会員を擁する)の80歳になる団長、エドウィン・オブライエン枢機卿(元米ボルティモア大司教)の後を継がされることになったのだから。

 

*”裏切り行為”のイタリア人枢機卿を脇に追いやった?

 この時期の要人交替は、他の理由でも意外なことだった。教皇が現在注力されているバチカン改革が完了するまで、主要部署のトップを交替させることは無い、という見方で衆目一致していたからだ。大刷新がなされるだろうが、それは、バチカン改革を具体的に明示する使徒憲章の発出後。その時期は、来年6月29日との見方が一般的だが、聖ペトロの使徒座の祝日である2月22日となる見方もある。少なくとも、それまでは、75歳の定年を超える人物がトップである場合も含めて、大きな人事はない、と見られていた。

 では、なぜフィローニ長官を更迭することになったのだろうか。一つの理由は、日本の司教たちとのやりとりであった、と考えることができるかもしれない。フィローニ長官に関してよく知られているのは、自身が強力に支持している司祭・信徒の組織「ネオ・カテクメナート」の神学校を日本に開設する計画を、日本の司教たちが拒んだことをめぐって、日本で、彼らを前に熱弁をふるったことだ。

 この国でたった一人の司教が、フィローニ長官の希望を消極的ながら支持した。その人物が、多くの関係者が無念に思う中で、昨年、枢機卿に任じられた。彼の名は、大阪のトマス・前田万葉大司教だ。関係者の中には、教皇が間違った司教に”赤い帽子”を与えた、と本気で信じた者もいたーおそらく、まったく”うっかり”して、かも知れない、と。

 そうした見方の理由として考えられるのが、教皇が枢機卿会議で、新枢機卿任命を発表した際、彼のことを「トマス・アクィナス・マンヨウ」と呼んだことだ。「マンヨウ」が姓ではなく、名だということを、教皇がお忘れになっていたのか、それともご存じなかったのか。彼の姓が「前田」であることは、教皇庁年鑑をみれば簡単に分かることだし、駐バチカン日本大使に聞けば確認できたはずだ。

 前田枢機卿はスペン語もイタリア語も話さない。それで、教皇が彼と枢機卿会議の数か月前に一度だけ会った際、他の司教が二人の為に通訳をした。通訳者が、前田枢機卿の本当の人柄と神学や司牧についての考え方と合致しないような印象を教皇に与えたのではないか、と見る向きもある。確かなのは、浜尾枢機卿が2007年に亡くなって以来、空席となっていた日本の枢機卿に、フィローニ長官が前田大司教を任命するように教皇に強く進言していた、ということだ。

 そして、教皇フランシスコは、11月の日本への司牧訪問の間に、これらすべてについて、もっと学ばれたかも知れない。いずれにせよ、バチカン改革の完了を待たずにフィローニ長官更迭を決断させるような、何かが、教皇に起きたのだ。

 

*裏が表に、表が裏に

 フィローニ枢機卿は熟練の外交官であるだけでなく、熟練したバチカンのインサイダーだが、タグレ枢機卿はそのどちらでもない。

 フィローニはゆっくりと、そして徐々に、バチカン外交官としての階段を登ってきた。彼は勇敢にもイラク駐在の大使を務めた-当時、米英が主導する侵攻軍がその国を荒廃させはしたが。その後、彼は、前教皇ベネディクト16世のもとで、教皇庁国務省の内政担当副長官を務め、さらに福音宣教省長官のポストに就いていた。彼は、バチカンの組織を人並みに知り、それを守り、バチカンのお偉方が享受する特典を手にしている。常に教皇フランシスコへの忠誠を示してきたが、教会についての見方は、保守的だ。

 これに対して、タグレ枢機卿は神学者であり司牧者だ。学問の分野とバチカンの位階制度の中で急成長している。アメリカ・カトリック大学(1889年にワシントン D.C.に設立された米国のカトリック教育の最高機関)で、著名な神学者であり英語版「第二バチカン公会議の歴史」編集者のジョセフ・コモンチャク教授の指導の下で、博士号を取得した。故ジュゼッペ・アルベリゴが指導した「ボローニャ学派」がイタリア語で編纂した5巻シリーズの1章を彼が任されたのも、コモンチャク教授を通してだった。

 ボローニャ派は、「第二バチカン公会議を、それ以前の教会の教えと伝統を決別するもの、ととらえている」として、しばしば誤った批判をされてきた。だが、この派の業績への貢献者であることは、タグレ枢機卿に対する関係者の評価を損なうものではない。ヨゼフ・ラッツインガ―枢機卿(前教皇ベネディクト16世、当時は教理省長官)は、彼をバチカンが後援する国際神学委員会の会員に指名、当時の教皇ヨハネ・パウロ二世は彼をフィリピンの故郷の教区の司教にした。そして、教皇ベネディクト16世は、彼をマニラ大司教にし、その最後の枢機卿会議で、枢機卿に任命した。

  だが、ルイス・アントニオ・ゴキム・タグル(ゴキムは彼の母親の中国の姓)が、今は引退した教皇とだけ良い関係にあったわけではない。すくなくとも一般の信徒からは、常に時々の教皇と良好な関係を維持している、と見られている。そして、今回の福音宣教省の長官任命は、そうした見方を支持しているように思われる。 タグレ新長官は、この役所を率いる二人目のアジア人だ。一人目はインドのアイヴァン・ディアス枢機卿だった。彼はまた、フィリピン人として、聖職者省の長官を務めたホセ・サンチェス枢機卿に次ぐ、バチカンの役所の長となる。サンチェス枢機卿は2012年3月、タグレが枢機卿になる前に亡くなったが、聖職者省の前に福音宣教省で次官を務めていた。

*二人の”よそ者”がバチカンの財務金融を握る重要ポストに就いた

 チトー枢機卿ータグレはそう呼ばれるのを好むーは、この一か月足らずの間にバチカンの統治機構に組み入れられた二人目の”よそ者”だ。1人目は、11月14日に財務事務局長官に任命された60歳のイエズス会士、フアン・アントニオ・ゲレロ・アルベス神父だ。初代長官はオーストラリアのジョージ・ペル枢機枢機卿だったが、未成年に対する性的虐待で逮捕、有罪判決を受けて退任し、長官ポストは空席になっていた。

 ゲレロとタグレのそれぞれの長官任命にはつながりがある。 一つは、聖座のすべての金融関係機関を監督する役割を持つこと。もう一つは、これらの機関の他よりも有利なもののひとつの長だ、ということだ。そして、二人とも、財務・金融管理の手法として透明性と説明責任の強化を図ろうとするなら、強烈な抵抗に遭うことになるだろう。

 教皇がタグレ枢機卿を福音宣教省長官に任命した他の理由として、一部の評論家は、バチカンと中国の関係をさらに深め、北京を訪れたい、という教皇の強い願望を挙げる。

 それは、タグレの母方の祖父が中国からの移民だっただけでなく、彼が​中国と関係を深めようとするバチカンの戦略を全面的に支持している、と見られているためだ。フィローニ長官は、そうした戦略を公けに批判することはなかったが、支持する言葉はとても少ないことが知られていた。

 もっとも、タグレが教皇の最も価値ある役者であることが証明されるのは、金融分野での働きだろう。福音宣教省は、現代にいたるまで、広大な(注:”領地”をもつ)”帝国”であり、他のバチカンの機関からほぼ完全に独立して金融資産と不動産を管理・運用してきた。

 二人の”よそ者”-タグレ枢機卿とゲレロ神父ーはバチカンの金融分野で変化をもたらす可能性がある。だが、それは、最重要の”よそ者”である教皇フランシスコが彼らの後ろ盾になる必要があることを意味する。そのためには、恐らく、彼らに加えるためにバチカンに新たな外部の力を持ち込むことが求められるだろう。

 昨年10月のアマゾン地域シノドスで本格的に始まった「教皇フランシスコの治世の第二段階」は、さらなる、さらに大きなサプライズをもたらしそうだ。

 最近よく使われている言い回しで表現すれば…「こんなのはまだ序の口さ !」

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

(注:LA CROIX internationalは、1883年に創刊された世界的に権威のある独立系のカトリック日刊紙LA CROIXのオンライン版。急激に変化する世界と教会の動きを適切な報道と解説で追い続けていることに定評があります。「カトリック・あい」は翻訳・転載の許可を得て、逐次、掲載していきます。原文はhttps://international.la-croix.comでご覧になれます。

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2019年12月16日

・教皇、福音宣教省の新長官にマニラ大司教タグレ枢機卿を任命

(2019.12.9 カトリック・あい)

 教皇フランシスコは8日、福音宣教省の新長官に、マニラ大司教のルイス・アントニオ・タグレ枢機卿を任命された。前任のフェルナンド・フィローニ枢機卿が、エドウィン・フレデリック・オブライエン枢機卿の聖墳墓騎士団団長引退に伴い、その後任に回ることによる。  

 タグレ司教は1957年生まれの62歳。アジアにおける有数の神学者として知られ、国際神学委員会のメンバーでもあった。2011年にフィリピンのイムス教区の司教からマニラ大司教区の大司教となり、その後、2012年に教皇ベネディクト16世から枢機卿に任命され、国際カリタスの代表も務め、その人柄と指導力で「アジアから教皇が選ばれるならタグレ枢機卿」と国際的な評価も高い。日本の高位聖職者の中では、東京の菊地功大司教がカリタス・アジアの代表を務めていたこともあり、カリタスの活動などを通じて親しい関係にある。

 福音宣教省は、日本を含めた非カトリック国における宣教と福音化、それにともなう教会の活動を司る部署で、対象国の高位聖職者の人事などにも強い影響力と権限を持つ。

 だが、同省が昨年夏、日本の司教団との事前協議なしに「新求道共同体の道(ネオカテクーメナート)」の司祭養成の神学院の東京設置を一方的に通告したことから、日本の司教団の間に大きな物議を醸し、日本側関係者の教皇への事実上の直訴もあって、今年になって計画を撤回、神学院はマカオに開設することになった。だが、フィローニ長官がネオカテクーメナートのメンバーであることもあり、同省と日本との関係もぎくしゃくし、人事などにも影響が出ていた。

 日本と関係が深く、個人的に親しい関係を持つ高位聖職者もいることから、関係は好転、一部に停滞している高位聖職者人事なども円滑に進むことが期待されている。

 もうひとつは対中国関係だ。

 福音宣教省は、中国のカトリック教会を監督する立場にもあるが、バチカン内部に中国寄りの動きが顕著にみられる中で、フィローニ長官は今年2月にバチカンの日刊紙『オッセルヴァ―トレ・ロマーノ』のインタビューに答え、昨年秋のバチカンと中国政府の暫定合意に関連して、「この合意による(中国政府・共産党の統制を拒否する)地下教会と(統制下にある)中国天主教愛国協会の間に勝ち負けは存在しない」「合意が(中国政府・共産党によって)不当に利用され、現地の信者が、中国天主教愛国協会への参加など、中国の法律でさえ要求していない行為を強要されている現地の状況について見聞きしなくても済むようになって欲しいものです」と現在の中国政府・共産党の地下教会弾圧に批判的な立場を明確にしていた。

 中国では習近平政権の下で、新疆ウイグル自治区でイスラム教徒に対する弾圧を強め、カトリック地下教会に限らず、様々な宗教への圧力も顕著になっている。こうした状況の中で、タグレ新長官が対中国関係でどのようなスタンスをとるのか、特に昨年9月以来、”暫定”のまま一年以上も据え置かれているバチカン・中国合意の扱いにどのような対応を示すのか、注目される。

2019年12月9日

・聖職者による性的虐待隠ぺいで、司教が米国で3人目の辞任(Crux)

(2019.12.4 Crux  national correspondent Christopher White)

 教皇フランシスコは4日、米ニューヨーク州のバッファロー教区長、リチャード・マローン司教の辞表を受理した。バチカン広報が発表したもので、後任の教区長が決まるまでアルバニー教区長のエドワードシャーフェンバーガー司教が教区管理者となる。

 マローンは、これまで一年にわたって、未成年性的虐待が疑われていた司祭たちを故意に隠ぺいしたとの訴えを受けていた。疑いのある司祭たちの1人、退職司祭のノーバートF.オルソリット神父は、自分が1970年代から80年代にかけて「おそらく数十人」の10代の少年を虐待したことを認めた。それをきっかけに、司教の隠ぺいについての調べが始まり、教区内の司祭、神学生、一般信徒から辞任を求める声が上がっていたが、司教はそれに抵抗を続けていた。

 彼は、11月に、ニューヨーク州の司教団の一員として、バチカンで教皇フランシスコおよび教皇庁の幹部たちとの定期協議に参加、同月12日には「城壁外の聖パウロ大聖堂」でミサを捧げ、その際の説教で教皇の言葉を引用して、「私たちを取り巻く悪や暴力、時には非常に多くの兄弟姉妹の苦悩によって混乱を感じることがありますが、私たちには希望が必要です!」と語っていた。

 帰国後、彼は「教皇が自分と教区の両方が直面している困難な状況を認識しておられる」との声明を発表し、「教皇は私に個人的に語られました。ここバッファローで私たちが経験している困難と苦痛を理解されているのは明白でした。教皇はとてもよく理解され、親切でした」と述べていた。

 ブルックリンのニコラス・ディマルツィオ司教はこれより先の10月から、マローンによる虐待事件への対応について1年以上調べた後、現地バッファロー教区へ頻繁に赴き、バチカンに報告するために約80人の教区司祭たちと一般信徒から事情聴取をしていた。

 バッファロー教区内の問題が発覚したのは、マローンの前秘書が昨年、司教が問題司祭が司祭職を続けるのを認め、性的虐待問題に積極的に関わっていた、として、数百ページにわたる教区報告書の内容を明らかにしたことによる。

 マローンは、今年初めに地元バッファローの放送局とのインタビューで、ニューヨーク州での聖職者性的虐待の見直し措置が発効して以来、バッファロー教区は138件の訴訟を性的虐待被害者から起こされているとしていたが、司教の顧問団によると、訴訟は250-275件に上っており、(注:損害賠償負担が多額に上る恐れがあるため)教区として破産を申し立てるかどうか、「非常に深刻」な検討をしている、という。

 米国では過去一年の間に、聖職者による性的虐待問題で責任を取って辞任に追い込まれた司教はマローンで3人になる。1人目は、金銭問題と性的虐待への対処で不適切な行為があったとして訴えられたウェストバージニア州のマイケル・ブランズフィールド司教。2人目は、ワシントンDC大司教区長のドナルド・ワール枢機卿で、 1980年代にピッツバーグ教区長をしていた時に性的虐待について不適切な対応をした責任を問われた。ただし、この二人はともに年齢が司教定年の75歳を超えているが、マローンは73歳だ。

 米国のカトリック教会は昨年、テオドール・マカリック元枢機卿の問題で、いったん収束するかに聖職者による性的虐待スキャンダルにまた火がついていた。かつて米国教会の最も著名な指導者の1人とされていたマカリックは、未成年者と神学生の両方を虐待したとして非難され、昨年2月、教皇フランシスは稀にみる厳しい判断を下した。

 さらに昨年5月、バチカンは、聖職者の性的虐待、あるいは隠蔽について、司教が報告する際の基準と手順を義務付ける新しい規範を導入し、米国の司教たちは昨年6月にこれらの規範を採択。この夏までに全国的な第三者報告システムを作り上げることとした。

 バッファロー教区長となる前に、マローンは2001年から2004年までバーナード・ロー枢機卿の下で、ボストン大司教区の補助司教を務め、2012年にメイン州ポートランド教区長となっていた。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

 ・・Cruxは、カトリック専門のニュース、分析、評論を網羅する米国のインターネット・メディアです。 2014年9月に米国の主要日刊紙の一つである「ボストン・グローブ」 (欧米を中心にした聖職者による幼児性的虐待事件摘発のきっかけとなった世界的なスクープで有名。映画化され、日本でも昨年、全国上映された)の報道活動の一環として創刊されました。現在は、米国に本拠を置くカトリック団体とパートナーシップを組み、多くのカトリック関係団体、機関、個人の支援を受けて、バチカンを含め,どこからも干渉を受けない、独立系カトリック・メディアとして世界的に高い評価を受けています。「カトリック・あい」は、カトリック専門の非営利メディアとして、Cruxが発信するニュース、分析、評論の日本語への翻訳、転載について了解を得て、掲載しています。

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2019年12月7日

・バチカン改革また先送りに-使徒憲章、来年2月の枢機卿顧問会議に持ち越し

(2019.12.6 カトリック・あい)

 バチカン広報が4日発表したコミュニケによると、教皇の諮問会議である枢機卿顧問会議が今年最後の定例協議を終えた。協議には、ピエトロ・パロリン国務長官、オスカー・ロドリゲス・マラディアガ枢機卿、ラインハルト・マルクス枢機卿、セアン・パトリック・オマリー枢機卿らが出席。教皇フランシスコも4日の水曜一般謁見の時間を除いて出席された。

 同顧問会議は、今春からバチカン改革や教会における信徒の役割強化などをテーマとする使徒憲章草案の取りまとめを続けてきたが、今回の協議でも「さらにいくつかの提案が寄せられてきた」ことから、2020年の2月の新年初協議に結論を先送りした。

2019年12月6日

・バチカンの聖ペトロ広場に今年もモミノキのツリーとプレゼピオを設置

 クリスマスを準備する「待降節」の訪れと共に、今年もバチカンの聖ペトロ広場に5日、ツリーとプレゼピオが設置され、ツリーの点灯とプレゼピオの除幕が行われた。

 聖ペトロ広場では夕方から、ツリーの点灯式と、プレゼピオの除幕式が行われ、式中、バチカン市国関係者、北イタリアの自治体首長たちの挨拶に交え、旗投げや、コーラス、楽隊演奏などが披露された。プレゼピオの除幕と共に、子どもたちによって馬小屋、続いてツリーの点灯が行われ、参加者たちは、輝くツリーと馬小屋のもとで、クリスマスの精神性を語る教会関係者の言葉や、合唱団の清らかなコーラスに耳を傾けていた。

 今年のクリスマス・ツリーは、イタリア北部ヴェネト州ヴィチェンツァ県ロトツォから寄贈されたオウシュウトウヒ。この秋、北イタリアは悪天候に見舞われ、ロトツォの森林も大きな被害を受けた。このツリーを伐採した場所には、森の再生のために40本のトウヒの苗が植えられるという。

 ツリーはバチカン市国の職員の手によって装飾がほどこされ、イルミネーションには、環境に配慮した低消費電力タイプの電球が用いられている。

 一方、広場のオベリスクの隣に造られた大型のプレゼピオ(イエスの降誕の場面を再現した馬小屋の模型)は、北イタリア、トレンティーノ=アルト・アディジェ州トレント自治県スクレッレの人々によって製作された。今年のプレゼピオの特徴は、その大部分に木材を使用し、特に馬小屋の屋根に「スカンドレ」と呼ばれる伝統の板葺が用いられていること、また、聖家族を取り巻くように、素朴な山の暮らしの風景が展開されていること。

 広場のプレゼピオに加え、パウロ6世謁見ホールにも、プレゼピオが飾られた。このプレゼピオは、イタリア・ヴェネト州トレヴィーゾ県コネリアーノのグループによって造られた。ブロックを積み上げた、ゴシック型のアーチの中に、イエスの降誕が再現されている。

 ロトツォ、スクレッレ、コネリアーノの関係者、およそ600人は、12月5日、バチカンのパウロ6世ホールで、教皇との出会いを持った。教皇はクリスマスのシンボルであるこれらの贈り物に心からの感謝を表され、また、先日の暴風雨により深刻な被害を受けたイタリア北部にお見舞いの言葉を述べると共に、すべての人々に平和と兄弟愛に満ちたクリスマスを祈られた。

(編集「カトリック・あい」)

2019年12月6日

・「『機会の窓』を閉じないように」-教皇がCOP25にメッセージ

(2019.12.4 Vatican News)

 第25回国連気候変動枠組み条約締約国会議(COP25)が2日、スペインの首都マドリードで開幕したが、教皇フランシスコは会議開幕に当たって、出席したバチカンのピエトロ・パロリン国務長官を通じて、メッセージを送られた。

 この会議は、温暖化対策の国際ルール「パリ協定」の本格実施を来年に控え、各国が温室効果ガスの削減目標の引き上げや、新たな排出抑制策を打ち出す機運が高まるか、パリ協定の運用の具体的な仕組みづくりで合意できるか、が焦点となっている。

(以下翻訳中)

Pope Francis begins by referring to the December 2015 Climate Conference and its adoption of the Paris agreement to “work together in building our common home”.

Sadly, writes the Pope, after four years, studies show that “the current commitments made by States to mitigate and adapt to climate change are far from those actually needed to achieve the goals set by the Paris Agreement”.

Words and actions

“They demonstrate how far words are from concrete actions”, writes Pope Francis. While recognizing the growing agreement “on the need to promote processes of transition”, to encourage solidarity, and reinforce the links between climate change and poverty, the Pope says there is “much concern about the ability of these processes to respect the timeline required by science”.

Political will

Pope Francis asks if there is “the political will to allocate with honesty, responsibility and courage, more human, financial and technical resources to mitigate the negative effects of climate change”. The Pope confirms the need for a “clear, far-sighted and strong political will”, and calls us “to reflect conscientiously on the significance of our consumption and production models and on the processes of education and awareness to make them consistent with human dignity.”

Challenge of civilization

In his message, Pope Francis says we are facing a “challenge of civilization” in favour of “the common good and of a change of perspective that places this same dignity at the centre of our action, which is clearly expressed in the “human face” of climate emergencies.” The Pope confirms that there remains a “window of opportunity, but we must not allow it to close”.

Young people

Pope Francis speaks of how young people today “show a heightened sensitivity to the complex problems that arise from this emergency.” We must not place the burden on the next generations to take on the problems caused by the previous ones, he writes.

The Pope concludes wishing we may offer the next generation “concrete reasons to hope and work for a good and dignified future!”

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

2019年12月4日

・教皇フランシスコ、プレゼピオの意味と価値についての使徒的書簡を発出(公式英語版・私訳日本語版全文付き)

A nativity scene in the Hermitage of Greccio Sanctuary 

 

(2019.12.1 Vatican News)

 キリストの降誕を準備する待降節を迎え、教皇フランシスコは1日、プレゼピオ(イエスの降誕の場面を再現した馬小屋の模型)の発祥の地とされるイタリア中部グレッチョを訪問され、洞窟の祭壇で、プレゼピオの意味と価値についての書簡に署名された。書簡の主な内容は次の通り。

魅惑的なイメージ

 書簡のタイトルは、プレゼピオの「喜びに満ちた姿」。「決して驚きと不思議をもたらすことが止まることはありません…イエスの誕生の表現そのものが、神の子の受肉の神秘の単純で喜びに満ちた宣言です」と教皇は述べられている。

生ける福音

「キリスト降誕の場面は、聖書のページから沸き起こる生きた福音のようなもの… クリスマスの物語について深く思いめぐらすことは、すべての男女に出会うために人となられた神の謙遜によって描かれた霊的な旅に出発することです。キリストは私たちのうちの1人です。そして、私たちもキリストと共にある1人になるのです」。

家庭の伝統を大切に

 教皇は、キリスト降誕の場面であるプレゼピオを準備する家庭の伝統を大切にするよう希望している。職場、学校、病院、刑務所、町の広場にそれを設置する習慣も。「これらの小さなものにかかる想像力と創造性を賞賛してください… そして、使われなくなった場所で、再発見して復活させることができるように」。

プレゼピオの起源

 そしてプレゼピオの起源に福音との関連でお触れになり、 「この世界においでになった時、神の子は動物が餌を食べる場所に置かれました。このキリスト降誕の場面は、イエスの人生の多くの謎を思い起こさせ、私たち自身の日常生活に近づけます」。

グレッチョの聖フランシスコとプレゼピオ

 教皇はまた、聖フランシスコが訪れた1223年のグレッチョを思い起こされ、「そこで聖フランシスコが目にした洞窟は、ベツレヘムの田舎を思い出させた。 12月25日、修道士たちと地元の人々が集まり、花とたいまつを持って来ました… フランシスコが到着すると、干し草、牛、ロバでいっぱいの飼い葉おけを目にしました… ある司祭が飼い葉おけで聖体を祝い、神の子の受肉と聖体の絆を示しました」、そして「これが私たちの伝統の始まりです… 誰もが洞窟の周りに喜びで集まり、過去の出来事とその謎を分かち合う人々の間には距離がありません… イエスの教えは今日も続けられています… 私たちの信仰の美しさを描写するための簡潔でありながら本物の手段を提供するために」と説かれている。

 

神の優しい愛のしるし

 さらに、プレゼピオは「神の優しい愛を示しており、私たちをとても深く感動させます」とされ、フランシスコ会の修道士たちがこれを作った時から、「キリスト降誕の場面は、神の御子がこの世にお生まれになった時に引き受けられた『貧しさ』を、私たちが触れ、感じるように招いています… イエスに会い、最も助けを必要としている私たちの兄弟姉妹の人たちに慈しみを示すことによってイエスに仕えるように、私たちを招いています」と語られた。

プレゼピオを構成する要素の意味は

 教皇はまた、キリスト降誕の場面を構成する要素の背後にある意味を熟考する。まず、その背景にある「夜の暗闇と沈黙に包まれた星空」について、「私たちが夜の暗闇を経験した時、それでも神は私たちをお捨てになりません… 暗闇がある所に光をもたらし、苦しみの影に住む人々への道を示されます」。

 さらに、プレゼピオを囲むように設定されることの多い古代遺跡や建物を含む風景について、「廃墟は、堕落した人間、廃墟、腐敗、失望に必然的に陥る全ての目に見えるしるし」であり、その場面設定は、「イエスが、この世と私たちの生活を癒し、再建し、創造された時の素晴らしさを取り戻すために来られた」ことを物語っている、とされた。

 幼子イエスのもとにやって来た羊飼いには、「忙しくしている多くの人たちではなく、羊飼いが、すべてのうち最も重要なもの、すなわち救いの賜物の最初の目撃者となります… 神が人としてお生まれになった出来事を迎えたのは、謙虚で貧しい人でした」と説明し、「羊飼いたちが、愛、喜び、そして畏怖をもってイエスに出会うことで、『私たちの所に幼子イエスの姿で会いに来られる神』に応えるのです」と付け加えた。

 

貧しい人と身分の低い人

 貧しい人、身分の低い人の存在は、「神の愛を最も必要と感じている人、近くに来てくださいと神に願う人のために、神が人となられたことを、思い起こさせます」とされ、(幼子イエスが置かれた)飼い葉おけから「イエスは、控えめだが力強いなさり方で、誰も排除されず、軽視されない、人間的で友愛に満ちた世界に至る道として貧しい人たちを分かち合うことの必要性を宣言しておられるのです」と強調された。

 それから、福音書の記述とは明らかに関係のない人物たちを取り上げ、「羊飼いから鍛冶屋、パン屋から音楽家、水差しを運ぶ女性から遊びの子供たちにいたるまで… すべてが、日常の神聖さ、通常ではない仕方で普通のことをする喜び」について語っている。

 

 

母マリアと父ヨゼフ

 さらに、イエスの母マリアと父ヨゼフについて言及され、まずマリアについては「ご自分の子を自分だけの者とせず、全ての訪問客に魅せられました… その姿に、私たちは、「息子を自分だけのものにせず、彼の言葉に従い、実践するように」全ての人を招かれる神の母を見るのです」とされ、聖ヨゼフは「彼女の側に立って、幼子と母を守る… 神の意思に自分を常に委ねる保護者、正義の人です」と説かれた。

 

幼子イエス

 そして、「私たちが飼い葉おけに幼子イエスの像を置く時、キリスト降誕の場面がよみがえります… それは不可能に思えますが、真実です。イエスにおいて、神は幼児であり、このような仕方で、神はご自分の愛の偉大さを表したいと思われたのです。笑顔で腕を広げて、です」と語られ、「プレゼピオは、歴史の流れを変えた独創的で比類のないこの出来事に私たちを見させ、触れさせ… また、私たちの命がどのようにして神の命の一部であるのかについて熟考させるのです」とされた。

 

東方の三博士

 ご公現の祝日が近づいてくると、”馬小屋”には3人の東方の博士たちが加わる。「彼らの存在は、福音宣教という全てのキリスト教徒に課せられた責任を思い起こさせます… 彼らは、非常に長い道のりをキリストに会いに来ることができる、と教えてくれます」。そして、家に帰る道すがら、このメシアとの素晴らしい出会いを人々に伝え、「そうして、国々への福音を広げることを始めます」と教皇は語られた。

 

信仰を伝える

 さらにまた、私たちが子供の頃に”馬小屋”の前に立った体験は「同じ体験を子供たちや孫たちと分かち合う義務が、私たちにあること」を思い起こさせるはずだ、とされ、重要なのは、キリスト降誕の場面をどのように作るか、ではなく、「私たちの生活に語りかけること」と述べられた。

 そして、教皇は、クリスマスのプレゼピオは「信仰を伝えていく、という価値のある、だが過酷な過程の一部であり… 幼少期に始まり、私たちの人生のあらゆる段階で、イエスを熟考し、私たちへの神の愛を体験し、神が私たちと共におられ、私たちが彼と共にいることを感じ、信じることを教えてくれるのです」と結論付けられた。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

 

【公式発表の使徒的書簡英語全文】

Admirable signum OF THE HOLY FATHER FRANCESCO ON THE MEANING AND THE VALUE OF THE CRIB

1. The admirable sign of the manger, so dear to the Christian people, always arouses astonishment and wonder. Representing the event of Jesus’ birth is equivalent to announcing the mystery of the Incarnation of the Son of God with simplicity and joy. The crib, in fact, is like a living Gospel, which overflows from the pages of Sacred Scripture. While we contemplate the Christmas scene, we are invited to set out spiritually on the way, attracted by the humility of the One who became man to meet every man. And we discover that he loves us so much that he joins us, so that we too can unite with him.

With this letter I would like to support the beautiful tradition of our families, who prepare the crib in the days before Christmas. As well as the custom of setting it up in workplaces, schools, hospitals, prisons, squares … It is truly an exercise in creative imagination, which uses the most disparate materials to create small masterpieces of beauty. One learns as a child: when father and mother, together with their grandparents, transmit this joyful habit, which embodies a rich popular spirituality. I hope that this practice never fails; indeed, I hope that, where it has fallen into disuse, it can be rediscovered and revitalized.

2. The origin of the manger is reflected first of all in some evangelical details of the birth of Jesus in Bethlehem. The Evangelist Luke simply says that Mary “gave birth to her firstborn son, wrapped him in swaddling clothes and placed him in a manger, because there was no place for them in the house” (2,7). Jesus is placed in a manger, which in Latin is called praesepium , from which the manger .

Entering this world, the Son of God finds a place where animals go to eat. Hay becomes the first bed for Him who will reveal himself as “the bread which came down from heaven” ( Jn 6:41). A symbolism that St. Augustine, together with other Fathers, had grasped when he wrote: “Lying in a manger, he became our food” ( Serm . 189.4). In reality, the crib contains different mysteries of the life of Jesus and makes them feel close to our daily life.

But we immediately come to the origin of the crib as we understand it. We go with the mind to Greccio, in the Reatina Valley, where St. Francis stopped coming probably from Rome, where on November 29, 1223 he had received confirmation of his Rule from Pope Honorius III. After his trip to the Holy Land, those caves reminded him in a special way of the landscape of Bethlehem. And it is possible that the Poverello had been struck, in Rome, in the Basilica of Santa Maria Maggiore, by the mosaics with the representation of the birth of Jesus, right next to the place where, according to an ancient tradition, the tables of the manger were preserved.

The Franciscan Sources tell in detail what happened in Greccio. Fifteen days before Christmas, Francis called a local man, named John, and asked him to help him in making a wish: “I would like to represent the Child born in Bethlehem, and somehow see with the eyes of the body the hardships in which was found for the lack of things necessary for a newborn, as he was laid in a crib and as he lay on the hay between the ox and the donkey ». [1]As soon as he listened to it, his faithful friend immediately went to set up everything he needed in the place designated, according to the Saint’s desire. On December 25, many friars came to Greccio from various parts and men and women also arrived from the farmhouses in the area, bringing flowers and torches to light up that holy night. When Francesco arrived, he found the crib with the hay, the ox and the donkey. The people who took notice showed an unspeakable joy, never tasted before, before the Christmas scene. Then the priest, on the manger, solemnly celebrated the Eucharist, showing the link between the Incarnation of the Son of God and the Eucharist. On that occasion, in Greccio, there were no figurines: the crib was created and lived by those who were present. [2]

This is how our tradition is born: all around the cave and filled with joy, without any distance between the event that takes place and those who become participants of the mystery.

The first biographer of St. Francis, Tommaso da Celano, remembers that that night, the gift of a marvelous vision was added to the simple and touching scene: one of those present saw Jesus Bambino himself lying in the manger. From that Christmas crib 1223, “everyone returned to his home full of ineffable joy”. [3]

3. Saint Francis, with the simplicity of that sign, carried out a great work of evangelization. His teaching has penetrated into the hearts of Christians and remains up to our days as a genuine form to reproduce the beauty of our faith with simplicity. On the other hand, the very place where the first crib was made expresses and evokes these feelings. Greccio becomes a refuge for the soul that hides on the rock to allow itself to be enveloped in silence.

Why does the crib inspire astonishment and move us? First of all because it manifests God’s tenderness. He, the Creator of the universe, lowers to our smallness. The gift of life, already mysterious for us every time, fascinates us even more, seeing that He who was born of Mary is the source and support of every life. In Jesus, the Father gave us a brother who comes to look for us when we are disoriented and we lose direction; a faithful friend who is always close to us; he gave us his Son who forgives us and raises us from sin.

Composing the crib in our homes helps us to relive the story that was lived in Bethlehem. Of course, the Gospels always remain the source that allows one to know and meditate on that Event; however, its representation in the crib helps to imagine the scenes, stimulates the affections, invites us to feel involved in the history of salvation, contemporaries of the event that is alive and current in the most diverse historical and cultural contexts.

In a particular way, since the Franciscan origin the crib is an invitation to “feel”, to “touch” the poverty that the Son of God chose for himself in his Incarnation. And so, implicitly, it is a call to follow him on the path of humility, poverty, despoilment, which leads from the manger of Bethlehem to the Cross. It is a call to meet him and serve him with mercy in his neediest brothers and sisters (see Mt 25 : 31-46).

4. I now like to review the various signs of the crib to grasp the meaning they carry within them. First, we represent the context of the starry sky in the dark and the silence of the night. It is not only in fidelity to the evangelical tales that we do it this way, but also for the meaning it has. Think of how many times the night surrounds our lives. Well, even in those moments, God does not leave us alone, but makes himself present to answer the decisive questions concerning the meaning of our existence: who am I? Where do I come from? Why was I born at this time? Why do I love? Why am I suffering? Why will I die? To answer these questions, God became man. His closeness brings light where there is darkness and enlightens those who cross the darkness of suffering (see Lk 1.79).

The landscapes that are part of the crib also deserve a word and often represent the ruins of ancient houses and buildings, which in some cases replace the Bethlehem cave and become the home of the Holy Family. These ruins seem to be inspired by the Legenda Aurea of the Dominican Jacopo da Varazze (XIII century), where we read of a pagan belief that the temple of Peace in Rome would collapse when a Virgin gave birth. Those ruins are above all the visible sign of fallen humanity, of everything that is in ruins, which is corrupt and saddened. This scenario says that Jesus is the novelty in the midst of an old world, and has come to heal and rebuild, to bring our life and the world back to their original splendor.

5. How much emotion should accompany us as we place mountains, streams, sheep and shepherds in the crib! In this way we remember, as the prophets had announced, that all creation participates in the celebration of the coming of the Messiah. The angels and the comet are the sign that we too are called to set out to reach the cave and worship the Lord.

“Let us go as far as Bethlehem, let us see this event which the Lord has made known to us” ( Lk 2:15): this is what the shepherds say after the announcement made by the angels. It is a very beautiful teaching that comes to us in the simplicity of the description. Unlike so many people intent on doing a thousand other things, the shepherds become the first witnesses of the essential, that is, of the salvation that is given. They are the most humble and the poorest who know how to welcome the event of the Incarnation. To God who comes to meet us in the Infant Jesus, the shepherds respond by setting out towards him, for a meeting of love and grateful wonder. It is precisely this encounter between God and his children, thanks to Jesus, that gives life to our religion, to constitute its unique beauty, which shines through in a particular way in the crib.

6. In our cribs we usually put so many symbolic statues. First of all, those of beggars and of people who know no other abundance than that of the heart. They too are close to the Child Jesus in their own right, without anyone being able to evict them or remove them from a crib so improvised that the poor around it do not clash at all. The poor, indeed, are the privileged of this mystery and, often, those who are most able to recognize the presence of God in our midst.

The poor and the simple in the crib remember that God becomes man for those who feel the need for his love and ask for his closeness. Jesus, “meek and humble of heart” ( Mt.11.29), he was born poor, he led a simple life to teach us to grasp the essential and live of it. From the crib the message clearly emerges that we cannot let ourselves be deceived by wealth and by so many ephemeral proposals of happiness. Herod’s palace is in the background, closed, deaf to the announcement of joy. Being born in the crib, God himself begins the only real revolution that gives hope and dignity to the disinherited, to the marginalized: the revolution of love, the revolution of tenderness. From the manger, Jesus proclaims, with mild power, the call to share with the latter as a path to a more human and fraternal world, where no one is excluded and marginalized.

Often children – but even adults! – they love to add other figurines to the crib that seem to have no connection with the gospel stories. And yet, this imagination intends to express that in this new world inaugurated by Jesus there is room for all that is human and for every creature. From the shepherd to the blacksmith, from the baker to the musicians, from the women who bring the jugs of water to the children who play …: all this represents the daily holiness, the joy of doing in an extraordinary way the things of everyday life, when Jesus shares with us his divine life.

7. Little by little the crib leads us to the cave, where we find the statuettes of Mary and Joseph. Maria is a mother who contemplates her child and shows it to those who come to visit him. His statuette makes one think of the great mystery that involved this girl when God knocked on the door of her immaculate heart. At the announcement of the angel who asked her to become the mother of God, Mary replied with full and total obedience. His words: “Behold the handmaid of the Lord: let it be done for me according to your word” ( Lc1.38), are for all of us the testimony of how to abandon oneself in faith to the will of God. With that “yes” Mary became the mother of the Son of God without losing, indeed consecrating his virginity thanks to him. We see in her the Mother of God who does not keep her Son only for herself, but asks everyone to obey his word and put it into practice (see Jn 2 : 5).

Next to Mary, in an attitude of protecting the Child and her mother, there is Saint Joseph. It is generally depicted with the stick in hand, and sometimes even while holding a lamp. Saint Joseph plays a very important role in the life of Jesus and Mary. He is the caretaker who never tires of protecting his family. When God warns him of the threat of Herod, he will not hesitate to set out and emigrate to Egypt (see Matthew 2 : 13-15). And once the danger has passed, he will bring the family back to Nazareth, where he will be the first educator of a child and adolescent Jesus. Joseph carried in his heart the great mystery that enveloped Jesus and Mary his bride, and as a just man he always trusted in the will of God and put it into practice.

8. The heart of the crib begins to palpitate when, at Christmas, we place the statue of the Infant Jesus. God looks like this, in a child, to be welcomed in our arms. In weakness and fragility he hides his power that creates and transforms everything. It seems impossible, yet it is so: in Jesus God was a child and in this condition he wanted to reveal the greatness of his love, which is manifested in a smile and in stretching his hands towards anyone.

The birth of a child arouses joy and wonder, because it sets before the great mystery of life. Seeing the eyes of the young couple shining in front of their newborn son, we understand the feelings of Mary and Joseph who, watching the baby Jesus, perceived the presence of God in their lives.

“For life manifested itself” ( 1 Jn 1: 2): thus the apostle John summarizes the mystery of the Incarnation. The crib makes us see, makes us touch this unique and extraordinary event that has changed the course of history, and from which we also order the numbering of years, before and after the birth of Christ.

God’s way of acting almost stunned, because it seems impossible that He renounces his glory to become a man like us. What a surprise to see God taking on our own behaviors: he sleeps, takes milk from his mother, cries and plays like all children! As always, God disconcerts, is unpredictable, continually out of our schemes. Therefore the crib, while showing us God as it entered the world, causes us to think about our life inserted in that of God; he invites us to become his disciples if we want to reach the ultimate meaning of life.

9. When the feast of the Epiphany approaches, the three statues of the Magi are placed in the crib. Looking at the star, those wise and rich gentlemen of the East had set out for Bethlehem to know Jesus, and to offer him gifts of gold, frankincense and myrrh. These gifts also have an allegorical meaning: gold honors the royalty of Jesus; incense its deity; myrrh his holy humanity that will know death and burial.

Looking at this scene in the crib we are called to reflect on the responsibility that every Christian has of being an evangelizer. Each of us becomes the bearer of the Beautiful News with those we meet, bearing witness to the joy of having met Jesus and his love with concrete actions of mercy.

The Magi teach that one can start from far away to reach Christ. They are rich men, wise foreigners, thirsty for the infinite, who leave for a long and dangerous journey that takes them to Bethlehem (see Mt 2 : 1-12). A great joy pervades them before the Child King. They do not let themselves be scandalized by the poverty of the environment; they do not hesitate to get on their knees and worship him. Before Him they understand that God, as a rule with sovereign wisdom the course of the stars, thus guides the course of history, lowering the powerful and exalting the humble. And certainly, having returned to their country, they will have recounted this surprising encounter with the Messiah, inaugurating the journey of the Gospel among the people.

10. In front of the manger, the mind willingly goes to when one was a child and impatiently expected time to start building it. These memories lead us to always become aware of the great gift that has been given to us by transmitting our faith; and at the same time they make us feel the duty and the joy of participating in children and grandchildren the same experience. It is not important how the crib is set up, it can always be the same or be modified every year; what matters is that it speaks to our life. Wherever and in any form, the crib tells the love of God, the God who became a child to tell us how close he is to every human being, whatever his condition.

Dear brothers and sisters, the crib is part of the sweet and demanding process of transmission of the faith. Starting from childhood and then in every age of life, it educates us to contemplate Jesus, to feel the love of God for us, to feel and believe that God is with us and we are with Him, all children and brothers thanks to that Child Son of God and of the Virgin Mary. And to feel that happiness is in this. At the school of St. Francis, we open our hearts to this simple grace, we let humble prayer come from wonder: our “thank you” to God who wanted to share everything with us so as to never leave us alone.

Given in Greccio, in the Sanctuary of the Nativity, 1 December 2019, seventh of the pontificate.

FRANCIS

【日本語私訳】

教皇フランシスコ 使徒的書簡 『Admirabile signum(感嘆すべきしるし)』プレゼピオの意味と価値について (2019年12月1日)

 

1.キリストの民にひじょうに愛された、プレゼピオの感嘆すべきしるしは、つねに、驚きと感嘆を生じさせます。イエスの誕生の出来事を表現することは、神の御子の受肉の神秘を、単純さと喜びをもって告げることと同じです。実際、プレゼピオは、聖書のページからあふれ出る、生きている福音un Vangelo vivoのようです。

 わたしたちは、降誕の場面を観想しながら、霊的に、歩みを始めるよう招かれます。人となった方のへりくだりに引き付けられて(魅せられて)、すべての人と出会うために。そして、わたしたちは見出します。その方が、わたしたちと一つになる(結ばれる)ほどに、わたしたちを愛していることを―わたしたちが、彼と一つになることが出来るように―。

 わたしは、この書簡をもって、主の降誕祭前の日々にプレゼピオを準備する、わたしたちの家族の美しい伝統を支持したいと望みます。また、仕事場、学校、病院、刑務所、広場…の中に、それを準備するという慣習も。それはまことに、創造的オリジナリティーの実践un esercizio di fantasia creativaです―もっとも見込みのない素材を使って、美しさの小さな傑作を生み出すこと―。それを、子供のころから学びます:お父さんとお母さんが、おじいさん、おばあさんと一緒に、この喜びに満ちた習慣を伝えるとき―それは、その中に、豊かな民間の霊性を含んでいます―。この実践が、決してすたれないよう願います。それどころか、それがなくなってしまったところに、再び見出され、回復することを望みます。

2.プレゼピオの起源は、ベツレヘムでのイエスの誕生の、福音のいくつかの詳細の中に反映されています。福音作者ルカは、単純に(シンプルに)言っています:マリアは「男の初子を産んだ。そして、その子を産着にくるみ、飼い葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのために場所がなかったからである」(2・7)。イエスは、飼い葉おけの中に寝かせられました。飼い葉おけはラテン語でpraesepiumと言います。ここからプレゼピオpresepeが来ました。

 神の御子は、この世に来ながら、動物たちが食べるために行くところに、場所を見つけました。ほし草が、「天から降って来たパン」(ヨハ6・41)としてご自分を明かすだろう方のための、最初の(粗末な)寝床となりました。すでに、聖アウグスチヌスが、その他の教父たちとともに理解した、象徴学(シンボロジー)。彼がこう書いたとき:「飼い葉おけの中に横たわり、わたしたちの糧となった」(Serm. 189, 4)。実際、プレゼピオは、イエスの生涯のさまざまな神秘を含み、わたしたちの日々の生活に、それらを身近なものとして感じさせます。
しかし今、プレゼピオの起源―わたしたちがそれを理解しているように―に行きましょう。思いの中で、Reatinaの谷の、グレッチョに出かけましょう。

 聖フランシスコは、おそらくローマから来て―ローマでは、1223年11月29日、教皇ホノリオ三世から、彼の会則の認可を受けました―、そこ(グレッチョ)に留まりました。聖地への旅の後、これらの洞窟は、彼に、特別な方法で、ベツレヘムの風景を思い起こさせました。そして、もしかしたら、「貧者(フランシスコ)」は、ローマにおいて、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂で、イエスの誕生の描写のモザイク―まさに、古い伝統によると、飼い葉おけの板が保管されていた場所のかたわらに―に、印象付けられたのかもしれません。

 Le Fonti Francescane(フランシスコ会の出典)は、グレッチョで何が起こったのかを、詳細に語っています。降誕祭の15日前、フランシスコは、ジョバンニという名の、土地の人を呼び、ある願いを実現する手伝いをしてほしいと頼みました:「わたしは、ベツレヘムで生まれた『幼子』を表現したいのです。そして、何らかの方法で、肉体の目をもって見たいのです。乳飲み子に必要なものが欠けていた居心地の悪さ、どのように飼い葉おけの中に横たえられていたか、どのように牛やロバの間に干し草の上に横たわっていたかを」 1 。

 この忠実な友は、それを聞いてすぐ、聖者の望みに従って、指定された場所に、必要なものすべてを用意しに行きました。12月25日、グレッチョに、さまざまな場所から多くの兄弟たちが集まり、その地域の農家の男女たちも来ました―花と、この聖なる夜を照らすためのたいまつをたずさえながら―。フランシスコが到着し、干し草、牛、ロバとともに、飼い葉おけを見つけました。駆け付けた人々は、降誕の場面の前で、かつて味わったことのない、口には出来ない喜びを表しました。

 それから、司祭が、飼い葉おけの上で、荘厳にミサを捧げました。神の御子の受肉と、ミサ聖祭の間のつながりを示しながら。グレッチョで、あの状況の中で、ご像はありませんでした:プレゼピオは、そこにいたものたちによって実現され、経験されたのです 2 。

 このようにして、わたしたちの伝統が生まれました:喜びに満ちて、人々が洞窟の周りにいます。成就した出来事と、この神秘にあずかっている人々との間には、もはや何の距離もありません。聖フランシスコの最初の伝記作家、チェラノのトマスは、あの夜を思い出し、素朴で心を打つ場面に、驚くべき幻視(ヴィジョン)の賜物も加えています:そこにいた人々の一人が、幼子イエス自身が、飼い葉おけに寝ているのを見たのです。あの、1223年の降誕祭のプレゼビオから、「各々、えも言われぬ喜びに満たされて、自分の家に帰りました」 3 。

3.聖フランシスコは、このしるしの単純さ(シンプルさ)をもって、福音宣教の偉大なわざを実現しました。彼の教えは、キリスト者たちの心の中に入り込み、わたしたちの時代にいたるまで続いています―わたしたちの信仰の美しさを、単純さをもって再現するための、本物の(純粋な)形una genuinaformaとして―。他方、最初のプレゼピオが実現された場所自身、これらの感情を表し、生じさせています。グレッチョは、岩に隠れている魂にとって、逃れ場となりました―沈黙の中に包み込まれるに任せるための―。

 なぜプレゼピオが、大きな驚きを生じさせ、わたしたちを感動させるのでしょうか?何よりもまず、神のやさしさtenerezzaを示すからです。世の造り主である方が、わたしたちの小ささにまで、ご自分を低めました。すでに、わたしたちにとって神秘的である「いのち」の賜物は、マリアから生まれた方が、あらゆるいのちの源、支えであると知ることで、さらにわたしたちを引き付けます。

 御父はわたしたちに、イエスの中に、わたしたちが道に迷い、方向を失うとき、わたしたちを探しに来る、一人の「兄弟」を与えてくださいました;わたしたちを赦し、罪から再び起き上がらせる、一人の「友」を与えてくださいました。

 わたしたちの家にプレゼピオを作ることは、ベツレヘムで体験された物語を、再び生きるよう、わたしたちを助けます。もちろん、福音はつねに、この「出来事」を知り、黙想させる源(出典)として残ります。しかし、プレゼピオにおけるその表現は、場面を想像し、愛情を刺激することを助け、救いの歴史の中に巻き込まれていること、出来事と同時代であると感じるよう招きます―この出来事は、ひじょうにさまざまな、歴史的、文化的コンテクストにおいて、生きている現実です―。

 特に、フランシスコ会の当初から、プレゼピオは、神の御子が、受肉において、ご自分のために選んだ貧しさを「感じる」こと、「触れる」ことへの招きです。そしてこのようにして、暗に、神の御子に従う招きです―謙遜、貧しさ、自己放棄(自己無化)spogliazioneの道を―それは、ベツレヘムの飼い葉おけから、「十字架」へと導きます―。それは、最も助けを必要としている兄弟姉妹たちの中に、神の御子と出会い、彼に仕えるように(マタ25・31-46参照)という招きです。

4.プレゼピオが、その中に運んでいる意味を捉えるために、そのさまざまなしるしを見たいと思います。最初に、わたしたちは、闇と夜の沈黙の中で、星が輝く空を表現します。わたしたちがそれを作るのは、福音の物語への忠実さのためだけではなく、それがもつ意味のためでもあります。

 考えてみましょう。どんなにしばしば、夜が、わたしたちの人生を囲んでいるでしょう。それでも、それらの時に、神はわたしたちを一人きりにせず、わたしたちの存在(実存)の意味に関しての、決定的な問いかけに答えるために、そこにいてくださいます:わたしは誰なのか?わたしはどこから来たのか?なぜわたしは、この時代に生まれたのか?なぜわたしは愛するのか?なぜわたしは苦しむのか?なぜわたしは、死ななければならないのか?これらの問いかけに答えを与えるために、神は人となりました。神の身近さは、闇があるところに光をもたらし、闇と苦しみを通っている人々を照らします(ルカ1・79参照)。

 プレゼピオの一部である風景についても何か言いたいと思います。それはしばしば、家の廃墟や古代の宮殿を表現しています―それらは、いくつかのケースにおいては、ベツレヘムの洞窟の代わりをし、聖家族の住まいとなっています―。これらの廃墟は、ドミニコ会のJacopo da Varezze(13世紀)のLegenada Aurea(黄金伝説)にインスピレーションを受けているように思われます。そこでは、「ローマの平和」の神殿が、一人の「おとめ」が子を産む時に崩壊するだろうという異教の信仰が読まれます。

 これらの廃墟は、第一に、没落した人類、崩壊するものすべて、腐敗し衰弱するものすべての目に見えるしるしです。この場面は、イエスが、古い世界のただ中の、新しさであること、わたしたちのいのちと、世界を癒し、その最初の輝きに回復するために来たことを語っています。

5.プレゼピオの中に、山々、小川、羊、羊飼いたちを置きながら、わたしたちはどれほどの感情に伴われるでしょうか!このようにして、わたしたちは、預言者たちが告げたように、造られたものすべてが、メシア(救い主)の到来に喜び踊ることを思い起こします。天使たちや星は、わたしたちもまた、洞窟に行って主を礼拝するために歩き始めるよう招かれている、というしるしです。

 「さあ、ベツレヘムに行って、主が知らせてくださった、その出来事を見て来よう」(ルカ2・15):このように、羊飼いたちは、天使たちの知らせの後、言いました。それは、描写の単純さ(シンプルさ)においてわたしたちに届けられた、とても美しい教えです。他の多くのことに夢中になっている、たくさんの人と違って、羊飼いたちは、本質-つまり、賜物として与えられた救い―の、最初の証し人となりました。

 受肉の出来事を受け入れることを知っているのは、最も身分の低い人、貧しい人たちです。幼子イエスにおいて、わたしたちに出会いに来る神に、羊飼いたちは答えます―愛と、感謝の驚きの出会いのために、彼に向かって歩き始めながら―。イエスのおかげで、わたしたちの宗教にいのちを吹き込み、その並外れた美しさを形造るのは、まさに、神と、その子らの出会いです。それは、特別な方法で、プレゼピオの中に現れます。

6.プレゼピオの中に、わたしたちは通常、たくさんの象徴的な小さな像を置きます。先ず、物乞いたち、心の豊かさ意外には何も豊かではない人々の像。彼らもまた、完全な権利をもって、幼子イエスのそばにいます。誰も、彼らを搾取したり、即席のゆりかご―その周りにいる貧しい人たちが、調和しないことがないほど(貧しい)―から引き離すことはありません。むしろ、貧しい人々は、この神秘の特権に浴した人々であり、しばしば、わたしたちのただ中の神の存在を、もっとも良く見分けることが出来る人々です。

 プレゼピオの中の、貧しい人、素朴な人たちは、神の愛をより必要と感じている人々、神の身近さを求めている人々のために、神が人となったことを、思い起こしています。「心の柔和で謙遜な」(マタ11・29)イエスは、貧しく生まれ、単純な(シンプルな)生活を生きました―わたしたちに、本質を捉え、それを生きることを教えるために―。プレゼピオから、富や、たくさんの、幸福のつかの間の提案によって惑わされることは出来ない、明白なメッセージが浮かび上がります。

 ヘロデの宮殿は、背景にあります―喜びの知らせに耳を傾けようとせず、閉鎖されて―。プレゼビオの中に生まれながら、神ご自身が、恵まれない人々、疎外された人々に希望と尊厳を与える、唯一の真の革命を始めます:愛の革命、やさしさの革命。プレゼピオから、イエスは、柔和な力をもって宣言します。より人間的で兄弟的な世界―誰も排斥されず、疎外されない世界―に向かう道を、最も小さい人々と共有するアピール(訴え)を。

 しばしば、子供たちは―しかし大人たちも!―、プレゼピオに、福音の物語と何の関係もないように思われる、他の小さな像を加えることが好きです。それにも関わらず、これらの想像(イマジネーション)は、イエスによって始められた、この新しい世界において、人間的なものすべてのため、あらゆる被造物のために空間(スペース)があることを表現しようとしています。牧者から鍛冶屋まで、パン屋から音楽家まで、水さしを運んでいる女から、遊んでいる子供たちまで…:日常の聖性を表しているものすべて。すべての日々のものごとを、並外れた方法で行う喜び―イエスが、わたしたちとご自分の神的いのちを共有するとき―を表しているものすべて。

7.少しずつ、プレゼピオはわたしたちを洞窟へと導きます。わたしたちはそこに、マリアとヨセフの像を見出します。マリアは、自分の子を観想しているお母さんであり、子を訪れに来る人々に、彼を示します。彼女の小さな像は、神が、この少女の、けがれのない心の扉を叩いたとき、彼女を巻き込んだ偉大な神秘を考えさせます。彼女に神の母になるよう求めた天使のお告げに、マリアは完全で総体的な従順をもって答えます。

 彼女の言葉:「わたしは主のはしためです。お言葉通り、この身になりますように」(1・38)は、わたしたちすべてにとって、どのように、神のみ心(意志)への信頼の中に身を委ねるか、の証しです。あの「はい」をもって、マリアは神の御子の母となりました―彼女の処女性を失うことなく、いやむしろ、御子のおかげで、処女性を聖別しながら―。わたしたちは、彼女の中に、自分の子を、自分自身のためだけに取っておかず、すべての人々に、彼の言葉に従い、それを実行するよう求める(ヨハ2・5参照)、神の母を見ます。

 マリアのかたわらに、幼子とその母を守る態度で、聖ヨセフがいます。 通常、ヨセフは、手に杖を持って―時にランプを持ちながら―、表現されています。聖ヨセフは、イエスとマリアの生活(生涯)において、ひじょうに重要な役割を果たします。ヨセフは、自分の家族を守ることに決して疲れない保護者custodeです。神がヨセフに、ヘロデの脅威を警告するとき、彼は、旅立ち、エジプトに逃れることをためらわないでしょう(マタ2・13-15参照)。そして、一度、危険が過ぎたとき、家族をナザレに戻すでしょう。彼はそこで、幼いイエス、青年のイエスの最初の教育者となるでしょう。ヨセフは、心の中に
、イエスと、彼の妻マリアを覆っていた偉大な神秘を運んでいました。そして、正しい人として、つねに、神のみ心に身を委ね、それを実行しました。

8.プレゼピオの心は、降誕祭に、わたしたちが、幼子イエスの像を置く時に、脈打ち始めます。神は、このように、幼子の中に、ご自分を示します。ご自分を、わたしたちの腕の中に受け入れさせるために。弱さの中に、もろさの中に、すべてを造り出し変容する、神の力が隠れています。不可能に思われます、しかし、そうなのです:イエスの中に、神は幼子でした。そして、神は、この状況の中で、ご自分の愛の偉大さを明らかにすることを望みました。その愛は、微笑みの中に、誰に対してもご自分の手を差し伸べることの中に、現れます。

 子供の誕生は、喜びと驚きを生じさせます。なぜなら、いのちの偉大な神秘を前に置くからです。生まれたばかりの自分たちの子を前に、若い夫婦の目が輝くのを見ながら、わたしたちは、幼子イエスを見つめながら、彼らの生活(人生)における神の現存を感知したマリアとヨセフの感情を理解します。「命が現れました」(一ヨハ1・2):このように、使徒ヨハネは、受肉の神秘を要約しています。

 プレゼピオは、歴史の流れを変えた、この、唯一の、並外れた出来事を、わたしたちに見させ、触れさせます。そして、それから出発して、キリストの誕生の前と後で、年号まで秩序付けられます。神の行い方は、ほとんど卒倒させます。神が、ご自分の栄光を放棄するからです―わたしたちのように、人となるために―。わたしたちと同じふるまいをまとう神を見ることは、何という驚きでしょうか:眠り、お母さんから乳を飲み、泣き、すべての子供たちのように遊ぶ!いつも、神は当惑させます、予測出来ません、絶えず、わたしたちの定式(スケーマ)外です。

 ですから、プレゼピオは、神がどのように世に入ったかを、わたしたちに示します。わたしたちに、神のいのちの中に挿入された、わたしたちのいのちを考えるよう促します;もし、わたしたちがいのちの最後(究極)の意味に達することを望むなら、ご自分の弟子に。

9.主の公現Epifaniaの祭日が近づくと、プレゼピオの中に、王である博士たちの像が置かれます。これらの東方の賢者、裕福な紳士たちは、星を観察しながら、ベツレヘムに向かって歩き始めました―イエスを知るために、彼に黄金、香、没薬を捧げるために―。これらの贈り物は、寓意を含んだ意味を持っています:黄金は、イエスの王性に;香は、イエスの神性に;没薬は、死と埋葬を経験するだろう、イエスの聖なる人性に、敬意を表します。
プレゼピオの中の、この場面を見つめながら、わたしたちは招かれます―あらゆるキリスト者が福音宣教者(福音をもたらす者)となることの責任について考えるように―。わたしたち一人一人は、出会う人々に、「善い知らせ」を運ぶ者となります―イエスと出会った喜びと、具体的ないつくしみの行いをもって、イエスの愛を証ししながら―。
博士たちは、キリストに到達するために、ひじょうに遠くから出発することが出来ることを教えています。彼らは、裕福な人々、知恵ある異国人、無限なものを渇望している人々です。彼らは、彼らをベツレヘムにまで運ぶ、長く危険な旅に出ました(マタ2・1-12参照)。「王である幼子」の前で、彼らは、大きな喜びに浸されました。彼らは、環境の貧しさにつまずくに任せません;

 跪いて、彼を礼拝することをためらいません。「幼子」の前で、彼らは理解しました。神が、至上の知恵をもって、星の流れ(動き)を統制しているように、歴史の流れを導いていることを―権力ある人を低くし、身分の低い人を高く上げながら―。そして、もちろん、彼らの国に帰ったら、この、メシアとの驚くべき出会いを語るでしょう―異邦人たちの間に、福音の旅を始動しながら―。

10.プレゼピオの前で、思いは自然に、子供の頃、それを作り始めるときを、がまんして待っていたことに行きます。これらの思い出は、わたしたちを、つねに新たに、信仰を伝えながらわたしたちに与えられた、偉大な賜物を意識するよう導きます。そして同時に、わたしたちに、同じ経験を、子供たち、孫たちにさせる務め(責任)と喜びを感じさせます。どのようにプレゼピオを準備するかは重要ではありません―いつも同じであったり、毎年変えたり出来るでしょう―。

 大切なのは、プレゼピオが、わたしたちのいのち(生活)に語りかける、ということです。どこにおいても、どんな形においても、プレゼピオは、神の愛を語ります。ご自分が、どんなに一人一人の人間の近くにいるかを―その人がどんな状況にあっても―、わたしたちに言うために、幼子になった神の愛を。
愛する兄弟姉妹たち、プレゼピオは、信仰を伝える、やさしく、必要な(要請する)プロセスの一部です。幼年期から始まって、人生のあらゆる年代において、プレゼピオはわたしたちを教育します:イエスを観想するように、わたしたちへの神の愛を感じるように、神がわたしたちと共にいて、わたしたちが―あの「幼子」である神の御子と、おとめマリアのおかげで、みな(神の)子であり、兄弟です―神と共にいることを感じ、信じるように。

 そして、このことの中に、幸いがあると感じるように。聖フランシスコの学び舎で、この単純な(素朴な)恵みに心を開きましょう。驚きから、謙虚な祈りが生まれるに任せましょう:それは、わたしたちを決して一人きりにしないために、わたしたちとともにすべてを共有することを望んだ神への、わたしたちの「ありがとう」です。

グレッチョ、プレゼピオの聖堂において 教皇職第七年目、2019年12月1日 フランシスコ

(Sr.ルカ 岡立子 私訳)

2019年12月2日

・待降節第一主日、教皇が”馬小屋”発祥の地、グレッチョを訪問

グレッチョ、プレゼピオの洞窟で書簡に署名する教皇フランシスコ 2019年12月1日グレッチョ、プレゼピオの洞窟で書簡に署名する教皇フランシスコ 2019年12月1日  (vatican media)

  キリストの降誕を準備する待降節を迎え、教皇フランシスコは1日、プレゼピオ(イエスの降誕の場面を再現した馬小屋の模型)の発祥の地とされるイタリア中部グレッチョを訪問された。

グレッチョに到着された教皇は、リエーティ教区の司教や、フランシスコ会関係者らに迎えられた後、「プレゼピオの洞窟」に下りられ、聖フランシスコが幼子イエスを礼拝する場面と、聖家族が描かれた古い壁画を前にしばらく祈られた。

 続いて洞窟の祭壇で、プレゼピオの意味と価値をめぐる書簡に署名され、教皇は「キリスト者たちにこれほどにも親しまれる、プレゼピオの素晴らしい印が、常に驚きと感嘆を呼び覚ましますように」と願われた。

 洞窟から外に出られた教皇は、詰めかけた大勢の子どもたちからにぎやかな歓迎を受けられた。聖堂でとり行われたみことばの祭儀では、子どもたちの歌う聖歌が、降誕祭を待ち望む雰囲気を醸し出した。祭儀中、聖書朗読と共に、教皇のプレゼピオをめぐる書簡が紹介された。

 日が暮れた山中の巡礼地で、教皇は地元の人々に見送られながらグレッチョを後にされた。

 教皇は、2016年にも私的な形でグレッチョを訪ねており、今回は2度目の訪問。標高約700メートル、人口およそ1500人の町。教皇が名前をとられたアッシジの聖フランシスコは、たびたび同地を訪れ、隠遁生活をおくっていた。

 1223年にグレッチョに滞在した際、降誕祭の15日前に友人のジョヴァンニ・ヴェリタに頼んで、馬小屋を作るのに適した洞窟を探し、そこに牛とロバを連れて行き、干し草と飼い葉桶を置き、ベツレヘムの洞窟を再現した。降誕祭の夜、最初のプレゼピオを前に深い観想状態にあった聖フランシスコは、イエス・キリストの名を口にするだけで唇を震わせ、目は涙で濡れ、あまりの感動を抑えるため、その名を呼ぶ必要があるたびに、「ベツレヘムの幼子」と呼んだという。

 グレッチョの巡礼地は、聖フランシスコの最初のプレゼピオの洞窟を中心に、1288年、最初の形が整えられた。ラチェローネ山の絶壁に造られたこの巡礼地は、修道院と2つの聖堂、聖フランシスコの隠遁所などから構成されている。

(編集「カトリック・あい」)

 

2019年12月2日

・バチカン金融スキャンダル対策に新手、金融情報局長にイタリア中央銀行役員を任命

2019.11.27 Carmelo BarabagalloCarmelo Barbagallo, the new head of the Vatican’s Financial Information Authority 

 人事発表後、 バルバガッロ新局長はVatican Newsに「任命されたことを光栄に思います。AIF長官の道徳的および職業的責任の重さを認識しています。そして、教皇が私に寄せてくださった信頼に感謝します」と述べたうえで、「私はイタリア銀行で40年にわたって、欧州の銀行システムの管理・監督体制の中で、イタリアの銀行・金融部門の検査、監督業務を担当してきました」と述べ、その経験を生かして、AIFを、バチカンの金融業務の公正さと透明性を推進する機関として機能させることを誓った。

  現在バチカンでは、財政金融に関係するスキャンダルが起きている。イタリアの有力週刊誌が先月スクープしたところによると、バチカンの国務省が、世界の教会から集められ教皇の慈善事業支援にあてられる「聖ペトロ使徒座への献金」から、2億ドルを引き出し、ロンドンの高級住宅街チェルシーにある有名デパート・ハロッズ所有の倉庫群の一部を高級マンションへの転用目的で購入し、さらにバチカンの「宗教事業協会」(通称「バチカン銀行」)に残りを購入するために1億5,000万ドルの融資を求めた、という。

 バチカン銀行は、金融取引に関して新しく定められた規則に従って、バチカンの司法当局にこの件を報告した、司法当局が捜査を始めており、その一環として先月、バチカン市国の憲兵隊が、国務省の関係部署の職員5人のバチカン内への立ち入りを禁じるなどに事態に発展しているが、治安責任者で教皇の個人警備担当を務める人物も調査に関連する文書漏洩で辞任しており、ブルハルトAIF局長の辞任は、これらに関する責任をとったものと取りざたされている。

 教皇フランシスコは26日のタイ、日本訪問から帰国途上の機中会見で、この問題を記者から聞かれ、「汚職の疑いのある5人のバチカン職員は、バチカンの司法担当者によって速やかに取り調べを受けることになる」とし、ブルハルト局長の辞任については「私は彼から話を聞きました。犯罪行為を抑えられなかったのは金融情報局だったようです」と説明していた。

 バチカンは以前から、バチカン銀行が犯罪組織の資金洗浄に絡んだ不透明な行為をしていると警戒視されており、国際的な監視・調査組織「FATF=金融活動作業部会」の監視対象にもされている。AIFは、国際的な金融取引の透明化、説明責任に関するルールに従う姿勢を明確にする目的でバチカンが設置したものだ。また、欧米の関係機関が中心となって作られ金融犯罪情報収集・分析で国際協力を進めているエグモント・グループも、来年初めにバチカンに関する報告書を発表する予定で調査・分析を進めている。

 

 

 

 

 

 

 

 

2019年11月28日

(解説)バチカン財務事務局の新長官が成果を上げるために、教皇の強力な支持が必要(CRUX)

(2019.11.15 Crux 

 バチカンの財務事務局長官にゲレーロ師が就任する人事が発表された時、おそらくローマ中に「ええ!何だって?」という声が聞こえたことだろう。

 このスペイン生まれのイエズス会士は、バチカンの”古参兵”ではない、ローマ滞在わずか2年。ローマと周辺のイエズス会の諸機関を管理・監督するのが現在の仕事で、その前はモザンビークで会の活動をしていた。

 マスコミ関係者の間では、未成年者性的虐待で有罪判決を受け辞任したジョージ・ペル前長官の後任として、現在、財務事務局で管理・警備の責任者を務めているクローディア・チョッカ女史が有力視されており、ゲレーロ長官は意外な人事と受け止められた。

 新長官が新年1月に正式にポストに就く財務事務局は今、混乱の中にある。ペル枢機卿が故郷オーストラリアの裁判所に喚問されて帰国、未成年者性的虐待の容疑を不服として法廷闘争を始めて以来、この2年間、長官ポストは空席のまま、となっていた。(枢機卿は、地方裁判所で有罪判決を受け、高等裁判所に控訴するも、棄却。さらに、最高裁判所に上訴している。)

 だが、ペル枢機卿が財務事務局を去る以前から、彼の権限は狭められ、バチカンの省庁の財務を透明化し、歳出を合理化するという彼の努力は実っていない、というのが、バチカンの観測筋の見立てだった。2017年には、バチカンの初代財務・会計検査官だったリベロ・ミローネが上司である高位聖職者のやり取りをスパイしたと訴えられ、解雇された。ミローネはその後、「バチカンの”古参警備員”が財政改革の影響を受けないようにとの保身から、私を追放したのだ」と主張している。

 さらに今年秋になって、バチカンを揺るがす金融がらみの一連のスキャンダルが起きた。

 バチカンの憲兵隊が10月、最有力官庁である国務省の事務所を強制捜査。英紙フィナンシャルタイムズによると、捜査は、ロンドンでの2億ドルにのぼる不動産投資に関連していた。イタリアの週刊ニュースレター「エスプレッソ」は、5人の事務所職員のバチカン市国内への立ち入りが禁止された、というメモを憲兵隊から入手、報道したことで、憲兵隊のドメニコ・ジアーニ長官が辞任した。ロンドンの不動産投資に関わる契約は、当時の教皇の「代理」つまり”参謀長“だったジョヴァンニ・ベッキユ大司教が監督していた。大司教は、その後、枢機卿に昇進し、列聖省の長官になっている。

 バチカンは、聖職者による未成年者性的虐待が世界中で次々と発覚し、対応が遅々として進まない中で、信徒からの献金が減少し、財政赤字が拡大する、という深刻な財政問題を抱えている。

 要するに、長官指名を喜んでいる状況ではない、ということだ。問題は、ゲレーロ新長官が、どれほどしっかりと、このポストを問題解決に使うことができるか、である。

 ペル前長官は、バチカンで働いた経験はなかったが、”バチカン政治”を知らないわけではなかった。枢機卿として毎年、数回はローマに滞在し、経済諮問委員会の委員も務めていた。さらに重要なのは、ペルは教皇の諮問機関である枢機卿顧問会議の9人いたメンバーの1人だったことだ。だが、これだけの背景を持ちながら、彼が課題としていた財務・金融改革は進まなかった。多くの不動産を管理するバチカンの”中央銀行”、APSAの規模縮小は果たせず、世界的に著名な会計事務所PricewaterhouseCoopersによるバチカン財務の外部監査も取り消された。

 ・・・・・・・

 イエズス会のアルトゥーロ・ソーサ総長の養成で、ゲレーロ師は司教にもされないことが公表されている。これは、バチカンの省庁トップには派手な肩書は必要とされない、という好ましい前例になるかも知れないが、実際のところ、カトリック教会は位階社会であり、ローマでは、司教は”10セントで1ダース手に入る”という軽いポストだ。バチカンでは省庁の次官さ英紙、大司教の肩書を持っている。

 このことは、特に財務事務局の場合、問題となる可能性がある。長期にわたって長官が空席だったことで、他の省庁は財務事務局の指示を無視している、という噂が多く流されていた。そうした中で、「(注:司教でも、大司教でも、まして枢機卿でもない)ただの司祭」が長官に就任する、との決定は、この局が恒久的に縮小されることを意味し、浪費癖のあるバチカンの役人たちにとって恐れる必要がない存在、と受け取られる可能性がある。

 だから、ゲレーロ新長官が、任務を果たせるようになるためには、教皇の接見録に頻繁にその名前が記載されることも含めて、教皇が支持しているという強力な印が必要だ。さらに重要なのは、このスペイン人のイエズス会士が”勝利”を必要としていることである。

 仮に財務事務局が透明性と説明責任を他のバチカン省庁に強く働きかけ、特に、バチカンの省庁の中で最強力と見なされている国務省に対してその権威を発揮することができれば、従来以上の力をもつ権力と認められるようになるだろう。

 その手始めとして、ロンドンの不動産取引問題は格好の事案になるかも知れない。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

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2019年11月16日

・教皇、カトリック教会のカテキズムへの「環境の罪」の明記を言明(Crux)

(2019.11.15 Crux  Inés San Martín

「刑事裁判と企業ビジネス」をテーマに国際刑事司法協会の会議がローマで開かれたが、教皇フランシスコは15日、会議に出席した法律家たちと会見し、「カトリック教会のカテキズム―要約(コンペンディウム)」に「環境への罪」を明記する考えを明らかにした。

 この中で教皇は「カトリック教会のカテキズムに、環境への罪、つまり私たちの共通の家に対する罪、を明示せねばなりません。それは義務だからです」と述べた。教皇のこの言葉は、アマゾン地域の環境の脅威を主要テーマの一つとした地域シノドス(代表司教会議)の結果を受けたものと思われる。

 さらに教皇は「浪費の文化は、繁栄した社会で広く見られる他の現象と相まって、嫌悪の文化に退化していく深刻な傾向を示しています… このような時代に、ナチズムに典型的な象徴と行動が再びみられるようになっていることは、偶然ではない。それは、ユダヤ人、ジプシー、同性愛者への迫害により、浪費と嫌悪の文化という、あってはならない見本を表徴しているのです」 と述べた。

 そして、最近耳にした何人かの政治家の言葉から、ヒトラーのエンゼルと連想した、と語り、「私たちは、このような退化に妥協しないように、市民社会と教会の両方の場で、警戒を怠らないようにする必要があります」と強調。

 また、教皇は、「偶像崇拝の市場」-絶対的な支配者となった「神格化された市場」がもたらす利益に対して、個々の人々を無防備にさせる市場ーを批判。「他の考慮すべき事柄から切り離された利益最大化の原則は、現在、社会的、経済的負担に苦しめられている人々を激しく痛めつける『排除のモデル』につながり、将来の世代は環境コストを支払うことを強制されることになります」とフランシスは述べた。

 そのうえで、「今日、法律家たちが第一に自問すべきは、このような現象に対して、自分たちの知識で何ができるか、ということです。こうした現象は、民主主義のシステムと人類の発展そのものを危険にさらします… 具体的に言えば、すべての刑事弁護士の現在の課題は、懲罰的な非合理性を封じ込めることです」と語り、大量投獄、刑務所における受刑者の過密、拷問、治安部隊による虐待、社会的な抗議活動の犯罪扱い、予防拘禁の乱用、そして、最も基本的な刑法上の手続きの無視などを実例として挙げた。

 教皇はまた、最も強力な犯罪、特に企業の大規模な犯罪に対する「注意の不足、欠如」を批判し、これらが飢餓、貧困、強制移住、治療可能な疾病による死、環境災害、原住民殺害などをもたらす時、「人道に対する犯罪」である、と指摘した。(注:ニュルンベルク裁判の基本法である国際軍事裁判所憲章で初めて規定され、1998年の国際刑事裁判所ローマ規程において「人道に対する犯罪」として定義された。現在ではジェノサイド戦争犯罪とともに「国際法上の犯罪」を構成する)。

 続けて教皇は、国際金融資本を取り上げ、「財産だけでなく人や環境に対する重大な犯罪の端緒となり、そうした犯罪は『組織犯罪』です」と述べ、国々が抱える過大な債務、地球の天然資源の略奪などについても、国際金融資本に責任がある、とした。

 先日開かれたアマゾン地域シノドスで、参加司教たちは「環境に対する罪」を非難したが、教皇は、これを企業が責任を負わねばならない「ecocide(環境虐殺)」であり、法律家たちは、このような罪が罰せらずに済むことがないようにせねばなりません、と努力を求めた。

 さらに、ecocideは「空気、土壌、水資源の大量汚染、動植物の大規模な破壊、自然災害を引き起こしたり、生態系を破壊したりする、あらゆる行為」を意味すると述べ、「特定の地域の生態系の喪失、破壊を、平和に対する犯罪の (注:侵略、大量虐殺、人道に対する罪、戦争犯罪と並ぶ)五番目の罪とすることを、国際社会が確認すべきです」と言明した。

 また教皇は、現在いくつかの国で、有罪判決を受けた受刑者の数よりも多い、裁判なしに投獄されている人々が収容されている”予防刑務所”が悪用されている問題を取り上げ、「これは、『疑わしきは罰せず』の原則を破る行為です」と強く批判。

 彼はまた、義務遂行のための合法的な手段と主張することで治安部隊の犯罪を正当化するのに当局が使う「暴力に対する非自発的な動機」についても非難し、法律家たちはこうした「懲罰的な煽動」-しばしば人種差別主義者により、社会の片隅に置かれた人々を狙った行為-が暴力や一方的な武力行使を促進しないように働くことが強く求められている、と述べた。

Follow Inés San Martín on Twitter: @inesanma

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

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2019年11月16日

・ペル枢機卿辞任後空席のバチカン財務事務局長官にイエズス会士のゲレーロ・アルヴェス神父

フアン・アントニオ・ゲレーロ・アルヴェス神父

 ゲレーロ師は1959年、スペイン生まれの60歳。1979年にイエズス会に入会。1992年に司祭叙階。2017年からイエズス会の総長顧問の1人となっている。

 財務事務局長官は、近年問題となっているバチカンの財務・金融部門の抜本改革に取り組むことを期待されたポストだったが、初代長官で前任のジョージ・ペル枢機卿は故郷のオーストラリアで未成年性的虐待で起訴され、有罪判決を受けた後、現在、同国最高裁に上訴中。同枢機卿が長官を今年2月に辞任して以来、空席となっていた。

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以下はCruxの記事.

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

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2019年11月15日

・地下教会弾圧、ウイグル人イスラム教徒迫害… 教皇は対中政策を見直すか-機上会見に注目(LaCroix)

(2019.11.12 LaCroix  Michael Sainsbury)

  バチカンは中国政府と同国内のカトリック司教任命について昨年9月に暫定合意したが、中国当局はその後、プロテスタントも含めたキリスト教徒とイスラム教徒への弾圧を、習近平主席の「宗教の中国化」方針の下で、一層強めており、バチカンは、暫定合意を見直す必要に迫られている、と言える。

 教皇は19日から26日にかけてタイと日本を訪問するが、この問題は、恒例の機上会見で最大のテーマとなるだろう。記者団から、この問題について質問が出ない、ということは考えられず、過去の実績から、教皇もお答えになる、とみられる。アジア、特に中国本土、香港、そして台湾の信徒たちは、教皇が今回の旅行中に明確な姿勢を打ち出すことを希望している。

 バチカンと中国政府との合意に向けた交渉は、これまで何年にもわたって続けられ、バチカンは、積極的な歩み寄りを見せた。具体的には、中国共産党統一戦線工作部の管理・監督下にある中国天主愛国協会(CCPA)と中国カトリック司教会議が一方的に認め、教皇が否認していた”司教”7人を、教皇が昨年9月の暫定合意で、司教として任命したのだ。

 だが、中国側は、同工作部の管理・監督に従わず、CCPAにも加盟しないいわゆる”地下教会”に属し、教皇が任命していた約30人の司教のうち、わずか2人を今年8月に公認し、その後の追加公認をしていない。

 我々の得た情報では、バチカンの交渉担当者が、バチカンが認めた教区と中国が認めた教区の統合を含めた細部の詰めに懸命に取り組んできたということだ。これは、司教任命にも影響する。バチカンによる中国への教区設置は、1940年代に中国共産党が国民党との戦いに勝ち、政権を樹立する以前のことだ。それ以来、何億人もの人々が関係する大規模な人口移動が起きており、バチカンにとって、中国が決めた教区との統合は容易だろう。

 こうした教区の問題や司教の任命はそれほど難しいことではないが、それよりはるかに困難なのは、これまで続いてきた中国当局の管理・監督下にあるCCPA系教会と”地下教会”の分立の解消だ。

 教皇は両教会の一致を推奨する一方で、地下教会の司教、司祭のCCPAへの加盟の諾否についての判断は、各自の良心に委ねる、との方針も示している。各種の報道では、聖職者たちが良心の判断によって地下教会にとどまることを決断した、と伝えられており、地下教会の聖職者をCCPAに取り込み、”地下教会”をなくす、という、中国側の思惑通りには、ことが進んでいない。

 昨年9月の暫定合意以来、中国政府・共産党と各地方政府、特に、首都・北京を囲む形で、キリスト教徒が最も多く居住する河北省政府は、習近平主席が主導する「宗教の中国化」を熱心に進めている。

 宗教の国有化は、英国女王・エリザベス二世を頂く英国国教会の前例があるが、今や政府・党の統制・管理下にあるキリスト教会には中国旗が掲げられ、その下には毛沢東と習近平の顔写真が置かれている。このような教会の姿が、霊的生活と国家を明確に分けて考える地下教会の聖職者、信徒たちが、地下教会にとどまることを選択した理由であり、(注:事態を楽観視し、”教会一致”を推奨してきた)バチカン内部に大きなとまどいをもたらしている。

 中国政府・共産党はまた、様々な規制を実施しており、特に、財産法の厳格適用や、未成年の信徒たちのミサ典礼、夏季学校、そのたの教会活動への参加禁止などの措置を取っている。これは教会の負委員宣教活動の核心に弾丸を打ち込むようなもの、将来の信徒、教会指導者を縮減するのが狙いだ。

 教会の壁に独裁者の写真が飾られる程度のことで心配になるなら、このような未成年者の教会活動を禁止する脅しを目の当たりにすれば、バチカンの人々は怒り狂っていいはずだ。特に貧しい地域の教区に複数の規制を課し、法律の枠にはめることを狙っている。

 何人かの司祭は投獄されているとみられている。当局は、政府・党にとって問題人物とされた司祭を定期的に拘束したり、宗教的な儀式に参加できないような措置を続けている。聖書やキリスト教関係の図書はインターネットで購入できないようにされている。

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 中国政府・共産党は、バチカンと司教任命について合意することで、国内に1000万人から1200万人いるとされるカトリック教徒に強力な統制をかけることを狙っていた。CCPA加盟の教会と地下教会の信徒の数は、正確には把握できていないが、大まかに言って、半々とされている。

 また、中国政府・共産党は、これを足掛かりに、欧州で唯一の台湾政府承認国であるバチカンが、中国承認に乗り換えることを期待していた。だが、中国の専制独裁指導者を背景にした香港政府と市民とな激しい対立が、台湾の人々にも強い警戒心をもたらし、台湾と中国本土の”統一”は中国政府・共産党の大いなる願望にとどまっている。

 こうした中でバチカンが、台湾の”羊の群れ”を捨て、中国政府・共産党の願望を満たすことに手を貸すような、国際的に不名誉な行為をするとは、考え難い。

 加えて、新疆ウイグル自治区でのウイグル人イスラム教徒に対する中国政府・共産党の扱いには、言いようのない恐ろしさがある。100万とも200万ともいわれる人々が捕まえられ、信仰を捨てさせるために強制収容所に入れられている。最近の報道では、収容所内で150人が死亡した、と言われている。実際の人数はもっと多いに違いない。組織的な拷問や強姦がされていることも報告されているが、その数字は分からない。このことで、習近平は、アドルフ・ヒトラー、ユセフ・スターリンとともに、強制収容所による大領虐殺のクラブの特別会員に名を連ねることになった。

 このようなウイグル人イスラム教徒に対する扱いと同様の措置が、”勅令”に従わないキリスト教徒に対してとられることは、今のところ、可能性の範囲を越えていない。だが、この問題について、教皇フランシスコと、北京との交渉の企画者であるピエトロ・パロリン国務長官は、全てのキリスト教徒の良心にもとずいて、バチカンと中国の関係をさらに前に進めることができるかどうか、真剣に思いめぐらす必要がある。

 恐らくは、この問題についての彼らの類まれな洞察が、あと一週間か何日かのうちに示されることになるだろう。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

(注:LA CROIX internationalは、1883年に創刊された世界的に権威のある独立系のカトリック日刊紙LA CROIXのオンライン版。急激に変化する世界と教会の動きを適切な報道と解説で追い続けていることに定評があります。「カトリック・あい」は翻訳・転載の許可を得て、逐次、掲載していきます。原文はhttps://international.la-croix.comでご覧になれます。

LA CROIX international is the premier online Catholic daily providing unique quality content about topics that matter in the world such as politics, society, religion, culture, education and ethics. for post-Vatican II Catholics and those who are passionate about how the living Christian tradition engages, shapes and makes sense of the burning issues of the day in our rapidly changing world. Inspired by the reforming vision of the Second Vatican Council, LCI offers news, commentary and analysis on the Church in the World and the world of the Church. LA CROIX is Europe’s pre-eminent Catholic daily providing quality journalism on world events, politics, science, culture, technology, economy and much more. La CROIX which first appeared as a daily newspaper in 1883 is a highly respected and world leading, independent Catholic daily.

 

2019年11月14日

・バチカン”金融スキャンダル”で新たな局面-教皇側近は総反撃に(Crux)

2019.10.22 Crux  Editor John L. Allen Jr.)Facing fresh charges of financial scandal, all the pope’s men strike back

Cardinal Oscar Andres Rodriguez Maradiaga, right, makes space for Pope Francis under his umbrella as they leave at the end of a morning session of the Synod of bishops at the Vatican, Thursday, Oct. 11, 2018. (Credit: AP Photo/Alessandra Tarantino.)

 ローマ発 -今から十年前の2009年、当時のイタリア司教団の新聞の編集局長、ディノ・ボッフォをめぐって、同性愛の不正行為が騒ぎとなり、誰が彼を嵌めたかについて憶測が飛び交った。多くの人が、バチカンの国務長官、憲兵隊長官、バチカンの新聞編集局長が関与しているという観測をした。それに対して、バチカンは最終的に反論を出すまで18日間も沈黙を続けた。しかも、その反論について、イタリアのある日刊紙が「バチカンはすべてを否定する…誰もそれを信じない」という見出しで報じていた。

 ローマでの21日の動きから判断すると、教皇の側近全員が「歴史を繰り返させない」という決意を固めているようだ。バチカンをめぐる金融スキャンダルについての記事を掲載したイタリアで最も広く読まれている週刊誌が20日に、21日に同スキャンダルに関する新刊本が相次いで発行されるに至って、有力な教皇側近の2人が反撃した。

 「起こっていることは、私たちの信用を落とすための計略そのものと思われる」と、枢機卿顧問会議のメンバーで教皇の最側近の1人、オスカル・ロドリゲス・マラディアガ枢機卿が、イタリア最大の日刊紙、La Repubblicaへのインタビューで語った。

 「彼らは教皇職に打撃を与えたいのです。最初、彼らは小児性愛者の集まりとして教会を非難したが、今は、経済的な無軌道ぶりを取り上げようとしているが、そんなことは無い」と断言した。

 6月に(注:バチカンの不動産とソブリン債投資を管理する)聖座財産管理局(APSA)の局長に任命され、教皇の信任あついヌンツィオ・ガランティーノ司教は、イタリア司教団の新聞Avvenireとのインタビューで、バチカンの会計には「”ひび割れ”や債務不履行などはありません」とし、「問題の本の試し刷りを読みましたが、スキャンダラスな書きっぷりは本としてはいいのでしょうが、教会のような複雑かつまとまった組織を描くにしてはお粗末です。”秘密”とか”正道を踏み外した”とかいう表現には合わない」と批判した。

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 バチカンの財務・金融をめぐる記事は、イタリアのジャーナリスト、エミリアーノ・フィッティパルディとジャンルイージ・ヌッツィによるもので、バチカンの内部調査のメモを含む漏洩文書に基づいていると言われている。 2人は、「Vatileaks II」として知られる2015年のバチカンの機密財務情報のすっぱ抜きで、バチカンの検察官から告発されたが、最終的には「管轄違い」ということで立ち消えになった。

 フィッティパルディが20日付けのイタリアの有力週刊誌 L’Espressoに載せた記事によれば、バチカンの国務省が、世界の教会から集められ教皇の慈善事業支援にあてられる「聖ペトロ使徒座への献金」から、2億ドルを引き出し、ロンドンの高級住宅街チェルシーにある有名デパート・ハロッズ所有の倉庫群の一部を高級マンションへの転用目的で購入し、さらにバチカンの「宗教事業協会」(通称「バチカン銀行」)に残りを購入するために1億5,000万ドルの融資を求めた。バチカン銀行は、金融取引に関して新しく定められた規則に従って、バチカンの司法当局にこの件を報告した、司法当局が調査を始めている。

 これに対して、マラディアガ枢機卿は「慈善活動のための資金が流用された」との報道を否定し、「『聖ペトロ使徒座への献金』が金融目的に使われることは無いし、私はそのようなことは聞いたことがない」と言明した。また、現在バチカンで教皇も参加して開かれているアマゾン地域シノドスの時期に、この報道がなされたのは「偶然ではない… 地域シノドスで扱われている重要議題のほかに、この問題を載せようとしたものと考えざるを得ない」と批判した。

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 一方、ヌッツィが21日に出版した単行本「 Final Judgment」は、バチカン財政の問題を取り上げ、「バチカンは収入の減少で財政危機に直面しており、債務不履行に陥るリスクの水準に達している」としたうえで、「バチカンの真の財政状況を明確に把握できない原因の一つは、聖座財産管理局(APSA)に秘密の口座が存在し、無名の個人の債権を隠していることだ」と指摘した。

 これに対し、ガランティーノAPSA局長は「書かれていることは全て偽、ないしは誇張されている」と反論。「APSAには、秘密あるいは暗号コード化された口座はない。反論の証拠がある」と述べ、「APSAには、聖座、関連団体、バチカン市国政府以外に、個人やは法人の口座はない」と否定した。

 そして、現在、歳出について見直しを進めていることを認めたうえで、「人件費と材料の調達を抑えるために歳出を見直す必要があり、現在、細心の注意と注意を払ってそれに取り組んでいるが、いわゆる”債務不履行”の恐れはない」と言明。「私たちが話しているのは、歳出を抑えねばならない、ということを自覚する必要がある状況についてです… 良い家庭やまじめに国で起きるのと同じことです」と語った。

 ガランティーノ局長はまた、財政金融の論争と情報漏出は、教皇と彼が進める教皇庁改革をめぐる内部抗争の産物、との見方を否定。「『教皇の教皇庁への対応に反対』というのは、使い古されたジャーナリスティックな決まり文句だ」とし、「私たちは皆、収支の均衡を図り続けている。私たちは教皇の意向を正確に、それだけを目的にやっている…そうしたことを語る以外の現在の状況についての記事は、まったくの創作、「ダヴィンチコード」(注:米国の人気作家、ダン・ブラウンがカトリックを題材に書いた長編推理小説)を想起させます」と批判している。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

 ・・Cruxは、カトリック専門のニュース、分析、評論を網羅する米国のインターネット・メディアです。 2014年9月に米国の主要日刊紙の一つである「ボストン・グローブ」 (欧米を中心にした聖職者による幼児性的虐待事件摘発のきっかけとなった世界的なスクープで有名。映画化され、日本でも昨年、全国上映された)の報道活動の一環として創刊されました。現在は、米国に本拠を置くカトリック団体とパートナーシップを組み、多くのカトリック関係団体、機関、個人の支援を受けて、バチカンを含め,どこからも干渉を受けない、独立系カトリック・メディアとして世界的に高い評価を受けています。「カトリック・あい」は、カトリック専門の非営利メディアとして、Cruxが発信するニュース、分析、評論の日本語への翻訳、転載について了解を得て、掲載しています。

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2019年10月23日

・バチカン銀行頭取が「諸改革でバチカン銀行は完全に刷新、問題は皆無」と言明

 

A file photo of the Vatican BankA file photo of the Vatican Bank  (© Vatican Media)

(2019.10.10 VaticanNews )

  イタリアの日刊経済紙 “Il Sole 24 Ore”が、バチカン銀行のジャン・バプティステ・ドービル・ド・フランス頭取の大型インタビュー記事を掲載した。ド・フランス氏は2014年7月に頭取に就任以来、同行を国際的な規範・慣行に倣った機関とするように、との教皇フランシスコの指示にに従って、枢機卿委員会の監督の下に、同行の改革を進めてきたが、マスコミのインタビューを受けたのは初めて。

 インタビューで、頭取はまず、バチカンの検察当局の捜査によってバチカン国務省の職員4人と金融・財政情報管理局の局長に職務停止の措置がとられたことについて「捜査は内部の緊張の結果ではなく、単に、法律を適用した公務員の行動であり、日常的な活動で見つかった不具合を報告する義務に則ったもの」であり、「金融・財政情報管理局を相手にしたものでも、まして国務省を相手取ったものでもない」と言明。さらに「誰も、どの部署も告発されているわけではない」と述べた。

 さらに、検察当局への通報は、制度を守るために、名称不明の人に対してなされたもので、当局は現在、捜査中であり、「当然のこととして採らねばならないは、『推定無罪』が常に適用される、ということだ」と語った。

 バチカン銀行の欧州単一通貨への加盟については、「数年前に比べて、バチカン銀行は完全に刷新され、企業統治、内部管理についての専門知識・技能や、取引相手への対応も十分。これまでの結果は満足すべきであり、現在目指しているのは、これまでしてきたことを、特に顧客の利益のために、継続、洗練し、完全にすること。改革は、常に改善しているもので、継続されている。透明で適法な方向は決して放棄されることは無い。顧客は私たちの仕事で十分に守られている。

 また、バチカン銀行の使命についての問いに対しては、「世界中の教会への奉仕であることに変わりはない。今日、バチカン銀行は一つの本部、100名あまりの職員で、世界112か国に対応し、その中には地勢的に難しい場所、信頼がおける満足のいく金融サービスを受けられない所もある。そうした領域で活動するのがバチカン銀行の使命だ」と答えた。

 また頭取は、バチカン銀行の現在の正式名称IOR(宗教事業協会)を変えるつもりはない、とし、バチカンの各部署が自分たちの預金の管理をIORに任せることができるのは、第一に、「我々がカトリックの信仰とカトリック教会の社会教説の規範を大切にしているから」、第二に、「我々が挙げた収益は教皇の司牧活動に回されている。バチカンのある部署、あるいはある顧客がIORと仕事をした時、教皇の仕事に直接、具体的な財政貢献をし、一般の銀行に特徴的な経済的動機で動いていないからだ」と説明。

 最後に頭取は、バチカン銀行のサービスの質、極めて低いコスト、資金運用にあたっての倫理的規範に言及し、「これらは、倫理的、カトリック的規範に最大限遵守することを保証するために、これまで以上に精緻で完全なものだ」と言明した。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

 

2019年10月12日