・「現実の中で福音を証しする使命を自覚する時は、今だ」菊地東京大司教の聖霊降臨の祝日ミサ

(2020.5.31 菊地大司教の日記)

聖霊降臨の主日@東京カテドラル

 復活節の締めくくりでもある聖霊降臨の主日となりました。結局、2020年は、四旬節も復活節も、教会のミサを公開で行うことができませんでした。受洗を予定されていた多くの方や、また今日の聖霊降臨にカテドラルで合同堅信式を予定されていた多くの方。大変申し訳ない。大きな喜びの時を、大きな試練の時としてしまい、大変残念です。

 今後、ミサが公開となっていった段階で、小教区教会共同体全体とは行かないかも知れませんが、共同体の中で、洗礼や堅信を受けるようにしてください。個人的に個別に行うと言うアイディアもありましたが、やはり洗礼も堅信も、緊急の場合を除いて、共同体のお祝いであり、共同体の一員として秘跡にあずかっていただくのが本来の姿です。今後、主任司祭が様々な工夫をして洗礼や堅信を行っていくことになりますので、よくご相談ください。

 なお、現時点では、東京教区の小教区公開ミサを再開することはできません。もうしばらくお待ちください。緊急事態解除後に、感染者がゼロになったわけでもなく、亡くなられるかたもおられます。状況を見極め、また特に東京都のロードマップを参考にしながら、時期を定めてまいります。互いのいのちを守るために、慎重に行動したいと思います。

 具体的な指針についての問い合わせが、いくつか教区本部にありました。お知らせしたように、4月末に、具体的な対応のガイドラインを小教区の司祭に配布しました。それぞれに必要な対応を準備していただくためです。公開していない理由は、東京教区の中でも地域によって状況が異なりますので、すべての小教区で統一した全く同じ対応をすることは難しいと思われるからです。ガイドラインの一人歩きは避けた方が賢明だと思います。

 各小教区では、教区のガイドラインに沿って、地域の状況に合わせたアレンジをしていただかなくてはなりません。その作業を、主任司祭と、この数週間は教会の役員の方々などと一緒に、進めていただいております。

 ミサを公開する日時を定めましたら、その10日くらい前にはお知らせします。その際には、教区がすでに定めた具体的なガイドラインも公開します。それに基づいたそれぞれの小教区の対応も、お知らせすることになると思いますので、主任司祭の指示に従ってくださるように、お願いいたします。

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 以下、本日の説教の原稿です。

聖霊降臨の主日 東京カテドラル聖マリア大聖堂(配信ミサ) 2020年5月31日

 緊急事態宣言が解除され、私たちは、閉じこもっていた部屋から解放されたように感じています。あの日の、恐れのなかにあった弟子たちのように、部屋の鍵をかけて隠れているような心持ちで、私たちも毎日を過ごしてまいりました。

 感染にはこれからも繰り返し波があると指摘されていますから、緊急事態宣言の解除が安全宣言ではないことを心にとめて、慎重な行動をとらなければなりません。教会も、社会の中における責任を自覚し、また大切な命を守ることを優先して行動していきたいと思います。

 改めて、今回の事態にあたり、日夜努力を続けておられる医療関係者の方々に感謝し、また病床にある方々へ慈しみ深い御父の癒やしの手が差し伸べられるように祈ります。

 恐れは私たちの心を束縛します。弟子たちは恐れに束縛されて、部屋に閉じこもりました。イエスはその部屋に入り、聖霊を与え、弟子たちを恐れの束縛から解放します。

 「あなた方に平和があるように」-「死」という最大の束縛から解放された復活の主は、弟子たちに言葉をかけます。それは、いつものあいさつの言葉に留まらす、恐れに束縛される心には、神の平和が欠如しているという事実を指摘しています。

 神の平和とは、すなわち、神の秩序の実現です。神の平和の欠如とは、すなわち、神が求めておられる世界のあり方とは、正反対にある状態です。恐れる心は自分を守ろうとする思いに満たされ、他者への配慮に欠ける心となりかねません。互いに助ける者として共に生きるように、と命を与えられた私たちが、他者への心配りを忘れては、神の秩序の実現はあり得ません。

 「聖霊を受けなさい」と恐れる弟子たちに、イエスは語りかけます。聖霊は、「命の霊、すなわち永遠の命の水が湧き出る泉」であります(教会憲章4)。聖霊は、心の恐れを打ち砕く、命の源です。聖霊に生かされたとき、初めて、神の平和が実現します。

 使徒言行録は、聖霊によって生かされた弟子たちが、様々な言葉で福音を語る姿を記しています。もちろん聖霊をいただくことによって、様々な言葉が話せるようになれば、それはそれで素晴らしいことですが、この出来事が記されている本質はそこにはありません。大切なのは、言葉や文化の壁を乗り越えて福音が理解されたときに、初めて神の平和が実現する一歩が踏み出されると言うことです。

 「父が私をお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」とイエスは、弟子たちに勇気を持って一歩前に踏み出すように促します。聖霊を受けた教会は、言葉や文化の壁を乗り越えて福音が理解され、神の平和が実現するようにと、遣わされています。神の望まれる世界の実現のために、遣わされています。

 改めて言うまでもなく、私たち一人ひとりはキリストの体の一部として、「皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらった」のですから、主によって派遣されている教会の一部として、同じように、一人ひとりがイエスによって派遣されています。

 私たちの派遣の使命は、聖霊の導きに従いながら、復活された主イエスの福音をありとあらゆる方法で、なおかつ理解される方法で多くの人に伝え、神の平和を実現することにあります。

 1998年に開催されたアジアシノドスを受けて発表された教皇ヨハネパウロ二世の使徒的勧告「アジアにおける教会」に、教会の派遣の使命について、次のような指摘があります。

 「教会は、聖霊の促しに従うときだけ自らの使命を果たすことができることをよく知っています。教会は、アジアの複雑な現実において、聖霊の働きの純粋なしるしと道具となって、アジアのあらゆる異なった環境の中で、新しく効果的な方法を用いて救い主イエスをあかしするよう招く聖霊の促しを識別しなければなりません(18)」

 その上で教皇ヨハネパウロ二世は、アジアにおける福音宣教の道を次のように示唆します。

 「アジアにおいては非常に異なった状況が複雑に絡み合っていることを深く意識し、『愛に根ざして真理を語り』つつ、教会は、聞き手への尊敬と敬愛を持って福音を告げしらせます。(20)」

 同じアジアにおける教会の一員であるわたしたちは、日本社会の現実の中へと派遣されて、「愛に根ざして真理を語」らなくてはなりません。私たちは、「尊敬と敬愛を持って」対話のうちに福音を告げなくてはなりません。聖霊の促しを受けて、その働きの純粋なしるしと道具となって、神の平和が実現するようにと、福音を告げなくてはなりません。

 教皇フランシスコは、「福音の喜び」の終わりに、「聖霊と共にある福音宣教者」というひと項目を設けています。そこに「聖霊は、福音を宣教する教会の魂」だと言う言葉があります。

 そして教皇は、こう呼びかけます。

 「宣教活動の中心にイエスの現存を見いだすことがなければ、すぐに熱意を喪失して、伝えていることに確信が持てず、力と情熱を失うことでしょう。信念も、熱意も、自信も、愛情もない者は、誰も納得させえません。イエスと結ばれ、イエスが求めるものを求め、イエスが愛するものを愛してください(266)」

 私たち自身が、イエスの現存を肌で、心で感じていなければ、何も伝えることはできない。私たちがそれを生きていなければ、何も伝えることはできない。

 恐れは不信を生み、不信は利己主義へとつながり、連帯のきずなは崩壊します。恐れの内に閉じこもろうとする社会に、私たちは命の泉である聖霊の息吹を吹き込みたい。

 だからこそ、聖霊に導かれる教会は、常に新たにされ、恐れて閉じこもることなく、勇気を持って福音を告げる努力を続けなくてはなりません。教会は常に、聖霊の呼びかけに応えているかを見つめ直さなくてはなりません。

 感染症の拡大という困難は、3か月にわたって、これまでの教会活動を止めてしまいました。しかしそのことが同時に、この現実の中で教会のあるべき姿をあらためて探求しようとする、いわば黙想の時間を、私たちに与えてくれました。教会は、困難な状況をくぐり抜けた後で、新たに立ち上がることを求められています。一人ひとりがキリストの体の一部として、現実の中で福音を証しするよう派遣されている使命を、改めて自覚する時は、今です。

 社会に定着しようとする新しい生活様式とは、単にマスクをいつも着けることだとか、充分な社会的距離を保つといった、外面的な規則を守ることに留まるのではありません。それは生き方の転換や価値観の転換を促す、社会構造の変革の機会でもあります。

 発表されてちょうど5年となる回勅「ラウダート・シ」において、総合的エコロジーの視点を強調される教皇フランシスコは、「後続する世代の人々に、今成長しつつある子どもたちに、どのような世界を残そうとするのでしょうか」と問いかけ、さらに「この世界でわたしたちは何のために生きるのか。私たちはなぜ、ここにいるのか」と言う根本的な問いに対して、真摯に向き合うようにと呼びかけます(160)。

 聖霊に導かれて、恐れに打ち勝ち、日々新たにされながら、神の望まれる世界、すなわち神の正義が具体化する新たな世界の実現を目指して、一歩前に踏み出しましょう。

(漢字表記は当用漢字表にならっています)

2020年5月31日

・「香港で起きている真実はー基本的人権の破壊だ」ーカトリック人権活動家が訴え

 ロジャース氏は、香港の人権問題の専門家、英国保守党の人権委員会の共同創設者、副会長。「Christian Solidarity Worldwide」東アジアチームのリーダー、「Hong Kong Watch」の創設者、会長でもあり、現在の香港危機について多くの情報発信を続けている。

 

問: 香港は中国の国家安全法導入で、どのように変わるでしょうか?

答:新しい国家安全法は、香港市民の基本的な自由を事実上破壊するでしょう。 いわゆる”転覆” “離脱” として”外国の政治勢力との共謀”を犯罪として取り締まる… 香港の人々が外国の議員や人権団体、メディアに話をすることは犯罪、ということになり、抗議する権利を否定し、報道の自由と宗教の自由を脅かし、香港の「独立」についての平和的に議論することも犯罪にされてしまう。

 どの国と地域には国民の安全を守る権利がありますが、国家安全法は、香港の基本法が市民に約束する普通選挙権の行使なしに香港に適用される、非常に危険なものであり、市民的及び政治的権利に関する国際規約の署名者としての香港の義務と、香港返還に関する中英共同宣言で定めた中国の義務に対する重大な違反です。

 

問:中国の外相は、米英の香港での「干渉」を止めるために国家安全法が必要だ、と説明しています。「干渉」は本当に存在するのでしょうか?この法律の真の狙いは何ですか?

答:ロジャース:外相が言うような「干渉」はありません。これは、中国共産党(CCP)が使う典型的で、都合のいい宣伝文句です。英国は、中英共同宣言、国連に提出し国際条約、および国際社会で表明した香港の自治と自由を監視および擁護する、正当な、道徳的、法的義務を負っています。香港市民が明確に表明している基本的自由の堅持と普通選挙権は約束されたものであり、守られるべきものなのです。この法律の真の狙いは、反対する意見を抑え込み、中国共産党の香港支配を強化し、香港を中国の”もう一つの都市”にすることです。

問:香港の学生や民権派の人々は抗議行動を続けられるでしょうか? 彼らは希望を無くしてしまうのでしょうか?

答:新しい法律の発表後、先週の日曜日に、何千人もの人々が抗議しました。抗議が止まる可能性は非常に低いと思います。 香港人たちは自分たちの自由を守る決心をしており、抗議活動は増えると思います。希望を失った人もいますが、多くの人は本当に私たちが考えられないほどの強い決意をしているのです。

 

問:一部の評論家などは、香港の特別な経済的地位を、米国が取り消したら、習近平の思うつぼに嵌まってしまうだろう、彼の狙いは、香港を貧しくし、香港にある主要な金融機関を中国ほんとに移すことにある、と見ていますが?

答:習近平がそうすることにはリスクがあり、香港から特別な地位を奪うことは最後の手段と言えるでしょうが、彼のテーブルに載せているのは間違いありません。香港が自治権を失い、「一国二制度」が終焉し、中国の”もう一つ都市”になった場合、高度な自治権のもとに確立された香港の特別な経済的地位の正当性はどうなるのか。ここで考えるべきは、「HongKong Watchi]がレポート「Why Hong Kong Matters」で主張しているように、世界の主要金融センターとしての香港が、中国経済と国際社会にとって非常に重要であるということです。

 

問:香港のこのような状況に、米国と他の民主主義国は何ができるでしょうか?

答:まず、香港返還の共同宣言に署名し、自国の香港支配の歴史に起因する明確な道義的責任を負う英国が、米国およびその他の国々、機関とともに、グローバルな対応の先頭に立つことが重要です。香港の自由を擁護するために、世界の指導者が明確に、一貫して、繰り返し、しっかりと発言することが不可欠です。英国の最後の香港総督だったクリス・パッテン氏が、5月25日付けの英経済紙Financial Timesで主張したように、英国は先進7か国(G7)やその他の国際的な場で、この問題を積極的に取り上げるべきです。

 第二に、英国は、志を同じくする国々がグローバルな対応を調整するための場を形成する必要があります-英国、欧州諸国、米国、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、そして、日本、韓国、インドネシアなどのアジア太平洋地域の民主主義の国々とです。

 第三に、各国は中国政府と香港政府、および人権侵害に責任を負う警察当局の個々の人物に対してマグニツキー方式の制裁を課すことを検討する必要があります。

 (注:米国は2012年12月、、ロシアの人権弁護士セルゲイ・マグニツキー(Sergei Magnitsky)氏獄死事件などの人権侵害に対して、関与したと判断する人々を個別に制裁する「セルゲイ・マグニツキー法(Sergei Magnitsky Act)」を施行、同氏の死に関与したとされるロシアの検察官、捜査官、税務官、判事らの実名を公表するとともに、米国への渡航禁止、米国内資産を財務省の制裁措置下に置いた。)

 第四に、英国は他の国々とともに、香港返還の中英共同宣言の明確な違反に対処するために、法的または外交的手段による必要な措置を検討する必要があります。

 第五に、英国と他国政府は協力して、香港の活動家が危険にさらされた場合に避難できる場を提供する必要があります。先週末に、世界の200名以上の国会議員、25か国の地位の高い政治家および政府職員が出した声明を、国際社会は重視する必要があります。

 

問:香港市民を支援するNGOの役割は何ですか?

答:私たちの役割は、世界各国の政策立案者、国会議員、メディア、学者、一般大衆に対して、基本的な人権と自由のための闘いにおいて香港市民を支援するよう提唱し、声を挙げ、情報提供し、人々を動かすことです。私たちは、ここ数週間に、支援活動を強化しており、www.hongkongwatch.orgで多くの情報を発信しています。そして、国際社会が行動を起こすように働きかけを続けます。

 

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

*Bitter Winter(https://jp.bitterwinter.org )は、中国における信教の自由 と人権 について報道するオンライン・メディアとして2018年5月に創刊。イタリアのトリノを拠点とする新興宗教研究センター(CESNUR)が、毎日5言語でニュースを発信中。世界各国の研究者、ジャーナリスト、人権活動家が連携し、中国における、あらゆる宗教に対する迫害に関するニュース、公的文書、証言を公表し、弱者の声を伝えている。中国全土の数百人の記者ネットワークにより生の声を届け, 中国の現状や、宗教の状況を毎日報告しており、多くの場合、他では目にしないような写真や動画も送信している。中国で迫害を受けている宗教的マイノリティや宗教団体から直接報告を受けることもある。編集長のマッシモ・イントロヴィーニャ(Massimo Introvigne)は教皇庁立グレゴリアン大学で学んだ宗教研究で著名な学者。ー「カトリック・あい」はBitterWinterの承認を受けて記事を転載します。

 

2020年5月29日

・「共に命を守るために連帯する時、世界は初めて生きる希望を生み出す」菊地・東京大司教の「主の昇天」ミサ説教

(2020.5.24 菊地大司教の日記)

復活節第七主日・主の昇天@東京カテドラル

 復活節第七の主日は、日本を初め多くの国で、その前の木曜日の「主の昇天」を、この日曜に移動させて祝います。復活節も終わりに近づき、来週は聖霊降臨の主日となりました。

 公開ミサを四旬節第一主日から非公開として、だいぶ時間が経ちました。その間には、政府による緊急事態宣言もあり、社会全体が立ち止まっているように感じます。教会も集まることができなくなり、ミサを通じて神の言葉をいただき、聖体の秘跡に共に与ることができなくなっています。共同体としての一致を求める教会は、いま、改めてその存在の意味を共に見つめ直し、これからの教会共同体の姿を模索する時を与えられています。よりふさわしい道を見いだすことができるように、聖霊の導きを願いましょう。

 なお皆さまご承知の通り、緊急事態宣言の解除は、そのままで安全宣言ではありません。従って、東京教区を構成する東京都と千葉県を対象とした緊急事態宣言が解除されたからと行って、即座に教会活動を再開させることはできません。政府は現在、明日25日の解除を検討中と、うかがっていますが、その翌日に教区としての今後について、お知らせします。

 また東京都の「ロードマップ」の各ステップにおける集会の人数制限もありますので、教会にとっても難しい選択が待ち構えています。なお、その後の教会活動については、すでに教区としての検討は終わり、4月30日に司祭に伝達して、それぞれの小教区での具体的な対応の検討を始めていただいています。教区としての大枠であるガイドラインも、時期を見計らって公示いたしますが、それに基づいて今後示されることになるであろう、それぞれの主任司祭と小教区の役員の方々の判断に、どうかご協力くださるようにお願いいたします。

 以下、本日の配信ミサの説教原稿です。

復活節第七主日・主の昇天 東京カテドラル聖マリア大聖堂(配信ミサ) 2020年5月24日

 「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか」

 新しい命へと復活された主イエスは、40日にわたって弟子たちとともにおられ、神の国について教え、地の果てに至るまで、イエスの証し人となるようにと命じられた後に、天に上げられたと、使徒言行録の冒頭に記されています。

 十字架上での死によって、主が取り去られてしまった弟子たちは、大きな絶望を味わったことでしょう。神の国の実現という、将来に向けての具体的な目的が潰えてしまったからです。しかし主は復活されて現れ、あらためて弟子たちを力づけられた。弟子たちには再び希望が芽生えます。「イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」という問いかけに、改めて将来に向けて生きる目的を見い出した弟子たちの希望が表されています。

 しかし、主は再び自分たちから離れて行かれた。弟子たちは呆然として、天を見上げて立ちすくんでいたことでしょう。手にしかけた希望を、あらためて奪われてしまったのです。

 その茫然自失の状態で立ち尽くす弟子たちに、天使は希望の言葉を告げます。

「天に行かれるのをあなた方が見たのと同じ有様で、またおいでになる」

 困難な状況の中にあるわたしたちは、感染予防のために続けてきた活動の自粛の出口を、かろうじて見通すことができるようになってきました。感染には波があると指摘されており、まだまだ油断することはできませんが、当初の頃に較べれば、そこには光が見えつつあり、希望を感じ取ることができます。希望は人を生かします。希望は不安を打ち砕き、行動へと駆り立てる勇気を与えます。希望は、守りに入って自分だけを見つめる目を、助けを必要とする他者へと開きます。

 この希望への道を切り開いてくださっている医療関係者の努力に、改めて感謝すると共に、病床にある方々の一日も早い回復を心から祈ります。

 「あなたの教区の希望は何ですか」

 司教になって初めての定期訪問アド・リミナで2007年にローマを訪れたとき、当時の教皇ベネディクト十六世との個別謁見で、そう尋ねられました。「教区の将来への不安」であればいくらでも並べることができますが、希望はなかなか思いつかず、考え込んだことを記憶しています。

 信仰・希望・愛の三つの徳を重要なテーマとされ深めたベネディクト十六世は、希望についてしばしば語り、「私たちの信仰とは希望である」と断言されます。

 回勅「希望による救い」で、テサロニケの信徒へあてたパウロの言葉を引用した上で、教皇はこう述べています。

 「(当時の)キリスト信者は、将来自分たちを待ち受けていることを正確に知っていたわけではありませんでした。けれども彼らは、いかなる人生も無で終わるのでないことを知っていたのです。未来が積極的な現実として確実に存在するとき、初めて現在を生きることも可能になります」(2)

 その上で、その人生に希望をもたらす、イエスの福音とは何なのかを、次のように続けます。

 「福音は、あることを伝達して、知らせるだけではありません。福音は、あることを引き起こし、生活を変えるような伝達行為なのです。時間、すなわち未来の未知の扉が開かれます。希望を持つ人は生き方が変わります。新しいいのちのたまものを与えられるからです」(2)

 いま、私たちは、困難な状況を克服しようと努めていますが、その道程にあって、どのような希望を求めているのでしょうか。どのような未来を実現しようとしているのでしょうか。そのためにどのような生き方を選び取ろうとしているのでしょうか。

 マタイ福音に記されたイエスご自身の言葉は、私たちの生きる希望です。

 「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」

 様々な困難に直面し、人間という存在の弱さと小ささを自覚させられるときに、それでも私たちは見捨てられることはない。いつまでも共にいてくださる主が、未来に向かって歩みを共にしてくださる。私たちは、この約束の言葉に、生きる希望を見いだします。

 命の危機という困難を克服しようとしている今、世界に必要なのは希望です。希望は過去にはなく、これから進み行く未来にあります。過去に夢を見て、戻ろうとするところに、真の希望はありません。苦しみのその先にある未知の扉を開き、希望を生み出すために、私たちはいったいどこに向かって、どう生きていけば良いのか。

 その鍵は、教会がこれまでたびたび指摘してきた「連帯」にあります。

 ベネディクト十六世は「救いへの希望」で、こう述べています。

 「私だけの希望は、真の希望ではありません。それは他の人を忘れ、ないがしろにするからです」(28)

 困難な状況の中で命の危機に直面している世界は、この数ヶ月の間、命を守るためには連帯しなければならないことを、心に感じ取っています。同時に、身を守ろうとするあまり利己的になり、名ばかりの連帯で、関係性にあって攻撃的な言動も見られます。攻撃性は、社会にあっては差別的言動も生み出しています。そこに希望は見いだせません。

 私たちは真の希望を求めています。命の希望を求めています。救いへの希望を求めています。その希望は「私だけの希望」では、「真の希望では」ない。「他の人を忘れ、ないがしろにする」希望は、真の希望ではない。真の希望は、共有する希望です。互いを思いやり支え合うきずなの中で、共に命を守るために連帯するとき、世界は初めて、生きる希望を生み出すことができます。

 教皇ヨハネパウロ二世は、連帯の重要性も強調された教皇ですが、回勅「真の開発とは」に、連帯の意味をこう記しています。

 「(連帯とは)至るところに存在する無数の人々の不幸、災いに対する曖昧な同情の念でもなければ、浅薄な形ばかりの悲痛の思いでもありません。むしろそれは、確固とした決意であり、共通善に向かって、すなわち私たちは、すべての人々に対して重い責任を負うがゆえに、個々の人間の善に向かい、人類全体の善に向かって自らをかけて、共通善のために働くべきであるとする堅固な決断なのです」(38)

 私たちは、単なる「優しさに基づいた行動としての連帯」を目指してはいません。私たちの目指す連帯は、自分の利益のためではなく、すべての人の善益のためであり、互いに関心を寄せ合い、思いやり、支え合い、互いを忘れることなく、一致を目指す連帯です。私たちと常に共にいてくださる主イエスの存在を確信させるため、その言葉と行いを具体的に証しする行動です。真の希望を生み出すため、共通の家を互いに守り、誰一人として排除されることのない世界を生み出そうとする、明確な決断を伴う行動です。

 「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束された主の言葉に信頼しながら、困難に直面する社会で真の希望を生み出すために、すべての人と真の連帯を強め、忍耐と謙遜の内に希望の福音を証しする者となりましょう。

(表記は、当用漢字表記に統一してあります「カトリック・あい」)

2020年5月24日

・「”仮想”でも”現実”でも、福音を伝える努力を」菊地・東京大司教の復活節第六主日の説教

(2020.5.17 菊地大司教の日記)

復活節第六主日@東京カテドラル

 復活節第六主日です。復活の主日から、あっという間にひと月ほどが経過し、昇天祭(今週の木曜日ですが、日本をはじめいくつかの国では、次の主日に祝います)や聖霊降臨祭が近づいてきました。

 本日の説教でも触れていますが、教会は今日の主日を、「世界広報の日」と定めています。教皇様の世界広報の日のメッセージは、こちらのリンクから、中央協議会ホームページで読むことができます。

 また、明日、5月18日は聖ヨハネパウロ二世教皇の生誕100年の日です。これも説教で触れていますが、本来であれば、ポーランド大使との協力の中で、本日日曜の夕方に、私の司式でカテドラルにおいて記念ミサを捧げる予定でした。残念ながら、現在の状況で延期となりました。

 以下、本日のミサの説教の原稿です。

 私たちは、イエス・キリストの福音を述べ伝えます。人となられた神の言葉である、イエスを告げ知らせます。「折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです」とパウロがテモテへの手紙に記すように、ありとあらゆる困難を乗り越えてでも、私たちは福音を述べ伝えます。福音を告げ知らせることが、私たちに与えられた使命だからに他なりません。

 困難な状況が続く中でも、次のステップに進む可能性が辛うじて見えてきた今、三か月近くも教会に集まれずにいる私たちは、どうしても、教会へと実際に足を運び、一緒になってミサにあずかることに、思いを集中させてしまいます。もちろん集まることは大切なことですし、ご聖体における一致は、教会共同体の根本を形作るものであります。

 しかし同時に、私たちは、与えられている大切な使命を思い起こしたい。福音を、社会のただ中で、すべての人へ告げるようにと派遣されている、その使命を思い起こしたい。とりわけ、この困難な状況の中で、暗闇における希望の光を輝かせる務めが、教会にはあるのだ、と思い起こしたい。そして、その教会とは、誰かのことではなく、私たち一人ひとりのことだと、自分のことなのだと、思い起こしたい。

 教会は、今日の主日を「世界広報の日」と定めています。第二バチカン公会議の「広報メディアに関する教令」に基づき、「広報分野における各自の責務について教えられ、この種の使徒職活動のために祈り、援助のために募金するように(18項)」と、1967年に始まりました。

 もちろん当初は、新聞、雑誌、テレビ、ラジオ、映画などの広報媒体を用いて行う専門的な使徒職が対象でしたが、今や、時代はインターネットです。SNSの様々な手段を通じて私たちは、個人的なコミュニケーションにとどまらず、誰でもいつでも、世界に向けて声を届ける手段を手に入れました。いまや、広報における使徒職は、特別な人や団体だけに限定された使徒職ではなく、すべてのキリスト者が関わることのできる福音宣教のための使徒職ともなりました。

 広報専門職の重要性には変わりがありませんが、同時に、すべてのキリスト者が、福音宣教のための道具を手にしているのです。もう、福音宣教ができない口実を並べることはできません。私たちは、道具を手にしているからです。

 「広報メディアに関する教令」には、こう記されています。

 「母である教会は、これらのメディアが正しく活用されるなら、人類に大きく貢献することを熟知している。それらが人々を憩わせ、精神を富ませ、また神の国を述べ伝え、堅固なものとするために大いに貢献するからである(2)」

 しかし同時に、この教令は、次のような警告も記しています。

 「人々が神である創造主の計画に反してメディアを用い、それらを人類への損失に変えうることを、教会は認識している。実に、その誤用によって、人間社会に幾たびとなく、もたらされた損害を前に、教会は母としての痛みを感じている(2)」

 確かにこの数年、私たちは簡便なコミュニケーション手段を手に入れ、どこにいたとしても、十数年前とは比べものにならないほど大量の情報を、あっという間に集めることができるようになりました。さらには、SNSを通じて、簡単に不特定多数に向けての情報発信ができます。

 それと同時に、「フェイク・ニュース」という言葉に代表される裏付けのないデマに、簡単に踊らされる事態に直面する危険も増えています。

 さらには、発信される言葉が時として暴力的になり、人間の尊厳をおとしめるような差別を生み出す原因となったり、命を危機にさらすような出来事の引き金を引く可能性すら存在します。この数か月のように、先行きが見通せない中で不安が積み重なっている状況は、疑心暗鬼の中で殺伐とした言葉のやりとりを生み出す可能性を持っています。

 ペトロは今日の第二朗読の中で、「あなた方の抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。それも、穏やかに、敬意を持って、正しい良心で、弁明するようにしなさい」と諭しています。

 イエスご自身から、福音宣教の使命を与えられている私たちは、SNSなどを通じた発信が、福音宣教の使徒職を果たすための手段となるという可能性を、意識したいと思います。

 私たちは、自分の言葉を「穏やかに、敬意を持って、正しい良心」のうちに、ネットに向けて発信するように、心したいと思います。

 今年の世界広報の日にあたり教皇フランシスコは、一人ひとりが語る物語の重要性を指摘するメッセージを発表されています。教皇は、メッセージ冒頭でこう述べておられます。

 「道に迷ったままに、ならないためには、よい物語から真理を吸収する必要があると、私は信じているからです。よい物語とは、壊すのではなく築き上げる物語、自分のルーツと、ともに前に進むための力を見いだす助けとなる物語です」

人はそれぞれの物語を語り、互いに分かち合うことで豊かにされ、成長すると指摘する教皇は、現状を次のように分析しています。

「幸せになるためには、獲得し、所有し、消費することを続ける必要があると信じ込ませ、説き伏せる物語がどれほど多くあることでしょう。・・・裏づけのない情報を寄せ集め、ありきたりな話や一見説得力のありそうな話を繰り返し、ヘイトスピーチで人を傷つけ、人間の物語をつむぐどころか、人間から尊厳を奪っているのです」

 当然、私たちが伝える福音は、物語です。私たちは、イエスの物語を受け継ぎ、それを他の人へ物語ろうとしています。福音の物語は、イエスについての教えや知識にとどまらず、それを受け取った私たちが、具体的に、その物語を生きるようにとうながします。命を大切にし、互いに助け合い、尊重し合い、ともに道を見いだすようにと、うながす物語です。

 明日、5月18日は聖ヨハネパウロ二世の生誕100年にあたります。特に、ポーランドの皆さんにお祝いの言葉を述べたいと思います。本来は、今夕に、ポーランド大使館の主催で、生誕100年記念のミサを、ここカテドラルでささげる予定でした。

 その聖ヨハネパウロ二世は、2002年の世界広報の日のメッセージで、インターネットを通じた福音宣教の可能性に触れながら、こう記しておられます。

 「大切になるのは、キリスト教共同体が実践的な方法を考案し、インターネットを通して初めて接触してきた人たちが、サイバースペースの仮想世界から現実のキリスト教共同体世界へと移行する助けとなることです」

 私たちは、与えられた福音宣教の道具を賢明に用いながら、仮想世界であっても現実世界であっても、福音を述べ伝え、信仰における深い絆に結ばれた信仰共同体を実現し、育んでいくことができるように、努めたいと思います。

2020年5月17日

・「新型ウイルスの世界的大感染は、より良い世界を作るチャンスだ」ノーベル平和賞受賞者ユヌス氏

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2020年5月17日

・「困難の中に希望の光となる道を見いだせるよう祈ろう」菊地大司教の第五主日説教

(2020.5.10 菊地・東京大司教の日記)

復活節第五主日@東京カテドラル

 復活節第五主日となりました。

 教皇庁大使ジョゼフ・チェノットゥ大司教が、金曜日、8日に緊急入院されました。脳梗塞の疑いがあるとのことで、現在も集中治療室で闘病中です。チェノットゥ大司教さまの回復のために、お祈りください。

 なお、すでにお知らせしたように、ファティマの聖母の祝日に当たる5月13日(水)午後7時から、新型コロナ感染症拡大のさなかにささげる祈りとして、ロザリオの祈りの夕べを行います。ミサ同様に非公開ですが、インターネットで同時動画配信をします。「混乱する事態の早期終息と、病床にある方々の快復、亡くなられた方々の永遠の安息」のために、ご一緒にロザリオ、栄えの黙想一環をお唱えください。

 以下、本日のミサの説教原稿です。

【復活節第五主日 東京カテドラル聖マリア大聖堂(配信ミサ) 2020年5月10日】

 最後に皆さんと一緒にこの大聖堂でミサを捧げたのは、2月26日、灰の水曜日のことでした。その翌日から、ともに集い、ともに賛美を捧げ、ともに祈ることを、一時中断しています。緊急事態が宣言されている間は、公開ミサの中止を継続せざるを得ません。感染しないためであり、感染させないためでもあります。

 今年の復活祭に洗礼を受けるため、準備してこられた多くの皆さん。私たちは、信仰共同体の心の絆で結ばれていることを、どうか心にとめてください。再び集まれる日に、喜びと希望をもって一緒に賛美を捧げることができるよう、この困難な時期の間も、私と、そして教区の皆さんと、祈りの時をともにしてください。

 また、病床にあって不安のうちに毎日を過ごしておられる方々、苦しみの中で闘っておられる方々、経済的な困難に直面しておられる方々。命の与え主である神が、皆さんを力づけ、守ってくださるように祈っています。また命を救うために、日夜奮闘されている医療関係者の皆さん。心からの感謝とともに、皆さんの健康が守られるように祈っています。

 教会は、歴史の中で、様々な変革を体験してきましたが、今また、変わることを迫られています。これまで培ってきた教会のあり方を、大きく変えなくてはならないのかも知れません。共同体として集まることの大切さには変わりがないものの、同時に、現在のような事態にあって、たとえ実際に集まらなくても、霊的な共同体を育んでいく術を、見いだすように求められていると思います。

 そもそも私たちの信仰は、共同体の信仰です。私たちの信仰は、「交わり」のうちにある信仰です。「交わり」とは、「共有する」ことだったり、「分かち合う」ことだったり、「あずかる」ことを意味しています。コリント書に「私たちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。私たちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか(コリントの信徒への手紙1・10章16節)」とある、「あずかる」は、「交わり」のことです。私たちの信仰は、キリストの体である共同体の交わりのなかで、生きている信仰です。

 教会に集まれない今、私たちは祈りの時を共にしながら、主日には霊的聖体拝領が勧められていますが、その霊的聖体拝領は、個人の信心のためではなくて、共同体の「交わり」のためであります。キリストの御体にあずかること、すなわち、交わりです。

 ですから、離れていたとしても、私たちは一つのキリストの体の一部としてあり、その交わりの中で一致へと招かれているのだ、ということを忘れないようにいたしましょう。

 主イエスは「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない」と福音の中で語られます。

 イエスは、地図に既に描かれている道を案内してくれるガイドではなくて、「自分こそが、何もないところに、新たに切り開かれていく道そのものである」と宣言されます。すなわち、御父へと至る道は、既に存在している道ではなくて、常にイエスご自身が先頭に立って切り開いて行かれる新しい道であり、イエスご自身のことであります。ですから、私たちは御父へと至る道を、一人で勝手に歩むことはできません。新しい道を知らないからです。イエスに付き従って、歩み続けなければなりません。そしてその道を、私たちは共同体の交わりのうちに歩みます。共に分かち合い、支え合いながら、共同体として道であるイエスに付き従います。

 初代教会では、弟子の数が増え続け発展してきた頃に、その実際の運営を巡って対立と混乱が生じたと、使徒言行録に記されています。そこで、「教会共同体にとって優先すべきことは何か」を識別し、そのために新たな教会のあり方を定めていったのです。第一の変革です。「神の言葉を告げ知らせること」こそ優先すべきである、と識別した教会は、そのための制度を整えたことで、さらに発展を遂げていきました。

 今の時代にあっても、その優先事項は変わっていません。教会は「神の言葉をないがしろ」にしてはなりません。神の言葉をさらに多くの人たちに告げていくために、この状況にあって、教会には、どのようなあり方がふさわしいのか、見直していかなくてはならないのです。新たな挑戦を何も始めなければ、集まることのできない教会は、御父へと至る道を切り開き、進まれる主を、遙かかなたに眺めながら、取り残されていくだけです。今、教会は、変革の時にあります。

 特に、洗礼を受けた後、様々な事情から、教会と距離を置かれている多くの方々に、心から申し上げたい。教会は今、変わらなくてはなりません。そのためには、皆さん一人ひとりが必要です。

 さて、そのような旅路を続ける中で、「神をあがめ、キリスト者を神の御旨と完全に一致した生活に向かうように導く」のは、聖母マリアへの信心である、と述べたのは、パウロ六世でした(「マリアーリス・クルトゥス」39項)。

 教会は伝統的に五月を聖母の月としていますが、今年の聖母の月にあたり、教皇フランシスコはすべての信徒へ書簡を送り、次のように招いておられます。

 「五月は、神の民がとりわけ熱心におとめマリアへの愛と崇敬を表す月です。五月には家庭で家族一緒にロザリオの祈りを唱える伝統があります。感染症の大流行によるさまざまな制約の結果、私たちはこの『家庭で祈る』という側面がなおさら大切であることを、霊的な観点からも知ることになりました」

 教皇は二つの祈りを用意され、ロザリオを唱えるときに祈るように、と招いておられます。

 今週、5月13日は、ファティマの聖母の祝日です。1917年5月13日から10月13日の間にポルトガルで、ルチア、ヤシンタ、フランシスコの三人の子どもたちに、聖母は六回出現されました。

 2017年5月13日行われたヤシンタとフランシスコの列聖式の説教で、教皇フランシスコはこう述べておられます。

 「ルチアによれば、3人の子供たちは聖母から発せられた光に包まれたといいます。聖母は神から与えられた光のマントで彼らを包まれたのです。聖母のマントの下にあるものは失われません。聖母の抱擁によって、必要な希望と平和がやってくるでしょう。親愛なる兄弟姉妹の皆さん、他の人が耳を傾けてくれるとの希望をもって神に祈りましょう。そして他の人に語りましょう、神は確かに私たちを助けて下さると」

 同じ確信を持って、困難な状況にある私たちは、聖母の取り次ぎを求めて祈りましょう。聖母マリアが、私たちを、「神の御旨と完全に一致した生活」に向かうように、道、真理、命である主イエスへと導いてくださるように、祈りましょう。また聖母の取り次ぎによって主へと導かれた教会が、自らのあり方について識別を深め、困難な時期にあって、社会における希望の光となる道を見いだすことができるように、祈り続けましょう。

(表記を当用漢字表記に統一してあります「カトリック・あい」)

2020年5月10日

・「先行き不安の社会の中で、召命に生きる人が求められている」菊地・東京大司教の世界召命祈願日の説教

司教の日記 2020年5月3日 復活節第四主日@東京カテドラル 

 復活節第四主日は、善き牧者の主日などとも呼ばれ、世界召命祈願日ともされています。

 説教でも触れましたが、例年ですと、この日曜の午後から、東京カテドラル聖マリア大聖堂では、東京大司教区の一粒会(司祭・修道者の召命のために祈り支える会で、教区の全員が自動的にそのメンバーです。「いちりゅうかい」と読みます)が主催して、召命祈願ミサが捧げられてきました。今年は緊急事態宣言下で公開ミサが中止となっていますから、残念ながら召命祈願ミサがありませんが、是非とも司祭や修道者の召命のためにお祈りください。

 神学生の養成については、現在は新しく1年間の「予科」が加わり、全部で7年の課程となっています。つまり、今日、司祭志願者が現れても、その人が司祭になるのはどんなに早くても7年から8年後のことなのです。上石神井にある東京カトリック神学院で行われる司祭養成の費用も、(神学院は伝統的に全寮制ですから)かなりかかっており、一粒会の献金がその養成費用を支えてくださっています。感謝申し上げますとともに、これからも司祭養成のための支援とお祈りをお願い申し上げます。

 現時点で東京カトリック神学院には、東京教会管区(札幌・仙台・さいたま・新潟・横浜・東京)と大阪教会管区(名古屋・京都・高松・広島・大阪)の神学生が27名在籍しており、それ以外にも宣教会や修道会などから数名が通学や共住の形で、司祭養成を受けています。その中で、東京教区の神学生は、現時点では6名です。

 以下、本日の映像配信ミサの説教の原稿です。

復活節第四主日 東京カテドラル聖マリア大聖堂(配信ミサ) 2020年5月3日

 羊が羊飼いの声を聞き分けるためには、羊飼いの声が届かなければなりません。

 教会は、教会という建物に、定期的に信徒が集まることで、共同体を維持してきました。牧者であるキリストの声は、教会の司祭を通じてまず届けられ、私たちはそこからさらにすべての人へと牧者の声を届けようとしてきました。

 今般の事態が発生し、教会は牧者であるキリストの声を届ける手段を失いました。一番確実だった、教会に集まってくる皆さんを通じて、牧者の声を届けるという方法をとることができなくなりました。感染を避けるために、社会的距離をとることや、できる限り自宅にとどまることが求められ、社会での人との関わりや、奉仕活動を通じて、牧者の声を届けることに困難が生じています。

 教会は混乱する社会に、牧者の命の言葉を届けたい。日夜奮闘する医療関係者に、牧者の励ましの言葉を届けたい。病床にある人たちに、牧者の癒やしと慰めの言葉を届けたい。

 そこで牧者の声が少しでも届くようにと、カテドラルから主日のミサをインターネットで配信しています。例えば先週の日曜日のミサは、配信された時点の中継で七千人ほどの方が見てくださり、その後に再生された回数は二万回を超えています。

 その数字は確かに、多くの方が見てくださっている証左ではありますが、同時に、教区全体の信徒数と比較すれば、ごく一部の方々に過ぎません。すなわち、インターネットを通じて、牧者の声は、一定数の方々には確かに届いているのですが、それ以上に、例えば教会共同体にはインターネットにアクセスすることのできない方も多い。この事態にあって、牧者の声から除外されている人たちが、多くおられることに、心を痛めています。なんとか一人でも多くの人に、牧者の声を届け、さらにはすべての人に希望と励ましの主キリストの声を届けたい。そう思います。

 教会は復活節第四主日を、世界召命祈願日と定めており、司祭や修道者への召命のために特に祈りを捧げる日となっています。例年であれば、教区の一粒会が主催して、この日の午後にカテドラルでは、神学生や志願者を招いて召命祈願ミサが捧げられてきました。残念ながら、今年のミサは中止となりましたが、改めて、皆さまには、司祭・修道者への召命のために、またその道を歩んでいる多くの方のために、お祈りくださるようにお願いいたします。

 教皇様は、今年の祈願日にあたって発表されたメッセージに、こう記されています。

 「主が私たちをお呼びになるのは、私たちを『水の上を歩く』ことができるペトロのようにしたいと願っておられるからです。水の上を歩くとは、主が示される具体的で日常的な方法で、とりわけ、信徒、司祭職、奉献生活のさまざまな形態の召命を通して、福音のためにささげるものとして自分の人生を手にすることです」

 すなわち、召命を語ることは、ひとり司祭・修道者の召命を語ることにとどまるのではなく、すべてのキリスト者に対する召命を語ることでもあります。司祭・修道者の召命があるように、信徒の召命もあることは、幾たびも繰り返されてきたところです。

 第二バチカン公会議の教会憲章に、こう記されています。

 「信徒に固有の召命は、現世的なことがらに従事し、それらを神に従って秩序づけながら神の国を探し求めることである。自分自身の務めを果たしながら、福音の精神に導かれて、世の聖化のために、あたかもパン種のように内部から働きかけるためである」(31)

 今ほど、司祭・修道者の召命に加えて、信徒の召命を深める必要があるときはありません。牧者であるキリストの声を、すべての人に届けるためには、キリスト者の働きが必要です。

 「自分自身の務め」を社会の中で果たしながら、「パン種のように内部から働きかける」召命を生きる人が必要です。

 「福音の精神に導かれて、世の聖化」のために召命を生きる人が必要です。

 教皇フランシスコは、使徒的勧告「喜びに喜べ」で、キリスト者が聖性に生きることの必要性を説きながら、次のように記しておられます。

 「聖なる者となるのに、司教や、司祭、修道者になる必要はありません。私たちは聖性が、日常のもろもろから離れて、祈りに多くの時間を割くことのできる人だけのものだと思ってしまいがちです。そうではありません。それぞれが置かれている場で、日常の雑務を通して、愛を持って生き、自分に固有のあかしを示すことで聖なる者となるよう、私たち皆が呼ばれているのです」(14)。

 聖なる者となる。考えてみれば、品行方正で立派な生き方をせよ、と求められても、そんなに社会の現実は簡単ではないと、思わずひるんでしまう呼びかけであります。しかし、教皇フランシスコは、聖性とは単に掟をよく守った上で品行方正となることではなくて、「聖性とは、完全に愛を生きることに他ならない」と指摘しています(21)。

 不安が増し、危機感を募らせ、身を守ることに心を砕くあまり、他者への思いやりが消え、殺伐とした雰囲気が感じられる今の社会だからこそ、私たちは愛に生き、愛を伝えたい。

 「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ」(コリントの信徒への手紙⑴13章4-6節)と記されたコリント書の言葉を思い出します。その愛が、今の時代に必要です。

 困難な状況の中で翻弄されながら、私たちは毎日、先へ進もうと努力を続けています。誰一人として将来を見通すことができない中で、私たちは闇雲に彷徨っているわけではありません。牧者である主キリストは、羊である私たちの名を呼んで、後に付いて来るように、と招かれています。羊の門である主キリストは、緑の牧場へ至る道を示してくださいます。

 今、私たちは、大きな困難の中で命の危機に直面しているからこそ、牧者である主キリストの声を、一人でも多くの人に伝えることが不可欠です。

 だからこそ、できる限り多くの人に、牧者の声を届ける使命に生きる人が必要です。司祭・修道者の召命が必要であると同時に、まさしく今すぐ、社会のただ中で、忘れ去られる人がいないようにと、忍耐強く、情け深く、ねたまず、自慢せず、高ぶらず、礼節を守り、利益を求めず、いらだたず、恨みをいだかずに、愛に生きる人が必要です。

 そして、先行き不安の中で疑心暗鬼が深まる社会にあって、パン種のように、「神に従って秩序づけながら神の国を探し求める」召命に生きる人の存在が、これまで以上に必要です。

 神からの呼びかけは、特別な人にだけ向けられているのではなく、皆さん一人ひとりに向けられています。

 牧者であるキリストの声が、社会に大きく響き渡るように、すべての人に届くように、努めましょう。神の愛に生きることによって、聖なる者となりましょう。

 世の終わりまでともにいてくださる主に信頼しながら、その声がすべての人の心に響き渡るように、わたしたち一人ひとりに与えられている召命を見つめ直してみましょう。

(編集「カトリック・あい」=漢字は当用漢字に改めました)

2020年5月3日

・「教会共同体は『全人類の親密な一致のしるしであり道具』」の自覚を」菊地大司教の復活節第三主日説教

4月26日 復活節第三主日@東京カテドラル 

   4月26、復活節第三主日のミサ。東京カテドラル聖マリア大聖堂からインターネット配信されたミサの説教の原稿です。  政府による緊急事態宣言が継続するなか、いつもであれば楽しみにしていたであろうゴールデンウィークが始まりました。東京都の小池知事からは「命を守るためのStay Home週間:Stay Home Week 」と言う呼びかけがあり、「命を守る」が毎日のように聞かれるようになりました。

 カトリック教会も、「感染しない、感染させない」を基本に、一日も早くこの事態が終息するように、責任ある行動をとりたいと思います。 現在、東京教区(東京都、千葉県)のカトリック教会において「公開」のミサが中止されています。期限は定めておらず、「当面の間」としています。少なくとも緊急事態が宣言されている間はこのままの状態を維持し、それ以降もしばらくは状況を見極める必要があると思います。明日、4月27日(月)に、そのような内容で、教区の皆さん宛の私からのメッセージを、教区ホームページ上の文書とビデオで公表する予定です。

 (「公開」のミサとは、不特定多数の方が自由に参加できるミサのことです。司祭は自らの務めとしてミサを捧げていますが、現時点でそれらはすべて「非公開」です。信徒の方が参加することはできません。また東京教区にある教会では、人数にかかわらずすべての会合や行事を中止にしています。)

*以下、本日のミサの説教の原稿です。復活節第三主日 東京カテドラル聖マリア大聖堂(配信ミサ) 2020年4月26日

 4月7日に緊急事態が宣言されて、間もなく三週間となります。諸外国と比較すれば、それほど強い規制ではありませんが、それでも日常の生活の営みの様々な側面で自粛が要請され、普段とは異なる生活が展開されています。

 もし安全な逃れ場があるのだとしたら、この混乱する現実に背を向けて、そこへと逃げ出してしまいたくなりますが、目に見えずに忍び寄るウイルスはどこにいるの分からず、感染しないだけでなく、感染させないためにも、私たちはこの場に踏みとどまらなくてはなりません。

 混乱のさなかにあっても、命を守るために日夜懸命に働いている医療関係者に感謝しながら、その健康のために祈ります。また病気の苦しみの内にある人に、神の癒やしの手が差し伸べられるように、心から祈ります。一日も早くこの事態が終息し、希望に満ちた社会が取り戻されるよう、祈ります。

 今般の事態によって、健康の側面から不安を抱える方々や、経済活動の自粛が続く中で経済的側面から困難に直面しておられる方々もおられ、世界各地でいのちの危機が発生しています。教会のカリタスジャパンでも、国際カリタスとの連携の中で、国内外で命を守るための活動を支援する目的で、募金を開始しました。

 さて、先に読まれたルカ福音書では、その日(注:イエスが亡くなって三日目、週の初めの日)の夕方、師であるイエスが十字架上で殺され、弟子たちが大きく動揺する中で、そのうちの二人が、現実に背を向け、安心を求めて、エルサレムを出、エマオへと向かっている場面を語っています。

 この二人について、2018年に「若者、信仰、そして召命の識別」をテーマに開催された世界代表司教会議(シノドス)の最終文書は、「起きている出来事の意味を理解できないまま、エルサレムと共同体を離れて行こうとしている二人の弟子」と形容します。(4)

 二人の弟子は、自らの生命が危険に直面している、という恐怖と、頼りにしていた指導者が突然奪い去られたことによる混乱の中で、考えることといえば、いきおい自分の安全安心のことばかりになってしまう。だから、落ち着いて、それまでを振り返り、いったい、それまでイエスによって何が教えられていたのか、証しされてきたのか、そして今起こっていることの意味は何なのか、見つめ直す心の余裕がありません。

 世界代表司教会議の最終文書は、次のように続けます。

 「二人の弟子とともに、イエスは歩いておられます。彼らと一緒にいようとして、彼らとともにその道を歩んでおられます。イエスは、彼らが何を体験しているのか気付けるよう手を貸そうと、出来事についての彼らの見解を尋ね、辛抱強く耳を傾けておられます」

 この会議を受けて発表された使徒的勧告「キリストは生きている」で教皇フランシスコは、「イエスに対する信仰とは、イエスと出会って真の友情を深めることだ」として、こう指摘されます。

 「イエスとの友情は揺るぎないものです。黙っておられるように見えたとしても、この方は決して私たちを放ってはおかれません。私たちが必要とするときにはご自分と出会えるようにしてくださり、どこへ行こうともそばにいてくださいます」(154項)

 世の終わりまで私たちと共にいてくださると弟子たちに約束された主は、今日もまた、私たちと歩みを共にしてくださいます。混乱の中で、どこかへ逃げていくこともできずに立ちすくんでいる私たちと、一緒にいてくださいます。

 エマオへと向かう二人の弟子と歩みを共にし、その話に辛抱強く耳を傾けたように、主は今日も、混乱の中にある私たちと共にいて、辛抱強く私たちの叫びに耳を傾け、いったい今の現実から何を学ぶことができるのか、私たちが気づくように手助けしようとされています。

 私たちを友情の固い絆のうちに結び合わされた主は「黙っておられるように見えたとしても」、必ずや共にいてくださるー私たちはそう信じています。

 共にいてくださる主は、混乱と不安の中にある私たちに、「落ち着いて信仰の目を持って現実を見つめ直すように」と呼びかけておられると、私は思います。

 この数か月、私たちは「人生に不可欠だ」とこれまで信じていたことを、制約されたり失ってしまいました。そんなことは不可能と思われた、イベントの延期や中止、また多くの業種での休業や自宅での仕事も、命を守るために実現しています。教会も例外ではなく、インターネットの配信を通じて祈りを捧げたりすることが、普通の風景となりつつあります。

 失ったり制約されたことで、すべてが不必要だったと結論づけることはできませんが、いまは、これまでの社会のあり方を見つめ直し、評価する「時」でもある、と感じています。

 インターネットでミサを配信することで、即座に、「もう教会の建物はいらない、教会はバーチャルで充分だ」と結論づける誘惑もありますが、私は、教会共同体の意味を、改めて、落ち着いて、見つめ直す機会が与えられている、と思っています。

 ただ単に、日曜日にミサに出ればそれで終わり、の教会ではなくて、日常生活の直中で、人間の命の営みに直接関わる教会のあり方を、改めて模索する機会を与えられていると思います。信仰は生きています。

 教皇フランシスコは「キリストは生きている」の中で、聖オスカル・ロメロ大司教の、いかにも聖人らしい次の言葉を引用しています。

 「キリスト教は、信じるべき真理、守るべき法規、禁止事項のひとそろい、ではありません。そうなったら不快です。キリスト教とは、私のことをあれほどまでに愛してくださり、私に愛を求めておられる、あの方のことです。キリスト教とは、キリストのことなのです」(156項)

 使徒言行録の中でペトロは、ダビデの言葉の引用として、力強くこう宣言しています。

 「主が私の右におられるので、私は決して動揺しない」

 不安の中にたたずんでいる私たちと、常に共にいてくださる主イエス。いつも傍らにおられる主は、私たち一人ひとりに、この混乱の中で、どのように生きることを求めておられるのか、心静かに、祈りの中で主の声に耳を傾けたいと思います。

 先ほどの世界代表司教会議の最終文書の続きには、こう記されています。

 「耳を傾けてもらうことで、彼らの心は熱くなり、頭がさえ、パンの分割によって、その目は開かれます。彼らはすぐさま踵を返して、共同体に戻り、復活した主との出会いの体験を分かち合うことを、自らの手で選び取るのです」

 不安を抱え混乱する中で希望につながる道を探しあぐねている今の社会には、「ののしり合う対話」ではなく、「耳を傾け合う対話」が必要です。共に道を歩んでいく辛抱強さが必要です。同じ神から命を与えられた兄弟姉妹としての、友情の絆と連帯が必要です。

 教会共同体は、その中にあって、神との一致だけでなく、全人類の親密な一致の「しるしであり道具である」という自覚を、新たにしたいと思います。

 とりわけ、感謝の祭儀において、聖体のうちに現存される主との一致を求める時、私たちは、主イエスとの友情の絆に結ばれて、全人類の一致と連帯の実現を目指して、社会の直中にある希望のしるしとなりたい。そう思います。

(編集「カトリック・あい」=漢字は当用漢字に改めました)

2020年4月26日

・「苦しむ世界に、神の愛と慈しみを証ししよう」菊地・東京大司教の復活節第二主日(神の慈しみの主日)に

4月19日・復活節第二主日に(菊地・東京大司教「司教の日記」より)

 復活節第二主日は、教皇ヨハネパウロ二世によって、「神の慈しみの主日」と定められています。説教の中でも触れましたが、ポーランドの聖女、聖ファウスティナへのメッセージに基づいて、聖女の列聖式が行われた2000年の大聖年に定められました。

 1931年2月22日に、聖女に表されたビジョンに基づいて描かれた「主イエスの慈しみ」の絵は有名です。東京カテドラルではオリジナルの模写が、地下聖堂祭壇横に安置されておりますし、聖ファウスティナの聖遺物が大聖堂右側に、聖ヨハネパウロ二世の聖遺物と共に、安置されています。

 聖ファウスティナの日記にはこう記されています。

 「夕方、修室にいた時、白い衣服を着ていらっしゃる主イエスを見ました。片方の手は祝福を与えるしぐさで上げられ、もう片方の手は胸のあたりの衣に触れていました。胸のあたりでわずかに開いている衣服の下から、ふたつの大きな光が出ていましたが、一つは赤く、もう一つは青白い光でした。沈黙のうちに主を見つめていました。しばらくして、イエスはわたしに言われました。「あなたが今見ている通りに絵を描きなさい。その下に『イエス、わたしはあなたに信頼します』という言葉を書きなさい。わたしのこの絵が、まずあなたたちの聖堂で、そして世界の至る所で崇められることを望む。」(『聖ファウスティナの日記―私の霊魂における神のいつくしみ―』聖母の騎士社、より)

 以下、本日の10時からの配信ミサの説教の原稿です。

復活節第二主日 東京カテドラル聖マリア大聖堂(配信ミサ) 2020年4月19日

 「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」と福音には記されていました。

 そして今、同じように、私たち現代に生きる弟子たちも、感染症拡大の直中で恐れを抱いて、閉じこもっています。

 その日、弟子たちは頼るべきで師であるイエスを失った喪失感と、自分たちもまた、同じように命を奪われるのではないかという恐れにとらわれていました。

 そして今、同じように、私たちは、感染症の拡大の中で、それが命を奪ってしまう可能性が少なくない事実を目の当たりにして、恐れています。

 恐れおののく弟子たちにそうされたように、今日また私たちは、主ご自身が私たちと共におられて「あなた方に平和があるように」と語りかけてくださることを信じています。

  それは例えば、命の危機に直面する人たちを一人でも救うために、日本で、そして世界中で、日夜懸命に働いておられる医療関係者の方々の存在を通じて、命の与え主である主は「あなた方に平和があるように」と語りかけておられるように感じています。困難な事態の中で、希望と平和をもたらす医療関係者の働きに感謝すると共に、その健康のために祈ります。

 教皇ヨハネパウロ二世は、2000年に行われた聖ファウスティナの列聖式の説教で、復活された主が弟子たちに現れたこの出来事を取り上げ、「人類は、復活のキリストがお与えになる聖霊に、触れてもらい、包んでいただかなければなりません。心の傷を癒やし、私たちを神から引き離し、私たち自身を分断する壁を打ち壊し、御父の愛の喜びと兄弟的一致の喜びを取り戻してくださる方は、聖霊です」と述べています。

 復活節第二主日は、教皇ヨハネパウロ二世によって、「神の慈しみの主日」と定められました。「人類は、信頼を持って私の慈しみへ向かわない限り、平和を得ないであろう」という聖ファウスティナが受けた主イエスの慈しみのメッセージに基づいて、神の慈しみに身を委ね、それを分かち合うことの大切さを、改めて黙想する日であります。

 2005年4月2日に帰天された教皇は、その翌日の神の慈しみの主日のために、メッセージを用意されていました。そこにはこう記されていました。

 「人類は、時には悪と利己主義と恐れの力に負けて、それに支配されているかのように見えます。この人類に対して、復活した主は、ご自身の愛を賜物として与えてくださいます。それは、赦し、和解させ、また希望するために魂を開いてくれる愛です。」

 1980年に発表された回勅「慈しみ深い神」で、教皇はこう指摘されています。

 「愛が自らを表す様態とか領域とが、聖書の言葉では「哀れみ・慈しみ」と呼ばれています」(慈しみ深い神3)

 その上で、「この愛を信じるとは、慈しみを信じることです。慈しみは愛になくてはならない広がりの中にあって、いわば愛の別名です」(慈しみ深い神7)と言われます。

 すなわち、「悪と利己主義と恐れの力に負けて」いる人類に、「赦し、和解させ、また希望するために」心に力を与えてくれるのは、神の愛であり、その愛が目に見える形で具体化された言葉と行いが、神の慈しみである、と指摘されています。

 同時に教皇は、「哀れみ深い人々は幸いである、その人たちは哀れみを受ける」という山上の垂訓の言葉を引用しながら、「人間は神の慈しみを受け取り経験するだけでなく、他の人に向かって、『慈しみをもつ』ように命じられている」と、神の慈しみは一方通行ではなくて、相互に作用するものだとも語ります。(慈しみ深い神14)

 信仰における同じ確信を持って、教皇フランシスコは「福音の喜び」にこう記していました。

 「教会は無償の哀れみの場でなければなりません。」(114)

 誰一人排除されてもいい人はいない。誰ひとり忘れ去られてもいい人はいない。それは、神がすべての命を愛しておられ、その慈しみの心で包んでくださっているからだ。

 そこで2015年12月に、教皇フランシスコは「慈しみの特別聖年」を始められました。

 慈しみの特別聖年公布の大勅書「イエス・キリスト、父の慈しみのみ顔」には、こう記されています。

 「教会には、神の慈しみを告げ知らせる使命があります。慈しみは福音の脈打つ心臓であって、教会がすべての人の心と知性に届けなければならないものです。・・・したがって教会のあるところでは、御父の慈しみを現さなければなりません」(12)

 命の危機に直面して、恐れに打ち震えている現代社会に、常に共にいてくださる主イエスは、その直中で、『あなた方に平安があるように』と改めて告げようとされています。

 多くの方々の具体的な愛の行動を通じて、平和と希望を告げ知らせようとしています。

 世界で進む連帯への動きを通じて、和解を告げ知らせようとされています。

 恐れている人類は、「復活のキリストがお与えになる聖霊に、触れてもらい、包んで」いただくことによって、「心の傷を癒やし、私たちを神から引き離し、私たち自身を分断する壁を打ち壊し、御父の愛の喜びと兄弟的一致の喜びを取り戻」すことができるようになる。

 復活された主イエスの弟子として、神の慈しみを受けた私たちには、その受けた愛を、さらに他の人たちへと分かち合っていく務めが与えられています。「教会には、神の慈しみを告げ知らせる使命が」あるからです。

 不安に打ち震える社会の中で教会が希望の光となるためには、キリストの体である教会共同体を形作っている私たち一人ひとりが、慈しみに満ちあふれた存在となる努力をしなければなりません。

 使徒言行録には、初代教会の理想的な姿が描かれていました。信仰共同体は、「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」と記されています。

 復活された主イエスの新しい命に生かされた共同体は、互いに「学び合い、支え合い、分かち合い、祈り合う」ことに熱心でありました。「心を一つにし」「喜びと真心を持って」いた共同体は、神の愛と慈しみに満たされたものとなりました。神の愛と慈しみを証しするものとなりました。神の愛と慈しみを、分かち合うものとなりました。

 だからこそ、「民全体から好意を寄せられた」と使徒言行録は記します。社会の中で、希望の光となったのです。

 今、困難に直面する世界の直中にあって、私たち自身がまず、神の愛と慈しみに身を委ね、それを証ししなければなりません。分かち合うものとならなければなりません。

 主ご自身が、この時代の直中で、「平安があるように」と告げることができるように、弟子である私たちは、「心を一つにし」「喜びと真心を持って」信仰共同体を育み、希望の光となりましょう。

(原文のまま、ただし、表記は当用漢字表に基づくものに統一させていただきました。「カトリック・あい」)

 

2020年4月19日

・「復活された主の新しい命への希望を光り輝かせる教会となろう」菊地・東京大司教の復活の主日ミサ

2020年4月12日 (日) 御復活の主日@東京カテドラル(菊地・東京大司教の菊地・東京大司教の「司教の日記」より)

 御復活おめでとうございます。

 4月12日午前10時、東京カテドラル聖マリア大聖堂で捧げられた、御復活の主日ミサには、いつものように司祭と神学生とシスター方だけが参加。撮影スタッフは信徒の方3名。日中ですので、何名かの方が聖堂の中に入られようとしましたが、大変申し訳ないが、お断りしました。別途記しますが、感染予防の趣旨を是非ともご理解いただきたいと心から願っています。

また、今日のミサには、毎日新聞とNHKの取材が入りました。

以下、本日のミサの説教の原稿です。

 復活の主日 東京カテドラル聖マリア大聖堂(配信ミサ)2020年4月12日

 皆様、主イエスの御復活おめでとうございます。

今この瞬間にも、世界中で、そして日本でも、多くの人がいのちを守ろうとして、命を救おうとして、力を尽くしておられます。感染が拡大し続け、いったい、いつまでこのような状態が続くのだろうかと、先行きを見通すことが難しい中で、なんとか命の危機を食い止めようと努力する人たちの存在は、希望の光です。医療従事者に感謝し、その健康のために祈ります。

命を守るための闘いが続いている直中で、私たちは、新しい命への復活という、私たちの信仰にとって、最も大切な出来事を記念し、祝っております。命を守る行動が、これほどまでに注目され、その価値が強調された四旬節と復活祭を、経験したことがありません。

多くの人が、とりわけ私自身を含めた医学の素人が、今年の初め頃には、事態がこんなに大事になるとは思っていませんでした。世界中で段々と深刻さの度合いが増すに連れて、危機感を強めてこられた方も多いと思います。私自身も、一月半ば頃から今に至る三ヶ月間、東京教区をあずかる立場にあってどういう判断をするべきなのか、悩みました。医療の専門家にも何度も相談をしました。的確で時宜を得たアドバイスをいくつもいただきましたが、同時に専門家の間でも、事態のとらえ方が異なり、様々な意見があり、難しい選択を迫られて困惑することも、たびたびありました。

まだ終息に至っていない現時点で、その決断の可否を判断し評価することはできませんが、教区全体で公開のミサを中止にするという判断は、簡単に到達した結論ではありません。その判断が、10万人を超える東京教区の信徒の方に及ぼす影響を考えた時、命を守るために取るべき最善の道はどこにあるのか、逡巡を重ねてきましたし、今でも毎日、刻々と変化する状況を目の当たりにして、次の決断へと悩む日々が続いています。

しかし常に念頭に置いているのは、神から与えられた賜物である命を守るために最善の道を探ることであり、同時に、信仰のうちに神への信頼を失わない道を探求することであります。

人類は今、命の危機に直面していると言っても過言ではありません。人類全体に影響を及ぼすいのちの危機は、凄まじい強力な伝染病や、星の衝突や、巨大地震や火山の噴火といった天災ではなく、たいしたことのない風邪のようだと当初は言われた、ウイルスによってもたらされました。大混乱をもたらす災害によって命の危機が明白に生じるのではなくて、知らないうちに感染しそれが知らないうちに拡大し、「今は危機的状況なのだ」と何度も自分に言い聞かせなければ、忘れてしまいそうな弱々しい形で、私たちに迫ってきました。

これまでの歴史の中で私たちが築き上げてきた世界が、大げさな言い方かも知れませんが、これほど簡単に、いわば「存亡の危機」に直面するとは、思ってもみませんでした。

今般の感染症の拡大という理不尽な出来事は、混乱と恐れと悲しみを私たちにもたらしていますが、同時に、少し立ち止まって、今までの世界の歩みを見つめ直し、新しい世界へと変わっていく道を探るよう、私たちを促しているようにも思います。

教皇フランシスコの回勅「ラウダート・シ」にあるように、私たちは命を守るために、総合的なエコロジーの観点から、地球環境問題を始めとした人間の命を取り巻く様々な課題に取り組むことが必須であると議論を続けていました。

私たちの共通の家を守り、将来の世代によりふさわしい環境を残していく責任を果たすためには、「この世界で私たちは何のために生きるのか、私たちはなぜここにいるのか、私たちの働きとあらゆる取り組みの目標はいかなるものか、私たちは地球から何を望まれているのか」といった問いに答えていかなければならないと、教皇は回勅で呼びかけます(160)。

私たちは、現時点では、感染症の前にまさしく、なすすべもなく、途方に暮れて命の危機に直面しています。加えて、この事態が、人類の歴史の中で、今回が最後であると、いったい誰が断言できるでしょうか。私たちは、自らの存在の意味を、改めて問い直すように、招かれています。

コリントの教会への手紙に「いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい」という言葉が記されていました。

復活された主の新しい命へと招かれている教会には、常に新しい命を生きるために、その立ち位置を過去に固定させ留まることなく、前進し続けることが求められています。

実際、今般の出来事によって、聖堂に共に集い、聖体祭儀にあずかって、キリストの体における一致を体験することができなくなっている教会は、半ば強制的に、そのあり方を変革するように求められています。

聖体祭儀がその中心であることには何も変わりがないものの、それができなくなっている今、世界中の教会は、共同体のきずなを確認し深めるために、様々な手段を講じています。このようにインターネットを通じてミサを中継している教会も多くありますし、講座や祈りを、配信し始めたところも少なくありません。日本だけではなく、世界中です。司祭や信徒が個人で発信を始めている例も少なくありません。

心の避難所である教会の存在は、どの時代にも重要です。祈りを捧げる聖なる場所も信仰には必要です。共同体の皆と共に、一緒に賛美を捧げる場所は、私たちにとって欠かすことができません。私たちの信仰は、共同体の信仰です。ですから教会に集まると言うことが、消滅してしまうわけではありません。

しかし、今回の事態は私たちに、目に見えない教会共同体のきずなを深めることの大切さ、そして目に見えない教会共同体の絆は、毎日の家庭や社会での生活にあってもつながっていることを、改めて自覚させてくれました。すなわち、私たちの信仰は、日曜日に教会に集まってきた時にだけ息を吹き返す「パートタイムの信仰」ではなくて、教皇フランシスコがしばしば指摘されるように、「フルタイムの信仰」であることを思い起こさせてくれています。

インターネットで様々な場所からのミサの中継があることで、選択肢が増えた、と喜んでおられる方もいるのかも知れません。

違うのです。

インターネットを通じて、「教会が皆さんの毎日の生活の中にやってきた」のです。教会は「生活とかけ離れた存在」ではなくて、「毎日の生活の中にあるもの」となったのです。教会は特別な所ではなくて、普段の生活の一部となろうとしています。

教会は、社会から隔離された避難所ではなく、「社会の荒波の直中にある一艘の船」です。港に繋がれている船ではなくて、荒波に乗り出している船です。

同じ船に乗っている仲間として、その絆を改めて確認し、命の危機に直面している世界の直中で、復活された主イエスの新しい命への希望を、光り輝かせる新しい教会となりましょう。

 (「わたし」「いのち」などの表記を、当用漢字表に即して「私」「命」などに修正させていただきました(カトリック・あい))

2020年4月12日

・「すべての命を守るため、勇気をもって前進しよう」菊地・東京大司教の復活徹夜祭ミサの説教

菊地・東京大司教の復活徹夜祭ミサについて 4月12日(「司教の日記」より)

Easterv2001

 御復活、おめでとうございます。

 今年の復活祭は、これまでと全く異なる復活祭となりました。ミサは色々な所で捧げられたと思います。東京カテドラル聖マリア大聖堂でも捧げられました。

 しかし、東京教区ではすべてのミサが非公開でした。司祭と、少数の修道者と、中継をした所ではそのスタッフと、ほんの少数の方が参加。多くの方は、自宅に留まって、そこで祈りを捧げたり、中継ミサにあずかったりされたことと思います。祈りの内に、皆が一致できているように、願っています。

 聖マリア大聖堂も、普通は予備の椅子も入れれば、千人近く入る大きな空間ですが、そこに少数の司祭団と、構内と近隣のシスター方数名、歌を歌ってくれたイエスのカリタス会シスターと志願者。志願者には、中継前のベンチの消毒もお願いしています。

 しかも聖堂内のベンチはすべて2メートル近く離して設置し直し、普通は4人座るところに一人だけにしていただき、司祭団もすべて互いに2メートル近く離れ、司式者とか歌唱者以外は、マスクを着用してもらいました。加えて、暖房を切り(内気循環になるので)、横の扉二つを開放してあるので、内陣あたりには常に風が吹いています。

 特に聖金曜はそうでしたが、説教中に、私が、原稿を飛ばされないように押さえているところが、映像に残っていました。がらんとした聖堂で、感染予防に極力気をつけながら、それでも典礼の荘厳さを保つように、バランスを考えて努力しているつもりでおります。

 典礼は、今回の事態にあたり、バチカンの典礼秘跡省から出た指針に従い、ロウソクの祝福や行列を止め、朗読の数を絞り、洗礼式などをなくしてあります。典礼での注意や中継の難しさについては、後日、お話しします。

 一日も早く事態が終息するように、病気と闘っている人たちに復活の主イエスの癒やしの手が差し伸べられるように、日夜闘っている医療関係者に守りの手が差し伸べられるように、祈りたいと思います。

 以下、昨晩の説教の原稿です。

復活徹夜祭 東京カテドラル聖マリア大聖堂(配信ミサ)2020年4月11日

皆様、主イエスの御復活おめでとうございます。

 暗闇に光り輝く復活のロウソクは、私たちの希望の光です。

 その希望は、キリストがもたらす新しい命への希望です。暗闇の中で復活のロウソクの光を囲み、復活された主がここにおられることを心で感じながら、私たちは新しい命に招かれ、また生かされていることを、改めて思い起こします。

 いつもの年であれば、、キリストと出会った多くの方が、準備の期間を経た上で、復活徹夜祭で洗礼を受け、新しい命の旅路を歩み始め、教会共同体の一員として迎え入れられます。

 今年は洗礼式が延期となってしまった洗礼志願者の方が、ほとんどであろうと思います。大変残念に思っています。

 目に見える形で共同体にお迎えできないのですが、しかし、皆さんの「キリストに従って生きたい」という願い、「キリストの体の一部となるのだ」という熱意が、洗礼志願者の皆さんをすでに教会共同体の一員としています。今夜、洗礼を予定されていた皆さんを、兄弟姉妹として、そして仲間として、喜びのうちに教会共同体へお迎えしたいと思います。

 残念ながら、今年は、日本を含め世界各地において、この大切な夜を、多くのキリスト者が、そして多くの洗礼志願者が、聖堂ではなく、自宅で過ごさざるを得なくなっています。

 実際に皆で集まることが難しい今だからこそ、信仰のきずなによって互いが一つに結ばれていることを思い起こしましょう。私たちは、「古い自分がキリストと共に十字架に付けられ」、「キリストと共に生きることに」なりました。そのキリストは、数多くいるキリストではなく、唯一のキリストです。私たちは、どこにいても、常に一つのキリストの体に結び合わされていることを、思い起こしましょう。

 それぞれの場で捧げる今宵の祈りは、ともにキリストの体を作り上げる兄弟姉妹としての連帯へと、私たちを招きます。弟子たちを派遣する主が約束されたように、主は世の終わりまで、いつも共にいてくださいます(マタイ28章20節)。暗闇に輝く希望の光である復活された主は、私たちを見捨てることはありません。主の約束に信頼しながら、一つのキリストの体にあずかる者として、互いを思いやり、支え合いながら、困難に立ち向かいましょう。

 死に打ち勝って復活された主イエスは、新しい命への希望を私たちに与えています。困難な状況の中にあるからこそ、私たちは孤独のうちに閉じこもることなく、連帯の絆をすべての人へとつなげていき、死を打ち砕き、命の希望を与えられるキリストの光を、社会の中で高く掲げたいと思います。

 先ほど朗読されたローマ人への手紙においてパウロは、洗礼を受けた者がキリストとともに新しい命に生きるために、その死にもあずかるのだと強調されています。

 すなわち御復活のお祝いとは、信仰の核心である主の復活という出来事を喜び祝うだけに終わるものではありません。私たちは、キリストにおいて、新しい命に生きるものとなるように、その死と復活にもあずかるために、あらためて具体的な歩みを始めるようにと求められています。だからこそパウロは、私たちはいま、「キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きている」と記します。私たちには、立ち止まらず、歩き始めることが求められています。

 先ほど朗読された出エジプト記には、モーセに対して語られた神の言葉が記してありました。「なぜ、私に向かって叫ぶのか。イスラエルの人々に命じて出発させなさい」。

 モーセに導かれて奴隷状態から逃れようとしたイスラエルの民は、強大な権力の前で恐怖にとらわれ、希望を失い、助けを求めて叫ぶばかりでありました。

 神は、モーセに、行動を促します。「前進せよ」と求めます。ただ、やみくもな前進ではなくて、神ご自身が先頭に立って切り開く道を、勇気を持って歩めと、告げるのです。

 復活の出来事を記す福音書は、復活されたイエスの言葉をこう記しています。「恐れることはない。行って、私の兄弟たちにガリラヤに行くように言いなさい」。

 イエスを失った弟子たちは、落胆と、不安と、恐れにとらわれ、希望を失っていたことでしょう。

 恐れと不安にとらわれた弟子たちに対して、「立ち上がり、ガリラヤへ旅立て」とイエスは告げます。新しい命を生きる希望の原点に立ち返り、旅路を歩む勇気を新たにするようにと告げています。

 主の死と復活にあずかる私たちに求められているのは、安住の地にとどまることではなく、新たな挑戦へと旅立つこと、そして苦難の中にあっても、先頭に立つ主への揺らぐことのない信仰にあって、勇気を得ながら、困難に立ち向かい、歩み続けることであります。

 たった一人で、歩み続けるのではありません。私たちは、一人で信仰を生きているのではなく、キリストの体である共同体の絆のうちに信仰を生きています。今こそ、その絆が必要です。

 困難な状況の直中で、命の危機に直面している私たちは、すべての命を守るために、勇気を持って前進を始めるように、招かれています。

 この事態を終息させるために様々な立場で感染症と闘っている方々、特に政治のリーダーたち、医療専門職の方々、実際に病気と闘っている患者の皆さんのために祈りましょう。命の希望を掲げることができるように、祈りの力で連帯しましょう。

 命を守るために、日夜懸命に努力をされているすべての人の上に、神の守りがあるように、祈りましょう。

 また社会的状況や経済的状況によって、今、命の危機に直面しているすべての人のために、祈りましょう。

 イスラエルの民の先頭に立って、奴隷状態から解放された神が、私たちを善なる道へと導いてくださるように、祈りましょう。

 復活された主イエスが、私たちに勇気を与え、共に助けあって命を守る道を歩み続けることができるように、祈りましょう。

 神からの賜物である命が守られるように、今こそ、私たちの祈りと連帯と心配りが必要です。復活された主イエスの、新しいいのちへの希望の光が必要です。

2020年4月12日

・「『十字架』は敗北ではない、復活の栄光と希望だ」-菊地・東京大司教の主の受難の典礼での説教

(2020.4.10 カトリック・あい)

 菊地・東京大司教は10日午後7時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で、聖金曜日・主の受難の典礼を非公開で行い、動画配信した。典礼での説教は以下の通り(菊地大司教の「司教の日記」4月10日より)

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 世界のすべての人たちと共に、私たちは今、命の危機に直面しています。そこから逃れる術をまだ知らず、ただただ、神に助けを求めて苦しんでいます。私たちと同じ人となられ、人間として苦しみを耐えしのばれた主の十字架を仰ぎ見ながら、苦しみに直面している私たちが、そこから何を学ぶことができるのか。日々、黙想しています。

 生活の中で当たり前であったことを、順番に失いつつある今、私たちは生き方を変えるように促されていると感じます。

 主イエスが耐え忍ばれた苦しみ、十字架上の受難と死を改めて心に刻む今日の典礼は、主の苦しみが自分とは無関係な苦しみではなく、まさしく私たちのための苦しみであったことを思い起こすようにと、招いています。

 第一朗読のイザヤの預言には、「彼が担ったのは私たちの病。彼が負ったのは私たちの痛みであった… 彼が刺し貫かれたのは、私たちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、私たちの咎のためであった」と記されていました。

 人類の救い主である主イエスが、私たちの犯した罪と苦しみをすべて背負われて、贖いのいけにえとして、十字架の上で命を捧げたのだと思い起こさせる、預言者の言葉です。

 この主の苦しみは、私たちに、どう生きるように促しているのでしょう。

 十字架上で激しい苦しみの中にある主イエスの傍らには、母マリアと愛する弟子が立っていたと、受難の朗読に記されていました。

 苦しみの中で命の危機に直面していた主は、その中にあっても、他の人々へ配慮することを忘れません。自分の苦しみを耐えしのぶことで精一杯であったことでしょう。しかし、それでも主イエスは、他者への心配りを見せるのです。神の愛そのものである主の心は、慈しみと思いやりにあふれています。

 「婦人よ、ご覧なさい。あなたの子です」と母マリアに語りかけ、愛する弟子ヨハネが代表する教会共同体を、聖母にゆだねられました。またそのヨハネに「見なさい。あなたの母です」と語りかけられて、聖母マリアを教会の母と定められました。まさしくこの時から、教会は聖母マリアとともに主の十字架の傍らに立ち続けているのです。

 その全生涯を通じて、イエスの耐え忍ばれた苦しみに寄り添い、イエスとともにその苦しみを耐え忍ばれたことによって、「完全な者」として神に認められた聖母マリアの生涯を象徴するのは、十字架の傍らに立つ姿です。十字架上のイエスは私たちの救いの源であり、傍らに立つ聖母マリアは、その希望のしるしです。

 私たちも同じように、「完全な者」となることを求めて、聖母マリアとともに十字架の傍らに立ち続けたいと思います。神の民である教会は、聖母マリアと同じようにイエスの苦しみに心を合わせ、自分の為ではなく、すべての人の為に、神の望まれる道を、「お言葉通りにこの身になりますように」と、歩み続ける勇気を持たなくてはなりません。

 十字架は、復活の栄光へとつながる希望です。十字架は敗北ではありません。その苦しみと死ですべてが終わってしまう敗北の象徴ではありません。主イエスは、十字架の苦しみを通じてすべてを無にして神に捧げたが故に、復活の栄光に到達しました。ですから私たちにとって、十字架は希望です。

 教会は、聖母マリアと共に、十字架の傍らに立ち続けながら、苦しみを耐え忍びつつ、十字架がもたらす新しいいのちへの希望を高く掲げようとしています。

 苦しみの中にあっても他者への配慮を忘れない主ご自身に倣うように、聖母マリアも、苦しみの人生を歩みながら他者への配慮を忘れない存在です。神にすべてを捧げ、心が剣に刺し貫かれる苦しみの生涯であったにもかかわらず、常に他者への心遣いを忘れない生き方です。

 教会は主イエスの十字架の傍らに立ち続けながら、主ご自身に倣って、また母である聖母マリアに倣って、苦しみの中にあっても、助けを求めている人、弱い立場にある人、忘れ去られた人、排除された人、苦しみにある人への心配りを忘れない教会であり続けようとしています。

 人となられた神の言葉を宿され、その命を育んだ聖母マリアを教会の母とすることで、主イエスは、いのちの尊厳をまもる責務を教会に与えられました。

 教会は主イエスの十字架の傍らに立ち続けながら、どのような困難な中にあっても、神の賜物である命を守ることが最優先なのだと、困難の直中にあって自覚を新たにしています。

 今、感染症の拡大という困難の中にあって、多くの医療関係者が、命を守るために、日夜、働いておられます。自分自身も命の危機と隣り合わせの中で、命を失うことのないように、挑戦を続けておられます。その働きに感謝すると共に、彼ら自身の健康を、命の与え主である神が守ってくださるように、心から祈りたいと思います。

 医療関係者の献身的な働きに、私たち教会も学びたいと思います。

 十字架上の主の苦しみは、私たちにどう生きるように促しているのか。教皇フランシスコはたびたび、無関心のグローバル化と、むなしいシャボン玉に閉じこもった利己主義が、多くの命を奪っているのだと指摘され、「新しい普遍的な連帯」の必要性を説いておられます。

 今世界は、連帯しなければ生き残れないのだと、実感しています。互いに助け合うことの大切さを、体験しています。苦しみの直中にあっても、他者のために心を配ることの重要さを、学んでいます。実際に集まっていなくても、心のきずなで結び合わされて、共同体を創ることができるということを、目の当たりにしています。

 苦しみの中にある時にこそ、より「完全な者」となる道を求め、十字架の苦しみに心を合わせ、その十字架が指し示す復活の栄光と希望を目指しながら、神の愛と慈しみが満ちあふれる世界の実現のために、今、歩みを始めましょう。

(表記は当用漢字表をもとに修正させていただきました)

 

2020年4月10日

・「”社会的距離”が”心の距離”を深めぬように、祈りと他への思いやりを」菊地・東京大司教の聖木曜日ミサの説教

(2020.4.9 カトリック・あい)

 菊地・東京大司教が9日午後7時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で聖木曜日・主の晩餐のミサをあげられた。新型コロナウイルスの感染拡大の危機の中で、東京大司教区の東京、千葉は政府の緊急事態宣言の対象地域になっており、教会の典礼はすべて非公開とされていることから、インターネットによる動画中継の形で行われた。以下は、ミサ中の菊地大司教の説教。

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聖木曜日・主の晩餐ミサの説教  2020年4月9日

 聖体の秘跡は、神があふれるほどに注がれる人間への愛を、日々、私たちが心と体で感じることができるようにと、制定され、与えられました。

 聖体を通じて現存される主は、常に私たちと共におられることを、目に見える形で示されています。ご自身が語り行われたこと、捧げた祈り、そしてその身を私たちの為に捧げられたという事実を、再び来られる日まで、すべての人に伝え続けるように、と命じられました。

 最後の晩餐での出来事は、弟子達の証しに始まって、今に至るまで連綿と引き継がれ、それを受けた私たちには、さらに将来へと伝えていく義務があります。

 聖体祭儀に与るたびに、「私の記念として、このように行いなさい」と言われた主イエスの言葉が、その切々たる思いと共に私たちの心に響き渡ります。

 今宵、最後の晩餐を記念しながら、主が語り行われたこと、その祈り、そして愛に満ちた生き方を、改めて思い起こしましょう。同時に、自分自身が受け継いだその事実を、次の世代へと引き継いでいく役割があるのだ、という自覚を新たにいたしましょう。

 教会は、「私の記念として、このように行いなさい」と言う主の言葉に従い、主が語り行われたことを宣べ伝え、主が祈られたように神に向かって祈り、主が教えたように愛の奉仕を実践していきます。

 愛する弟子たちとの別れが迫る中で、万感の思いを込めてそう述べられた主イエスは、「私を忘れるな」と、弟子たちに命じたのではないでしょうか。聖体の秘跡が、ミサの中で繰り返しささげられるごとに、そこには「私を忘れるな」という主の思いが、響き渡ります。

 その響き渡る主の声を、むなしい響きに終わらせないためにも、主の思いを受け継いで、次へと繋いでいく共同体が必要です。

 主イエスの言葉を受け継いで、社会の現実の直中にあって、主が語り行われたこと、その祈り、そして愛に満ちた生き方を証ししていく務めは、教会の共同体に与えられた使命です。

 新型コロナウイルス感染症が蔓延する中で、私たちは新しい言葉を使うようになりました。日頃の会話の中で、感染症拡大以前には、あまり口にすることのなかったいくつかの言葉を、当たり前のごとく口にするようになりました。その中の一つが「社会的距離」という言葉です。

 ちょうどこの東京カテドラル聖マリア大聖堂もそうですが、接触感染を避けるために「社会的距離」を確保しようと、聖堂内のベンチが以前と比べてかなり離れて設置されています。

 互いの接触を避けることがまず第一の感染予防策だ、と耳にするようになって、私たちは、臆病になりました。互いに近づくことに、若干の恐れを抱くようになりました。目に見える形で具体的に1メートルから2メートルほどの距離を保って、なるべく他人と接触しないように心掛けることが、だんだんと普通のことになってきました。昨年の今頃、聖堂のベンチをこのように離して設置すると言ったら、誰も賛成してくれなかったことでしょう。でも今はそれが普通になりました。社会的距離を保つことは、感染予防のために必要です。そのことには何も反論はありません。

 しかし、その物理的な距離が、心の距離をも深めてしまうことがないように、祈っています。

 今般の感染症の特徴のためですが、多くの方が感染しても無症状で回復すると言われています。ただ、無症状のまま、感染源となる可能性があります。

 自分が意図しないまま感染源となって、他の方、特に高齢であったり持病のある方のいのちを危機に陥れることのないようにと、いま教会ではミサの公開を中止にしています。インターネットなどの映像を通じて、今夜のミサに与ってくださる方もおられるでしょう。「すべての命を守る」と主張する教会には、いまはその選択肢しか、あり得ないと思います。しかし、その物理的な距離が、心の距離をも深めてしまうことがないように、祈ります。

 さて、最後の晩餐で主からの言葉を受け継いだ教会共同体とは、どんな存在でしょうか。

 第二バチカン公会議の教会憲章は「教会はキリストにおけるいわば秘跡、すなわち神との親密な交わりと全人類一致の証し、道具」だと指摘しています。

 その上で、教会はキリストの体であり、キリストは教会を「目に見える組織としてこの地上に設立」され、「目に見える集団と霊的共同体」が「複雑な一つの実在を形成」しているのだ、と記しています。

 私たちの共同体は、実際に日曜日に建物に集まって来る信徒の集まりだけのことではなく、目に見えない霊的な共同体としても存在しています。キリストに従うことをひとたび決意し、洗礼によって、キリストの体に加わるように、と呼ばれた者は、例えば日曜日に教会に行かないからと言って、キリスト者でなくなるわけではありません。そもそも、キリストの体に属さない、一匹狼の信徒などという存在はあり得ません。

 しかしながら、私たちは弱い存在ですから、目に見える共同体での物理的な交わりを失うとき、心も離れてしまう誘惑にさらされてしまいます。

 教会はいま、まさしくその危機に直面しています。コンピュータのディスプレイの前でミサに与っておられるとき、その心はどこにありますか。

 教皇ヨハネパウロ二世の回勅『教会に命を与える聖体』に、こう記されています。

 『(司祭が祭儀を行うこと)それは司祭の霊的生活のためだけでなく、教会と世界の善のためにもなります。なぜなら「たとえ信者が列席できなくても、感謝の祭儀はキリストの行為であり、教会の行為だからです」』

 したがって、聖体祭儀に与ることは、たとえそれが実際に聖体を拝領することを伴っているか、いま現在の状況のように霊的聖体拝領を伴っているか、どちらの場合であっても、個人的な信心のためではなく、教会の公の行為にあずかっていることを忘れてはなりません。

 最後の晩餐で主イエスが制定された聖体は、弟子の共同体に与えられ、歴史の中で連綿と、共同体を通じて伝え続けられました。聖体は、教会共同体の交わりを生み出す秘跡です。聖体祭儀に与る時、私たちは、教会共同体の交わりの中にあることを意識したいと思います。

 今、残念なことに、具体的な形で日曜日に集まっていないとしても、私たちは、祈りの内に、小教区共同体の交わりの中にあります。小教区共同体を通じて、普遍教会の交わりの中にあります。

 物理的に距離を離して身を守らなくてはならない今だからこそ、私たちは、離れていても、キリストの体である教会共同体に結び合わされており、共に祈ることによって、生かされていることを思い起こしましょう。

 そして私たち一人ひとりには、この共同体が主ご自身から受け継いだように、主が語り行われたことを宣べ伝え、主が祈られたように神に向かって祈り、主が教えたように愛の奉仕を実践する務めがあります。信仰に基づく私たちの言葉と行いは、キリストの体としての言葉と行いです。困難な時期だからこそ、思いやりと配慮の心を持って互いに支え合い、言葉と行いを通じて、「神との親密な交わりと全人類一致のあかし、道具」でありましょう。

2020年4月9日

・「命を守る為に、連帯し、支え合おう」-菊地・東京大司教の5日・受難の主日の説教

(2020.4.5 菊地大司教ホームページ)

受難の主日・枝の主日@東京カテドラル

 厳しい状況の中で、聖週間が始まりました。受難の主日のミサを、東京カテドラル聖マリア大聖堂から中継配信しました。

 広い大聖堂内は、先日ベンチの間隔を1.8㍍空けるように配置し直してあります。十数名のシスター方に、広い大聖堂内に広がって座っていただき、聖歌と朗読をお願いしました。正面と横の扉も開放しているので、風通しは良いのですが、まだまだ寒い大聖堂です。

以下、本日の説教の原稿です。

 教会の扉が閉じられたままで、聖週間が始まりました。感染症が拡大する中で、先行きの見えない不安に苛まれながら、私たちは、先ほどの受難の朗読にあったとおり、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と声を挙げてしまいたくなります。

 大勢の群衆の歓声の中、エルサレムに迎え入れられたイエスは、同じ群衆から「十字架に付けろ」とののしられ、死へ至る苦しみへと追いやられていきます。十字架上の苦しみの中で主イエスは、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですが」と叫び声を上げられました。裏切られ、見捨てられ、孤独の内に、人生の全てを、そして究極的には命でさえ奪われていく悲しさ。むなしさ。苦しみ。

 しかしその悲しみ、むなしさ、苦しみがあったからこそ、「神はキリストを高く上げ、あらゆるものにまさる名をお与えになった」とパウロは指摘します。

 「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順」であった。だからこそ全ての舌が「イエス・キリストは主である」と公に宣べるようになる。それも、苦しみ抜いた本人を褒め称えるためではなくて、父である神を称える為なのだと、使徒は書いています。

 行動を共にしてきた弟子からも裏切られ、歓声を持って迎え入れた群衆からも見捨てられ、孤独の内に命の危機に直面されたイエスは、まさしく私たち多くが体験する苦しみのなかでも究極の苦しみを、自らご自分のものとされました。

 私たちが生きている社会には、経済的な要因から、政治的な要因から、また地域の不安定な治安状況や紛争のために、さらには災害のために、命の危機に直面する人たちが多数存在してきました。国際的なレベルでも、国内的なレベルでも、命の危機に直面する人たちは常に存在します。その中には、どこからも助けの手が差し伸べられずに、孤独の内に苦しんでおられる方も少なからずいることを、私たちはニュースなどで耳にしてきました。

 「出向いていく教会であれ」と言うメッセージと、「教会は野戦病院であれ」と言うメッセージは、教皇フランシスコが、教会のあるべき姿として、たびたび繰り返してこられたメッセージです。

 ベネディクト十六世が回勅「神は愛」の中で指摘されたように、教会の本質は、「神の言葉を告げ知らせること(宣教とあかし)、秘跡を祝うこと(典礼)、そして愛の奉仕を行うこと(ディアコニア)」であります。ですから長年にわたって教会は、社会にあって「愛の奉仕」を具体化しようと、様々な活動に取り組んできました。

 それは第二バチカン公会議にあっても、例えば現代世界憲章の冒頭に、「現代の人々の喜びと希望、苦悩と不安、特に貧しい人々とすべての苦しんでいる人々のものは、キリストの弟子たちの喜びと希望、苦悩と不安でもある」と記すことで、教会が何を大切にして歴史の中で歩みを進めるべきかを明確にしてきました。

 東京ドームのミサで教皇フランシスコは私たちに次のように呼びかけられました。

 「命の福音を告げる、ということは、共同体として私たちを駆り立て、私たちに強く求めます。それは、傷の癒しと、和解と赦しの道を、常に差し出す準備のある、野戦病院となることです」

 でも考えてみると、これらの言葉はすべて私たちに、「与える者になりなさい」「手を差し伸べる者になりなさい」と呼びかける言葉です。もちろんそれは良いことであります。

 しかし、2020年の初めから今に至るまで、私たちが体験していることは何か。それは、私たち一人ひとりが、この目に見えないウイルスとの戦いの中で、いつでも命の危機に瀕する可能性を持っている、弱い者であることを自覚させる体験であります。

 どれほど私たち一人ひとりが、弱い存在であるかを自覚させる体験であります。誰かに「助けてもらいたい」「手を差し伸べてもらいたい」と懇願する体験であります。

 大げさに言えば私たち人類は今、全ての人が助けを必要としながら、孤独の中に取り残されて、命の危機に直面しています。

 今、私たちは、「取り残さないでくれ」と懇願しています。「人生から全てを奪い取らないでくれ」と懇願しています。「暗闇の中に見捨てないでくれ」と懇願しています。

 教皇フランシスコは3月27日の夕方に、今回の事態の終息を祈りながら、聖体降福式をもってローマと世界に向けた教皇祝福「ウルビ・エト・オルビ」を与えられました。その中で、マルコ福音書に記された嵐を鎮めるイエスの物語を引用されて、こう述べています。

 「私たちは恐れおののき、途方に暮れています。福音の中の弟子たちのように、思いもよらない激しい突風に不意を突かれたのです。私たちは自分たちが同じ船に乗っていることに気づきました」。その上で、そのように気がついた私たちは今、「『私たちは溺れ死んでしまう』と不安げに一斉に叫んだあの弟子たちのように、私たちも、『一人で勝手に進むことはできず、皆が一つになって初めて前進できる』ことを知ったのです」と指摘されています。

 すなわち、私たちはこの嵐の中で、一人、孤独の内に取り残されているのではなくて、同じ船に乗っている仲間がそこには存在している、ということに気づかせられている。今すべきことは、一人で道を切り開こうとするのではなく、船に乗っている仲間たちの存在に心をとめ、一緒になって前進しようと連帯することです。

 教皇フランシスコが3月28日のお告げの祈りで、「あらゆる形の武力的対立を止め、人道支援回廊の構築を促し、外交に開き、最も弱い立場にある人々に配慮するよう」に世界のリーダーに求められたのは、まさしく今、人類が歴史の新しいステージに立っていることを自覚せよ、と呼びかける為であります。

 今、私たちは歴史の転換点に立っています。「この感染症の危機が過ぎ去った後の世界は、これまでとは異なる世界になる」と主張する声も聞かれます。これまでの常識が通用しない世界になるのかも知れません。どのような世界が感染症の後に展開するのか。その行方は、今、危機の中にある私たちが「どのような言動をするのか」にかかっています。その世界を神の善が支配する世界とする為には、今、連帯の道を選び、互いに助け合いながら、嵐に翻弄される船に乗り合わせた仲間として、一つになって前進することが大切です。

 十字架の苦しみの先に復活の栄光があったのは、イエスがすべてを無にして、神にすべてを委ねたからでした。困難の中にある今、神の計らいに全てを委ね、兄弟姉妹と一致しながら歩む道を選択しなくてはなりません。対立や排除ではなく、神がその愛を持って包み込まれる全ての人と、心を繋いで立ち上がる…。

 神からの賜物である命を守る為に、互いに連帯し、理解を深め、助け合い、支え合って行く道を求めましょう。

(原文のまま。ただし、表記は常用漢字表をもとに「カトリック・あい」で修正しました。)

2020年4月5日

・「世界的感染拡大は『道徳的な試練』」ー米でカトリック社会教説と新型ウイルス・フォーラム

(2020.3.30 Crux National Corespondent Christopher White)

  ニューヨーク発ー新型コロナウイルスの感染拡大の世界的危機の中で、26日、米ジョージタウン大学主催のカトリック社会教説とウイルス危機についてのオンライン・フォーラムが開かれ、「カトリックの社会思想は、経済的な配慮よりも人間の命と尊厳に重きを置くことを求めている」という意見が参加者の大半を占めた。

 フォーラムにはオンラインを通して、医療専門家、政治・経済の専門家、聖職者、中小企業経営者など500人以上が参加し、1時間半にわたって意見を交換した。

 主催者の同大学カトリック思想と公的生活推進協議会を代表して、ジョン・カー事務局長は冒頭、「現在の危機で、私たちは道徳的に試されている」とし、「現在起きている苦痛、死、緊張、分裂と孤立は圧倒的な規模で起きており、こうした試練は、私たちが誰なのか、私たちは何を信じているのか、私たちはどのようなタイプの集団になっていくのか、を明らかにします」と指摘。

 さらに、「私たちの信仰のさまざまな伝統は、今この時、覆されている。『安息日を守る』とは『家にいること』を意味し、『父親と母親に敬意を払う』とは『新型コロナウイルスに感染しないように距離を保つこと』を意味するようになっています」と語った。

 イエズス会士で医師でもあるミルズ・シーハン神父は、「愛は言葉ではなく、行いで表すものだ」という会の創立者、聖イグナチオ・ロヨラの言葉をとらえ、「今は、社会的な距離を置くことが、隣人を愛する具体的な方法の1つです」と強調。

 また、「新型ウイルスとの闘いの最前線にいる人々、たとえば、社会にとって欠かすことのできないサービスを提供するために働いている医療・健康保健従事者、食料雑貨店の店員などは、今も、地域社会のために自分の健康を危険にさらしている」と指摘したうえで、現在の社会の緊張状態に対して、「私たちは、個々の人への敬意を払い、均衡を図るやり方で、自分たちの共同体社会を見る必要があり、今のように時は特にそれが必要になります」と述べた。

 エルサルバドルからの移民でメリーランド州ベテスダのファミリーレストランの共同経営者、レイナ・グアルダード氏は、自らがごく最近経験したこととして、従業員をレイオフするという苦しい決断を余儀なくされたが、地域社会が支援資金を集めてくれたおかげで、家族持ちの従業員4人を再雇用でき、料理の配達や持ち帰りサービスをまたできるようになった、と語った。

 ジョージタウン大学のジョン・モナハン学長補佐(国際医療保険問題担当)は2009年にメキシコから始まったインフルエンザウイルスの大感染の際に米保健福祉省とともに対応した経験があるが、「米国は多様で多元的な国かもしれないが、私たちは共通善について主張する際に”道徳的な言語”を使わねばならない。カトリックの社会思想はそのために特に有効です」とし、「公益を、あるいは見ず知らずの人々ー米国には3億人、地球上には70億人がいるーに利益をもたらす何かをするために、私たちが個人の自由と権利を抑制すれば、私たちと面識のない人の命を救うことになります」と述べた。

 モナハン氏は「連帯」の意味を強調し、インフルエンザ・ウイルス大感染当時の米関係者の議論と決断を実例として挙げ、オバマ米大統領が、ワクチンが入手できたら、低所得国のために世界保健機関(WHO)と協力して、総量の10%を援助に回すと決めた時に、その連帯の原則が注目を浴びたことを説明した。そのうえで、「今回も、米国は、抗ウイルス薬、診断薬、今後利用可能となるだろう新型コロナウイルス・ワクチンについて同様の決断を求められることになるだろう」と語り、その場合、「どれくらいの量をそうした国々への援助に回すべきか」という問いに答える場合、カトリックの社会教説の原則が有益となる、とした。

 フォーラム参加者は全員が、カトリック教会の社会教説の活用に前向きの姿勢を見せたが、今後も、マクロ、ミクロ両方で、具体的に困難な判断を迫られる、との指摘も出された。具体的には、シスター・キーハンとシーハン神父が、マスクなど医療従事者にとって基本的な備品が依然として不足している問題を取り上げ、グアルダード氏は、米議会で可決された景気刺激総合対策で不正規雇用労働者が支援対象になるのか懸念を示した。

 また、この問題に対処するために、広範な構造改革が必要で、とくに 米国の場合、中・低所得者に医療サービスが行き渡らない現在の医療保険制度の問題があること画指摘され、さらに、地方レベルの対応の必要が強調された。この点で、複数の発言者から、元気な信徒が所属教会に、高齢の信徒で食料雑貨の買い物に不自由していないかをメールで問い合わせて彼らの手助けをしたり、電気、水道、ガスなどの公共サービスで支援したりするような、具体的提案があった。

 「私たち地球に住む70億人全員が新型コロナウイスから脅威を受けている、という認識を持たない限り、私たちはこの戦いに勝つことはできません」とモナハン氏は語った。

 フォーラムの最後に、カー事務局長は「教皇フランシスコはカトリック社会教説の模範。特に、彼は『使い捨て文化』という言葉を使って、お年寄りから胎児、地球環境に至るまで”消耗品”として扱い、人の命を縮めている現在の世界の風潮を批判しています」としたうえで、「そのことは今、明白になっている。私たちは、カトリックの社会教説が主張するところと教皇フランシスコの模範に倣うことが求められているのです」と締めくくった。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

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2020年3月31日